吟遊白書
言霊――言葉の持つ不思議な霊力。つまり魂を宿した言葉だ。
精霊や妖精たちにとっては、言霊こそ世界のルールであった。人間にとっては何てことない口約束も、彼らの間では魂が宿り“絶対”の約束となる。――そう、彼らと交わした言葉は、ただで覆す事が叶わないのだ。
そうしてまんまと言霊を交わしてしまった人間と精の仲介役になろうと、世界には数少ない、“言霊師”が存在した――。
清々しい朝だった。五月の陽光が山奥であるこの家にもはっきりと差し込んでくる。
俺はいつも通りの時間に起床すれば、適当に洗顔を済ませて水を飲む。そして朝食の準備を始める。なんの狂いもない、いつもの朝だ。
俺の名前は粗止政。二十四歳。春に大学を卒業して、いまはここに住み込みで働いている。働いているといっても、こうして雇い主である言霊師、若槻結衣の助手兼、彼女の為に家事を行うだけの……いわゆる家政夫のような扱いなのだが。――それでも、俺だから雇われたって理由も少なからずは……ある。
魚が焼けた。結衣は料理の味と見た目にはこの上なくうるさい。それも、自分は出来ないくせに、だ。
箸で魚をつまむと、焦げ目がないか入念に確認する。うん、問題ない。いつもと同じ、ばっちり焼けている。それと同時に釜も泡を吹いた。白米も一級品だし、さらに釜炊きしたものしか、結衣は食べないのだ。
当の結衣は、台所から扉一枚隔てた先にある、浴室にいるはずだ。俺がこういった一連の動作を日課としているように、結衣も朝一でシャワーを浴びるのが日課だった。
食卓に完成したばかりの料理を飾る。焼き魚とお漬物、炊きたてご飯に半熟卵、そしてあさりのお味噌汁を綺麗に並べれば、準備OK。後は使った器具を片付けて、脱衣所へ結衣の着替えを持って行けば完璧だ。
一度掛け時計に目をやった。時間もいつもと変わらない。問題なしと踵を返して、再び調理代へ向かおうとした、その時――。
「アラシ」
ふと呼ばれた、透き通るくらい綺麗な声に、俺は固まる。おかしい。いつも通りなら結衣はまだ入浴時間を満喫しているはずだ。だけど今自分を呼んだのは、聞き間違えるはずもない、確かに彼女の声だった。
おそるおそる、といった表現が正しいのだろうか。俺はゆっくりと振り返る。顔を向けた先では、やはり結衣が丸い目を無表情に開いたままこちらを見ていた。出しっぱなしな水の流れる音だけが、いやに響く。俺は結衣のつむじからつま先まで眺め、全部見終わってから焦って数歩後ろに下がった。
「なっ……! なんて格好してんですかっ!」
目の前の結衣は何も身にまとっていなかった。そう――裸だ。
「だってお風呂から上がったら服ないんだもん。ちゃんと出しといてよね」
あっけらかんと言ってくれる。たしかにいつも結衣の着替えを出しているのは自分だし、今日はまだ脱衣所まで持って行っていない。――いや、そうじゃなくて。
「だからって、裸で出てこないでください!」
「何、照れてんの? でもアラシにしてみれば子供の体じゃん」
確かに結衣は“十七歳の体”だ。そういう俺は二十四歳。相手は子供。そう思うことも出来なくはない。
「だからって……」
「ああ、そうか。“スーツの似合わない二十四歳”にとっては、未成年も恋愛対象に入るんだ」
「なっ!」
スーツの似合わない二十四歳、とは、結衣が俺を見てつけたキャッチフレーズだ。はねた髪に、幼さの残る大きな目、そして丸い輪郭。自分でもコンプレックスなくらい、俺は童顔なのである。
「てかさ、別に毎日毎日スーツ着なくてもいいんだよ? 雇われてる身、たってそんな畏まるもんじゃないし、何より七五三みたいだし」
「結衣!」
椅子にかけてあったセーラー服が目につけば、結衣はそれを身にまといながら言った。
七五三なんて言うけれど、実際はそこまで俺は幼くない。だけど童顔という事実は、それだけで俺にダメージを与えるのだ。
「大体っ。早すぎやしませんか? いつもは俺が着替え届けてから、やっと上がるくらいなのに……」
そう。結衣の入浴時間はこの上なく長い。それはもう、俺が起きて着替えて洗顔して、気合の入った朝食をじっくり用意できる程に。
着替えを済ませた結衣が席に着いた。並べられた食事を見回しながら、俺の言葉に溜息をつく。
「アラシ、あんたあたしの助手になって何ヶ月?」
「は? えと……四ヶ月、ですけど」
「だったら、あたしが客を察知して早く上がってきた事くらい察しなさいよ」
ぎくっとした。商売人にとって客は神様というが、俺にとって、客は地獄の番人といった方が合っていると思う。
「……お、俺は部屋にこもってても……いいです、か?」
「あんたあたしの助手でしょーが」
スパッと言い放ちながら、まだ乾ききらない髪を編むと、結衣は食事に手をつけることなく玄関へ向かった。
***
結衣が招いたのは三十代前半ほどの穏やかそうな男性だった。しかし今は不安からか眉は下がり、寝不足からか、目の下にクマも見受けられる。
「それで? ここへ来たということは、もちろん言霊関係なのよね」
調理場でお茶を淹れながら、俺は耳を欹てた。
「……どうかした?」
何も口にしようとしない男に、結衣は怪訝な目を向ける。招かれたのが台所で、しかも堂々と目の前で飯まで食われているんじゃ、彼の気持ちが分からなくもないが。
俺も朝食はきちんととりたかったが、客がいるんじゃ仕方ないと諦めた。淹れたお茶を男に出したところで、先ほどの言葉を撤回する。
「“声が出ないのに、どう話したらいいんだろう”」
俺がそう呟くと、男性は驚いたようにこちらを見た。それもそうだろう。彼は今、俺に“心を読まれた”のだ。
「そう」
結衣が頷いた。男性は未だわけが分からず瞬きを繰り返している。
「彼は粗止政。あたしの助手よ。言霊については素人だけど、人の心が読める能力をかっているの。……気味悪がらないであげてよ。能力のオン、オフは自分で出来るから、あなたの心から必要外のことを読取ったりはしないわ」
「“そうなんですか”だそうです」
男性に気味悪がっている節は見当たらなかった。言霊なんて未知の世界の出来事だ。何でもありだと思っているのだろう。
「あたしは若槻結衣。例のとおり言霊師よ。あなたの言葉は全てアラシが通訳してくれる。話して、言葉が発せない理由、ここへあたしを訪ねた理由を――……」
結衣の隣に腰掛けると、俺は意識を集中させて彼を見た。生まれた時、少なくとも物心がついたときはもう人の心が読めていた。声が耳に届くのではなく、こうして目と目を合わせていれば、相手の思いが漫画の吹き出しのように浮かんで見える。施設育ちの俺は、そうして誰からも気味悪がられる人生を歩んでいた。だから正直、こうして能力を役立てて働ける日が来るなんて、あの頃は微塵も思ってはいなかったのだ。
「“僕の名前は有吉幸男です。精神科医をしています。三日前から、急に声が出なくなって……”」
「急に?」
「えー、“はい。本当に急に……”」
結衣は腕を組んで考えるような仕草をする。もう朝食に手をつけようとしないのが、仕事に忠実な結衣らしい。
「おかしな話ね。精と言霊を交わしたわけでもないんでしょう?」
「“精?”」
「一般に、精霊とか妖精って呼ばれるものだよ。言霊師の間では、まとめて精と呼ぶの」
「“はあ……じゃああの夢も何か関係あるんでしょうか?”……あの夢?」
「アラシ、自分のコメント巻き込まないで。――あの夢とは?」
俺はきゅっと口を噤んだ。人の言葉にいちいち反応してしまうのは恐らく癖だ。深呼吸をして、再び有吉さんに神経を集中させる。
思い出したのか、僅かにうっとりしながら彼は語った。
「……“数日前、美しい女性の現れる夢を見たんです。彼女はこの世のものとは思えない格好をしていて……。それこそ、若槻さんの仰る精霊や妖精の方が、よっぽど例えるに合いました。その女性が僕に向かって言ったんです。『あなたの声が欲しい』と”」
「何かと引き換えに、って言われた?」
「“そうですね。夢だったにしては鮮明に覚えています。確かに彼女は僕の声と引き換えに自分の持つものを何でもくれると言いました。しかし不思議と、僕は心の奥底でこれは夢だと認識していたので、代償なしに声を差し上げると言ったの、です”……って、ええっ?」
「アラシ!」
「あ、すいません……。でも結衣、それじゃ」
「うん。――有吉さん、あなたはつまり、精と言霊を交わしたんだよ。――……アラシ、通訳」
「あっ、すいません。えっと……“言霊を、交わした?”」
正直俺は混乱していた。今までこうして知らず知らずの内に、精と言霊を交わしてしまっていた人は数人見てきた。だけど声を取られてしまうなんて人は初めてで、まして精からの代償を受け取らなかった人も初めてだ。
「言葉には魂が宿る。それが精と交わしたものならなおさらね。間違いなく戻ってはこないよ。それ相応の代価を用意して、再び精と言霊を交わさない限りは」
「“でも、夢の中だったんですよ?”」
言葉を発しているのは俺だから、そこから有吉さんの必死さは伝わってこない。けど今にも飛び出しそうなほど見開かれた彼の眼からは、この上ない必死さが溢れていた。
「精は人間じゃない。あたし達の理屈をいくら述べたって、何の意味もないの」
そう、だから有吉さんの声を取り戻す方法は、先ほど結衣が述べた一つしかない。せめて代償に精から何かを受け取っていれば、それを盾に交渉することもできたが、そんな期待もできない今、俺たちになす術などないようなものだ。
「どうするんですか、結衣。これじゃあ有吉さんの声を取り戻すのは不可能なんじゃ」
俺は結衣を見た。一心に何かを考えるように机を見つめている。ちなみに今、俺に結衣の考えていることは分からない。能力をオフにしているのではなく、本当に、“分からない”のだ。
「有吉さん、家はどこ」
急に有吉さんに話を振るものだから、俺は反応が遅れた。パッと彼を見れば、背筋を伸ばして唾を飲む。
「……あ、えと……“この山を降りた麓の小さな村です”……だ、そうです」
彼は俺がそちらを向くまで言葉を紡ぐのを待っていてくれたのだ。そういえば有吉さんの仕事は精神科医だっけ。なるほど。優しくて穏やかな彼の言葉は、きっと精にも大層な価値があるほど美しかったに違いない。
「だったらこの吟遊山に住んでいる精と交渉した確立が高いわね」
言って、結衣は立ち上がった。椅子にかけられたパーカを羽織る。
嫌な予感というやつを直感で感じれば、俺は音を立てないように椅子から立ち、そーっと結衣の傍を離れた。
「どこ行く気? アラシ」
しかし目ざとい結衣から逃げることは叶わず、首根っこつかまれて椅子に引き戻される。唸りながら俺は言葉を吐いた。
「結衣こそ……」
「あたし? もちろん山に入るんだよ」
「じゃあ、結衣と有吉さんで……」
「あんたがいなくちゃ有吉さんの言葉が分かんないでしょ? 大体、分かってる? あんたはあたしと交わしてるの、言霊を。あたしに刃向かってここに留まる事は許されないの」
俺にしか聞こえないように結衣は呟いた。くっそう、年下にここまでいいように扱われて……。
明らかに嫌そうな俺を不安げに見てくる有吉さんに、思わず愛想笑いを浮かべた――自分が情けなくて仕方なかった。
***
俺たちの住む家は、吟遊山と呼ばれる山の中にひっそりと佇む鳥居の向こうにある。かといって神社なわけではなく、説明し難いが、その鳥居の向こうの更に奥こそ、精たちの住処なのだ。結衣は仕事上精に一番近い場所に住んでいた方が都合がいいので、こんな薄気味悪い場所に家を建てているらしい。
……俺としては、家くらいまともな場所に建てて欲しかった。
「アラシ、大丈夫? 右手と右足一緒に出てるよ?」
「だっ、大丈夫です!」
そう言いながら声が震えていると、さすがに自分でも分かった。結衣が呆れたように溜息をつく。
「あんたねえ、精は幽霊とかとは違うんだよ? 妖精とかそういうもんだって、何度も言ってるでしょうが」
「分かってますよ! 話し掛けないでください!」
「はいはい」
仕方ないと言ったように結衣は先を歩いていってしまった。
そう、口に出して言ったことはないものの――なぜか結衣にはばれているが――俺は幽霊とか、そういった類のものが怖い。怖い話なんて聞きたくもないし、何度説明されても、この精って存在も気味が悪い。結衣と言霊さえ交わしていなければ、とっくにこんな仕事はやめていただろう。
山を進んでしばらくが経っていた。辺りが木々に囲まれて、陽光も少なく、薄暗い。
「――っ!」
と、不意に誰かが肩を叩くものだから、俺は声にならない悲鳴を上げた。動悸も激しく振り返ると、有吉さんが心配そうに俺の様子を窺っている。――正直な話、彼の存在をすっかり忘れていた。
「あ、あああ、りよし、さん。何ですか?」
(気分でも悪いかい? 無理して付き合うことはないんだよ)
「い、いいえ。大丈夫です」
苦笑気味に俺は首を振った。
(それならいいが。しかし驚いたよ。言霊師なんていうから、もっと年老いた、言葉が悪いが、老婆みたいな人かと思っていたんだ)
「はあ」
(そしたら言霊師もその助手も、高校生くらいの少年少女ときたじゃないか。学校などはどうしているんだい? 行っている様子はないようだが)
ぴくっ。今俺、多分頬が痙攣した。
「俺……こう見えても、二十四ですから。ご心配なく」
出来るだけ厭味を込めずに言ったつもりだが、やっぱり言葉の端々はきつくなってしまう。有吉さんの顔が、しまった、というように引きつった。
(ご、ごめんなさい。人を見かけで判断してはいけないのに、つい第一印象だけでものを言ってしまった)
「いえ……」
俺が成人済みだと分かったら、有吉さんの言葉に敬語が混じってきた。事実上は年下だろうから、別に構わないのに。
ふっと視線を前にやったら、結衣が茂みの間を覗いていた。恐らく精がいるのだろうと思ったが、あんまり考えたくないので考えないことにする。それよりも。
「あの、結衣には同じこと、訊ねないでくださいね」
(え?)
有吉さんが不思議そうに俺を見る。結衣もああ見えて実は成人済みなのでは、とでも思ったのか、一度彼女を見てから再びこちらに首をやった。
(しかし、彼女があのパーカの下に着ているのは、セーラー服ですよね?)
「はい。あれは自分の最後を忘れないために着ているんだそうです」
(自分の最後……?)
「結衣は、自分はもう死んでいるんだと言います。少なくとも人としての自分は」
きっと話が全く掴めないのだろう。有吉さんはただ、首を傾げることしかしなかった。
「……結衣は、自分の願いと引き換えに、死ぬことも老いることもなく一生言霊師でいることを約束したんです。俺も詳しい事は知らないけれど、精と言霊を交わして」
(彼女は不老不死であると……そういうことですか?)
「そうです」
こんなに話してしまってよかっただろうかと、今更ながら俺は不安になった。ちらりと結衣を見れば、何てことなく精に話を聞いているようなので、とりあえずはホッとする。
言霊は、時に人を幸へも不幸へも誘う。だからこそ、人は簡単に言葉を紡いではいけないのだ。
(その、精というものは、僕には見えないんだね)
一人前方で話している結衣を見て、その先に精がいることを悟ったらしい。
「力の強いものなら、多分見えると思います。力とは、この世で過ごした年月の数に比例すると、結衣が言っていました。まあつまり、昔からここに住んでいる精なら、俺たち素人にも見えるということです。精の寿命なんて知りませんけど、百年、二百年なんてことはないそうですし……」
(粗止君にも、見えないんだね?)
「そういうことです」
まあ正直、見えないほうがいいが、目に見えないから余計に気味が悪いのも確かだ。
「アラシ!」
結衣が呼んだ。う。嫌な予感。
とりあえず有吉さんにも目で合図して、結衣の元へと駆ける。幸い彼も、不老不死の結衣を怖がってはいないようだ。もしかしたら信じていないのかもしれないが、そこまでは、俺も心を読まないよう制限しているので分からない。
「何か分かりましたか?」
「この向こうにいる茨の妖精がね、すてきな宝を手に入れたって、数日前からご機嫌らしいの。ちょっと気になるね」
「……行くんですか?」
「当たり前じゃん」
けろっと言う結衣の言葉に、俺はとっさに回れ右をした。今なら走って逃げられる。
「分かってるだろうけど、アラシ? この情報くれた精に、あたしお返ししなきゃいけないの。逃げたらあんたの心臓差し出すから」
ピタッと、俺の足が止まる。言霊師である結衣の言葉には、精と同じだけの魂が宿る。口に出して紡がれた言葉は、是が非でも実行されてしまうのだ。
「〜〜分かりましたよ……」
再び結衣に向き直った。意地悪な雇い主は満足げに笑みを浮かべている。
……正直俺は、この笑顔にも弱い。
「じゃ、行こっか。ほらアラシ、この先は茨が多いらしいから、前歩いて!」
溜息をつきながらも俺は言われる通りに前を歩いた。俺、結衣、有吉さんの順に歩くものだから、会話は一切ない。
山は歩けば歩くほど深くなり、暗くなる。心霊スポットなどと噂されるこの山に、面白半分で来る人間はいるものの、山を整えようとする人間はいないため、草木は生えたい放題なのだ。
マムシなどの毒を持った生物もいるらしいが、結衣の傍にいれば襲われることもない。本能で生きている動植物達にとって、言霊師は絶対的な存在だからだという。
そうして暫く歩くと、本当に茨が多くなってきた。茨の道を歩いているといってもおかしくない。俺はスーツだからいいものの、スカートの結衣は大丈夫なのかと気になり、振り返ろうか迷い始めた時、結衣が叫んだ。
「アラシ、あれ!」
振り返ろうと準備していた首を慌てて前へやると、たくさんの茨の中に、まるで竹薮から放たれるかぐや姫の光のように、淡くしっかりとした輝きが見えた。
「有吉さんの声光よ。間違いないわ!」
きっぱりと結衣が言ったので、俺はゆっくりそれに近づいた。茨で足を傷付けないよう、本当にゆっくりと。
有吉さんの声は高さ五十センチ程の茨の壁で覆われていた。俺に触れられるものかも知らないのに、手が勝手にそれを取ろうとする。それはほとんど無意識だった。
「ちょっ、アラシ待って!」
結衣が制止する。しかし、それは今一歩遅いタイミングだった。
俺の頬を、風が切る。鎌鼬かと思ったそれは、秒速よりも速い茨の仕業だった。突かれたように体は痛みを伴って激しく飛ばされる。尻餅をついた先は茨の海だ。
「――いっ! たたたたた!」
手をついて逃れようとすれば、今度はその手に茨が食い込む。こんな針地獄に落とされるほど、俺は粗悪な生き方をしたつもりは無い。
「いたた! いたっ!」
尻、手、背中。暴れれば逆に茨が食い込んで、どうしたらいいか“考えること”すらできない状態だった。
暴れもがく俺の手を、誰かが掴む。それは尻の痛みを増すだけで、離せとばかりに更にもがいた。
「落ち着きなさい、アラシ!」
「――っ」
「ほら、立って。立たなきゃずっと痛いままだよ」
もう一方の手も掴み、結衣は俺を引き寄せるように立たせた。漸く痛みから解放されて、狂ったように荒い呼吸を繰り返す。
ス、と結衣の手が頬に触れた。その手にはハンカチが添えられている。それを受け取り、頬の血を拭った。
落ち着いて見たら、結衣は傷だらけだ。足はズタズタに切り裂かれているし、綺麗に結われた三つ編みも崩れている。
「すみません……」
「謝んなくてもいいよ。それより……」
結衣は振り返った。その先には裸の女が立っている。いや、アレは人ではないだろう。耳はとんがっているし、つりあがった目は金色で、猫のように線を一本引いただけ。頭は飾るように幾輪もの薔薇が咲き乱れ、茎は例の茨と繋がっていた。
ああ、精か。まだ数えるほどしか目にした事はないけれど、そう確信できるほど目の前の女は人間離れしている。面と向かって出会ってしまえば、その姿に恐怖は生まれなかった。
「言霊師か……」
「茨の精よ。あなたが彼の者より頂戴した声を返して欲しいの」
結衣は、目でちらりと有吉さんを見る。俺も真似をすると、彼は食い入るように精を見ていた。どうやら彼にも目にすることができたその姿は、夢で見た彼女そのものなのだろう。
「返す? それは出来ない。これは言霊を交わし頂戴したもの。言霊の契約は解かれることはない」
「分かってるよ。ただでなんて言わない。だから精よ、あたしと言霊を交わさない?」
僅かに笑みを浮かべて結衣は問う。余裕綽々なその態度に、精は目を細めた。
「彼の者の声は、言葉はとても美しい。それ相応の代価がなくば、言霊は交わせぬぞ」
「もちろん。まあ、むしろあなたには彼の声以上の価値があるはずだけど」
「ほう……?」
「結衣?」
あまりに余裕な少女に、俺は思わずその名を呼んだ。そんな俺には見向きもせずに、結衣は自分の胸に手を当てて言葉を続ける。
「あたしの声を、あげる」
瞬間、俺が言葉を失った。確かに精にとって結衣の声は相当な価値があるだろう。言霊師の発する言葉は全て意味を持ち、美しいものばかりだからだ。だけどここで声を渡してしまえば、結衣は一生、言霊師としての仕事はできなくなる。
「……っ、冗談じゃないですよ、そんなの。結衣!」
「アラシは黙ってて。……さあ、どうする?」
「……いいだろう。彼の者の声とそなたの声、交換しよう」
精はそう言うと、有吉さんの声光を口に含んだ。そのまま彼の元へ向かい、固まる有吉さんを気にも止めずその唇に自分の唇を重ねる。そんな一連の動作を結衣にも繰り返した。
結衣との口付けを終えた精の口からは、先程とは違う声光が吐き出された。それは有吉さんのものより、さらに強い光を放っている。
「――」
深呼吸する結衣の吐息に、音は無い。
――一件落着ね。
そんな結衣の声を、俺は最後に聞いた気がした。
***
いつもと同じ朝。いつもと同じ時間。だけど俺は、どうしてもいつもと同じ気持ちになれなくて、一人脱衣所の前にしゃがみ込んでいた。時計を見れば、俺が朝食の支度を済ませて結衣に着替えを届け終えた時間だ。でも今日は、朝食の準備もまだ終えていない。
と、脱衣所の扉が開いた。結衣の着替えだけはきちんと届けておいたので、彼女の身だしなみはちゃんとなっているだろう。
反射的に立ち上がると、俺と結衣の目が合った。
「……」
結衣はきょとんとしている。どう声を掛けたらいいか分からなくて、俺は口をパクパクさせた。彼女の目が怪訝な色に変わる。
「? どしたの、アラシ?」
まるで何事もなかったかのように紡ぎ出される声。一瞬、ついに人間外(結衣)の心まで読めるようになったのかと思ったが、今の言葉は“読んだ”のでは無い。“聞いた”のだ。
「結衣……。声が?」
「え? ああ、出るよ」
「何で」
「何でって、当たり前じゃん。あたしは言霊師だよ。それも精と契約を交わした。あたしが言霊師でいることは違えられないの」
けろっと言ってくれる。まるで本当に何もなかったみたいだ。
「言霊を使えない、つまり話せない言霊師なんてありえないでしょ。まあ後はあたしと言霊を交わした精同士の駆け引きになるけど……。昨夜のうちにあたしの声は返ってきたみたい」
わけが分からなかった。つまりは、言霊師である限り、結衣の声は失われないと、そう言うことなのだろう。
「ところでアラシ? 朝食は?」
お茶の一杯すら用意されていない食卓を見れば、結衣が訊ねる。凍りつくような結衣の笑顔が、俺の目を逸らさせた。
俺は結衣の笑顔に弱い。……どんなものでも。
「っ、すぐに用意します!」
逃げるように調理場に駆け込んだ。
いつもと変わらぬ一日が、今日も始まる