ファン・タルゴの回想2
「先生、どうしたんですか? このラッカ」
かごを抱えた私を見て、厨房の責任者ノマド夫人が目を丸くしている。
「もらいもんだ。皆で分けるといい」
「分けると……夕食のデザートにでもしましょうか。一人一個配るには、数が足りませんしね」
ノマド夫人がかごの中のラッカを手にとりながら言う。
あら、このラッカは艶がいいわ、などとつぶやきながらラッカを吟味していた。
「そうそう、探しておられましたよ。カフド博士が」
ノマド夫人がラッカを見るのをやめて、ポンと手を一つ叩いた。
そうか、と返事をして私は厨房を後にする。カフドが探しているということは、何か進展があったらしい。厨房を出て、管理棟と呼ばれる諸事一般を司る部署が詰め込まれている建物から白い白亜門を抜けると、神殿の中でも神学を教える学問所にたどり着いた。
学問所の入り口でいつも通りプレートに手を当てると、扉が開いた。
「カフド、何かわかったか?」
奥に置いてある作業机までずかずかと歩いていく。床の白い石は足音を静かに吸収していった。
「ようやく帰ったか。ファン。久方ぶりの休暇はどうだった?」
机に並べた地図を見ていたカフドが顔を上げて、片手を上げる。
「ラッカを山ほどもらったよ」
「なんだ? お前どこに行ってきたんだ?」
「城下に降りてきたが……。おかしなお嬢さんがいてな。
それはさておき、いかんな。流れが悪くなっている」
あの倦んだ空気。いかんせん停滞していた空気が、ここ数か月、急激な変化についていけずに、病んだ空気ばかりが帝都を覆っている。
「お前に可笑しいと言われるとは、相当なお嬢さんのようだな。
で、やはり変化を起こすのは難しいか」
「今回は、あの若い王が発した流れだ。しばらく様子を見ようと思ったが……」
パルムールの気を考えると、そんなことを言ってはいられないかもしれない。今後、急激な変化があったら、あの空気は街を飲み込んでしまうかもしれない。
スラムの住人達の活気のなさ。
新王の急激な政策の変化。
それについていけない貴族たちの不満。
それらがすべて、病んだ空気になっている。
「神殿から、別の方向で横槍を入れるのはまずいか」
カフドが口元に手を当てながら考える。
「目に見える様になればいずれ干渉しなければなるまいが、今横槍を入れれば、
――爆発するだろうな。市民たちは」
「今回の王は、改革者になると思ったんだがな」
忌々しげに私が親指の爪を噛むと、カフドが笑った。
「改革者――そうなれば『蛇』として捕えられてしまうぞ」
「は、今の王は神殿よりも立場が上だ。神殿の権力ごときで王を捕えることなど、
出来まいよ。それに王は学を積んでいない。知恵を操る『蛇』とはなるまい」
「――そうか」
カフドはそれ以上言わなかった。くるりと私に背を向けると、印色機から紙を一枚取り出した。
「それよりも解析を頼んでおいた値が出た。
猶予はもうないな――」
ぽんとこちらに渡してきたのは、巻物状になった紙だった。数列と波形が印刷されている。
私はひゅうっと口笛を吹いた。
「あいつら、よく計算したな」
「私のかわいい学徒たちだ。これくらいやってもらわなきゃ困るな」
がははとカフドが笑う。
「プレートが動くまで、どれくらいある?」
「……彗星の移動が思ったよりも早い。プルームが噴出すればもう――」
カフドは考えたくないといったふうに空を仰いでみせる。
「いかんな」
眉をしかめて見せる。これは本当に、よろしくない兆候だ。ただでさえ隕石は磁場を変える。今のこのケペリで磁場が変わると、シフトの変化が起きる。多少ならば構わない。しかし、そうでない場合は……。
カフドは顔をこちらに向けると、ぴっと指を立てた。
「一年、強といったところか。二年はもつまい」
破滅宣言だった。静かなその宣言に、背筋が凍る思いだった。
「……ウラヌス・ラーはこれを予言したもうたのか……」
先日の神女の神託を思い出す。いずれ起こる大いなる厄災。
長い沈黙が訪れる。
「これもケペリの恩寵に見放された結果か?」
吐き捨てるように言うと、カフドは黙って首を横に振る。
「そんなものは、迷信だ。
人柱など、効果がないのは我々こそがよく知っているではないか」
カフドが笑う。
しかし、信仰というのはそうはいかない。
われらの神学も信仰から出発した学問だ。
人がいくら知恵を絞って学をなしても、その真理には到底追いつかない。
人が信じる限り、信仰というのは真実たり得るのだ。
「どれくらい、助けられると思うか?」
私の問いかけに、カフドは考える。
「……住居地区を作って、10~20万人。この星数千万の人間はとても連れていけない」
「……そうか」
その値はパルムールの人口程度だ。
我々はそれを、どう考えればよいのか……。
「それ以前に、神殿の神託にそれだけの人数を動かすことができると思うか?」
カフドが冷静に突っ込む。机上のコンピューターを指ではじきながら、星のホログラムを映し出す。
「……しかし、あのお姫様はすべてを救おうとなさるだろうな」
以前ならば、大神官が、神女姫が神託を告げれば、国中が、いや、この星全土の人々がそれに従っただろう。
……しかし、先代の大神官の即位期間は長かった。
この期間にケペリは、われわれを見放したもうた……。
今更当代即位する大神官が姫と言っても神は即座にお救い下さるのだろうか。
いや、人々が信仰から目をそらした時、神は怒りの鉄槌を下される。
――それが、今回の出来事だとしたら……。
我々は、背筋が凍る思いがした。




