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第三話

エニシが初恋の相手でもある幼馴染と初対面は、ユートピアに入りたての頃のことである。

正直言って、最初は《外見がアホほどに整ってはいるけど》嫌なヤツの一言だった。


同じクラスだというのを表す金色のプレート。

エニシはユートピアに入りたての頃は首席を表す壱という文字が赤色で刻まれていた。

そんな中、異質な子が嫌でも目に入ったのだ。

金色のプレートに赤で数字が記載されている者がほとんどの中で、金色のプレートに真っ白な文字が刻まれていたその子は、恐ろしく透明感があり美しさを兼ね揃えていた。その子のプレートに記載されている文字は初めて目にする【零】という文字だ。

数が少なければ少ないほど優秀だとされている。

式典では壱が壇上に立った。

壱より小さい数字を表す零という存在を目にし、エニシは当時ひどく動揺したのを覚えている。


「君、すっごく綺麗だね。こんな美人さん見たことないや。俺は壱。これからよろしく」

エニシは、初めて見た七色に輝く薄紫の瞳と、透明感のある白い肌の綺麗な子を見て、ドキドキワクワクしながら挨拶した。


零は女の子にも見えるし、男の子にも見えなくもない。

すでにユートピアで性別を選んでいる子が多い中で、まだ選んでいないらしく、どちらにも見える不思議な雰囲気を纏っていた。

どんな顔をして笑うのだろう。

どんな声をしているのだろう。

惹きつけられて目が離せなくて、ユートピアでは壱と呼ばれていたエニシは、好奇心を抑えきれず、つい声をかけてしまったのだ。

だが、その子からの返答は非常にそっけないものだった。


「…よろしく。零だ。一言苦言を呈させてもらうが。初対面の相手に、外見への印象を開口一番に口にすれば軽薄なことこのうえなくみえる」

帰ってきたのは、本当に子供かと言いたくなるようなかしこまった小難しい言葉遣いな上にお小言だった。

綺麗なだけにひどく冷たくエニシには映ってしまう。

相手からエニシへの興味はまるで感じられない。

会話を長引かせる気の全くない、儀礼的なものでしかなかった。しかも全力の褒め言葉に対して文句を言われる始末だ。

笑ってありがとうくらい言ってくれたって良いじゃないかと唇を尖らせた。



エニシはその当時、弥勒の年の壱(1)という番号をユートピアの校長より賜り、向かうところ敵無しな圧倒的な存在感を放っていた。

ユートピアにいる皆が、なりたくて、羨望される栄誉ある名前であり番号だ。

弥勒の年の代表として、公の場で挨拶などをするのも壱の役目だ。

取り巻きも多く、自信に溢れ、明朗快活でリーダーシップを取り、まとめ上げることも余裕で出来た。

対人関係は幼いながら要領を掴んでいたので、壱という名を貰っていても嫉妬されることもなく、うまく立ち回る事が出来る器用さも持ち合わせていたのだ。


だが弥勒の年には、何千年かに一度出るか出ないかと言われている零(0)という特別な番号が存在したのだ。


しかも白色の零。

何の経験もない生まれたばかりの魂で零(0)を名乗る事が出来るなど前代未聞だった。


前世を俗界で何度繰り返したか、俗世の記憶は消されているので知る由もないが、前世で余程、徳を積んでいたのであろう事が、壱という名札の色で分かる。

ちなみに壱は金色のプレートに赤色で壱という文字が記されていた。


赤色の名札は、俗界(人間を経験して)から転生をしたという経験豊富の魂だという証だ。

生まれたての魂の色は白色で文字色が書かれている。よりにもよって零(0)の名札を身につけているのが白文字だったのだ。


ユートピアに生まれた時にまず行われるのが、順位づけだ。


順位(番号)がそのまま仮そめの名前になる。

本当の名前は魂の選別後、行き先が決まった時に与えられるため、番号がユートピアにいる間の名前になるのだ。


20番までが金色の名札のプレートカラー

21〜1000までが銀色の名札のプレートカラー

1001番以降が銅色の名札のプレートカラーになっている。


その中に熟練の魂である赤で番号が示されるか、初の魂であることを意味する白で番号が示されているので一目瞭然なのだ。


ユートピアを卒業し最後の見極めで、神界、魔界、冥神界、俗界それぞれへの行き先が決定し、その階層に入界した際に本当の名前が決まる。

ユートピアに存在する魂には2種類の魂がある。

俗界で修行を終え、ユートピアから出直す魂と、出来立てホヤホヤの新しい魂だ。


俗界にいた時に神官だった者などは、ユートピアに来た時に熟練度の高い魂として、上位の番号をもらう事が多い。新米の魂の導き役になる。


俗世時代が悪人や罪人だった者たちには、選別時に少しでもランクアップが出来るように試練が多いクラスに分けられる事が多い。

寮はクラスによる縦割りで、先輩が後輩の面倒を見る事で行われている。


金、銀、銅のクラス比率はピラミッドのようになっていて、金は少なく、銀、銅になるに連れて人数が多くなっていく。


銅に割り振られた時点で、余程優秀な成績をおさめないかぎりは、俗界行きが決まっているようなものだ。

銀の場合上位者は天界に行ける可能性を秘めている。中位者は魔界に、下位者は俗界に行く事になる。

金クラスは神候補生だ。希望によっては天界、魔界への配属も可能である。


そんな中で金クラスは異質な存在だ。

ほとんどのものが金色のプレートに赤文字の者ばかりであった。


居住区もそれぞれで分かれているので接点はない。ユートピアに入る時と出る時、特別なイベントの時のみ全員が集まるだけだった。


そんな序列の表向きの一番上は毎年恒例の壱が勤めている。

が、実際にはそのまた上の零という存在がいた。

それがエニシ(壱)には信じられなかったし、信じたくもなかったのだ。


過去世の記憶は残っていないものの熟練の魂を持つ赤色ネームだし、ここは大人になってエニシの方から挨拶をと求めてみれば、そっけない態度だったというわけだ。


先生に零の存在の意味を聞いても、前例がないので、説明のしようがないと言われるだけだった。


零という存在はとことん異質で、勉学も武道もそつなくこなし万能だ。

本来ならばそれだけの才を際立たせていれば輪の中心にいてもおかしくはないだろう。

なのに零は周囲と馴れ合うことはなく。

かと言って、失礼なほどでもなく。

誰かとだけ特別親しく接することもなかった。


金クラス赤色のネームの者達は、エニシも含め、何度も転生している者ばかりなので如才ない。

他との関わり方もお手のものだ。

性格も曲がっている者は金クラスにはいないので、イジメにも発展することはなかった。


だが、エニシはその零の態度がどうにも気に入らなくて仕方がない。

和の中に入らず、仲良くしようともせず。皆が空いた時間に外で遊んでいる時も、混ざる事なく木の下で本を読んでいた。

この微妙な距離感がまたエニシをイライラさせたのだ。

断るなら断って部屋に一人でいれば良いものを、誘えば外にはついてくる。

なら、仲間に入って一緒に遊ぼうぜと言いたくて仕方がなかった。


零は数字が若いだけあって勉強も運動も全てトップクラスだ。

エニシが勝てる教科もあれば、負ける教科もある。負ける教科の方が少しだけ多いのは内緒だ。

そんな零が遊びについてこれないわけではない。

きっと零はエニシの事が面白くなくて、反発しているのではないかという卑屈な考えさえ頭に浮かんでしまうほどだった。

零に話しかけようにも、かわされてしまうことが多いのだ。

気付かないうちに移動教室も一人でさっさと行ってしまう。

お前とは仲良くする気はないのだと拒絶されているのかもしれない。

そう考えると少し泣きたくなったエニシがいた。

避けられるのならば、まだ意識されているのが分かるが、質問すれば答えてはくれるし、無視されているわけではないのだ。それこそ外遊びをしようと誘えば、外には付いてきてはくれるのだ。仲間に入って遊ぶことはないのだけども。

それがまたタチが悪い。


他のクラスメイトたちは、エニシの作りたいクラスの雰囲気を理解し、協調してくれるのに、零だけはしてくれないのだ。

しかも、実は一番興味があって、話してみたい。

仲良くなりたいと思ったのにだ。


これでは、完全なる片思いではないか。

エニシは負けた気になってしまって引くに引けない。

子供でいる少しの間、せっかく出会えて、話し合えるのに。

別々の所に行ったら、もう二度と会えなくなるかもしれない。

記憶はないが、何度も繰り返してきた魂が、それでは寂しいと叫んでいる。


悶々とした日々が続き、エニシがどうしても納得いかなくて、ある日痺れを切らして零を呼び出した。

出会いから60日は経ってからのことだ。


人があまり来ない湖のほとりに、零は来ていた。

湖を見ながら座っている姿が、とても綺麗で見惚れてしまう。

自由に跳ぶ蝶と戯れ、くすりと笑った。


(笑ったとこ、初めて見た)


ドキドキする心臓をエニシは押さえて、少しの間眺めていた。

その透明感から懐かしさを感じるような温もりを感じて口元を両手で覆い、その場にうずくまる。

鼓動が収まる前に出ていってしまったら、何を口走るか分からなかったからだ。

再び立ち上がり、大きく深呼吸を三回して、一歩を踏み出した。


「零、呼び出して悪い」

壱は両手を合わせた。

「いや、何か重要な用でもあったのだろう」

怒るでもなく、零は壱の方に視線をくれる。

残念ながら先ほどまで浮かべていた零の顔から、笑顔がなりを顰めてしまったが、いつもより幾分か柔和な雰囲気を纏っていた。

「あのさ、ずっと聞いてみたくて…」

喉の奥がカサカサ乾いていくような心持ちになりながら、壱は口を開く。

「なんだ?」

「その…零はさ…俺のこと嫌い?」

嫌いと言われるのが怖くて、エニシはギュっと目を瞑って耳を澄ました。

握りしめた手はプルプル震えている。


唐突に言われた零は、珍しく眦を下げた。

「嫌ってなどいないが?」

クラスの中では絶対見せないような、穏やかな笑みを浮かべている。

「だって、俺がどんなに誘っても遊びに加わってくれないじゃないか」

「…それは、均衡を保つためだ」

「へ?…均衡?」

鳩が豆鉄砲を食ったような間抜けな顔でエニシはポケっと口を開いた。


「考えてみろ。得体のしれない白色の零という奇異な存在が、皆から慕われている憧れのマトのエニシと馴れ馴れしくしていたら周囲はどう思うと思う」


「…あ」

「ただでさえ、前例のない零などという数字で浮いてしまうというのに。その歳の代表であるエニシと馴れ合ってしまったら嫉妬や妬みが生まれるだろう」

だから…均衡を保とうとしているのだと零は続けた。

元々奇異な存在の零は孤高を保つべきだというのだ。


「私を特別扱いすれば、エコ贔屓するだなんだと、壱を引き摺り下ろそうという、輩が出てくるかもしれん。目立つ存在であることを自覚しろ」

零は静かに瞼を伏せる。

長い睫毛が白い顔に影を落として、その綺麗さに目を奪われてしまう。

なんて、聡明で冷静で、優しいのだろう。

周囲の心に僻みなどを感じさせない為。

壱自身を妬む者が出ないようにする為。


エニシの立場を考えて距離を取っていてくれたのだと言うのだ。


壱の心の中がジワっと暖かくなる。




「ありがと。俺の立場とか考えてくれてたなんて気付きもしなかった。でもさ、それだと俺の心がさみしいってギュってなる」

壱は強引に零の手を己の胸に持っていった。


「…!」

「ココが痛い。零に相手にされないのはヤダ」

零の手を離すまいと握りしめる。

「壱?」

壱の必死さに戸惑いながら、零は僅かに瞳を揺らした。


「だって、俺…零と仲良くしたいって一番に思ったんだ…零のこと、誰よりも一番仲良くしたくて、一番知りたいって思った。皆んなは心静かに過ごせるかもしれないけど、それだと仲良くしたい俺が悲しい」


つい勢いで、エニシは告白じみた事を言ってしまう。

でも紛れもない本心だった。せっかく出逢えたのだ。少しでも一緒にいたいと本能が、魂が訴えていた。

不思議なほどに零という存在に執着し、惹かれてしまうのだ。


「…何故お前は諦めるということをしないのだ…」

零が表情には出てはいないものの、珍しく狼狽えているのが空気で伝わってきた。


「諦めるなんて俺の辞書にはないし?一途だと思わない?仲良くなるって決めたら仲良くなるんだ。零がどんな酷いことしたって諦めないし?掴まなきゃいけない手、離しちゃいけない手くらい解ってる」

実際、逃さないとばかりに壱は零の腕を掴んで離さなかった。

頑是ない子供そのものの壱の言い張りに、零は瞬きを忘れて見入ってしまう。


「…どこまでもお前は…」

意のままにならないと零は小さな声で呟いて、平静を装ってはいるものの、エニシから視線を逸らして背を向けてしまう。

だが、少しだけ見える耳が薄桃色になっている事で、嫌われているわけでも、無視されているわけでもない事が証明された。


「ねぇ、皆んなの前で俺と話すのが嫌なら、またここで話してよ」

エニシが言えば、零は泣きそうな顔を一瞬見せた後、わずかに頭を上下した。

その、喜びと切なさが混ざった零の顔を見た瞬間。壱まで泣きそうになる。


この時点で、完全に零に堕ちたと言っても過言ではなかっただろう。

話を聞けば、聞くほど、零のことが好きになった。


一人で教室移動するのは、零が最初にすれば、友達を作る事が苦手な子が一人で移動しやすくなるからだと言うのだ。

自分の無意識の行動が誰かの痛みを生んでしまう事さえ、回避しようとしているとは。


「ひとりでいることは寂しくないの?」

エニシが聞けば、零はユルユルと首を振った。

「寂しくはないさ。本を読む事が好きだし。今はこうしてエニシと話しているだろう」

「っっっ」

そう言ってニッコリと笑われてしまえば、エニシはたまらない気持ちになってしまう。

どうしよう。好きで好きで仕方がない。

守ってあげたい。恐ろしく強くて賢くて、一人でも十分強い子だけど。

どうしようもなく、零に惹かれていく。


「だが、ここで過ごす時間は長いようで短い。大切なものを作ってしまえば、離れるのが辛くなろう」

確かに零の言うとおりなのだ。

既に数年先の別れを思うだけで胸が張り裂けそうだった。神界、天界、魔界、俗界、冥神界とそれぞれに振り分けられる。

これから、どんどん仲良くなって、その時に別れが来てしまうのだ。


「でもさ、短いからこそ、この時間が一生のうちで大事だったって噛み締めたいじゃん?辛い時だって、きっと思い出したら、ここにいる時の記憶だけで乗り越えられる」

そう思うのだと、エニシは力説した。


「そうか…何度も転生したエニシが言うのならそうなのだろうな」

零は儚げに綺麗に微笑んだ。

守りたいと思った。

優しい目の前の子を、世の中の全てから守るために強くなろうと決めた。



そう決めたのだ。




⭐︎ ⭐︎ ⭐︎




旅籠で暇になったミコトが、エニシが零にあげた剣を持ち、手入れをしている。

ミコトの記憶がないだけに言い切ることは難しいし、外見も性別も違っているが、ミコトは十中八九、間違いなくユートピアで出会った零であるはずだ。


昨夜、冥神界の王クロノスの霊力チカラを使い、エニシがなかったことにした事件を振り返ればわからない筈はなかった。

ミコトが気遣ったコダマとエレスチャルへの配慮がそれを物語っている。思い遣りや優しさの種類が、零のソレと重なった。


やっと。

やっと見つける事が出来たのだ。

もう、絶対に手放しはしない。


神界にいるミスラを零だと確信し、結婚を申し込んでいた。

だが、一緒に旅を続けていて目の前にいるミコトが零である事が濃厚だという確信が芽生え始めている。


執着も零以外には見せたことがなかった。

不思議なほどに惹きつけられてしまう。守りたいのだ。何に変えても。

零に対して感じていた感情をミスラを探しにきた俗界で出逢った人間のミコトという存在に感じて、強烈に惹かれてしまっている。

気は多い方ではない。


だとするならば、行方不明のミスラがミコトである可能性が大きいのではないか。


ミコトが零であると分かりさえすれば、おのずとミスラの居所がわかることになる。


ただ、何故ミスラが姿を消したのか。

エニシの脳裏に疑問が次から次へと顔を出す。



「エニシ?どうしたのだ。先ほどから心ここにあらずだが…」

剣の手入れをしていたミコトがその手を止め怪訝そうな顔をしている。

多分、ミコトのことだ。

いつもと違う雰囲気のエニシに気付いているのだろう。


ハルとカイレンは、スピネルと共に、次の旅の準備のものを買いに出かけていってしまった。


「なぁ、俺たちも出かけないか?骨董屋にでも…」

「骨董屋か…悪くない」

ほら、いつもならば断るはずのミコトが話に乗ってきた。

きっといつもと違うエニシを心配しての行動なのだと言う事が手に取るようにわかってしまう。



「え、じゃあ俺に剣をプレゼントさせてよ。買い物に付き合ってもらうお礼にさぁ。金は、使う場所もなくて、たんまり持ってる事だし」

エニシは重そうな財布をミコトの目の前に翳してすくりと立ち上がりミコトを促した。

「…ム」

「だって、いつまでも丸腰じゃ危ないだろ?」

1本目の剣もエニシが渡したのならば、2本目の剣もエニシが渡したい。


ミコトを守る為の武器は、エニシが選びたかった。

零は昔からエニシの我儘に弱い。ミコトが零だというのならば、この攻撃には弱いとエニシは確信している。

本気でねだれば、ミコトは嫌とは言わないはずだ。

少しの間が二人の間に流れた。


「仕方ない。…ならば心ゆくまで買い物に付き合ってやろうではないか」

案の定、ミコトが折れる。

素直じゃない口調ではあるが、ミコトは零と寸分違わぬ表情で優しく笑った。


外に出た瞬間。

風が二人をかけていく。

穏やかな空気が胸に広がる。

エニシは初めて零と話した湖畔の風を感じて目を細めた。


エニシは宿屋の女中に武器も販売している骨董屋の所在地を確認する。

帰ってきたスピネル達に気を揉まさせない為に、行き先の伝言をその女中に言い置いて宿を出た。

最悪、途中で何か事が起きでもすれば、バングルで直接スピネルに連絡すれば良い。


道案内を兼ねて少し前を歩いていたエニシは、斜め後ろを歩くミコトが横に並ぶのを待ってから、歩き始めた。


涼しげな顔で横を歩いているミコトは、昨日、コダマに殺されかけていたということを夢と片付けたらしく、全く話にも出さなくなった。

エニシが皆の記憶や状況を改竄したのだから、それはエニシの意とするところだから問題はないのだ。

ただ、エニシだけはその事件は夢物語ではなく、実際に起こった事として記憶に深く残っていた。

せっかく見つけたミコトを死なせてしまうところだったのだ。

エニシの中には、倒れたミコトを見た時の心臓が止まるような感覚が忘れられずにいた。


エニシが初めて好きになった相手である零が、ミコトである事が昨日のコダマとエレスチャルへの庇い方で分かってしまったのだ。

優しさの質が零と同じだった。他を優先しながら自を犠牲にすることを厭わない。

だから、記憶喪失だといったミコトの失っている記憶が見てみたくなる。


エニシの双剣の片方を渡した零が、ミコトである確証が欲しくなった。失踪したミスラとミコトの関係も無関係とは思えない。


我ながら欲深いとエニシは自嘲する。

ミコトを見つけられただけでも良しとしなくてはならない。

今、こうしてまた隣を歩いていられる事が何よりの幸せだということを、頭の隅では分かってはいるのだ。


だが、その反面。


ミコトに記憶を取り戻して欲しいと、エニシが壱であった事を思い出して欲しいと願わずにいられない。


それ程の長い時間、人の時間にするのであれば悠久に近い時間、エニシは零の事を大切に思い続けていた。

その相手が目の前にいる。


正直、冥神界の大神クロノスであるエニシに不可能はない。


今すぐにでもミコトの額に手を翳し、記憶の糸を探り、紐解けば、無理矢理ミコトの記憶を取り戻させる事は容易いだろう。


だが、エニシは自分本位なソレを行いたくはなかった。

ミコトが記憶をなくしている現状を受け入れていて、それで問題視していないというのならば、それに従って寄り添ってあげる事が最前なのだろう。

無理やりミコトに記憶を思い出させるような真似だけは、極力してはいけない。


だが、ここまでエニシ自身が気になってしまっている状態だと、下手にミコトに触れれば、無意識の意識がミコトと零が同一人物なのかどうかを探りに行ってしまいそうだ。


ミコトの記憶を盗み見る事になる。

そうなると、ミコトに触れる事さえ、許されないのだという事にエニシは愕然とした。

自我の強さが墓穴を掘ったのだ。




「どうした?先ほどから少し様子がおかしいが」

ミコトが熱でもあるのかと、エニシの額に手を伸ばしてくる。


「っ、や…大丈夫。気のせい、気のせいだから」

何故こういう時に限って、ミコト自らエニシに触ろうとするのか。

エニシは伸ばされた手から逃れるように首を移動させ、周囲を見渡し店を探しているそぶりをした。


「?」

「店はこの辺りかな…と」

取ってつけたようにエニシは言葉を繋げる。

「ここではないか?」

ミコトが件の骨董屋を指差した。

店内に入ると、手前には古道具や絵付け皿が並んでいる。

年代物の良い品から、明らかに時代が異なりそうな鮮やかな彩色の紛い物までが混ざっていた。

この街にある骨董屋の主人の目利きは怪しいらしい。

エニシは一つ一つ気になるものを手に取っては眺めていた。

そういえば、ユートピアでも真贋を見極める似たような授業があったなとエニシの思考があの頃に飛んだ。




⭐︎ ⭐︎ ⭐︎




その授業があったのは、最上学年になった時だった。

その頃には、零との距離はかなり近づいていて、周囲がエニシの相棒は零と認める程になっていたのだ。

それ故に実習では零とペアを組む事も多くなっていた。


出会った一年の頃は、皆と遊ぶ中に零を入れこもうとして誘いまくっていた事が懐かしい。


何でもサラりとこなす零と並んでいても見劣りしない為に、エニシは日々の努力を怠らず、いつでも零に張り合ってきた。

ほとんどの教科を互角になるまで高めに高めた。

3年目になる頃には、2人だけが突出しすぎて周囲から浮いてしまったという始末だ。


大人になるに従って、似たようなレベルのもの同士でいることがより自然になった。

皆で過ごすよりも零と過ごす方が自然だと周囲が遠慮するようになったことで、2人でいる事が自然になっていったのだ。

やっとの思いで、零の横に並べるようになったというのに…だ。


最上学年になった年。

特別に誰かを贔屓しなかった零がことさら可愛がっていたのが、最上学年になった頃にユートピアに入ってきた普賢の年のサンリクの2人だった。

赤い瞳を持つ参と、緑の瞳を持つ陸がいつも零の側にはべっていた。

何かと零の面倒を見たがる世話焼きの参と、ウルウルした眼差しで庇護欲をそそり、零に可愛がってもらっている陸が、零の周りをウロチョロウロチョロしていたのだ。

零の両腕は参と陸の居場所になりつつある事に、エニシは少し臍を曲げていたのだ。


2人で何かする事が出来なくなっていたその時、屋外授業で骨董品の目利きをする授業が行われた。


いわゆる修学旅行というようなものだ。


赤と緑のチビは実習についていけない事をぐちぐち言っていたが、零は上手く2人に寮の方を守るようにと指令を与えた事で納得させたらしい。


当然のように壱は零とペアを組んだ。

久しぶりに零を独占できたエニシは、とてもはしゃいでいた。


真贋を見極めるミッションは、骨董屋で一番価値があるものを探す事だった。

一番価値があるものを見つけた、2人1組のペアには、その価値のあるものが贈られるとの事だった。


成績の悪いペアから先に挑戦していく。

自らの欲しいものを選ぶペアや金目のものを選ぶペア。

それぞれの個性が出るミッションだった。

すでに金クラスのほとんどはミッションを終わらせているらしい。


エニシと零は、店の中の一つ一つを2人で見て回った。


造りの凝った剣。

綺麗に光るペンダント。

どれもがエニシにとっては宝石のように見えていた。

それは、零と2人で同じ物を見て、アレやコレやと吟味する時を過ごせているからだ。


この骨董屋の中で一番価値があるものは何かと聞かれれば、ここにはない。零との絆だと即答するだろう。


「コレはどうだろうか」

零が、時計と一緒になった懐中時計風の方位磁針を手に取った。

古めかしい古道具にしか一見見えないものだ。

だがよくよく見れば細かい細工が施されている。

華美な見た目ではないものの、繊細な造りだ。

燻んだ色をしているが磨けばとても綺麗なものになるだろう。

ひどく長い年月が経っていそうなシロモノだというのに、時も方位磁針も正確だった。

ゼンマイで動いているのなら狂っていきそうなものだが、持っている限り自動で動き続けるらしい。


「コレしかない。コレにしよう」

エニシが目を輝かせる。


「大切なものと正確な時間を永遠に刻み、正しい方向を示し続ける。同じ時を刻み続けられるのは幸せな事だろう」

零の言葉がまるで、エニシと一緒にいる時間の事を言っているようで、エニシの心は恐ろしいほど早く脈を刻んだ。


「うん。これにしよう」

2人は、懐中時計の機能がついた方位磁針に決めた。




「よく、これが価値のあるものだと分かったな」

指導者に褒められる。一番価値の高い物だったようだ。

エニシと零は、笑顔で握手した。


「だが、コレはここに一つしかない。さて困った。どちらに渡そうか」

指導者がエニシと零を見比べる。

最初に見つけたのは、零だからこれは零がもつべきだろうとエニシがいうよりも先に零が口を開いた。


「では、こちらは壱に贈って下さい」

「君は良いのかい?」

「壱がそれを持っていてくれれば、私はいつでも時間を聞きにいけるでしょう。方位磁針がついていれば、どこにいても、きっとエニシは私を見つけられるでしょうから」

エニシは零の言葉に、人前なのにも関わらず涙してしまった。

卒業が間近になってきて、二人のいく先が別れてしまう事を不安に思っていたからだ。


我ながら、若気の至りだと思わずにいられない。

エニシはいまだにその方位磁針を肌身離さず持っている。

実際、零の場所を指し示す機能があるわけではない事がわかっていても、お守りのように大切にしていた。



この店に、似たような代物はないのだろうかと、エニシは一つ一つ丁寧に見て回った。

チラリとミコトを見ると、一箇所に立ち止まってしまっている。

何か気に入ったものでもあったのだろうかと覗いてみて、エニシは目を見開いた。


エニシの懐に収まっている黒の輝石と銀で作られている懐中時計付の方位磁針と細工が対になるように設計されている同じものがそこにあったのだ。

この店にあるものは、透明の輝石に金色をしている。


「…コレはどうだろうか」

ミコトが、あの時と同じ台詞を紡いだ。


エニシの手が震える。

「コレしか…ない。コレにしよ」

エニシが昔と同じ言葉をミコトに伝えた。


「…不思議だ、前にもこんな事があった気がする」

ミコトはその懐中時計付の方位磁針を大事そうに手の上に乗せて眺めている。

「コレ、買おう。買ってプレゼントさせて」

エニシがミコトの答えを聞く前に、ミコトからそれを奪い店主に差し出した。

「ちょっと待て、確か剣を買いに来たのではなかったか?」

ミコトの言葉に、エニシはユルユルと首を振った。

「剣も買えば良い事だろ?」

「散財していると、スピネル達の目が痛いぞ?」

「なら、今回はコレだけで。次の街に行ったら今度は剣だ」

エニシがドヤ顔で言ってのける。

「金のない奢りたがり」

ボソリとミコトが呟いた。

エニシは、都合の悪いそれは聞かないフリで、店主から受け取った金色の懐中時計風の方位磁針をミコトの首にかけてやる。


「…見つけてくれて…ありがとう」

ミコトが、聞こえるか聞こえないかの声で、エニシに告げた。


「え。…は?それって…は?」

今の言葉だと、ミコトは昔のことを知っているかのような台詞に聞こえてしまう。

都合の良い夢でもみているのだろうか。

エニシが、瞬きも忘れて固まってしまったのを見て、ミコトがふわっと笑った。


「ほら、置いていくぞ?…壱」



壱…と、ミコトは言った。


ユートピアにいた頃のエニシの呼び名だ。

あの時のことを思い出したのだろうか。エニシはミコトの後を追いかける。懐中時計付の方位磁針も懐の中で反応していた。


「ちょっと待って。ミコト…零」

エニシが呼び止めれば、ミコトはスッと歩みを止める。

誘っても誘っても振り向いてもらえなかった零の後ろ姿と先を行くミコトの後ろ姿が重なってみえる。


「なんだ…?」

「思い…だし…たの?」

「…少し。エニシと出会った頃の幼い時の記憶だけだが…」

零と呼ばれていたこと、エニシを壱と呼んでいたこと。ユートピアにいた頃の記憶をミコトはポツリポツリと話してくれた。

「そこから先は?」

「…」

ミコトが伏せ目がちに首を横に振る。

零がミコトである事が判明したわけなのだが、さてどうしたものだろうかとエニシは腕を組んだ。

ミコト本人の記憶がない以上、下手なことを口にするわけにもいかないだろう。

「ミコトはさぁ、知りたくないの?」

「知りたければ教えてくれるとでも言うのか?」

ミコトはエニシの瞳を覗き込むように真っ直ぐ覗き込んだ。

「…それは、うん。あれだ。俺のことだから色々捏造して教えるかもしんないよ?」

教えるどころか、無理やり思い出させることだってエニシにはできてしまうのだが、この世界に逃げる要因にエニシ自身がなってしまっている可能性を考えると、やりたくはない。

出来れば、昔の仲が良かった頃の記憶のまま、一緒にいられるのであればそれでいいと思ってしまう。

狡いことなのだが、エニシは適当にしらばっくれることにした。


「どんなふうに…」

「例えば、ミコトと俺は恋人で、深い仲になってるとかなんとか言って、出会い茶屋に連れ込むかもしれない。本当の夫婦にしちゃったりするかもよ?」

エニシは、願望を散りばめながら適当に茶化してみせる。

「…ふむ。そうであるならば、忘れて申し訳がなかった。ならば、あちらで休んでいくか?それとも式でもあげようか」

出会い茶屋を指差してミコトが歩き出した。

店に近付けば近付くほど、発情した恋人同士や妾とあいびきしている者達の淫の気が充満している。

その中を淫らな雰囲気とは縁のない清廉潔白な空気が平然と歩いていくミコトから目が離せなかった。

エニシがそうしたいのであれば、それでも良いぞと、半ば本気で実行しようとする生真面目なミコトがいるのだ。

エニシは土下座の勢いで両手を合わせながら、ミコトが店の者に声を掛けようとするのを止めた。


「…ご。ごめん。悪かった。嘘です。さーせんっしたー」


茶屋の前まで移動し、いざ入らんとしているミコトはキョトンとした顔でエニシを眺めている。

その顔がいつもよりあどけなくて、エニシは懺悔の言葉を幾十も心の中で呟いた。

だが、ずっと思い続け、恋焦がれた相手が目の前にいて、据え膳食わぬはと脳内のどこかで、頂いてしまえと喚いているもう1人のエニシがいるのは否めないが、それ以上にミコトが大切だった。

ミコトはエニシのチャチな欲で汚していい相手ではない。


「別にお前が望むならいくらでも叶えてやるのだが…」

表情を基本的には鉄面皮で表情を崩さないミコトが、エニシの頬に手を伸ばし、艶然と微笑んだのだ。

柳のような眉を緩め、眦を濡らし、濡れたような艶やかな唇が弧を描いた。


「っっっ!!!!」

一気にエニシの全身が総毛だつ。

下肢に響くような衝撃を受けて、エニシは必死で首を振る。

高位淫魔の誘いでさえ、朽ちて散る花びらくらいにしか、響かなかったエニシが、おぼこい子供にでもなったかのように真っ赤に染まった。

1人の城で迎える幾多の夜、いつかそうなれば、そうなりたいと望まなかった訳ではない。


頭の中で、育ったミコト(零)を想像して、そういったことで汚してしまった事だって一度や二度ではなかった。


女達からの甘い誘いなど、途中で数えることすら嫌になる程受けたことはある。


ミコト(零)以外いらないと、他の誰かから体が触れられることを拒否した。全てをミコト(零)に与えたくて、ミコト(零)の全てが欲しいのだ。


記憶喪失とはいえ、目の前の本人にそんな誘いをされて、動揺しない男がいたらお目にかかりたい。

飢餓状態の野獣の目の前に上質な肉が転がっている…いや、自分から食べてくれと美味しいソースを塗りたくった状態で歩いてきているようなものだ。

この自制心の強さは、本当に褒めてやりたいとエニシは思う。

むしろ、この自制心があるから冥神界の大神が務まるのだと褒めてやりたい。

ただ、ミコトが大切だという気持ちの方が欲望よりも上回っている。

記憶がないことを利用して奪ってしまうのは、違うのだとエニシの少し残る理性が訴えかけていた。


その場で固まってしまったエニシを見て、ミコトは肩をすくめた。



「…冗談だ」


ミコトがしてやったりな顔でエニシに向き直ると、エニシはガクリと項垂れる。

隣で歩くエニシが意気消沈しすぎているのを見て、ミコトはため息をつくと店先で売られている、動物をかたどった飴をニ本買っていて、片方をエニシに渡した。

「子供扱いかよっ」

ヤケになって棒についた飴を受け取る。

なんだかんだといって、クールな顔をして、ミコトは食べ歩きや店を見て歩く事が昔から好きだよなと思いつつ。零であった頃も色々なものに興味を持って目を輝かせていた。ただ表情には全く出てはいないため、クラスメイト達は気付いていなさそうだったけど。

顔に出ない分、目や行動がわかりやすかった。

それを揶揄うと、そういう意外な一面が見られなくなってしまうので、あえて触れずにおく。

ミコトが渡してくれた棒についている飴はパンダの形をしていた。

エニシは睨めっこするように、飴と対峙する。



どうにも、エニシの中にある下心や疾しさをアンチュルピーに責められているような気持ちになって食べ辛い。

隣のミコトを盗み見れば、バナナの形をした飴を舐めている。

先ほどのやり取りの後だけに、それがまた扇情的にエニシの目には写ってしまう。


こんな些細なことで動揺しているところをスピネルにでも見られたら笑い転げられるに違いない。

そして小心者だと苦言を呈されていることだろう。


魔界、天界、神界の者達が見れば、普段の冷徹な態度との落差に、世界が終わるとでも嘆かれてしまいそうだ。

誰も周囲に置かない事で、孤高で誰にも心を許さない氷のような男だと思われている事をエニシも知っている。

実際は心許せる間柄の者の前では剽軽な一面を持ち合わせているのだが、その事実を知る者は極端に少ない。

明朗快活で優等生でリーダー格であったユートピア時代から冥神界への配属が決まった時に、エニシの腹は決まっていた。

だから、他を近づけず、人の輪の中心にいた過去の己と決別したのだ。

実際、今まではどのような甘言にも心揺らされることはなく、どんな残酷な試練も眉一つ動かさず執行してきた。

ただ、そんなクロノスという冥神界の王にだって弱点はあった。

無敵と言われるクロノスであるエニシが、ミコトの一挙手一投足で簡単に心が乱され、揺れ動かされてしまっている。

我ながら情けないものだとエニシは眉を顰めた。


今は横にいるミコトに視線をやるべきではないだろう。

冷静になれとエニシは自分の脆弱な精神を叱咤する。

人間の体というものは、これほど簡単に揺さぶられてしまうのか。

冥神界にいるクロノスとしての己ならば、鉄面皮でどんな欲も全て平然と隠し切ることが出来るというのに。

きっと、過去世で人間に生まれていた時があるというのならば、クロノスの前世はエニシのような性格であったに違いないだろう。

人間の姿でエニシを名乗っていると、どうにも人間であった頃の自分を想像してしまう。

霊力を押し込め、人間と変わらぬ状態に身をおいて時間が経てば経つほど、感情の振れ幅が忙しくなる。

下ネタを連想するような話題はひかえるべきだと、エニシはぱんだの飴を顔を見ないようにしながらパクリと咥えた。


「記憶がないなら、無理に思い出さす必要はないっしょ。思い出さなくちゃならないって思った時に記憶を探しても遅くない」

「…確かにそうかもしれない。身共は少なくともここでお前と旅をしているのも悪くないとは思っている」

今日のミコトはいつもよりも饒舌だった。

最初の羽虫を見るような目で見られていた時とは大違いだ。

今のミコトの言葉は、もう少しエニシと一緒にいたいと捉えてもよろしいのでしょうかと、都合のいい想像をし、エニシは顔を両手で隠してしまう。



とても、出会った時の下品な言葉で煽ってきた者と同一人物だとは思えないほどのウブな反応にミコトは眦を下げた。

最初は不快だった軽口が、不思議と嫌ではなくなっているのだ。

隣にいる事が自然だと感じる。

それは、幼い頃の壱と一緒にいた記憶がミコトに戻ったからかもしれない。

少しも変わっていない面倒見の良さと、明るく軽口で困難を困難とも思わせずやってのけるところなどは全く変わっていなかった。

エニシの上着の隙間からあの時の懐中時計が覗いている。

ユートピアにいた頃の姿を今のエニシに重ね、ミコトはスッと目を細めた。





《神界》




「ミスラが俗界に落ちて何日過ぎたと思ってるっ。お前は心配ではないのか」

赤い瞳のミヌレットが、中神界の執務室の中で、拳を机に叩きつけた。

神界では大神であるミスラの失踪に動揺が走っている。

中でも中神界の主要人物であるミヌレットは、ミスラの部下になりたいと願い出るほどにミスラを心酔していた。家臣になるということは、大神界、中神界、神界の中で神界の新米の神達がなるものだ。

中神界で既に役職についてしまっていた為、断られてしまったが部下になってでも、そばに仕えたかったほどだ。

ミヌレットの役職は、俗界の自然を司る神々が、俗界の天候などを調節している部署だ。

その中でミヌレットは、大地を統括している神の一人で、天候は晴れを司る神様である。

ユートピアにいた頃からミスラを親のように慕っていたミヌレットは、居ても立っても居られないといった顔で唇をワナワナさせている。

ミスラから、己が成すべき事をしっかり成せ、と教えられていなければ、当に仕事を放り出して、人界に降りている。

感情豊かなミヌレットは、イライラを隠しもしない。


普段は面倒見が良く、しっかり者だと周囲の神々から言われているはずのミヌレットが、年間の天候計画表を認めていたペンを壊してしまいそうな勢いで握りしめている。

キッチリ縛り上げた髪や服装が、実直、勤勉、真面目を表していて、キリっとした眉と吊り目気味の瞳が、今日は一段と際立っている。

そんなミヌレットは、隣の席で淡々と仕事をしている幼馴染でもある同僚の態度が気に入らず、声を荒げた。



「ミスラ様だろ?ミヌレット…君は馬鹿なの?その脳は筋肉で出来ているの?そんな事をしてミスラ様は喜ぶと思っているのか?」

海を統括し水を司る神様であるリンシャンは、冷静、温厚な性格を物語るように淡々とミヌレットを嗜めた。

というよりは、煽ったといった方が正しいかもしれない。

垂れ目気味の優しそうな瞳が今日は少し細められている。

腰まである蒼い髪の一部を緩く結い上げ、ゆったりと着こなした服と優しい物言いで、人当たりが良く、穏やかで、たおやかだと評判な神だ。

幼馴染であるミヌレットに対する態度を除いては。



「なんだと?この毒舌野郎が。いつもミスラの前に出ると良い子ぶって、あざとく上目遣いで庇護欲を誘いに行ってるミスラクラスタのくせに冷静ぶってんじゃねーぞ」

ミヌレットは、今にも胸倉を掴みそうな勢いで、立ち上がる。


「言ってくれるね。相手によって節度と態度が変わるのは当然だと思うけど?良い人の前では良い人になる。誰もが鏡ってことだよ。君の態度がそのまま私の態度になっていると思ってくれればいい」

リンシャンも静かに立ち上がる。

ハラハラとことの成り行きを見守っている同僚や後輩たちを危なくなるかもしれないからと周囲にいる者達を退室させるリンシャンの気配りに、ミヌレットはさらに苛立ちを募らせた。

人払いをし、執務室に2人だけになる。

今にも喧嘩に発展しそうな様子だ。


「くそがっ。ミスラがいなくなったってのに、なんでそんな冷静でいられるんだよっ。お前の言い方、ホント腹立つ…」

「私が…冷静に見えるのか?人間界は既に予定外の大雨で混乱させてしまっているというのに?」

顔は冷静沈着なようでいて、幼馴染だけあって根は似た者同士らしい。

「まあいい。これでゆっくり話が出来そうだ」

眉間に深い皺を刻みつつ、ミヌレットは怒りを鎮めてみせる。

中神界で2人が喧嘩をするのは日常茶飯事なので、周囲も慣れたもので。

またかといったようなものだ。

だからこそ都合が良い。

ミヌレットとリンシャンは普段は喧嘩ばかりだが、ミスラが関わると一瞬で協力体制になるのだ。



「…そのとおりだ。急に私たちに何も告げず、突然いなくなるのは不自然極まりない。何か裏があるのだろうね。魔界も天界も動いているようだ。皆がミスラを探してる」

リンシャンがスッと立ち上がり戸棚から水鏡を出してくる。

「大神界の様子が、大神界の王であるジルコンや配下にも気付かれることなく見られるのか?」

「まあね」

情報収集は得意なんだと言ってミヌレットが手を翳した。




「ミスラを極秘裏に探して、連れ戻してくれぬか」

ジルコンが天界の大天使を招いて指示をしているところが映し出される。

「御意」

大天使は、片腕を目の前に出した。

「くれぐれも大切に扱うように」

「御意」

大天使が一礼してその場から立ち去る。

隣には、后のスフェーンが不機嫌な顔で鎮座していた。

二人きりになった瞬間。スフェーンがジルコンに冷たい視線を送る。

「随分、ご執心ではないこと?大神界に来たとはいえ、たかだか新人の神じゃない」

スフェーンが女の勘なのか、キラリと目を光らせ釘を刺す。やたら美しいと噂の新入りのミスラの存在を疎ましく思っていることをスフェーンは隠しもしない。


「何千年も昇ってこなかった大神だ。大切に扱わなければならないのは当然というものだろう」

ジルコンは、表情を崩す事なく、当然だと胸を張った。邪さを含まない優等生な対応だ。

そこに誰かいたとしても浮気心から言っているように思う者は誰もいないだろう。

だが、スフェーンはそうではなかった。

「あら、一神が俗界に降りようが、あまり詮索しない貴方が、わざわざ天界に命じてまで探させるなんて、珍しい事もあること。何人もの妾がどこにいても、消息をたっていても、その所在にも気にしない貴方がねぇ」

痛烈な嫌味をスフェーンは放つ。


どうやら、ジルコンは女好きらしく愛人を何人も囲っているらしい。

ミヌレットとリンシャンもそんな噂は一度も耳にした事はないので、大神宮殿の恥部をうまく隠しているのだろう。

「妙な勘ぐりをするな。スフェーン。愛人ではない侍女たちをそのような呼び方をするな誤解を生む」

「誤解…ねぇ…ま、そういうことにしておきましょうか。わらわは少々気分が悪い故、このあたりで失礼致しますわ」

言いたい事だけサラリといって、スフェーンは部屋を出て行った。

美しい女神だが、どこかに行き過ぎた執着を宿している気がして、ミヌレットとリンシャンは二人して顔を見合わせて肩をすくめた。



「…后の動向を追えるか?」

ミヌレットがいえば、リンシャンは小さく頷いて。

水鏡の上で指を動かした。

その瞬間、部屋が変わり后スフェーンの寝室が映される。

スフェーンは鍵を内側から施錠した。

神界にはそぐわないピリピリするような禍々しさを感じ、覗いているミヌレットは思わず息を呑んだ。


スフェーンは部屋にある全身鏡に呪文のような言葉を呟いている。

みるみるうちに、鏡がジルコンの后のスフェーンではなく、別のものを写し始めた。



「アンデシン様…」

鏡が映したのは、魔界の王であるアンデシンだった。

慎ましやかに、それでいて底冷えするような声でスフェーンは魔王の名を呼んだ。

もう何度も交流があることを匂わせるような親しげな声で。


「どうしたんだい?スフェーン殿」

神界にいてもおかしくないような美麗な容姿の魔界の王が妖艶に微笑んだ。

「妾は、妾は口惜しく思う。夫はミスラ、ミスラと暇があれば口にする。妾というものがありながら…」

スフェーンは唇を噛み締めた。

「寂しいなら僕のところに来るといい。君をいくらでも愛してあげるよ?僕では役不足なのかい?」

蕩けるような優しい顔で魔王は口説き文句を口にする。スフェーンもまんざらでないように頬を染めた。



「っ魔界の貴方と…そのような関係になれるはずもないでしょう」

スフェーンは甘い誘惑に耐えるように唇を噛み締めた。

「それは、残念。意外に身持ちが堅い。で、今日は何用だい?」

「ミスラを、ミスラを探して、妾の目の前から消して頂戴」

嫉妬に狂った目で、スフェーンは呪詛のように、アンデシンに告げる。

「女の嫉妬とは、げに恐ろしいものだ。了承することは容易いが、代わりに僕は何を貰おうか。魔物は気まぐれ、口約束だけなら反故にするかもしれないよ?」

意地悪そうにアンデシンが片眉をあげてスフェーンを見た。

「わ、妾を…貴方に捧げます」

身を捧げるという訴えに、アンデシンがスッと目を細めて口角を上げる。

「僕の寵愛を受ける気なんだ?神界の王の后が?魔界と交わるの?」

「…構わないわ。ジルコンの意識を奪うミスラが憎い」

「僕の誘惑に堕ちる君も同罪な気がするケドな?」

面白そうに嗤いながらアンデシンは、艶やかな顔で鏡越しにスフェーンの唇をなぞる。


「意地悪を言わないで」

甘えた声でスフェーンがウットリ目を蕩けさせた。

「ミスラの命の重さと釣り合わなかった時、破滅するけど覚悟はいい?」

契約の魔法をアンデシンが唱える。

空気が歪むのが、水鏡から見ているミヌレットやリンシャンにも伝わった。

室内に沈黙が訪れる。



「分かったわ…」

スフェーンが、そっと鏡に触れれば、先ほどまでは鏡でしかなかった筈なのに、アンデシンに触れられるようになっていた。

スフェーンの手が伸ばされる。

アンデシンがその手を掴んだ。

魔界に消えたスフェーンの声だけが、部屋の鏡から聞こえてくる。




「え、嫌…貴方と…そういう意味では…ないの?」

「いつ僕がそんな事を言った?大神界の王の后が堕ちぶれていくところなんて、最高の余興だと思わないかい?せいぜい楽しませておくれ?」




「え、嫌よ…嫌ぁー」






「馬鹿な女だ…魔界の王が、それほど甘いわけがない事など分かりきった事なのに」

聞くに耐えなくなったミヌレットが視線を水鏡から逸らした。

水鏡を戸棚に片付け静かに扉を閉じる。

背中をミヌレットに向けたまま、リンシャンが恐ろしい程冷たい声で呟いた。

「ミスラを消せなんて…許さない。あのクソ女。ミスラの命とクズ女の命が同等の価値な訳ないだろ」

ミスラが絡んだ時の残忍さや容赦のなさは、ミヌレットも引き攣るほどだ。


「俺達もこうしてはいられないな」

ミヌレットが秘書を呼びつけ、仕事の引き継ぎにかかる。

大神には、大地の状態を視察するという名目にしようと、書類を認めた。


「たまには気が合うことをいう」

リンシャンも同様に、手続きを進める。

妙に息の合う二人に、それぞれの部下達は、目を白黒させたのは言うまでもない。




《俗界》




「次はどこへ探しに行くんだ?」

カイレンが宿屋でダラダラと寝そべりながら、ハルに尋ねる。

「んー、アンチュルピーからの返事を待ってるんだけどね、今回に限って戻ってこなくて…」

ハルは、バングルについたアンチュルピーの呼び出しボタンを何度も押してみせる。

「アンチュルピーの奴が、美味いものに釣られて寄り道でもしてんじゃねーの?」

よいっと体を起こしてエニシはあぐらをかいた。

「いつもなら、遅くても半日もすれば往復してくるんだけど…」

ハルは窓際まで移動して、空を眺める。

雲がどんより重い。先程まで降っていた雨のしずくが軒から音を立てている。

雲が増え、またいつ雨が降り出してもおかしくない天気だ。

雨があまり得意ではないアンチュルピーのこと、どこかで天気が良くなるのを待っているのかもしれない。

「ったく、しゃあねぇなぁ。しばらく、足止めって事かぁ」

カイレンが天井を眺めた。

遊び場の少ない、簡素な宿屋にいる事がだるくなってきたカイレンは、つまらなくて仕方がないらしい。

宿場町ならば店も並んでいて、飲み屋も博打場も妓楼も揃っているのに、ここには、綺麗な風景と温泉があるだけなのだ。

カイレンはタルそうに頬杖をついた。

「休みっていえば浮かれて遊び歩いてるカイレンが珍しいね。ああ、そうか。ここの宿屋にはそういう接待してくれる人(飯盛女)がいないしね」

ハルが揶揄えば、拗ねたようにカイレンが鼻を鳴らした。

「いたところで、同じ部屋に何人もいたら、遊ぶに遊べないだろうが」

「意外に時と場所は選ぶんだ。皆がいても平気かと思ってたよ」

「馬鹿いうな。あーくそ、酒もらってくる」

カイレンは気怠げに立ち上がると、部屋を出ていった。

山間にある宿では、この街の花街までは少々遠いので、カイレン的にはそこまで無理して行きたい訳ではないらしい。

何より天気もご機嫌が斜めらしく、昨日あたりから、季節は春だというのに、大雨が降ったかと思えば急に真夏のように晴れ渡ったりして天気が不安定になっているのだ。

カイレンが不機嫌になるのも仕方がないなとハルはため息をついた。


「ところで、ミコトとエニシが戻らないけど、平気…だろうか」

ハルは、報告書をまとめているスピネルに話題を振った。

現に、エニシと2人で買い物に出掛けたきり、戻ってはこない。


「…あ、ああ。先程女中から文を貰ってきまして、エニシ曰く雨が酷くて帰れないから、他で天気が落ち着くのを待つ…との連絡がありました」

スピネルは、ため息交じりに報告する。

ハルと二人の時には、しっかり敬語で話すスピネルの切り替えに、ハルは苦笑いで答えた。

「さすが、スピネル殿ですね。…仕事も早く正確だ。…ここに出ている間は、僕はオマケなのだから、かしこまらなくて大丈夫だよ」

「あ、ああ。わかりました。…では。ここからは気をつけよう」

フッと表情を緩めてハルの方を見ると金色の髪がはらりと風に靡く。

あまり派手な作りではないので、気付かなかったが、相当な美丈夫だと、ハルは目をぱちくりさせた。

「き、きっと、ここまで美形なスピネル殿と一緒に仕事をしていて平気だったのなら、エニシにその気はないよね?ミコトと二人にしていても平気…だよね?」

ハルが言えば、スピネルがビキっと固まった。

何故かバングルを抑え斜めに視線を外している。

真っ直ぐものを見るスピネルにしては珍しい事だ。

「…。…多分全くその気はないかとは思うが…あいつの事だから、大丈夫ともいえるし、あいつだから不安って事も…」

ヒクヒク頬をさせながら、冷や汗をかいているスピネルを見て、ハルが蒼ざめた。

「ええええ!ミコトが危なかったりすんの?そんなの駄目駄目駄目」

「や、多分…きっと…節度は守るハズ」

スピネルが天を仰いだ。





その頃、エニシとミコトはといえば、急な雨に振られて、濡れ鼠という体で近くの旅籠に飛び込んでいた。

「降られちゃったなぁ」

部屋を案内され、何枚かの手拭いを用意してもらい全身を拭っていた。

勢いで入ってしまったものの。想い人と一緒に二人きりという状態に気付いてしまう。

チラッとミコトに視線をやれば、濡れた衣類がピタリと肌に張り付いてどうにも目のやり場に困ってしまう。

首筋の綺麗さや頸に視線をやれば、真っ白で陶器のような肌に雫がツルっと流れていた。

このままでは、まずいとエニシが顔を逸らそうとした瞬間、違和感のあるものに目が止まって、固まってしまう。

「み、…ミコト…ソレ」

エニシは手拭いを指さした。

墨を拭ったかのように手拭いが真っ黒に染まっているからだ。

「ふむ。…困ったな。雨には注意しろとハルに言われていたのだが…」

動揺する事もなく、のんびりとミコトが口を開いた。

「髪…髪…髪色が」

「うむ…染めていたからな」

プラチナに輝く絹糸のような髪に戻っている。

エニシは、瞬きも忘れ、食い入るようにミコトを眺めてしまう。

零の時もミスラの時も、この色であった。

焦がれて焦がれていた相手が、本当に目の前にいるのだなと、エニシは実感する。

神殿内で初めて見た時、恐ろしく整った顔に目が奪われ、黒髪である事に意識がいっていなかった。

内面にグイグイ惹かれていただけに、外見の違和感に気付かなかったのだ。


「…」

言葉にならないエニシに、ミコトは首を傾げた。

「エニシ?…壱?」

「あー。だめだめだめ駄目だって、その呼び方、ホント駄目」

エニシはザッとミコトから距離を取る。

「駄目…か。なら戻そう…エニシ。でいいか」

「…」

コクコクとエニシは頷く。

「そうか」

「ミコト…風呂。風呂行ってこい…風邪引くから…な?」

「うむ…エニシは行かなくても良いのか。風邪を引くのでは?」

ミコトの生真面目な言葉が、今のエニシには猛毒だった。

「い、いい。いい。俺馬鹿だから、風邪ひかないし…ほら早く」

グイグイとミコトの背中を押して、宿屋が用意した着替えを持たせて部屋から追い出してしまう。

「ヤバい。やばすぎる…」

どうしたものかと、思いスピネルに連絡を入れる名目でバングルで通信する。

零がミコトだった旨と共に、盛大な泣き言を入れた。



《零みつかった。ミコトだった。…でもきおくはない。どうしよう。どうしよう。どうしよう。あめがふってきて、やどにふなりきりでとまるけど。ヤバい。ヤバい。ヤバい。りせいがもつかな。スピネル(ルミナス)たすけて》

 


スピネルは画面に映された報告を見て頭が痛くなった。

幼児でも書かないような酷い乱文だ。

まあ、その乱文具合にヤバさが垣間見える。

隣ではハルがミコトの貞操を心配しているし、どう説明をしたら良いのか。

まず、エニシからの報告によってミスラが無事でいて既に見つかった事は良かったのだが。

記憶がないのか…何か事情がありそうだ。コレは見つかったと報告はまだすべきではないのだろう。

記憶を失っているうちは、気付かぬ体で旅を続ける他はあるまい。

それよりも…だ。

酷く動揺している主人エニシ・クロノスにどうアドバイスをしたら良いものかと、スピネルは途方に暮れた。




《酒はやめとけ。理性がなくなる。とりあえず布団を離して、衝立でも立てたらどうだ?何なら先に寝かせてしまって、ミコト(ミスラ)の絵でも描いてろ。いやでも朝がくる》




返ってきた返事を見て、エニシはゆるゆると頭を振る。

目の前には、スッポン料理が並べられていて、既に酒も用意されているのだ。

薬膳料理を頼むべきだった。濡れた全身をなんとかしたくて、任せるなどと言うべきではなかった。

なんとか回避する方法はないだろうかとスピネルに返信する。



《ど。どうしよう。スッポンりょうり…きた。さけもいっしょ。…おれしゅうりょうのおしらせ》




スピネルは、いくらなんでもずっとバングルに触れているわけにもいかず厠だといって部屋を出た。

まったく、普段の頭のキレはどこに行ったのか。

隣の部屋の客にその食事をあげて仕舞えば、受け取ってくれるだろうに。

ミコトが風呂に入っている間に、当たり障りのない料理を追加で頼めば良い事だろう。

いつものエニシならば、当たり前にそれをしただろうに。

どれほど動揺しているのかが想像できる。

それほど、大事で傷つけたくはないのだろう。

やっと見つけたのだから。

先輩としてずっと、面倒を見てきたスピネルにはエニシの気持ちが痛いほど分かる。

ユートピアの頃から、ずっと相談を受けていた。

良い加減、他に目を向ければ良いのではと、進言しても絶対ミコト(零)でなければ嫌なのだと半泣きで言い切っていたのだ。

世話が焼けてしょうがない。

さて、どうしたものかと、スピネルは返信を打った。



《料理は隣室の人にプレゼント。お前らのを追加注文で》




「雨…止まないな」

風呂から戻ってきたミコトが、屋根を打つ雨音に耳を預けている。

「…ミコトが風呂に行っている間にスピネル達には、ここに泊まって雨が上がったら帰る旨を伝達しておいたから、優秀だろ?」

「連絡をしておいてくれたのか。宿に入った際、アンチュルを呼んでいたのだが、反応がなくて困っていたのだ」

ミコトはバングルに触れて、小さく息を吐いた。

「今、料理も運んでくるってさ」

先ほどまで、腕のバングルに向かって、ポンコツぶりを散々発揮し、今晩理性が持たなかったらどうしよう〜っと、スピネルに泣きついていた者とは思えないほどのポーカーフェイスでエニシは告げる。


ミコトが部屋に戻る少し前。

スピネルからの伝言を読んだ後、エニシはすぐに隣室に料理を差し入れした。

隣の部屋にいた赤みがかった茶髪と青みがかった黒髪の兄妹風の二人は喧嘩中(取り込み中)だったらしく、間が悪いタイミングで襖を開けてしまったと、エニシは顔を引き攣らせる。

飛んでくるものを避け、声をかければ、我に返るのが早かった妹らしき娘が、険しい表情から一転、フワリと柔らかな表情でエニシに詫びを入れた。

赤毛の医者の風体をした男がはムスっと黙り込んでいて、バツが悪いのかそっぽを向いている。

看護婦の風体をした青毛の少女が困ったような顔で、膳を貰ってくれる事を了承してくれた。

兄妹だとエニシが反射的に思ったのは2人に揃いのフェロニール《額飾り》がついていたからだ。真ん中の輝石が紅玉の兄と、青玉の妹で醸し出す雰囲気が酷似していた。

熱血漢な兄と冷静沈着な妹といった正反対に見える二人なのだが、エニシには、やはりどこか似ているように感じてしまうのだ。

兄妹であればスッポン料理でも問題はないだろうと結論付け、手早に全ての膳を移動させた。

そして、その足で女中に追加注文として精がつきすぎない薬膳料理を注文する。

エニシは部屋に慌てて戻り、素知らぬ顔をしてミコトを迎え今に至る。


ボロを出さない自信は全くないが、ミコトが昔のことを思い出してくれて、エニシを信頼してくれているだけで、今は充分なのだ。

旅に出る頃は、怪しい軽い男だと訝しむ様子(というか、最早軽蔑されていそうな様子)だったミコトが心を許してくれただけで、エニシは嬉しくて仕方がなかった。

外を眺めるミコトの薄紫がかった瞳が、光の加減で虹のように輝いて見える。

ミコトが零であった時も、その珍しい瞳の色に魅入っていたものだ。

「…ああ。…そういえば、廊下を歩いている時に、すれ違う客達が奇妙な話をしていた」

「へ?どんな?」

「なんでも、この宿には妖がいて、夢の中に引き摺り込んで逃がさない。夢魔のようなものが取り憑いていると言っていた」

「そんなものがいんの?この宿に?」

エニシは世間話に相槌をうちながら、静かに、気配を伺った。

神社や神殿に近い澄んだ気配はせれども、夢魔や妖といった魔や邪気の類の気配はしない。

酔った客たちが怪談話に花を咲かせていたのだろうとエニシは結論付けた。

「夢から抜けられなくなりそのまま帰らぬ者になった者。夢から抜けたら人が変わってしまう者が多発しているらしい」

綺麗な顔を顰めてみせるミコトに、エニシはフッと顔を和らげた。

「え、まさか…怪談話苦手だったりすんの?」

弱点がなさそうな、というか実際ミコトには人を信じすぎる意外の目立った弱点などはなかったので、意外すぎてエニシは目を白黒させる。

実際、この前の地下部屋で起こったような、見るに耐えない現場に居合わせても表情をほとんど変えることはなかった筈だ。

「妖などは怖くはない。…が、夢のような無防備な状態の時に異変が起こるのは、あまり好ましくはない」

夢の中での対処が嫌いでも、怖いでもなく、好ましくないというあたりがミコトの凄い所なのだろうが、苦手意識がある事象がミコトにある事にエニシは意外すぎて目を見開いた。

硬い口調から、強がりや偏屈に思われがちだが、話してみるとそうではない。ミコトは出来るものは出来るといい、出来ないものは出来ないという性格だという事をエニシは知っている。

ユートピアの頃、数字が若い程優秀とされている中、異例の零を名乗れていたのは伊達ではない。

壱を名乗っていた主席のエニシは、現に冥神界の大神クロノスとなっているのだ。

ミコトはいつだって冷静に現状を分析し、優先順位を間違えない。完璧主義であろうと努めているわけでもないというのに、選択を見誤る事もないから隙がないのだ。現に記憶がなくとも特別部隊に入るに余る実力を有していた。

それほどの実力を持っているミコトに苦手なものがある事がエニシには意外で仕方がない。

「この旅館、別に変じゃなくないか?」

「…旅館…自体には、何も感じてはいないが…」

そう言って、以降口を閉ざすと、ミコトはまた外の雨に視線をやった。




夕飯を済ませたエニシは女中が綺麗に並べていった布団に一瞬目を見開いた。

衝立を間に入れるには近すぎる。

ミコトが部屋にいる今、無理やり衝立を入れようものなら、今まで全員で雑魚寝している時は使わなかったというのに、何故だと言われかれない。

エニシは腹を括って、廊下側の布団に寝そべった。

もちろん、ギリギリ理性がヤバくなったら、ミコトに気取られず廊下に出て頭を冷やすためだ。


ミコトを窓際に誘導すれば、心ここに在らずといった風にぼんやり考え事をしているらしいミコトはエニシに言われるままに窓際の布団に腰を下ろした。

「ミコト?」

「あ、ああ」

我に返ったようにミコトがエニシに視線を移す。

「怖いなら、寝るまでずっと手でも握って、ポンポンって布団を寝るまで叩いてやろっか?」

元気付けたくて、エニシが手で状況を真似て見せれば、ミコトは眉間に皺を寄せた。

「馬鹿が…といって煽りに乗ると思ったか?」

「へ?」

エニシの口から間抜けな声が漏れる。

「寝るまで、手でも握っていて貰おうか。何なら同衾でも構わんぞ?」

悪戯でも思い出したかのような無表情でミコトは口角だけを上げた。

気怠げに寝そべり、普段禁欲的さに拍車をかけるほど、しっかり着こなしているミコトが、宿屋の着物をゆったり着ているので、肌が見える部分が多い。

それに拍車をかけるように、いつもキッチリ縛られている黒髪は解かれ、髪色はエニシの記憶にあるプラチナ色に戻ってしまっている。

瞳は潤んで、上気した真っ白な肌が薄桃色に染まっていた。

エニシの喉が鳴る。

試されているのか。神はどこまでも残酷だと、その権利の全てを持っているはずのエニシ(クロノス)は頭を抱えたくなった。

部屋から出て行こうにも、今日に限って寝るのを恐れるミコトがいる。

放っていけるわけもない。

でも、このまま生殺しにされ続けて、一晩理性が保つ筈もないだろう。

このまま馬乗りになって、唇を寄せてしまえる距離にミコトは寝そべっている。

周囲に邪魔になるような者(スピネル、カイレン、ハル)たちはいない。


他のどんな女神、淫魔、が来ようが眉一つ動かさず、心の針すら1ミリも揺らさない自信はあるのだ。

今までの長い間も、当たり前に誘いを無碍にし過ごしてきた。


「エニシ…熱でもあるのか?顔が赤い」

ミコトが布団の中から、袖をたくし上げエニシの額に手のひらを当てる。

「!!!」

緩い袖から覗く二の腕の白さに、エニシの視線が釘付けになった。

どうして、こうも無防備なのだと怒りすら湧き上がってくる。

エニシがどれだけ我慢をしているか、分かりもせずに、無邪気でいて艶やかにミコトはエニシを誘っているのだ。

正確には誘っている事に気付かずに、やらかしてくれている。


「…熱はないか」

「…降参。降参だって。もう勘弁して…はいミコトはもう、寝ような。お子様は寝る時間だ」

エニシは、ミコトを布団の中に押し込め簀巻きのようにぐるぐるに巻いた。

色っぽい何かに障りがあるのであれば、色っぽくなくしてしまえばいいのだ。

「おいっ、エニシ。なんだこれは動けないではないかっ」

顔だけ出した状態のミコトが吠える。

「はいはい。腹でも出して風邪でも引かしたら、ハルに殺されるから」

「…身共をなんだと思っている」

「はいはい。いい子いい子」

簀巻きの布団をエニシはポンポンと叩いてやる。

元々雨で体力を吸われていたのか、ミコトは程なく意識を手放した。

「雨が上がったら刀を探しにいこうな」

柔らかでいてコシのあるミコトの髪を撫でてエニシは、ミコトから離れ、自分の布団に戻っていく。

横にミコトの存在を感じながら眠る事が出来る幸せを噛み締めながら、エニシは名残惜しそうに瞼を閉じた。




エニシの意識の輪郭がぼやけて滲んでいく。

瞑想時に近い、奥に奥に意識が沈む。

まるで濁った池に手を突っ込んでいくと見えなくなっていく、そんな感覚だ。

眠りにつくのとはまた違った感覚にエニシは戸惑った。

覚醒しようにも意識が覚束ないのだ。

冥神界の王とも呼ばれるクロノスの神通力は無限である。

ただそれは、本体が神界にいる場合で、俗界に本体ごと降りている今は、意思を持って力を発動する事が可能というだけで、意識があやふやな状態では発動することが出来なかった。

なるほど。ミコトの眠りにつくのが…と言っていた事が今になって納得がいく。

身体も動かす事が困難なようだ。


何事も焦らず泰然自若たれ。


エニシは抗うことをやめ、様子を見る。…というかいっそ、この状況を楽しむことにした。



目が覚めでもしたら、無防備なミコトを前に自制心と戦う時間が待っている。その方が地獄というものだ。

物は考えようというもので。

隣に眠るミコトを前に不埒な事をしてしまうよりは、この状況を受け入れ、逃避してしまった方が都合が良い。

長い夜を越すための余興だと思えばなんてことはないのだ。


ただ、夢の中に入って行こうとしているのか、幻覚を見ているのかの判断がつかない事だけが頂けない。

意識が奥へ奥へと向かう感覚に身を委ねる。


イメージするならば、乗り物に乗って視界を流れていく景色のように記憶の糸が流れていく感覚といおうか。


冥神界の王になったばかりの頃、王になる直前の寄宿舎、ユートピアにいた頃、そして…。



これはいわゆる、前世というものだろうか。


ユートピアで俗界で功徳を積んだ経験があったエニシの金プレートには赤字で壱の文字が描かれていた。

まるで、凝った物語でも観ているかのような観覧者の立場で、それでいて、本人の中に入っているような微妙な感覚だ。

映像や匂い、音までもが、生々しく感じてくる。

少しずつ、光景が輪郭を持って現れてきた。


西方の国の城の作りが見えてくる。

そこの城内にいたであろうエニシは、王子という立場のようだ。

天蓋つきのベッドに寝そべり、全裸に近い状況で遊興の限りを尽くしていた。

妓女達を手玉に取り、快楽に溺れ、酒に溺れ、それは文字通り酒池肉林といった生活を送っているようだ。

乱れに乱れきった爛れた状況にエニシは顔を顰めた。


いくら欲求不満でも、こういう不埒な行いは駄目だ。心などなく身体だけそういった事をしている行為に意味などない。

どうせいやらしい夢ならば、ミコトとが良い。夢か幻想か分からないが、主人公であるエニシ風の王子を、透明な精神体のエニシが殴っては空を切っている。



「良いのですか?国内が荒れている時にこのようにふしだらな生活をされて」


側近の者が苦言を呈するのに耳を貸そうともしない。

女達から果物を食わせてもらい。奉仕させていた女達を退ける。


「は?俺がやる事なんて、せいぜい種馬になるくらいで、何をやってたってどうせ結果は一緒だろ?」


王子は、寝台から降りてガウンを羽織った。

どうやら、夢の中のエニシは、無気力で相当に捻くれているようだ。


これほど、ダメな王子が前世のエニシだというのなら、功徳など積めている筈もない。ユートピアで金プレートの壱になどなれるわけがないから、夢物語としては三流だ。

どうやら、エニシが夢の中の物語を追ってみたところ大体の筋が見えてきた。

新しい后を王が迎えてからというもの、国は荒れ果て、荒廃の一途をたどっているようだ。

后による人種差別は酷いものだった。

美しい女は捕えられ、魔女として焼印を押して醜くする。

美しい男を昇進させ周囲に侍らせた。

街の女達は次第に顔を隠すようになり、男は働かず見た目ばかりを気にするようになり、経済は日に日に衰退していっている。

后の美しさに魅了されているのか、誑かされているのか。

王は后の言うなり、思うがままの状態なのだ。

それを見兼ねた側近がエニシと思われる王子に苦言を呈している。

状況把握が出来て来ると同時に、第三者の目で見ていたはずのエニシがいつのまにか王子の目線になっていた。


「弟君たちはまだ幼い。あなたしか希望が残されてはいないのです」

「わかった、わかった善処するから下がれ。…ったく興が冷める」


側近の煩わしさに舌打ちをし、王子は祇女達を帰らせた。

数日前の宴の日もに似たような事を言われたばかりで苛立っているというのに。

皆して同じ事をくどくどと。


つい先日も、演舞大会で優勝した見目の良い男から説教をされたばかりだ。


女ものの衣を身に纏っている男だった。艶やかな舞と数日前に出会い一目惚れしたソラという娘にどこか似ていたから、一際目を惹き脳裏に焼き付いている。


ソラと同じ衣を着ていたので確実にソラの知り合いだと確信し、ソラの居所を尋ねたというのに、教えてもらえもしなかったのだ。


ソラに会いたいと告げても、首を縦に振っては貰えなかった。


義母である后が開いた宴の優勝者の二人組の片割れの男が憎らしい。


女装した女役の男と男役の男を二人で踊らせ、うまく踊れば褒美に願い事を叶えてくれるという褒美が用意されていた。


明らかに后に目をつけられ召し抱えられたであろう美男子は、いけしゃあしゃあと后の誘いを断っていたのだ。


圧倒的権力にNOと言える勇気に王子は彼我の差を感じていたのだ。


かたや己は義母を恐れて、何も出来ず、本来やるべきことから頭を背けている。

王子を叱った男は、相方の男を助けるために協力しにきただけだと言って去っていった。


自分にだって、そんなふうに協力してくれる奴がいたら…こんなふうにはなってないしと、言い訳して。

王子は更に自己嫌悪に陥った。


思わず城では歌わない筈の歌を口ずさむ。

好きな歌を歌うのは、お忍びで酒場で歌っている時だけなはずだ。

少し前、歌声を誉めてくれた美女を思い出してしまう。

キラキラした目で王子の歌を聴いて店にまで来たといってくれた。


感動で心が震えたのを覚えている。


崇高でまっすぐな瞳を向けられて王子は雷が落ちるような衝撃を感じた。


持ち合わせがないからと店を出て行こうとした美女を王子は引き止める。

初めて、立場ではなく自分自身を誉めてくれたのだ。

ソラという名前だけ告げて、翌日にはいなくなってしまってた。


ふしだらな気持ちなど、持ちようもないほどに崇高で美しい人だ。

まるで神様にでも誉められたようなそんな気持ちを味わったことなど一度もない。


これを初恋というのだろうと思う。


だから、もっと話してみたかった。

彼女に二度ともう会うことはないのだという落胆から、祇女達に慰めて貰っていたというのに、連日いろいろな者から説教じみた言葉ばかりぶつけられているのだ。


香水の香りや酒の匂いが立ち込めた不健全な部屋に王子は一人きりになる。

解ってはいるのだ。

このままではいけない事など。


誰に言われずとも王子自身が1番分かっている。

窓の扉を開け放ち空気を入れ替えた。

綺麗な空気が流れてくる事で、いかに乱れ汚れ切った生活をしているかをつきつけられたようで王子は息をつまらせる。

自己嫌悪に苛立ちを募らせ、ギュッと握られた手から血が滲んだ。


「俺に出来ることって、何もないっしょ」


王子は皮肉げに片頬を歪めて嗤う。

女に生まれなかっただけ、まだマシだというところか。女であったならば、見目が良ければ、追い出されるか、焼印をおされるか、悪くすれば殺される。

幸い見目良く生まれたお陰で王子が城を追い出される事もない。

昔からいて懐いていた爺やも見た目が悪いと追い出されてしまった。

待女達の見目は悪くない者ばかりが残されたものの、体には烙印が押されている。

后のいる宮は父親である王のいる隣の宮なので、普段は幸い顔を合わせることはない。

外に出なくなったのは、下手をすると、后に目をつけられる可能性があるからだ。

出るとしたら、后の来ない裏庭くらいだった。

爛れた日々を送ることで、当たり障りのない生活をしているだけだ。


ただ、王や后の力は強大で、日々残虐性が増していく。

城の奥の秘された場所にある処刑場で、隣国から連れてきた奴隷を狩って遊んでいる姿は見れたものではない。

双子の弟達だけはせめて守ってやらなくてはならないと、残酷な場面を見なくても良いよう、処刑場からは程遠い窓のない城の奥の部屋に押し込めている。

良心のほとんどがなくなりつつある王子の唯一、大切にしている弟達だった。

守るためではあるのだが、軟禁状態を強いていると側近達には思われているらしく、弟達を冷遇して。と唯一の善行でさえ陰口を叩かれている始末だ。

現状が、もどかしくないと言ったら嘘になる。なんとかしてやりたくとも、下手に王に進言すれば、后の逆鱗に触れ弟達に害が及ぶかもしれない。

となれば、何をすることもできなかった。

新しい后は妖術でも使うのか、天候をも操り、王の心さえ操ってしまえるようだ。色とりどりの宝石を散りばめ着飾っている后には確かに美しいと言えなくもないが、そこには妖の毒を秘めているように王子は感じていた。

昔の優しかった王の姿はどこにもない。

現実逃避に明け暮れてみても、虚しさが募るばかりだ。


神頼みでもすれば状況でも変わるだろうかと、皮肉半分、揶揄い半分で神にも縋ってみることにした。

側近の期待に応えるとしたら、祈ることくらいだろう。


祈って何かが変わるわけでもないだろうが、やらないよりは幾分か自責の念が薄れる。

王子は静かに両手を組んだ。


『誰か、この状況を変えてくれ。国民達が安心して暮らせるように。…皆に明るい表情が戻るように』


そして、唯一の息抜きである。

歌を口遊んだ。

願わくば初恋の人ともう一度会えますように。

そう願いを込めて。



あなたに出逢うために生まれてきたと

あなたに言えば笑うだろうか

愛だとか恋だとかなんてくだらない

いらないとさえ思っていたんだ

あなたの手を離してしまったら

二度と逢えないようなきがして

この世界で出逢えた幸せを

あなたに伝えたくてこの歌を贈るよ






「兄貴大変だ。誰かが空から降ってきた」

赤い瞳の双子の片割れのルヴァがドアを叩きながら叫んでいる。

ルヴァは、好奇心旺盛でダメだと言っても城内を歩き回ってしまう。

「兄さん。早く行ってあげないと」

青い瞳の双子の片割れのサイファも一緒なようだ。普段は大人しく、従順な子で、めったに外には出ない子なので余程の緊急事態なのだろう。


王子のエニシが、窓の外に位置する裏庭に倒れている人影を見つけ、駆け寄った。

幸い、側近も侍女もまだ気づいていないらしく、裏庭に人気はない。


そこにいたのは、怪我を負った美人が倒れていたのだ。

男にも見え、女にも見えなくはない。

綺麗という言葉を体現すると、倒れているこの美人になりそうだと王子は目を見開いた。

足から血を流している。

王子と双子の三人でこっそり部屋に運んでいった。サイファが周囲に気を配り、ルヴァが扉を開け、王子が横抱きにその美人を抱いて運んだ。


その美人の姿がミコトであった事にエニシは苦笑いする。


ユートピアにいた頃のミコトは白ネームで俗界の経験などない筈なのだ。

エニシは異様な光景を目の当たりにして、前世ではなく、夢を見ているだけなのだと判断し、確実に物語の先を楽しむ傍観者を決め込んだ。



「…」

うっすら、ミコトが目を開けるのを王子は瞬きも忘れて見惚れていた。

天蓋つきの寝台の上に寝かされている姿は、形容もできないほど美しい。

薄紫色の珍しい色の瞳が窓からの日を受けて七色に輝いている。

陶器のように白くきめ細やかな肌、長いまつ毛が影を落とし、長い手足と小さな顔、プラチナブロンドの髪は絹糸のように繊細で美しかった。

着飾って身綺麗にしている后とは対照的な美しさだ。

化粧や飾りなど何一つしていない。

白い衣類を身に纏っているだけだというのに、目が離せないのだ。



「大丈夫?(ですか?)」

双子達も同時に口を開き身を乗り出した。

「ああ、問題ない。かすり傷程度だ」

高くも低くもない耳心地のいい声でミコトは身体を起こした。

男ならば少し高めの、女であるならば低い声で、王子は戸惑ってしまう。

「良かった(です)」

ルヴァとサイファが同時に答えた。

顔を赤らめているところを見ると、双子たちからみても、ミコトは魅力的に映っているようだ。

「助けてくれて、感謝する」

ミコトがルヴァとサイファの頭をそれぞれの手で撫でてやれば、双子たちは一瞬で心を鷲掴みにされたらしく、ミコトに全開の笑顔を向けた。

王子に対しては、いつだって反抗的な態度のルヴァがミコトの前では素直になっている。

にこやかではあるものの、いつだって当たり障りないサイファでさえ、全開の笑顔を見せているのだ。

露骨な態度の違いに王子は顔を引き攣らせた。

「お前達は部屋に戻れ。俺はこの人に聞きたい事がある」

王子はルヴァとサイファを自室に帰るように命じた。

が、いつもなんだかんだいっても王子の命令には忠実な筈の二人が釘を刺していく。

「そういって、無体な事をしようとか考えてたら承知しねぇからな兄貴」

ルヴァが睨みつける。

王子の素行の悪さは筒抜けらしい。

「怪我人は大切にしてあげて下さいね。兄さん。不埒な事に及ぼうものなら、ちょんぎりますから」

ニッコリ笑いながらサイファが物騒なセリフを吐いた。

普段が穏やかな子だけに恐ろしい。

後ろ髪を引かれながら出ていた双子を見送り、王子はミコトに向き直った。



「何故…あなたは城の中にいた」

二人が出ていくのを見計らって、王子はミコトの寝台の近くの椅子を運ぶ。

不審者ならば、側近に引き渡さなくてはならないからだ。

「…身共は呼ばれたから来たのだが?」

曇りのないミコトの言葉に、王子は眉を顰めた。

身共という話し方が初恋の相手であるソラのようだ。

だが、ソラは黒髪に黒い瞳の娘で、ここにいるのは、プラチナブロンドに薄紫色の瞳を持つ、性別がわからない感じの中性的な美人だった。


「誰に呼ばれたと」

「お前以外に誰がいる」


居直るでもなく当然だというようにミコトが言い切った。

「は?」

双子達の話だと、空から降ってきたと言っていただけに、打ち所でも悪かっただろうかと王子は訝しんだ。


「降りてくる際、少々…小世話焼きの知己と揉めてな…。普段は女の尻ばかり追っかけている軽い奴なのだが、ここに降りるのを止められて、一悶着あったのだ。押し合い、へし合いしていたら、体勢が崩れ着地を失敗したらしい」

着衣の破れをミコトが確認している。

王子にしてみれば神頼みをした覚えはあれど、美人を呼び出した覚えはない。

「…で、お前は何者なの?名は?」

「…何者でも良いだろうが。助けに来てやったのだ。呼びたいように呼べ」


物凄く尊大な言葉遣いに王子は顔を引き攣らせた。お忍びの時ならいざ知らず、王子に敬語で下手に出てくる者は多くても、上から物を言われるのは初めてだったのだ。

本来ならば無礼だと怒りくるってもおかしくないのだが、あまりにもその尊大な言葉遣いが板についていて、流してしまう。


「…ならソラと呼ばしてもらう。お前は空から降ってきた」


王子は初恋の相手の名前を口にする。

名前を呼ばれたソラは大きく目を見開く。


「…驚いた…それは…身共が向こうで名乗っている名と同じだ」

「俺、凄くね?ちょっと運命感じちゃう」

王子が目を輝かせる。

この人もソラというんだ。

急に親近感が湧いてくる。


「…くだらん」

そうミコト(ソラ)は小さく瞼を震わせた。



「で、何を助けてくれんの?下半身事情?奉仕でもしてくれるっての?」

あえてイヤらしい目付きで王子が煽る。


傍観者のエニシは、なんてことをミコト(ソラ)に言うんだけどと王子の胸ぐらを掴もうとするも、通り抜けてしまって舌を打った。

これで、不埒な行いをしようものならどうしてくれようか。

王子がエニシの形をしていても赦しはしない。

エニシはそう拳をワナワナさせていた。


と、その時だ。


ソラと名付けられたミコトが寝台から立ち上がり、王子の腕をぐいっと引っ張ったかと思ったら、あっという間に寝台に王子を引き倒した。

「へ?」

王子が間抜けな声をあげる。

「…お前は馬鹿なのか?現状を変えたいと思っておるのなら、まずそのだらしない下半身にお灸でも据えてやろうか」

ソラは王子を押し倒し、王子の両足の間に入れた膝をグッと股間におしつけた。

返答でも間違えた日には、子孫を残すことさえ出来なくなりそうな空気だ。

美人を本気で怒らせてはいけないらしいと王子は喉を鳴らした。

「…すみませんデシタ」

素直に謝れば、ソラはスッと身体を王子から離して立ち上がる。

その凜とした姿から王子は目が離せなくなった。

どうやら、言い寄ってくる妓女達とは全く質が違うらしい。

高貴で清廉で犯し難い空気を纏っている。だというのにソラは、刺客なのかとすら思える身のこなしをした。


「まずは、性根を入れ替えろ。現状を変えたければ、日々の努力を怠るな。己が変われば、周囲も目も変わる。周囲の目が変われば行動も変わり、いずれは大きな力になるだろう」


ソラの言葉には力があった。

窓から差し込む光が後光のようだ。

その身を鍛錬に費やしていたであろう身のこなしや眼力の強さに王子は目を奪われる。


「言ってくれんじゃねーか。ソラについていけば強くなれるのか?」

なぜ信じようと思ったのか、王子自身理解が出来なかった。

たまたま、祈っていた時に出会ったからかもしれない。

藁にもすがりつきたい心境も手伝ったのだろう。

王子にしてみたらまるで神様からの啓示を受けたかに思えたのだ。


「ついてこれるのなら」

ソラがフッと笑った。



(さすが、俺…といったところか。夢の中の俺ですら、ミコトに惚れてしまうらしい)

都合の良さすぎる展開に、観客側のエニシは苦笑する。



「ゔー…もう起きるのか」

朝日が出ると共にソラに起こされる。いつもならば眠りに入る時間だ。

「正しい生活をすれば、心も正しくなる。起こしてもらえたのだ感謝しろ。明日からは一人で起きるように」

朝からピシリとした服装でソラは寝台の横に立っていた。

美人な上に、姿勢までもが美しい。

歩き方、腕の動かし方までが丁寧で指先まで神経の行き届いた動きだ。

「わかったよ」

嫌々布団を降り鏡に映った寝乱れた自分とソラの姿を比べて、絶対ついていってやると負けず嫌いに火がついた。


まず、叩き直されたのは私生活だった。何かをして貰ったら礼を言うところから始まった。

きっかけは、侍女が持ってきた朝の着替えを受け取った時の事だ。

「こちらが今日のお召し物になります」

侍女が鏡台の机に着替えを置いた。

「あ、うん」

下がっていいと手だけで侍女を下がるよう指示した時だ。

「王子、何かが足りぬと思うが」

直立不動のソラが、トンと鏡台の机を指で叩いた。

「ん?」

「衣類を持ってきて貰ったのだろう。労う言葉はないのかお前には」

ソラの言葉に侍女は、恐縮する。

「いえ、そんな私は…」

「いや、大事な事だ」

ソラは王子の目を見て、微動だにしない。

「…ありがとう」

渋々といった風に王子が形だけの感謝を述べれば、無表情のソラの眉根がピクリと動いた。

「王子の感謝は軽すぎる」

そう言われ、その日は一日中、城内の王子が使っている空間全ての掃除をさせられた。

側近や、侍女が恐縮するも、教育係を引き受けていると、ソラが告げ、王子が頷けば、誰も意を唱えるものはいない。

「いい加減腰が痛くて辛いんだけど」

「そうか。ご苦労な事だな」

軽い調子でソラが告げる。

「お気楽なもんだ。ソラは掃除してないから、そんな軽く言えるんだ」

「…そうだろうな。きっと皆もお前に思っている事だ」

優しさのこもった厳しい言い方でソラに嗜められて、王子はハっと自分の今までの態度を顧みた。

不満ばかり溜め込んで、八つ当たりするばかりだったのだ。

自分は何もせず、ただ自堕落に時を過ごしているくせに、誰かの厚意に感謝の意を告げる事などなかった。

綺麗に保たれている城内を維持しているのは侍女たちだ。

全部床の雑巾掛けは、思った以上に重労働だった。

喉は渇き、足腰はバキバキと悲鳴をあげている。へとへとに疲れ、廊下で寝転がってしまった王子にソラは、一杯の水を差し出した。

「ありがとう」

素直に出た王子の言葉に、ソラは頷く。

「今のは感謝の意が伝わった。城の者達は日々、王子達のために身を粉にして働いている。やって貰って当たり前だと思う気持ちはどこかに捨ててくるべきだ」

「…わかった」

ソラのいうことは最もだった。

実際、ソラは口だけではなかったのだ。

最初に高みの見物をして、王子に言葉の軽さを教えてからは、同じ時間働き、そこから弱音の一つも吐いてはいない。

朝早くから起き、まず嫌というほど、走らされる。

朝食を食べた後、午前中は身体を作り、武術、剣術、馬術まで一つ一つ教えてくれた。

翌日に必ず襲ってくる筋肉痛に王子は悲鳴をあげる。

「体中…痛い…」

「当然だ。よく筋を伸ばしておけと伝えた筈だ」

ソラは、叱りながらも甲斐甲斐しくマッサージまでほどこしてくれるのだ。

王子に鍛錬させる日は、ソラも倍以上の鍛錬を涼しい顔でしてみせる。

「なんで、そんなスゲぇの?」

「…誰にだって最初の日はある。それだけ鍛錬を続けた結果だ」

細くしなやかなソラの体には信じられないほどのバネがあるのだ。


「剣…強さ。おかしい…だろ」

何度王子が打ち込んでも、最後には剣先を鼻先に向けられてしまう。

背丈は確実に王子のが大きく、ソラは体格に恵まれているわけではないのに、一度も剣先が衣の端にすら掠ることはなかった。

息も切れ切れに、王子が両手を地面につける。

「剣技はあいにく得意なのだ」

フワリと柔らかくソラが笑った。

それに王子は目を見開いた。

あまりにも自然に柔らかくソラが笑ったからだ。

「いつか、衣くらいは掠らせてやる」

「謙虚で結構。だがそう簡単ではないがな…」

ソラは、表情を緩めた。


午後からは毎日勉学に励んだ。

ソラは剣技だけではなく、知識も豊富で、全てのことをわかりやすく、論理的に教えてくれた。

好奇心を刺激し、探究心を育てることを優先した実践的な教え方だったのだ。

座学メインの今までの教育方とは違った教え方に、王子は食いつき、自ら学ぶ楽しさを見つけ出すことが出来るようになった。

ソラを師と仰ぎ尊敬していく反面、どうにもソラに惹かれてしまっている自分を王子は自覚する。


1ヶ月が過ぎる頃には、家臣や側近達の目が諦めから期待に変わってきたのだ。この頃にはルヴァやサイファも講義や鍛錬に加わるようになっていた。

王子に課題を与え、ルヴァとサイファに両手を繋がれて遊んであげている様はとても穏やかで、目を奪われてしまう。

ルヴァとサイファの楽しげに笑う様子も増え、王子の顔から次第に険が取れていった。

侍女や側近からも見ていて微笑ましくなる瞬間だったようだ。

そして。

3ヶ月も過ぎた頃には、王子ならば、現状が変えられるという希望の星になりつつあった。

「王子がこの国をなんとかしてくれる」

宮中ではそんな期待が充満してくる。

3日とあけずに、遊び呆けていた王子はどこにもいなくなっていて、ルヴァとサイファもソラに懐き、気付けば4人で一緒にいる時間がながくなっていた。


「…なんで、ソラはここに来てくれたんだ?最初の俺、最悪じゃん」

「否定はしない」

ソラの言葉に王子は苦笑する。

「ヒドッ…」

「だが、今もだとは思っていない」

ソラはポツリと告げた。

「…っ」

伏せられたソラの瞳の綺麗さに王子は目を奪われる。

「現状を変えられる男だと見込んだからだ。現にお前は実行できた」

「…ソラは…」

何者なのかと聞こうとして、王子は口を噤んだ。王子があの時したのは神頼みだった。

神様なのかと聞いてしまったら、すぐにでもソラがいなくなってしまうかもしれない。

そう思ったからだ。

だから王子は質問を変えた。


「ソラは、もしかして、あのソラ?」

初めて会った黒髪の娘を指して問う。

神様だとすれば、見た目を変える事など容易いかもしれないという考えにいきついた。

「どのソラだ」

「歌を褒めてくれた黒髪の…俺の初恋相手」

ソラは息を呑んだ。

何度か深い呼吸を繰り返した。

そして王子がお忍びで歌った歌を奏で始める。


あなたに出逢うために生まれてきたと

あなたに言えば笑うだろうか

愛だとか恋だとかなんてくだらない

いらないとさえ思っていたんだ

あなたの手を離してしまったら

二度と逢えないようなきがして

この世界で出逢えた幸せを

あなたに伝えたくてこの歌を贈るよ


「やっぱりそうなんだ」

甘く美しい歌声に胸が震える。

ソラは何でも出来るらしい。

「演舞大会の時に妓女と戯れているお前を見て最初は殴り倒してやろうかと思っていた」

「てっきりお兄さんかと思っていた人もソラ自身だったんだ」

舞踊まで出来るのだと、王子は目を輝かせた。

「どんな姿でも見つけると大言壮語を吐いていた割には気付くのが遅すぎる」

「…さすがに性別まで違うとわからない。人間は性別まで変えられない」

全てソラだったということは、ソラは人ではなく神様ということになる。

ソラもそれを否定しなかった。


「最初はどうなるかと思った」

「お手数をかけました」

王子が両手を合わせる。

「だがもう、お前は皆を率いる事が出来るだろう」

安心したようにソラは表情を和らげる。

「ソラはずっと、俺のそばにいてくれるよな?」

「…」

ソラは曖昧な困ったような顔をした。

「いるって約束しろ」

「それは、命令か?」

ソラがため息をつく。

「約束だ」

王子にとってソラは特別な存在になっていた。身をもって、クズでどうしようもなかった男を誰もの見本となるような男に育ててくれたのだ。

「善処しよう」

そろそろ頃合いか…とソラは消え入るような声で呟き、元いた場所を仰いで目を閉じた。


あの王子の美しい教育係は誰だと側近や侍女、下女の間で話題にならない筈もなく。

瞬く間にその噂は城内を駆け抜けていった。

少し前ならば、王子がお気に入りを作り、そばに置いているという浮いた噂が流れたであろうが、今の王子に向かって下卑た噂をする者はいない。


「ソラ、今日勝てたら、俺の言う事一つだけでいいから、何でも言う事を聞いてくれるか?」

ある日の午前中。

剣を持った王子が、ソラに勝負を持ちかけた。

「勝てたら…で良いのか?まだ衣にも掠ってはいないが」

ソラが剣を片手に持ちながら、視線だけを王子に向ける。


「プロポーズするのに、勝利条件が衣に掠ったらだと、格好がつかないだろ?」

真剣で、それでいて熱のこもった瞳を向けられたソラは、目を見開いた。

表情には出てはいないものの、薄っすらソラの頬が赤くなっている。

勝負前にプロポーズという言葉を出してくるなど、禁じ手だとソラは思った。

強くなったとはいえ、王子に負けるほどソラは弱くない。

が、打ち負かせば、それは王子の申し出を断るのと同義になる。


「断る。身共は…ワザと負けたりなどしたくはない」

ソラの口から本音がポツリとこぼれ落ちたのを王子は聞き逃さなかった。


ワザと負けたくはないという言葉の裏を考えれば、ソラは王子からのプロポーズを嫌だと思ってはいない、むしろして欲しいというような事を意味している。


「ソラ…それって…」


真っ赤になった王子の反応に、放った言葉の意味に気付いたソラが視線を逸らした。

耳までが赤く染まっている。

いつも、背筋を伸ばし真正面からものを見るソラにしては珍しすぎる反応だった。


「とにかく…だ。身共はまだまだ未熟者なお前と勝負などせん。勝負をしたければ強くなって出直してこい。今日のここからの授業は自習だ」


そう言ってソラは、ルヴァとサイファを連れ立ってどこかに行ってしまった。



「王子よ。あなたの教育係は随分優秀らしいわね」

教育係の噂を聞きつけた后が、王子を訪ねてきたのはそれから間も無くのことだった。

教育係が美しい麗人と知り、后の食指が動いたらしい。

珍しく裏庭に出向いてきた。

相変わらず、豪華絢爛な后だ。

「非常に強い武人で、日々学ぶことが多く忙殺されています」

「そうなの。そんなに美しい御仁なら、一目お会いしたいものだこと」

扇子で口を隠しながら后は笑った。


「あいにく、今日は席を外しております。それにしても后様は変わらず美しい」

「あら、口が上手くなったこと。よほど教育係の躾が良いようね」

「伝えて、おきます。…では」

后に礼をして、汗になっていて非礼になるからと早々にその場を後にする。

ソラを男として紹介すれば、后は王子からソラを取り上げ、近くに侍らすに違いない。

女として紹介すれば、即座に八つ裂きにされるだろう美しさだ。

このまま、部屋に隠してしまいたいとさえ、王子は思った。

差し出せと言われて、ソラは王子にとって差し出せる相手ではないのだ。

家臣や国民の信頼のほとんどが、王子に傾いている。

皆を引き連れて立ち上がり、后を追い出してしまおうか。

そう王子が思い始めた頃。

異変に気付いた后が、いち早く王子の抹殺に動いた。

后は怪しげな水晶玉を使い、王子に呪詛の念をかけたのだ。

后は人ならざる者で、今まで誰もが抗えなかったのも当然の事だった。


ソラが王子が目覚めないと侍女から相談され駆けつけた時には、遅かったのだ。

王子にプロポーズをほのめかされてから、ルヴァとサイファといる時間を増やしていたソラは蒼白になった。

王子はそれから目を覚ます事が出来なくなり、みるみる衰弱していったのだ。

普段は塩対応してはいえもルヴァもサイファも王子には懐いていた。

二人も泣き腫らした目をしている。

「兄貴は…どうなっちゃうんだ?ソラ」

「兄さんの目はもう、開かないんですか?」

二人の頭をソラは両手で撫でる。


「大丈夫。明日にでも目を覚ます。だから二人とも部屋に戻って眠りなさい」

ソラは優しく二人を部屋の外に導いた。

そして。

二人きりになった部屋でソラはポツリと呟く。


「このような事になるのであれば、さっさと負けてやれば良かった…」


王子の手を握りしめ、ソラは片手で呪印を描き、王子の額に触れた後でソラ自身の額に触れた。

途端、呪いを受けたソラがグッと胸を抑え込んだ。


ソラの姿が薄くなっていく途中で、呪いから放たれた王子が目を覚ました。


「え、ソラ…待って…消えるな…」

王子の伸ばした手はソラの手を握る事なく空を切る。


「      」

ソラの最後の言葉に王子は泣き崩れた。


ソラは、王子の身を守るためき、その呪詛を自分に移し、后にも呪詛返しをし消えてしまったのだ。


目覚めた王子の慟哭は重く深く。

なくなることはなかった。


「いつか負かしにこい」


ソラが消える直前に言った言葉だ。

王子はその後、終生妻を娶る事なく功徳を積むことばかりに専念し、その生涯を終えた。


長い長い話の終わりをエニシは受け入れられずに呆然としてしまう。

頬にはいく筋も涙が伝っていた。

もっと明るいハッピーエンドを期待していたというのに。

心が掻き乱されてしまう。


寝る事をミコトが恐れた理由がコレだというのならば、辻褄が合ってしまうのだ。

エニシが金プレートの赤文字の壱になれた事も、ミコトが白文字の零であった事も。



「…シ…エニ…」

小さく聞き慣れた声がエニシの耳に僅かに届いた。




「…ニシ…エニシ?」

遠くで聞こえる声に引っ張られるように意識がはっきりしてくる。



声のする方に意識を向けて、エニシは出口に辿り着いた。



「ミ…コト?」


ゆっくりエニシが瞼を持ち上げる。

ミコトの心配そうに顰められた顔がエニシの瞳に映った。


「…寝坊だ…馬鹿が」





「エニシが目を覚ました。ミヌレット、リンシャン感謝する」

医師のミヌレットと看護婦のリンシャンにミコトはお礼をいった。


「お役に立てて良かった」

医師のミヌレットが頭を下げる。赤色の髪がパサリと揺れた。切れ長の眼差しを持つミヌレットはミコトを見て目を細める。

「隣の部屋にいますので、何かありましたら、いつでも頼ってくださいね」

青みがかった髪色のリンシャンという少女が、人好きしそうな笑顔を顔に浮かべた。タレ目気味の可愛らしい子だ。


「えっと…」

状況がわかっていないエニシが、体を起こしながら、ミコトの顔を覗き込む。

そして、その後ミヌレット、リンシャンに視線をやる。

「エニシ、お前はここ3日寝続けていた。どうしたものかと思案に暮れていたところ、廊下でばったり医者だという二人の兄妹に居合し相談したところ診てくださったのだ」

眠っていないのかミコトの目が充血している。

口調はいつものミコトだが、心配してくれているのが痛いほど伝わった。

「お二人に礼をいうことだ。薬を煎じ飲ませてくれていた。ミヌレット医師と看護師のリンシャンだ」

ミコトが紹介すれば、二人は一人ずつ頭を下げる。


「エニシ殿、無事…目が覚めて何よりだ。何よりミコト殿が倒れないで本当に良かった」

若干、ミヌレットの言葉がエニシに対して厳しいような気がしなくもない言いような気がしてエニシは苦笑いを浮かべた。

「貴方がこのまま目覚めなくて死んでしまったら、ミコト様が悲しむので、良かったです。ご自愛くださいね」

リンシャンもエニシの心配というよりもミコトの心配をしているようだ。


それほど、ミコトが心配してくれていたという事だろう。

「ありがとうミヌレット殿、リンシャン殿。二人のおかげで助かったよ。ほんとに」

「いえいえ、スッポン料理のお礼ですよ」

リンシャンがニッコリ微笑んだ。

「我々はまだここに逗留しているので、何かあればいつでもどうぞ」

ミヌレットはエニシではなくミコトを見て頭を下げた。

どうも、この二人。

エニシよりもミコトを優先しているようだ。

エニシの心配を1しているとしたら、ミコトを9心配しているのが伝わってくる。

このエニシへの塩対応は、何故か懐かしい気がした。

姿は違うが十中八九、夢の中(前世)で見た王子の双子の弟たちだろう。

この二人が隣の部屋にいた事で、きっと記憶を思い出そうとしたエニシ自身の力(神通力)に作用したと考えれば辻褄があう。

「今後は、気をつけるさ」

エニシの言葉を聞き、二人は、エニシの調子を再度確認し、部屋を出て行った。


「ミコト、姫探しが終わってさ、ひと段落したら、(特別編成部隊の)試験の時のリベンジさせてよ」

イタズラを仕掛けた子供のような顔でエニシは言う。

「…良いだろう。そう簡単に負けはしないがな」

ミコトは静かに目を閉じた。

穏やかな顔でミコトは再戦を受けてくれると言う。

ただでさえ記憶の覚束ないミコトにしてみたら、勝ったらプロポーズの約束をした事など覚えている筈もない。

それでもエニシは嬉しかった。

「じゃあさ、その前に武器を用意しなくちゃな。そうだ。明日は剣を買いにいこうぜ」

エニシが胡座をかいて急須に茶を入れ、茶を2つの湯呑みに注いだ。

「ああ……そうだな」

湯呑みを受け取りながら、ミコトは自然に愛好を崩した。

その笑顔にエニシの瞳は釘付けになってしまう。

夢の中やユートピアの頃の記憶でさえ、あまりミコトが笑った顔は見た事がなかったからだ。

エニシは静かに茶を飲みながら、ミコトが目の前にいる幸せ噛み締める。

夢の中、大切な者を喪失する事への悲しみや絶望を味わって覚醒したせいか。

夢から覚めた瞬間、目の前にミコトの顔があった事への安心感は筆舌しがたいものがあった。

今度は絶対にミコトをなくさずにいる。全てのものから護れるようにエニシは強くなったのだから。

これほど美味い茶を飲むのは久しぶりだと、エニシが空になった湯呑みを机に置いことで、ハッと我に帰った。



「…なにか…重大な事忘れてるような…」

エニシの顔が引き攣る。

その顔も見たミコトも、息を呑んで口元を押さえた。

「…マズイ…ハルたちに連絡をしていない」

ミコトが部屋の中を行ったり来たりしえいる。かなり動揺しているようだ。

どうしたものかと途方に暮れている。

ミスというものを基本したことがないミコトにしては本当に珍しい。

「あ、俺のせいだし。俺からスピネルたちに連絡しとくわ」

エニシはヒラヒラと手を振って、部屋を出て厠に移動する。

バングルを見れば、スピネルからの連絡が死ぬほど入っていた。


どこにいるのだ。

何かあったのか。

連絡を寄越せ。

ハルが心配しすぎて手がつけられない。

カイレンが自由行動しすぎて困る。

今日連絡が来ないようなら、ルミナスの神通力を発動する。


「これはマズイ」

エニシは慌ててスピネルのバングルに向かって事の詳細を知らせた。




一方。

ミコトたちの隣りの部屋に沈黙が訪れていた。

ミヌレットとリンシャンは隣の部屋で膝を突き合わせている。

神界では男の姿でいる二人だが、俗界では姿を変えていた。

ミヌレットは短髪にし、20代の医者になりすましている。

リンシャンは性別を変え、18歳くらいの少女の姿をしていた。下り目が魅力的で守ってあげたくなるような人懐っこい顔だ。



「ミスラだったな…」

ミヌレットがポツリと呟く。


「そうだね。でも記憶がなさそうだ」

リンシャンが少し残念そうに眉を下げた。


「なにか訳があるんだろ。医者の姿できて正解だった」

ミヌレットがドヤ顔で胸を張る。

「ミヌレットのコスプレ趣味に付き合う身にもなれ」

リンシャンが唇を尖らせた。

看護婦の格好が不満らしい。

「なんで、よりにもよって女の姿にしたんだよ。お前バカなの?」

ミヌレットが呆れ顔でリンシャンの額を弾く。

「逆に男の格好のまま降りたら、変な人だと思わないかい?男の医者2人で旅をしているって、あきらかに変だと思うけど…そもそも何で医者だったのさ」

「深い意味はないさ。だが俺の読みは合ってただろ?現に降りて早々、ミスラを見つけられた」

ドヤ顔でミヌレットが鼻を鳴らした。

「たまたまだよね?会えたのは…」

リンシャンはミヌレットの運の良さに呆れつつ、それでも目の付け所は悪くないあたりが天賦の才能によるところなのかと肩を竦める。

綿密な計画を立ててから物事に臨むリンシャンにしてみれば、感情と感覚を頼りで運任せなミヌレットが奇異な存在にしか見えないのだ。


「まあ、そう不機嫌になるな…雨が上がらなくなって、ミスラが困るだろ」

隣の部屋に届かないような小声でミヌレットが空を指差した。

「そうだよ。君が怒ると日照りが続くんだから、君も怒らないでよね」

リンシャンが額に付けられたフェロニエールを手で撫でる。

神界を出る際、大神であるジルコンにこの額飾り(フェロニエール)を付けさせられた。

顔を合わせては喧嘩ばかりしている二人が、俗界に降りてまでそれをすると天変地異が起こるから、それを制御するようにとの事だ。

俗界に行く事を許可する代わりにフェロニエールの装着を命じられたのである。

故に俗界にいる間は、二人が喧嘩する事は最低限にしなくてはならなかったのだ。


「わかってるさ。幸いユートピアで俗界の医術の知識は習ったし、なんとかなったし良いって事にしとけって」

「まあ、この子を救出した理由にもなるから今回は仕方ない私が折れるよ」

リンシャンは部屋にある押し入れから、ぐったりしたアンチュルピーを抱き抱えた。

アンチュルピーの手提げの中の手紙には、ミスラ救出へのヒントが書かれていたのだ。

雨に打たれて弱っていたところをリンシャンが拾い上げた。

宛先の旅館に何かがあると踏み、この宿を二人は選んだのだ。

あとは、この子を持ち主に返せばいい。

「明日は、コイツの持ち主を探してみるとするか」

「だね…」

リンシャンはそっとアンチュルピーの頭を撫でた。




そして、連絡もなしに気ばかりを揉んでいたハルはといえば、目の下に大きなクマを作り、憔悴しきっていた。

「エニシのやつ、帰ってきたらただじゃおかないからっ」

スピネルからの報告を受け、ハルの目は極限まで座っていた。


「ガキじゃねーんだから、元気が戻れば帰ってくるだろうさ」

酒を煽りながらカイレンが言う。

「君ときたら、雨だと言うのに遊び呆けて…」

ハルはカビでも生えてきそうなじめっとした視線をカイレンに向ける。

「や、そういうなって。俺もただ遊んでたわけじゃねーって」

二人の情報を聞き歩いていたのだと嘯いた。

「まあまあ、二人とも。エニシが熱を出して寝込んでいたのだから仕方がないだろう」

スピネルが二人を宥めるように言い含めれば、2人は顔を見合わせた。

「エニシにはタップリ反省してもらわなきゃ」

「だな。エニシにたっぷり奢らせてやる」

ハルもカイレンもなんだかんだといって、ミコトとエニシが心配だったのだ。

「まあ、あとは2人が帰ってくるのを待つだけだ」

スピネルがハルとカイレンを交互に見ながら溜め息をついた。

「でもアンチュルピーがまだ戻ってこない」

ハルが窓の外の様子を見ても、まだ音沙汰はない。

「日も暮れた。どちらにせよ明日になればまた動きようがあるだろう」

スピネルの言葉にハルは頷いてみせた。



「ねぇ、カイレンはさぁ。なんで誰ともつるまないのさ」

ハルはふと、毎日のように転々と遊び呆けてるカイレンを見て疑問に思った。

ミコト達が帰ってくるからと、遊びに行くのを止めたのもあって、めずらしくカイレンが宿屋にいるのだ。

「ああ?ハル、まるで人を友達いねぇみたいに言いやがって。喧嘩売ってんのか?」

カイレンが胡座をかいて机に肘をつきながらチロリと睨んだ。

多分相手がハルでなければ、ジロリという表現に変わったであろう。

「あ、ごめんごめん。そういう意味じゃなくてさ。良い意味で人と慣れ合わないっていうか、ある一定の距離を保ってるっていうか。いかにもズカズカ人のテリトリーに侵略していきそうなのに…って」

女中に預けていた洗濯物を貰い、ハルはそれぞれの着物を振り分けている。

手は忙しなく動かしてはいるが口は暇ならしい。

「お前は遠慮してそうで、ズカズカ踏み込んでくるけどな」

「あ…そう言われてみればそうかも。カイレンならなんとなく言いたいこと言っても平気かなぁ…って」

「お前、俺をなんだと思ってやがる…ったく。ただ面倒くせぇだけだ。テキトーにその場の奴らと楽しんだ方が気楽でいいってだけ」

カイレンはハルから渡された洗濯物を袋の上にドサっと放り投げた。

「あー!畳んでくれた意味がないじゃないか。しっかり自分の袋に戻す」

子供じゃないんだからと、ハルは腕を組んで、袋に入れるように目で促した。

「だー。めんどくせぇ」

カイレンがぞんざいにそれらを放り込んだ。

ミコトやエニシへの心配がなくなって気楽になったのか、ハルは一晩寝たらチャキチャキと朝から動いていた。

待っている時間が暇なのか、先ほどからずっとカイレンにダダ絡んでいる。

「しっかり仕舞わないと、皺になるんだから。これじゃ奥さんになる人が大変だ」

「良いんだよ。結婚なんてする気もねぇし。一夜限りの嫁さんで十分だ。まあ、正味の話。執着しないようにしてるって事は、執着心が強いってこった。裏切られでもしたら生霊になりかねねぇ。だから、はなから執着はしない」

カイレンが一瞬遠くを見て、衣類の入った袋の入り口を心に見立てるかのようにキツく閉めた。

「そっか。カイレンにもそういったツラ〜い過去があるんだね」

「んな事ぁ、言ってないだろーがよ。なんで俺が煩う方になってんだ。モテてモテて夢中になられて懲り懲りしてるとは何故思わねぇーんだよ」

「そりゃ。まあカイレンだし?仕方ない。留守番を出来る良い子には菓子をあげよう」

宥めるように、ハルは懐に入れていた懐紙からオコシを出してカイレンに手渡した。

「ハル…てめぇ俺をガキかなんかだと思ってやがるだろ」

「…ハハ」

笑って揶揄うハルをカイレンが羽交締めにする。


「まぁまぁ、暴れるのはそのあたりにしておくことをおすすめします」

机の端で静かに書類を読んでいたスピネルが下の部屋に迷惑になるからと嗜めた。

書類から目を上げ、二人のやりとりを見てスピネルは、目を細めて書類を机に置く。

「スピネルはどうなんだよ。ボッチの時多いじゃねーか」

カイレンが言えば、スピネルはプっと吹き出した。

「子供ではないですから…もう、連んで悪さして歩く時期は卒業しています」

スピネルの大人びた言葉にカイレンは納得いかないような目でスピネルに訴える。

「そんな歳変わらねーくせに、言うじゃねーか」

カイレンがふて腐ったようにそっぽを向いた。

「スピネルはさすが大人だなぁ」

ハルが感心したように何度も頷く。


「それぞれの生活やしがらみができてくるからな。恩師曰く『一緒にいて慣れあう事が友ではなく、ここぞという時に信じ支えあえるのが友』だと言っていたし、日々それほどつるまなくても良いのです」

珍しく饒舌にスピネルが本音を口にした。

「かっこいい。僕もそうなりたいもんだ」

ハルが尊敬の眼差しをスピネルに送る。

「まぁ、スピネルに暇がないのは、俺らが問題ばっか起こすから、遊ぶ暇なんてあるわけないか。友と連れ立って遊ぶなんて俄然無理な話だ」

カイレンが、納得するようにポンと手を打った。

「分かってるなら、生活改めなよ。カイレンといい、今回のエニシといい、スピネルに面倒ばかりかけてるから…」

ハルのお小言にカイレンが両手で耳を塞いだ。

「俺も大概だが、エニシも大概じゃねーか。今回なんざ俺まで巻き添えだ」

ブツブツとカイレンも文句たらたらである。

「まぁ、もう慣れっ子ですから」

そう言うと、スピネルは静かに目を閉じた。

俗界に来てからのエニシは、人付き合いも如才なくしているが、冥神界にいる時のエニシはまるで別人だ。

笑顔などほとんど出さなければ孤高を好み、昔馴染みのスピネルがいる時にしか本音を口にしたりもしない。

実を言えば、スピネルがルミナスとして冥神界にいる時は、基本自由な時間が多く、城に呼ばれ用がある時以外は、友と会う事も遊びに行くことも自由だった。


公務室はクロノス(エニシ)の城の中にあるにはあるが、そこで仕事をしていろとも言われてはいない。

ルミナスに与えられた宮はとてつもなく広いので、友人を呼び放題だ。

ルミナスの宮には、俗界に行く事になってから、冥神界の業務を回す事ができる優秀な文官、武官を配置した。

雑務は優秀な部下たちが気をきかして終わらせてあるので、ルミナスはスピネルとして俗界の仕事に集中できると言うわけだ。


エニシの時には、ヘラヘラしている事が多いので、俄には信じられない事だが、クロノス自体が恐ろしく仕事が出来る。

ボディガードや文官、武官部、従者、侍女、下女を雇う必要がないほどに強く賢い。


誰かを内側に入れないという点では、クロノス(エニシ)の方がカイレンよりも徹底的かもしれない。

沢山のものを従える事はせず、形ばかりの補佐としてルミナスが控えているだけだ。


従者になる事を望む者も多かった。

神界にいる女神たちは、ルミナスに泣きついて部下にしてほしいと言ってくる者もある。その度、クロノスは無碍なく全て断ってしまうのだ。


「なんで、クロノスは誰も侍女をつけないんだ??」

一度だけルミナスはクロノスに対して真剣に聞いた事がある。二人の時はユートピア時代の名残りで先輩後輩の立場に入れ替わって会話していることが多い。

立場的にはルミナスが敬語を話すべきなのだが、クロノスが二人の時は先輩の口調の方が落ち着くと言うのだ。長い付き合いなだけに、不思議と無理なくオンオフで口調が切り替えられる事にルミナスは内心で苦笑いする。


「優先順位をつけるくらいなら、最初から優先するべきのものを一つ持っているだけで良い。他はいらない。申し出を断られれば、その時はショックかもしれないが後々の傷は受けなくても良い。同情心を出し、雇ったり、近付ければ、優先順位が下だと感じた時のショックは本来受けなくても良かった傷だ」

冷酷の権現と言われるクロノスの深い思いやりに気付いている者は誰もいない。

ユートピアにいた頃は、壱と呼ばれずっと人に囲まれていた。そしてその頃から、ただ一人だけを見つめ続け想いを抱いている事を、ルミナスだけが知っていた。


「ったく、ならなんで俺はいいんだよ」

ルミナスが聞けば、クロノスは薄く笑った。

「ルミナスは俺の1番優先する者を知っていて、長い間応援してくれている唯一の存在だ」

クロノスの大切な者ごと、応援してくれている者だというのだ。

「応援というより、お前が零が零がと耳にタコが出来るほど相談してきただけだろう。そもそも他と絡むのは嫌いではなかっただろ?なんで、そこまで割り切れるんだ?一人は寂しくはないのか?」

ユートピアにいた頃の壱と呼ばれていたクロノスは、いつだって人に囲まれていた。

人の中にあるエニシでいる時の方が自然に見える。

だが、その時のクロノスは自然体で揺るぎがなかった。

「寂しい事は全くない。ずっと一人のことを想い続けていられるだろう。何をしたら喜ぶか。今度あったら何を話そうか。考えている時間ですら幸せと感じる」

クロノスが迷いなく答えたのをスピネル(ルミナス)は思い出す。


カイレンの誰かを内側に入れない理由が傷付くのを恐れて、もしくは傷付いた事があっての悔恨からきているものだとするのならば、エニシ(クロノス)の誰もいらないというソレは、失ってなお、内側に入れるのはその者だけだと決めているものだ。


だからこそ、エニシから想い人である零がミコトだと連絡があった時には素直に喜べた。

長い年月待ち続けてやっと、会えたのだ。

エニシの喜びがどれ程のものかと想像すらつかない。

記憶喪失が戻れば大団円だ。

それまで、何事もなければ良いとスピネルは願わずにはいられなかった。





「やっぱ、この髪色で皆んなのとこ戻ったら目立つよなぁ」

部屋に用意されている鏡の前でミコトの綺麗な髪を櫛で溶かしてやりながら、エニシは手で艶やかに光るプラチナブロンドの髪を日に翳した。

「…やはりマズイであろうか」

「カイレンが腰を抜かす」

(どちらも似合ってたけど。きっとプラチナブロンドだと目立つだろうし)

気が抜けていたのか、事件で急を用時に以外は、出来るだけ他人の心の声を聞かないようにしていたミコトの頭にエニシの声が聞こえてくる。

誰かの心を覗き見するなど、良い事ではない。特に今回の旅に同行している者達の心は読むべきではない。

そんなことをしなくても、信頼に値する事は明白だった。

疑いをかけ、試すような事になるのは避けたい。

そう思ったミコトは慌てて、気持ちが入ってくるのを止める。

「俺が染めてやるよ。今度は雨が降っても大丈夫なように、ちょっと待っててな」

そういうと.エニシは染粉を用意する為に部屋に出た。



エニシは、部屋を出た瞬間、人目がない事を確認し、静かに目を閉じる。

神通力を使い、染粉をエニシの手で精製した。

髪を痛めないようにしつつ、いざとなったら危険から身を守れるように、そして、危険になれば、エニシに位置がわかるようにご符を練り込んだ。

こうしておけば、人間以外の力が働いた時、ミコトの周囲には結界が張られる。

誰が来ようとも、エニシよりも強い力の者が結界を破壊しない限り髪色が戻ることはない。

「これでよし」

スピネルが見たら、過保護だと苦笑しそうだが、念には念を…といれておきたい。

せっかくミスラがミコトだと分かったのだ。危険には晒したくはなかった。

記憶が戻らない理由があるという事は、ミコトが神界から逃げなければなかった何か、記憶を消して逃げなければならないほどの何かが神界にあるという事なのだ。

今後はスピネルに、神界の問題を探る旅に移行するように指示も出している。

きっと、神界だけでなく、天界、魔界にも動きがあるかもしれない。

そう考えたら、見た目を変え、オーラさえ滲み出ないようにした方がより安全なのだ。

金色栞の機能は、まだ健在だがミコトが肌身離さず持っていてくれるとは限らない。

そう考えれば、髪色を染めさせてくれるこの機会を逃す手はなかった。



「お待たせっ」

エニシは、手に持った染粉を持って、部屋に戻る。

ミコトは、エニシが出て行った時のまま、じっと鏡台の前に座って微動だにしない。

背筋を伸ばし綺麗な姿勢を保ったままだ。

容姿淡麗すぎて、初めて部屋に入った者は、等身大の西洋人形だと勘違いしても仕方ないだろう。

それにしても待っててと言ったとおり、ピクリとも動いていないのが、流石というかなんというか。

ミコトの素直さというか実直さに愛好が崩れるのをエニシは止められなかった。

普段、無表情で不遜にも聞こえる言葉遣いとは裏腹な態度だ。

「何がおかしいのだ」

鏡に映ったエニシの目を鏡越しに見てミコトが静かに口を開く。

「このまま飾っておけそうだなって」

「くだらん」

ミコトが、衣類をはだけようとするのをエニシは慌てて止める。

「な、な、な、何してんのぉ?」

「汚れるだろうが」

当然とばかりに綺麗な頸が現れる。

なんなら、裸になろうかという勢いだ。

これ以上はだけられては、たまったもんじゃない。

何故この美しい人はこうも無防備なのか。

これだからこそ、早々に黒く染め直して、少しでも目立たなくなってもらわなくてはとエニシは軽く頭が痛くなった。


「や、俺の持ってきた染粉は速乾だし汚れないから、脱がなくてもへっき、うん。なんなら手拭いをかけてやるし」

「なるほど、そうか」

ミコトは着崩した衣類の襟元を正す。

本来ならば、そんな便利な染粉など、この国のどこに行っても存在していないのだが、エニシのことを信じて疑わないのだ。

エニシは、そっと髪を手に取ると、少しずつ染粉を伸ばしていった。



「うん。黒髪も良いなぁ。東の国の貴人のようだ。ついでに結ってやるよ」

頸を出すと黒さとの対比で目立ってしまうので、髪の上部分を取って結えていく。

「器用なものだな」

ミコトが、小さく頷いている。

考えてみたら、ミコト本人は自分人身を着飾る事をしていなかったなとエニシは思った。

服装はピシッと着こなしているものの、髪型などは思ったよりも適当だったかもしれない。

まあ、無造作にしていても、綺麗さが損なわれていないのが恐ろしいところだが。

綺麗に結い上げると、更に美貌が際立ってみえる。

普通なら、男なら男臭さがあり、女なら女臭さというものが嫌でもでるものなのだが、ミコトはミコトという生き物のようだ。

「お褒めに預かり光栄。今日は剣を探すぞー」

「体はもう良いのか?」

「余裕、余裕」

力瘤をエニシが出してみせれば、ミコトはようやく膝をついて、立ち上がった。



武器を扱う金物屋に行き、思うようなものがなかったので、武器も扱う骨董品屋に移動する。

「やっぱ良いよなぁ」

店に入った瞬間。

エニシがグルリと視線を巡らせて、満足そうに笑う。

「確かに」

ミコトも素直に同意している。

嬉しそうなミコトを見ているとエニシも同じように嬉しくなった。

法具から、宝石、アクセサリーに武器。

ありとあらゆるものが雑多に並んでいる。

歴史を感じるものや手作業で作られたのであろう細工の凝ったものは、作り手の思いが籠っていて誇らしそうに並んでいるのだ。

武器一つとっても、美しいものが多い。

名工が作ったと言われる剣などは使い手を選ぶ。

ミコトには、湾刀よりも直刀の方が似合いそうだ。

青銅製の古い時代のカープスタン、少し新しいグラディウス、ロングソードにレイピア。

どれもがズラリと揃っている。

エニシは一つ一つ眺めては重さを確かめていく。

ミコトは、エニシに比べて力は劣るものの、スピードが速い。

身体の使い方が上手く、猫のようにしなやかに動く。

刃先はロングソードの中で短めのものが合いそうだ。レイピアのような持ち手部分の凝った作りで持ちやすそうだと、ミコトと剣を交互に見ながら選ぶ。

エニシはその中で、一本ミコトに似合いそうな剣を見つけた。

ガード部分がレイピアのような凝った形のロングソードだ。ミコトがソレを持って戦う姿が容易に想像ができた。

白と金で作られた鞘も似合いそうだ。

何より、夢で見たミコトが使っていた剣によく似ている。

その剣は、真面目に更正した王子がミコトから受け継いだものでもあった。

その剣にとても似ているのだ。

意見を聞かずにエニシがプレゼントするとしたら、この剣にする。

だが、使うミコトが選ばなければ意味がない。


「ミコトはどれが好き?」

「身共が選ぶならば…コレだ」

ミコトが選んだ剣は、エニシが選んだ剣と同じ剣だった。

「お!!やっぱりソレだよな」

似合いそうなものをミコトが選んでくれた事がエニシは嬉しくて仕方がない。


「お客さん、お目が高い。この剣はその昔、とある国の王子が使っていた剣で、幸せを呼ぶ剣とされているのですよ」

小太りの店主が、にこやかに話しかけてきた。商売気がたっぷりなのかと思いきや、単なる刀剣好きだという。

趣味で集めていたら、趣味がこうじて骨董屋になったのだと、店主は笑った。

「へぇ、王子の使ってた剣なのか」

エニシの眉がピクリと動く。

もしかしたら、夢の中のエニシが使っていた剣なのだろうか。

と、するとやはり王子は実在していた?エニシがジッとその剣を凝視する。

ミコトは店主の話を、無表情で聞いていた。

「その王子っていうのが、何百年も続いた諍いを終わらせた明君でして、幸せを呼ぶとされています。…ただ」

「ただ?…なにか曰くでもついてんの?」

エニシが尋ねれば、店主は残念そうに眉を顰めた。

「この剣は、購入して頂いたとして、実戦では役に立たず、ほぼ飾り物になってしまいます」

「というと?」

「鞘から抜けないのです。どんな力持ちが抜こうとしても無理でした。なのでコレだけの剣は中々ないのですが、お値打ちにしてあるのです」

確かに、店主が言うように値札についた金額は、他の剣より一桁少ない金額だ。

それでも新品の剣よりは高い為、ここに残っていると店主は説明した。


「この剣をとってくれないか?」

今まで黙っていたミコトが口を開く。

店主は、剣を棚から取り出して、ミコトに手渡した。

「…手触りもしっくりくる…」

ミコトが鞘を片手で持ち、剣のグリップ部分をしっかり握る。

少しの間、その状態が続いたかと思ったら、力感もなくスルっと剣が抜けた。

鞘から現れた剣は、長年使われていなかったとは思えないほどに綺麗に輝いている。


「凄い。剣は人を選ぶというのは聞いてはいたが、目にしたのは初めてだ」

頬を上気させ興奮気味に店主は目を輝かせた。

「そうなのか」

ふむ、と頷くミコトに対して、エニシは目を見開いていた。

「…」

剣に彫られていた銘に見覚えがあったからだ。ハートが四つならんだクローバーの紋が入っていた。

剣が時代を経て、持ち主の元に戻ろうとしているのだ。


「これが良いのだが…」

ミコトがエニシに伝える。

プレゼントさせてくれと言ったのはエニシだ。

多少の出費は覚悟している。

抜けない剣だから、安めの値段だったのだ。

抜けると分かり、綺麗に輝く刀身を見た瞬間、店主がこの値段のまま譲ってくれるとは限らない。


限らないが、この剣以外に考えられないのはエニシも同じだ。


「店主、こちらの刀をお願いしたいのだが」

「わかりました。では、コチラの刀は差し上げましょう」

店主がニコリと笑う。

「え…本気なのか?」

「はい。良いものを見せて頂きました。剣が主を選ぶ瞬間に立ち会えただけで貴重なものです。そのお礼にこの刀を差し上げましょう。この刀も貴方の元に行きたがっているようだ」

店主は刀を大事そうにミコトに渡した。

エニシは固唾を飲んでその様子を見守っている。



「感謝する」

受け取ったミコトはそのまま、腰に剣を差した。

二人はそのまま、帰る事が出来ずに、人が良い店主になにか礼ができないものかと顔を見合わせる。

そういえば、店の入り口に肉饅を販売していた事にエニシが気がついた。

「店先の肉饅はコチラのお店のもん?」

「骨董屋だけだと商売あがったりだからね」

「なら、ここの肉饅を全部で!」

20個はあろうかという肉饅をエニシは全て買い占めた。

「こんなに買って大丈夫か?」

道を歩きながら、ミコトが両手に持った袋を眺めている。

「へっき、へっき。今回スピネルたちに迷惑かけたから、謝罪の気持ちを込めてのお土産にするから」

エニシは、一個を取り出してパクリと食いついた。

「うまい」

流石に体格が良い店主だっただけに、肉饅の味は抜群だ。

具の大きさから饅頭の柔らかさまで完璧だった。

「どれ」

ミコトはエニシの腕をもってグイっと引っ張ると、エニシの食べかけの肉饅に景気よく齧り付く。

上品なミコトにしては珍しい行動に、エニシはあっけにとられてしまう。

関節キスになっているのだが、気付いていないようだ。

動揺しているエニシは頭が真っ白になった。

手に残った肉饅はミコトのクチがついたものだ。

食べていいものだろうか。

そんな風に悩む事がまるで初恋したての子供のようだ。

いい年した神が何を恥ずかしがっている。

エニシが残りの肉饅を目を瞑って食べたのは言うまでもない。



エニシは片手に肉饅の袋を抱えながら目の前を歩く二人を指差した。



「あの医者の兄妹じゃん、アンチュルピーも一緒か?」

「ミヌレットとリンシャン」

ミコトはバングルのアンチュルピー呼び出しボタンを押してみる。

するとリンシャンに抱きついていたアンチュルピーがゴソゴソと動き出したのを見て、ミコトは目の前にいるのがアンチュルピーだと確信した。

エニシも同時に思ったようだ。

アンチュルピーがこちらに向かって飛ぼうとしているのに気付いた二人が後ろを振り返った。


「よっ!お二人さん奇遇じゃん。アンチュルピーもそんなとこにいたのか。灯台元暮らしだな」

エニシがくったくなく話しかける。

アンチュルピーは、リンシャンにペコリと頭を下げると腕から飛び立ち、ミコトの手に収まった。

「その子はアンチュルピーというのですね。主が見つかって良かったです」

リンシャンがフンワリ笑う。

「雨に打たれてぐったりしてたから、宿に連れ帰り様子を見ていた。飼い主を探して歩いていたところだったから助かったよ」

ミヌレットがエニシとミコトに状況を説明する。

「それは助かった。良かったらコレ2人にやるよ。アンチュルピーを救ってくれた恩人にする礼にしては足りないかもしれないけど」

手に持っている肉饅の袋から、肉饅を取り出して二人の手に渡す。

「アンチュルピーだけではなくお前自身が世話になっているだろうが」

ダンマリを決め込んでいたミコトが、エニシにツッコミを入れた。

「それもそうだ」

エニシは一人二つずつに肉饅を増やす。

「かえって気をつかわせてしまい申し訳ありません」

リンシャンがペコリと頭を下げた。

「ここに来たら食べてみたかったんだ。ありがたい」

ミヌレットが嬉しげな顔で両手に持った肉饅を見比べて目を輝かせる。

リンシャンが咳払いをした。


「兄さん…それだと私達の暮らしの程度を世間に露見させるようなもの」

「あ。…いや、ココの店の肉饅という意味で、まさか肉饅自体の事を言っているわけでは…」

ミヌレットがジロリとリンシャンを睨みつける。

「まったく、兄さんは考えずに脊髄で話すんだから」

リンシャンとミヌレットの間に険悪な雰囲気が立ち込めれば、空までが呼応するように曇り始めた。

「お、いかんいかん。天気が崩れそうだから、早くスピネル達に合流しないと」

「…確かに」

「お二人さん、今回は本当にありがとうな、またどこかで」

エニシが片手をブンブン振っているのを見て、ミコトも僅かに頭を下げた。

足早にスピネル達がいる宿に戻ると二人が軒下に入った瞬間、天気が崩れ出した。



「ミコト〜会いたかったよー。元気そうで良かった。心配してたんだよー」

部屋に入った瞬間、ハルがミコトの足にしがみついた。

「…すまない」

「謝らなくていいんだよ。悪いのはエニシだから」

ハルがエニシを指差す。

スピネルに報告していたエニシは両手を上げた。

「悪かった。心配かけて悪かったって」

「や、ハルがしてるのは、お前の心配じゃなく、ミコトの貞操の心配だろ?」

カイレンが憎まれ口を叩く。

カイレンなりに心配していたのか、二人が帰ってきてから酷く饒舌だ。

ハルはカイレンの言葉に、大きく頷いている。

「そりゃ、心配するに決まってるでしょ。こんなに無垢で可愛くて、綺麗な子、そこらにはいないんだから」

「ハル…お前も頭ん中ずいぶん爛れてるな。なんでこんなに仏頂面でおしかっていうくらいしゃべらないミコトを可愛いっていうんだよ。綺麗な顔で無駄に整ってるのは認める…認めるが…」

カイレンは明らかに不服そうだ。

「え、ミコトの魅力がわからないなんで、目が腐ってるんじゃないの?口も貞操も緩い人たちと遊び過ぎて」

ハルも二人の顔を見て安心したのか、饒舌になっている。

「言ったな、ミコトを見て可愛いはない。恐ろしく強いぞ?コイツ。言葉も態度も堅苦しいし。クソ真面目で自分からは話かけもしない」

「話しかけて欲しいわけだ?…っていうか結構しっかりミコトの事見てるねぇ」

ハルがニッコリ笑う。

「な、な、な、何言ってやがる」

カイレンはたじろぎながら、後ずさった。

「口でハルに勝とうと思ったら無理があるっしょ。早々に降参しとけって」

スピネルと話していたエニシが腰に手を当てて笑っている。

「そもそも、お前が熱なんか出すから悪いんだろうが」

カイレンがエニシに噛み付く。

ミコトは皆んなのやり取りに圧倒されてしまう。

アンチュルピーを抱きしめ、黙って立っている。

「アンチュルピーも無事に戻った事だし、まあ良しとしようではありませんか」

スピネルが両手を叩いて場を鎮めた。

皆の視線が、ミコトが抱えているアンチュルピーに注がれる。

「本当見つかって良かったよ」

ミコトからアンチュルピーを譲り受けて、ハルはホッと安堵のため息をついた。

アンチュルピーのポシェットから、手紙を取り出す。


「次の調査場所は、西の国の洞窟にある神殿だそうだよ」

ハルが高位神官であるゴードンからの手紙に視線をやりながら説明を始める。

「西の国?…遠いな…何があんの?そこに探している件の姫様がいるって情報でも入っているのか?」

すでに、ハルの言うところの姫といわれる探している対象(神)が目の前にいる事を知っているエニシが首をひねった。

ミコトがミスラだと分かった今、本来ならば旅を続ける意味などないようなものなのだ。

スピネルからの情報だと、神界、天界、魔界もそれぞれ動き始めているらしい。

旅を続ければ続けるほど、ミコトが危険な目に遭うかもしれないのだ。

記憶のないミコトは自覚もないから、ハルの言うことに表情も変えず、頷いているが、さてどうしたものかと、スピネルに視線を投げた。

意識下で話が出来るように、心の中で話し掛ける。

『西の国に行くべきか?スピネル』

『何かの罠なのは間違いがないな。ただ、ミコトの失った記憶の中になにか深い意図がある気がするから乗ってみるのも手だと思う』

スピネルが黙って心の中で意見を述べた。


「どうも、そこには内面を映す鏡が秘密の部屋に隠されているらしいんだ。人のフリをしていても、本性が現れるんだって。だからそこで張り込めば、そこに参る一人一人を見極める事ができるんじゃないか…っていうか事だと思う」

ハルは、書面を全て読んで皆に伝える。

「へぇ。そりゃ面白い。例えば食べるのが好きなハルに豚の尻尾が生えたりするってことか」

カイレンがニヤっと笑えば、ハルはカイレンの足を思いっきり踏んだ。

「…否定はできないけど…。言ってカイレンだって、全身がイチモツに変化するかもしれないんだからね!」

下品な言葉がハルから漏れる。

エニシは黙って、スピネルの顔を見た。

『スピネル、コレはマズいことになったかもしれんな…』

『ミコト(ミスラ)の姿が白日の元に晒されるってことか?』

『や、ミコトに記憶はない事が幸いで、ミコトは大丈夫だと思う。強力な守りを髪色を変える薬に仕込んだから…マズいのは、俺とお前の方』

エニシが苦笑いを浮かべる。

明らかに姿を変えているエニシとスピネルの本性が映し出される事は避けなくてはならない。

『その鏡がどこの世界のものかを確かめなくてはならんな…』

スピネルが腕を組んだ。

『鏡か…厄介だ』

エニシは、沈黙を誤魔化すために、笑い声をあげた。

「カイレンの本性が性器の塊って…ハルも言うねぇ」

「エニシも似たようなもんじゃねーか」

カイレンがエニシに肘鉄を入れる。

「ってぇ。だからぁ、調子良いのは否定しないけど、下半身はお堅い方なのよ」

「堅さ違いにならなければ良いですけど?」

スピネルまでが参戦する。

チラリとミコトに視線をくれてからエニシを見るあたりが、そこ意地悪いとエニシは唇を尖らせた。

「みんなしてヒドい…」

「…それだけ、皆がお前の心配をしていたと言う事だ。身共が撫でて慰めてやろうか」

ミコトの天然すぎる言葉に、エニシを除く全員が爆笑する。

そりゃミコトが撫でて慰めでもしたら、お子様に見せられない状況にエニシのエニシが陥る事は分かりきっていることだ。

意味がわからないらしいミコトは釈然としない顔をしている。

「だー、くそっ。前のめりになるっての。ミコトが一番性悪だ」

「なっ!失礼な…もうお前の味方は二度としてやらん」

ミコトが憤慨し、スピネル、カイレン、ハルは腹を抱えて笑った。

エニシはそんなぁとミコトにしがみついている。

ちゃっかり、スキンシップをとりに行くあたり抜け目がないとハルはエニシからミコトを守った。





「ミコトがミスラだと分かってるのは俺とスピネルだけだ。もう探し人は見つかってるのに、神殿から西の国に行けという通達があったというのは、おかしいと思わないか?」

エニシは、ハルがミコトとカイレンを連れて、先にある茶屋に甘味を食べに行ったのを見送って、スピネルに小声で話しかけた。

「神殿側はミスラの所在を把握していない大前提だと考えたら、他にミスラのような人外の存在を匂わす情報を掴んだのではないかと思う」

スピネルは腕組みをする。

エニシも茶屋の近くの木にもたれかかって考え込んだ。

神殿側に与える情報としてスピネルがハルに伝えた情報は少ない。

記憶喪失の謎がわからない限り、ミコトがミスラだという情報を神殿側に与えたくなかったのだ。

スピネルにはエニシが眠りから覚める事が出来なかった事件も熱が出たで片付けて貰った。

当然、エニシとミコトが帰らなかった間に、エニシがミスラを見つけたという情報はいっさい与えてはいない。

ミコト自身に至っては、ユートピアにいた頃の一部の記憶以外は戻っていないので、ミコトがミスラである自覚すらないのだ。

現にハルはいつもと変わらずにミコトに懐いている。

「人ではない、神が天使か悪魔かが西の国の神殿にはいるという事か」

スピネルがポツリと呟く。

「ヘビが出るかジャが出るか…。何が出るかで、何かの糸口がつかめるかもしれない」

魔族が絡んでいれば、一般の人間を巻き込み、血生臭い事件に発展するだろう。

天界が絡んでいるならば、ミコトを探す為に神界の大神ジルコンからの名を受け、探す為に降りている可能性がある

神界が絡んでいるとすれば、それはいずれかの神が何らかの理由で降りているのだろう。

いずれにしても、今回の旅は危険になりそうな気がして、エニシは顔を顰めた。

何も知らないカイレンやハルは呑気なものである。

大量な甘味を食べたハルはお腹をさすっている。

大量の西洋酒を昼間から飲んだカイレンも真っ赤な顔をしてご機嫌だ。

ミコトは、手渡された大量の甘味を食べることもせず、エニシ達が合流するのを待っている。

エニシがスピネルに目配せし、ミコトに合流すれば、ミコトは黙ってエニシとスピネルに甘味を一つずつ選ばせた。

スピネルは、二人が選ばなそうな柑橘系の果物が沢山乗ったタルトを選ぶ。

エニシは、二つ残った甘味を見比べた。

「ミコトはどっち食べたい?」

エニシは、どちらも選ばずに聞き返してみる。

残ったのは、カップに入ったプリンと同じくカップに入ったティラミスだ。

ミコトは交互にそれを見て、選べないというように首を傾げた。

「なら、一口ずつ両方食べさせてよ」

エニシが自分の口を開けて見せる。

艶やかなエニシの笑みに、ミコトが一瞬体を硬直させた。

少し、耳が赤くなっているのをエニシの目は逃さない。

固まってしまったミコトが可哀想になり、エニシは笑みを艶を含んだものからイタズラを仕掛けたものに一瞬で変えてあげる。

ミコトはムッと唇を尖らせて、腹立たしいと言わんばかりに、プリンとティラミスを一口ずつ食べて、両方をエニシに押し付けた。

「両方やる」

ミコトは新しいスプーンを取り出して、2つのカップごとエニシに渡す。


食べかけの、2つがエニシにとってはご褒美になる事を知ってか知らずか。ミコトの可愛らしい仕返しにエニシは思わず吹き出してしまう。

「どうせなら、そのスプーン頂戴。新しいスプーンは予備にとっておいた方がいいっしょ」

エニシが言えば、ミコトが口をワナワナさせる。

顔を逸らして、ミコトが食べた方のスプーンを差し出した。

それを目に止めたハルが、エニシに噛み付く。

「エニシがダメな事してる。エニシ退場!!」

ミコトをスピネルの後ろに隠してた。

ハルはエニシからスプーンを取り上げる。

「えええええ?ヒドくないか?」

エニシが文句をいえば、ハルは自分の使い終わったスプーンをみせる。

「コレ…使う?」

「あー…いや」

エニシが断れば、ハルは失礼なと言わんばかりで、ミコトのスプーンを近くの泉で洗ってきて、それを渡す。

「美味い」

エニシが両方をペロリと食べ切る。

「エニシ…甘味苦手な筈では?平気だったのですか?」

スピネルが意外そうに聞けば、エニシはゆるゆると首を横に振った。

「ミコトが食べたものだし?ミコトが美味いって食べたものは美味いよ?」

「…ナルホド。余計な気遣いでした」

スピネルが、呆れ返る。

ミコトにちょっかいをかけるエニシと。

2人にちょっかいをかけるカイレンをハルが叱りつけ、スピネルが嗜める。

止めても、止めても学習しない4人に終いにはスピネルまでもが口を荒げる結果になる。

そんなこんなで口喧嘩をしながら、歩いていけば、気が付けば5人は目的地についていた。




「凄い…」

壁一面の豪華な装飾に、一同目を奪われる。

黄金色の細かい装飾があたり一面に施されている神殿は天界を思わせる豪華さだ。

ハル達が普段生活していた神殿は白が貴重になって造られていて、凝ってはいるが絢爛な豪華さとは違っている。

壁面には天使と思われるもの達の生活が描かれている。

東の国との雅な木造で作られた質素な趣とは対照的だ。

西の国の件の宮殿は美術館とみまごうほどに芸術的で、ハルなどは一歩歩く度に感嘆の声が漏れている。

カイレンは金になりそうだと言いながら触っていいはずはない装飾に手を伸ばしていた。

「触ったら駄目なんだよ?カイレン」

「え、別に減るもんでもねぇし、少しくらいはいーじゃねーか」

聞く気のないカイレンが更に手を伸ばそうとするの手をハルが止めた。

「最初の説明聞いてた?やめておきなって。触ったが最後、看守に捕まっちゃって、奥の目的地に入れて貰えなくなっちゃうんだよ?」

「ったく、ちょーっとくらいならへっきだろ。誰も見てないし?良いじゃねーか。この燭台一つ取ったって、相当なつくりじゃねーか」

細かい飾りを見ようと手を伸ばし質感を確かめているカイレンの手をハルが叩き、その飾りを元の位置にもどした。

「お二人とも、この先に進む事はできません。こちらに同行願います」

どこで見ていたのか駆け寄ってきた看守に捕まってしまう。

看守たちも神殿の者らしく、神官のように詰め襟姿をしている。

物腰は丁寧だが、まるで泥棒扱いで、このままだと西の国の役人に突き出されそうな勢いだ。


「申し訳ございません。この二人は俺たちの連れで…」

スピネルが事情を説明すべく前に出た。

中の国の神官である身分証を提示する。

ハルもカイレンもそれに従い身分証を翳した。

「これはこれは、中の国の神殿の方々でしたか」

看守が一礼する。

先ほどとは打って変わり、客人をもてなすような丁寧な礼だ。

「この二人には、厳重注意をしておきますので」

スピネルが頭を下げた。

すると、看守ではなく僧侶のような頭を丸めた男が、廊下の奥から姿を現す。

「申し訳ありません。実は、ここには装飾に触った者たちは、奥に入る事が出来なくなる仕組みになってしまっているのです。一度触ってしまうと例外はなく、どのような立場の方も奥の間に入る前の関門に引っかかってしまうのです。なのでこのお二人は、丁重に奥の部屋でお休み頂く形になります」

「ええええ、そんなぁぁぁ。楽しみにしていたのに。カイレンのバカァ」

アンチュルピーを抱えたハルがジロっとカイレンを睨んだ。

「ったく、ちょーっと触っただけだってのに、融通くらいきかせてくれても良いじゃねーか」

頭の後ろで手を組んでカイレンが嘯いた。目新しいものをみると興味深々で考えるよりも先に行動してしまうカイレンがふて腐った。


「全く…二人とも反省するべきです」

スピネルに言われ、ハルとカイレンは僧侶達に連れられていく。

通路から一歩入ったところにある部屋に通される。

「ここで、皆様が来るのをお待ちいただきますね。待つのも暇でしょうから、壁側にあるお好きな飲み物でも飲みながら、お連れ様が観覧し終わるのを待っていて下さい」

待合室のような部屋は、ゆったりとしたソファや猫足の家具が完備されている。まるでお城のような豪華さだ。

快適な空間に設計されている。

何種類もの紅茶に待ち受けの茶菓子までが揃っていた。

「…コレ、鏡の部屋に行くより当たりなパターンじゃね?」

ミコト達について行きたかったと、いじけているハルを宥めるつもりで、カイレンはお菓子を持ってハルの目の前の机にドサと置いた。

片手には、しっかりハルの好きそうなフルーツティーを持っている。

明らかにやらかしてしまったのはカイレンなだけに、ハルの落胆を軽減するために小間使いのように動き回った。

「もう、いいよ。カイレンも座ったら?」

既に菓子に手をつけ始めたアンチュルピーを撫でながら、ハルはため息をついた。




一方、エニシ、ミコト、スピネルの3人は奥に進んでいく。

「全くカイレンときたら、反射で動くからこんなことになるのです。…一体ここまで何をしにきたのか。本末転倒極まれりです」

スピネルが眉間に手をあてた。

「まあ、ハルも一緒にいるから大丈夫っしょ」

エニシが呑気に答える。

ハルが抱えていたことでアンチュルピーまでが居残り組につけられてしまったので、ついてきていないのが残念といえば残念だが、この際仕方がないだろう。

最悪、ミコトがバングルのボタンを押せばアンチュルピーならば駆けつけてくれるに違いない。


「そういえば、奥にあるのは真実を映す鏡なのですよね?エニシがオオカミにでも変わったらどうしますか?」

スピネルがエニシを揶揄う。

「言ってくれんじゃん。否定はしないけど…」

「ならばきっと身共は猟師にでもなろう」

先ほどから一言も口を開いていないミコトが足を止めて振り返る。

スピネルがプッと吹き出した。

「えぇ、俺、られんの?ミコトに?喰う(ヤル)側じゃなくて?」

「…ダメだ…エニシ、ミコトも…やめてください」

笑いのツボに入ったスピネルが腹を引き攣らせている。

「普段、おとなしいくせにたまに発する言葉がおかしすぎるミコトが悪い」

エニシの言葉をシレっと無視してミコトが歩みを進めて、ある一定の場所まで行くと立ち止まった。


「…あの二人は」

ミヌレットとリンシャンの姿を見つけミコトが振り返り、二人の存在をエニシに伝える。

「あ、俺の恩人たちだ」

「ああ、あのお二方が例の医者兄妹ですか」

スピネルが目を細めた。


奥の部屋への入り口で、ミヌレットとリンシャンが、幼い天使のような少女達から、説明を受けている。

3人は聞き耳を立て状況を探った。


お禿のような顎までの金髪の少女は、人形のようにクリっとした目をしている。まるで天井の天使の壁画から抜け出たような愛らしさだ。


「この部屋の奥には、霊験あらたかな鏡がございます。真実の姿を映す鏡とも言われ非常に霊力の高い宝物なので、入ってみるのは結構なのですが、無事に戻る事が出来なくなる可能性を秘めている事をご了承くださいませ。

実物よりも美しくなる者、変わらない者、醜くなる者。それぞれの部屋に送り込まれます。そこで鏡の中から出る為の脱出ゲームに移行するわけですが、稀に外に出られず神隠しになってしまう事がございます。その点のみご留意くださいませ」

「ノーリスクじゃないって事か」

ミヌレットが顎に手をやる。

「クリアした暁には何か貰えたりするの?」

天使のような案内人より少し背の高いリンシャンが青い髪を揺らして首を傾げた。

「メリットは、真実の姿を知る事ができる…といったところでしょうか。リスクを追うのが否な場合は、ここで折り返して頂いても構いません」




「ちなみに、今までで神隠しにあった人はいるのですか?」

リンシャンが扉をじぃっと見つめて、天使のような少女の瞳を覗き込んだ。

「今の所、神隠しにあった方はいらっしゃいません。たた獣などになった方々は何人かおられまして、人になるまで修行してから出ていく形になっております」

「なるほど。余程じゃなければ大丈夫って事だな。なら行くぞっ」

ミヌレットがリンシャンの袖を引っ張った。

「ミヌレット…もう少し慎重に動かないとダメだと思うんだけど」

リンシャンの嗜める言葉は、一度決めたらすぐ行動に移すミヌレットには届かなかった。

扉を開けると、大きめの部屋が現れる。


「ミヌレットってば…どうするんだよ。人間じゃない僕らはマズいことにならないか?」

二人きりになった瞬間、リンシャンが神界にいる時のリンシャンの話し方に戻した。

「まあまあ、あの少女を見たとこ魔界の物ではなさそうだし、天界か神界だろ?神にしたって中神以下の者が俗界に来ているのだろうし、最悪力ずくでなんとかなるだろ」

医師の格好のまま、ミヌレットが部屋の奥にある壁一面にかかっている幕の方向に呑気に歩き始めた。

幕の内側は鏡があるのだろう。

ミヌレットは幕を開ける為の紐に手を伸ばした。




「まだ、出てこないけどあの2人大丈夫かよ」

エニシが眉間に皺を寄せる。

ミヌレット達が入り口に入っている間に、あらかた天使のような少女に、ミヌレット達が聞いていた説明を受けた。

「確かに出てくるのが遅いが、先ほど入っていった2人はどこに出ていくのですか?」

スピネルが、金髪の少女に尋ねる。

「どう映ったかによって行き先が変わります。入ってきた入り口から出てこられるのは、映った姿が変わらなかった人だけですので」

「なら、出てこない二人は何か別の者が映ったっていうのか?」

エニシが入り口を指差せば、少女はペコリと頭を下げるばかりだ。

「私自身中に入った事がないため、どのようになっているのかわからないのです。複数で入った時、それぞれの鏡の映り方によって、開けられるドアが変わってきます。それしか言えないのです」

「君の主、すなわち鏡の持ち主はどこにいる?この城の中か?」

エニシの質問に少女は答えられないのかオロオロしてしまう。

「あの、城の主がここにくる事は、ほとんどありません。が状況は把握しているので、どこかで見ているのかもしれませんが、私にはわかりかねます」

少女はうまく答えられず、申し訳なさそうに、半泣きになっている。

「ありがとう。助かります。その鏡、何かの拍子に壊われたりはしないですか?ウチには少々ヤンチャなものがいるので、映った姿が気に入らなくて暴れて壊してしまうかも」

スピネルがエニシをチラリと見た後で膝を折って少女の目線に合わせ優しく微笑んだ。

「大丈夫です。主曰く、何で叩こうが割れる事はないそうなので、ご安心ください」

今度は元気よく、少女は可憐に笑った。

少女に頭を下げてミコトも二人の後に続く。

エニシは扉を潜りながら、スピネルの脇を肘でぐいっと押した。

「お前、いつからそういう(ロリータ)趣味になったの、お子様の扱い慣れすぎだろっ」

「…は?フォローいれてやった俺(上司)にいう言葉ではないと思いますが?」

スピネルの額に青筋が浮かんだ。

二人が睨み合っている間にミコトが奥の部屋まで進む。


壁一面に貼られた幕の前で、ミコトが立ち尽くした。

触れるべきか、触れないべきか。

幕をあげるべきか、やめておくべきか。

悩んだのだ。

記憶がところどころしかないミコトにしてみたら、自分が何者であるか、知りたくもあるが、同時に怖くもある。

ただでさえ、人懐っこいわけではない無口で仏頂面なミコトがまともに映るとは思えなかった。

2人が口喧嘩しているウチにこっそり確認しておこうかと、幕の一部を少しめくり、確認してみる。



そこには、寸分変わらぬミコトが写っているだけだった。


これならば、2人が来て、幕を開けてしまったとしても、二人から呆れられずに済む。ホッと息を吐いて、ミコトは幕の一部を静かに戻した。


「ミコト、勝手に幕を開いたらダメだからね」

エニシが慌ててこちらに向かって走ってくる。

「…」

「…ミコトって嘘つけないって言われない?」

エニシが心の奥まで見透かすような鋭さを含んだ視線でミコトの瞳を覗き込んだ。

ミコトは諦めたように、眉間に皺を寄せる。

「嘘がつけなくて悪かったな…」



「で…見ちゃったの?」

エニシが子供を叱るように腰を屈めた。

「…顔だけだ。別になんら変わらなかったから、普通の鏡ではないか?」

一人先走った疾しさからか、ミコトは重大な事を失念していた。

「髪はどっちの色だった?」

エニシに言われて、ハッとミコトが我に返る。

真実を写す鏡だというのなら、プラチナブロンドの髪が写ってしかりなのだ。

鏡としては、今現状の姿を映しているので正しくはあるのだが、真実かと言われれば俄然怪しい。

ミコトが思考の泉にハマっている間に、エニシはスピネルと何ことか交わしている。


「ミコト、黒髪に映ったってさ…」

ミコトに聞こえない程度の小声でエニシが告げる。

「良かったな。お前が先に髪に守護呪文をかけておいて…」

「問題は俺たちだな」

エニシが腕を組んだ。

エニシの場合、持っている力が大きすぎるが故に本性を隠す事は難しいだろう。

本来ミコトの記憶があれば意識と力が繋がってしまう為、隠せなかったかもしれないが、エニシのかけた守護だけでなんとか、誤魔化せたらしい。

スピネルは外見をそれほどいじっているわけではないから、それが功を奏するかもしれないが、エニシに至っては、身長から髪の長さまで違う。

今はスピネルより少し低いくらいの身長だが、実際はスピネルより高いし、目つきの鋭さから表情から違ってしまうのだ。

エニシが想像するに、この鏡を仕掛けたのは、天界の者なのではないかと推察した。

理由は、エニシ達の前に入っていった、医者のミヌレットと看護婦のリンシャンが人間でない事を見破っているからだ。

あの2人が悪魔であるならば生きてはいられないであろう空気が、鏡から放たれている。

純粋が故に正邪を見分けられる力が鏡に宿っていることが想像できた。

ミヌレットとエニシの額には輝石が埋まったフェロニールを付けていたのを考えると、神界の神である事がわかる。

姿は違うが、この前神界の大神に顔を出した時、喧嘩していた中神の二人がいたのを目の端に止めていた。


神界にいた時は男の姿を二人ともしていたが、中神以上の地位ならば、そこは自由自在なので、姿形を変えてきたのだろう。

ミコトを見て、ミスラだと分かっていそうな所をみると、そこまで馬鹿ではないのだろうが、油断だろうか。


エニシはガサゴソと荷物の中を弄って、一つのものを手に握った。

『スピネル聞こえるか?俺が動いた瞬間ミコトを守ってくれ』

テレパシーで念を送る。今回はどこで天界のものが見張っているかもわからないので、他が傍受できないようにセキュリティを強化して送った。

『了解』

スピネルの返事を受け、エニシはミコトに顔を向ける。

「ミコトは見終わったんなら、幕をゆっくり開けてくれる?」

「ああ」

ミコトが移動して、幕の紐を少しずつ引いていく。

鏡が手の幅分開いたか開かないうちにしゃがんでいるエニシが袋の中から、天秤を取り出した。

「え?エニシ?????」

スピネルがまさかといった風に目を見開く。

『スピネル!!いまだ!』

エニシからの指示に従いながらもスピネルは蒼白になった。

エニシが今、手に持って投げようとしているのは、冥神界の大神の象徴でもあり、大事な法器なのだ。


それをエニシが手に持って、よりにもよって投げつけた。

鏡は、天秤が当たった瞬間。

そこの場所を中心に、不思議なぐらいの速さで全面が砕け落ちた。

全てのカケラが掌サイズになるくらいに粉々になっている。

溢れたのは幕の開いた場所のみで、幕の内側にガラスの破片が集まって落ちていた。

姿を映す間もなく、ガラスは木っ端微塵になっているのだ。

エニシは、投げた天秤を拾い上げながらシレっと破片を懐に忍ばせた。

「エニシ、怪我はないか?」

幕の紐を持っていたミコトがエニシのそばまで駆け寄る。

鏡ではなく、エニシの心配をしてくれる事を嬉しく思いつつ、心配させて申し訳なくなって良心が痛んだ。

「鏡の心配じゃないんだ?」

ニカっと笑えば、ミコトに頭を殴られる。

「馬鹿か。物はいくらでも修復できるだろうが、だいたいお前が壊すということは、何か理由があっての事だろう」

全面的にミコトがエニシを信頼してくれているのが分かって、眦がさがってしまう。


「ミコト、前にあげた栞持ってる?」

「ああ」

ミコトから、それを受け取り、エニシは見えないように拾い上げた鏡のかけらと栞を重ね合わせた。

鏡の持つ力を栞に移動させたのだ。

「ここは聖域っぽかったから、お守りを強化してみた」

何事もなかったかのように、金色の栞を返えす。

「ああ」

ミコトはそれを大切そうに受け取り懐に忍ばせている。


一方のスピネルは、目を白くして気を失いそうになっていた。

当然スピネルが心配しているのは鏡でなく天秤の方だろうが…。

復帰したら五月蝿そうだと思いながら、エニシは天秤をザラっと確認する。

さすが法器といえようか。若干針の値が甘くなっているような気がするが見た感じのダメージはなさそうだ。

後で手動で微調整すればなんとかなるだろう。

試しに今回の騒動の発端である天界に針を合わせると、悪の方に傾きかけていた。

これだとマズいな。とエニシは袋に片付けながら、二人に指示を出す。


「ミコトとスピネルは多分ドアから元の部屋に戻れるはずだから、先に戻って、ハルやカイレンと合流しててくれ」

「お前は?どうする気なのだ」

ミコトが訝しむ。

「や、さっき行った二人が多分マズイ事になってるから、助けに行ってこようかな…って」

「ならば、身共も行く」

「バーカ。お前先に鏡覗いちゃってるから権利がなくなってんの。ついでにスピネルもな、スピネルは鏡にすら映ってないからw」

ガクリと項垂れる二人を尻目にエニシは後ろ姿で手を振った。



「さて…と」

ここからがひと勝負なのだ。

天界、神界、魔界、どの界の者が城の主だったとしても、この天秤の痕跡をみれば、冥神界の王がここに来た事を知るだろう。

幕が開かれる瞬間、天秤を投げたのは、エニシの姿を映す前に仕掛けたかったからだ。

ギャーギャーと言い争っている二人の気配を感じ取って、エニシは結界によって見えなくされている扉を開いた。


「あなたは、ミスラ(ミコト)と一緒にいた…」

リンシャンが取っ組み合いをしていた手をミヌレットから離す。

「お前らも来たのか…鏡にしてやられた。尖ったもので殴ろうが蹴ろうが鏡がびくともしなかったんだ」

ミヌレットが乱れた服を正しながら不機嫌につぶやいた。


「あまり、時間がないから良く聞け。中神のお前ら」

「な…」

リンシャンとミヌレットの目が見開かれる。

「なんで、分かったか…とは聞くなよ?お前ら…ミコト(ミスラ)を守りたいよな?」

「当然っ」

さっきまで喧嘩していたのが不思議なほどに息ぴったりで思わずエニシは吹き出してしまう。

「なら、お前らの能力なら瞬間的に意図がわかるはずだ」

「用件は?」

この二人の息のぴったりさは、王子だった時の双子の弟達に通ずるな…と思い、すっと合点がいった。


そうか。


この二人は…ユートピアの頃からいたアイツら。

零の両手に張り付いていた参と陸で。


更には。


エニシがまだ人間だったころ、王子だった時の双子の弟達。ルヴァとサイファだったのか。



だからミコトに懐いて、参と陸だとわかったミコトもそれを許していたんだ。


胸が熱くなるのを感じながらも、そんな時間が残されていない事に気付いて手短かに伝える。

鏡が崩れた今、この部屋も長くは持たないだろう。

鏡が崩れた事で高みの見物をしていた城主が天界から降りてくるのも時間の問題だった。


「ミスラ(リンシャン)様」


リンシャンを見てエニシがいいきかす。勘が鋭く人の心の機微を見抜くのが上手いリンシャンが、大きく頷いた。


「クロノス(ミヌレット)様」

ミヌレットを見れば、ミヌレットは意味がわからないのかキョトンとしている。


「クロノス様はミスラ様を連れ、少しでも遠くにお逃げください」

エニシはそれだけ大声で言い残して、外への逃げ道を作ってやる。

意味がわかったらしいリンシャンがいち早くミヌレットの手を取って駆け出した。


二人が無事逃げていくのを確認して、エニシは元の説明を受けていた部屋に戻る。

そこには、誰もいなくなっていた。

『スピネル、どこにいる』

『カイレン達の所にいる。そちらに行った方がいいか?』

『いや、今の所誰もいないから俺一人で対応してからそっちに戻るわ…』

エニシがそれだけ告げて、人が現れるのを壁に持たれて待つ事にした。


少女と共に、薄水色の髪の白い出たちの聖女候の女性が現れたのはその直後である。

「お疲れ様。なんか俺らが入った時には、ガラスが割れちゃってて見れなかったんだ。次の人が見れないんじゃ困るかなって思ってさ。代表で俺が待ってたんだけど…」

シレっと、前の人達が壊したのだと言わんばかりの言いようである。

エニシは人好きする笑顔で伝えた。

今回の城主を天界の者だと踏んでの言い訳だ。

天界の者は、純粋で、人を疑いの目で見る事はない。

「天秤…のようなもので割られた気がしたのだけど…」

「さぁ…俺にはサッパリ。そういえば。なんていってたかな。どこかの部屋からクロノス…とか、ミスラとか…なんとかいう声が聞こえてきた気が」

薄水色の髪の聖女が一瞬身を固めた。

その後すぐ、柔らかい表情に戻っているところが、城の主が出来るほどの地位なのだろう。

「情報提供助かります。せっかく鏡を楽しみにしてくださっていたのに申し訳ありません。またいらしてくださいね」

聖母はそういうと、丁寧におじぎをしてみせた。

エニシは、聖母が見えなくなるまで、旅行できた人間にしか見えない足取りでその場から立ち去る。

急がないように、それでいて怪しまれないように、鼻歌までそえた。



「よっ!帰るぞー」

みんながカイレン達の元に集合したのを見計らって、5人は絢爛な神殿を後にする。

「ねえねぇこのまま帰るの?」

ハルが不服そうに、チラリと宿泊施設が建ち並ぶ街中に視線を踊らせた。

美味しそうな食べ物屋もたくさん並んでいる。

「お、美味い酒を出してくれそうな店もあるぜ?」

カイレンも目を輝かせた。

「確かに、ここらで一休みするのも良いなぁ」

エニシまでも乗り気だ。

「西の国の骨董屋を回ってみたいものだ」

ミコトまでが目を輝かせている。

「あー、了解。ハルは、神殿にいる上位神官に報告書をだしながら、為替を送ってくれるよう上手いこといっておいてくれますか?」

スピネルが両手を上げて降参した。



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