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どうか、泣いてください

作者: 筐咲 月彦
掲載日:2012/01/16

 ◆


 あ~、振られた。心底振られた。絶望的に振られた。頭痛い。

 家で俺は、一日中ぼーっとしていた。泣いたりしたわけじゃないけど、飯も食わずに水分も摂らずに……計算したら、彼女が帰ってから16時間経っている。眠りもせずに夜を明かしてしまった。

 いい加減腹が減りすぎたので、のそのそとキッチンでカップ麺を掘り起こし、のそのそと湯を沸かし、のそのそと湯を注ぐ。せっかく気分に浸っているのに、薬缶の湯気が元気良くて台無しだ。

 三分。この時間を、彼女を思い起こす最後の時間にしよう。

 半年ほどの間付き合っていた彼女。まぁまぁ可愛かったのだが、友人の紹介で付き合ったから、別れてしまえばまず会うことはないだろう。彼女はあっさりした性格なので、俺から連絡しなければ新しい恋人が出来たなんて情報も届かないはずだし。半年といえばなかなかに長い付き合いで、生涯の伴侶かとも思ったが、まぁ当たり外れあるということだ。結局のところは食事の趣味が違うというだけの理由で別れた。しかもそれを言ったら付き合った理由も、漫画の趣味が合っていたというだけの理由だった。

 三分。さよなら、僕のモトカノさん。

 パソコンの電源を付けつつ、カップ麺のふたを剥がす。実に食欲をそそる香りだ。

 ひと啜り。美味い。実に美味い。

 ヒトの三大欲求の一つたる食欲。リアルに死に直面するという点で、やはり最も強い欲求なのだと思わされる。実に美味い。

 麺のひとかけら、スープの一滴も残さずに器を空にすると、全く足りてはいないもののひと心地つけた。

 そして今度は開いたパソコンを弄り、眠気の訪れを待つ。

 と、今の俺にぴったりなものを見つけた。『恋愛アンケート』。

 気持ちわる! ……などと普段なら嫌気するところだが、彼女との思い出は処理できても自身の気持ちの整理が付いていない気がするので、きっかけと言うかちょっとしたスイッチのつもりでクリックする。

 ハンドルネーム。年齢。性別。住んでいる県。職業。基本項目を打ち込み、アンケートの本筋に入る。

『あなたは、結婚は良いものだと思いますか?』

 YES――新しいスタートだと思う。うん、思うよ。

『あなたは、離婚は悪いものだと思いますか?』

 YES――必要なら仕方ないけど、離婚するんなら結婚しない方が良い。普通だよな、多分。

『あなたは、恋人と別れたとき、引きずりますか?』

 YES――まぁ丸一日くらいはへこむし、一応YES。その後はあっさりしたもんだが。

『あなたは、恋人が死んだら泣きますか?』

 YES――まぁ泣くよ。たぶん、けっこう本気で。それだってきっと、次に行くための準備なんだろうけどさ。

 ……全部YESになってしまったところに何故かモヤモヤするが、さて、どんなもんだろうなぁ。俺ってば軽薄そうに見られるけど実は真面目だし、結構マジョリティだと思っているんだが。

 ん~~~、うわ、すくなっ。俺かなりマイノリティじゃんか。少数意見ぶるやつって、その境遇に陶酔するタイプが多いから、マイノリティって嫌いなんだけどなぁ。

 もういい、見たくないからさっさと寝よう。さっさと新しい彼女作りたいもんだよ。


 ……一般回答。回答者、7289人。

『あなたは、結婚は良いものだと思いますか?』

 YES――78%、NO――22%

『あなたは、離婚は悪いものだと思いますか?』

 YES――36%、NO――64%

『あなたは、恋人と別れたとき、引きずりますか?』

 YES――20%、NO――80%

『あなたは、恋人が死んだら泣きますか?』

 YES――11%、NO――89%


 ◇


 聞いてください! 私、つい最近結婚したんです!

 ……あ、ごめんなさい。興奮したら良くないですね。

 でもでも、私が結婚できるなんて、本当に夢のようです。それもこれも、全部彼のおかげです。だって、声を掛けてきたのもリードしてくれたのもデートのお金を出してくれたのもプロポーズも、全部彼からだったんですから。

 私、昔っから身体が弱くって入退院ばかり。まともに仕事も出来なかったせいで、入社したばかりの会社も半年で辞めることになっちゃって。

 でもそんなときに、会社の同僚だった彼が声を掛けてくれたんです。連絡先を交換して、仕事辞めて不安だった私を励ましてくれました。周りからは軽薄そうに見られていますけど、凄く真面目な人なんですよ?

 おかげで私も自由度が高くて身体に負担の少ない仕事として、研究職に再就職することが出来ました。

 彼には感謝してもし切れなくて、彼を好きになって……でも、恋愛経験のない私は告白なんて出来なくて。彼から「付き合おう」って言われた時は天にも昇る心地でした。ましてや「結婚しよう」なんて言われたときには、死んでも良いってホントに思いました。でも、死なない方が良いんですよね。だってこれから、もっと幸せになれるんですから!

 彼はとっても不思議なひと。軽薄に見られるのだって、好きになった女の子にすぐ告白するからだけど、それは真面目で真っ直ぐで真剣だから。彼は、私なんかを好きになってくれるひとだし、浮気もしたことが無いんです。

 なにより彼、恋人が死んだときには泣くって公言するようなひとなんだから。不思議でしょう? そんなひと、なかなか居ないですよね。


 せっかくだから、私のしている研究も紹介しましょうか。

 私がしているのは、ヒューミニメイト……私たち、ヒトの研究。略称としてヒューミットっていう呼び方も有名ね。

 私たちヒューミニメイトは、現在では地球上で最も版図を広げている哺乳類で、今この瞬間にも増え続けているの。

 平均身長150センチ。高くても170くらいで、180超えるのはまず居ない。寿命は十年前後。記録での最高齢は17歳だけど、昔の記録だしこれはかなり眉唾もの。

 体温が37度を下回ると2時間で生命活動が停止するらしいけど、それはヒューミニメイト特有の非常に高い新陳代謝が弱まると死ぬってこと。その新陳代謝のおかげで病気や怪我に強いけれど代償として寿命の短い種、と言えるわ。

 ――え、私?

 私は……まぁ、ちょっとした例外。ヒューミニメイトで病弱って言うのは大体が、その特有の新陳代謝に異常があるってことなのね。緩やかに死んでいくような状態。私は、いつ死ぬか、もう死ぬか、って言われながら今まで生きてきたわ。新陳代謝が緩くて生きるのが大変でも、その代わりに長生きできるとかって訳じゃないんだから、世の中ズルいわよね。

 ……気にしないで。今まで生きてこられたんだから、なんだかんだで万に一つくらいは長生き出来るかもしれないでしょ。結婚だって出来たんだし!

 話を戻しましょう。

 私みたいな例外を除けば、ヒューミニメイトに病気は滅多に無いわ。どんな症状も、悪化する前に全部細胞から入れ替わっちゃうから凄いわよね。その能力によって栄えてきたヒューミニメイトだけれど、文化を築いたところで寿命が延びるわけじゃなかった。自然の摂理として寿命が短い分だけ子供は産まれやすく、成長も早いから労働力の確保も容易くて文明は発達する。

 けれど学者の目から見れば、それは個人性の薄れを呼んでしまっていたの。

 寿命が十年、生まれて一年で成人、最後の一年で一気に衰えて死んでいく。能力の継承が出来ないから仕事や伝統はシステマチックになり機械化が進み、仕事自体は誰がどんな職に就いても大して変わらない。……ついでに言えば、だから最初の会社に生涯勤めるのが普通で、辞めていくような人間は異端になってしまって孤立しちゃうわね。誰もが社会のための歯車。個人性の否定、ね。私も彼が居なかったら、会社辞めたあと引き篭もっちゃっていたかも。

 更には、寿命の短いヒューミニメイトは死生観も独特で、死に対してとても達観している風潮がある。つまり、恋人や家族が死んだとしてもあまり悲しんだりしないのよね。すぐに次の相手を探すことが推奨されているし、当然とされている。

 そんな中で凄いでしょ、彼。世間の常識に染まってないっていうか。

 彼が昔やったアンケートでは、『あなたは、恋人が死んだら泣きますか?』という質問で、泣かないと答えたヒトが9割近かったらしい。私もそう。きっと泣かない。

 ――いや、どうだろう。泣くのかな? 彼じゃないとダメだと、泣くのかな?

 常に死を身近に感じてきた私にとっては勿論のこと、それでなくとも寿命の短いヒューミニメイトたちは社会の一員であることにこだわる。子供を生むのが種族の中での役割だし、結婚をするのも社会の中での役割。もちろん何がしかの理由があって誰かと付き合い結婚するんだけど、候補の中から一人を選ぶ理由があったとしても、その相手でなくちゃならない理由はあまり無いのよね。

 そして人との関わりに意味を見出さない風潮は、自己中心的な志向を蔓延させる。

 社会への依存――個人性の否定――他人の否定――個人主義。

 “個人性の否定”と“個人主義”とが結ばれているのが不思議な気がするけど、まぁそんなものよね。誰だって自分は特別だと思いたいものだから。

 ともかくヒューミニメイトたちは死に関して冷めており、人間関係が相当に深くないと涙を流さない。中でも夫は妻を、妻は夫を子供を生むための道具として考えることが多く、相手が死んでも代用品を探せば良いと考えがちなの。これは、他の感情……例えば悲しみや感動では涙を流すことを考えればかなり不自然で、言ってしまえば子供を産み続けさせるためのプロパガンダと言っても良いかもしれないわね。

 でもそんな中で、私が死んだら泣くと言ってくれる彼と出会えたことは、とてもとても幸せなことかもしれない。泣いて欲しい。いっぱい、いっぱい、泣いて欲しい。

 ――きっと私は、もうすぐ死んでしまうから。


 彼と出会ったのは、会社の入社式。

 顔を見たはずというだけで、その時点では話もしていないし名前も覚えていなかった。というか、存在も認識していなかった。

 でも、彼は言うんです。

「俺は覚えてるよ。調子悪そうにしてて、心配しながら見てたから」

 ……なんか、恥ずかしいです。確かに、寒い中で立ちっぱなしでフラフラしていたのを覚えています。

「それで見てるうちに、可愛い子だな~、って思ったんだ」

 そんな風に言う彼と本格的に知り合ったのは、私が会社を辞める数日前。二週間ほど入院してしまって、復帰したときにみんなが開いてくれた飲み会の中で。

「キミ、身体弱いの? 珍しいね」

 この時の第一声は、私も覚えています。自己紹介より先のこの言葉、周りの人が軽い人間だと言うのも頷ける言葉でした。そもそも、部署も違うのに何故この飲み会に来ていたのかはよく分かりません。顔の広い人なので、きっと誰かに誘われただけだと思います。

 まさか、このときにはもう私に気があったなんて、そんな訳無いですよね。

「入院生活はどうだった? 退院して、どんなことがしたい? 行きたいところは? 彼氏とか居るの?」

 彼の質問攻めに、私はタジタジでした。ただでさえ友達の少ない私には、復帰祝いで主役を張るべき飲み会でも、あまり話しかけてくるひとは居なかったのに。

 結局、私はすぐに会社を辞めました。退院後の検査で症状の悪化が見られたから。入院も休んで体力を回復させる程度の効果しかなかったようで、あとはとにかく自宅療養し続けるしかないだろうとのことでした。

 それはつまり、比喩でなく医者も匙を投げた、ということ。

 絶望的でした。このまま死んでいくんだろうなと、そんなこと以外考えられなくて。

『退社したんだって? キミ、家では何してるの?』

 彼からメールが来たのは、そんなときでした。飲み会でアドレスを交換して、初めてのメールでした。

 変な人だな、と思いました。素敵な人だな、とは決して思いませんでした。

 だって復帰祝いをしてくれた同じ部署のみんなだって義理で飲み会を開いただけで、むしろこれから仕事に戻ると思ってのことだったでしょうに裏切ってしまって……仲の良かった会社の同僚からのメールも途絶えてしまいました。そこに、あの飲み会に参加していただけの、面識の無い方からのメールです。そりゃあ困惑します。

『キミが行きたいって言ってた動物園、行ってみない?』

 それでも暇でしたし、なんとなくメールを続けていると、そんなことを言われました。

 飲み会で聞かれて答えた、行きたい場所。

 何故こんな私を、と思いました。それでも私は、行くと返事したんです。……きっと少し、嬉しかったから。それ以上に大部分が、分からなくて不思議でしたけど。

 デートなんて初めてでしたし、前日は凄くドキドキして、服装とか色々考えちゃいました。

 当日だって凄くドキドキして、全然喋れませんでした。そんな私に、彼は言ってくれたんです。

「俺と、付き合わないか?」

 ビックリしました。

 何故、と聞けば、

「前から気になってたんだ。今日も、初々しいのが良いなと思って」

 それでも、何故、と。仕事も辞めたのに、病弱なのに、こんな私と付き合ったら周りに何か言われるよ、と。そしたら彼は、

「それ、何か関係あるの?」

 またビックリしました。

 そんなこと言うひと居ませんでしたから、ますます彼を好きになって……ますますってことは、やっぱり私も最初から好きだったんですね、きっと。それで彼と付き合うことにしたんです。

 私でもそうですから、私の両親だってビックリしました。

 両親に逢ったとき、彼が聞かれました。ウチの娘で良いのかと。両親も私を大切にしてくれるけれど、他人に誇れる娘じゃなくてごめんなさい。

 でも、それに対しても彼は言ってくれたんです。

「病弱だとか仕事を辞めたとか、関係ないです。俺は彼女と結婚しようと考えてます」

 私までビックリさせられました。そんな話、まだしたことなかったのに。

 聞いちゃいました。何度も聞いた言葉を。私なんかで良いの?

「お前だから、良いんだよ」

 泣きました。わんわんと。嬉しくて、嬉しくて。

 キミ、と、あなた。

 から。

 お前、と、あなた。

 に変わったとき、とてもとても恥ずかしくて嬉しくて、でも私からの呼び方が変わらないのがちょっと寂しくて。でもあなたは、言いました。

「言葉が変わらなくても、響きが変わったのが嬉しいな」

 って。

 子供が出来なくてごめんなさい。迷惑ばっかりかけてごめんなさい。貰うばっかりで、何もあげられなくてごめんなさい。ずっと一緒に居られなくてごめんなさい。……私、もう死んじゃうみたいです。ごめんなさい。

 あれから二ヶ月、結婚式でバタバタして思い出を作れなかったのが悔やまれます。せめて安心して欲しいと、ベッドの横で手を握る彼に微笑みます。

 彼が何かを言ってくれていますが、もう聞こえません。一つだけ知って欲しかったことも、もう言えないみたいです。

 幸せでした。

 あなたが今泣いてくれているように、あなたが死んだとしたらきっと私も泣きました。それは特別なことなんかじゃ無いんですね。社会がなんと言おうと、私とあなたが作った関係はかけがえの無いものでした。それは涙を流す価値のある、とても暖かいものだったんです。

 もっと一緒に居たかった。もっと色んなところに行きたかった。悲しくて、悲しくて、悲しくて。……でもきっと、あなたは私の分まで泣いてくれるから。だから私は。

 お願い、私が消えるまでは泣いていてください。私が消えたら、どうか泣き止んで、また別の誰かを幸せにしてあげてね。

 見て。私、笑って死ねるわ。

 ね、あなた。


 ◆


 あ~、泣いた。心底泣いた。絶望的に泣いた。頭痛い。

 妻が死んで三日間。泣きに泣いた。水分補給しつつ泣いたから、きっと体内の水は全て入れ替わったんじゃないだろうか?

 それでも、悲しみの全部は抜けていかない。

 寂しくて、悲しいよ。

 お前は「私なんか」とよく言ったけれど、違うだろ。ひとを見るときに誰かと比べたりなんて間違ってる。俺はお前の、時々見せる笑顔が好きだったんだ。

 お前を知ったのは入社式のとき。フラフラしてて、身体の弱い同期というだけの認識だけど気になっていて、それから半年後の飲み会。彼女の退院祝いの飲み会なのになんだか浮いてるように見えて、話しかけた。義理程度の質問だったけど、その内の一つの答えが印象的だった。

 それは、どこか行きたいところは、という質問をしたとき。

「え~っと……動物園、です」

「動物園?」

「はい。その、やっぱり病院で二週間つまらなかったですし、楽しいところに行きたいっていうか」

「でも、それで動物園? もっと楽しいところあるよ」

「動物園、素敵なんですよ。みんな、元気良いじゃないですか」

「え、遊園地とかのほうが元気じゃない?」

「うぅん、違うの。元気なのは動物たちのことですよ。生きてる! って感じがするじゃないですか」

「!!」

 このとき、「生きてる!」の言葉のとき、どこかを見上げて何かを思い出すようなその笑顔。その笑顔に、惚れた。

 どこかを見上げて――きっといつか動物園に行く日の、入院中は見られなかった全天の青空を見上げて。

 何かを思い出すような――きっと家族と行っただろう動物園を、その時見たパンダにキリンにゾウにサルにライオンにシロクマを思い出して。

 その明るくて嬉しそうで、でも何故か寂しそうな笑顔に惚れて、もっともっと笑わせてあげたいと思った。その願いは、叶ったのだろうか?

 お前は死ぬ間際、笑ったような気がしたよ。

 俺は、悲しい。

 病弱なのは知った上で付き合って結婚したけれど、それでも同い年だしきっと死ぬまで一緒だと思っていたのに。あの笑顔を見て、お前しか居ないと確信したのに。

 俺は、悲しい。悲しいけれど、次の相手を探すよ。

 結婚しなきゃいけないとは思っていないけれど、この命は誰かと一緒じゃなきゃ長すぎるから。お前しか居ないと思ったけれど、お前にこの人生を捧げるのは死んでしまったお前にも失礼だと思うから。

 平均寿命の十年まで、あと八年。この微かに、でも確かに残った悲しみと共に生きていくよ。

 忘れないよ、さやか。


 ◇ ◇


 はぁ、負けちゃった。あんなに強引に押して来るんだもん。

 私としては最後に娘を育てて、あと二年くらいで普通に寿命を向かえる予定だったんだけどね。彼に出会ったのが運の尽きかなぁ。

 ううん、嘘。嘘よ。私は絶対、運が良かったの。

 彼は素敵なひと。なんてったって私より年下だから、近い内に私に老いが始まっても面倒を見てくれるはずよね。子供たちに面倒見させるのも可哀想だし、ちょうど良かったのかしらね。話も楽しいし、気も使えるし、子供にも優しくて素敵な人。……恋人が死んだら泣く、って公言するような変人だとしてもね。

 変よね、ホント。私だって5年連れ添った旦那と死に別れたけど、涙なんて流さなかったもの。そりゃあ少しは悲しかったけど、ほぼ死期が分かっていて前々から覚悟は決まっているもんだから。ヒューミットの寿命って十年から前後一年以上は滅多にずれないし、老いが始まってからは更に分かりやすくて、丸一年から前後一週間。分かっていれば気楽なもんよ。

 それからすぐに、知り合いの紹介で彼に逢ったの。彼も配偶者と死に分かれたらしくて、そのことを話のネタ程度と思って話したら意外なほどに彼が落ち込んで、変な人と思いながらも興味を引かれたわ。

 結婚とか考えずに、他の男と結婚するまでの繋ぎと思って何度かデートしていたら、彼が告白してきたの。

「母親をやっている時の表情が、とても素敵でした」

 まぁ、何度かのデートの内の大半は小さかった娘も連れて行ったからね、母親としての顔も見せていたかも。どうせ惚れるなら女としての私に惚れて欲しかったけど、良いわ、気にしないでおいてあげる。

 どうせ私としては、更に子供を作るつもりは無いし、死ぬまでせいぜいあと二年。彼とでも良いけど、まぁそうでなくても友達と遊んで過ごせればそれで良いから。彼に求めるのは死ぬまで養ってくれることだけ。

 惚れたって言うなら、仕方ないから乗ってあげようじゃない?


 と思っていたら、ですよ。

 来ちゃってたみたいなのよ。“成老”って言うんだけどね、老いが始まることを。八歳二ヶ月で成老は、早いといえば早いけど誤差の範囲。寿命はそこから一年間。

 良いけどさぁ、別に。結婚して色々二人で出かけるのが楽しみ~とか、そんなんじゃないしさ。はぁ。

 不幸中の幸いって言うか、書類出した後で良かったわ。結婚の約束をしたのに成老して逃げられる、なんてよくある話だから。一歳で成人してからおおよそ九歳で成老するまで見た目には全然変わらないから、そんなことも起き得るの。

 私としてはそうならなくて良かったけど、彼にはちょっと申し訳ないしね、ごめんねってちょっと言ってみたら。

「気にしないで。あと一年、一緒に過ごしてくれるだけで嬉しいよ」

 だってさ。

 ……ふん、別に嬉しくなんて無いんだから。

 この時点で私は息子三人を成人させ結婚させ、零歳四ヶ月の娘を育てていた。前の旦那の成老が発覚した時点で考えたのは、旦那が二つ年上だったから死に別れたとして私は残りあと二年。そこから新たな相手を見つけたとしても子供を作る気はなかったから、最後にもう一人産んでおこうと仕込んだわけだ。結局のところ私の寿命は一年縮まったけど、娘を育てきって死ねるなら、それも良いのかな。

 あ、ちなみに子供がお腹に居る期間は八ヶ月。旦那の介護をしながらの妊娠出産子育ては流石に大変だったけど、その間は経済的な援助を国がしてくれるから何とかなった。

 そして成老により仕事は定年を迎え、娘の成長を見守る幸せな日々へと。

 ――娘の成長を見守りながら、私は徐々に老いていった。

 仕事はともかく、出来る家事すら減っていくのは流石に悲しくなる。それで彼に任すことが増えるのはともかく、成長した娘に色々と教えながらも任すことが増えていくのは、嬉しいやら情けないやら。あまり良い母親の姿を見せて上げられなくて申し訳なくなってしまう。

 娘に勉強を教えながら話した。

「ねぇ、ママってもうすぐ死んじゃうの?」

「そうね、そうなるわね。あと五ヶ月かしら」

「パパも死んじゃったんだよね?」

「そうよ、あなたは覚えてないわよね、死んだときのこと」

「うん。ママは泣いたの?」

「泣く訳ないでしょ。お父さんじゃあるまいし」

 かぶりを振る。産みの父をパパと、育ての父……彼のことをお父さんと呼び分けさせていた。

「ふぅん、でも悲しくなかったの?」

「少しは悲しかったかな。でも、あなたが居てくれたから」

「えへへ、じゃあ私が死んだら泣く?」

「そりゃあもちろん、号泣するわよ。子供が親より先に死んだらダメ、絶対よ? ……ヒトはいつか死ぬものだし、寿命で死ぬのは諦めるしかない。泣いてる間があったら、次の誰かを探すの。それが普通なのよ」

「お父さんは、普通じゃないんだね~」

「そ、普通じゃないの。お父さんはとっても変なの。こうなっちゃダメよ?」

 そんな親子の会話。後ろに居たもう一人が何か言っていたかもしれないが、あまり記憶には残っていない。

 彼がああだから私が世間の常識を教えてあげなきゃと思ったが、どうだっただろう。他の子たちのときには意識したことなどなかったが、私はちゃんと母親で居られたのだろうか?

 彼が娘と居る姿を見ると、とても安心した。大切にしているのが分かった。任せられる、と思った。

 じゃあ、私は?

 彼は私の母親としての姿が好きだと言ってくれたが、意識したことすらなかった自分の母親像は、改めて考えてみると何もない気がする。いつもその時々で褒めたり叱ったり、感情に任せることだってあったし子供とケンカしたこともあった。定まった何かは、一つも無かったと思う。

 今回だって、仕事がない分一緒には居られたけれど、その分だけ何を教えたら良いのか悩みながら育てた。私のようになって欲しいとは思わないし、彼のようになって欲しいとも思わない。だからと言ってどうなって欲しいかといえば、ただ幸せになって欲しいとしか言えない。

 彼は、私のどこに“母親”を見たのだろう。……そんなこと、今更聞けない。

 もしかすると。あくまで、もしかするとだけど。彼は、私に子供を産んで欲しかったのかもしれない、なんてことも思う。もしそれを聞いて「気にしないで」なんて言われたら泣いちゃうかもしれないから、それも聞けないけど。

 こうなって初めて考える。彼の言う、恋人が死ねば泣く、という言葉の意味を。

 意味。意味が分からなかった。価値。価値が無いように思えていた。

 でも、今はどうだ?

 ――嬉しい、かもしれない。

 ――泣いて欲しい、かもしれない。


 心臓が、次第に鈍くなっていくのが分かる。

 自分の身体だもの。生まれたときから聴いていた自分のリズムだもの。分かるわ。

 ヒューミットの寿命は、心臓の停止により訪れるの。身体の衰えもあるけれど、象徴とも言える新陳代謝が鈍化することからくる病もあるけれど、それらより先に最も酷使してきた心臓に限界が訪れる。苦しみも無い。全く、よく出来ていると思うわ。

 ちなみに人口心肺を使えばほんの少し寿命を延ばせるとも聞くけど、それもほんの少しらしくて今度は脳が活動を止めるんだとか。あまり意味が無いようで、流行ってはいない。

 傍らで彼が泣いている。

 つ……と両の目から涙を流している。私の左手を強く握って。

 美しいな、なんてことを思う。

 その横で娘が座っている。娘は泣いていないけれど、泣きそうな顔をしている。

 あぁ、悲しまないで。どうか笑って欲しいの。あなたの一番可愛い顔で見送ってよ。でないとママ、悲しくなっちゃう。

 もう、彼ったら気が利かない人ね。私はもう声が出せないんだから、その子を励ましてあげてよね。任せて大丈夫なのかしら……だって、ほら、二人ともが左側に居たら右手が空いていて寂しいわ。ホント、気が利かない人!

 まぁいいわ、首を動かすのも億劫だから、片側に居てくれるのも別に良いわよ。でもやっぱり、娘には笑って欲しい。ねぇ、ほら、笑って?

 ……

 あら、彼ったら余計に泣き出しちゃった。しかも娘まで。んもう、結局は家族が死んだくらいで泣く子に育っちゃったか。他の三人の息子たちはこの場に居もしないのに、あなただけ常識的に育ててあげられなくてごめんね。

 あぁ、でもでも、泣いてもらうのってなんて心地良いんだろう。

 染み込んでくる感じ。

 乾いていたのかな。ひび割れていたのかな。壊れていたのかな。

 だとするならきっと、ヒューミットたちは皆同じだ。皆、乾いてひび割れて壊れているのかもしれない。悲しくも、悲しくも、悲しくも。そして、それを埋めてくれるのが誰かの涙だとは、知らずに生きているのだ。

 今この瞬間になるまでは知るよしも無かった。その涙の一粒にこめられた想いを感じ、私まで泣きそうになる。

 ――もっと一緒に居たかった。

 二人の涙にこめられた気持ちがもしそんな気持ちなら、私だって泣きたい。

 もっと一緒に居たかった。居たかったよ。だって娘が小さいときにはなかなか連れて外には出られなかったし、大きくなったときには私の自由が利かなくなっていてあまり外に出ていない。二人とも知らないでしょう、私って結構運動は万能だったんだよ。見せたかったなぁ。

 娘と一緒に、公園に行きたかった。遊園地とか、動物園とか、ショッピングとか、キャンプとか。彼の横で、一緒に娘を見守りたかったよ。

 あ。

 嬉しい。

 私も泣けた。見て、泣けたよ。

 二人ともお願い、仲良くしてね。大好きだよ。


 ◆


 あ~、泣いた。心底泣いた。絶望的に泣いた。頭痛い。

 妻が死んで二日間。泣きに泣いた。娘と手を繋ぎながら、おいおい泣いた。

 娘のほうが先に泣き止んで、慰められながら泣くのはなんとも情けなかったが、おかげで少しは気が楽になった。

 俺は妻の、母親の姿が好きだった。

 最初に見たときは一人で、上司の紹介で会って二人で食事に行った。普通に話をして、まぁ前の妻の話を振られて少しへこんでしまったりしたけれど。それから二度目に会ったときには可愛らしい娘を連れていた。

「子供が居ますが、それでも良いですか?」

 と、実際に言葉にされたわけではなかったが、堂々と見せ付けるように“母親”をやっていた。その時点で二ヶ月になっていたその子はとても聡い子のようで、ママやパパなどの言葉は既に話していた。そんな娘の世話をしながらでは満足に会話も出来なかったが、その分娘に手をかけている様子を眺める時間が増え、心引かれた。

 そう、失礼ながら俺は彼女に母親を見ていたのかもしれない。

 泣き出した子をあやす姿。暴れる子を叱る姿。子育ての愚痴を言いつつ、どことなく幸せそうな顔をしてみたり。本当に嫌になって色々ぶちまけた上で、それでも我が子のところに戻っていく姿。全ての行動は、ただただ子供の幸せを願うがため。

 母親というのは、義務であり、権利なんだと思う。ヒトのどんな役目、役割でも同じなんだとは思うが……どれほど面倒で苦しくても、そこに喜びを見出せる。見出さざるを得ない。

 とても人間的なその姿に、俺は引かれたんだ。

 妻が死んだとき、娘も隣に居た。娘の成人のときの晴れ姿を見られたのは、妻にとって嬉しかっただろう。しかし、いつか挙げる結婚式での晴れ姿を見られないのは悲しかったろう。

 彼女があの時見せた笑顔は、どんな意味があったのだろうか。死んでいくというのに、何故笑えたのだろう。死ぬ相手に涙を流すことより、よほど不可解だと思う。もしも娘を俺に任せて逝く安心で笑ってくれたなら、嬉しいのだが。

 そして、最後の瞬間の涙……。

 分からない。全くもって分からない。俺が死ぬときには、その気持ちが分かるのだろうか。

 なんにせよ、あと六年半ほどもある俺の人生。新しい伴侶を探すこともやぶさかでは無いが、それよりも娘をしっかり育てたい。あくまで妻の連れ子であって実の娘では無いけれど、丸一年もその成長をそばで見守っていればもう娘としか思えない。実の父親よりも、俺のほうがよっぽど“父親”なはずだ。

 家に居る間は、しっかり護ってやらなきゃ。いつか結婚して家を出て行くんだろうけど、それまでは。

 変な男に捕まらないように。仕事で失敗したときには慰めてやって。ふいに母を思い出したときには思い出を共有して。それから結婚式は、とにかく豪華な式にしてやりたい。病気になれば看病する、治るまで絶対に離れない。

 俺たちは、これからも家族だ。俺と、娘と、そして妻と。

 ずっと一緒だよ。だから安心して逝ってくれ、みなこ。


 ◇ ◇ ◇


 その気持ちは、とてもとても単純明快だった。

 ママの死に、お父さんと手を繋ぎわんわんと泣いた。悲しくて、悲しくて。

 ……違うかも? 悲しかったのは確かだけど、死ぬのが前から分かってたから覚悟は決まってたんだ。でも、泣いた。

 きっと、お父さんが泣いてたから、私も泣いた。

 ママが死んで悲しくて。お父さんが悲しんでるのが悲しくて。共感してあげたくて。

 泣いて、泣いて、泣いて。私としては喉も鼻も目も限界で泣き止んだ時点でも、まだお父さんは泣いてた。丸一日以上過ぎてて、自分でも凄いなって思った。喉はガラガラ、鼻はズキズキ、あれだけ泣いていたのに目は何故かカラッカラだった。

 でも、お父さんはまだまだ泣き足りないみたいで、そこから更に泣いた。私はお父さんの横で、ずっとその声を聞いてた。付き合ってご飯も抜いて。でも水だけは飲まないと脱水症状になるかも知れないから、用意してあげたりして。

 どれだけ泣くんだか……なんて呆れつつも、でも思った。

 こういう風に、私も泣いてほしいな、って。

 あと、お父さん可愛いな、なんて。ね?

 お父さんが泣き止んだときのために、いっぱい、いっぱい、ご飯を作っておいたの。お父さんの好きなもの。オムライス、からあげ、さばの味噌煮に白ご飯、カツ丼とアスパラガスのサラダ。りんご、みかん、カレーと牛乳プリン。そのために買い物に行って、その間に泣き止んじゃわないかと思って走って帰ってきたらまだ泣いてて、何故だかホッとしたりもした。

 お父さんは結局、丸二日くらい泣いたのかな? 作ったご飯も冷めちゃってたけど。

 ――でも、私の作ったご飯を見て、笑ってくれたんだ。

 いっぱい、いっぱい作ったご飯を、お腹いっぱいになるまで食べるお父さん。お父さん可愛いな。もっと食べさせてあげたい。

 あんな風に私も泣いて欲しい。けど、親より先に子供が死んじゃダメってママに言われたからなぁ。どうしよう?

 泣いてくれる、他のひと?

 ……うぅん、お父さんが良いの。

 じゃあ仕方ない。泣いて貰うんじゃなくて、泣いてあげよう。お父さんが死ぬときに、そのすぐ横で。きっと嬉しいよね? ママだって、最後笑ってたもん。

 ね、お父さん。その時まで、ずっと一緒に居てあげるね。


 ――ママとの、こんな会話を覚えている。

「ねぇ、ママってもうすぐ死んじゃうの?」

「そうね、そうなるわね。あと五ヶ月かしら」

「パパも死んじゃったんだよね?」

「そうよ、あなたは覚えてないわよね、死んだときのこと」

「うん。ママは泣いたの?」

「泣く訳ないでしょ。お父さんじゃあるまいし」

「ふぅん、でも悲しくなかったの?」

「少しは悲しかったかな。でも、あなたが居てくれたから」

「えへへ、じゃあ私が死んだら泣く?」

「そりゃあもちろん、号泣するわよ。子供が親より先に死んだらダメ、絶対よ? ……ヒトはいつか死ぬものだし、寿命で死ぬのは諦めるしかない。泣いてる間があったら、次の誰かを探すの。それが普通なのよ」

「お父さんは、普通じゃないんだね~」

「そ、普通じゃないの。お父さんはとっても変なの。こうなっちゃダメよ?」

 そして、その後のママとお父さんとの会話も、覚えている。

「あ、あの~。俺、後ろに居るんだけどなぁ」

「あら、ふふふ、気付かなかったわ。ごめんなさい、変なヒト」

「変なヒトって……泣くだろ、好きな相手が死ぬんだから」

「そ。じゃあ五ヵ月後に向けて、せいぜい涙を溜めていて下さいな」

「……うぅ」

「も~、今からそんな顔することないでしょ!」

「だって……」

「ほらほら、一緒に居られる間は楽しく過ごしましょう? それで楽しかった分だけ泣けるって言うなら、思いっきり泣かせてあげるからさ!」

 ――結局のところ、ママもお父さんを大好きだった。私は知ってる。

 憎まれ口を叩きながらも、いっぱい泣いて欲しいと願ってた。離れたくないって。

 私だってそう。お父さんを大好きだし、愛してる。父親としてとか男性としてとか、そんなのは分からないけど、ずっと一緒に居たいの。

 私もママが死ぬ前に仕事を始めていたし、男性との出会いだってあった。でも……どうも違うのよねぇ。優しくないっていうか、流されてるっていうか、他人を見てないっていうか、必要としてないっていうか。なんか、どうも違うの。全然違うのよ。

 ただ死ぬときに泣いて欲しいっていうことなら、お父さんが昔やったアンケートでも一割は居たらしいし、捜せば見つかると思うけどさ。でも、丸二日だよ? あんなに泣いてくれるヒトは、きっと居ないと思うの。あんなに愛してくれるヒトは、きっとお父さん以外に居ない。

 必要とされたい。自分のために生きて、一人で死んでいくなんて寂しい。

 だから私は、ずっとお父さんと一緒に居るの。

 ……なのにお父さんってば、いつもいつも私に「早く結婚しないのか?」って。

 私、邪魔なのかなぁ?

 不安になったりもするけど、離れてあげないんだから。だって好きなんだもん!

 結婚、かぁ。

 どうなんだろ。お父さんと結婚、したいかな?

 自分でも分かんないなぁ。実の娘じゃないんだし、結婚しようと思えば結婚できるんだけどさ。つまりはお父さんが良いって言ってくれたら、ね。

 結婚したとして、子供は作るの? ママは、結婚してすぐに成老しちゃって子供出来なかったよね。……そうか、考えてみたらお父さん、まだ子供一人も居ないんだ。

 お父さん、子供欲しい? 私が居たら他の人探せなくて、子供も出来ない?

 ねぇお父さん、私じゃ……ダメ?

 私はもう何度も言った。

「お父さん、大好きだよ」「お父さん、愛してる」

 で、それに帰ってくるのは、

「俺も大好きだよ」「俺だって愛してるさ」

 で、さらに、

「でもずっとお父さんと一緒に居る訳にもいかないからな。早く良い男を見つけなさい」

 はぁ。娘って立場は、有利なんだか不利なんだか。

 まぁでも、時間はあるんだし、二人でじっくりやっていきましょうか!


 ある日のこと。

 もう、二人きりで過ごして三年近くになって、お父さんもいい年で。それでもって、私も覚悟が決まってきたというか、かなり焦れてきた頃のこと。

 お父さんが、おもむろに言ったの。

「お前……結婚、しないのか?」

 いつもだったら「早く結婚しろ」と言うところを、その日は「結婚しないのか?」と。お父さんなりに、何か疑ってのことだったんだろう。きっと、もしかして私が結婚しない理由があるのか、と。

 いつもだったらやんわりとかわしつつ、「結婚したらお父さん一人になっちゃうからなぁ」とか「お父さん大好きだよ」で締めるところだが、私としてもこの関係に飽き飽きしていた。むしろ、いい加減気付けバカヤロウ、くらいに思っていた。

 だから、言っちゃった。

「結婚、しないよ。……お父さんとじゃなきゃ、しない」

「!?」

 言っちゃった。

 私だってもう五歳近くて、そりゃもう結婚する気でもなきゃ一緒には暮らしていない。もう吹っ切れた。お父さん大好き! 愛してる!

「い、いやお前、え? どういうこと?」

 困ってる。お父さんてば、超可愛い!

「だ、だってそんな、親子だぞ!」

「……実の親子じゃないじゃん」

 言っちゃった。言っちゃったからには、攻めるのみ!

「ね、お父さん。私ずっと決めてたの。お父さんみたいな人と結婚したいって」

「じゃあ、お父さんみたいな他の誰かを探したら良いんじゃないのか?」

「んもう、お父さんのバカ……お父さんが良いって言ってるの、分かんないかなぁ」

「おと……いや、そういうのは好きな男にだなぁ!」

 はぁ、とこれ見よがしに大きな溜め息を付いてみせる。

「も~、ボケるには早いでしょ。私、ずっと言ってたよね。お父さん大好き、お父さん愛してるって!」

「そ、それは……」

「それで、お父さん言ってくれてたよね? 『俺も愛してる』って、さ」

「う……」

 じわじわと、言葉だけじゃなく実際に身体で追い詰めていく。オロオロするお父さん。後ずさりながら時々蹴つまずきそうになるのが、やっぱり可愛い。

 もう隠す必要も無い。

「お父さん可愛いなぁ。キスしちゃいたいなぁ……」

「き、キスって!」

「うふふふふ……ねぇお父さん、子供は欲しい? 私としてはママの分まで合わせて、三人くらいが良いんだけど」

「こ、子供って……!」

 後ずさるお父さんの背が、壁にぶつかる。

「ねぇお父さん、もう三年近く二人で居るんだし、結婚しても何も変わらないよね?」

「う、うぅ」

「紙っぺら一枚程度のことだよ。ていうか、判子いっこ。むしろいくらでも自分で、勝手に押せるけどね」

「むぅ……」

「ねぇ、お父さん?」

「うぅ」

「ねぇ」

「う……」

 ――な~んてことがあって、私たちは結ばれました。

 子供は私が言ったとおり、三人。女の子が二人に、一番下が男の子。

 私たちは、良い家族だったんじゃないかと思います。仲良しで、大切にし合って。今も子供たちは全員揃って……お父さんを見送ろうとしています。

 ねぇお父さん。私と結婚して、どうだった? 後悔した?

 あの時かなり強引に迫っちゃったし、本当に私で良かったのかは結局聞けなかったなぁ。私は……私は幸せだったよ。すごく、すっごく幸せだった。

 だから今、こんなにも悲しくて、こんなにも泣いている。もっと一緒に居たかったよ。行ってない場所もいっぱいあるし、せっかく産まれた男の子なのにお父さんったら外で遊べなかったし、もうすぐ長女が出産なのに。

 お父さんがお父さんだったからこそ、結婚した子供たちも死の間際にこうして集まってるの。お父さんが大切にしてくれたから、大好きで居られた。

 お父さんに泣いてもらうことは叶わないけど、こうして涙を流して送ってあげられる。私は幸せでした。今も、この瞬間も幸せだよ。

 私は後悔なんてしてない。お父さんはどう? この涙、見てくれてる?

 お父さん、大好きだよ。お父さん、愛してる。こんなにも別れが悲しくて泣いてしまうほどに。

 子供たちのことは任せて。

 向こうでも元気でね。

 ……

 ……

 ……

 お父さん、寂しいよ。


 ◆


 あ~、泣ける。心底泣ける。絶望的に泣ける。頭痛い。

 ……嘘だよ。泣けないよ。泣くことすら出来ないよ。頭は痛くないし、どこも痛くないし、苦しくもない。もう目線くらいしか動かせないし、ぬるま湯に浸かっているような感覚だけが全身を覆っている。

 けれど、それでも。絶望的なんかじゃない。

 満たされている。

 寂しいと思ってはいるんだ、泣きたいほどに。きっと義理の娘であり我が三人目の妻でもある、俺の手を握り泣く女性も、寂しく思っているんだろう。共感出来るってのは素晴らしいことだよな。

 でも、共感だのと言っておいて何なんだが、俺の寂しさは彼女の寂しさとはまた違うんだと思う。

 彼女の寂しさは、もっと一緒に居たかったという寂しさ。俺だってそれはある。

 しかし、だ。俺のそれは、目の前で家族が流す涙と過去の妻たちの思い出によって――満たされている。

 いわゆる“心の隙間”ってやつが、俺にもあったのだと気付く。その隙間が故に、俺は誰かを求め、その誰かを失ったときに泣いてきたんだろう。その隙間は、今この瞬間に埋まったのだ。人は皆、乾いてひび割れて壊れているのかもしれない……なんてことも思うが、俺は今、潤い修復され快復している。思い出と、涙によって。

 そんな充足感から離れるのが、今は寂しい。

 ――さやか、ありがとう。

 お前は俺を求めてくれた。死の間際になっても、俺と一緒に居たいと。

 今この瞬間だから、あえて言おう。お前には悪いと思うが、それでも言おう。……お前が病弱で良かった。

 その短い生の一部を、俺と共に過ごしてくれたこと。最後の瞬間を、看取らせてくれたこと。その人生のたった一人に、俺を選んでくれたこと。それが、俺に価値を与えてくれたんだ。

 お前はいつも俺に、ありがとうと言った。けれど、それは俺の台詞だよ。最後にかけた言葉は届いていただろうか。

 ありがとう。幸せだったよ。

 ――みなこ、すまない。そして、ありがとう。

 娘を護ると約束したが、結婚したことでそれは成功したのかどうなのか。あの子が俺に惚れたというなら、それは俺が全身全霊を持って護ろうとした結果のはずだ。お前との約束のためで、お前を愛したが故なんだ。許してくれ。

 俺のことを変人と笑い飛ばしながらも、最後の瞬間にはお前も涙を流していたね。知っていたよ、大切に思ってくれていること。

 隣に居るのがなんとも自然で、何を言っても言われてもどこかで繋がっている実感があった。これが家族ってことなんだと、気付かされたよ。

 お前と家族になれて良かった。ありがとう。

 ――なお。これが最後だ。ありがとう。

 何度も、何度も言ってきたけれど、それでもまだ足りないような気がしているよ。

 愛してる。ありがとう。大好きだ。

 お父さん、と。ものごころ付いた頃からずっと呼ばれてきた。結ばれても呼び方を変えるのは気恥ずかしくてそのままで、子供が出来ていつしか、その呼び方が違う意味合いで定着していた。

 父親として成長を見守った時間。家族として二人で過ごした時間。夫として家庭に捧げた時間。それらは全て繋がっていて、結ばれる前と結ばれた後で、不思議と気持ちは変わらなかった。

 父親としての愛、家族としての愛、夫としての愛。世間的にはそれぞれ別のものなんだろうけれど、それら全てを兼ね備え、かつ超越したものがこの胸の内に在る。

 お前が俺にくれたものも、きっと同じだった。父親としての俺を、家族としての俺を、男としての俺を……全てひっくるめて丸ごと欠片も残さず、愛してくれたんだろう?

 だから俺は、お前に気持ちを告白されたときに否定できなかった。拒絶できなかった。

 俺がお前に捧げた時間と同じだけの時間を、お前が注いでくれていたことも分かったから。

 お前の父親になれたことも、お前の夫になれたことも、三人の子を産んでくれたことも、全てに感謝しているよ。ありがとう。ありがとう。ありがとう。本当に。

 こんなにも満ち足りた気分になれたのは、お前と出会えたからだ。

 子供たちを、頼んだよ。

 ――えり、ゆり、かずき。俺の子供たち。

 もうすぐだ。もうすぐで俺は逝く。こんなにも泣いてくれて嬉しいが、お前たちには早く泣き止んで欲しい。

 お前たち三人に、俺は何か残せただろうか。

 もし残せたとするなら、その涙こそがきっとそうなんだろう。その涙は世間的には笑われるものだけれど、こんなにも美しく満たされるものが間違っているとは、どうしても、どうしても思えないんだ。

 お前たちの涙は、俺にとっては愛された証だし、お前たちにとっては愛した証だ。

 どうか、いつの日かお前たちの伴侶が亡くなるときが来たら、しっかり泣いてほしい。思いっきり、愛してほしい。

 かずきにはまだ先の話だろうが、ゆりは結婚したし、えりはもう子供も産まれる。

 命は、繋がっていくものだ。

 ……愛も、繋がるものであってほしいと、そんなことを願うよ。


 ◆◆


 昨日、未明のこと。父が死にました。

 病院で家族に見守られながら、十歳と八ヶ月の、比較的長めの生を終えた。大往生と言って良いと思う。

 父は、笑顔で逝きました。

 母の涙に、姉二人の涙に、僕の涙に見送られて、とても満足げに。

 父が最後に何を考えたのかは分からないが、もし僕の涙が父に何かを与えていたなら嬉しいと思う。そして、こうも思う。

 ――良いな、って。こんな風に死にたいな、って。

 周りが泣いてくれて、自分が笑って逝けるなら。そうすれば、泣いてくれた人をその後に笑顔にする手伝いすら出来ているような、そんな気がする。

 僕は、丸一日近く泣いて少し気が晴れた。父さんだって、ずっと泣いていて欲しいとは思っていないだろ?

 あぁ、そうだ。父さんには結局言わなかったけれど、僕には今、恋人が居る。彼女が死んだときに、僕は泣くだろうか?

 泣きたいな。是非とも。

 それは勿論、誰でも泣くということでは無くて、別れを惜しめるような関係になりたいということだ。

 父は、変人として生きたという。『恋人が死んだときに泣く』というのは少数派で、そんなことを言えば笑われるのだという。

 けれど、それがなんだ。

 窓から差し込んだ朝日が、母と姉二人の目尻で嬉しげに夜明けを詠う。

 三人が流す涙はキラキラと輝いて、どんなアクセサリーよりも美しく思う。悲しくて泣いて、苦しくて泣いて、寂しくて泣いて。それで泣き止んだときに気が晴れているのならば、きっと涙には悲しみや、苦しみや、寂しさが詰まっている。……それが美しいのだから、つまり、別れを惜しむことは美しい。

 彼女が死んだときに、僕は泣きたい。僕が先に死んだならば、泣いて欲しい。

 種族の特性がなんだ。世間の評判がなんだ。社会の常識がなんだ。

 それが世の中に無いならば、僕らから始まれば良い。

 僕が始めてやる。

 ――父さん、僕も、愛を始めるよ。

この後書きまで読んでくれたなら、何か少しは感じてもらえたということでしょうか。

設定の説明部分が長いのが、ハードルが高いかと思うので……。

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