16 喪失(1)
「主、我は主を守れたのか?」
弱弱しい声が聞こえた。
震える腕で体を支え、リーユエンは背中を起こした。彼女の動きとともに、腐食した外套が、燃え尽きた灰のように崩れ落ち、それと一緒に魔獣も地面へずり落ちた。力無く地面に伏せたその体から、白金に輝き、渦を巻き波打っていた毛並みが、いまや黒ずみ煤けて、抜け落ちて塵となった。体毛がごっそり抜けた跡は、青黒く腐食した皮膚が剥き出しとなり、それすらも灰となって崩れ落ちていく。あまりに凄まじい毒霧の威力だった。
「アスラ・・・」
光を失くした金眸三眼が、力なく彼女を見上げ、
「我は・・・いつだって、主を守ってきた。主は、いつも、我に誠実だったから、我も主を裏切らない。主を守る誓約を、我は果たしたよね」と、訴えた。
リーユエンは、涙が溢れそうな目でアスラを見下ろし、うなずいた。
「そうだ。おまえは、いつも必ず私を守ってくれた」
アスラは、主の言葉を聞くと嬉しくなり、それを自慢したいのに、もう、そんな元気もなかった。弱々しい声のまま、
「これからもずっと守りたかったけれど、我はもうダメだ。主の顔が霞んでよく見えない」
と、話す間にも、毒素に侵され、その体は崩れ続けた。
「アスラ、しっかりしろっ、おまえは魔獣だろう。これしきの事で死ぬはずがないっ」
リーユエンは叫ぶと、激しく咳き込み吐血した。極限まで力を使い果たしたために、また内傷が生じ吐血したのだ。血沫が飛び散り、アスラの全身にかかった。アスラは、笑うように目を細めた。
「誘涎香血か・・・我は、いつだって生気しかもらわなかったが、とうとう血をもらったよ」と、ささやいた。血が触れたところから、突然、金色の粒子が舞い上がり、空中を浮遊し始めた。
「アスラ、どうしたんだ?ずっと私を守ると言っていたじゃないかっ、私を置いていくな」
リーユエンは、泣き声でささやき、魔獣の体に触れようとしたが、手を伸ばしたところも、金色の粒子となって、空中へ舞い上がった。
「さようなら、主、我は最後に毒を綺麗にしていくよ。主が優しくしてくれたから、我は、嬉しかった。そのうえ、主は、我が約束を守ったと認めてくれた。ありがとう、主、これで我は、異界から解放され、上へ昇ることが許された。我は上界へ還るから、悲しまないで・・・」
アスラの声が小さくなり消えていき、その体も全て金色の、輝く粒子となり、空中へ漂い靄となった。金色の靄は、高祖の鏡剣の陣の中へと流れ込み、赤黒い毒霧の塊を包み込んだ。光が激しく明滅し、それが消えると、毒霧は消滅し、金色の靄は、一対の翼を持つ金毛の神獣となり、大空をさらに駆け上り、やがて見えなくなった。
「アスラ・・・」
リーユエンは、金色の神獣が空の果てに消えるまで見送った。そして、気を失い倒れた。彼女へ駆け寄ろうとするダルディンを、高祖が制した。
高祖は、袂を大きく振り払い、鏡剣の陣を解いた。蒼海剣が戻ってきて、彼の袂の中へ消えると、高祖はリーユエンに近寄り、横抱きに抱え上げ、ダルディンへ
「どこで休ませるのだ?」と、尋ねた。
ダルディンは、離宮へ連れていくべきかどうか、一瞬躊躇った。すると、ヨーダム太師が、
「復位式が流れてしまった以上、まだ庶人なのだから、わしの東塔へ連れて帰りましょう」と、申し出た。
高祖は、うなずき、ヨーダム太師とともに、東塔へ向かった。
ドルーアを幽閉した後、ドルチェンは正門前へ戻ってきたが、その時、すでにリーユエンの姿はなかった。そこに居残った巽陰大公から、事の顛末を聞き取った彼は、周囲にいる者が気絶するほどの強烈な怒気を放出した。しばらく無言を貫いた後、
「では、あとで様子を見に行こう」と、極め付けの低音で言うと、法座主の恐ろしい気配に怯えながら裁断を待つ大公たちへ、
「ドルーアは岩戸の中へ閉じ込めたが、怨念があまりに強く、滅することができない。大公方には、しばらくの間交代で、岩戸の前で浄化の真言を唱えてもらおう」と、話しかけた。それは、法座主からの絶対的な命令であり、しばらくの間とは、数十年、いやそれどころか、百年以上必要という意味だった。




