ファン・タルゴの疑問2
それから私は、スラム街の方へ足を向けた。
あのデケンス男爵の息子がスラム街にこれ以上ちょっかいを出してなければいいが……。
スラムの入り口に行くと、子どもたちが元気に走り回っていた。子どもは元気な方がいい。と思いつつも、スラムの子ども達が一様に痩せているのが気になった。
徑民の子ども達は職業に就くことができない。というよりも、徑民の親が職業に就くことができないので、子どもも自然と職がなくなるのだ。農奴の子は農奴、商人の子は商人、と相場は決まっている。
ギルドの中には跡取りがいなくなった商家が徑民の子を養子に取ることもあるが、養子となる子どもの親まで面倒を見ないといけないことが多い。それを疎んじた家主に領主に密告されることもあり、親の方が子どもを養子に出すことを拒否することも多い。そんな街のことだ、徑民たちは主に施しによって生きていると言った方がいい。
スラムの中を歩いていると、子どもたちが車座になって座っているのが見えた。スラムの子どもたちと、その中央には女性。
一体、何をやっているのだ?
覗き込もうとしたが、こちらに気が付いた徑民の子どもに睨まれたので、あまり近寄らないようにした。彼らはまるで猫のようで、こちらが気を許して近づくと、途端に牙をむいて逃げ出してしまうことがある。
「――あのね、こうしたらいいと思うんだよね」
女性が何やら素焼きの鉢を持っている。
「君たちにとったら、死活問題だよね」
ふうとため息をつきながら、少女は手を動かしている。
大きな鉢の中に小さな鉢を置いている。
「これはね、いらないのもらってきたから大丈夫だよ。ちょっと豪華だけど、外側じゃないから盗られないよね?」
女性は周りに砂を入れると、なるほど豪華な絵柄の付いた小さな鉢を真ん中に置いた。それからまた砂をかけると、壺から勢いよく水を注いでいた。結構たっぷりと水を染み込ませている。
そして真ん中の鉢に手持ちの野菜をいっぱいになるまで入れている。
「お野菜ばっかりでごめんね。今度お肉もらって来れたらもらってくるね」
「お姉ちゃん、いつもありがとう」
子どもの一人がにっこりとほほ笑んだ。女性は笑いながら、麻の布を鉢にかけた。
……これは――。
この方法は……。
「そうだ。お水は毎日、鉢にたっぷり入れないとダメだよ。こっちの、外側にね。
こっちでは、あんまりこういうのしないのかな? あのさ、打ち水って知ってる?」
「何それ?」
女性の言葉に、子どもが首をかしげる。
思わず腰を浮かした。
この娘、何を知っている!?
これ以上は、ダメだ――!!
「あのね、気化熱って言って――」
そこまで言った女性の腕を思わず掴んでいた。
「痛!? なに?」
女性が振り返る。
「お前、何者だ!?」
思わず、声が上ずった。
その場が一瞬凍った。
子どもたちも驚いて、一斉にこちらを見る。
私の顔を見た、その少女の顔に、見覚えがあった。
「お前は、ラッカの……」
そうだ。ラッカを配っていた少女だ。こんなところで、この娘は何をしているんだ。
ましてや、気化熱のことなど、子どもに教えているなんて。
「あ、あなた!?」
女性も目を丸くしながら、私の顔を見て驚いている。
「ちょ、なんですか!?」
「お前は、『蛇』か!?」
驚いている少女の顔をまじまじと見つめる。
「え? 蛇??」
少女の顔を見て、ますます驚く。
この娘、瞳が……。
なんだ? どういうことなのだ、これは?!
少女はすっぽりと布で頭を覆っていた。ケペリでは普段女性は帽子をかぶり、その上から日よけの布をかぶるのが一般的だ。色とりどりの布に刺しゅうを施して、美しさを競うくらいだ。当然髪の毛が見えないのは、当たり前のことだった。
だから、気が付かなかったのだ。
少女の被っている布に手をかける。思いっきり引っ張った。
「あ! 止めて!!」
少女は布を抑えようとしたが、私の引きとる力の方が強く、その場に布と帽子が揺らめいて落ちた。
やはり!!
ぱっと髪の毛を抑えた少女の腕の隙間から見えたのは、まぎれもなく真っ黒な髪の毛だった。
子どもたちがこの異様な光景を見て騒ぎ始める。
彼女がこの間の少女ならば、護衛兵がすっとんできてもおかしくない。むしろ、今まで護衛が来ない方が不思議だ。
しかし、振り返るのが恐ろしかった。振り返れば、護衛兵たちに首元を切られてしまいそうな気がして。それよりも、好奇心の方が勝ったのだろうか。いや、忠義心だろうか――。
「お前! 来い!!」
少女の腕を掴んでいる力を強め、さらに自分の方へ引き寄せた。そして、腕を掴んだまま走り出す。今日は、お付きの背の高い女性がいないことも幸いした。
無理やり腕を引いて走った。
かちゃかちゃと背後から音がしたが、スラムの中を走り抜ける。振り返る余裕はなかった。もしも振り返ったら、捕まってしまうだろう。それほど、たぶん僅差だ。
石畳の街並みの中、並ぶ小道を脇に逸れた。
さっきのサイスとの話を思い出した。
黒い瞳の人間がいるなら、それは、この星の人間ではない。
そうだ。この星の人間では、あり得ないんだ。この風貌、この独特の話し方。
なぜ、先日会った時に彼女の風貌に気が付かなかったのだろうか。
髪を隠していたからか。
黒い瞳の人間など想像もつかずにいたから、気が付かなかっただけか?
だとしたら、なんて迂闊なことだ――!
頭を抱えてしまいたくなる。しかし、そんな余裕ももちろんない。
脇を逸れて、二軒先の宿の向こうに抜ける道を通り、妓楼に入った。ここならば、誰かが入ってくることはない。
「女将、茶だけだ。頼む」
妓楼は女性を買うだけではなく、密談の場所としても使われた。お茶だけだと言えば、宿の者もそれ以上入ってくることはなかった。まして、護衛兵だとしても店の用心棒が時間稼ぎをしてくれるだろう。
部屋に入り、長椅子に座りこんだ。少女はその横で、床にぺたりと座り込んで肩で息をしている。無理もない。全速力で走ったのだから。
二人とも、息が上がって荒い呼吸音だけが部屋に響いた。
横目で少女を見た。
確かに、まだあどけない猿人のようだ。
「あ、あなた、誰!?」
初めに口を開いたのは、少女の方だった。
「――いきなり、すまない」
「……今度は、どこの誰なの!?」
少女は牙をむいた猫のように、目を吊り上げて隙を見せないようにしている。
「私は、ファン・タルゴという。学問所の講師だ」
ゆっくりと、紳士的であろうとする。もちろん、彼女に危害を加えようと思って連れてきたわけではない。
「……学問所?」
初めて聞く単語だったのだろう、彼女は考え込んでいる。
「ああ。君にひとつ聞きたい。
君は、『知恵』を身につけているのかね?」
彼女がさっきみせた冷却鉢は、気化熱の原理を知っている者でないと編み出せないだろう。あの鉢は、電気の力を使わずに食品を冷却させる品物だ。
「知恵?」
不思議そうに尋ね返す。
「ああ。そうだ。君は、気化熱と言いかけた。あれは、『知恵』だろう? この国では、学問所以外で知恵を学ぶものはいない。それを君が習得しているのなら、君は『蛇』以外の何者でもない!!」
すると、少女はますます不思議そうな顔をする。
「気化熱なんて、学校で習ったけど……」
そういうと、私を睨みつけていた表情が少し穏やかになった。
学校……それは、学問所のことなのだろうか。
「すまん。私は学校というものが分からないのだが、君の話している内容で考えると、学問所のようなところなのかね?」
少女は私の問いに少し考え込んだ。
「学問所って言葉は私でも理解できるんだけど、学校とは翻訳されないのね。この場合」
ふうんと呟きながら、彼女は私を見ていた。
「あの、私、佐藤桐耶って言います。こっちの人はみんな、トゥヤって呼ぶんですけど。
あなた、ファン・タルゴさん。ファンさんって呼べばいいのかしら? それとも、タルゴさん?」
いきなり問われ、私は戸惑いながら頷いた。
「一応、家名がファンなのだが……どちらでも。この国では猿人は家名を先に名乗る。親にもらった呼び名を後につける。竜人はその逆だな。間に地位名が入ることなどもあるが、私はただの教師なので、地位名はつかない。学生たちはファン先生、ファン博士と呼ぶな」
「じゃあ、ファン先生って呼びます。私はトゥヤって呼んでいただいて構いません」
屈託なく彼女が言う。その様子に少し、面食らっていた。
彼女がサイスの言う黒髪の異国から来た娘ならば、想像できる少女の様子は、大人しくておどおどと瞳に不安な色を浮かべているような娘だ。
それに、街で噂になっている妾妃ならば、もっと傲慢で嫌なタイプの女だ。
しかし、目の前のこの少女はくりくりとした瞳でまっすぐに人を見る。いきなりここまで連れてきた私に対して失礼な態度も取らず、むしろ私の話をきちんと聞いている。
「トゥヤ、君は学問所のようなところにいたのか?」
尋ねると、トゥヤは首を横に振る。
「……いたというか、学生だったので」
「学生? 学徒のことかな?」
「学校に通う生徒のことです」
「ケペリでは、学問所に所属する徒弟のことを学徒というな。彼らは神官となるために、竜族、猿族の貴族の中から毎年決められた数が入門する」
「この国では、他に子どもが勉強したりはしないんですか?」
トゥヤの質問の意味が分からなかった。
「子どもは、家の手伝いをするものだろう? 子どもの面倒を見たり、家畜の世話をしたり、商家の人間ならば商いの手伝いをする。貴族ならば、マナーと言語を学ぶ。子どもとは、そうした生き物だが?」
子どもには子どもの役割が決められている。子どもが学問を習うなど、堕落した世界の話ではないのだろうか。
すると、トゥヤは愕然とした顔をして見せる。
「じゃあ、学問所には子どもは通わないんですか?」
「? 学問所には、成人になってからしか入れない。通うのではなく、神殿に所属する。従って寝食、勉学はすべて学問所の中で行うな。そこから10年学習して、神官職に就くか、学問所で働くか選べる。講師になれば、博士のもとについて研究するな」
トゥヤの顔がますます驚き顔になる。
「このケペリでは、学問は聖なる教えだ。ケペリが授けた知恵の書だ。知恵は神殿のものなのだ。それを民に施すことは禁忌に値する。学を民に与えるものは『蛇』として追放されるのだよ」
私は椅子に座りなおす。そして、テーブルに置かれた茶を淹れて、トゥヤにも差し出した。
「……蛇?」
トゥヤはお茶を受け取ると、カップを両手で抱え込んだ。一言つぶやいた後に、黙ってカップの中を見つめる。
「そうだ。『蛇』だ。民が学問を知ることを、ケペリは戒めた。いいか? 人は知恵を授かると堕落する。だから、神殿の者しか学を学ぶことはない。そして、学問は門外不出なのだ。君がさっき民に教えた行為は、禁忌に値する。見つけたのが私でなければ、君は民を堕落させる『蛇』として捕まり、処刑されてもおかしくないはずだ」
私の説明を聞いた彼女は、顔が真っ青になっていた。
「申し訳ない。こんなことを聞かれても、トゥヤ、君も困ってしまうだろうが、ひとつ教えてほしい。君は一体、何者なのだ?」
片手をあげて、彼女に問いかける。
何度も何度も聞かれたであろうこの質問を、彼女にぶつける。
彼女は真っ青になって私を見つめていた。それから何かをこらえるようにして唇を噛み締めた。しかし、噛み締めるそばから唇が震えていく。そして、ぽろぽろと泣きだした。
黙って首を横に振る。
「君が、この星の住人ではないということは、サイス殿の話を聞いて知っている。
ニホンという国は、この星のどこにもないからね」
ゆっくりとそう告げると、彼女は目を見開いた。
そして、私を凝視する。
驚きに満ちた顔だった。
「……私」
トゥヤが口を開きかけた時だった。
バンと派手に扉が音を立てた。
私とトゥヤは同時にそちらを見る。
破られた扉の前には、護衛兵が立っていた。
「トゥヤ様!! お怪我など、ございませんでしたか!?」
護衛兵の一人が、トゥヤの前で膝を折る。
「大丈夫、何ともないわ」
トゥヤが涙をぬぐう。すると、護衛兵がギンっとこちらを睨みつけてきた。
「おのれ! 何者か!!」
護衛兵の迫力に、慌ててその場に膝をついた。
「トゥヤ様に狼藉を働いた無礼、この場で後悔いたせ!」
シュッと何かが擦れる音が聞こえ、息を飲んだ。
そうだ。この人は王の想い人なのだ。
ならば、先日護衛兵が付いていたのもわかる。そして、世間知らずなお嬢様の正体も。
「やめて!! やめて!!」
トゥヤが私の前に手を広げ、立ちふさがった。
「この人は私が『蛇』になるのを救ってくれたの。彼がいなかったら、私は『蛇』として処刑されてたかもしれないって聞いたの。だから、私が悪いの!!」
必死に護衛兵に懇願してくれるトゥヤの声を聞いて、冷や汗が流れた。
「……トゥヤ様……」
護衛兵が戸惑っている。
「この人、神殿の学問所の博士よ。この人、あなたたちを見ててっきり、私を捕えに来たと思ったのですって。だから、追っ手から助けてくれるつもりだったのよ」
とっさにトゥヤが正面の護衛兵に説明している。
確かに、それが一番淀みのない嘘だろう。そうしておいてくれれば、私は切り殺されないで済む。
「この件は、ご報告させていただきますよ」
しぶしぶといったふうに、護衛兵が剣を納めた。
「……よかった」
トゥヤがその場にぺたりと座り込む。
「ファン先生、あの、またお話を聞かせてください。お願いします」
トゥヤは私の顔を見て、笑った。
私はゆっくりと首を縦に振る。とりあえず、この場は命が繋がったようだ。
片手をあげて肯定の意を示すと、トゥヤは安心したようだった。
「私の方こそ、もっと聞きたい。教えてほしいのだ、君のことを」
息を整え、喘ぐように言うと、トゥヤはしっかりと返事をした。
「はい」
その姿は、当たり前の小さな少女でしかなかった。




