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名乗らぬ少年

作者: オーカー
掲載日:2026/06/27

「名乗らぬ少年」


ワトソン(手記):

その朝、ベーカー街二二一番地Bの居間は、ひどく静まり返っていた。

ホームズは夜も明けきらぬうちに外出し、例のごとく行き先を告げることもなかった。こうしたことには慣れているつもりであったが、この日はなぜか、彼の不在がいつにも増して強く意識されたのである。

私は暖炉のそばの椅子に腰を下ろし、新聞を広げていた。

市中の出来事には目を通してみたものの、どの記事も心に残るものはなく、活字を追う目はしばしば紙面の外へとさまよい出ていた。遠くで馬車の音が響き、やがて消えていく。その単調な繰り返しに、かえって時間の停滞を感じるほどであった。

そのときである。

扉が、控えめに――しかしはっきりとノックされた。

「どうぞ」

私が応じると、間もなく扉が開き、一人の少年が姿を現した。

年の頃は十三か、あるいは十四と見える。背丈はすでに子供の域を抜けつつあるが、顔立ちにはまだ幼さが残っている。質素ではあるが整えられた服装をしており、帽子を手にしたまま、入口のあたりで足を止めた。

「……ミスター・ホームズはいらっしゃいますか」

その声は落ち着いており、年齢の割に妙に抑えが利いているように思われた。

「生憎、彼は外出中だ」

私は新聞を脇に置き、少年に向き直る。

「だが、用件によっては私でも話を聞ける。どのような――」

「いえ」

少年は静かに言葉を遮った。

決して無礼な調子ではなかったが、その打ち切り方は妙にためらいがなく、最初からこちらの申し出を受けるつもりがなかったかのようでもあった。

「それでかまいません」

彼は一歩も部屋の奥には進まず、その場に立ったまま続ける。

「これから……メアリー・ウィルキンズという方が、こちらを訪ねるはずです」

唐突な申し出であった。

私は思わず問い返す。

「メアリー・ウィルキンズ?」

「はい」

少年は小さくうなずいた。

そして、ごく短く言った。

「その方の依頼は――必ず受けてください」

簡潔で、それ以上の説明は加えないという意思がはっきりと感じられる言い方であった。

私は彼を見つめた。

「理由を聞いてもいいかな」

だが少年は、わずかに視線を伏せただけで、すぐに首を横に振った。

「……お話しすることは、できません」

その答えには曖昧さはなかった。むしろ、どこか既に決められていることを繰り返しているような、奇妙な静けさがあった。

短い沈黙が二人の間に落ちる。

私は結局、小さく息をついた。

「わかった。その言葉は覚えておこう」

少年は、ほっとしたようにも見える、ごくかすかな変化を顔に浮かべた。

「……ありがとうございます」

それだけ言うと、軽く会釈し、静かに踵を返す。

扉は音を立てることなく閉じられ、再び室内にはもとの静けさが戻った。

私はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて椅子に腰を下ろし、無意識のうちに先ほどの言葉を反芻していた。

――メアリー・ウィルキンズ。

その依頼は、必ず受けてください。

奇妙なことに、その言葉だけが、はっきりと耳に残って離れない。

そしてそのときの私は、

この何気ない訪問が、後に思いもよらぬ形で意味を持つことになるなどとは、考えもしなかったのである。


ワトソン(手記):

あの少年が去ったのち、私はしばらく新聞を広げたまま、同じ頁を眺め続けていた。

内容はほとんど頭に入ってこない。

――メアリー・ウィルキンズ。

その名と、簡素な伝言が、妙にはっきりと意識に残っていたのである。

やがて私は新聞をたたみ、机の上に置いた。なぜか落ち着かぬ気分で、無意識のうちに時間を気にしている自分に気づく。

どれほど経っただろうか。

再び、扉がノックされた。

先刻よりも、わずかにしっかりとした調子であった。

「どうぞ」

私が応じると、今度はためらいなく扉が開いた。

入ってきたのは、一人の女性であった。

年の頃は二十くらいであろう。落ち着いた色合いの外套を羽織り、身なりは質素だがきちんとしている。しかし、その顔色はやや青白く、長く緊張を強いられている様子が見て取れた。

彼女は室内へ数歩進み、軽く一礼する。

「突然のお訪ねをお許しください」

落ち着いた声であったが、その底にはかすかな疲労が滲んでいた。

「私は、メアリー・ウィルキンズと申します」

その名を聞いた瞬間、私は思わず彼女を見返した。

やはり――先ほどの少年の言葉どおりである。

「ウィルキンズ……」

私はゆっくりと言葉を選んだ。

「ちょうど先ほど、君のことを知らせに来た者があってね」

メアリーの表情に、かすかな変化が走った。

驚き――というよりも、何かを探るような色であった。

「……知らせに、ですか」

「ああ。君がここへ来るだろうと。そして、その依頼は必ず受けてほしい、と」

その言葉を聞くと、彼女は一瞬だけ視線を伏せた。

すぐに顔を上げたが、その間に何かを飲み込んだようにも見えた。

「……そうですか」

短い返答だった。

私は続けた。

「差し支えなければ、その人物について思い当たることは?」

しかしメアリーは、わずかに首を横に振った。

「いいえ……どなたのことかは存じません」

その言い方には不自然さはなかった。だが同時に、話題を深くは広げたくない意思も感じられた。

私はそれ以上は追及せず、椅子を示した。

「では、改めて用件をうかがおう。どうぞおかけください」

彼女は静かに腰を下ろした。その動作は落ち着いているものの、どこか気を張りつめているようでもある。

しばしの沈黙ののち、彼女はまっすぐに私を見た。

「お引き受けいただけますでしょうか」

それは問いというより、すでに覚悟を決めた者の声音であった。

私はうなずいた。

「ええ。事情を伺ったうえでにはなるが、できる限り力になろう」

その言葉に、彼女はわずかに肩の力を抜いたように見えた。

そして、はっきりとした声で言う。

「ありがとうございます、ドクター・ワトソン」

そのとき私は、不意に思い出していた。

あの少年もまた、ほとんど同じ調子で――

「お願いします」と言ったことを。

だが、その一致の意味を、このとき深く考えることはなかったのである。



ワトソン(手記):

「では――事情をお話しいたします」

メアリー・ウィルキンズは、そう言って静かに姿勢を正した。

その様子には、単なる依頼人以上の覚悟が感じられた。

「私には2つ上の兄がおります――トマス・ウィルキンズと申します 皆からはトミーと呼ばれておりました。」

私は軽くうなずいた。

「トミーは、十年前に突然姿を消しました」

彼女の声は落ち着いていたが、その一言の裏にある歳月の重みは明らかであった。

「当時、どのような状況で?」

「学校の帰りです」

私は顔を上げる。

「学校、というと?」

「はい。トミーは当時、近くの学校へ通っておりました」

メアリーは淡々と続ける。

「その日も普段どおり登校し、授業にも出ていたことが確認されています。しかし――帰宅することはありませんでした」

「通学路は決まっていたのかね」

「ええ。屋敷へ戻るまでの道はいつも同じでした。大きく外れる理由など、まったく」

私は静かにうなずいた。

「つまり、日常の中で忽然と消えたわけだ」

「……はい」

彼女は小さく答えた。

「捜索は行われましたが、何ひとつ手がかりは見つからず……やがて失踪として扱われるようになりました」

短い沈黙が落ちる。

私は続けた。

「それでもなお、今になって探そうとするのは――」

メアリーは、その言葉を受けてゆっくりと顔を上げた。

「両親が、相次いで亡くなりました」

私は静かにうなずいた。

「その後、遺産の整理を進めることになったのですが……問題が生じたのです」

「相続か」

「はい」

彼女ははっきりと答えた。

「父は遺言を残しておりました」

私は身を乗り出す。

「どのような内容だね」

「ウィルキンズ家の遺産、および家名は――家の印章を所持する者に継承される、というものです」

私はわずかに眉を上げた。

「印章、つまり――」

「シグネットリングです」

彼女はそう言って、小さく息を整えた。

「ウィルキンズ家の紋が刻まれた指輪で、正式な印として使われるものです」

「なるほど……」

私はゆっくりとうなずく。

「その指輪を持つ者が、正統な継承者となる」

「はい。そして――その指輪を、トミーが預かっておりました」

しばし言葉が途切れる。

その意味は、明白であった。

「つまり、君の兄は――」

「はい」

メアリーは静かにうなずいた。

「トミーとともに、指輪も失われたままなのです」

私は腕を組んだ。

「それでは相続は動かん」

「ええ……」

彼女の声はわずかに低くなった。

「生死が不明のままでは、誰にも継承権を確定できません」

「法的にも処理できない状態だな」

「その通りです」

そして彼女は、ほんのわずか躊躇したのち、続けた。

「ですが――この状況をよく思わない者がおります」

私は視線を上げる。

「叔父です」

「エドマンド・ウィルキンズと申します」

その名には、わずかな硬さがあった。

「叔父は、トミーはもう戻らないと……繰り返しております」

「根拠は?」

「ございません。ただ――」

彼女は一瞬言葉を切った。

「あまりにも確信したように申すのです」

私はしばし沈黙した。

「そして、死亡として処理するよう求めている」

「ええ。その方が“現実的”だと」

メアリーは静かに言う。

「ですがその間にも、屋敷の周囲に不審な気配があったり、扉に細工がされていたり……」

私はわずかに身を乗り出した。

「閉じ込めるような?」

「……そのように思われます」

彼女は答えた。

「弟もおりますので」

「弟?」

「ジミー――ジェームズです。」

私はうなずいた。

状況は明確になりつつあった。

「つまり君は――」

ゆっくりと言葉を整える。

「トミーの所在、あるいは生死を明らかにしたい。

そして、その指輪の行方を確定させたい」

「はい」

今度は迷いのない答えだった。

彼女は、まっすぐに私を見た。

「兄がどこにいるのか――それさえわかれば、すべて終わるはずなのです」

その言葉には、不思議な響きがあった。

“終わる”――何が、どう終わるのか。

私はそれを深くは追わず、静かにうなずいた。

「承知しました、ミス・ウィルキンズ」

そしてはっきりと告げる。

「この依頼、引き受けましょう」

その瞬間、彼女の表情から、張りつめていたものがわずかにほどけた。

「ありがとうございます、ドクター……」

深く頭を下げるその姿を見ながら、私はふと朝の出来事を思い出していた。

――名も名乗らなかった、あの少年。

ただ一つ奇妙な点がある。

彼は、何かを“探してほしい”とは言わなかった。

ただ――

「受けてください」と、それだけを告げに来たのである。

まるで、この依頼の行きつく先を、すでに知っているかのように。


ワトソン(手記):

メアリー・ウィルキンズから聞いた通学路を頼りに、私は彼女の兄――トミーがかつて通っていた学校の付近を訪れていた。

しかし、現地に立ってすぐに感じたのは、十年という歳月の重みであった。

通りの様相は大きく変わっている。

かつての店舗は姿を消し、新しい建物が並び、石畳の一部すら張り替えられているように見える。道筋そのものは変わっていないはずであるのに、ここが当時と同じ場所であると確信するには、いささか想像力を要するほどであった。

これでは、記憶を頼りに何かを見つけ出すのは容易ではない。

私は近くの店に立ち寄り、当時のことを覚えている者がいないかと尋ねて回った。

しかし――

「十年前……? さあなあ、この辺もずいぶん変わってしまってね」

「そんな昔の子供の話は、ちょっと……」

誰からも決定的な証言は得られなかった。

無理もない。街そのものが変わってしまっている以上、人の記憶だけが正確に残っているはずもないのである。

私はひとまず聞き込みを切り上げ、通りの片隅で立ち止まった。

――学校帰り。

――決まった道。

そのはずなのに、今やその“道”自体が曖昧なものになりつつある。

私は周囲を見渡しながら、かすかな手がかりでもないかと目を凝らした。

そのときである。

通りの少し外れた場所、建物の影になるあたりに、人影があるのに気づいた。

ひとりの少年であった。

年の頃は十三か十四。先ほどの街並みの変化とは対照的に、妙に変わらぬ印象を受ける存在である。

私は歩み寄った。

「……君か」

少年は静かにこちらを見た。驚いた様子はない。

まるで最初から、そこに立っていることが当然であるかのようであった。

「この近くに住んでいるのかね」

軽く尋ねると、少年は曖昧に首を動かした。

答えとも否定ともつかない仕草である。

私は少し考え、別の問いを口にした。

「……もしかして、君はジミーなのかい?」

なぜその名を口にしたのか、自分でもはっきりとは分からない。

ただ、どこかでつながるものを感じたのである。

しかし少年は、ほんのわずか視線を逸らしただけだった。

「……さあ、どうでしょう」

曖昧な返答であった。

それ以上踏み込むことを拒むようでもあり、しかし完全に閉ざしているわけでもない。

奇妙な距離感である。

私はそれ以上追及せず、問いを変えようとした。

だが、その前に少年が口を開いた。

「……ありがとうございました」

思いがけぬ言葉であった。

「何のことだね?」

少年は、穏やかな調子で言った。

「依頼を、引き受けてくださって」

私はその場でわずかに言葉を失った。

「それは……誰から聞いた?」

問いかけても、少年はすぐには答えなかった。

ただ、こちらをまっすぐに見ている。

やがて、小さくうなずく。

「……きっと、見つかります」

その言葉は短かったが、不思議と確信に満ちていた。

私はさらに声をかけようとした。

「待ちたまえ――」

しかし、次に目を上げたときには、少年の姿はすでに見えなかった。

通りにはただ、行き交う人々の流れがあるだけである。

私はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて静かに息を吐いた。

――奇妙だ。

街は変わっている。

人々の記憶も薄れている。

それにもかかわらず、ただ一つ――

あの少年だけが、まるで時間から切り離されたかのように、そこに存在していた。

そして何よりも――

「依頼を引き受けてくれてありがとう」

その言葉だけが、妙にはっきりと耳に残っている。

私はゆっくりと歩き出した。

どうやらこの事件は、単に“失われた過去”を追うものではないらしい。

むしろ――

過去の方が、こちらへ歩み寄ってきているように感じられたのである。


ワトソン(手記):

私は通学路をあとにし、メアリーに予め聞いていた住所の屋敷へと向かった。

周囲からやや引いた位置に建つ家は、かつては相応の威容を誇っていたのであろうが、現在ではどこか手入れの行き届かぬ印象を受ける。庭木も伸び放題で、全体にわずかな荒廃の気配が漂っていた。

応対に出た使用人に導かれ、我々は応接間へ通された。

間もなく、一人の男が入ってくる。

年の頃は五十前後。痩せた体つきで、髪はきれいに整えられているが、その目つきにはどこか計算高さのようなものが宿っていた。

「――失礼」

男は軽く会釈しただけで、椅子に腰を下ろした。

「エドマンド・ウィルキンズだ」

挨拶はそれだけであった。

私は名乗り返し、彼の様子を観察した。

態度そのものは穏やかである。声も決して荒々しくはない。

だが――妙に温度が感じられない。

「ドクター・ワトソンと申します。今回、ミス・ウィルキンズからご相談を受けまして」

「……聞いている」

エドマンドは短く答えた。

横にいるメアリーに一瞥をくれるが、その視線には親族としての情のようなものはほとんど感じられない。

「トマスの件であろう」

「ええ」

私はうなずいた。

「十年前の失踪について、改めてお話を伺えればと」

エドマンドはわずかに背もたれにもたれ、指を組んだ。

「今さら蒸し返すような話でもあるまい」

その口調は落ち着いていたが、明確な拒否の色が滲んでいた。

「十年だ、ドクター。子供が一人消えて、そのまま何の痕跡もない――」

一瞬だけ言葉を切る。

「結論は、誰の目にも明らかだ」

私は静かに問い返した。

「つまり、すでに亡くなっていると?」

「そう考えるのが合理的だ」

即答であった。

メアリーがわずかに身じろぎするのが分かる。

私は視線を外さず、続けた。

「しかし証拠は?」

「必要かね」

エドマンドは、初めてわずかに口元を歪めた。

「法というものは、一定の期間をもって事実を推定するものだ。感情ではなく、現実に基づいて動くべきだろう」

その言い方は理屈としては正しい。

だが――

「失踪当時の状況について、何か特筆すべきことは?」

私の問いに対し、彼は肩をすくめた。

「特にない。学校の帰りに姿を消した。それだけの話だ」

「周辺の調査は?」

「十分に行われた。何も出なかった」

あまりにも簡潔である。

「通学路の近くに池があると聞きましたが――」

その言葉を出した瞬間、エドマンドの視線がわずかに鋭くなった。

ほんの一瞬の変化であったが、私はそれを見逃さなかった。

「……古い池だ」

彼はすぐに平静を取り戻して言った。

「だが、あそこは何度も調べられている。今さら掘り返す価値はない」

その言い方には、わずかな強さがあった。

否定するというより――

触れさせたくない、それに近い。

私は話題を変えた。

「相続の件についても伺いたい」

「必要なことはすべて説明済みだ」

エドマンドはわずかに苛立ったように言った。

「印章がなければ手続きは進まん。だからこそ、現状のままでは停滞している」

「そして、死亡として処理することを提案している」

「提案ではない。現実的な判断だ」

その声音はわずかに強くなった。

「いつまでも存在しない者を前提にしていては、何も始まらん。これは合理の問題だ」

メアリーが小さく息をのむ。

私はゆっくりとうなずいた。

「理解はできます。しかし――」

言葉を選ぶ。

「結論を急ぎすぎているようにも見える」

エドマンドは、しばし無言でこちらを見た。

やがて、低く言う。

「ドクター、あなたは医者だろう」

「ええ」

「ならば、命というものがいつまで保たれるか、よくご存じのはずだ」

その言い方には、妙な確信があった。

「……十年だ」

静かに、しかしはっきりと。

「生きている方が不自然だ」

それは理屈としては否定できない。

だが、その“言い切り”に、私は何かしらの違和感を覚えていた。

偶然では説明のつかない種類の、確信――。

私はそれ以上は踏み込まず、軽く一礼した。

「本日はありがとうございました」

エドマンドは立ち上がることなく、わずかにうなずいただけであった。

部屋を出る際、私は一度だけ振り返った。

彼は相変わらず同じ姿勢で、微動だにしていない。

まるで――

すでに結論の決まっている事柄に、これ以上関わるつもりはないとでも言わんばかりに。

私は廊下へ出て、静かに息を吐いた。

あの男の言葉は、ことごとく理にかなっている。

だが――

理にかなっているがゆえに、逆に不自然である

その感覚を、私はまだ言葉にすることができずにいたのである。



ワトソン(手記):

ベーカー街へ戻ったのは、日が傾き始めた頃であった。

私はドアを開けた途端、見慣れた長身の影が暖炉の前に立っているのを認めた。

「やあ、ワトソン。ちょうどいいところに帰ってきた」

ホームズは振り返りもせず、そう言った。

「君がいない間に、ひと仕事片づけてきたところだ」

「珍しいじゃないか。報告もせずに出かけたかと思えば、もう解決とは」

私は外套を脱ぎながら応じた。

「その様子だと、またずいぶん手際が良かったようだな」

「手際というより、明白すぎたのだよ」

ホームズはようやくこちらを見て、かすかに肩をすくめた。

「一応、現場は地上3階の密室だったが、到着した瞬間に犯人は分かってしまった」

「ほう?」

私は椅子に腰を下ろした。

「犯人は漁師だ」

あまりにもあっさりした断言であった。

「……漁師?」

「まったくその通り。そして関係者の中に該当する人物は一人しかいなかった。だから捕まえるのも実に簡単だった」

「説明を聞こうじゃないか」

「簡単なことだ」

ホームズは煙草に火をつけながら言った。

「現場の扉のノブが、内側からロープで固定されていたのだよ。しかもその結び方が、典型的な漁師のものだった」

「結び方だけで?」

「それだけではない」

煙を細く吐き出す。

「窓の縁に、フックのような金具を引っかけた新しい傷があった。恐らくこの金具を使って窓から出たんだろう。傷の形状から見も、この金具も漁師のものだ」

「さらに被害者は胸を鋭利な突起で一撃されていた。あれは銛だ。あの形状、刺し方――少なくとも陸の人間の扱う代物ではない」

私は腕を組んだ。

「なるほど……結び目と窓枠の傷、そして凶器。この三つの証拠からか」

「その通り。あとは関係者を見渡せばいい。手の荒れ方、匂い、装い――漁師というものは、いくら取り繕っても消しきれぬ痕跡を身にまとうものだ」

その言いようは相変わらず容赦がない。

「ではヤードも納得しただろう?」

私がそう言うと、ホームズは露骨に顔をしかめた。

「それがそうでもない」

「なに?」

「彼らは“報告書”なるものを作らねばならんのだがね」

彼は苛立たしげに灰を落とした。

「私が結論だけを述べてしまったせいで、どう書いてよいかわからんらしい」

思わず私は笑ってしまった。

「それは気の毒だな。つまり、君の推理があまりに早すぎたわけか」

「まさにその通りだ」

ホームズは不機嫌そうに腕を組む。

「つい先ほど、わざわざ呼び出しの使いが来た。“なぜ漁師だと断定したのか、順を追って説明してほしい”だとさ」

「それは正当な要求じゃないか」

「正当? 実に非効率的だよ」

彼は立ち上がり、部屋を歩き始めた。

「あれほど明白な事実を、わざわざ言葉に分解して伝えねばならんとは……」

「君にとっては明白でも、他の者にはそうではないさ」

私が穏やかに言うと、ホームズはちらりとこちらを見た。

「……どうやら、しばらくはスコットランドヤードに缶詰にされることになりそうだ」

その声音には、露骨な不満が滲んでいる。

「君のためにもなるだろう。たまには人に説明する訓練も必要だ」

「まっぴらだね」

即答であった。

私は肩をすくめ、机の上に置かれていた書類を手に取った。

「その間はこちらで調査を進めておこう。メアリー・ウィルキンズの件だが――」

その名を口にした瞬間、ホームズの目が鋭く光った。

「ほう、その話は帰ってからじっくり聞かせてもらうつもりだった」

彼は煙草を消し、帽子を取り上げる。

「だがその前に、忌まわしい報告書とやらを片づけねばならんらしい」

扉へ向かいながら、一言付け加えた。

「――ワトソン。その事件には、少々面白い匂いがする」

「というと?」

私は問いかけたが、ホームズは振り返らなかった。

「帰ってきてから話そう」

そう言い残し、彼は足早に部屋を出ていった。

私はその背を見送りながら、ふと朝の出来事を思い出していた。

――名も名乗らなかった、あの少年。

メアリーの依頼。

そして、今のホームズの言葉。

それらがどこかで結びついているような気がしてならなかったが、

その時の私は、まだその形を掴むことができずにいたのである。


ワトソン(手記):

その日の夕刻、私は再び通学路に立っていた。

昼間とは打って変わって、人通りはまばらである。家々の窓には灯がともり始めているが、この道の先――例の池のある方角だけは、奇妙なほど暗く沈んで見えた。

――十年、変わらない場所。

その考えに導かれるように、私はひとりでそちらへと歩みを進めた。

やがて林に差しかかる。

木々は長年人の手が入っていないらしく、枝は低く垂れ、足元は落ち葉と湿った土で覆われていた。踏みしめるたびに、わずかに沈み込むような感触がある。

空気もまた変わっていた。

町の中にあったはずの音が、ここには届かない。

ただ、風に揺れる枝葉の擦れる音と、ときおり水面を打つ微かな気配だけがある。

ほどなくして、視界が開けた。

そこに――人工池があった。

古びた石の縁に囲まれた水面は、ほとんど波立つことなく、鈍く空を映している。水は濁り、底の様子はうかがえない。

私はしばらく、その場に立ち尽くした。

奇妙な感覚であった。

この場所だけが、時間から切り離されているように感じられる。

――ここだ。

そう思ったのは、論理の結果であったはずなのに、同時にどこか別の確信にも近かった。

私は池の縁を回るようにして歩き始めた。

草は腰の高さまで伸び、足を取られる。衣服に触れる葉の音が、やけに大きく聞こえる。

やがて、池の反対側へと差しかかった。

そのときである。

ふと、人影が目に入った。

――少年だ。

藪の前に、じっと立っている。

夕暮れの薄い光の中で、その姿はぼんやりと浮かび上がって見えた。

「……君か」

私は声をかけた。

だが少年は答えない。

ただ、まっすぐに――一つの方向を見つめている。

その視線の先。

私は無意識にそちらへと目を向けた。

藪である。

特に変わった様子はない。ただ密に茂っているだけの、ありふれた藪だ。

再び少年を見る。

彼は動かない。ただ、その一点だけを見ている。

「……あそこに、何かあるのか」

問いかけたつもりはなかった。しかし口から言葉がこぼれていた。

少年はわずかに首を動かした――頷いたようにも見える。

私はゆっくりと藪の方へ歩み寄った。

足元の枝が折れる音がやけに響く。手を伸ばし、絡み合う枝葉をかき分ける。

思った以上に奥行きがある。

さらに一歩踏み込む。

すると、突然、視界が開けた。

――空間がある。

私は思わず息を止めた。

そこは、外からは完全に覆い隠された小さな窪地であった。

そしてその奥に――

低く口を開けた、暗い穴がある。

「……洞窟……」

自然にできたものというより、削られたような痕跡が見える。だが長年放置されていたのか、入口は半ば土と草に覆われている。

私は振り返った。

だが、先ほどまでそこにいたはずの少年の姿は、もう見えなかった。

ただ、池の水面だけが静かに広がっている。

私は再び前へ向き直る。

洞窟の中は暗い。奥はまったく見通せない。

――ここだ。

なぜか、はっきりとそう思えた。


私は躊躇なく踏み込んだ――と言いたいところだが、実際にはそうではなかった。

洞窟の入口に立ったとき、言いようのないためらいが胸に生じたのである。

空気が違う。

外の湿った空気に比べ、ここはひどく重く、閉ざされている。長い年月、一度もかき乱されたことのない空間特有の、淀んだ静けさがあった。

私は懐中時計の鎖に触れ、それが確かに自分の手の中にあることを確かめてから、一歩を踏み出した。

足音が、くぐもった音となって足元に沈む。

内部は思ったよりも狭い。立ったまま歩けはするが、頭上は低く、ところどころ岩肌が迫っている。壁面には湿り気があり、指先で触れればひやりとした感触が伝わってくる。

さらに奥へ進む。

光は入口から斜めに差し込むのみで、数歩も進めば急激に薄れる。視界は灰色に沈み、輪郭の曖昧な世界へと変わっていく。

そのときである。

――水滴の音。

どこかで、ぽつり、と落ちた。

天井からか、それとも壁面からかはわからない。ただ、その音は妙に大きく、耳に残った。

私は足を止めた。

自分の呼吸の音さえ、普段より強く感じられる。

――誰かいるのではないか。

そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎる。

私はすぐに首を振った。

馬鹿なことだ。ここには誰もいるはずがない。

再び歩き出す。

しかし、数歩進んだところで、ふと気づいた。

――匂いである。

土と、水と、腐敗に近い、わずかな異臭。

強烈ではない。むしろ長く蓄積された、ごく薄い気配のようなものだ。

だが、それが存在するという事実だけで、この場所の性質は明らかであった。

「……自然の空洞ではないな」

私は低く呟いた。

人の手が入ったか、あるいは何かが長く留まっていた場所。

その両方である可能性もある。

さらに奥へと進む。

やがて空間がわずかに広がった。

入口から完全に死角になる位置――外からは決して見えない場所である。

その中央に、黒ずんだ土の盛り上がりのようなものがあった。

私はゆっくりと近づいた。

そして、その正体を見た瞬間、足が自然と止まった。

――骨だ。

最初に認識したのは、それだけであった。

白く乾いた、細長いもの。

視線を動かす。

それが一本ではないことがわかる。

さらに、その配置が偶然ではないことにも気づく。

……整っている。

いや、整っていたものが、長い年月の中で静かに崩れた状態である。

私はゆっくりと屈み込み、視線を下げた。

頭蓋の輪郭が、土の中からわずかに覗いている。

空洞となった眼窩が、こちらを見上げているような錯覚を覚えた。

私は無意識に息を止めていた。

ここには、音がない。

先ほどまで耳にしていた水滴の響きすら、今は途絶えている。

時間そのものが、この場所だけで停止しているかのようであった。

私は、その場に残された“最後”を見ていたのである。

やがて、震えを抑えるようにして、私は手を伸ばした。

――観察しなければならない。

医師としての習性が、恐れを押し退けて前に出る。

だが、その理性の奥で、別の感覚が確かに囁いていた。

……ここへ来ることを、知っていた者がいる。

視界の外に、かすかな気配を覚えた。

振り向きかけて、私は踏みとどまる。

見なくてもわかっている。

――誰もいない。

それでもなお、“何かがそこにあった”という確信だけが消えずに残っていた。

私はゆっくりと顔を戻し、遺骨へと意識を集中させた。

「……子供だ」

思わず口から言葉が漏れた。

骨格の大きさ、長骨の発達の程度――いずれを見ても、成長途中であったことは明らかである。

私は泥を丁寧に払いながら、骨格の配置を慎重に確認した。

長年月水中にあったにもかかわらず、骨の位置関係は大きく乱れてはいない。激しい流水に運ばれた形跡は認められず、遺体はほぼこの場所で崩壊したものと見てよい。

膝をつき、さらに観察を進める。

骨端線の状態から判断して、年齢はおよそ十三前後――メアリーの証言と一致する。

私は次に、頭部へと注意を向けた。

頭蓋骨――とりわけ後頭部から右即骸骨にかけて、不自然な陥没が確認できる。

指先で慎重にその部分をなぞる。

「……これは、生理的な崩壊ではない」

低く言葉がこぼれた。

「強い衝撃が……頭部に加えられている」

私は静かに結論づけた。

これは偶発的な転倒では説明できない。

むしろ――

「後ろから棒状の凶器で強く衝撃を受けている――」

私は周囲に向けるでもなく、淡々と続けた。

「撲殺――あるいはそれに類する暴力があったと考えるべきだ」

さらに肋骨に目を向ける。

数本にわずかな歪みが見られる。死後の圧力による変形とも考えられるが、その一部は生前に受けた衝撃を示している可能性があった。

私はゆっくりと息を吐いた。

「少なくとも――」

わずかに言葉を区切る。

「この遺体は、単なる事故によるものではない」

洞窟の空気が、わずかに重くなったような気がした。

そして、そのときになって初めて、私は気づいたのである。

骨の胸元――土に半ば埋もれた位置に、わずかな光を反射するものがあることに。


ワトソン(手記):

洞窟の外へ出たときには、夕闇はすでに濃くなり始めていた。

私は一度だけ振り返り、藪の奥に隠れたその場所を見つめた。

――ここで、すべてが終わっていた。

いや、正確には。

ここで、ようやく終わるのだ。

そう思いながら池の縁を回り、元の通路へと戻ろうとしたそのときである。

「……やはり、そこだったか」

背後から、聞き慣れた声がした。

私は即座に振り返った。

「ホームズ!」

林の入口のあたりに、長身の影が立っている。

いつの間に来たのか、その姿はあまりにも自然にそこにあった。

彼はゆっくりと歩み寄り、私の顔を一瞥した。

「顔色が優れんな、ワトソン」

「……当然だろう」

私は苦笑した。

「見つけてしまったのだよ」

ホームズは軽くうなずいた。

「そのようだ。ここへ来る途中で、君の足取りが妙にまっすぐだったのでね」

「足取り?」

「通学路を辿り、変化の少ない地点に絞ったのだろう。非常に合理的な判断だ」

その口調には、わずかな賞賛が含まれていた。

私は一瞬言葉を探したが、やがてこう答えた。

「……そう思いたいところだな」

ホームズはそれ以上は問わなかった。

ただ、洞窟の方へ視線を向ける。

「中だね?」

「遺骨がある」

私は短く答えた。

「そして――指輪も」

その一言に、ホームズの目がかすかに鋭くなる。

「なるほど」

彼はゆっくりとうなずいた。

「すべてが揃ったわけだ」

「医学的にも、事故では説明がつかない」

私は続けた。

「頭部に明確な外力の痕跡がある。殺害と見てよい」

ホームズはわずかに顎に手を当てた。

「それで十分だ」

静かに言う。

「これで“何が起こったか”は説明できる」

ひと呼吸置いて、付け加える。

「“誰が”についてもね」

私は彼の顔を見た。

「叔父か」

「エドマンド・ウィルキンズ」

ホームズは淡々と答えた。

「動機、状況、そして結果――いずれも一致している」

「だが証拠はない」

「その通り」

あっさりとした返答であった。

しばし沈黙。

風が枝を揺らし、池の水面がわずかに波打つ。

ホームズはふと視線を横にやった。

「……ところで」

「何だ?」

「君は、ここへどうやって辿り着いた?」

その問いに、私は一瞬答えに詰まった。

「通学路の構造から推論した」

私はそう言った。

「十年間見つからなかったのであれば、逆に人の手が入っていない場所にあるはずだと考えたのだ」

ホームズはゆっくりとうなずいた。

「論理としては妥当だ」

それだけを言う。

だが私は、その先に言葉を続けた。

「……ただし」

「?」

「その途中で、あの少年に会った」

ホームズの視線が、わずかにこちらへ戻る。

「少年?」

「ああ。最初にベーカー街へ来た……あの少年だ」

私は洞窟の方を見た。

「彼が、この場所を示した」

しばし、沈黙。

やがてホームズは、ゆっくりと口を開いた。

「そうか」

それだけであった。

否定も、驚きもない。

私は思わず問い返した。

「君は……どう思う?」

ホームズは答えなかった。

ただ、洞窟の入口を見つめている。

そして、静かに言った。

「説明できる部分は、すべて説明できる」

一拍置く。

「だが――それ以外について、私は何も言わん」

その態度は、奇妙なほど明確であった。

私はふと、先ほどまでの感覚を思い出していた。

あの場所へ向かう道筋。

立っていた少年。

何も言わずに示された方向。

「……そうか」

私は小さくうなずいた。

ホームズは帽子を軽く整えた。

「さて、戻ろう」

「もうか?」

「エドマンド氏が待っているだろう」

彼は淡々と言った。

「彼の“説明”も聞いておく必要がある」

私は最後にもう一度だけ、洞窟の方を見た。

そこには、もはや何もない。

――いや。

何も“見えない”だけである。

私はそれ以上考えることをやめ、ホームズの後に続いた。

こうして我々は、あの男と対峙することになったのである。


ワトソン(手記):

我々が屋敷へ戻ったとき、エドマンド・ウィルキンズはすでに応接間にいた。

まるで、我々の帰還を予期していたかのように。

「……遅かったな」

彼は椅子に腰を下ろしたまま、静かに言った。

その声音には焦りはない。ただ、わずかな不快の色だけが混じっている。

私は一歩前に出た。

「池の奥で、遺体が発見されました」

その一言に対し、エドマンドの表情はほとんど変わらなかった。

「そうか」

ただそれだけである。

だが――

ほんの一瞬、目の奥に走ったものを、私は見逃さなかった。

「年齢は、十三前後。失踪当時と一致します」

私は続けた。

「そして――頭に明確な外力の痕跡がありました」

部屋の空気がわずかに張り詰める。

「事故ではありません」

静かに言う。

「他者による加害があったと判断されます」

エドマンドは、ゆっくりと脚を組み替えた。

「……なるほど」

その態度はあくまで平静であった。

「で、それが何を意味する」

その言い方は、まるで他人事である。

私は一瞬言葉を選び、そしてはっきりと言った。

「さらに重要なものが発見されています」

懐から布に包んだものを取り出し、机の上に置く。

静かに布を開いた。

そこにあったのは、小さな指輪である。

光を受けて、刻まれた紋章が浮かび上がる。

「ウィルキンズ家のシグネットリングです」

メアリーが息を呑む音が聞こえた。

エドマンドは、その指輪を見た。

その瞬間――ほんのわずかだが、

初めて明確に、表情が崩れた。

「……そうか」

低く、押し殺した声である。

部屋に沈黙が落ちる。

そのとき、ホームズが口を開いた。

彼は暖炉の前に寄りかかったまま、淡々とした調子で言った。

「奇妙な点がいくつかある」

エドマンドはゆっくりと視線を向ける。

「ほう」

「あなたは言ったな――“もう戻らない”と」

「一般論だ」

「その通りだ。論理としては正しい」

ホームズは軽くうなずいた。

「だが一つだけ、説明のつかぬ点がある」

「何だね」

ホームズは机上の指輪を指先で示した。

「あなたの目的は、これだったはずだ」

沈黙。

「遺言の条件からして明白だ。これを所持する者が、すべてを継ぐ」

エドマンドは何も答えない。

「だが――」

ホームズの声が、わずかに低くなる。

「それは遺体とともに発見された」

静かに言葉を置く。

「つまり、あなたはこれを手に入れられていない」

その一言が、部屋の空気を変えた。

エドマンドの視線がわずかに揺れる。

「……結論を急ぎすぎではないか」

かすかに反論する。

だが、その調子はわずかに鈍っている。

ホームズは続けた。

「十年前、少年を襲った」

「しかしその場では死を確認できなかった」

「だからこそ指輪も奪えなかった」

――沈黙。

「少年は逃げた」

「そして――」

ホームズは一瞬言葉を切り、

「池の奥で力尽きた」

それ以上は言わなかった。

誰も動かない。

エドマンドは椅子に座ったまま、微動だにしない。

やがて、ゆっくりと口を開いた。

「……証拠は?」

その問いは、かすかに擦れていた。

ホームズは肩をすくめた。

「ない」

あまりにもあっさりとした回答であった。

「少なくとも、あなたを法廷に立たせるには足りん」

静かに続ける。

「だが――」

わずかに視線を上げる。

「状況はすべて、それを示している」

長い沈黙が続いた。

やがてエドマンドは、小さく息を吐いた。

「……十年だ」

ぽつりと言う。

「子供だった」

その言葉には、後悔とも、正当化ともつかぬ響きがあった。

だがそれ以上は語らない。

ホームズもまた、それ以上追及することはなかった。

「これで相続の問題は解決する」

ただそう言った。

私は黙って指輪を見た。

それは小さく、しかし確かな重みを持ってそこにあった。


ワトソン(手記):

事件がひと通りの決着を見てから、幾日かが過ぎた。

ベーカー街二二一番地Bの居間には、久しぶりに穏やかな時間が戻っていた。暖炉の火は静かに燃え、ホームズは長椅子に身を横たえ、例のごとく無造作に散らばった書類の中から何かを拾い読みしている。

私は向かいの椅子に腰を下ろし、新聞を広げていた。

「退屈だな、ワトソン」

不意にホームズが言った。

「君の言う“退屈”という言葉ほど、信用ならないものはないな」

私は苦笑しながら答えた。

そのとき、階下で扉の開く音がし、やがて規則正しい足音が階段を上ってくる。

数秒ののち、ミセス・ハドソンが姿を現した。

「お手紙です、ドクター」

差し出された封書を受け取り、表を見る。

見慣れた筆跡――メアリー・ウィルキンズからのものであった。

「ほう」

ホームズが興味深げにこちらを見た。

私は封を切り、静かに読み始めた。


私はゆっくりと読み上げた。

「……兄は、無事に葬ることができました。ささやかではありますが、家の墓所にて、家族として迎えることができたことを、何よりも安堵しております――」

私は一度言葉を止め、続ける。

「弟のジミーも、この春より学校へ通うこととなりました。まだ幼くはありますが、ようやく落ち着きを取り戻しつつあります」

ホームズは何も言わず、ただ目を閉じて聞いている。

私はさらに読み進めた。

「叔父――エドマンドのことですが……あれ以来、夜ごと眠りを乱し、うなされるようになりました」

私はほんのわずかに声を落とした。

「もともと心臓が弱かったこともあり、つい先日、寝所にて息を引き取っているのが見つかりました」

短い沈黙が落ちる。

私は最後の部分へと目を移した。

「これからは私が家を継ぎ、責任を果たしてゆく覚悟です。まだ未熟ではありますが、兄の分まで――」

そこで一度、呼吸を整える。

「このたびは多大なるご尽力を賜り、心より御礼申し上げます。謝礼につきましては別途お届けいたしますが、まずは書中をもって御礼申し上げます――メアリー・ウィルキンズ」

私は手紙を静かに折りたたみ、机の上に置いた。

しばらく、二人の間に沈黙が流れる。

暖炉の火が、かすかに音を立てた。

やがてホームズが、目を閉じたまま言った。

「すべて、筋は通ったな」

その声音は、いつもの冷静なものに戻っている。

「ええ」

私は小さくうなずいた。

「法も、事実も、すべて決着した」

ホームズはわずかに顔を上げた。

「そして――説明できることもな」

私はふと、あの池と、洞窟の闇を思い出していた。

静まり返った空気。

そして、あの少年の姿。

「……ホームズ」

私は静かに言った。

「君は、あの少年のことをどう思う?」

しばらくの間、彼は答えなかった。

やがて、ゆっくりと目を開ける。

「私はね、ワトソン」

いつもの調子で、しかしわずかに柔らかく言う。

「説明できることしか説明しない主義だ」

そして、ほんのわずか肩をすくめた。

「だが――君の報告を疑う理由もない」

それだけであった。

私はそれ以上何も言わなかった。

手紙の上に視線を落とす。

そこには確かに、すべてが“終わった”ことが記されている。

だが、どうしても一つだけ、心に残るものがあった。

――あの少年は、最後まで、自分の名を名乗ることはなかった。

ただ一度も、

「探してほしい」とは言わず、

ただ――

「受けてほしい」と、それだけを告げに来たのである。

私はゆっくりと顔を上げた。

窓の外では、夕暮れの光がロンドンの街を淡く照らしている。

その中に、ふと――

帽子を手にした小さな影が、立っているような気がした。

だが、それはほんの一瞬のことである。

次に目を凝らしたときには、そこにはもう何もなかった。

私は静かに新聞を取り上げた。

ベーカー街のいつもの日常が、再び戻ってきていたのである。





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