第四話
「あー、もう。助けてくれたのは良いが、替え玉扱いなんて」
リンシャンが西の国の国界を出た瞬間に逃げる途中で調達したマントを取り払った。
医者と看護婦では目立つからと、踊り子と俳優といった一座風の格好に着替えている。
「え、急にクロノスとか言ってきたから、頭イカれてんのかと思ったが。替え玉になって撹乱しろって事だったのかよ」
今頃理解したらしいミヌレットが、舌を打った。
いつもよりも暗めの色使いの服はクロノスを意識したミヌレットなりのチョイスだ。
「まぁ、捕まった僕たちも自業自得だけどね。天界の仕業だと判断して甘くみていた。大神のジルコンからコレを付けさせられている事を忘れていた」
フェロニールに触れ、リンシャンがため息をつく。
俗界に降りるのを許可してもらう代わりに渡されたものだ。
一度つけたら、外せなくなり神通力も制限されている。
「全くだ。コレさえなければあんな鏡の仕掛けを誤魔化す事くらい余裕だったのに、まさかここまで神通力を制御されるとは思わなかった」
ミヌレットも不機嫌に頷いた。
外すことの出来ないフェロニールについている輝石が綺麗に輝いている。
神通力を輝石が吸収しているようだ。
「俗界にいる間は、喧嘩は極力控えないとね。天気も荒れるし、ミヌレット…じゃなかった。今はクロノス様だっけ」
クスリとリンシャンが揶揄うように笑った。
「あの透かした冥神界の大神のフリなんて出来るワケねーだろーが」
キャラクターが違いすぎるだろとミヌレットが半ギレになっている。
神界にミヌレットがいた時に遠くから、冥神界の王(大神)を数度は見た事がある。
が、感情的なミヌレットとは対照的だったと思う。
当然、直接話などした事はない。
遠くから出迎え、目の前を通り過ぎるのを目にしただけだ。
物凄い威厳と冷ややかさを持っていた。吸い込まれそうな迫力を持った、美丈夫だったのをミヌレットも覚えている。
綺麗な容姿と力の強さが比例する世界だ。その強さは計り知れないと感じたものだ。
顔の整い具合はそう劣るものでもないが、感情が服を着て歩いていると部下からも揶揄されるほど気の短いミヌレットに、あのクールな冥神界の王(大神)のような振る舞いができるのだろうか。
「まだ、ミヌレットはいいよ。とりあえず、無表情かつ冷徹に演じれば背格好的にはなんとかなるし…僕…私がやらなきゃならないのはミスラだよ?君に言わせたら打算的で腹黒の私が、あの透明感、綺麗さ…優秀さだよ?」
ミスラといえば、物凄く綺麗な神なのだ。少女に化けてしまったリンシャン的には既に寸が足りない。
今のリンシャンは美人というよりは可愛いと評される部類だからだ。
化けるといっても神通力を制御されてしまっているせいで、元の体に戻す事は難しかった。
「まぁ、人界の人間にミスラを知る者はいないわけだから、清楚可憐に振る舞うしかないだろ」
ミヌレットの言葉に、リンシャンは小さく頷く。
それにしてもだ。
先ほどの神殿で捕らえられているところを逃してくれたのは、この俗界ではミコトと呼ばれているミスラと一緒にいた男、エニシだ。
神殿の鏡の部屋から、リンシャン達の部屋に入れたという事は、エニシも人間ではなく神だという事はわかった。
しかも、鏡を余裕に割り砕く力を持っているのだ。
あきらかに、リンシャン達よりも上の立場にいるものだろう。
ヘラヘラした態度は、リンシャンが神になる前の人間だった頃に、見た事がある気がした。
リンシャンとミヌレットがサイファとルヴァを名乗る人間だった頃、兄であり王子に酷似している事に二人は同時に気付き顔を合わせた。
「あの男は、前世の兄貴か…」
ミヌレットが納得したというように頷く。
「そう…だね。兄さん…だと思う。…それならさ、ミコト(ミスラ=ソラ)と一緒にいたのにも合点がいく」
「…確かに兄貴だった頃なんて、わかりやすく惚れてたもんなぁ」
ミヌレットはルヴァだった頃を目を細めて思い出していた。
何かというと、二人きりになりたがって、双子の弟であったルヴァとサイファに用事を言いつけてきていたのだ。
今回のナチュラルに命じてくる無茶振りにも納得ができるというものだ。
「それに…さ。僕…あ、私、気付いてしまったのだけど。さっきの男はこの界ではエニシって呼ばれていたのに、エニシは私達に、クロノス様とミスラになれと言った」
「それがどうした?」
察しの悪いミヌレットにリンシャンはため息をついた。
「頭まで筋肉か…」
「喧嘩売ってんのか?あん?」
ミヌレットが低く唸る。
馬鹿で、よく吠える大型犬を見るような目でリンシャンはミヌレットを眺めた。
「だから、…君は今、クロノス様のフリをしなきゃいけないの…わかってる?馬鹿なの?喧嘩して良いわけないだろ」
「…お前ほど腹黒じゃない」
「…話戻すよ?エニシは言ったんだ。『クロノスになれ』って」
エニシがリンシャン達の部屋に入ってくる直前に鏡が盛大に割れる音がした。
あの天界の大天使レベルの者が作り上げた鏡を、普通の神レベルで壊せる筈がないのだ。
俗界に触れる機会の多い、魔界や天界の者の方が、神界よりも俗界に順応出来る。
なのに…だ。易々とエニシは鏡を砕き、リンシャン達の神が通される部屋に入り込んできて、突破口さえ開けてリンシャン達を逃したのだ。
眉一つ動かす事なく、余裕の笑みすら浮かべていた。
その彼が、『クロノスとミスラになれ』と言って消えたのだ。
それはすなわちエニシがクロノスだという事を指し示している。
「なぁ。それってもしかして、エニシがクロノスって事か?」
ミヌレットも合点がいったらしい。
「そうなると、二人の代わりをやれって事は、色々な意味があるよね」
「意味?」
体術や武術は突き抜けて凄いが、考える事が若干苦手なミヌレットが聞き返した。
「私たちが俗界に降りる前を思い出して。大神のジルコンが天界にミスラを捜索させ、ジルコンの后は魔界にミスラの抹殺を命じていた」
木陰に移動したリンシャンが、水筒をミヌレットに手渡した。
「そうか。それなのに冥神界のクロノスはミスラをもう既に見つけているのに、神界に連れ戻すことなく、ここに居続けている…何かわけがあるってことか」
ミヌレットの手から水筒を受け取り、今度はリンシャンが喉を潤す。
「そう。だからあえて、私達に身代わりを頼んだ。きっとこの件には裏があるって事だよ。全界総出でミスラを探している。俗界の神殿の者達までが協力体制なんだ」
水筒を片付け、リンシャンは立ち上がった。
「俺達は、エニシ(クロノス)に別行動で2人のフリをしながら追っ手を退けながら協力しつつ、ことの真相に辿り着けって事か。たいした人使いだ…」
ミヌレットも、尻を払いながら立ち上がる。
「私たちがミコト(ミスラ)の為ならなんでもやる事が分かってる」
「まあ、それに異論はない…」
ミヌレットは拳を握りしめた。
前世の記憶の中で、双子たちにとっても光のような存在だったミコト(当時はソラ)が兄の呪いをミコト自身に移し消えてしまったのは、辛すぎる記憶だったのだ。
なんだかんだ兄にも懐いてはいたし、その兄を助けてくれた恩人でもある。
だから、ユートピアで零として存在していたミコトを見つけてからはずっとずっとそばにいたのだ。
今度こそは、二度と無くしたりしないように守れるほど強くなりたいと、リンシャンもミヌレットも強く願っていた。
それは、前世の兄であるエニシも同じ気持ちだったらしい。
2人は顔を見合わせた。
二度と大切なものを無くさないために、エニシ(前世の兄)は全ての界の存続を左右する最高にして最強、最凶、最恐の冥神界の大神にまでのしあがったというのだ。
「…全く、たいした執着心だ」
ミヌレットが呆れ返る。
「…それにしても、クロノスを見た時には想像もしなかったよ。エニシが兄だったのは納得が出来るけど…」
美しく、静かで冴え渡った武器のような鋭さをクロノスは醸し出している。陽気で軽口を叩いているエニシとクロノスを誰もが同一人物だとは思わないだろう。
「…確かに、クロノスの時は触れば切るぞといった雰囲気を崩さないもんな」
「まあ、…これからミヌレットがソレのフリをしなくちゃならないんだけどね」
リンシャンが言えば、ミヌレットは小さく頷いて、いつもならカメレオンのように色を変える顔色をピタリと固定した。
それを受け、リンシャンも柔らかな雰囲気から、凛とした雰囲気に空気感を作り変える。
「クロノスさま、宿に行こう」
「承知した」
「この街はどこもかしこも綺麗だ」
カイレンがキョロキョロと、今夜泊まるホテルと言われる場所を見渡している。
豪華な柱は先ほどまでいた神殿と大差がない。
「西の国は少し文化が違うからな」
博識なスピネルが、料理の食べ方や作法をカイレンとミコトに話して聞かせる。
「食事の時は出された皿は動かさない。右から料理を出し左から下げるから、ナイフとフォークで食べ終わったことを合図する。外側からスプーンやフォークは使っていくのだが、わからなければ、俺かエニシかハルの食べ方を見てから食べれば良い。出されたグラスの水は飲むためではなくフィンガーボールといって果物など手で食べた後に手を洗うものだから飲まないように」
「えー、面倒くせぇなぁ…適当に食えば良いじゃんなぁ。肩凝りそうだぜ」
カイレンが首をコキコキと鳴らした。
「了解した。ところで、エニシの姿が見えないようだが…」
ミコトが見たところ、エニシだけがこのホテルに来ていないようだ。
「少々野暮用があるらしく、先に宿に行っていてくれとの事でした。後で合流するそうですよ」
「そうか」
スピネルの言葉を受けてミコトは小さく頷いた。
神殿から戻った一行は、滞在する宿を決める事になったわけだが。
一度、豪華な部屋に泊まってみたいと言い出したハルのわがままで、この街1番のホテルと言われている宿屋を町の人から教えて貰って来たのだ。
今までの部屋は木材を使ったフローリングであったり、畳であったりしたのだが、今回は大理石で出来ている。
ベルボーイが控え、台車に全員の荷物を乗せていた。
記憶を失っているミコトにしてみたら、何もかもが新しい。
…という筈だったのだが、何故か懐かしい気がした。
ハルがホテルのロビーで、チェックインをしてくれている。
西の国は、東の国の宿屋とは違い、全ての勝手が違う。
建物の中も履き物は脱がないままだ。
流石、神殿の中でも高位の文官と言おうか、ハルは手慣れたもので、チェックインを終えると、部屋の鍵を預かって戻ってきた。
「ごめん。ツインの部屋とダブルの部屋しか取れなかった。ツインの部屋に補助ベッドを追加してもらう形になったから、くじ引きで部屋を決めよう」
ハルは、ロビーにある机とソファに移動すると、即興でくじを作り始めた。
所謂あみだくじというやつである。
ダブルの部屋で寝る者は二重丸で、ツインの部屋は無印で作った。
二重丸の部分をみえないように紙を折り曲げ、線を足していく。
「いないエニシは残ったものってことで。ミコトと一緒が良いなぁ」
ハルがポツリと言う。
「んだと?俺だと嫌だっていうのかよ」
カイレンがジロリとハルを睨んだ。
「カイレンとダブルの部屋になってみなよ。寝相悪くて確実に踏み潰される」
ハルとカイレンがさっさと、名前を線の上に書いている。
スピネルは、クジを前に真剣に考え込んだ。透視など造作もない身としては、カイレンとハルが書いた場所を辿るとツインルームになることは明白だった。
さて、問題はスピネルだ。
スピネルがツインの部屋を選べば、ミコトとエニシをダブルにする事が出来る。
心底悩ましいとスピネルが考える。
スピネルがダブルを選べば、ミコトかエニシがダブルのベッドで一緒に寝る事になる。
ミコトをツインの部屋で寝させた方が安全策なのだろうか。
…や、だがそうすると、エニシとスピネルが一緒のベッドで寝る事になる。
…まぁ、この場合、ソファでスピネルが寝る事になるのは必至なので問題はないのだが、万が一スピネルとミコトが同じダブルの部屋で寝る事になった時のエニシの顔が今からでも想像できる。
思いの外、独占欲の強い主君の事だ、恨めしい目で見られるに違いない。
…うん。
ミコトは強い。
下手をしたらエニシをも負かす事が出来る強さを持っている。
エニシが睡眠不足になるかもしれないが、体力自慢のエニシのことだ。
二人きりでも平気だろう。
スピネルは、安全策を取る事にして、ツインが選ばれる場所に自分の名前を書いた。
残された2箇所の片方に、ミコトが迷いなく名前を記入する。
流暢な文字に、ハルが感嘆の声をあげた。
「ミコトは字も綺麗だね。カイレンの字見てみなよ。無駄にデカい」
「存在感を体現しているみたいだろーがよ。で、さっさと開いてみせろよ」
カイレンが紙を奪い取って、クジを開く。
「ええええー!!ミコトとエニシがダブルなの」
紙を覗き込んだハルが悲鳴を上げた。
「ちっ、ツインルームかよ。ハルとスピネルか。となると補助ベッドは確実にハルに決定な」
カイレンがピシリとハルに宣言する。
「ええええ…なんでそうなるんだよ。普通は上司の僕とスピネルが普通のベッドを使うことない?カイレンが補助ベッドでしょ」
文句タラタラでカイレンを睨みつける。
「馬鹿だな…お前、体のデカさを考えてみろよ、長身の俺やスピネルだと補助ベッドだと足が出て眠れないだろーが」
正論をカイレンが主張すると、ハルはグっと喉を鳴らした。
喧嘩を始めた2人をスピネルが諌める。
ここにエニシがいなくて良かった。
いたら、ハルとカイレンから総攻撃を受けた事だろう。
そういえば、先ほどから黙っているミコトにスピネルが視線をやる。
考えてみればミコトは基本、自分からあまり口を開く事はない。
ミコトの口数の少なさを不快と捉える者はいないのが、スピネルには不思議に思った。
姿勢はいつもピンとは伸びていて、凛とした表情でいる事が多い。整った顔に透けるような白い肌。
漆黒の艶やかな髪を結い上げている。
百人が百人美しいと形容するだろう。
今も、他の客達が振り返って見ていく。
想い人でなくても、惹き込まれるというのに、エニシはきっと眠れない事だろう。
若干の同情とともに、スピネルは尋ねた。
「ミコトは、ダブルの部屋で良いですか?」
「良いも何も、クジで決まった事だろう」
鍵をハルから受け取ると1人で部屋まで歩き始めた。
「ミコト、寂しかったら、エニシが戻るまで僕たちの部屋においでよ。一階下の部屋にいるから」
ハルがいえば、ミコトはゆるゆると首を横に振る。
「気遣い感謝する。大丈夫だ。少し休もうかと思っている」
ミコトはベルボーイのところに行き、部屋の案内を頼んだ。
ベルボーイは、ミコトを見るや否や、頬を染めた。
「すまない?部屋まで案内を頼む」
ミコトはチップを渡し、先を促した。
「は、はいっ」
ベルボーイの態度を見た、ハル、カイレン、スピネルの三人は顔を見合わせる。
無自覚な人タラシが一番の強敵だよな…と。
「…据え膳…だよな」
大きなベッドに横たわるミコトを目の当たりにして、エニシはガックリと項垂れた。
この町の鏡職人に神殿から持ち帰った鏡の加工を頼もうとしたのだが、神通力を宿した鏡を加工することは難解だったようだ。
それならと冥神界に戻り、持ち帰った鏡の破片をエニシ自らクロノスの姿に戻って加工していた。
見よう見まねで、洒落た形の手鏡に生まれ変わる。
投げた天秤の微調整を手作業で行う。
今回の鏡の一件で関与していたのは天界だ。
天界にダイヤルを合わせてみる。
悪の方に大きく傾くかと思ったソレは、通常の天界の数値より若干悪いくらいで許容範囲内だ。
魔界にダイヤルを合わせてみても、若干、通常よりも悪いくらいで許容範囲内には入っている。
やはり、天秤を鏡に投げつけたことによる誤差があるのかと、神界にダイヤルを合わせてみれば、天界よりも悪に傾いてしまった。
このまま、神界を放置するわけにはいかない状態だ。
やはり、投げたことでダイヤルに誤差が生まれ若干悪に傾きかけているのか。
そう思いエニシはミコトに天秤のダイヤルを合わせてみる。
ミコトが悪に少しでも傾けば、天秤の方が狂っているということになる。
じっと、エニシが覗き込めば、ミコトを表す針は、やはり善からからピクリとも動かなかった。
天秤に間違いがないとすると、各界がミコト(ミスラ)の失踪に本格的に関与し始めているという事だ。
リンシャンとミヌレットに替え玉をやらせてしまった。
2人が前世の弟達だと気付いたのだ。
ミコトを守りたいと言う思いが痛いほど伝わってきた。
大切なものがなくなる事は、自分の命がなくなる事よりも辛い。
残された者の辛さは筆舌し難かった。
クロノス(エニシ)とミスラ(ミコト)の身代わりを買って出てくれたリンシャンとミヌレットは、ユートピアでミコトが可愛いがっていた参と陸だ。
となれば、あの2人を危険な目に合わせる事をミコトは良しとしないだろう。
ミコトの記憶が戻った時に、後悔するような結果にだけはならないように、ミコトが守りたいもの全てを守ることが出来るように、冥神界の王にまでなったのだ。
今後は身代わりになってくれている二人の動向にも気を配らなくてはいけない。
エニシは、二人の気を白い鳩に刷り込み、俗界の野に放った。
すべての仕事を終えたエニシは、すっと指で陣を描くと冥神界から姿を消した。
そして。
ホテルに着いて、入り口で待っていたスピネルから部屋番号を聞いて部屋に着いたのが今だ。
新婚が泊まるであろう部屋だ。
大きなベッドには天蓋がかけられている。
静かに寝息を立てているミコトをエニシは眺めた。
普通力の抜けた顔は崩れるものだが、ミコトの顔は綺麗なままだ。
若干力の抜けた桜色の唇はふっくらして柔らかそうだ。
少し触るぐらいなら、許されるだろうか。
エニシの中にある欲が疼いてしまう。
そっと指をミコトの唇に触れさせてみる。
柔らかな感触に体の奥が、ジンっと熱くなった。
ミコトの唇に触れた指先を自分の唇に押し当ててみれば、キュっと胸が苦しくなる。
エニシは、ベッドの横に座り込んだ。
何をやっているのか。
まだ、ミコトに気持ちすら打ち明けていないというのに。
エニシは、膝を抱えて、ミコトに触れた指先を握り込んだ。
「ん…」
すっかり、寝てしまったとミコトがダブルベッドから体を起こし、目を見開いた。
ベッドを占領してしまったらしく、エニシがベッドの脇に座って、船を漕いでいる。
せっかく、眠ってしまっているのに起こすのは忍びない。
かといって、このまま床に座ったままでは疲れも取れないだろう。
ミコトは、ベッドから音を立てずに降りると、エニシの膝の裏に片手を入れた。
もう片方は首に回している。
いわゆる世間一般ではお姫様抱っこというやつだ。
伊達に武術を極めてはいない。
ミコトより体重が重かろうが、意にもかいさなかった。
起こさないように気をつけながら、そっとミコトはベッドにエニシを寝かせる。
そのまま、ベッドから離れようとした瞬間、エニシの手が動き、ミコトの手を握りしめた。
熱が離れるのを厭う子供のような仕草だ。
振り払えば、エニシを起こす事になるだろう。
ミコトは、エニシが寝ているベッドの隙間にその身を潜り込ませた。
無意識の仕草が、大きなぬいぐるみを抱く子供のように、エニシの腕がミコトに周り、朝まで絡ませられてしまう。
二度と離さないというように、身じろぐ事も出来なくて、ミコトは体の力を抜いた。
記憶がないミコトでも、エニシが自分に対する並々ならぬ想いを抱えている事を薄々は感じている。
幼い頃の記憶は取り戻していて、ミコトにも手に取るように思い出す事ができた。
だからこそ、気付くことが出来たといっても過言ではない。
幼い零と言われていた頃のミコトもエニシの事は特別だったからだ。当のエニシには伝えた事はないが、このまま、一緒に居続けたいと願っていたのだ。
当時、離れた時の寂しさが恐ろしくて、ある程度の距離を取ろうと、どれだけ突き放しても、近づかないようにしていてもエニシ(壱)はミコト(零)のそばを離れなかった。そして、今も離れようとはしない。
きっと、記憶の全てを思い出して欲しくないわけはないだろうに、エニシが無理強いする事はなかった。
それ以降の記憶が見つからないのは、ミコト自身が思い出さないように、無意識に自分の記憶を閉じ込めているからなのかもしれない。
記憶を持たないミコトは、物にしても人にしても、何事にも執着しないようにと心掛けてきた。
人と積極的にはかかわらないようにと、ミコトから話かけたりする事もなかったというのに。
エニシにだけは、話しかけてしまうのだ。放って置けなくて今でもこうして世話を焼いてしまう。
記憶を思い出した時に、記憶喪失の時(この時)の記憶が邪魔になってしまうかもしれない。
悪くすれば、記憶を取り戻した瞬間、今までの記憶(この記憶の方)を失ってしまうかもしれないからだ。
例えば、ミコトがいくらエニシに惹かれてしまっていたとしても、記憶が戻った時に別の誰かを伴侶としなくてはならない可能性を考慮すると自分の身体であっても感情的に動くべきではないのだ。
記憶がある時にミコトが別の誰かを好きだった場合、その誰かを裏切る事になり傷つけてしまう。
それが恐ろしいと感じていた。
そう感じてしまう程度には、エニシという存在はミコトの内側に侵食している。
前の旅館で、特別な関係になってしまっても良いかと、冗談めいて挑発してしまったのも、既成事実を作ってしまえば、記憶を取り戻してもそのままでいられるかもしれないと、思ったからだ。
記憶を取り戻して、エニシと離れる事になるくらいならば、このまま記憶がないままでも構わないとすら思ってしまっている。
この気持ちをエニシには微塵にも悟らせる気はない。
ただ、気掛かりなのは、鏡の間にいた時の事だ。
チラリとだが、エニシの姿が別の誰かに見えた気がする。
エニシが鏡を天秤を投げて破壊してしまったので、一瞬の出来事だった。
その後、スピネルとミコトは、元の説明してくれた少女のいる部屋に戻れと言われていたが、少しだけ他の部屋に入った時のエニシの声が、聞こえていたのだ。
『ミスラ様、クロノス様お逃げ下さい』
確かエニシは、先に鏡の部屋に入り、出てこなくなったリンシャンとミヌレットにそう言っていた気がする。
すぐ後に、エニシは何もなかったかのように戻ってきたが、明らかに何か事情がありそうだったのだ。
こんな事ならば、心の中の声を聞けるようにしておけば良かった。
緊急時以外は出来る限り、心の中の声は聞かないようにしてきたのだ。
エニシと最初剣でやり合った時にそれを痛感した。
エニシは『クロノスにミスラを連れてに逃げろ』と言ったのだ。
少なくとも誰かにミスラが追われていると言う事だ。
「ミ…スラ…」
エニシの寝言に、ミコトは身体を硬くする。
エニシの表情が甘く溶けていたからだ。
片方の握っていた手が解かれ、ミコトの頬をなぞり、背中にあった手にギュっと力が込められた。
ミコトではない別の名前と共に、抱きしめられる手の強さが切なすぎて、唇を噛み締める。
ミスラという人が、今エニシが追っている大切な人なのだろう。
エニシはあの時確かに、リンシャンのことをミスラと呼んでいた。
そもそも、今回の特別編成されているこの特殊部隊は姫を探す旅だと聞いている。
探している対象はミスラなのか。
そう合点がいった。
ミコトの記憶がない理由は、もしかしたら、その現実を知りたくないからなのだろうか。
目の前にいるこの手を、離したくはない。エニシが他の者を大切に思うのならば、この胸の痛みに耐えなくてはならないし、耐えることが当然ともいえる。
第一に考えるべきは、大切な者の幸せで、記憶すら持ち合わせていないミコトの感情など幻影のようなものだ。
第一に望んでいるのは、エニシが幸せに笑っていられる事。
ミコトがエニシの戯れの冗談などに付き合い、これ以上の関係になってしまえば、ミスラが傷付くだろう。
少し、距離の取り方を考えねばならないとミコトは自分に言い聞かせた。
ただ、今のミコトに眠っているエニシの手を振り払うことは出来なかった。
静かに目を閉じ、手に入る事はない温もりの中でミコトは意識を手放した。
今だけは、どうかこのままで。
そう願いながら。
「なっ!!!!!!」
翌日。飛び起きたエニシの目に、真っ先に入ってきたのは、ミコトの頬にある涙の跡だった。
え??
なんで???
何があった??
無意識のうちに俺やらかしちゃったの??
エニシの顔は蒼白で、頭の中は疑問符でいっぱいになっている。
確か、昨日はこの部屋に入ってきたらミコトが寝ていて。
これ以上近づいたらマズイ…ってなって、ベッドの脇にもたれて寝ていた筈だ。
理性には自信があったのに。
無意識にベッドによじ登り、無体な事をしてしまったのだろうか。
ソロリと布団の中を覗いてみれば、ミコトの着衣にもエニシの着衣にも乱れた様子はなかった。
だとしたら何故、ミコトの頬に涙の跡があるのだろう。
エニシが知る限り、ミコトが涙することなど一度もありはしなかった。
エニシが王子でソラだったミコトも。
エニシが壱で零だったミコトも。
どんな状況でも感情を乱される事がなく、いつでも冷静沈着なミコトの涙はエニシには重すぎる。
目にしただけで、顔に皺がよってしまう。
誰だよ。
ミコトにこんな顔させたの。
一瞬でミンチ肉になるほど刻んでやりたい。
どうしたら良いのだろう。
回らない頭でエニシは考える。
ミコトがこのタイミングで起きたら、心に波風を立たせず、八面玲瓏を絵に描いたようなミコトも困るだろう。
だからといって下手に拭いたら起こしてしまうかもしれないし、起こしてしまった時に言い訳のしようがない。
回らない頭の中答えは出せず。
開き直ったエニシはもう一度眠る事にした。
寝ている自分ならば、多少乱暴に動いたことで、ミコトが起きたとしても、寝ぼけてやってしまった行いとして誤魔化しが効くだろう。
ミコトの頭を抱き寄せてエニシの胸に押し付け、ミコトの涙をぬぐいとる。
どうか、ミコトが幸せに笑ってくれるようにとエニシはもう一度瞼を閉じた。
「…馬鹿か?お前…起こしに来たのが俺で良かったよ」
スピネルがドアに身体を持たせかけながら、ポソリと呟いた。表向きの群衆に接する時のかしこまった話し方ではなく、砕けた言い方で呆れたようにため息をついてみせる。
エニシはといえば、ミコトに抱きついていた手を慌てて離す。
スピネルの言う通りだ。同じ寝台でミコトを抱きしめて眠っている状態では言い訳のしようがない。
ミコトの頬に伝っていた涙を拭いてやっていた筈が、そのまま寝てしまっていたらしい。
少し離れたところに移動し、ミコトを眺めれば、幸いまだ眠っているようだ。
「ハルが来ていたら、俺…ちょん切られてたかも」
ミコトを起こさないように、慎重に寝台から降りる。
「…正直、昨日は悩んだんだ。俺がダブルの部屋を選ぼうかって。同じ部屋ってだけで、泣きついてきてたしな。同じベッドはお前の理性が流石にマズイだろうって」
スピネルが部屋に入って扉を閉めた。
エニシは髪をかきあげ、スピネルの方に視線を向ける。
「…だからって、お前がミコトと寝るとか絶対やだし。お前と同衾すんのもゴメンだし」
指で髪をかきあげ身なりを整えながら、エニシは唇を尖らせた。
「そろそろ、ミコトに過去を思い出して貰ったらどうだ?お前なら記憶を引き出す事など造作もないことだろ?」
「…思い出したくないのかもしれない」
不可能はない冥神界の王クロノスの能力を使えば、無理やりミコトの記憶を引き出す事が出来ないわけではない。
引きずりだして、ミコトが俗界に降りた理由が、エニシ(クロノス)から逃れる為だとしたらという可能性を思い知るのが怖いのだ。
ミコトが零であり、ミスラであることは明白だというのに、エニシは一歩を踏み出す勇気がなかった。
「ところで。お前が、クロノスとミスラの代わりをさせている相手の素性がわかったぞ」
エニシの迷いを察して、スピネルが小さく肩をすくめた。
「ココでその話題は…」
エニシはユルユルと首を横に振り、人差し指を口元に持っていて止める。
「別に問題ないだろ」
スピネルが腕組みをしながら、平然と続けた。
「ミコトが寝ているところで言う必要があるか?場所を変えろって」
「や、なんなら聞いて貰って、さっさと思い出して貰った方が良くないか?フラれる覚悟くらい持てって」
だから、そのまま続けるとスピネルが言う。
水差しから水を注いで、それをエニシに手渡した。
「あの2人の正体なら、もう…わかってるさ…中神にいる喧嘩コンビだろ?あいつらだって、分かっていると思う…ミコトを守りたいのは俺もあいつらも同じだ」
手に持ったグラスの水をエニシは飲み干す。
「ミコトにとって彼らが危険な目にあうのを望むと思うか?」
「…」
エニシは黙り込んで、スピネルの目を見返した。
「大事なのも失いたくないのも分かる。だが、それはお前の自己満足であって、ミコトの望むものかはわからないだろう。お前のエゴでミコトが苦しむかもしれないっていうのを考えろ」
酷く大人の意見をいうスピネルに言い返す言葉はなかった。
大切だからこそ、本人の意思を尊重せねばならない。
「…言ってくれんじゃん」
エニシはギュッと拳を握りしめる。
「そもそも、ミコトが記憶を失っているという事は、なくさなければならかった程の何かをミコトが抱えているからではないのか?ミコト一人で抱えきれないものなら、大事なら一緒に抱えてやれ」
スピネルの言葉がエニシの心に沁み渡っていく。流石に優秀すぎる部下は違うと、エニシは噛み締めながら眉を顰めた。
「いちいちごもっともすぎて、言い返す言葉もない…」
「…ミコト、さっきから起きているんだろ?」
スピネルが言えば、ミコトは静かに瞼を開く。
起きていたということはいつからなのか。
エニシは先ほどまでミコトを抱きしめてしまっていたというのに。
その事にまで気付かれていたとするのならば、消え入りたいと顔を背けた。
「エニシ。お前なら…記憶を戻す事が出来るのか?」
ミコトが静かに口を開く。
「…」
エニシは黙って頷いた。
「…昨日、鏡に一瞬映った姿は、いつものお前とは違っていた。…お前が何者でも驚きはしない」
冷静に表情を変える事なくミコトが淡々と口を開く。
「見えて…いたのか」
「…ついでに。フェアではないので伝えておく。身共は人の心の内側の声を聴こうと思えばいつでも聴けるのだ。旅をするようになってからは極力聴かぬようにしていたが」
だから隠し事をしても無駄だとミコトはエニシに伝える。
「…そうなのか」
ならば、エニシのミコトへの気持ちを隠す術がないではないか。エニシが頭を抱える。
「…黙っていてすまない。神殿を出てからは皆のプライバシーもあるかと思い心の中の声をあえて聴かないようにしていたから安心しろ」
ミコトが付け足す。
「…ったく、ミコトにはいつも叶わないや…」
エニシがスピネルに結界を張るように指示を出す。
スピネルは指で陣を描いて、天井に向けた。
「二人ともただの神官で上司と部下の関係でははないのだろう?」
ミコトが言えば、エニシのスピネルは一瞬互いの顔を見合わせて、小さく頷く。
「向こうの世界では俺が上司でスピネルが部下。コチラの世界とは立場が逆でさ。今、俺はミコトのなくしてる記憶を戻していいものか迷ってる」
眉をハの字にしてエニシは困ったように微笑んだ。
「…記憶を戻せるのならば、やってくれ…」
ベッドの上で座り込み、ミコトは静かに目を閉じた。
「…何を悩んで…記憶を消したのか、理由を教えてくれると約束してくれる?」
隠し事はしないよう念を押す。
エニシがミコトの瞳を真っ直ぐに覗き込む。
「了承した」
ミコトの強い意志を感じて、エニシはミコトの額に掌を翳す。
エニシの掌は、緊張のせいで僅かに震えている。
どうでも良い存在の記憶であるならば、土足で踏み入って、力づくで記憶を掘り起こしてしまっているだろう。
その相手の心の傷などは知ったことではないとばかりに、引きずり出すのであるならば、容易なことなのだ。
記憶の扉を壊してしまえば手っ取り早い。
だが、相手はミコトで、少しの傷すらつけたくはないのだ。
エニシは掌に気を溜め、ミコトの深層心理下に潜り込ませた。
ミコトの深層心理の中は、本人の心を表すかのようにとても澄んでいる。
とても綺麗でエニシはいつまでもそこにいたくなるような居心地の良さだ。
奥に奥に入り込んでいく。
意識の中にとはいえ、ミコトの中に押し入るエニシが、いけないことをしているようなそんな気持ちにすらなる。
一番最深部には、大きく堅牢な扉が一つだけあった。
真っ白でいて重厚な扉だ。
当然、ノブを回すだけで開くはずもなかった。
よほど…ミコトにとって強固に思い出したくない記憶なのか、記憶の奥深くに鍵をかけて仕舞い込んであるようだ。
考えてみれば、大神にいきなり飛翔したミスラ(ミコト)の能力は、クロノスであるエニシを凌いでいる可能性がある。
軽く、記憶なら取り戻せるといったが、甘かったかもしれない。
ミコトの強固に閉ざされた記憶の扉の鍵を開かせる事は、予想以上に難解だ。
もしかしたら、ミコトが意識の中に入れさせてくれる事を了承してくれていなければ、入ることさえ不可能だったかもしれない。
数秒で固まる柔らかい素材で鍵の型をとって、生成して開けば良いかと思っても、無形な意識の中では、形をその度変えていくので、太刀打ちのしようがなかった。
あたりを見回してみると、扉の近くに鍵箱があるのを見つける。
鍵箱の箱の鍵は、生成する方法で開ける事ができたが、沢山入っている鍵の中から、一本だけを見つける事は至難の業だ。
番号順に並べられているが、肝心の鍵の数字がわからない。
いくつもある鍵の中から一つを選ばなくてはならないのだ。間違って差しでもしてしまったら、ミコトの心のどこかを傷付け、歪ませてしまうかもしれない。
エニシは、零を表す0の鍵を持とうとして、躊躇いを浮かべる。
いつも他人を優先するミコトが自分の数字を使うだろうか。
ミコトの性格を考えたら、0である可能性は低い。
ならばと壱を表す1の鍵を視界の端に捉えながらそんな筈はないと、意識下で、生唾を飲み込んだ。
万が一、壱の鍵を入れて開いたら…まるで、ミコトに望まれているような錯覚さえしてしまいそうになる。
無数にある鍵の中で、唯一入れる事が出来、ミコトの心を開く鍵が壱であれば、それはどれほど幸せな事だろう。
甘い誘惑がエニシを蝕む。
体を繋げる行為以上に、意識の中に入り込む行為というのが、卑猥に感じてしまう。
記憶を戻す事が出来るなどと大それた事を言ってしまったと、エニシは内心後悔している。
ミコトはこうなると分かっていて、了承したのだろうか。
好きで思い続けたミコトの心の中を覗かせてもらう行為は、閨でのアレやコレやのいやらしい想像以上に甘く、エニシを誘っているようだ。
壱である1番の鍵を差し込む行為は、それ以上に感じてしまう。
ならば他の番号の鍵にすればいいのだが、ミコトの心に1番の鍵以外の鍵など差し込みたいと思うわけがなかった。
エニシの自分であって欲しいという欲で傷つけてしまうかもしれない。
それがエニシには怖くて仕方がない。
何故、鍵ひとつ差し込むのに、こうも迷ってしまうのか。
エニシは震えるてで、1番の鍵を手に取った。
恐る恐る、一番の鍵を美しい細工の鍵穴に押し当てる。
グイっと中に押し込んでみれば、待っていたかのようにピッタリ収まり、右に回せばカチャンと開く音がした。
ミコトの事が愛おしくて、たまらなくなる。このまま、目覚めたら抱きしめてしまいそうだ。
そう思いながら、エニシは扉の向こうに潜む記憶の糸を絡め取り巻きつけた。
一方、ミコトの額に手を翳したまま、エニシが微動だにしなくなって、早数刻。スピネルの顔が険しくなった。
何かトラブルでもあったのだろうか。
さて、どうしたものかと気を揉んでいたところに、やっとエニシが手を下ろし、瞳を開いた。
「エニシ…守備は…」
「予想外にミコトの精神が難攻不落で…」
手間取ったのだと、エニシは苦笑いしている。
どこか、機嫌が良いのは気のせいだろうか。
続いて、ミコトの瞼が少し痙攣し、静かに目を開いた。
泣くでもなく、無表情のままだ。
どちらかというと蒼白になっていると言った方が正しいかとスピネルはエニシの肩を掴んだ。
「ミコト?…いや、ミスラ…で分かる?」
エニシが尋ねれば、ミコトは静かに頷いた。
「ミスラは…身共で、あったのだな…皆の手間を取らせてしまった」
ミコト自身が、ミスラである自分を探す部隊に所属してしまっていた事に、自嘲する。
ミスラ(ミコト)の記憶は、ミコトが望む一人(壱)にしか戻せなかったはずだ。
おいそれと、記憶を取り戻さないようにと心の深いは部分に鍵をかけていた。
記憶を取り戻す事はすなわち、壱自身がミスラの記憶を取り戻したいと願わなければ叶わなかったものだ。
見ず知らずのの冥神界の大神に嫁ぐか、大神界のジルコンの妾となるかしか道が残されていない。
大神として大神界に昇り、ミスラが望んだ者は一人だった。
壱に逢いたい。
壱のいる場所に連れ去ってほしいと願っていた。
今、目の前にいるエニシが、鍵を開きミスラを呼び起こした。
エニシが壱だと思い出したのは少し前だ。
だとしたら、ミコトが記憶を思い出す事を望んだのも理解できる。
焦がれて会いたくて、会いたくて仕方がなかったのだ。
「質問に答えてくれる?」
エニシがベッドの向かい側にあるソファに腰を下ろした。
エニシの瞳がどこまでも優しい。
昔の壱だった頃と同じだ。
ずっと側にいた。
ミコトの心が、じんわりと暖まっていく。
やっとだ。
やっとエニシ(壱)に逢えた。
背中を預けられる相手だと旅をしているうちに思い始めたのだ。
記憶をなくしていた間でさえ、エニシに惹かれてしまっていた。
いったいお前を何度好きになるのだろう。
ミコトは、胸が締め付けられそうになるのを必死で堪える。
変な態度でも取ろうものならば、エニシが心配するのは明白だ。
ミコトはまだ一度も、秘めた気持ちをエニシ(壱)には伝えてはいない。
エニシが王子であった時もだ。
自らの命と引き換えにしても良いとさえ、思っていたことを王子には最後まで伝えてはいなかった。
記憶がない間のミコトも伝えてはいないらしい。
ならば、ミコトのする事は、記憶がない間の態度と同じように振る舞うしかないだろう。
「…ああ。エニシの質問に答えよう。思い出したいと告げたのは身共自身だ」
視線を布団にやりながら、ミコトは言いづらそうに言葉と共に息を吐く。
下手をしたら隠しているミコトの気持ちまで話さなくてはならなくなるかもしれないからだ。
「ミコトが俗界に記憶を消してまで、逃げた理由は?」
エニシは、聞かれたくない事をずばり聞いてきた。
嘘偽りなく話すと約束したのだ。
ミコトは瞼を伏せて一息ついた。
「…一番は見ず知らずの相手から結婚の申し出があり…断りたかったのだ…大神宮へ飛翔してすぐの事だ」
ミコトは同期のユートピアの者達よりも、飛翔が遅かった。それは大神になるが故の事であるのだが、神界の事情を全く知らない時期のいきなりの求婚にミコトは戸惑ったのだという。
身に覚えしかないエニシは、顔を引き攣らせた。
あながち、最初に花嫁に逃げられたとスピネルや魔界の連中がからかったのは、的外れではないということだ。
「逃げるほど、嫌だったの?」
「…それだけでもないのだが…」
珍しくミコトの歯切れが悪い。
言葉にするのをためらっているようだ。
「どうしたの?」
「身共には、求婚を待っている相手が既にいる…」
だから、見ず知らずの求婚に応えられる筈はないのだと、ミコトが告げる。
「え…そ…そうなんだ。心に決めた人がいたのか」
エニシの顔はヒクヒクと震えていた。
唇はワナワナとひくつき、らしくもなく蒼白になっている。
ミコトは、エニシがクロノスだと分かっていないのだ。
今、直接ミコト本人からフラれたのだが。フッた自覚がなくても仕方がないだろう。
エニシはショックから立ち直れずに、ガクリと項垂れた。
「身共からもいくつか質問があるのだが、答えてくれるか?」
「いいよー。もうなんでも答えるし…」
グタっとソファに全身を預けてエニシが天をあおいだ。
「…エニシ、お前の本当の姿は、この前鏡に映った者か?」
「…見てたの?…誤魔化せてたと思ったのに」
苦笑いを浮かべると、エニシはすっとクロノスの姿に戻す。
「コチラが本当の俺…怖いってよく言われる…」
エニシの時とは違う高身長。切れ長の瞳、漆黒の髪。全世界が畏怖する冥神界の王の姿だ。魔界の者でさえ震えあがって顔色を窺う。
ミスラがミコトならば、冥神界の王の残忍さを知らない筈はない。
「…エニシの本当の名は?」
ミコトが恐る恐る口を開いた。
「…クロノスだ。噂ぐらい耳にしているだろう。冥神界の王だ。結婚を申し込んだ張本人で、今まさにフラれた男だ」
クロノスの姿で、エニシが苦しそうに眉を顰める。
いつもの姿ならば、何かに当たり散らしそうな勢いなのだが、クロノスの姿だからか感情を殺した声音で伝えられた。
「!!!!!?」
エニシが壱。
エニシがクロノス。
だとすると、クロノスは壱だったというのか。
ミコトが大きく目を見開く。
エニシが結婚を申し込んできた冥神界の大神だとは夢にも思わなかった。
大神界に昇って、まっさきに案内人から教えられたのは、冥神界の大神クロノスの機嫌を損ねるな。という事だった。
神界、天界、魔界、俗界の全てを壊す権利すら持っている血も涙もない恐ろしい王だと言われたのだ。
一度クロノスに目をつけられたら、世も終わりだと揶揄されるほどの存在だと伝えられた。
そのクロノスが何の気まぐれか、ミコト(ミスラ)を后にと望んだ。
中神界も神界も断るなど言語道断だと言ってきた。
ミコトの気持ちなど、全く介在させては貰えなかったのだ。
そんな存在のクロノスがエニシだということがミコトには信じられなかった。
「皆から畏怖され、怖がられている立ち位置の冥神界の大神は俺だ。で、今はフラれて傷心中でもある。こう見えてかなりショック受けている…。そっとしておいてくれ」
ミコトはベッドから立ち上がると、ソファの前に移動し、クロノスの頭をゲンコツで思いっきり殴りつけた。
「お前は馬鹿なのか?…名前も違う上に、大神界に昇ってから一度も身共に姿を見せず、いきなり求婚されて、頷く馬鹿がいたらお目にかかりたいものだ。まず身共に面通しをして一言二言交わしてからだろう。挨拶もなしに応えられると思うか?」
「それって…俺が壱だって分かってたら、こんな真似(記憶を消して逃げ出すなんて事)しなかったってこと?」
言葉尻を捉えたクロノスは嬉しさのあまり胸の高鳴りが抑えられず、クールな対応が常だというクロノスの姿のまま、エニシの時の軽い口調に戻ってしまっている。
目を輝かせたクロノスなど、他の界の者が見たら腰を抜かす事だろう。
多少、崩しているクロノスの態度に慣れているスピネルでさえ、クラっとしてしまう。
まるで大型系が尻尾をブンブン振り回しているようだ。
「馬鹿が…お前、身共に勝ってもいないのに求婚など出来る筈もなかろう」
ミコトの言葉にエニシはハッと口を噤む。
「それ…って…」
その約束は、エニシが人間の王子であった頃、天から降ってきた空と交わした約束だった筈だ。
ミコトがそれを言うと言うことは、ミコトはソラであった時の記憶全てを覚えているということだった。
「ソラは零で、ミスラで…ミコト…なの?」
エニシが顔を高揚させる。
ミコトは静かに頷いた。
「あの日、神界にいた身共は俗界からの助けの願いを聞き、降りようとしたところを知己に止められた。神界では不正が噂され、それを突き止めようと降りたという意図もあったのだが…お前の城に落下した」
あとは、エニシの記憶にあった事が全てだとミコトは告げる。
「なら、もうミコトが逃げる必要はないのでは?」
扉付近にいた、スピネル口を開いた。
スピネルの声を耳にし、我に返ったエニシが派手な告白劇をお披露目してしまっていた事実に愕然とする。
同じくその場にスピネルがいた事実を失念していたミコトも天を仰いだ。
エニシはたはーっと額を叩き、ミコトは大きく息を吸い込んで気を取り戻す。
「スピネル。それが、そうでもないのだ。どちらかといえば、記憶を封じたのは、ここから先の問題のせいでもある」
「何か…あるのか?」
エニシがクロノスの姿からエニシに戻してミコトに向き直る。
「身共が最初、人だったお前と会った時にも起因しているのだが、神界にきな臭い噂が当時からあるのは知っているか?」
仕事の顔に切り替えたミコトが、淡々と告げる。エニシがクロノスとして冥神界に入るよりもずっと前からその噂があった。
「ああ。引き継いだ時から天秤の値が悪に偏ってて、俺もスピネルも気になってる」
「それを突き止めるために、一度目は俗界に降りた。神界の力の源が俗界から来ていることに身共と知己は気付いて暴こうとしたのだ」
「…あの后か…」
エニシが王子だった頃を思い出して顔を歪める。
継母として割り込んできた后が人間ではないと当時も感じていただけに、腹立たしい。
王子を呪い殺そうとし、ソラが消える原因となった大元だからだ。
「ああ、あの后は集めた力を大神宮に送っていたのだ。人間だった王子のお前の継母だった后は人間ではなかった。現ジルコン大神の奥方だ」
「…そう…だったのか」
残酷で、処刑を好んでいた事をエニシも覚えている。
人の霊魂を力に変えジルコンの元に送っていたのなら、惨殺される人数が年々増えていったのも頷ける。
「未熟だった身共は呪術を反転させた事で消失し、神界に入って仲良くなった知己の消息は分からずじまいだ」
「…それで?」
エニシが促す。
「だがジルコンの欲はどこまでも深く、妻に手を汚させるだけでは飽き足らず、身共を妾にしようと企んでいるのだ」
淡々とミコトは告げているが、内容は衝撃的だった。
エニシもスピネルも二の句が告げられない。
「俺が先に求婚し、それをジルコンは了承した筈だけど」
「そんなものは、身共が断ったと言えば良いと笑った。自らの手を汚してまでジルコンに尽くした后は、当然逆上し身共を殺そうとしている」
「あんの野郎…」
エニシがギリリと奥歯を噛み締める。
スピネルも壁を叩いた。
「…まだ、それくらいならば、記憶を封じる必要はなかったのだ。ジルコンは…身共の弱味につけ込んできた」
「弱味?」
「…ああ、参と陸だ。神の名で言うのならば、ミヌレットとリンシャン。人間界にいてお前の双子の弟だった時はルヴァとサイファだ」
ミコトの顔はどんどん青ざめていく。
「あの二人がどうだっていうんだ」
エニシがミコトの両肩を握った。
つい先日、ミスラとクロノスの替え玉を二人には頼んでしまったのだ。
「身共に懐いている二人の命を、言うことを聞かねば魂魄ごと奪うと。身共の情があの二人に向けば向くほど、二人にかけられた呪は深くなる。身共がジルコンの妾になる事を了承すれば、呪は解くといっていたが、それを呑むつもりは全くなかった。知己を消滅させたのもジルコンだ」
下手をしたら、ミヌレットやリンシャンの命など、ジルコンにしてみれば、交渉の道具でしかない。
旅館であったミヌレットやリンシャンの額にフェロニエールが飾られていたのをミコトは思い出す。
あれは、二人が身の内に宿している輝石だ。
それを表に出すことで、ミコトの存在を感知しやすくし、ミコトの意識が二人に向いた瞬間呪いが発動してしまう。
幸いミコトが記憶を消していたから難を逃れた。
「だからミコトは自分で記憶を封じていたのか」
エニシの言葉に、ミコトは静かに頷いた。
「思い出してしまったと言うことは、あの二人にかけられた呪が発動してしまう…」
ミコトが蒼白になっている理由がまさにこれだ。
自分の我儘で、記憶を取り戻したい所為で、2人を危険な目に合わせてしまうことになる。
「…ここの部屋にいる間は平気だ。スピネルが結界を張ってくれている。スピネルの結界は一級品だから、攻撃はソコソコだけど、守りに入ったら右に出る者は誰もいない。たとえばこの空間でどんな神通力を発動しても誰も気づく事はない」
エニシの言葉にスピネルが反応する。
「攻撃はソコソコってなんだよ。ソコソコって」
憤慨した様子を、示すものの、スピネルの結界が揺らぐ事はない。
「まあまあ」
「お前はあの二人に、クロノスとミスラのフリをさせると言っていたが大丈夫だろうか」
ミコトが両手を祈りを込めるように組んだ。
「…や、それは大丈夫じゃない…かも」
エニシが顔を引き攣らせた。
魔界の者は、后の差し金でミスラの居所がわかった瞬間命を狙うだろう。
天界の者は、大神界の大神ジルコンの意のままに動く駒、ようは手下のようなものだ。今頃血眼になってミスラの存在を探しているに違いない。
現に、神殿で用意された今回の特殊部隊もジルコンからの命令で天界を経て作られたものだろう。
その中に、エニシやミコトが紛れている事に気付かれていないのが不幸中の幸いだ。
エニシから見ても、ハルはとても良いやつだと思う。だが立場を考えると注意が必要な人間なのだ。
ハルは元々高位神官で天界と通霊を行っている立場の人間なのだ。ハル自身はとても人が良いが天界に情報が筒抜けになってしまう事を危惧しなければならない。ハルの手足になって動いているアンチュルピーにしてもそうだ。
きっと、今頃昨日の一件は天界に伝わってしまっているだろう。
ミスラとクロノスが見つかったと。
そうなれば、天界を通して神界、魔界にも情報が流れてしまったといってもおかしくはない。
そうなると、危ないのはミスラとクロノスのフリをしているミヌレットとリンシャンだ。
「エニシ、お前の手は二つしかないだろう…身共のことは捨て置いて構わないから、二人を助けに行ってやれ」
ミコトの言葉に、エニシはニカっと笑った。
「ミコトは馬鹿だね。俺がなんのために頑張って、冥神界の大神にまでなったと思うのよ」
歌うように軽い口調だ。
「エニシ」
「大事なものを一つだけしか護れない奴なら世界を作ったり壊したり出来るハズないっしょ。ミコトに傷一つ負わさない自信しかない」
重大な事を伝えた筈なのに、こともなげにエニシは歌うように誦じた。
「…」
全てを引き受けて、守り切るとエニシはいう。
なんて強くなっているのだろう。
ミコトは、エニシから目が離せない。
「勿論ミヌレットとリンシャン2人も助けるケドさ。ミコトの大事なものごと守れるようにって、強くなったんだし。まあ、ここでゆっくり休みながら見てなよ」
そういって、エニシはミコトの横に小さいサイズのエニシ型のぬいぐるみを置いた。
「エニシ…」
「スピネルはここに置いてく。不安になったら、ぬいぐるみでも抱いてて、遊んでてくれればすぐに戻ってくるよ」
エニシはそう言うと、スピネルのところに移動する。
「俺はここで、ミコトのお守りをしてりゃ良いんだな」
「うん。ハル達にはミコトが調子を崩したから、スピネルに面倒を見てもらってることにする。あとは頼んだ」
そう伝え、ミコトに手をヒラヒラ振ると、なんてこともないようにエニシは部屋を出て行った。
スピネルは、記憶の戻ったミコトと部屋に二人きりにされ、正直どうしたものかと悩んでしまっていた。
ミコトは饒舌な方ではないし、スピネル自体もどちらかといえば、話題を振る側ではなく、聞く側一辺倒だ。
エニシは、ミコトの記憶が戻った事実を他にバラさないように結界を張り、替え玉になってくれている者達を助けに行った。
だが、記憶が戻ったというミコトの変化を抑え込む自信などスピネルは微塵もなかった。
このまま、エニシが戻るまでこの部屋で監禁状態というのは、精神的になかなかに厳しいものがある。
ミコトは元々表情が薄かったので、記憶が戻ったからといって、急に性格が激変したという感じもない。
違いがあるとすれば、少し所作が記憶喪失の時よりも多少丁寧になっているくらいか。
「ミコトは、動じてないんだな…」
スピネルがドアに体を預けたままで呟いた。スピネル自身が記憶喪失になったとしたら、急に入り込んできた記憶を持て余してしまいそうだ。
記憶がない時に周りを取り巻いていた環境と、記憶が戻った時の環境の違いを擦り合わせ、どちらの自分も自分だと融合することが大変なのではないかとスピネルは感じた。
「…動揺していないわけではない。というか正直、記憶を思い出すなどと言い出した身共自身に呆れている」
苦い顔をして、ミコトは頭を抱えた。
「っていうと?」
「記憶を封じたのは、他ならぬ身共自身なのだ。だというのに、身共の我儘で記憶を取り戻してしまった。その結果スピネルに迷惑をかけてしまったわけだ」
ミコトは、エニシが置いていった人形を手に持って、ミコトの代わりにスピネルにペコリと頭を下げさせる。
「エニシが慌てて俺に結界を張らせた事に関係あんのか?」
「…ああ。エニシの機転は一級品だ。記憶が戻った身共の波動の変化によって、ミヌレットとリンシャンに呪いが発動する鍵になっている事にいち早く気付くことができたのだろう。流石としか言いようがない。身共も急に神通力や霊力が戻って戸惑った」
あの一瞬で、エニシはそこまで先を読んだというのだ。後輩である上司の能力の高さには毎回スピネルも舌を巻くが。
ミコトもミコトで驚くような事を言ってのけている。
記憶のなかった時と、今と差程の違いはないとスピネルは思っているし、気づきもしなかった。
霊力の揺らぎなど無きに等しい時思っていたが、一気に戻った霊力を一瞬で制御したというのだ。
結界を張ったタイミングは完璧だとは思うが、2人の凄さを一瞬でスピネルは体感した。
「ミコトは使おうと思えば神通力が使えるのか」
見た目は完璧な人間だ。
一緒に旅をしていた頃のミコトと寸分の違いものない。
「ああ」
そう頷くと、ミコトは自在にエニシのぬいぐるみを動かしてみせた。
しかも、周囲の空気感を変える事もなく結界に負担も掛けることもない。
巨大な力を持てば持つほど、細部の変化をコントロールすることが難しくなるというのに、まるで見えない操り糸でも使って物理的に動かしているようにしか見えない。
お辞儀をした後で、ミコトはぬいぐるみだったエニシを実体化させてみせる。
「…なっ…え、エニシ???ミコト…これは?」
スピネルは唖然と口を開いた。
「ああ、エニシがこのぬいぐるみに込めたものを実体化させてみたのだ」
ぬいぐるみのエニシは、ミコトを寝台の上に押し倒した。
どうも願望が入っているらしいエニシはミコトに不埒な事をしようと試みているようだ。
ミコトは、想像と違う動きをするエニシに戸惑いをみせている。
てっきり、話し相手にでもなってくれる気かと思い実体化させてみたのだ。
まさか、スピネルがいる前で、押し倒してくるとはミコトは思ってもみなかった。
「スピネルっ…」
濡場など見たくないだろうと、助けを呼べば、スピネルはクラクラしながら実寸大のエニシを引き剥がした。
「本体が遂げる前にそんな事したら、引き裂かれるぞ?」
ジトっとした目でスピネルを睨みつけている瞬間、ミコトはエニシをぬいぐるみの姿に戻した。
ぬいぐるみに抱きつかれている分には無害にしか見えないのだが、実寸化して良いものと悪いものがあるとスピネルは内心で悪態をつく。
それにしても、ミコトの能力は目を見張るものがあった。
エニシの力の凄さは間近で見て知ってはいるが、ミコトも負けてはいなさそうだ。さすがエニシを負かす唯一の存在だっただけのことはある。
これだけの事が出来るのならばとスピネルは一つの案を提唱してみることにした。
「なぁ、俺が結界を張ってる間にミヌレットとリンシャンとの記憶部分のみ、もう一度記憶を封じればいいんじゃないか?ミコト自身にではなく、このぬいぐるみの中に」
スピネルの言っていることはメチャクチャだが、一理あった。
「…確かに名案かもしれない。このぬいぐるみは、身共を守ろうとする意識が強そうだ」
見たところ、保存機能がついていそうな気がするとミコトはスピネルにぬいぐるみを渡した。
このぬいぐるみに、出してはいけない記憶として封印すれば、堅牢な開かずの金庫に情報を入れることが出来るだろう。
そうすれば、ミコトもスピネルも部屋に居続けなくても済み、エニシ達に合流できるというわけだ。
「では、記憶を移動させるからミコトの手を…」
スピネルに促され、ミコトは右手を差し出した。
「さすが、スピネルは凄いな。目の付け所が違う」
年下の筈のミコトに褒められ、嬉しい時思ってしまったことにスピネルは自嘲してしまう。
スピネルはミコトの二人への記憶を取り出して、ぬいぐるみに移していく。
神界にいるミヌレットとリンシャンにまつわる記憶を取り出して、保存しておけば、エニシが見たい時に見る事もできるので効率的だ。
ミコトが知っているのは、医者のミヌレットと看護婦のリンシャンという存在のみになる。
そして、保存したミコトの記憶は、このぬいぐるみの作り主だけが見れるように呪文をかけた。
「もう、結界を解いても平気だ。エニシ達に合流しよう」
ぬいぐるみを、片手に持ってミコトはスピネルを促した。
「あ、一つ注意点が」
スピネルが部屋を出ようとしているミコトを立ち止まらせる。
「なんだ?」
一つの一つの動作の美しさが、ミコトの美しさに拍車を掛けていて、スピネルは目が離せなかった。
「記憶がない時よりも、今のミコトは所作が綺麗すぎる」
ジルコンから言い寄られていたのも頷けるほどに美しいというか艶やかなのだ。
指先まで行き届いているのか、一つ一つの動作に華があり目立ってしまう。
下手したら、ミコトを贔屓しているハルや絡むのが好きなカイレンならば違いに気付いてしまいそうだとスピネルは思った。
「了解した。気をつけよう。大神になる為の宮にいた頃、徹底的に叩き込まれたのだ…」
ミコトはそういうと、記憶がなかった頃の所作に直した。
すぐに対応できるところにミコトの優秀さを垣間見て、スピネルは息を呑んだ。
「アンチュルピーの新しく持ってきた情報によると、姫が見つかったらしいよ。場所は半径5里以内の場所にいるってさ」
ハルは、アンチュルピーが持ってきた地図を開きながら5里以内に当たる場所を丸で囲った。
「5里…ねぇ。いささか広くねぇか?」
カイレンが両腕を組む。
「そうだね。この地図だと…あたりをつけるなら、図書館と寺院の2箇所かなぁ」
大きな施設で、姫の情報が集められるから。ハルは図書館と寺院の場所に違う色で丸をつけた。
「…情報が集められる…ねぇ。ハルはどうやって、探そうと思ってるんだ?」
今まで黙っていたエニシが口を開いた。
図書館と寺院の2つに絞るということは、ハル自身は、すでにミスラ(リンシャン)とクロノス(ミヌレット)が見つかったという情報を得てはいないらしい。
ハルたち高位神官と連絡を取り合っているのは天使たちなのだが、詳しく知らされている訳ではないのか。
もしくは、探しやすい場所に誰を配置するかで、ハルがどれ程の情報を天界から仕入れているかが分かるなとエニシは思う。
「うーん。ミコトとスピネルがいないのは痛いよね。僕とカイレンが寺院に行って、エニシが一人で図書館かなぁ」
のんびりとハルが言う。
「え、お前と寺院かよ。こちらに姫さん達がいる可能性低いって思ってないか??」
カイレンが憤慨してみせる。
ホテルの一階のロビーは、ピアノの生演奏が催されているおかげで、3人の声は幸い響くことはなかった。
「なんでさ。エニシは1人、僕たちは2人だよ?」
「…や、お前いたら、足手纏いなことないか?ハンデ戦になるよな」
カイレンがニヤリと笑ってハルを揶揄う。
「別に、僕がエニシと一緒に図書館に行くでも問題ないし…」
戦闘において足手纏い感がいなめないのを自覚しているのか、ハルは唇を尖らせた。
「ハルは俺と図書館って事でいいか。図書館なら好きな本を読んでいてくれれば良いし」
エニシの言葉に、ハルが憤慨する。
「どういうことさ。邪魔するくらいなら読書でもって意味だよね」
「あ…いや。姫が好きそうな何かとか調べられないかな…って」
エニシの苦しい弁解に、ハルはプッと吹き出した。
「…もう、行く場所は決めたのか?俺らも同行できそうだけど、どうする?」
ミコトとスピネルの登場に、ハルとカイレンは喜び、エニシはギョッとする。
結界の中にいなければならない状態の筈だからだ。
「寝てろって言ったのに…もう大丈夫なのか?」
エニシが聞けば、ミコトはスピネルの顔を見た後小さく頷いた。
「平気だ。出すもの出したし。出たらスッキリしたってさ」
エニシのぬいぐるみを抱えて見せると、それだけで状況が飲み込めたらしいエニシが瞬きで応える。
「なら、オレとハルのとこには、スピネルが来るか?」
「ああ」
スピネルがぬいぐるみを抱えたまま頷いた。
ぬいぐるみに堅い結界をかけてあるだけに、肉体的に消耗しない図書館の方がスピネルもありがたかったのだ。
エニシの頭の回転の良さに助けられているなとスピネルは思った。
「ならば、身共はカイレンと行こう」
「よっしゃ、そう来なくちゃなっ」
明らかにハルと組まされた時とは違う反応を見せたカイレンにハルは思いっきりカイレンの足を踏み付けた。
「いってぇ。いっつも、エニシばかりがミコトをばっちまうからタマには良いじゃねーか」
「確かにっっ。エニシがミコトを1人で占有しすぎだ…僕なんてミコトの役に立ちたくて、神殿の仕事を部下にお願いして来たっていうのに、全然近付かせて貰えてないんだから…」
プーっとただでさえ丸い頬を膨らませる。
「なら、ハルもカイレンとミコトと一緒に寺の方にいくか?」
「え、ミコトが行くなら行こうかな。ミコトはさっきまで調子が悪かったんだし…心配だから」
掌を返したハルにエニシは吹き出した。
「オッケー。なら今回は、俺とスピネルが図書館、お前らが寺院に行く事で決まりな?」
エニシが両手をパンと叩き場をお開きにし、スピネルを連れ立ってホテルを後にする。
残されたハルがアンチュルピーに持たせる手紙を書き記し始めた。
記憶が戻ったミコトは、カイレンの頭から足まで不躾な視線を向ける。
記憶がない頃のカイレンとのやり取りは当然覚えている。心の中を読むのをやめる前の裏表のなさも記憶済みなのだが、それだけではない何かを記憶を戻したミコトは感じていた。
エニシやスピネルが何も気にしていないところを見ると、ミコトだけが感じているただの違和感なのかもしれない。
ミコトの神界…ユートピア?いや、もっと古い記憶か。
どこかに引っかかるのだ。
過去に出会った誰かと似ているから気に留まっただけか。
記憶を取り戻した今、誰かの心を覗くことは危険だと判断し、極力神界の能力はここでは使わぬとミコトは心に枷をした。
あまりに遠慮のないミコトの視線に気付いたカイレンが目を細める。
「ミコト?どうした?ずいぶん熱い視線じゃねーか。俺に惚れたかぁ?」
ニヤニヤしながら、ミコトの肩に手を回した。
「そこいらの妓女と同じように扱うな」
ミコトが眉間に皺を寄せる。
全く懲りない男だ。
「…ふーん。なら特別扱いしてやれば良いわけか?」
肩にかけていた手をすっと離して、くるりと身を翻した。
肩膝をつき、カイレンはミコトの手をたおやかに取り、己の手を添えてみせる。
思ったよりもサマになっている動きにミコトは苦笑いを浮かべた。
「身共に投げられたいと」
「お姫様…ここは格式高いホテル故、しとやかにされるべきでは?」
執事か下僕を真似て慇懃無礼に振る舞う。
揶揄う事が好きなカイレンらしいといえばらしいのだが、少しの違和感をミコトは感じた。いつもならば揶揄い方がもう少し能無しなような気がすると若干失礼な事をミコトは思ってしまう。
「カイレン…身共を怒らせてどうするつもりだ」
ジロリとミコトが睨みつければ、カイレンが身軽にミコトから距離を取った。
「いやいや、いつものミコトより艶やかだったからつい…な。悪かったって…」
両手をあげて、カイレンが戯けてみせる。
ミコトは、不愉快だと呟いて顔を背けた。
内心でミコトはギクりと動揺する。
カイレンは記憶の戻ったミコトの違和感に気付いているかのような言い方をしたのだ。
もしかしたら、何の意味もないカイレンの気まぐれにすぎないかもしれない。
深く受け取りすぎては、更にミコトの僅かな変化を肯定してしまうようなものだ。誰に対しても、記憶のない時の振る舞いをすれば良い。
そうミコトは己に言い聞かせた。
今日は、スピネルに言われた事をするまでだ。エニシが眠りから醒めなかった時に世話になった医師のミヌレットと看護婦のリンシャンを見つけ…危機が迫れば助けろとスピネルから命を受けている。
冥神界の大神クロノス(エニシ)の片腕でもあるルミナスがスピネルの本性なのだ。
多分一番情報を持っているスピネルの言う事を聞いていれば間違いはないだろうとミコトは判断を委ねる事にした。
「ミコト、本当に体大丈夫?」
戻ってきたハルがミコトの額に手を翳す。
「ああ。問題ない。心配をかけた」
ミコトが小さく頷くと、態度の差を感じたらしいカイレンが唇を尖らせた。
「なんで、俺が触るとキレるのに、ハルには良いんだよ。いつも俺にだけアタリがキツくないか?」
「や、エニシにも結構言いたい事を言ってる気がするケド…僕にしてみたら、そちらの方が羨ましいよ?」
ハルがスンと鼻を鳴らした。
「ハル?」
ミコトがハルを気遣えばハルがギュっとミコトの腕にしがみつく。
「もう、ミコトのそういう気遣いが優しいから甘えちゃうんだよ。要するにミコトにとってカイレンやエニシは気遣わずに付き合える相手って事だよっ」
ハルの言葉に、ミコトがギョっと目を見開いた。
自覚が全くなかったからだ。
エニシはともかく、カイレンまでそういう扱いをしていたという事に理由はない。
ただ記憶のなかったミコトが、カイレンの性格ならばこれで良いだろうと感覚的にやってしまった事だろう。
「…ハル、それは良く言いすぎだ。二人に関しては、強靭な精神の持ち主が故に扱いが雑なだけだ」
「やっぱヒドすぎるじゃねーか」
カイレンとハルがミコトを挟み蹇々轟々と言い合いながら、ホテルの外に踏み出して行った。
《冥神界》
一方、エニシとスピネルは、クロノスとルミナスの姿で冥神界に戻っていた。
「まぁ十中八九は、向こう(寺)が本命だろう」
クロノス(エニシ)が、冥神宮の広間の椅子に腰掛け足を組んだ。
「何故、そうと言い切れる…の…ですか?」
ルミナス(スピネル)が怪訝そうな顔をする。クロノスの言葉がいつものエニシの時とは違う事に気付き、一瞬で配下のそれに切り替える。
「ああ、ミヌレット(ルヴァ)とリンシャン(サイファ)の性格を第一に考えたのだ」
クロノスが冥神界の大神になる前の世で、まだ俗界の王子であった頃。
二人の弟であったミヌレットとリンシャンは、隠れるのに適している図書館は選ばないに違いない。
図書館は人が多く、追われる身となった二人が、被害者が増えそうな方を選ぶ筈はないのだ。
二人を身代わりにしてからというもの、俗界の天気は常に安定している。
普段は正反対で喧嘩ばかりでも、守るもの(目標)が決まった時の団結力は他の誰よりも秀でているのだ。
「で、クロノス様は何故、冥神界にお戻りになる事を決めたのですか」
戻ってからの宮殿に他の気配を感じつつ、知らぬ顔でクロノスに尋ねる。
「どちらが今回の件に関与しているのかを炙り出してやろうと思ってな。魔界の王を呼び出すことにしたのだ」
クロノスが目配せする。
どうやらクロノスも最初からアンデシンの気配を察知していたらしい。
だから、冥神界に入った途端に公務に出る時のクロノスの話し方で話し始めたのだ。
いつもながら、この優秀な後輩である上司はどこにも抜け目はないらしい。
俗界にいる時間が長いと、どうにも人が良くて甘えん坊だった頃の弟分にしか見えないのだが、今は微塵も感じさせない。凛として威厳がある冥神界の大神がそこにいた。
おいそれと、タメ口でなど話してはならない雰囲気を醸し出している。
流石だな…とルミナスはクロノスの能力の高さを内心で賛辞した。
「…なるほど、それではアンデシン殿のお迎えの支度を致しましょう。ところで何故魔界の王だったのですか?」
ルミナスが大神であるクロノスから一歩引き、分をわきまえている優秀な部下然として尋ねた。
それをクロノスは、当然のように受け止め、眉一つ動かさず泰然自若として、頷いてみせる。
「天界の大天使を呼んだところで、神界からの命令を忠実に遂行しているだけの彼らでは、本質まで辿り着けないであろう」
「なるほど。確かに天界の彼らは、純粋で人を疑う事をしないかもしれません。だから魔界の王なのですね」
ルミナスはきちりと背を伸ばすと、指先に力を貯め込み、指先の動き一つで、宮内を客人対応用の装飾に変更した。
「本質に切り込むのであれば、魔界の王の方が、食えない御仁だが肝が座っていて、話が早い…なぁ、そうであろう?アンデシン」
大広間の入り口の扉を目線だけでクロノスが開けば、そこにはアンデシンが当然のように立っていた。
先ほどまで、いた事をクロノスとルミナスに気付かれぬよう存在感や魔力の流出を最低限まで消していたというのに、それすら否定も肯定もしないでいる。
「クロノス様…お元気そうで、何より」
アンデシンが大袈裟に挨拶をした。
あえて拱手という俗界の異国の文化で敵意のないことを表しているところが本当に食えないとルミナスは思った。
拱手をしようがしていまいが、視線一つで神界以下の存在ならば消し去ることもできるだろうに。
アンデシンという男は、天使かと見まごう小綺麗な顔をしていながら、笑みに温度はなく、それでいて言葉に毒を含んで相手を誑かしていく危うさを感じた。感情の起伏を普段抑える事を日常にしているルミナスでさえ、アンデシンと舌戦をしようものならば、心を乱されずにいられるとは思えない。
だというのに、クロノスはといえば、挨拶されて当然といった風に全てを受け流している。
公私を分けている上にクロノスは己の中で優先順位を明確に分ているらしく、正直ミコト(ミスラ)が絡むことがない限りは、動揺などとは縁のない男だとルミナスは思う。
二人の間の脇に控え目を伏せた。
「ミスラの命を狙っているという噂を耳にしたが本当か?」
嘘は許さないとばかりに、クロノスは秤を右手に持ちアンデシンを覗きこんだ。
「本当だ。だが私の意思ではない」
堂々と、アンデシンが答える。
秤の針は嘘の方に傾く事はない。
「正直だな。何を企んでいる」
クロノスが、秤を持ち替え、片手で剣を抜きアンデシンに差し向ける。
結構な殺気をクロノスが放っていてもアンデシンは眉一つ動かさない。
「企み…か。考えているところさ。まだなにもしてはいないよ」
ゆったりのんびりアンデシンが答えた。
「ならば問おう…誰の差金だ?」
「答えるのは面倒くさい。実際見てみるがいい」
アンデシンが片手で陣を描き、大神ジルコンのの后であった筈のスフェーンを召喚する。
姿を現したものを見て、クロノスが僅かに目を細めた。
「コレはなんだ?」
上等な衣装を着てはいるが、貞淑さや清廉さとはかけ離れた姿である。衣装をはだけ胸元をさらし男を誘うように発情したメスの体をしていた。
クロノスやアンデシン、ルミナスをそれぞれを眺め、身を震わせている。
ルミナスは目を大きく見開いた。
「こいつが、私にミスラを殺せと言ってきた張本人さ」
「…何者だ」
クロノスはアンデシンを睨みつける。
「この人が言ったんだよ。《ミスラを殺して》って。だから私はこう言った。《ミスラよりも価値が貴女にあるならば頼みを聞こう》と。真実を映す鏡を彼女に見せたら、醜くて卑しい娼婦になってしまった。この人にミスラ以上の価値があるはずもないだろ?」
アンデシンは、クロノスの苛立ちを煽るように、芝居仕立てで台詞のようにまくしたてた。
「こいつは何者なのだと聞いている」
クロノスの声が一段低くなる。
「后だよ。大神の…ジルコンがミスラに夢中なのが許せないってさ…私に色仕掛けで迫ってきたんだ。貞淑さだけが売りだったというのに、彼女はミスラ憎さに全てを投げ捨てたんだ。可哀想だよね。報われない」
アンデシンは綺麗な手をスフェーンの頬に這わせた。
「あ…アンデシン様…」
アンデシンの手を取りスフェーンが口付ける。
アンデシンがその手を自分の唇に持っていき口付ければ、スフェーンは腰砕けになった。
視線をずらした途端優しげな顔を消し去り、アンデシンは真顔のまま手を引き抜いてスフェーンがいた陣を消し去った。
「哀れだよな。ジルコンは自分の后が失踪したことさえ気付いてないんだよ?ミスラを殺すことさえ忘れて、快楽に溺れたくもなるとは思わないか?」
アンデシンの片目は慈愛の色に満ち、片目は残酷な色を秘めている。
「もういい。事情は把握した。魔界は今回の件には関与していないのだな?アンデシン…」
クロノスの声にアンデシンはふんわりと微笑んだ。
「…そうだね。今は…って言っておこうか。彼女がミスラより綺麗になることがあれば話は別だけど?」
「用は済んだ…感謝する」
クロノスが席を立ち、アンデシンに退室を促した。
「聞いてもいいかな?クロノス様。大切なものを引き合いに出されたら、ミスラならどうするかな?清廉さは守り通せるのかな」
去り際にアンデシンが振り返る。
「…アンデシン…やりたいなら止めはしない。まあ、やる前に魔界ごと消し去るだけだ」
抑揚のない声でクロノスが呟いた。
強烈な怒りが伝わり、端にいるルミナスの背筋が凍りつく。
「私がいつやると言った。やるのは私ではないよ…じゃあね」
ヒラヒラと手を振って帰りは出て行った。
最初の拱手が嘘のような、敬意のかけらもない様子だ。
アンデシンという男。天使のような優しげな顔で、絶望にたたき落とすだけのことはある。
まるで悪友にでもいうかのような軽さでその身を消した。
残されたルミナスが緊張の糸を解く。
「ジルコン様の后…スフェーン殿…あれが?」
思わずポツリとルミナスの口からこぼれ落ちる。
ルミナスが冥神界のクロノスの直属になる前、何度かスフェーンとは顔を合わせることがあった。
まだ、后になる前の話しだ。
わからないところは丁寧に何度も教えてくれる優しい女神だった。
密かに憧れていた。
派手さはないものの細かいところまで気がつく、思いやりのある方で、ジルコンに娶られる事になった時には多少心にくるものがあった。
恋心を抱く者も多く、誘いはあっただろうに、誘いには乗らない貞淑な女神であったように思う。
それが何故このような娼婦のようになってしまったのかとルミナスは眉を顰めた。
「…スフェーンの変わりざまにショックを受けているのか?」
クロノスがエニシのような声音で話しかけているのに、ルミナスは気付かないまま、口を開く。
「…あのような方ではなかった故」
そこまで、変わってしまうほどの激情とは何なのだろうと、ルミナスはポツリと呟いた。
ルミナスは、初恋の人でもあるスフェーンがジルコンの元に嫁ぐと知った時、多かれ少なかれショックは受けていたものの、ジルコンを殺してまで欲しいとまでは思わなかったのだ。
スフェーンが幸せに暮らせるようにと祈りを捧げる余裕があった。
幸せになって欲しかった人のあんな姿を見たい者がいようか。
こんなことならば、勇気を出せば良かったとルミナスは歯噛みする。
彼女をあれほど変えたジルコンをルミナスは許せなかった。
ルミナスのいつもと違う様子から、全てを察したクロノスはルミナスの肩をポンと叩いて、一人で部屋を後にした。
ミスラが存在したせいで、と考えるような男ではないだろうが、きっと彼女をあんな風にしてしまったジルコンの裏切りのような行為をルミナスは許さないだろう。
アンデシンも言っていた。
『やるのは私ではない』と。
アンデシンでない誰かが、ミスラの大切なものと引き換えに、ミスラの貞淑さ清廉さを手折ってしまおうとしているというわけだ。
アンデシンの話には、真実を映す鏡が出てきた。
クロノスの懐にも先日、払ったカケラから精製した真実の鏡がある。
真実の鏡は、天界の法器だ。
ならば、アンデシンが天界の誰かと通じているという事だろう。
アンデシンが天界、神界の動向を知る事ができているとして、今回は魔界が関与していないとしたら、やはり寺が危ないという事だ。
クロノスは、もう一度部屋に戻ると、考え込んでしまっていたスピネルの肩を揺らした。
「スピネル、寺の方に合流するぞ」
冥神界で名乗っているルミナスではなく、あえて俗界にいる時の名前でクロノスは呼んだ。
クロノスの声で我に返ったスピネルは、気合を入れるように自分の頬をぱちんと叩く。
「了解…大丈夫だ。公私混同はしない」
「頼もしいねー!スピネルは」
いつものエニシの揶揄うような口調に、スピネルはホッと息を吐いた。
「へぇ、ここは西の国には珍しいお寺だなぁ。僕のいる神殿とは風合いがまるで違う」
ハルが観光客候でキョロキョロと寺の造りを見てはしゃいでいる。
西の国には、天界を模した教会が多いというのに、ハル、カイレン、ミコトの3人が前にしているお寺は、風合いが全く違う東の国にある山門、手水、本堂がある造りの寺だった。
西の国には珍しいらしく、参拝客と観光客が入り混ざっている。
山の上に建っている寺で、山門を抜けると階段が数百段とあるのを見て、カイレンが露骨に嫌な顔をした。
「…まさかと思うんだが、コレ登るのか?…今から」
山頂付近を見上げながら、カイレンが目を細める。
明らかに首を上に上げなくてはならないほどの階段が九十九折りになりながら、山の上まで繋がっているのだ。
「そうだね…行くしか…ないよね」
ハルも片頬をヒクヒクさせる。
明らかに運動不足のハルは、ここに移動してくるまででほとんと体力を使い果たしていることは明白だった。
「ハルはここにいてもいい。身共が一人で行こう」
「ミコト…お前なぁ、一人でって…俺がいる事を忘れてねぇか?」
カイレンがずいっと二人の間に割って入る。
「カイレンは体力馬鹿だから、上までいけるだろ?僕は足手纏いになることは確実だしね。アンチュルピーの帰りを下で待ってるから、二人で行ってきなよ。僕が山門のところで待ってれば、人の出入りとか分かるし、見逃さないだろう?」
ハルがそう言って二人を送り出す。
体力のない己を少し恥じて、こんな事ならば日々鍛錬しておけばよかったと山門の脇に置いてあるベンチに腰を下ろした。
ミコトが敷居を踏まないようにして山門をくぐり手水を取る。
その流れるような所作が異様に美しくて、思わずカイレンは山門の入り口で立ち止まってしまう。
「あいつの姿勢とか所作…どうなってんだ?」
顔の造形だけでなく、小さい顔、スッとした首筋、伸ばされた背中。
長い手足のどれをとっても文句のつけどころがない。
カイレンのように男らしい体型というわけでもなく。
かといって女女した柔らかくて小さいという雰囲気でもない。
性別はと聞かれると、誰もが止まってしまう不思議な存在だ。
女装した男でもなければ。
男装した女でもない。
ハルが男扱いしているせいで、誰も疑ってはいないが、実際はどちらなのか。ひん剥いて確認したわけではないからわからないのだ。
風呂に一緒に入った事があるわけでもなく。
だが、カイレンやエニシを含む一線級の男達を負かしていく強さから、女である筈もない。
まさに中性的な綺麗さとでも言おうか。
カイレンは綺麗であれば、男も女も関係なくイける口なのだが、口でミコトの外見を揶揄うことはありはしても本気でどうこうしようとは思ってはいない。
不思議と近くにいても、妓女などを相手にしているような、あわよくば閨で一度手合わせしてもらいたいみたいな気分にはならないのだ。
むしろ、どこか目が離せなくて、ついミコトを気にしてしまう。
透けて消えそうな陶器のような肌、光を反射して七色の虹彩に見える眼差し。
美しすぎる姿を見慣れていないのかとカイレンは自嘲する。
カイレンだけでなく周囲のお参りに行こうとしている人々まで足を止めて見惚れてしまっている。老婆などは現人神だと手を合わせるほどだ。
カイレンはぼんやり山門の入り口で立ち尽くしてしまう。
「置いてくぞ」
先に行こうとするミコトが、振り返ってカイレンを急かした。
そのままミコトに合流しようとして、手を清めてないと指摘され、わざわざ手水まで戻される。
「全く、細かいことをぐちぐちと」
カイレンが文句を言えば、ミコトは無視して歩き出した。
圧倒的にムカつく態度だというのに、その反面わけのわからない嬉しいような感覚が起きてくることにカイレンは内心戸惑う。
冷たくされる事が好きという変な趣味はなかったはずだ。
気難しい手のかかる我儘な妹か弟を見ているようなそんな気分になってしまう。
「おいっ、待てって」
スタスタ階段を登っていくミコトを2段飛ばしで追いかけた。
カイレンが横に並んでも、ミコトは一瞥くれただけで、言葉も交わす事なく階段を登っていく。
「おいお前、そんなだと友達できねーぞ」
カイレンが口を開けば、ミコトがピタっと足を止めて、カイレンを一段上の階段から見下ろした。
ミコトが鋭い瞳をカイレンに向ける。
「…身共が友達が欲しいと、いつ言った」
ポツリと呟いた後、カイレンに背を向け、一人で階段を登り始める。
健脚なのか、身軽なのか、上る姿は軽やかで、カイレンの方が置いて行かれてしまう。
「まあまあ、怒るなって。言いすぎたって…」
「…気にしてはいない」
にべもなく言い放ち、取り付く島のないミコトにカイレンは肩をすくめた。
「全く、お前は馬鹿じゃねーの?」
気にしていない態度ではないだろうと内心で突っ込みたくなる。カイレンは思わず足を止めてミコトを馬鹿呼ばわりした。
「…」
カイレンの声音が変わったことに気付いたミコトは、冷たい視線をカイレンに向ける。侮辱の言葉を言われ続けられる意味がわからず、本当に人の気持ちがわからない馬鹿かもしれないとミコト自身が思い始めたからだ。
「お前は友達を欲しくなくても、相手は分からねーじゃねーか。お前と友達になりてぇーって思ってる場合はお前、すっげぇ酷い事言ってる事になるの分かってねぇーの?って言ってんだ」
カイレンの口から放たれるど正論に、弾かれたようにミコトは、カイレンを凝視した。昔、一度言われたことがあるからだ。
「…二度目だ…それを言われたのは…普通ならば、身共の言い方で怒って離れていく者が多いのだが」
ミコトは愉快だと、ばかりに無表情の顔に薄っすら笑みを浮かべる。
「当然だろーが、お前だけの言葉が全て正しいわけじゃねーだろ?お前の言い分があるように、俺にも俺の言い分がある、どちらの言葉が重いかなんて、決められねぇだろーがよ」
階段を登りながら、カイレンに嗜められる。適当に生きているようにしかみえない遊び人のカイレンの方が、沢山の人と交わる分、色々な人がいて、色々な価値観を人が持っていることを分かっているようだ。100人いれば100通りの正義がある事を理解している。それを知りながら適当なフリをして生きているカイレンという男は意外と繊細な一面を持っているのかもしれない。
「思ったよりまともに考えてるのだな…」
「フン。相手にとって、どれだけ信頼を得られてるかによるだろ?日頃の行いと信頼なんぞされる事など稀だがな」
ニヤっとカイレンが口角を上げた。
日頃の行いが悪いから、信頼がないのだと分かっていて改めないらしい。
「…何故分かっているのなら…」
態度を改めないのだとミコトが問えば、カイレンは視線を天に向けたあとミコトの瞳を覗き込んだ。
「凄いヤツは、わかってくれるだろ?…今、ミコトが気付いたように…」
「…それでも、それで世論はついてくるまい。外面の良い弁論のたつ者に淘汰される」
だから、少し真っ当な生活をするべきだとミコトが苦言を呈す。
かつて、エニシ(クロノス)がまだ人間の王子だった頃、ミコト(ミスラ)になる前のソラであった頃の事を思い出した。
「淘汰…上等じゃねーか。俺のやりたい事、やろうとしてる事、守りたい物なんざ、俺一人が知ってれば良い」
カイレンが遠い目をして、階下に広がる街並みを眺めた。
ミコトは、カイレンの姿にソラだった頃の知己の姿が重なって見えて、苦い気持ちを押し込めるように瞼を閉じる。
階段を登り上がった山頂にある門をくぐれば、木々に囲まれた住んだ空気がミコトの体内に入り込んだ。
山頂まで登る人はあまり多くはないらしく、人はまばらだった。
これくらいの密度であるならば、探さなければならない、あの医師と看護婦を見つけることも難しくはないだろう。
「ところで、カイレンは今回、探す人が、どんな人物か分かっているのか?」
ミコトが確認すると、カイレンは目を泳がせた。
「んー…知らん。ハルが男女の二人組だって言ってたか?」
あっけらかんというカイレンに眩暈を感じて、ただでさえ無表情な顔から表情が消える。
「それで何故見つけられると思った。どうやって見つける気だ」
声を低くして、ミコトがカイレンを睨む。
「やー!…姫さんと従者なら、姫さんは美人に違いないだろ?美人と聞いて俺が見逃すと?」
ドヤ顔をしているカイレンに対し、ミコトが呆れ返る。
「…否と言えない事が忌々しい」
「だろだろ?…ミコトは知ってんのか?二人特徴とか…」
美人と聞けば反応するのか、カイレンは興味津々だ。
「赤い輝石のフェロニエールをつけた医師と青い輝石のフェロニエールをつけた看護婦の姿をしている」
「…ふーん…フェロニール…ねぇ」
考え込んだカイレンを見て、ミコトは大きく息を吐いた。
「…まさか、フェロニエールが何か…」
装飾の意味がすでに分からないのかとミコトが続ける。
「ん?ああ。アレだアレ…」
それ以上続けようとしないカイレンを見て、やはり分かっていないようだとミコトは目を細めた。
「フェロニエールというのは額飾りのようなものだ」
「あー、そうそうそれそれ。分かってたからなっ」
「…」
シラっとした視線をミコトが向ける。
「ミコト…お前、俺を馬鹿だと思ってるだろーが」
「否定はしないが…外には見当たらないから先にいくぞ」
ミコトは、そのまま鐘堂に向かって歩き、軽く頭を下げた後鐘を鳴らした。
流れるような所作で、香閣で心を清め、蝋燭、線香を納めたあと、本堂前に移動し参拝する。
何故、そこまで優雅に参る事が出来るのかと呆れながら、見よう見真似でカイレンもそれに並んだ。
「ミコトはなんで、いろんな作法に詳しいんだよ」
カイレンがしみじみいえば、ミコトは当然だとばかりに身を翻した。
「学んでいれば、おのずと解る事だ」
「悪かったな…無学者で…」
フテ腐るカイレンを向こうに回して、ミコトは本殿内で行われる座禅会の申し込み場所に移動した。
「カイレン、本殿の中を見てみろ。人が集っているのはアチラだ。今座禅を組んでいる者達の中に、二人はいなかったようだが…」
「え、アレを俺にもやれって言うのか」
カイレンは、本堂内で座禅を組んでいる人々を見て警策で打たれている人を目の当たりにして心底嫌そうな顔をする。
その後に坊主の説法を聞かなくてはいけないものに、参加させられるらしい。
じっとしている事が性に合わないカイレンにしてみたら、警策でボコボコにされる地獄絵図しか想像出来なかった。いざ二人を見つけたとして動けるだろうかという不安さえ出てくる始末だ。
「行くぞ」
カイレンの袖を持ってグイグイと寺の中に入っていく。
既に何人かの座禅会への参加者が待合室の中で待っているが、年寄りばかりで、既に若い者がミコトとカイレンしかいないようである。
中庭は東の国の枯山水が作られていて、緑茶が一人一人に振る舞われた。
ミコトが綺麗な所作で茶を飲む姿が、待合室にいる参加者の老人達の目に留まるのか、興味津々といった風な視線がミコトに向けられている。
「お兄さん方、若いのに感心だね」
明らかに場にそぐわないカイレンに、老婆が話しかけてきた。
「あ…ああ」
「座禅は良い。心が綺麗になる」
目をキラキラさせて言う老婆にカイレンは頷いた。
これでは、逃げるに逃げられない。
お茶を静かに嗜んでいる状態のミコトには、茶のおかわりや茶菓子でもてなす年老いた男女達が群がっている。
ミコトは普段のカイレンへの態度よりもかなり、柔和な態度で礼を述べていた。
こんなので、今回の任務はこなせるのだろうかとカイレンはガクリと項垂れる。
かつて美女だっだ御仁はいるかもしれないが、カイレンの好みかと言われたら、流石にお年が過ぎてしまっているのだ。
かといって、神殿預かりの身としてはら一般人を無碍にも出来ない。
カイレンが助けを求めるようにミコトを見れば、ミコトはミコトでお年寄り方の話を親身に聞いてあげているらしく視線さえ交わることはなかった。一見そっけなくみえるミコトがだが案外、情に厚いらしい。
本堂に通され、座禅用の座布の前部に尻を預け背筋を伸ばしミコトは座禅の姿勢を取る。
座禅の組み方そのものを知らなかったカイレンは座布の上にもろに腰掛け、周囲の老人たちに世話をされていた。
僧侶は責めるでもなく微笑ましく見ているようだ。
ミコトは、静かに目を伏せた。閉じるでもなく本堂の仏のような顔をし無我の境地に入る。
…筈なのだが、ミコトにしては珍しく、まだミコト(ミスラ)になる前のソラと呼ばれていた過去の世を思い出してしまっていた。
修行慣れしている為、傍目からは他所ごとを考えているようにはまるで見えないのが不幸中の幸いである。
ミコトの精神は瞑想にかこつけて、最初に神界いた頃の記憶を巡る旅に出掛けていた。
エニシが人間の王子で、ミコトがソラと呼ばれていた頃の記憶だ。
初めての生まれたばかり魂がユートピアを旅立つ際、神界に行き先が決まり、ミコトはソラという名前を名乗る事に決めた。
神界に移動している場所から見た俗界の空の色がとても綺麗だったからだ。
俗界を経験する事なく神界に登るソラにしてみれば、全てがものめずらしく感じた。
神界の役目を持った神になるまでの間に修行を行う学問所のような場所のことを神界精錬所という。
神界の入り口にある手前門の端に存在していて、神界の作法や魂を磨く修行を行う。
付き合いがいい方でないソラは、神界精錬所に来てからというもの1人でいる事が多かった。
友がいた方が楽しいという概念もなければ、羨ましいという感情すらない。
霊力の高さと外見の美しさが比例していると言われていることから、圧倒的な美しさを持っていたソラは、精錬生から、かなり浮いていた。
俗界を経験した魂を持った者たちは、協調性が高く、皆で賑やかに修行している者が多い。
喜怒哀楽がハッキリしていて、思い遣りの心を多く持っている代わりに嫉妬心や苦手意識といったものも併せ持っている者も少なくはなかった。
ただ、神界に来れる者たちなだけに、持っている資質は高潔が故に表面化はしにくい。
似たもの同士で仲良くしているといった感じだ。
そんな中、ソラと言われていた頃のミコトはいつも一人で蔵書を読んで過ごしていた。
書物を読んでいる時は良い。
見た事のない世界を沢山知る事が出来たし、色々の感情を体験することが出来る。
授業の時間以外は木陰で本を読んでいることが多いソラにある日、唐突にソラのテリトリー内に入ってくる者がいた。
「いっつも、書なんか読んで面白いのか?」
ソラから書を取り上げ、どれどれ?と頁をめくって見せたのは、ソラと同じくらい精錬所で浮いているレンという問題児であった。
ソラが優等生側で浮いているとすれば、レンは逆の意味で浮いている。
太陽に愛されたような小麦色の肌は神界には珍しい存在だ。
表裏がなく、言いたいことはハッキリ言う。上品な者が多い神界の中では珍しく、喧嘩も辞さない気の強さを持っている。
間違いだと思えば、授業中でも先生に食ってかかる始末だ。
授業のダメだしも平気でするし、だるいものはだるい。つまらないものはつまらないと言い放つ。
その癖、文武とも優秀なので隙がなく、それなのに神界を抜け出しては、俗界に降りては飲む、打つ、買うといった素行のあまり宜しくない事ばかりをしていて留年してソラと同じクラスになっていると、ソラも小耳に挟んだことがある程の有名人だ。
神界の役付でさえ、大神の許可を取らなくては俗界に降りられないハズだというのに、抜け道を探し降りてしまえるほどの実力が既に備わっている事を物語っている。
レンという男はどこまでも自分に正直だ。それだけに、揉め事を起こしたくない事なかれ主義な皆々はレンから距離を取っていた。
豪放磊落という言葉がピッタリのレンに本を奪われる形になったソラは、ゆっくりレンに向き直った。
レンは体が大きく、神界には珍しく短髪で鋭い眼光をしている。口角をあげシニカルな笑みを浮かべ、木に片腕を持たせかけて書をもう一方の手に持ったままソラを覗き込んだ。
周囲にいたもの達が、一気にざわめく。
良い意味でも、悪い意味でも浮いた2人の対峙が珍しいらしい。
「返してくれないか」
ソラはゆっくり立ち上がりながら、レンを見上げた。
「まだ、質問に答えてねぇよ?」
ニヤニヤと笑いながら、レンは腰に手をあてる。
ソラは、改めて噂のカイレンを上から下まで品定めでもするかのように視線を往復させた。
白を基調にした衣服を好む者が多い神界には珍しい、紫と白の2色づかいの着物は圧倒的存在感を示している。
紫は高貴な色とされているので問題はないのだが、やたら目立つ。
着崩して着ている様は、書物で見たことのある。
俗界にある東の国の遊郭の妓女が廓の中で客をとる時にしているような格好だ。
正確には、遊んだ後の男が遊女のソレを小粋に羽織っているような風合いとでも言おうか。
傍目には、優等生に絡む不良にしか見えないだろうとソラは肩をすくめた。
実際の周囲の心配的には、美しいどこぞの姫君ないし美麗な殿をナンパしているように見えて、いつもの陰に連れ込まれ悪戯をされるかハラハラしているのだが、己の価値を理解していないソラは、そうは思ってはいないようだ。
「書物は良い。身共の見たことのない世界を無限に見せてくれる」
だから、書を読むことは楽しいのだと、ソラは続けた。
「ふーん。てっきりボッチなのを誤魔化す為に読んでるのかと思った」
少し意外そうに、レンが木にもたれかかっていた手を外して腕を組んだ。
「ひとりでいる事はそれほど駄目な事か?」
ソラが言えば、周囲の野次馬たちがザワザワ騒ぎ出した。
「いーや?別に良いんじゃねーの?そういった意味なら、俺だって単独行動ばっかだし?ただここにいる奴ら、お前のこと気になってる癖に、腫れ物にでも障るようにしてたから、ふと好奇心が湧いて障ってみようかと思っただけだ」
神界には似つかわしくないようなフェロモン全開でレンがニヤっと笑いながら首を傾げる。
「互いに1人を好む性質だということで、好奇心が満たせたようなら、失礼したいのだが、書を返してくれないか」
ソラが手を伸ばして取り返そうとするのをレンが阻止した。
「やーだね。断然興味持った。俺…面食いだし?こんな綺麗な顔して新入りの癖にズケズケ言ってくるし」
木の間にソラを挟み込むようにして、レンが通せんぼする。
精錬所きってのいまだかつてないほどの美人が入ってきたという噂だけあって、両腕の間にいるソラは高潔といおうか、清廉潔白といおうか。
なんとも透明感のある、絶世の美女にも麗人の貴公子にも見える。
薄めのラベンダー色の瞳がキラキラしていて吸い込まれそうだとレンは思った。
「それは、先輩の同級生に失礼な態度をとったようで申し訳なかった」
ソラがレンを見上げて非礼を詫びる。
先輩の同級生という言葉に、レンは吹き出した。
「俺の事を知っていてくれたようで、光栄だ。後輩の同級生で美人で首席のソラさま」
周囲がソラのことを陰で『様』付けで呼んでいることを仄めかすように、レンが伝える。
「人を評するのに外見は関係ないだろう。外見など他から見た個を認識するくらいのものではないのか?優秀な癖に素行不良で留年している暴君のレン殿?」
同じく周囲の傍観者達がレンを呼ぶ呼び方で、ソラが応戦した。
怒るでもなく、淡々と流れるように紡ぎ出される言葉からもソラの賢さが窺えて、レンはニンマリと満足そうに笑う。
大抵レンを怖がったり、毛虫でも見るように避けたりする者が多い中、少しもビビる事なく、同じ温度で応戦してくる者は過去一度もいなかったのだ。
相手の力量をわかっている上での応戦だろう。見た目が好みなのも手伝って、俄然レンはソラに興味深々だ。
ことの成り行きを見守っていた群衆達が、2人に呼び名を知られていた事が発覚し、青ざめて蜘蛛の子を散らすように退散した。
「さて、うるさい外野がいなくなった事だし?しっぽり二人でしけこもうか」
ソラの顎をクイっと持ち上げてレンが遊女を誘うように妖艶な笑みを浮かべた。
「…女遊びもほどほどにしないと、いつか痛い目を見るぞ?身共に話しかけてくるという事は、他に何か原因があるのだろう?」
レンの手を外しながら、ソラはため息をつく。
「おー怖っ。お前の協力が必要なんだ。俗界に興味はないか?」
先ほどまで俗界の風俗について書かれている書を読んでいたのだ。
興味がないわけがないのを分かっていて、そういう言い方をする。
神界にはない俗界の文化に、ソラは興味深々だった。
人情、友情、愛情などの人の感情の動きはもちろん。
神界にはない生き生きとした生命の営みのようなものに、ソラは興味があった。
生まれたばかりの魂のまま、神界のグループに属してまったソラにしてみれば、温厚で争いを好まず、常日頃から正しくあろうという者ばかりの仲で育ってきたのだ。
同じ種類の者ばかりが集められた世界も平穏で美しいかもしれないが、レン的な言葉を借りると物足りない。つまらない気がしていた。
だから本を多く読んでいたといっても過言ではない。
俗界の全てのものが新しく魅力的に映る。
揺らぐ不安定な存在だから起こる、人間ドラマや感情の起伏が不思議で仕方がなかった。
目の前にいる、レンという同級生になった先輩(落第生)は人間界に精通しているからか、書で読む人間味のような温度の持ち主のようにも思えたのだ。
綺麗なものばかりの中、戒律を守りながら生活する事に不満があるわけではないが、見てみたいと思う好奇心に抗えなかった。
「協力とは?内容にもよる」
ソラが答えれば、レンの目が輝く。
「ちょっとした、人助けってやつよ。俗界に行ったら教えてやるから、付き合えって。ここからは自由時間だろ?」
レンが行くぞとばかりにソラの腕を引いた。
「コレに着替えてくれ」
俗界に行くにあたり、レンから渡されたのは、踊り子のような派手な衣だった。
「これは?…人間の女性が着るもののようだが…」
神界では、どちらの姿でもいられるものの、普段男性の服装でいる事の多いソラは訝しげに、レンを見やる。
「今から、俗界に降りて宮廷主催の舞踊大会に参加してもらう」
「舞踊会?」
華やかな色合いの衣とレンを見比べた。
「ああ、一人でやれるものなら、俺だけで良かったんだが、2人1組で参加が条件でな。まぁ、なんだ。優勝出来そうなのがお前くらいだったからよ」
目をつけたんだと、レンは続ける。
なるほど。それならば話した事さえないソラにわざわざ声をかけてきたのも納得がいく。
なにせソラは、武道から勉学、舞踊、歌唱に至るまで神界精錬所の中でも群を抜いている。
「何故、俗界に許可なく降りてはいけないという規則を破ってまで、その大会に参加しようとする」
「…んー?、とある女との賭けに勝ちたくて?」
レンがソラから目を逸らし明後日の方向を見た。
「…」
「や、別に疾しい訳じゃねーよ?馴染みの見世の遊女が俺じゃぜってぇ勝てないっていうから、売り言葉に買い言葉ってやつで」
「…」
羽虫でも見るような目でソラがレンを見る。
噂には聞いてはいたが、まさに飲む、打つ、買うの『買う』をしているようだ。神界の者とは思えない所業に、あらためて落第する筈だ…とあきれる。
「お前、軽蔑したろ…今」
「今更…他からの評価を気にするタマでもないだろう」
充分、浮いているのだからと揶揄すれば、違いないとレンは笑った。
「まぁまぁ、8割の下心と2割の親切心だ」
「…親切心?」
レンの言う8割の下心は、見え透いているので、そちらには触れずにソラは尋ねる。
「弟を探したいって泣きつかれてな。妓女は娼館から出られないから、解放してやりたいって思うじゃねーか」
「…なるほど。…で?」
遊女の手練手管に騙されているような気がしなくもないが、本当に探したい弟がいるというのであるならば、見過ごせないだろう。
「優勝した組には一つだけ、国王が望みを叶えてくれるらしい」
「それで、身共に白羽の矢が当たったと言うわけか」
ソラは大きく溜め息をつく。
「妓楼から抜けさせてやるって、啖呵切っちゃってよ。頼むこのとおりだ」
土下座する勢いで、レンは頭を下げた。
「コレで良いのか?」
すっと目を閉じて、普段性別は中性(胸もない下もない状態)でいるソラが女性の姿に変化させる。
その変化した姿を見て、レンは目を見開いた。瞬きも忘れポカンと口を開けてしまっていた。神様見習い状態の精錬所の生徒なのに、性別を変化出来る事に驚きを隠さざるを得ない。
神様と呼ばれる存在の者でも変化出来る者は少ないのでないだろうか。
少なくともレンは女にも中性にも変化することは出来なかった。
「…結婚しよ」
正直、ソラのことを美しいと常々思っていたが、中性でいるいつもよりも、さらに線が細くなっていて、それなのに出るところは出て、細いところは細くなっている。
柔らかな体のラインはしなやかで、見る者を惹きつけずにはいられない。
顔の綺麗さは可愛さを含んで、レンの好みのど真ん中をいっている。
「お前は馬鹿なのか?…好きな女の為に舞踊大会に身共を誘い、組で出るのではなかったのか?」
不機嫌そうに、ソラは眉を寄せた。
「いうないうな、好きな女というよりは、いつもアソコが世話になっている悪友を人助けするようなもんだ。恋愛とは違う」
悪びれもせずに、レンは言い切る。
妓楼はあくまでも、恋愛ごっこを楽しむ場所で、本物の恋愛をする場所ではないとレンは位置付けていた。
「爛れてる…そのような節度で人に接しているから落第するのだ。遊ばれた女の気持ちになれ。相手の女子は本気かもしれぬ」
顔も知らない、会ったこともない妓楼の心の心配までするソラの心の柔らかさにレンは目を見開いた。
いつも堅く閉ざされているミコトの本質に触れた気がする。
無表情で苦言は呈していても、見た事さえないであろう相手への優しさが見え隠れしていた。
「そういう場所だ。向こうも割り切ってるさ…馴染みを一人に決めているわけでもないし。たまたま寝物語で聞いて気まぐれに助けたいと思っただけだ」
レンは、当然のように言ってのける。
「罪深い奴だ。身共ならばお前のような破廉恥で尻軽な男など許せぬが…たいそう妓楼の女達は心が広い」
ソラの軽蔑するような視線が痛くて、レンは目を逸らした。
外見に頓着がないらしいソラは、自分が今女になっていると自覚していないらしく、話し方をいつもと変えずに話している。
この清廉が服を着て歩いているようなソラに話しかけたのは失敗だったかもしれない。
好奇心で話しかけるような相手ではないのがわかる。
きっとレンの心の奥まで侵食されてしまう。
圧倒的な引力で惹かれ囚われる。
表面をさらったような遊ぶ相手とは正反対だと言っても過言ではない。
「…そういう場所だ。来た男を喜ばせ癒すのが女たちの仕事だ」
「…行かぬが上策。…だが人助けと聞いてしまえば、協力はやぶさかではない。女の願いを叶えるのに反対はせぬが、そうやって八方に善人でいる事は難しくはないか。そこにいる妓女全員の望みを聞き入れ救う事はできぬ」
伏せ目がちにしてソラは、溜め息をついた。
「…肝に銘じよう」
「わかってくれればいい。で願いを叶えるために、この衣装を着て身共はお前と舞えば良いのか?」
憂を帯びたソラの顔は、さらに美しい。
無表情が常のソラの僅かな表情さえ一喜一憂させられる。
ただでさえ魅力的だというのに、笑ったらオチない男はいないだろう。
正直、今までレンがお相手したどんな美女よりも美しく可憐で可愛いかった。
色白の肌はなめらかで透けてしまいそうなしなやかさがある。
長い首筋は色っぽく頸までがなまめかしい。
妓楼の女たちの白粉の白さではない健康的な白さだ。
小さな顔の一つ一つの美しさときたら筆舌しがたいほど整っている。
美人は3日で飽きるというが、神が持つ永久に近い時間であっても、飽きる気がしない。
動かない表情も、いつか己の力で動かさせてみせるという気にすらなってくる。
きっと、この女の姿をしたソラに私だけを見てとお願いされれば、遊びなどやめて深入りしてしまうに違いない。
特別を作る事を厭うレンとしては、ソラとの距離感を適度に保つのは大変そうだ。
「…レン?」
考えに耽ってしまっていたレンを呼び覚ます。
「あ…ああ。そうだな。…そのことなんだが…どちらかといったら、男が女の格好して踊るって仕様だからいつものソラの状態で良いんだ」
「それを早く言え…」
目を閉じて、ソラは男の姿になる。
「え、は?いつもは男じゃなかったのか」
「いつもはどちらでもない」
ソラの言葉に、レンはポカンと口を開ける。
どおりで、色恋の噂にならない筈だとレンは納得してしまう。
誰よりも美しいという言葉は入ってきても、誰かと良い仲になったという噂を耳にした事はない。
男も女も同性だと認識しているのか、そういった対象にされる事が少ないのだ。
性別への固定観念から外された位置にいる美しい存在。
それがソラだった。
舞も武術も知力も抜きん出ているのが、ソラという存在をさらに高嶺の花にしている。
男の姿に変えたソラを初めて見るが、これまたソレはソレで美しい。
レンは本来、守備範囲は女だけの筈だ。
「駄目だ…コチラでさえイケそうな気がする」
「爛れている。馬鹿かお前は…」
いつもの声より若干低くなった声で、ソラが肩を竦める。
変化出来ない者も多い中で、瞬きのうちに男にも女にもなれるソラの霊力の高さにレンは、呆気に取られた。
中性でいる時より若干骨組みがしっかりして、若干背が高くなっている。
レンより2寸程目線が下な位なのだが、白い肌は陶器のようで、ヒゲすら生えていない顔は、どちらにしても美しい事に変わりはない。
「変な趣味に目覚めそうだわ…」
「…女だけで飽き足らずか…爛れきっている」
深い皺を眉間に刻んで、ソラが睨みつける。
「まぁ、見目麗しい深層の貴公子だと褒めてやってんだから良いじゃねーか」
「もうそろそろ、黙れ…」
ソラは、衣を持って厠に移動した。
誰が悲しくて男の姿にわざわざなった挙句に女性の衣を身に纏わなくてはならないのかと、顔には出さないものの嫌々、その衣を身につける。
「それにしても、何故わざわざ男に女装をさせて踊らせるのか」
女性のみで、男装して劇をする舞踊団が俗界にはある事は、ソラも書物で知ってはいたが。
男に女装をさせて踊らせるなど聞いた事はない。倒錯的なのが好みなのだろうか。
「后が嫉妬深くて、綺麗な女を見ると傷つけたくなるんだってよ。その癖、男は綺麗好きで自分の周りには美形の若い男ばかり侍らせているんだぜ?」
「特殊な趣味だ…」
「まったく悪趣味だ」
レンが肩をすくめるのを見て、ソラは顔を顰めた。
そんな奇天烈なものに首を突っ込もうとするには、何か理由があるのではないかとソラの脳裏を掠める。
浅く広く遊んでいるレンが、大勢いる中の妓女1人のお願いを特別に聞くというのに違和感を覚えた。
破天荒で落第もしているが、レンという男は、実力がないというわけではない。
ソラより学年が少し上の主席だったという噂を聞いた事がある。
地上に好んで降りている事には、何か理由があるとみた方が良い。
「……他に理由でもあるのか?1人行動が多い唯我独尊を絵に描いたお前が、わざわざ、初めて話す身共に誘いをかける意味だ」
教えてくれたら、踊りの件は受けてやるとソラは続ける。
「…ったく、鋭い奴ぁどうもいけねぇ」
「何が理由だ」
「見た事がある神界の大物が、お忍びで地上にいるのを見かけただけだ…」
レンが渋渋口を開いた。
「お前ですら羽目を外して、禁止されている俗界に降りるのだから、神界にそういった者がいたとしても驚かぬが、神界は俗界にあるものが全て上位互換で揃っているというのに、神界から好んで俗界に降りる者がいるというのは不可思議な事だ」
本来、神界の者が許可なく降りるのは、精錬生達とは違い許されることではない。
無許可の場合、見つかれば、冥神界の王に突き出され事情によっては八つ裂きにされるかもしれないほど危険な事なのだ。
「だろ?しかもきな臭い噂ばかりだ」
今回は妓女の弟の行方不明の原因に関わっていそうだとレンは踏んでいるらしい。
「踊りは一曲だけ踊れば良いのか?」
レンは仕方がないとばかりに、顔をあげ腹を決めた。
理由を話せばレンの頼みを聞くという約束をしたのだ。
「…演舞大会には課題演舞と自由演舞がある」
「お前…舞は得意か?」
「苦手だと思うか?苦手ならば、演舞大会に参加しようとはしないだろーが。舞を得意とするお前に声はかけないさ」
ようするに、他では足手纏いになるから、ソラに声を掛けたのだと、レンは暗に言っているらしい。
「期日は?」
いつまでに、振りを覚え仕上げるのかとソラが尋ねる。
演舞大会は俗界で行われる盛大な大会だと聞く。
国王と后主宰というだけあって内外の国から、我こそはという者達が集まってくる。
軽い気持ちで出て、優勝できるものでもない。
「10日後だ」
「正気か?」
10日で二曲も踊りを完璧に踊れるようにせねばならないというのは、簡単な話ではない。
「課題曲と、自由曲の踊りは決めてあるのか?」
あるというのならばすぐに取り掛からねば間に合わないだろう。
レンがそっぽを向いたところを見るに、行き当たりばったりでソラを誘ったのだという事が、簡単に推察できた。
「や…そこは、圧倒的な成績で神界に来たお前の腕に託そうかなと」
後頭部に手を回しながら、ニカっとレンが悪びれもなく言う。
「…どんな振りでも文句は言わないと約束しろ。舞の稽古場所は後で指示する」
ソラはそう言い残して、レンの元から去っていった。
その翌日から、神界精錬所一の孤高の優等生と問題児が度々、休憩時間に一緒にいるところを同窓生達が見かけ、二度見していた。
ソラが誰かと食事をしている姿など誰も見た事がなかったからだ。
講義をボイコットする事の多いレンが真面目に講義に出席している事も意外すぎるとばかりに皆が奇異の目で見ていた。
ソラの隣の席でちょっかいを出しては怒られている。
授業が終わるや否や2人で部屋を出ていくのだ。
「青天の霹靂か」
「神界に災いでもおきるのではないか」
などと言って皆が口々に噂するが、その実ソラとレンの二人が消えた要因は一つしかない。
武道の訓練をする部屋を術をかけて改造し、一面が鏡張りの部屋を作り、そこで踊りの練習をしていた。
「課題演舞は恋情を表現しろという事なのだが、正直コチラは自信がない。なにせ身共は恋をした事がない。絵空ごとの書物で読んだようなものになるだろう」
ソラは瞑想でもするかのような姿勢の良さで座りながら、レンの顔を真正面から見据える。
「ならば、俺が手解きでもしてやろうか」
肩に手を伸ばそうとするレンの手をヒラリとかわしてソラは立ち上がった。
「結構だ。女好きで遊び人に懸想するほど暇ではない。課題演舞は振りだけは考えたので見てくれ」
ソラは赤い糸を小指に巻いて、踊りはじめた。
足先から指先まで神経が行き届いているソラが作りだす動きにレンの目が釘付けになる。
離れて近付いて、互いが惹かれ合っていく様を上手く表現していた。
さすが首席だと素直に感心できる程には出来が良い。
要するに、レンがソラに惹かれていく相手役を勤めろと言うのだろう。
互いの小指に紐を巻きつけ、限られた距離で付かず離れずしながら結ばれるといった嗜好を凝らしている。
踊り終わり、反応を伺うソラにレンは頷いて見せた。
「良いと思うぜ?お前のソレに合わせて踊れば良いって事だろ?少々色気が足りない気もするが…」
「…色気がいるのならば他をあたれ」
ソラが踵を返して、部屋を出ようとするのをレンが慌てて引き止める。
「俺が悪かった。そこは経験豊富な俺が即興で引っ張るから合わせろよ」
「…」
「合わせてください」
レンが両手を合わせて頭を下げた。
「ところで、自由演舞のことだが」
「そちらももう考えたのか?」
昨日の今日で、二つの振り付けや構成を考えてきたというソラの能力の高さにレンは目を見開いた。
「お前にも同じ衣装を着てもらうぞ?」
「…正気か?このゴツい俺にその格好をしろと言うのか」
鮮やかな花柄をあしらった深い臙脂色の衣を纏っているソラを見て露骨に顔を顰めてみせる。
男性の姿をしていたとしても、根が整った顔をしているソラならば、似合うかもしれないが、妓女達の衣装を羽織ったレンは、一発致したあとの遊び人の男にしか見えないのではないかと思うのだ。
「そうだ。着てもらう。女の格好をどちらかが最低でもするという規定ならば二人が女の格好をしても問題はあるまい」
「そりゃそうっちゃ、そうだが…」
衣装を手渡されて、レンはジッとそれを眺める。
一晩で衣装まで用意したというのか。
かなり凝ったつくりだ。内側に着る男用の衣装も薄手ではあるが作りが凝っている。
「鏡のように対になって女の舞いを舞い、内側には男の格好を互いに着て途中から踊りを変える。今から構成を見せるから一度で覚えろ」
ソラはそういうと、精錬所にいる時の中性のままでその衣装を身に纏った。
臙脂色の衣装が白い肌によく映えて、目を奪われてしまう。
そして、次の瞬間。
男性姿のソラに変わる。
背が高くなり、骨ばっていても美しさは変わらなかった。
美人は男になっても美しいのだなとレンは再確認する。
ここまで綺麗だと、女であろうが、男であろうが、中性であろうがどんな姿であっても、臙脂色の女物の衣装が似合ってしまうのだなと感心してしまう。
そんなレンが逡巡している間に、ソラは踊り始めた。
男性姿だとは思えないほどの柔らかい動きだ。
腰の位置から指先、首の角度、表情までが可憐で儚げなものに変わる。
指先の動きから目線の動かし方、はにかんだ笑顔。
普段が鉄面皮かと思うほど表情が乏しいソラの微笑はそれだけで破壊力は絶大だった。
眉間を緩め口角を少し上げただけだというのに、ギュっと心臓を掴まれるような魅力がある。
振り向きざまにこの笑顔を向けられた奴らは、ひとたまりもないだろう。
柔らかくしなやかで艶やかな舞だ。
そして、一転。
衣を脱ぎ捨て、男の踊りに切り替えた。
丹田の位置が固定されていて頭がブレない。
キレのある動きと力強さに目が離せない。男でさえ抱いてくれといいたくなるようなカッコ良さだ。
ソラの武道の凄さは、誰もが知るところではあるが、舞踊までもが首位な理由がレンはわかる気がした。
というか、このレベルの舞踊を一瞬で覚えろと言うのかと、レンは踊り終わったソラに視線を向ける。
「今の踊りを、鏡のように向き合いながら寸分ずらさず踊る。可能であるならば歌いながら」
そういって、ソラは旋律を刻み始めた。女の部分では裏声を使い優雅に優しく。男の部分では、曲調をガラリと変えてみせた。
踊り、衣装、曲まで考えるソラの頭の中はどうなっているのかと、レンは詰め寄りたくなる。
「これでどうだろうか」
踊り終わったソラに、レンは小さく頷いた。
ソラが提案した案に乗れば、確実に勝てるだろう。
俗界の者達が知る由もないようなリズム感と表現力に脱帽する。
「鬼畜か。やってやろうじゃねーか」
レンが衣装を手に取って立ち上がった。
運動神経はレンだって、相当なものだ。こちらから頼み込んだのだから、ふざけるわけにはいかない。
レンはいつもの余裕な人を食ったような表情から一瞬で女性を演じる顔に切り替えた。
渡された衣装を纏い、ソラが演じてみせた踊りをレンが舞い始める。
それを見る側に回ったソラはレンの意外にも真摯な態度に僅かに目を見開いた。
噂に聞くレンは、何事にもタルそうで本気にならない適当な男で。
遊びにだけ熱心でやる気がないと聞いていた。
だからこそ、てっきり適当に踊るか、無理だと言い張るか、はたまた女の舞などやりたくないと渋るかだと思っていたのだ。
だが実際、目の前でとったレンの行動は正反対だった。
伏せられたレンの目つきに、いつもの人を小馬鹿にしているような、毒はない。
レンは表情を一変させ、性別の違和感を感じさせないような柔らかいものに変えた。
鍛え上げられた肉体、広い肩幅を感じさせられないような動きだ。
袖口の扱いが上手く。
よく女性を見ているせいか、細かい仕草までを表現している。
そして、男性の姿になったレンは水を得た魚のように、長い手足を使い力強く舞った。
一度見ただけでここまでやれるのであるのならば、勝機はあるとソラは確信する。
何より、レンは周囲に見せている表面とは裏腹に筋を通す真面目な男だということが分かった。
信頼に足る人物なのだろう。
ソラは、周囲の噂ではない、本当の姿を見て、レンに対する考えを書き換える事にした。
それから、昼の休みには毎日二人は踊りの練習を始めた。
休み時間に二人でいる事が多くなる。
周囲から旧知の仲だと言われる位には、距離が縮まっていた。
早く体を動かしたいレンに対して、その日出された課題を終わらせるまでは動かないと宣言し、ソラはレンを机に向かわせた。
微動だにしようとしないソラの態度に諦めたように机に向かうレンを見た者達は瞬きも忘れ驚愕する。
見てはいけないものを見たかのように、レンのひと睨みで蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「一度、演舞大会の前に俗界を見てみるか?」
二人残された部屋でレンが切り出す。
「そもそも、俗界に無断で降りる事自体が罪深いというのに…」
ソラは眉間に皺を寄せる。
「だーっ。本当にお堅くて真面目だな。ちょっとは融通を効かせろって。どうせ本番の日は最低限降りるわけだから、規則破りなんて一度も二度も変わらねーじゃねーか」
規則は破るためにあるのだとレンが豪語する。
規則なんていうものは、デメリットの根源を掴んでない奴らがヤラかす事で作られていくものだとレンは考えていた。ならば本当の意味でヤラかさないラインを見極め突き進めば良いのだ。
時として、安全な場所にいるだけではわからない世界もある。
今後神としてやっていくのならば俗界見学は世界を知るための学びにすらなるだろう。
自信満々にレンは力説した。
「…ム」
ソラの顔に迷いの色が浮かぶ。
それをレンは見逃さなかった。
「そもそも、探し人を探すっていう人助けや神界のあやしげな噂を探る大義あっての事だ」
神界の上層部に巣食う悪を断つ為には、神界の掟にしがみつきすぎてはいけないとばかりにレンは言い切る。
確かに、上層部が動きやすいための掟だというのならば、そこは目を瞑らなければ明らかにできないものかもしれない。
正義から外れないと決めているソラの心が揺れる。
「そんなに気になるなら、机の中にでも俗界に行く旨を記した書状でも残していけばいい。提出が後になっただけだ」
「…本当ならば、さっさと課題を終わらせて稽古をしようと思っていたのだが」
中には演舞用の女物の衣装まで着ているというのに、困ったものだとため息をつきながら、ソラは静かに目を閉じた。
「大事の前の小事だ」
ダメ押しで、レンが言えば、ソラはちいさく目だけで頷いた。
「それにしても、なんでお前は全てにおいて真面目というか、全力というか…全てにおいてそれじゃ疲れないか?」
レンは筆をくるりと一周回して、ソラの方に向ける。
「むしろ、手を抜く事の方が憂いを抱える。己が出来うる努力はする。いずれそれは未来の己の正義を守る為の武器になる」
揺るぎのないソラの瞳の真っ直ぐさにレンが喉を鳴らした。
「言うじゃねーか。けど例えば、今日のこの課題をサボったとする」
レンが指差している課題の内容は『俗界の人々の暮らしについてのレポート』である。
「それが?」
ソラが先を促せば、レンが片目を瞑った。
「ここで、書物をひっくり返して調べるよりも、実際俗界に降りてみた方が早いだろ?百聞は一見にしかずだ。お前みたいな出来の良いやつなら、辞書を丸ごと覚えられるかもしれないが、調べたいものを特定して学ぶ方が効率は良いだろ?」
「不測の事態にはどう備える」
「その為に、背中を預けられる友が必要なんだろうが」
レンはソラの肩を叩く。
友と言われたソラは、初めてかけられる言葉に戸惑い、そしてそれを悟られぬように、視線を僅かに逸らした。
「馬鹿馬鹿しい」
「まあまあ、百聞は一見にしかずだ。俗界見学に行くぞ」
レンは、ソラの腕を掴んで俗界に飛び降りた。
「え、今か!?」
衣ぐらい着替えさせろとソラが文句を言うより先に、レンがソラの腕を引っ張ってしまう。
これほど無計画に、思いつきで大胆な行動をする者がいること自体が呆れを取り越して新鮮に感じた。
書物で俗界の文化や行き方、帰り方くらいは学んではあるが、何の用意もしていないのだ。
異次元の空間から空を通って降りているらしい。
レンは慣れているらしく、余裕な表情で寝台に寝そべるようにして両腕を組んで枕の代わりにしている。
ソラは見た事ない世界に瞬きを忘れてぐるりと当たりを見渡した。
全ての色合いが白を基調にした神界とは何もかもが違って輝いて見えるのだ。
ソラは色鮮やかな世界に目を奪われる。
そしてひとと俗界を堪能したあと、ソラが我に返って、一緒に降りた筈のレンがいなくなっている事に気付いた。
「どこにいるレン」
「ここだここだ」
レンの声が微かに上空から聞こえてソラは顔を上げる。
「…おい、どういうことだ」
「悪い悪い。なんか飛び降りた先が悪かったらしく、鳥獣の上に降りてしまったらしい。後で合流するから下の会場あたりで待っててくれよ」
そういったっきり、鳥獣と一緒に遥か先に消えていったレンを尻目に、ソラは舞踏大会の開催される街に着地した。
俗界に踏み込んだ事のないソラは、さてどうしたものかと途方にくれる。
書物で読んだだけの知識など、レンの言うとおり、あまり役には立たなさそうだ。
何かを買う金もない。
ソラだけ帰れば、レンと行き違いになってしまうだろう。
神界の見廻り役人が俗界にいたりしたら、ソラだけではなくレンまで罰せられてしまう。
初めて禁を破ったソラだけならば、謝罪と反省で済むかもしれないが、問題行動ばかりで落第しているレンは、下手をすれば神界から追放されてしまうのだ。
本人はそんな事気にもせずに、禁を破りまくっているが、大義をなそうとしている足を引っ張ってしまうわけにもいかなかった。
幸い、踊りの稽古用に女物の衣を内側に着ている。
それに気付いたソラは、人影のない場所で、中性から女性に外見を変化させた。
髪や目の色は、俗界の人達にあわせて、黒めの色合いに調整する。
レンには一度女の姿を見せているので、外見を変化させていても見つけられるだろう。
元着ていた衣を質屋に入れて金に変えて貰えば、レンが戻るまで難なく待つことくらいは出来るだろう。
ソラは衣類を畳んで手に持ち、会場付近の街を散策する事にした。
まず人の多さにソラは圧倒される。
道の両端に店を出している者達。
花車に積まれた花は良い香りを放っていて目も鼻も楽しませてくれた。
菓子、肉や野菜を挟んだパン、串に刺した丸い団子のような食べ物が路上で売られている。
人々の活気に飲み込まれて、ソラは右へ左へ視線をやりながら、歩いていた。
質屋を探してお金を作らなくてはならないのに、なにもかもが物珍しい。
高揚する心を抑えられずにソラは周りを一望して目を閉じて深呼吸した。
目を閉じているからか、ふいに美しい歌声が耳に届いく。
あまりにも耳触りの良い歌声に、ソラはつい気を取られてしまう。
心を優しく丸く抱きしめるような柔らかな声音。
ベルベットのようなしなやかさで撫でられているような美しい歌声が耳に届いた。
高くもなく低くもない男の声は、神界にもここまでの歌い手はいない。
憂を含んだ歌は心をざわめかせるには充分だった。
ファルセットやミドルヴォイス、ビブラートの使う場所を心得ているのか、わざとらしさのない自然な揺らぎが柔らかく心を溶かしていく。
エッジをところどころにかけながら、柔らかく丁寧なしゃくりは切なさを含んでいて、全てを持っていかれる気がした。
ずっと聴いていたいと思える声だ。
これだけ繊細に表現出来る歌い手の心は、きっとさぞ繊細で優しい心の持ち主だろう。
甘い声の持ち主にソラはどうにも興味が湧いた。
感情の変化が乏しいと精錬所の皆からいわれているソラにしては珍しく、その声を持つ主の顔を見てみたくなったのだ。
煉瓦造りの建物の中から聞こえる声に誘われるように足を向けた。
「いらっしゃい。おや、ここいらでは見た事のないような凄い美人だね。何にする?」
店主に声をかけられて、ソラは持ち合わせがない旨をどう伝えようか迷ってしまう。
「いや…あまりに美しい歌声が聴こえて。つい入ってしまったのだ。すまない」
持ち合わせがない事を正直に話して、会釈して店を出ようとする。
「や、お姉さん待って待って」
舞台の上から掛けられた声にソラは驚いて顔を上げた。
さっきまで歌っていた者の声だ。
ずっと聴いていたくなるような耳障りの良い甘い声の主だった。
観客からの拍手に軽い調子で応え、ステージから降りてくる。
「俺の歌、聴いてくれる為に入ってきたの?」
にこやかに、笑う姿は俗界の書物にある王子様のようだとソラは思った。
どこか気品があるのに、柔らかな物言いだ。
神界の神達と比べても遜色ないほど端正な容姿をしている。
「ああ。だがあいにく持ち合わせがないので失礼する。歌の邪魔をしてしまってすまなかった」
「いやいやいや、俺の奢りで飲んでってよ。ね、店主良いだろ?」
人好きする顔で、ニッコリと笑った。
「そりゃ、王子の良う事だから、嫌とは言わないさ」
店主がそういって、ソラにメニュー表を渡す。
「一応お忍びなんだし、王子はないっしょ」
人差し指を口元に持っていき、口角を上げ愛好を崩し、しーっという仕草をした。
その瞬間の女性達の悲鳴の大きさに、王子と呼ばれるこの男の人気の高さを知る。
確かに、その笑顔にはソラもキュっと心の臓あたりがするのを感じた。
ここまで艶やかで魅力的な微笑み方をソラは見たことがない。
お忍びというのが、本当なのか、そういった設定で王子を名乗る歌手なのかはわからないが、どうやら聴かせて貰えるらしい。
王子に誘導され、ステージの前の席に案内される。
店にいる女達からは、羨ましいと言わんばかりの悲鳴が聞こえた。
俗界の飲み物に疎かったので、店主のおすすめの飲み物をとオーダーし席につく。
「では、今日は目の前のレディに向けて」
優しく見つめてくるソレにソラは今まで味わった事のないような昂揚感を覚えて狼狽える。
ソワソワしてくすぐったいような。
味わった事のない感覚に戸惑ってしまう。
王子の歌は、甘い恋の歌だった。
〜
あなたに出逢うために生まれてきたと
あなたに言えば笑うだろうか
愛だとか恋だとかなんてくだらない
いらないとさえ思っていたんだ
あなたの手を離してしまったら
二度と逢えないようなきがして
この世界で出逢えた幸せを
あなたに伝えたくてこの歌を贈るよ
〜
情熱的な瞳を向けられて、思わずソラは目を逸らした。
甘い声が紡ぐ愛の歌に心が震えないわけはない。
切なげに歌われるその歌の旋律までもが美しく響いた。
王子が一礼すると、観客達の盛大な拍手が店のホールに響き渡る。
歌い終わった後、王子はすぐにソラの席に移動してきた。
「聴いてくれてありがとう」
ニコっと人の良さそうな顔で王子は笑う。
王子の笑顔は心臓にいちいち悪かった。
「聴きたかったのは身共だ。これほど美しい歌を聴いた事がない」
「素直に嬉しい」
顔や容姿が目当てで来ている人が多い中、純粋に曲が聴きたくて、持ち合わせもないのに、店に入ってしまったと店主に詫びた純粋な言葉が嬉しかったのだと王子は自嘲する。
「…身共は、心にもない事は言わない」
「ねぇ、この後暇?」
イタズラっぽく王子が笑う。
「暇といえば暇だが、連れとはぐれてしまったのだ。舞踏大会の場所で待てと言われたのだが地理不案内でな」
「なら、俺がそこまで案内してあげる。あなたみたいな美しい人はきっと絡まれたり、連れ去られたりしてしまうから」
お手をどうぞとばかりに、うやうやしく手を差し出される。
まさに王子といった仕草に店内の客達が囃し立てた。
それをどう対処したら良いのか分からず戸惑っているソラを見て、店主が助け舟を出してくれる。
「まぁまぁ、お嬢さんが驚いてるよ」
「王子は手が早いから気をつけて」
「ずるい。私も連れて行ってよ」
前者は男性客。
後者は女性客のセリフだ。
店を抜け出して、王子がソラをエスコートする。
立ち居振る舞いが手慣れているらしく、段差があれば自然に手を差し出してくれた。
あながち王子というのは、的外れではないのかもしれない。
そう思いながらソラは王子の後に続いて歩いた。
「あなたの名前は?なんて呼んだら良い?」
「…ソラ」
偽名を言えば良いものをつい、ソラはあっさり名乗ってしまう。
「いつも、あそこの店で歌っているのか?」
「や、たまたま。ほとんど歌わない。あんまり息が詰まった時にお忍びで歌わせて貰ってる。半ば権力利用して…ね」
王子がニカっと悪戯を仕掛けるような顔で笑った。
どうやら、王子というのは源氏名ではなく本当にこの国の王子のようだ。
「そうなのか。教養がしっかりしているのだな」
ポツリとソラが言えば、意外だと言わんばかりに王子が目を見開いた。
「ん?驚かないのか?この国は今、荒れていて悪名名高い王族の子だ。普通なら迎合するか、怯えるかだって」
皮肉げに王子は顔を歪める。
「心根が腐っているのなら、あれほど繊細な歌は歌えないだろう」
ソラの迷いない澄んだ瞳に、王子が目を逸らした。
「君は、俺の噂を知らないから、そんな事が言えるんだ」
「どんな噂か聞いてみたいものだ」
「女とみれば、見境なく城に連れ込んで手を出してる。今も君を狙って連れ出したのかも」
広場にある大きな木に閉じ込めるように王子はソラを挟み込んだ。
「…お前はそんな男ではないだろう。身共は武芸を嗜んでいて殺気や邪念には敏感だ。お前が危険な人間ならばとうに蹴り倒している」
「買い被りすぎだよ」
王子はクスりと微笑んで、ソラをそっと抱きしめた。
「なっ」
人に触れられた事のないソラは体を強張らせる。
王子が乱暴する気ならば、簡単に避けられたはずだ。
目の前の王子からはそのような邪念はないように見えた。
何より己の心臓が速く鼓動を刻んでしまっていることに動揺する。
今まで、誰かに対してこんな風に乱されることなどなかったからだ。
「暴れないで、近衛兵達がどこかに行くまで、このままで」
耳元で囁かれて、ソラは小さく頷いてみせる。不測の事態から庇おうとしてくれているらしい。
王子の腕の中、顔を隠すように無言で様子を伺っていると、近衛兵達が王子の元に挨拶にこようとしていた。
「見てわかるだろ?お楽しみ中なんだけど」
手でシッシッとばかりに王子が追い払う仕草をすれば、近衛兵たちは最敬礼をしてその場を去っていく。
人の気配がしなくなった瞬間。
王子は抱きしめている腕を緩め、ソラを解放してくれる。
「すまない。ソラくらいの美人だと、あいつらに拘束されちゃうから。確実に后の逆鱗に触れる」
だから恋人のフリをしたのだと王子が説明する。
確かにレンも同じような事を言っていたのをソラは思い出した。
思い出したものの、女性姿の自身の外見がそこまでのものなのかどうなのかは甚だ疑問ではあるが、美醜の定規は人によって好みもあるので、后の好みを知っている王子がそうだというのであるならば、注意にこしたことはない。
「助かった。店の代金といい感謝する」
ソラは素直に礼を口に出す。
「いやいや、ところでソラはどこからきたの?」
木の近くにあるベンチに座りながら王子がソラの目を覗き込んだ。
「と…遠くだ」
「どうしたら、また会える?」
尋ねてくる王子に即答が出来ずにソラは口を継ぐんだ。
この姿で王子に会う事は二度とないだろう。
普段の姿から変える事で、神界の役人たちの目を誤魔化すために見た目を変えただけなのだ。
黙り込んでしまったソラを王子が心配そうに見守っている。
「お前が見ている身共は幻だと思っておけ、本当は恐ろしい化け物が化ているのやもしれないぞ?」
「フるならもっと、スパっとフってくれたら良いのに。言っておくが、ソラが別の姿、形だって見抜ける自信あるし」
王子は頬を膨らめて幼い表情をする。
「そうか…ならば見つけてみせてくれ。お前との縁があれば、きっとまた会えるやもしれん」
「ソラがいてくれたら、まともになれる気がするんだ傍にいてよ」
ソラの袖を王子がギュッと握りしめる。
頑是ない子供のようにソラの目に映ってしまう。
「あまり、辛い事があるならば、昨日歌っていた歌を歌えばいい。身共の耳に届いたら会いにこよう」
ソラは、困ったように眉を下げながら王子を説得する。
「なら、いつでも歌う。だから側にいてよ」
口を開こうとする王子の唇にソラは人差し指を押し当てて黙らせる。
「…迎えがきたようだ」
視線を王子から、逸らし足音のする方向へソラが、視線を向けた。
「ソラっお前っ(なんで女の格好でいるんだよ。しかも男にナンパされやがって)」
ヨレヨレボロボロになりながら、レンが現れる。
そして、値踏みするように王子を上から下まで眺めた。
いかにも不躾な視線に、王子が眦をあげる。
「ソラ…この人が待ち合わせの相手?どんな関係?」
言われたソラが口を開くよりも先に、レンが王子から遠ざけるようにソラを自分の方に引き寄せた。
そして、レンは挑発するように片頬をあげる。
「おやおや、よく見たら王子様ではないか。女泣かせで名を馳せている貴殿が、初心で無知なコイツまで口説き落としているなんて、名が廃りますぞ?」
「っ」
後ろ暗い事があるのか、王子が目を伏せた。
「悪いな、王子様。コイツは王族の遊びの相手をさせるわけにはいかない。俺の大切なヤツなんだ」
ぐいっとソラの腰を引き寄せて、さも艶っぽい間柄であるようにレンは王子に見せつけて、牽制する。
「レン、彼は右も左も解らぬ身共をここまで連れてきてくれただけで…そんな…」
ソラが皆まで説明するよりも先に、レンが王子に恭しく頭を下げた。
「それはそれは、失礼いたした。ソラの面倒を見てくれた方に取る態度ではなかった。感謝する。では」
王子をその場において、レンはソラの腕を引きながらその場を立ち去った。
「お前馬鹿か?俗界にきて人に関わろうとしてんじゃねーよ」
二人になるや否や、レンがブチギレる。
ソラは、手に持っていた着替えを着ていつもの中性の姿に戻っていた。
「お前だって、俗界に馴染みを作っているのだろうが。今回だって馴染みの頼みを叶えるために身共を巻き込んだのではないのか?」
人のことを言えた義理ではないだろうとソラはレンを睨みつける。
「俺は遊びだから深入りしてるわけじゃねーの。各界を揺るがすような運命を左右しそうな位の重要な人物ってわけでもねーし。お前がさっきまで一緒にいたのはこの国の王子だろうが」
世間知らずの弟を叱るように、レンは両腕を前で組んでソラを見下ろした。
「王子であっても、俗界の人に変わりはない」
「お前、あの王子の女癖の悪さを知らねぇからそんな事が言えんだよ。見目も麗しいからな、女はいくらでも股を開く。で女が入れ上げては深い仲になった瞬間捨てられ次の女にいってしまうような最低なヤツだぞ」
レンの言葉にソラは目を見開いた。
あれほど繊細で優しい声を持つ王子がそんな事をするような男には思えなかったのだ。
実際、先ほどまで一緒にいたが、近衛兵から逃すための芝居はしたが、ソラにそういった雰囲気を微塵も出しはしなかった。
「…信じない」
「信じなくても良いさ。どうせ演舞大会には王子として奴も来るだろうから、自分の目で確かめてみればいい」
レンは、残念な子供を見るような瞳でソラを見て溜め息をついた。
内心では、下見だからとソラを俗界につれて降りなければ良かったとさえ思っている。
「…戻ろう」
ソラは、なんともいえないような苦い表情でレンを促した。
レンが意地悪ではなく、心配してくれている事がわかったからだ。
レンは頷いて、神界に戻るための呪文を唱えた。




