16 喪失(4)
その言葉を聞いたドルチェンは、心の中が清水で満たされるのを感じた。そして、溜まりに溜まった心の澱が、その清水によって綺麗に洗い流されていった。
ドルチェンは、リーユエンを壊れ物を扱うようにそっと抱きしめ、口付けした。
「あなたに、そこまでの覚悟をさせてしまって、本当にすまない。どうか、許してくれ」
リーユエンは潤んだ紫眸でドルチェンを見上げ、
「猊下と私の間柄で、詫びの言葉など不要でございます。猊下のお心から、私が離れることは決してございません。どうか、信じてください」と、ひっそりとささやいた。
ドルチェンの心は完全に満たされ、不安も疑念も執着も鎮まり、ただ暫しの間、リーユエンを愛したいと思った。
その日、数時間の不在と聞き、執務室の前で猊下を待ち受けていた玄武や魔導士、聖職者たちは虚しく待ち続け、結局面会叶わぬまま帰ることとなった。
同日、乾陽大公ダルディンは、巽陰大公カーリヤの屋敷を訪れ、お茶をご馳走になっていた。
蒸し菓子をつまむダルディンへ、カーリヤは
「ミレイナ王女へ早く求婚しなさい」と、いきなり切り出した。
ダルディンは、蒸し菓子をポロッと口からこぼし、それを慌てて懐紙で受け止め、
「いきなり言わないでください」と、文句を言った。
カーリヤは、平然として、
「まだ求婚しないなんて、おまえの常識はどうなっているんだろうね」と、嫌味を言った。けれどダルディンは、
「やめてください。まだ知り合ったばかりなのに、どうしていきなり求婚しろなんて・・・」と、困惑顔になった。カーリヤは金色がかった薄茶色の目を細め、
「ミレイナ王女の方は、明らかにおまえに気があるようだね。この間、都見物へ行った時の様子なら、おまえが求婚しさえすれば、あの王女は受け入れるに違いないよ」と、明け透けに言った。
ダルディンは、困り果て、
「まだ知り合ったばかりなんですってば、王女だって冷静になったら気が変わるかもしれないし・・・」と、言い淀んだ。すると、
「バンッ」カーリヤがいきなりテーブルを叩き、
「おまえっ、自分の立場というものをもう少し理解できないのかね」と、厳しい口調で言った。
ダルディンは体を強張らせ、大伯母を恐ろしげに見て、
「立場とは、どういうことでしょうか。ご教示いただけませんでしょうか」と、恐る恐る尋ねた。
カーリヤは、椅子へ座り直すと、お茶で喉を湿らせ
「今頃、猊下はリーユエンの見舞いに行っている頃だ。多分、あの子は、猊下に、おまえと王女の縁談を認めるよう頼み込んでいるはずだ」と、言った。
そんな事は予想だにしていなかったダルディンには、大伯母が、どうしてそんな事を言い出すのかがまったくわからなかった。その様子を横目で見て、カーリヤは、わざとらしく大きなため息を漏らした。
「ハア〜ッッ、まったくおまえと来たら、お坊ちゃんだねえ。お前の父が死んだ後、ドルチェンがおまえを庇い倒し、面倒ごとはすべて自分が矢面に立って引き受けてきたから、若輩のおまえでも、乾陽大公が務まり、無事に今までやってこられたんだよ。だが、もういい加減自立しなくてはねえ。他の大公とやり合い、乾家の勢力を削がれないよう立ち回る術を、そろそろ身につけるべきだよ」と、諭した。それから、
「冷静に考えてごらん。この間のドルーアの一件、離陰大公は明妃に反感を剥き出しにしていただろう?他の大公だって口にこそしなかったが、心の中では同じような事を考えているんだよ。そして、明妃への反感は、いつ何がきっかけで、猊下への反抗となるかもわからないのだ。それは理解できるだろう?」と、言われ、ダルディンは黙って首肯した。
「そして、あの強烈な反感が生じた原因のひとつが、おまえと明妃の関係だよ。震陽大公がある事ない事、枢密院の会議で毒のように他の大公たちへ吹き込んでしまったために、明妃は、お前にまで手を出した稀代の悪女のように思われてしまったんだ」
カーリヤの容赦のない言葉に、ダルディンは眉尻を下げ、
「そんな、あれはやむを得ずー」と、抗議しかけたが、カーリヤは右手を挙げてそれを制し、分かっているとうなずいて見せ、
「私や坤陰大公はちゃんと分かっているさ。でも、他の大公に、実は、なんて、事情を説明したところで、明妃の印象が良くなる見込みはないんだよ」と、言い聞かせた。




