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第一話

【神界】



「おかえりなさいませ」


神界の門番が頬を染めながら、神界の中で最も位の高い大神界に属するミスラの帰りを出迎える。

大神界といえば、神界を治めている王のジルコンと同等といっても過言ではない能力を秘めた者だけが踏み入ることのできる場所だ。

それだけに、門番の男神も下にも置かぬ態度で頭を下げた。

「ああ」

ミスラは、小さく頷いて一歩を踏み入れる。

大神界の住人は限られている。

王のジルコンとその妻、そして数人の侍女位のものだった。

ジルコン達は神々しいといわんばかりの装飾品が贅沢に施された出立ちで着飾っていることが多いが、ミスラはそうではない。

煌びやかに着飾るでもなく、白地に同系色の糸で刺繍が施された衣は上質ではあれど、派手ではない。

人に会う時に失礼にならない程度の出待ちである。

それだというのに、一つ一つのパーツの美しさや姿勢の良さが際立っていて、門番の目が釘付けになってしまう。

小さな顔に涼しげな目、通った鼻筋に桜色の唇。長い首に細いが鍛えられ引き締まった体躯。

スラリとした長身痩躯で、しなやかなプラチナブロンドの真っ直ぐな髪が腰まで届くくらいで風に揺れている。

どの角度から見ても、非の打ち所がない。


「大神界には距離があるので馬車を用意させましょうか」

門番の申し出に、ミスラは手をスッと差し出して断る。

「身共一人に手を煩わせるまでもない。歩く」

口数少なめに、小さく相手を労って門の中に入っていく。


神界は神界(平民)、中神界(貴族階級)、大神界(皇族階級)の三段階に分かれている。

神界の者からしてみたら大神界の者には御目通りすら叶わないほどに尊く高貴な存在なのだ。


能力の高さによって振り分けられている。

力は外見の美しさにも及ぶ為、能力が高くなればなるほど美しい外見をしていると言われているのだ。

何千年かぶりに大神界に精選された者がいると話題になっていた。

ミスラが天界から戻った事を知った者達がわらわらと集まってくる。

大神界に精選された稀有な存在が気になって仕方がないのだ。

ミスラが共や従者をつけず、一人で行動している事も話題になっていた。



「噂には聞いていたが、なんという美しさだ」

皆が息を呑んだ。

その場だけ空気の澄み方が違う。

「立ち居振る舞いも見事だ。ただ歩いているだけだというのに見惚れてしまう」

指先一つ、足の出し方、肩の位置、全ての所作が綺麗すぎる。

「素敵。吸い込まれてしまいそう」

「はじめて見たわっ。こんな美しい姿」

男神も女神も同様に目を奪われてしまう。


「大神の長であるジルコン様をも凌ぐ美しさだ。大神のジルコン様は男神なのに対して、ミスラ様は中性だ」

美しさが力の強さを表していることを考えたら、その強さたるや想像を絶するだろう。

妻や従者はジルコンに選ばれているだけで中神界から選ばれている者達が多い。今まで大神界にはジルコンしか存在していなかった。

力の強い男神でいるのが今までの通例なのだが、ミスラは性別を持たぬ中性でいた。


「冥神界のクロノス様も相当だが、彼のは、美しいというより男らしい美丈夫だ」


ざわつきに、反応する事なくミスラは不躾な視線を咎めるでもなく、歩いていく。

何年も属する者が出なかった大神界に新しく精選されてきた者が気になってしまうのは仕方がない事だとミスラ自身がわかっているからだ。基本、王が一人属し、妻や侍女や配下が住まう事が常であるのに。

この度、ミスラがそこに加わった。気にならない筈はない。


大神のジルコンはにこやかに周囲に手を振っていき女神を喜ばせるが、ミスラはそうではないらしい。

愛想はあるわけではないようだ。いや、まったくないといった方が正しいかもしれない。

ただ、なぜか冷淡ではなくて清廉潔白に見えるから不思議だ。

周囲を高飛車に見下している空気を出しているわけでもないのがわかる。


皆の好奇心を責めるでもなく、自然体で歩みを進めていく。

ミスラを一目見ようと押し合いへし合いして、ミスラの目の前に押し出され、一人の女神が転がってしまった。

上位の者が歩く道を塞ぐのは、禁忌とされているのだ。

女神は蒼白で震えている。

ミスラのいく手を阻んでしまう形になってしまった女神を前に、ミスラは立ち止まり叱責するでもなく腰を折った。


「大丈夫か?」

ミスラは手を差し伸べて、起こしてやり、服の汚れまでを払ってやる。


「も…申し訳ありません。ミスラ様」

握られた白い手の感触に、女神は恐縮してしまう。

男神の手よりは滑らかで、女神の手より長く綺麗な指をしている。

爪の先まで美しい。

その手を汚してしまった事を女神は心底申し訳なく思った。


「…いや、無事ならば良い。怪我をしては元も子もない。皆も自重されよ」

落ち着いた、静かな声音に皆が酔いしれる。

高くもない。低くもない。不思議と心地よい不思議な声だ。

引き起こして貰った女神は頬を赤らめていた。


「何故そこまで畏怖するのだ?役職の違いこそあれ、大神界に属そうが、中神界に属そうが、神界に属そうがそこまでの序列はつけるものでもないだろう」

皆が道を開けて見送る事にミスラは違和感を抱いていた。

神界そのものが、高貴な場所だというのであるのならば、なぜ上下をつけるのかと。


「ジルコン様が大神界や中神界の皆様や冥神界のクロノス様への態度には、重々失礼のないようにとの仰せでして」

他の界に対しての配慮なのだと皆はいう。

神界に精選されているだけで、充分なのだという謙虚な態度のものばかりだ。


「その中でもクロノス様は冷酷無慈悲との噂だ。彼に目をつけられたら最後、消滅させられることが必至だ」

「失礼は赦されない。全世界の善悪を裁く事が出来る恐ろしい方だ」


そこにいる皆が、口々に冥神界の王であるクロノスの恐ろしさを蒼白になりながら、教えてくれる。


冥神界のクロノスならば、先ほどミスラの前に倒れ込んだ女神は一瞥され、赦されることはなかっただろうと皆が口々に言った。

各界が恐れるクロノスは、周囲を拒絶しているような冷たさを孕んでいるらしい。


「なるほど、ならば身共も冥神界の王に接する機会があれば態度を改めねばな」

ポツリとミスラが呟けば、一瞬でその場が和んだ。

ミスラの無表情さは、そういう質ではなく、孤高でいるのを好むだけだということが皆にも伝わっているようだ。

精選されてまだ日も浅いミスラに神界の者たちは魅入ってしまっていた。


人間(俗界)の世界でいう幼稚園、小学校、中学校にあたるユートピアを首席で卒業後。

神界に選ばれ、神界の神になる為の修行の場と言われる精錬所(高校、大学にあたる場所)でも首席で卒業し、いきなり3段階に分かられている神界、中神界を飛び越して、大神界に精選された稀有な存在に、神界や中神界に属する皆は興味深々だ。

普通ならば、輪廻転生をし俗界を何度も経験して、魂の格を上げやっと神界に到達するものなのだ。

ユートピアの組み分けで、「神界」「冥神界」「天界」「魔界」「俗界」の行き先が決められるのだが、ほとんどの者が俗界にいく事になる。


そんな中、ミスラは異質な存在だった。

「なんでも、一度も俗界での経験のない、魂らしい」

「中性の姿でいられているが男神にも女神にもなれるみたいだ」

過ぎていく後ろ姿を見送って、中神界にミスラが入っていくまで、皆は見惚れてしまっていた。

普通は精錬所から精選された時点で性別を決めている者が多い中、中性でいるというだけでも稀有な存在である。


誰もが話しかけられない中、中神界に足を踏み入れた途端、人垣の中から赤髪と青髪の中神がミスラに飛び付いた。


「ミスラ、待ってたよ。中々帰ってこないから、心配してた」

青髪のリンシャンがミスラの腕にしがみつく。

あざとく少年のような目で、ミスラに甘える。

こう見えても天気の雨を司る中神界の中でも上位に位置している立派な神だ。


「リンシャン、ずるいぞっテメ。離れろ。ミスラ、疲れてるだろうが」

ミヌレットは、リンシャンを引き剥がしてミスラにおかえりとぶっきらぼうに伝えた。ハキハキ物を言うミヌレットは天気の晴れを司る同じく上位の中神である。

中神界は俗界の神羅場所を司る神が常駐している聖域だ。一般的に俗界の人々が神と崇めているのは、中神界の者のことをさしているといっても過言ではない。

二人が喧嘩する度、地上は大変な事が起きるので、部下達は戦々恐々としている。

神界の仕事が中神界からの仕事を天界に伝達する事務的な場所だとするならば、中神界は俗界の全てを司っている重要なポジションなのだ。


中神界の者達は、神界の者達よりも弁えているから、遠巻きに3人のやり取りを見守っている。


「全くお前達ときたら、ユートピアにいた頃から進歩がない」

ミスラが、小さくため息をついた。

先ほどまでと打って変わって、ミスラの顔に僅かながら表情が浮かんでいる。

幼い頃から共にいるからこそ出る、身内に見せるようなそれだ。


「だってミスラが精選されてくるの待ってたんだもん。後輩の僕達よりも遅かったから心配してたんだ」

リンシャンの言葉に、ミヌレットが茶々を入れる。

「俺たちは来たのが中神界だったから早かっただけだろーが。ミスラは大神界にいきなりだったから時間かかっただけだ」

ミヌレットのいうとおり、ミスラの同期はほとんどがそれぞれの場所に何年も前に就いている。

ミスラの精選されるのが遅れたのは、ミスラの心の問題でもあった。


「精選されたなら、僕をすぐに呼んでくれれば良いのに。そうしたらいつでも従者になる」

リンシャンが申し出る。

「馬鹿、お前がなっても精々事務処理の手伝いくらいしか出来ねぇだろーが。その点俺なら」

腕も立つとばかりにミヌレットが遮った。


「二人とも…変わらないな。お前達にはお前達の仕事が既にあるだろう。身共は一人で大丈夫だ」

呆れたような声でミスラが目を細める。



「ああ、でも神界には僕達から、いつもミスラを掻っ攫っていた邪魔者はいないし」

リンシャンがミスラの左腕に手をかける。

「そうそう。俺たちでミスラが独占できるもんな」

ミヌレットは右腕に手をかけた。


「…邪魔者…か」

ユートピアにいた頃、ミスラの隣にいた「壱」の事を言っていると分かり、ミスラは苦笑する。


ミヌレットとリンシャンはユートピアにいた頃、ミスラに懐いてきていた後輩だ。

人付き合いが得意ではないミスラがことのほか可愛がっていた二人である。

そんな二人にとって目の上のタンコブ状態の壱は、ミスラにとってはかけがえのない親友でもあり、特別な想いを抱いている相手でもあった。


ユートピアからの選別の際、どこの界に壱が行ったのか見失ってしまい、そこからは音信不通だ。

ユートピアで「零」と呼ばれていたミスラも今は「ミスラ」と名乗っているように、行き先が決まるまでは番号で互いを呼び合っていた。

だからもう名前すらわからない。

ただ、手元にあるのは、壱から貰った双剣の片割れだけだ。


神界に来てから、大神界から中神界、神界と一通り探し歩いてみたものの見つける事は出来なかった。


ミヌレットやリンシャンの二人が邪魔者がいないと言っているところをみると、配置されたのは神界ではないのだろう。

天界に挨拶に行ったものの、そこにも壱らしい者はいなかった。


「ミスラがまたアイツのこと思い出してる」

リンシャンが頬を膨らめる。

「忘れちゃえよ。連絡も寄越さない不義理者なんて」

ミヌレットも同様だ。


男神姿を選んでいる二人は僅かにミスラよりも視線が高くなっている。もちろん同じように男神に姿を変えれば、目線の位置は変わらなくなるのだが、小さかった二人の成長にミスラは、微かに目を細めた。


「全く…図体ばかり大きくなったというのに、変わらないな。何故お前たちは男の姿を選んだのだ?」

中神界以上の者であるならば、性別は自由に選べるはずだ。

「そりゃ、ミスラの危機を救えるようにに決まってる。男姿の方が能力が強いから」

リンシャンが当然とばかりに胸を張った。


「お前の場合は女でも変わらなくねぇか?物理的な力は弱いし。何なら女姿であざとくしてた方が皆が騙されてくれそうじゃねーか」

ミヌレットの売り言葉に、リンシャンが乗って、取っ組み合いを始めてしまう。


こうなると、話にならないので、ミスラは二人を放置して、大神界に戻る事にした。

なんだかんだ言って仲のいい二人のこと。

喧嘩のやめ時は互いに分かっていると知っての事だ。


ミスラ自身は、中性でいる事を選んでいる。

それは、どちらの性別からも恋愛対象として見られないようにする為でもある。


並の男性ほどある身長は有効だ。

男性と違うところといえば、ついているはずのモノがついていない。

体毛が薄く骨ばっていないくらいのものだろう。

軽い分俊敏さは勝っている。


ミスラには既に、心に深く住みついている者がいる。

だから、中性でいることを選び、他とは一線を引いて対峙するようにしていた。


神界にいながら、柔和さとは程遠く。

冷徹だ無表情だ愛想がないと言われる事くらいはミスラも承知の上だ。

浮いている事は分かっていても、ミヌレットやリンシャンのような理解者がいるだけで満足だった。


静かに、大神界の任務をこなしながら、壱を探せばいいと思っていたのだ。




ジルコンからの呼び出しがなければ。




「ミスラ…君を冥神界のクロノス王が所望している」

否が赦されない絶望的な言葉だった。





◆◆◆



天地創造し世界を維持する《神界》

神界の指示のもと俗界の人々を導く《天界》

俗界の人々に試練という修行を与える《魔界》

人間が住む《俗界》で成り立っている


そして、各界から畏怖の念を抱かれる破壊神の王とも言われる全界の不正を暴き粛正する《冥神界》の王がいた。


全てを壊し消滅させる事が自由自在に出来てしまう。

圧倒的な力を有する冥神界の王は、どの界からも恐れられていた。


この世はバランスで成り立っている。

次元が上昇し高貴すぎれば、世は膨れ上がり広がり続けていく。次元が下がれば縮小されいずれは消滅してしまう。

そのバランスを取る者。それが冥神界の王クロノスであった。





【冥神界】



「何人刺客を送り込んできても無駄だというのに、魔王アンデシンもよほど暇らしい。」


冷たい黒の瞳が、椅子の横に置かれた天秤が揺れるのを捉え、すっと目を伏せる。飾り気のない黒衣を見に纏っていても、目を惹く高い頭身と鋭く整った顔が踊った艶やかな長髪から現れる。

血塗られた愛刀を一振り、鞘に戻した。

そして冥神界の主(大神)であるクロノスは椅子に腰を下ろすと、ゆるりと長い足を組んだ。


取り調べをする為に残した、踊り子の風体をしたロザリア(残りの刺客)を射抜く。

冥界の大神クロノスはどこまでも底冷えするような声でいった。

長い漆黒の髪を気怠そうにかき揚げれば、整った鼻梁、全てを見透かすような深い闇色の眼差しが表に現れる。闇に吸い込まれていくような美丈夫なだけに、その迫力は筆舌しがたい。

主にふさわしい堅牢な椅子に腰掛け、すらりと伸びた両腕を膝の上に起き、長い脚を組み変え、殺気を含ませた笑みを浮かべている。

馬鹿にしたような軽い口調とは裏腹の重い空気。

ロザリアは、その空気の重さだけで、恐怖で鳥肌が立つ思いだった。

傍には唯一の部下であると言われているルミネスが控えている。冥神界にいるにしては違和感のある明るい髪色で、先ほど(刺客たちが暴れる前)からピクリとも動かない。部下であるはずだというのに、主人を守る事なく、呆れたように腕を組んで溜め息をついて眺めているだけなのだ。

見た目が美しいほど強いと言われているこの世界において、部下でさえも相当な強さを秘めていることが容易に想像された。

周囲には、魔界から送られたロザリア以外の刺客達の亡骸がいくつも横たわっている。


魔王アンデシンが自ら選別した刺客達は皆魔界の貴族階級に位置するほどの強者揃いだった筈だった。

この者達は魂の核まで砕かれてしまっているからユートピア(転生する場)での復活も望めはしないだろう。


場を盛り上げる為の一座に扮して潜入した宴の中、クロノス一人に全員が襲いかかったというのに、返り血すら浴びる事なかった。

クロノスを油断させるための役目として、アンデシンから命じられていたロザリアだけを綺麗に外し、数十人からなる刺客たちを瞬殺したのだ。


それは踊り子として送り込まれた淫魔のロザリアよりも華やかに、綺麗な舞を見せた。

正確にいえば、舞のような殺陣をである。漆黒の輝石が輝く黒い剣が目に見えぬような速さで動く。

城内の光が剣のガード部分に施された輝石に反射し、その軌跡の描く美しさと残酷さに、ロザリアは蒼ざめた。


一瞬の出来事だ。

今、両の手を神通力で作られた鎖で繋がれ、身動きが出来ないようにされて跪かされている。


「クロノス様、私はあなた様を悦ばせる為に来たのでございます…決して刺客などではございません」


このような事態は全く知らされてはいなかったのだと続ける。実際、ロザリアは魔王アンデシンからこう言いつかっただけだ。


色仕掛けで、婚約者に逃げられた可哀想な冥神を慰めてやれ…と。


露出度の高い衣装を身に纏った豊満な肉体から艶やかな吐息を漏らす。答え方を間違えればロザリアが生き残る道はゼロに等しい。

出来る事は、アンデシンをもたぶらかす事が出来た色気で、迫る事しか残されていない。

ロザリアは、出来る限りのフェロモンを振り撒き、妖艶に微笑んだ。

ロザリアの微笑みには毒があり、俗界の人間ならば百発百中で毒牙にかかり、天界、魔界の人間でさえも抗えない程の魔力を秘めている。

神界の上天、中天に位置する高位の神でも危ないほどだ。

それでも、クロノスは微動だにしない。それどころか、ヒトの悪い笑みを浮かべ、ロザリアの腰が痺れるような妖艶さで囁いた。


「で、俺に閨の相手をして欲しいと?」

「朝までと言わず三日三晩」

「寝首をかかれるのが容易につく、この状況で?さすが淫魔。正直だ」

「クロノス様の婚約者が俗界に落ち寂しがっているだろうから…と、慰めにまいりました」


ロザリアの言葉に、クロノスの眉がピクリと動く。空気が動揺に震えるのがわかった。余裕の笑みや妖艶さが一瞬にして消え失せる。


「…ミスラ(婚約者)が俗界に堕…ちた?」

「はい。我が主がそう申しておりました。神界、天界も混乱状態だと。アンデシン様がいち早く情報を掴み、クロノス様の元に私を向かわせました。

婚約者様を喪われ傷ついておられるだろうからと」

婚約を申し込み、俗界に堕ちるほどに拒否された振られ男を慰めてこいとアンデシンは暗にいっているのだ。


事あるごとに因縁をつけ刺客を払ってくるアンデシンが煩わしくて仕方がない。何より重大な情報を、よりにもよって魔界の王から聞く事になるとは。

クロノスは無表情を崩さず、わかるものしかわからない程度で舌打ちし部下のルミネスを軽く睨みつけた。

ルミネスは、慣れたものなのか器用にいなしている。

クロノスは、ロザリアの鎖を解除すると、言い放った。


「アンデシンの手垢のついた者になど興味はない。さっさと主の元へ帰って慰めてもらうがいい」

「ですが」

ロザリアがクロノスの裾に縋りつこうとすると、クロノスの皮肉な笑みが消え、残酷なものになる。

「触るな、汚れる。俺に触っていいのは1人と決めている。5秒待ってやる。そのうちに消えねば殺す」

「ひっ」

ロザリアは慌てて手を離し、魔力で姿をくらませた。



冥神界から魔界の者がいなくなった瞬間。

クロノスは、皆の知る恐ろしい冷酷無比な冥神界の王の仮面を外し、年頃の青年の顔に変わる。


「なんで、よりによって婚約者の俺にだけ情報が入らないってヒドくない?」

ルミナスと二人きりになった瞬間、クロノスは口調をラフなものに変えた。

先ほどまであった王の威厳や雰囲気はどこに消えたのかと、周囲に人がいたら空いた口が塞がらないだろう。

眉をハの字に下げ、情けなさを隠しもしないクロノスの変わりようにルミナスは苦笑する。

オンオフは切り替える方だというクロノスは、他がいるかいないかで態度を徹底的に変える事ができるのだ。

その代わりように毎度のことだが、おかしくて仕方がない。

酷い二重人格(二重神格)だ。


これだけ態度が変わるからこそ、部下をルミナスしか持たないというのも頷ける。しかも丁寧語で対応すると、息抜きをする場所がなくなると愚痴を言い出する始末だ。


「…お前…ふられたの?」

立場的には部下である筈のルミナスがタメ口で揶揄う。ユートピア時代は先輩後輩で立場が逆だった名残もあって違和感はなく馴染んでしまう。

「ヒドっ!!そもそも忌々しい魔王からその情報が入るって!!!あきらかにルミナスの落ち度っしょ」

クロノスが八つ当たりとばかりにルミナスの情報探査が遅れた事を責める。

「そもそも。お前付きの神官を俺だけにするからだろう。だから人数を増やせって言っているだろうが。侍女や召使い、護衛に雑務まで俺一人とか、あり得なくないか?人使い荒すぎだろ。この上、探索方までやるのは無理だというもんだろうが」

ルミナスが逆ギレする。

冥神界の王相手にこんな言い方をすれば、首が飛ぶとこの場面を見たら、神界の王のジルコンでさえ蒼白になるであろう言い方だ。

「俺は、直に部下をはべらせたくないと言っているだけで、ルミナスが雑用係や探索係を自分の宮に持てば良い事じゃん」

全部自分が背負い込むから駄目なのだとクロノスは言い返した。

とはいえ、ルミナスの神通力は巨大なものなので、食事から掃除、雑務まで指先一つで、何から何まで終わらせる事ができると信じているから、クロノスも冗談にできるのだ。

「…まったく、ああいえばこういう」

困った後輩上司だとルミナスは頭を抱えた。

この上司、実は遥か昔から片想いしている御仁がいるのだが、告白できないまま、こじらせて、孤高の冥神界の大神になってしまったのだ。

その相手を探しても探しても見つからず、やっとの思いで見つけ、婚約までこぎつけたというのに、逃げられてしまったという。


こと初恋の子の事になってしまうと、いつもの冷徹さやクールさがどこかに行ってしまうのだ。

ユートピア時代にもよく、相談されたものだとルミナスは目を細めた。

さて。

先輩後輩とは何かと疑問に思った者のためにここで、ユートピアの事を少し説明しよう。


ユートピアは、生まれたばかりの者が10歳まで平等に修行する場所である。心を磨くことを主にし、知力、武力など一通りのことを学ぶ。そして最終選別の時は、素質、習熟度、伸び度により神界、天界、魔界、俗界への行き先が決まる。決まった先の学舎は神界は神界に行くための修行をする場所(精錬所)に進み、魔界、天界、冥神界も同様だった。

ユートピアで修行した後、行き先が決まる時、総合的な力(神通力や魔力の類)や内面の美しさで外見が決定する。

門を潜った瞬間から見た目が変化し、それぞれの行く先に動く階段…いわゆるエスカレーターのようなものに乗って移動していく。

美しければ力は強く、醜くかったり、幼かったり、人型に関わらず動物の姿になっていたりと千差万別だ。

唯一俗界に決まった者だけは、10歳の時点で魂という形に変化し、俗界のどの家庭に舞い降りるかを決めるレースが行なわれるのだ。

そして、勝った順位で腹に入る好きな家庭を選ぶ事が出来る。


俗界というのは、いわゆる人間界ともいい、一定期間で何も身に付かなかった者が再修行する場所として用意されている世界なのだ。

寿命が終われば、魂の形になってはユートピアに戻り、再修行を行うというサイクルになっている。

人間界の言葉で言うのならば、輪廻転生というやつだ。

永遠に近い寿命を持つ神界や天界、魔界、冥神界は、人数の減少分しか定員がないため、俗界に9割が回る事になるのが通例だ。

目安としては魔界には0.5割。天界には0.3割。神界(冥神界若干名を含む)には0.1が行くという割合が常である。


魔界は、魔力の強さが序列に直結し、魔王を筆頭になりたっている。

主な魔界の役割は、俗界の監督だ。

誘惑や試練を与え、俗界の人々を試し、最終的には、魔界の王がユートピアに転生していく際の初期値を決定する立場にある。人間界だと閻魔大王とも言われているそれだ。


天界には大天使と天使が存在する。主に仕事としては大天使が神界から言いつかった指令を天使たちが実行している。

俗界の一部の霊位の高い者(神殿にいる神官)と意思疎通が可能だ。

基本的に悪に引きずり込もうとする傾向にある魔界の者たちが暴走しないための監視役的な立場にあるといえるだろう。

度を超えた魔界の俗界への介入を調整するための機関だと言っても良い。天使達にも管轄が細かく決まっているのだが、ここでは割愛しよう。


神界は、天地創造に従事している。大神界、中神界、神界に分かれていて、それぞれの役割が決まるといった感じだ。


その中で神といっても冥神界の大神だけは異質な存在で、10歳の選別後は神界ではなく冥神界の神になる為の特別な修行場を経て冥神界に入る。例外といえば、家臣と連れ添いは他の界から引き入れる事が可能である。そしてこの権利を使えるのは冥神界の主だけだ。

前任の冥神は臣下を大く従え侍らせていたが、クロノスは孤高を好み部下は今のところルミネスだけしか招き入れてはいない。

ルミネスは元、神界の中神の高位に選ばれていた凄い力を持つ男なので、神の位100人分以上の働きができる。故にクロノスは神界、魔界、天界からの来客がこない限りは上下関係をあまり気にしなくてもいい気楽な生活を送っていた。

ようは、クロノスにしてみれば堅苦しく持ち上げられる事が好きではないのだ。

様呼びの敬称をつけられ、媚びられる事を望んでいるわけではない。

だが、クロノスの立場からしてそれは、皆が顔色を伺われたり、後ろ暗い者から刺客が送られてくる事は避けられない事実だ。


なぜなら冥神界で行われている任務は、神界から天界、魔界、俗界まで世界全体の全ての善悪を裁く界、すなわち、世界全てを滅ぼす事が出来るクロノスは全ての界から、畏れられている。


魔界の王、天界の大天使、神界の大神をも裁くことのできる冥神界の大神クロノスは各界から恐れられる存在になっていた。

各界から接待を受けることや命を狙われることに食傷気味な日々を送っている。

どこの界にも、隠しておきたい後ろ暗いヤマシさがあるという事だ。


椅子の横に置いてある天秤はダイヤル式でそれぞれの界や人の善悪バランスを見る事が出来る。

どの界に合わせ天秤を覗いても、罪(悪)の兆しがないわけではない事にクロノスは皮肉げに片眉を歪めている毎日なのだ。

冥神界の主になってからというもの、全てを信じる気にはならなくなった。


神界だからといって、100%善のもの達が集まっているわけではない。

嫉妬や悩みなどの負の感情は多かれ少なかれ抱えている者も存在する。


善の象徴とならなければならない立場なので、神界の目安は80%が善ならば、合格ラインとしていた。

天界ならば70%が善ならば良し。

魔界から人を誘惑する立場から、悪事などを働く事が多く、またそれが仕事のため魔界の目安は30%が善ならば、合格ラインということになっている。

俗界は、善と悪の割合が50%が妥当ラインといったところだ。


どれほど、個々で見ても、良い性格だと思う者でさえ、善悪の割合が意外にトントンで嫌になる事も度々だった。


そんな、冥神界大神としてクロノスが忙殺していたある日の事。


忙しい合間を縫ってはクロノスがしていることといったらこれだ。

ユートピアにいた頃の初恋の相手を見失ってしまってからというもの、ありとあらゆる界に網を張り、初恋相手を探しまくっていた。


もちろんルミナスも協力はしていたがさっぱり行方がわからなくなってしまったのだ。

ユートピアで学年が3つ下であったクロノスと初恋の子の話は上級生にまで届いていた。

クロノスは明朗快活で統率力といい圧倒的なスキルを持った子供だった。その子が周囲に隠す事なく追いかけていた子だったのだ。

配属界が探しても見つからず、絶望し、しまいには、ずっと独り身でいてやるぐらいに、やさぐれていた。

星の数ほどいる、他の者にどれだけ言い寄られても、興味を示さず。

門前払いをする日々だ。

断る方の身にもなって欲しいとルミナスは心底思わずにいられない。


少しでも忘れる手伝いが出来ればと、ルミナスが神界一の美女がお見合い相手として紹介しても、クロノスの心を動かす事は叶わず。

もう、見合い相手を連れてきても無駄足だから、連れてくるなとルミナスに指示してきたくらいだ。

見合い相手の情報を持ってくるぐらいなら、初恋の相手をさがしてくれという嫌味つきだった。

そこまで誰かを好きになれるものなのかとルミナスは呆れ返ってしまう。

執着心の強さが、クロノスの強さの秘訣なのだろうかと思うほどだ。

そんな折、状況が一変する出来事がおきたのだ。


その日。

やたら美しい神が神界に精選されてくるという情報が、ルミナスに届いた。

クロノスに文句を言われる覚悟でソレを告げたら、珍しく入界してきた話題の神を何の気まぐれかクロノスは見る気になったらしい。

冥神界から神界の様子を見るには、大きな水晶玉が様子を映すモニターとなっている。

それをクロノスの目の前にセットし、ルミナスも傍に下がって様子を見ていた。


クロノスが珍しい反応を見せたのは、その神が神界に昇った瞬間だった。

いつもならば、眉一つ動かさないクロノスがその神の出現に目を見開いたのだ。



クロノスが一瞬で心ごと掴まれる感覚を出会いの瞬間に覚えたのは過去2度しかない。

1度目はユートピアで初恋の子に出会った時で、2度目は今だ。


キラキラした光に包まれ、圧倒的な綺麗さを宿し、一切の歪みがないその透明感と容貌にクロノスは一瞬で目を奪われた。

陽を受けて輝く髪は絹糸のようで。陶器のような肌、小さな顔、外見の美しさは完璧といっても過言ではないほどだ。

天秤の針も善から微動だにしない。


冥神界の主となったクロノス自身も天秤のゆらぎはないが、クロノスのように斜めに世界を見る黒さもなくただただ美しい。

話したことすらない。相手のことを何も分かってない者に、一瞬で心ごと持っていかれる感覚に必死で抗う。

そんなことなど、あってはならない。

初恋の子以外に心奪われる軽々しい自分など信じたくはないし、何より自分自身が許さない。

絶対に惹かれたりはしないと、そう抵抗しようとしていた時。


クロノスが肌身離さずつけている懐中時計風の方位磁針が光り輝いたのだ。


それはその神が初恋の相手だと。さし示している。

その方位磁針は、ユートピアにいた頃、どこにいても初恋の子を見つけられるようにという願いが込められて、念を込めた物だった。


それまで何の変哲もない、アンティークな方位磁石でしかなかったそれが光ったのだ。


見失っていた初恋相手の入界を見て惹かれるのは無理はなかったのだとクロノスは力を抜いた。

外見が変わり、雰囲気ものとも成長しすぎてわからないほど変容を遂げ、神界に神として現れた、その者ずばりか、探しても探しても見つからなかったクロノスの初恋の人だったのだから。


強烈に惹かれてしまったのも無理はない。


やっと見つけたと、クロノスの心は震えた。


初恋の子の名がミスラになったのだと知ったのはそれからすぐのことだ。


後ろ暗いところを僅かでも隠し持っていそうな神界王のジルコンに圧力をかけて、無理やりミスラの婚約者の座を勝ち取った。

ミスラに顔を合わす事もなく。

誰にも奪われる前に捕まえたかった。


独占欲丸出しの俗物的なその行動にルミネスは呆れていたが、クロノス的にはこの手に入れたいと長い間切望し続けていた存在なのだ。


他の誰にも譲れるわけもない。

自らの良心を天秤にかけたなら、99%は悪に傾いていた事だろう。この時の1%の善は、純粋無垢な恋心といったところだ。

通常クロノスは99%の純度で善に傾いている。1%は少しのイタズラ心を持っているところか。

何かに執着することのなかったクロノスを初めて執着させた初恋の子(神)が俗界に堕ちた。


冷静でいる事がクロノスにできるはずもない。



「…ふられた…とか、…言わないで。マジ凹む」

「さっきまでのクールさはどこにいったんだよ。畏怖の王とも言われる冥神界の大神クロノス様よ」

ルミネスがクククと神らしくない下品な笑いをする。根が美形なだけに残念である。

神界や天界、魔界は歪みが一切ないほどに美しいとされている。

…が神界で不正をしているものがいるという噂もあった。

現に、天秤を神界に合わせてみれば、善悪のバランスがギリギリのところを割ろうとしている。

その原因を暴き追求するべく、破壊王と言われ冥神界の唯一神であるクロノスは動こうとしていた。


その矢先に起こった想い人ミスラ(初恋相手)の俗界転落失踪事件なのであった。


「や、ホントに俺の事が嫌すぎて堕ちたって線も…なくもなさすぎて…」

「誰もがビビる。血も涙もない最凶の冥神界の王…だしな…あり得る」

ルミナスがゲラゲラ笑う。見た目の柔和さを裏切る豪快な笑い方だ。


「ヒドっ」

「なら、考えてみろよ。神界に上がっていきなり見知らぬ最凶神に否応なしに婚約者にさせられるってことだぞ?もし、ミスラに誰か想い人がいたらどうする。お前、ミスラが神界きた所。見てただけで自己紹介とかした?」

「ぐっ」

「会いに行ったか?」

もしミスラに誰か既に想い人がいたのだとすれば完全に横恋慕しようとしている悪役そのものである。クロノスがその事実に気付きと項垂れた。

「してない。多分向こうは俺のこと知らなさそう…っていうか知るわけないよね?…話してないし…。それ、俺最悪じゃん」

某時代の俗界の某国に見られるいわゆるセクハラ悪代官のようなものだ。

嫌がる生娘を良いではないかと、寝所に連れ込みお手付きにする…あれだ。

クロノスからしてみれば、もっと純粋で綺麗な感情から婚約を申し込んだのだが、他者から見れば完全にアウトな行動であろう。

クロノスはガクリと肩を落とした。


「自覚があればいい。ま、探すしかないだろ。」

ど正論を口にするルミナスに返す言葉がない。

このままでは部が悪すぎるとばかりにクロノスはコホンと咳払いをした。


「ところで、一応言っとくけど、フツー部下なら、さっきみたいなああいう(襲撃)場面、守らない?黙って見てるとかw」

突っ込んではいても、クロノスは本気でせめているわけでない。口角が上がっている。

「や、お前強すぎだし、無敵すぎて俺の出る幕なんてないだろ」

結構無責任な先輩部下なルミネスはさらに笑いを重ねた。

「笑ってる場合じゃないっしょ…俺が万が一負けたらどうすんの」

「や、負けた事見たことないし。変に動いた方が邪魔になるだろーが」

何なら、世界そのものを壊せる神通力すら持ち合わせているのだから、無敵以外の何のでもないだろうと、ルミナスはつづける。

「ブハっ。極論」

笑った後、クロノスは一瞬表情を曇らせた。瞬きしていたら見逃してしまうくらいの時間で。


ルミナスは違和感を止めるだけで、深くは追求しなかった。

その後、考え事をはじめてしまったのか、心ここに在らずといったクロノスを尻目に、ルミナスはさっさと刺客達の亡骸を神通力で処理する。

「全く、毎回魔界の王も厄介の一言では言いつくせない絶妙な嫌がらせを仕掛けてきやがる」

ルミネスは額に筋を浮かべながら指を立て、くるりと囲う。

その瞬間、魔界からの刺客達はキラキラ光りながら、消えていった。

宴の席を装った刺客達の襲来で荒れた室内をルミナスは手のひらを掲げて元に戻していく。


「確かに、アンデシンの奴は抜け目ない。さすが魔王と言ったところか」

クロノスは仕事の顔に戻って難しい顔をしていた。

天秤をアンデシンに合わせれば、膨大な悪意と少しの善意(ミスラの落下を真っ先に知らせる)のせいで、針は中立を指していて叩き潰したくても叩き潰せない。

絶妙な嫌がらせを毎回仕掛けてくるのだ。俗界だけを弄って教育あそんでいれば良いものを。

冥神界の王のクロノスさえも揶揄い翻弄してくる不遜な輩だ。アンデシンの食えなさに、改めて舌打ちする。

クロノスが苦々しい顔をしているのを傍目に、スマートにルミナスは片付けを終え、装飾を元通りにしていく。

華美ではないが質のいい調度品で揃えられた宮殿が元通りになった。



「ふられたままにしておくわけにはいかないんだろ?」

「言い方ヒド…もちろんそのままにはしておなかいし、とりあえず、神界に挨拶がてら真偽のほどを確かめにいって。探しにいくのはその後だ」

アンデシンに揶揄われている可能性もいなめない。本当にミスラがいなくなったのかどうかを知るのが先決だ。クロノスは、気が急くのを抑え込むのうに、ぎゅっと掌を握りしめた。


「そのままの格好(黒衣装)で神界にいくなよ。あからさまにおかしいから」

冥神界の主のまま、神界に行きそうな勢いを感じてルミナスは的確に釘を刺す。

「…わかってるし」

「や、わかってなかっただろ…絶対」

長い付き合いで、本音がわかるルミナスが全力で突っ込んだ。




《神界》



赤、黒、白、金で彩られた豪華な服を見に纏い、金の装具を身につけた正装姿でクロノスは神界を訪れた。


神界の入り口は、神界の一番低い位の位置にあり多くの神々が常駐している。中神界は、10人余りしかいない中神高位の者とその部下達がいて、そこを通りぬけ、唯一の大神であるジルコンの元へ向かわねばならない。


金髪のルミナスは白に金色をあしらった服を着ていて、神界にひどく馴染んでいるが、クロノスのコントラストの高さは神界では見ない色合いで嫌でも周囲の目が集まってしまう。

神界の門に現れた瞬間。

神の位の女神たちがざわつき始めた。


「美しい…なんて綺麗な方かしら」

「黒髪が素敵だわ〜あれほどかっこよさと綺麗さを兼ね揃えた方を見たことない」

「キャー。カッコいい、素敵」

「誰かしら、ユートピアから新しく精選されてきた人かしら?」


一歩歩くたびに、声が聞こえてくる。

クロノスはといえば、こういってはなんだが外見の良さを自覚しているだけに、黄色い声がどれだけ浴びせられても、凛とした表情を崩す事はない。

媚びてくる女神や神などは、掃いて捨てるほどいて、後を絶たないのだ。

クロノス自身が立場的にも注目を集める事は自覚している。

ここで、笑いかけでもすれば、卒倒する者も出るだろう。

褒められる事も慣れすぎて、クロノスは辟易していた。冷ややかな表情を浮かべた途端に、そこにいた皆が冥神界の王だと分かり蒼白になって平伏した。

「クロノス様だ…」

「ひっ」

周囲の空気が凍りつくのがクロノスにも分かる。

賛辞の声も、媚びた顔も目には入らない不要のものだ。

並んだ神たちの出迎えを受け流し、中神がいる宮に足を踏み入れた。

数十人しかいない中神は、もとルミナスがいたところでもあり、ルミナスは見知った顔を見つけては、軽く会釈をしていく。

流石に中神に位置する神達はミーハーな態度では迎えない。クロノスだと一瞬で認識する霊力の高さも持っているものばかりだ。

大道の両端に控え、ほとんどのもの達が軽く頭を下げている。

その中で、赤色と青色の衣服を着た神達だけが、クロノスに目もくれず取っ組み合いの喧嘩をしている。

クロノスの姿も目に入っていないようだ。

皆が注目し、道に並び迎え入れている中で、異質な存在で思わずクロノスも視線をやってしまう。

すると、道の両端に控えていた神達が慌てて、赤と青の神の仲裁に入り、2人の頭を下げさせた。

不承不承感が滲み出ている赤色の中神と、平然と笑顔でこちらに非を詫びるしたたかな青色の中神の対比がおもしろいと、内心でクロノスは笑った。

クロノスの容姿に驚かない、彼らもまた中々な容貌をしている。

吊り目気味に整った赤い中神と、垂れ目気味に整った青い中神が対象的でおもしろい。

さすがルミナスと同位の中神なだけはある。

そう思いながら、中神宮を抜け、ジルコンのみがいる大神宮に足を向けた。



「これはこれは、クロノス殿、久方ぶりですな」

何事も起こってはいないという態度で大神界の王であるジルコンはクロノスを迎え入れた。

ルミナスは中神宮で待機する事にしたようだ。


クロノスは軽く一礼し、王室に一歩を踏み入れる。


クロノスへの礼儀をわきまえているようで、ジルコンは、クロノスを上座に通すと、一歩低い位置にその身を置いた。

「それで、今日ここにおいでになったのは、どういった御用向きですか」

ジルコンは柔らかな声でクロノスに尋ねる。

表情は穏やかで、人の上に立つ者らしい余裕をみせていた。

亜麻色のフワフワした髪が肩甲骨あたりで揺れる。

「我が婚約者殿の顔を拝見したいと思ってな」

クロノスが伝えれば、ジルコンは深々と頭を下げた。

「申し訳ごさいません。今ミスラはやんごとなき理由で宮を離れております」

声が僅かに震えたのをクロノスは見逃さなかった。

「行き先は?」

「任務のため、それ以上はお許しください」

理由を言えないのだと、ジルコンはひれ伏す。

嘘を言えば、天秤でわかってしまう事をジルコンは知っているのだろう。

当たり障りのない言葉で煙に撒こうとしているのがクロノスにもありありとわかった。


「せっかく、ここまでいらして下さったのに、このまま帰しては申し訳がありません。今宵は女神達を呼び盛大に宴を開いてもてなさせてくださいませ。あなた様の侍女になりたいと訴えてくる者も多いので、気に入った者がいればぜひ」

「お気遣いに感謝する。我にはもったいないものばかりゆえ、気持ちだけ頂こう。本日は急いでおりますゆえ」

クロノスは、視線を下にやり形ばかりの感謝の意を告げその場から立ち去った。

中神宮で待っていたルミナスがクロノスの不機嫌さに気付いて、内心で苦笑いを浮かべる。

2人の時ならば罵詈雑言を言っていそうな顔だというのに、表面上は波風一つ立っていないかのような涼しい顔をしている。

女神だけでなく男神までもが、クロノスの凛々しさにため息をついている始末だ。

「…アンデシンの言っている事は真実だ。俗界にいくぞ」

神界から出た瞬間、クロノスが眉間に皺を寄せた。









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【俗界(人間界)】




《天地創造をされてまだ間もない頃の

これはまだ、神と天使と悪魔と人間が分けられたばかりの頃の話をしよう》


城壁越しに説法をしている神官の声が聞こえてくる。

なぜだか異様に騒がしい。

静かに聴けんのかと呆れつつ、占い師風の黒衣の主が眉間に皺を寄せた。

ローブを被っているので、顔はしっかり見えず、怪しい事この上ない。


《神界の最上神ジルコンもが口を噤み、俗界の人々にはその存在を隠しているが、最強にして最恐、最凶と言われる神が存在している事を。

その最恐神の名をクロノスという。

神界、天界、俗界、魔界…世界の全てを壊す権限を持つ、全知全能の裁きの神と言われている。

俗界では、いないものとされている最強神だ。

神は皆、神界に身を置くが、その神だけはそこには身をおかず、冥神界に身を置いている。

そして、現在この世界以外の神界、天界、魔界、名神界の全てが揺れに揺れている》


神官たちが集まり、神主の話を深妙に聞いているのを神殿の扉の前で、占い師風の黒衣の主は、腕を組んで溜め息をついた。

よく見てもいない世界を信じようと思うものだ。

信心深いことだ。

本来このような説法に興味などはない。



この少し前。

町外れの占い師に呼び止められた。元々着ていた服と引き換えに、運勢を占ってやろうと持ちかけられそれに応じてなければ今頃は違う場所にいたに違いない。



「そこのにいさん、今困ってるだろう?なんなら占ってしんぜようか?」

確かにその時困っていたので、話を聞いてみる事にした。

その占い師曰く、神殿に行けば道が開けるとの事だったので、信じて今ここに来たまでの事だ。


占い師の着ていた黒いローブに身を纏い、自らが着ていた白い衣服を渡した。その時は手っ取り早く金が欲しかったから渡に船だと思った。

服を交換し占いの帷幕を出た瞬間、果物屋台の老婆に苦言を呈された。


「お前さんは馬鹿なのかい?金が欲しいなら、インチキ占いなんぞに服を渡さずに、さっきまで着ていた服を古着屋か質屋に売れば良かったのに。今頃占い師はウハウハだろうさね」

お前さんはあの占い師にていよく騙されたのだと伝えられる。

「だが、彼は身共が困っている事をみごと言い当てた」

「…身共。今時、俺でも僕でもなく自分の事をそう呼ぶなんて。坊ちゃんか?しかも世間に疎いところを見ると、人が周りにいなかったんじゃないかい?占いの帷幕に目をやるやつで困ってる事がないやつなんざいないよ」

ケラケラと笑われてしまった。

「ほう、なるほど奥深いな」

亀の甲羅より年の功か。

武器の小刀はまだ身につけているから、最悪武力行使の手段が残っている。よって追い剥ぎをされる心配はないだろう。服もローブを脱げばシンプルな黒衣なので問題はない。例え騙されたのだとしても何か道は開けるかもしれないと、仕方なく神殿前の城壁に来たのが今というわけだ。

黒衣があまり神殿にそぐわないのか、通り行くヒトの視線が痛い。

扉の前にいるものの、説法中はその扉が開かれることはないのでひと息をついた。

と、その時神殿内にざわつきが生まれる。



《何千年来の光を放つ神様が、この世に逃げ込まれた。各界が血眼になってその神を探している。

我らにも命がおりているから、城に行き軍師達に(急遽特別捜索隊を結成するよう)伝令をだしてくれ》


語気が強めに発せられた言葉の後、城壁の扉が勢いよく開け放たれたのだ。

そこに居合わせた、占い師風の迷い人がその扉の餌食になった。


「っ!!!!」


扉に押し寄せていた人のせいで、占い師風の黒衣の主はしたたかに地面に頭や全身を打ち付けられた。


「大丈夫か??悪い。そんなところ(扉の前)に立っているとは思わなくってよ…」

18.9歳の小麦色の肌の神官はカイレンと名乗った。そんな場所に立っている方が悪いとばかりに、つっけんどんに言い放った。

「大丈夫ですか?起きられますか?」

もう一人の小柄な神官は、ハルと名乗り、その名に見合う春のような柔らかい雰囲気の優しげな性格が顔に表れていて、いかにも神官といった風合いだ。


カイレンに体を起こされた。頭が少しフラフラするものの、大きな怪我はなさそうだ。何かを探していたと言うことは微かに覚えている。その金がなくてどうしたものかと困り、占い師と衣服を交換した。

そこで占って貰った結果ここにいる。


…ただ。


頭を打つ前と打った直後では、異なる点がいくつかある。


(神殿の前で、なんで黒衣なんだよっていうか、占い師?怪しすぎね?)

小麦色の肌の神官カイレンは、怪我の様子を見極めつつ、真ん中で分けられた短髪の青みがかった黒髪の間から、鋭さを隠しもせず、攻撃的な瞳で覗いてくる。


(すごい音がしたけれど、怪我は大丈夫だろうか)

やや小柄で中肉で丸みがある体から天界に属する天使がいたらきっこのような外見だろうと、10人が10人言いそうな感じだ。人の良さが顔に出ているハルというこの神官はオロオロとしながら、コマネズミのように歩いている。


それぞれの心の声が直接脳内に響いてきている。明らかな異常事態であった。


「む…??」


実際かけられた声と同時に重なるようにそれは心に直接入ってくる。

そちらに耳を澄ましてしまうと、かなりの範囲まで聞こえてきてしまう事がわかった。

煩わしくなって、意識を切れば、心の声は聞こえなくする事ができるらしい。

打ち所が悪かったのか?その者達の心の声までが伝わってきている事に困惑した。あまり表情が出る方ではないので、神兵達には動揺は伝わってはいないようだ。


まあ、意識的に心の声を遮断する事が出来るのであれば、便利であれこそあれ、さほどの問題はないだろう。

不幸中の幸い…といったところか。

起き上がる際に頭にかかったローブのフードがパサリと肩に落ちる。

プラチナ色の髪がハラリと現れた。

腰まで届くか届かないかの長さの不揃いの髪が風に靡く。

やわらかさとしなやかさを兼ねた髪が光を受けてキラキラと輝いた。

黒衣から覗くその落差に、神兵達の目が見開かれる。

そこにいる神官たちは息を呑んだ。


(なんたる美形だ…身なりの妖しさもあいまって…これは…切れ長の涼やかな瞳、整った鼻梁。同性であっても目が離せねぇ。そこはかとない色気もありやがる)

小麦色の神官カイレンは、もはや魔界の妖だと疑っているようだ。


(綺麗な人だ。妖かな。それにしても長身痩躯で頭も小さくて、うわぁ。羨ましいなぁ。僕もこう生まれていたらな。さぞ女性にモテるだろうに…って、いけない。邪念邪念)

全面的に好意的な印象をハルは持ってくれているのが見てとれた。


神官達の怪しんでいる心の声が筒抜けに聞こえる。

完全に疑われているではないか。

占い師風の黒衣の主は慌ててフードを被り直して顔を隠した。

疑われてもやもなしな格好ではあるのも自覚はしている。

ただお金がなくて、金が稼げる所を探していただけなのだ。


だが、心の声が聞こえてきてしまうこと以前に、何よりも1番の問題がある。



占い師風の黒衣の主は、眉ひとつ動かさず、仏頂面で平然と告げた。

「気遣いに感謝する。身共の体に障りはない。ただ…どうやら、身共自身の事がわからない…らしい」




「え!!!!」


(今、なんと?口調の平然さとは裏腹にものすごいことを言わなかったか?記憶がない…だと?その顔で言う事か?普通もっと動揺して、蒼白になってるもんじゃねーのかよ)

カイレンは引き攣り笑いを顔に浮かべている。

(冷静さがカッコいいなぁ。でもどうしよう。僕らのせいだ)

一方のハルは天然なのか、うっとり記憶を失った黒衣のものに見惚れた後で、ことの重大さに気付いたらしい。


占い師風の黒衣の主の言葉に、神兵達は一様に驚き、それぞれが思ったことを心の中に飲み込んだ。


ぶつかった拍子に打ち所が悪かったのか、記憶を失くしてしまったらしいと告げられて、神官達は予期せぬ事態にどうしたものかと頭を悩ませた。

正確には頭を悩ませているのは天使のようなハルの1人で、小麦色のカイレンは懐疑的で、そんなことより任務優先しようぜ…急がなくちゃならねーんだろうがよ、と言った態度であったが。


放っておくという答えは、神に仕える身としては、あってはならないことらしい。

これが上司に伝われば叱責されることは確実で、どうしたものかと2人の中で話し合いが行われる。


軍師に一刻も早く伝令をしなくてはならないことに焦った2人は、小麦色のカイレンが伝令に行くこととなり、緩い印象のハルが面倒を見る役に決まったようだ。

ハルは神殿の城壁内にある医務室に占い師風の黒衣の主を連れて行く。



記憶喪失だと診断され、行く所と名前を失ってしまった占い師の格好をした者に、仮の名前をつけ、思い出すまで神殿で過ごす事になった。


ハルは責任を感じているらしく使命感から「ミコト」と占い師の格好をした者に仮の名前をつけた。


「ミコト…か。悪くないな」

あまり身長が高くないらしいハルは嬉しそうにはしゃいだ。

ミコトの目線の位置に栗色のくせ毛の頭がぴょんぴょんと揺れた。

ずいぶん人が良いらしい。

「僕の部屋の寝台が一つ空いておりますので、よろしければ…」

(迷惑でなければいいのだけど…僕は、動きがもたもたしているし、ぼーっとしたところがあるから厭われるかもしれない)

「部屋はどこだ?」

ミコトがぶっきらぼうに聞けば、嬉しそうにハルは、早く来てとばかりにミコトの袖の端を引っ張った。

「ミコト殿は綺麗っていうかかっこいいですよね。良いな、憧れます。」

(良いなぁ、身長高くて。大変な中だというのに、常に動じる事なく泰然自若としていて)

ハルという男。教養はありそうでいて裏表がない。空気的にお花が舞っているような能天気な男だ。

ミコトは、好意を全面に出してくる裏表のないハルという神官に警戒を解いた。


神殿を囲うように、神官の寝所が作られているらしい。神兵として使われている武人達は神殿の左側、神官達は右側といったように住み分けられているとの事だ。

部屋には、個人風呂、厠、手水、簡素な台所など(風呂、トイレ、洗面所、キッチン)が完備されている。

ハルは神官でもそれなりの役職なのだろう。廊下を歩いている時にチラリとミコトの目に入った寝所は10人が寝られるような場所で、風呂も厠も手水も共用だった。

そう考えたら、あの占い師もまんざらインチキではなかったのかもしれない。

当分寝る食いに困る事はなさそうだ。


案内された部屋の片方の寝所の端に占い師と交換した上着をぬぐと、唯一の私物と言ってもいい小刀を上着に巻き付けるようにして片付けた。

ただでさえ妖か何かだと疑われてしまったのだ。これは明るすぎる髪にも原因があるかもしれない。

そう考えたミコトは、訳を話しハルに染め粉を用意してもらう事にした。



「ねぇねぇミコト殿」

「ミコトでいい」

「ミコト…はさ不安になったりしないのですか?自分は誰なのかとか」

「思い出せぬものはいたしかたない。そして何もわからぬということは不安のタネを持ちようもない。あのまま放置されていれば、いささか困った事にはなったかもしれぬがな」

「確かに」

「幸いハルたちが救ってくれたので、不安のタネは生まれることはなかったようだ」

迷いなく告げると、ハルはふわりと笑った後、地べたに転げ回った。

(うー刺さった。ミコトの言動全てがツボの真ん中に入るんだけど。萌えに萌えすぎる、もう推す、推しまくるって決めた)


ハルの心の中は賑やかで、しかもミコトには何かの咒かと理解できないような言葉が羅列されていた。

ただ、ミコトの感謝の意は充分に伝わっているらしい。

ミコトは洗面所に顔を下げ、染毛するための液をハルに渡した。

「それにしても勿体無い。綺麗な髪色なのにわざわざ染めなくても…」

(もったいない、もったいないよ〜、綺麗な金糸のような髪なのに)

ハルの褒め言葉と髪を惜しむ言葉が永遠に続きそうなので、ミコトは心の声を遮断した。


「目立たぬ方が、そなたの負担にはなるまい」

「ミコトぉ」

ハルはしぶしぶ、染め粉をミコトの髪に塗りつけていった。



「美形はどんな髪色も似合っちゃうんですねー」

(黒髪も似合う〜。何より髪が傷まなくて良かった。漆黒の髪のいで立ちもまた絵になるー。禁欲的で研ぎ澄まされたようなスンとした雰囲気を身を纏い、占い師の黒衣を纏っていても凛としていて、禁欲を強いられている男の僕でさえ目のやり場に困る)


キョロキョロと心の中の声と同期するように、目を踊らせていたハルが思いついたかのように、櫛と紐を持ってミコトの元に戻ってくる。

椅子に座って、というハルの促しに、言われるままに腰掛ければ、ハルはミコトの髪を結い始める。


(そのままにしておくよりは、神官たちも惑わされない。うん、きっと。僕だから良いようなものの、本能的なカイレンとかなんて本当に危険。神官のくせに飲む打つ買うで男女見境ないんだから)

長めの髪の神官達が結い上げているようにミコトの髪を結いあげていく。

「失礼しますね。僕の髪は癖っ毛なので、ずっと短いままなのですが、一度結ってみたかったのです」

「…」

されるがままのミコトはだまって好きにさせていた。不思議と不快感はない。

元来人と距離が近すぎるのを記憶を失う前の自分は好きではなかったのではないかと思う。

占いの所にいた屋台の老婆にも人が近くにいなかったのだろうと言われたばかりだった。


ハルに髪を結われている間、手持ち無沙汰だったので、ミコトはぼんやり視線を窓の外に向けた。

中庭では何やら、武官のような男たちが鍛錬をしているようだ。

鍛錬している武官の中でも抜きん出て強い者がいる。


速さ技術、体感、全ての能力が高いらしい。

周囲のものが教えをこうように頭を下げ、挑みかかっては地に伏す結果に終わっていく。


(強いなあの男)


長身でどちらかといえば痩躯な方だが身のこなしに無駄がない。長い髪を振り回しながら不適な笑みを浮かべている。

窓枠に頬杖をついて、髪が結い終わるのを待つ。

結いあげるには、若干、顔周りの長さが足りず、前髪や横髪の短い部分がハラリと頬にかかり風に靡いた。

艶やかな黒髪は一本一本が細くしなやかだ。

後れ毛までもが美しい顔に彩りを添えている。


「絵になるなぁ。出来ましたよ。次は服ですね!僕ので大丈夫かな。確か少し長めで履けないものがあったはず」

個室が与えられているくらいの地位であるはずなのに、ハルはセカセカと召使いのように世話を焼いてくれる。

渡された衣類を部屋の中の風呂場の脱衣所に置かれ、ミコトをそこに促す。

先ほど扉によって転倒させてしまい、汚れたからというハルなりの配慮であろう。

ミコトは、ハルの勢いに押されるがまま脱衣所に足を向けた。



「似合いますっ!僕はズボンの丈が長くて履けなかったというのにピッタリです。同じ服とは思えない」

全身鏡の前に連れて行かれて見てみれば、ミコトの前には見知らぬ黒髪の神官が出来上がっていた。

「いつもなら、ここで食事を作って食べたりもしているのですが、今日は時間もないので、皆が食べる食堂の方にいきましょう。道すがら、案内も兼ねますね」

「承知した」



エンタシスの柱と横断アーチ状の天井で構成されたアーケードを歩きながらハルに促されるまま食堂へ向かう。

すれ違う神官が頭を下げていくところを見ると、見かけと言動とは裏腹に仕事は出来るのだろう。


ミコトが柱と柱の間から中庭に視線をやれば、中庭では武官達が指導へのお礼の様相で一人の男に頭を下げていた。

武官達は汗まみれ、砂まみれの状態なのに対し、上官であろうその男は、汗一つかいてなく、塵一つもついてはあない。

頭を下げられる立場にいた者を凝視すれば、先ほど見た剣術のやたら強かった長身の黒髪の男だった。


ミコトがその場で立ち止まった事に気付いたハルが駆け寄って、ミコトの視線の先を追う。


「ああ、あのやたら強いのは武術指南役のエニシという男でして。色々と逸話を持っている本当にお強い方です。この街に蔓延っていた横暴な大男とその子分達を瞬殺し、武術指南役として招かれた方です」

「詳しいな」

ミコトが感心すると、ハルは更に続けた。

「神殿外の街の人達からも人気で、女性などは、一目会いたさに、お参りに来る者も多いのです」

「かもしれぬな」

顔も整っていて、腕も立ち、人当たりも良いらしい。稽古相手の武官達を笑顔で労っている。


「明日行われる神殿からの特別任務で急遽編成される事になった部隊への登用試験があるのですが、部隊の隊長として既に参加が決まっている方です」

「…特別任務…か」

ミコトは顎に手かけて考え込む。


「秘密裏に動かなくてはならないので、詳しくは申し上げられないのですが、とある姫の捜索部隊になります」

(結構危険にさらされるのが考えられるから、一般公募ではあるけれど、集まる猛者がどれくらいいるんだろ…妖とかを相手にしなくてはならない可能性があるだなんて言えない)

ミコトはハルの心の声を聞いて、ふむと頷いた。


「ほう。それに参加すれば、報奨は得られるのか?」

「そ、それは部隊に選ばれれば、精鋭部隊なので、充分な報酬は得られるとは思うのですが」

「なるほど。あい分かった」

「だめですよ?ミコトは。頭を打ったばかりなんですから」

(お金なら、僕が貢ぐのにぃ。もう推し活しまくるから。うん。こう見えて結構貯めてるんだからね。料理とうまいものにしかお金の使い道なかったから。や、もう貢がせてください。危険なことに首を突っ込もうとしないでーっ!!!!!)

明らかにミコトが興味津々であることがわかってしまう。

表情には出にくく今でも、全く顔色は変えていないというのに、ミコトが明らかにその事(明日行われる精鋭選抜試験)に意識が持っていかれているのがわかってしまう。

ミコトの一点の視線を見つめる強さであろうか。そこに意志の強さが秘められている。表情には全く出ていないというのに。

「ミコト。ほらほらご飯の時間ですから行きますよ」

ミコトの背を押しながら、食堂に足を向けさせる。

「あ、ああ」

「何食べます?美味しいもの、たくさんありますよ?この神殿の食事はビュッフェ形式なので沢山食べてくださいね」

(オススメは、小麦で作られたパンにシチューをつけて食べることだけど。うーん、甘いものも良いなぁ。タルトとかムースとか。ミコトは何を好んで食べるんだろ。喜ぶ顔が見たいなぁ)

騒がしいハルの心の声に、思わずミコトは表情を緩めた。

「ハルは食する事が好きなのだな。身共も食する事は嫌いではない」



神官と神殿を警備する武官も共同で食事をとっているらしく、食堂は食事をとる人でごった返していた。

ミコトが見るかぎり男しかいない。

筋肉隆々の男や、鍛え抜かれた大男から、青白く外に出ていない事があきらかにわかるような風が吹けば飛びそうな者、ふくよかに肉がつき、腹が丸い明らかに運動不足という者まで様々である。 


ハルの話だと、神殿の内庭で生活する者たちは男性に限られているという話だ。

神殿の壁の外には別棟があり、数少ない下女たちは、通いで料理、掃除などをする為に通っているらしい。


コの字に配置された神官、武官達が暮らす内庭と拝殿宮の片面は外庭と一般に解放されている。

神殿への参拝に男女の制限はないが、参拝の場所は神殿の外庭側と決まっているのだ。

神に仕える者たちの戒律は厳しく、敷地内では清廉でいなくてはならないとの事で、何かの間違いが起こってはいけないので、女性の生活空間を共有していないのだとハルから説明される。


食堂は広く、テーブルがずらりと並んでいた。

壁側を料理がグルりと囲んでいる。

育ちの良さそうな者(神官多)とそうでない者(武官多)が入り混ざってカオスだ。

ハルがキョロキョロと空いている席を探している。


「…あ、カイレンが、また揉めてる」

(もう!いつもいつも席の取り合いで武官の方たちと喧嘩になるんだからっ)


「ああ、先ほどいた男のことか」

たしか小麦色の肌の血気盛んな男だ。ハルの視線の先を追いかければ、案の定、小麦色の肌の青みのある髪の男が、大柄な武官と揉めている。

中背と言われる6尺前後のミコトから見て、小麦色の肌のカイレンは1.2寸大きかった筈だ。揉めている男は更にそこから4寸は大きい。



「あぁ?なんで食ってる俺がどかなきゃなんねーんだよ」

「こちとら、てめぇらヒョロヒョロの神官達を守ってやろうと思って、鍛錬してやってるんだろうが。今日はエニシ様(師範)自ら、手合わせしてくれたから、さらにすり減ってんだ。怪我しないうちにドケ」

周囲にいた神官たちは、ざっと蜘蛛の子を散らすように、大男から距離を取った。

カイレンは、スッと目を細めてニヤりと片頬をあげ、おおよそ神官とは思えないような人の悪そうな顔をする。


(喧嘩はダメだ)

ハルの心の声がミコトに響いた。

その瞬間、少し先にいたハルが歩み寄る。

それの半歩後ろにミコトも続いた。


「カイレン」

ハルの静止の声に、カイレンは肩をすくめる。

(あー、くそ。面倒なのがきやがった)

ハルに了解の意を示すようにカイレンは片手を挙げた。


「あ?で、その稽古の結果、そんな埃まみれになってるんだ。相当お強いこって」

カイレンが高笑いとともに痛烈な嫌味を放つ。


どうやら、大男の苛立ちの原因に触れてしまったらしい。稽古場、武官達の前で醜態を晒し、その恥辱に耐えられず、八つ当たり同然で喧嘩を打ったのだ。

あえて神官でイキの良さそうなカイレンを席から退かしてやることで皆の前で威厳を示したかったのだろう。


「なんだと?我ら武官に守られなければ身も守れない神官ヤローが、組隊長である吾輩を愚弄するか」

青筋を額に浮かべ、大男が吠えた。


(なんでこうなるかなぁ。…カイレンも穏便に)

ハルが顔を手で覆う。

ミコトは、静かにことの成り行きを眺めている。


「ブハッ。笑わせやがる。俺ならそんな砂埃まみれにはならねぇよ」

カイレンの下品で乱暴な物言いにハルは眉間を抑える。

「…ああぁ」

(そんなこといってしまったら、火に油を注ぐようなものだ。カイレン〜)


「…カイレンという者は、よほど自信があるらしい」

ミコトはカイレンという男の体を上から下まで眺めポツリと口を開いた。

見る限り、神官というには余りある筋肉を持っているようだ。

相手の力量も測って煽っているような口調だった。

大惨事にはなるまいとミコトは口をつぐんで様子を見る。


「んだとコラぁ。表にでやがれ」

怒りを露わにし、大男が吠えた。

「残念だな。喧嘩は禁止されている。あいにく俺は神官だ。喧嘩を買うのは上等だが、上司が目の前にいるんだ」

チラリとハルを見て、カイレンは残念とばかりに両肩をくいっと持ち上げる。


ハルはコクコクと大きく頷く。

苛立ちを発散しきれず、怒りのやり場を失った大男は、目標を切り替える。八つ当たりとばかりに、大男は水が入ったままのガラスの器を机から取ると、それを力任せにハルに投げつけた。


「!!!!」


なんてことをするのだと、周囲が騒然とする。

ハルもガラスが投げられた衝撃に備え、腕を頭の前に翳して衝撃に備えた。下手をしたら水を被って打撲するだけではなく、ガラスが割れれば破片までが刺さるかもしれないのだ。


「っ!……?」


いつまでも訪れない衝撃に、ハルが恐る恐る目をひらけば、いつのまにかハルの前にいたミコトが、水一滴こぼすことなくガラスを受け止めていた。


何もなかったようにミコトが無表情で近くの机に器を置けば、その瞬間そこにいた者達から歓声が上がる。


受け止められた衝撃に、大男は顔を引き攣らせた。

喧嘩を買おうとしていたカイレンも大きく目を見開いている。

(なん…だと?…割らずに、しかも…水も溢さず?…誰だコイツは…見たことない顔だ。無駄に整った顔して…平然としてやがる。新入か?)


髪の色が変わっていることで、ミコトが先ほどドアでぶつかった黒衣のものだと思わなかったらしい。

案外単純な男だなと呆れながらミコトは、観衆の歓声に応えることなくハルの後ろに戻った。

(かっこいい。かっこいい。かっこいい〜)

ハルの心の声がうるさすぎたので、ミコトは心の声が入ってくることを意識的に遮断する。心の声は基本余程のことがない限りは遮断しておこうと決めた。


「なぁ、こうしねぇ?」

カイレンが大男に持ちかける。

「あん?」

「腕相撲をして、お前が勝ったらこの場所を譲ってやるぜ?これなら、問題ないよな?ハル」

ハルは大きく頷いた。


喧嘩という物騒な空気から、組隊長である武官の大男と神官の腕相撲大会に変質させれば、周囲は興味津々で2人のやりとりを見ようと集まってくる。


「どちらが勝つだろう」

ハラハラした眼差しの神官たち。

「1番隊の組長とやり合うやしいぞ?」

「あの武官最強と言われている組長か!」

「明日の精鋭部隊の試験も、組長代表として受けるらしい」

「あの神官、腕を折られるのではないか?」

武官達が囃し立てる。


食器を机から移動させ、向かい合わせに二人が座る。衣服の袖を巻き上げ互いが手をがっしり掴んだ。

大男もカイレンも机に肘を置き、互いに睨み合っている。

ハルが2人の手を持ち、離した瞬間が開始の合図だ。

ジリジリと肌に刺さるような緊張感が食堂に漂っている。


開始の合図直前。

カイレンは大男から目を離した。

どうにも、ハルの傍らに立つミコトが気になってしまったからだ。

あれほど静かに、まるで手渡しで渡されたとでもいうように、力任せに投げられた水入りのガラスの器を受け止められるものなのか。

どれだけの身体能力なのか。

カイレンの視線や思考がミコトに向かってしまっている間に、ハルが手を離し対戦が始まってしまう。


その瞬間、怒声とも気合いとも言えぬ奇声が大男から発せられ、力を入れていないカイレンの腕が相手陣地側3寸(9cm)という位置まで、一瞬で追いやられてしまう。


「出遅れたな…バカめ、そこの席は俺のものだな」

大男が言えば、カイレンはとくに慌てる様子もなく、手首に力を入れ、それを受け止める。

「む??」

腕に青筋を立てた大男が体重をかけて押し込もうとしても、それ以上はびくともしない。


「カイレン、耐えろー」

「腕の太さが違いすぎる」

「腕を折られなければ良いが」

神官達からは悲鳴があがる。

「組長の圧勝だな」

「組長、武官の強さを思い知らせてやれ」

武官達は上司の勝ちを確信しつつ、声援なのかヤジなのかわからないような激励の言葉を投げつけた。

観客と化した神官や武官が騒ぎ立てている。


「どうなっちゃうんだろ。カイレンは大丈夫かなぁ」

オロオロとしているハルに向かって、ミコトは静かに口を開いた。


「心配する方が逆だ」

「え?ミコト?」

隣に立つミコトの顔を仰ぎ見る。


皆が大男の勝利を確信している中、ミコトだけが違うと言っている。

押されているのはカイレンのはずだ。

あと大男に一押しされれば、カイレンは負けてしまう状況で何を根拠に、という視線を向ける。


「カイレンという男の様子を見てみるがいい。最初の衝撃を難なく受け止め、なお涼しい顔をしている」

「あ…ほんとだ」

ハルがカイレンの様子をまじまじと見れば、確かにカイレンに焦った様子はなかった。

それどころか、大男が力を入れ続けているのを揶揄うかのように、うっすら笑みすら浮かべている。


「それくらいか?お前の力は…」

「ぐぬぬぬぬ」

煽られ、大男の顔は怒りで真っ赤になる。

どれだけ力を入れても鋼の城壁に押し付けているようで、これ以上びくともしない。

「そろそろ、こちらも本気だして良いか?」

不敵にカイレンが笑う。

その直後、二の腕に筋が出たと思った瞬間、破壊音があたりに鳴り響いた。


「!!!!!!」


周囲はあんぐりと目を見開き、その場に凍りついている。

あまりの事に状況の把握が出来ないでいるのだ。

腕を押さえ、転がっている大男と、そこにあるのは、かつて机であった木片。

大男の腕を叩き付けた拍子に机まで破壊してしまったようだ。


「俺の勝ちで良いよな?」

カイレンは大男の無事な方の手を持って、軽々と起こす。

「ぐっ」

「なんなら逆の手で再戦してもいいが?」

カイレンの煽りに、大男はグッと無事な方の手を握りしめた。明日の精鋭部隊試験を前に、両の手を使えなくするわけにもいかない。


「てめぇも出るのか?明日の試験」

1番隊の隊長を名乗る大男は憎々しげに舌打ちした。

「は、当然だし?」

カイレンは、手首をクルクル回して片眉をあげる。

「神官のくせに生意気な」

大男の負け惜しみに、カイレンはフンと鼻を鳴らした。

「その神官にお前は負けたんだが?」

馬鹿にしたような顔でカイレンはニヤっと口角をあげる。

「腕相撲では負けたが、明日の試験は剣術だ。てめぇをぶち殺してやるから覚悟しとけ」

それだけを言い置いて、ヨロヨロにかりながら大男は、食堂から姿を消した。



ドヤ顔のカイレンが仁王立ちしているところに、ヒクヒク顔を引き攣らせたハルが笑顔で声をかける。


「カイレン…言っていいかな」

珍しくハルの声が震えている。顔は笑顔のままなのが恐ろしい。


「な、なんだよ」

我に帰ったカイレンが一瞬で気まずそうな顔に戻る。


「君は馬鹿なの?脳筋なの?壊してしまったら、場所を譲るも譲らないもないだろ?」

本来、カイレンが座っていた机や食べかけの料理、割れた皿たちが床に散乱してしまっている。

「だってよー。喧嘩売ってきたのは向こうじゃねーか…俺は買っただけだし」

「居直らないで」

普段温厚だと言われている柔和なハルの静かな怒りは迫力がある。

「ぐっ」

「ここの破損代は給料から引いておくからね」

ニッコリと天使のような顔でハルは言い放つ。

「えそんな。綺麗なお姉ちゃん(妓楼)に逢いに行く金が…」

まるで叱られている犬のようにしなだれるカイレンが面白すぎて、周囲からクスクスと笑い声が起きる。

「自業自得だよ」

ハルがいえば、絶対的な上司命令にカイレンはガクりと項垂れた。

「当然、片付けはしてください」

「ちっ、やればいいんだろーが」

ヤケクソでカイレンは掃除道具を持ってくる。



「あーくそっ、大体お前が悪い」

カイレンは木片を片付けながら、掃除を手伝っているミコトにイチャモンをつける。割れた皿を片付けているハルがピクリと手を止めた。

「なんで、ミコトが悪いんですか」

ハルがイラっとした口調で返す。

「ミコトっていうのかお前…新入か?」

「…そんなところだ」

雑巾で床を拭いている手を止めることなく、ミコトはそっけなく返した。


「ミコトに責任はないよ」

ミコト推しを宣言しているハルはクワっとカイレンに威嚇する。

「こいつ(ミコト)に目をやってた時に、ハルが始めたのが、そもそも力加減が出来なくなった原因なんだからよ。責任取りやがれ」

妓楼にいけなくなった腹いせに、ちょいと揶揄ってやろうとカイレンは、床の拭き掃除をしているミコトの尻に目をやった。

撫でてやろうと悪戯心で不埒な手を伸ばした、その瞬間。

ミコトはすくっと立ち上がり、バケツの水に雑巾をつけた。

わざとなのかたまたまなのか、カイレンは目をパチリとあける。


隣の机にかかった汚れを拭きに移動したミコトの首筋をなぞろうと手を伸ばせば、ミコトの頭がくいっと起こされ、机と手を挟んでしまう。


「痛って」

不意をつかれたカイレンが挟まれた手をさする。

「…いたのか。申し訳ない」

淡々としたものいいに、申し訳なさのかけらも感じず、カイレンは口を尖らせる。


「ミコト。お前絶対悪いと思ってないだろ」

「…」

蜚蠊をみるような目でミコトに睨まれる。己の不埒を見透かされているようで、カイレンはムキになった。


「くっそ。あーいてぇ。責任取れよなー。あーもう、妓楼にもいけねぇし、代わりに慰めろって。明日(精鋭部隊選抜)試験だっていうのに」

「…」

ミコトが蛆虫でも見るような視線でカイレンを見た。

「ミコトてめぇは無表情なくせに、軽蔑してるのがバレバレなんだよ」

「カイレン…自業自得だよ。僕の目には明らかに君が悪いように見えるけど??」

神官で不埒な行いをしようとしたらだけでも充分な大罪だ。という目でカイレンを睨みつける。

カイレンは潮時かと、両手をあげて降参した。


その時である。

ミコトの手が、カイレンの手をそっと取る。

(な、な、な、な、な、なんだ?…え…は?急に慰めてくれる気になったってのか?…っーか、何、何なのこの状況。無駄に長い睫毛が伏せられて、妖艶というより清廉で目が離せない)

女どころか男の扱いまで慣れている筈のカイレンがドキドキしてしまっている。


「…平気そうだな。外傷はないようだ」

無表情で淡々と告げられ、ミコトは踵を返した。

浮き名を鳴らしたカイレンは振り回す側、弄ぶ側であれど、ここまで振り回されたのは、初めてだった。

元来負けず嫌いのこの男は、いつか見ていろとばかりに、ミコトの背中を睨みつけた。


「君が神殿の外で何をしようが咎める気はないけど、ミコトに何かしたら許さないよ。僕の大切な客人だ」

「ぐっ」

図星をつかれて、カイレンは口をつぐむ。

ハルという男は、高位の神官のくせに、身は小さく丸みを帯びた体型は神殿の壁画にある子供の姿をした天使をそのまま成長させたようだ。

性格も朗らかで人望もある。運動神経のとろさはいかんともしがたいが、仕事は早く的確で周囲からの評判も良い。

現に、カイレンを神官として登用してくれたのもハルの後押しがあったからだ。後押しがなければ、カイレンの素行の悪さで神官などなれるはずもなかっただろう。

反対する神官を尻目に、ハルは強いということは、神官…我々をも守る力があるということではないですかと啖呵を切った。

素行の悪さは神官になったからといって治るはずもなく、不良神官など、用心棒神官などと、嫉妬をした武官たちから呼ばれているほどだ。

たがハルには恩を受けているので、カイレン的にはどうにも強く出られないのである。


なんだかんだといっても、ハルもミコトも片付けを手伝ってくれていたのだ。

ぱっと見回してみれば、机があった筈の場所の一角がこつぜんと消えたくらいにしか見えないほど、あらかた片付けが終わっていた。

掃除道具を倉庫に戻しに行くカイレンが、食堂の奥で、食事をし始めたハルとミコトを目の端に捉える。

大皿にこれでもかというほど盛り付け、何皿もが席の周りを飾っているのだ。

とても2人で食べる量ではない。

食べる事が好きだとハルが言っていたことは噂で聞いているが、実際目にしたのは初めてだった。

丸くなる筈だとカイレンは呆れ返える。

そして、小皿にとっては、嬉々としてミコトに食べさせてウットリとその様子を見ている様は異様で仕方がない。

ハルは一応、神官の中でも上の位に位置している。そんなハルがミコトの世話をデレデレになりながらしている様子が異様だ。

ハルは誰にでも優しく如才ないが、誰彼問わずに自分から構いにいくタイプではなかった。

カイレンがハルの変わりように、やや引きしながら、周りを見渡せば周囲もその違和感に気付いたのであろう。怪訝な顔をしていた。

何よりも、周囲からの注目をものともせず、ピンと背筋を伸ばし、恐縮するでもなく、当たり前に皿を受け取っているミコトの態度も合点がいかない。

普通ならば、かなり偉い立場の人間にそんな事はさせる筈がないのだ。

恐縮するなり、遠慮したりするくらいはする。

傲慢不遜を絵に描いたようだと言われているカイレンでさえ、ハルには多少の遠慮があるのだ。


ミコトの顔が無駄に整っている事がさらに気に入らない。そのくせ笑いもしない、媚びることもせず、威丈高としているようにも見えてくる。

百歩譲って良く言えば、ある意味生まれたばかりの赤子のように無知で無垢なのかと揶揄してやりたくなるほどにこの世のことわりが分かっていないようだ。

まあ、実際ミコトは記憶喪失で、社会のルールや常識などが分かっていないのだから、その反応も仕方がない事なのだが。


基本的に人に興味のないカイレンは、人を覚える事が苦手で、髪色を変えたミコトが、扉でぶつかって転倒させてしまった占い師風の男(被害者)だと結びついていないのだから、仕方がない事だ。


それでも、何故かカイレンの意識の端に引っかかってくる。

ミコトの事がイラっとして、どうにも気に入らない。

何にムカついているのかわからないまま、カイレンは箒とバケツを持ちながら食堂を後にした。




「ミコト」

「なんだ?」

二つ並んだ寝台に向き合うように座りながら、ハルは目をキラキラさせた。

「えへへ。誰かと一緒の部屋に寝るのは初めてだから嬉しくて」

いつのまにか敬語が消え、心の声と同じ話し方になっているハルが微笑ましい。

「そうか」

ミコトも不思議と穏やかな気持ちになった。

「あ、ごめんなさい。つい友達のように話してしまった」

敬語が消えてしまった事に気づいたハルが口を覆う。

「皆からハル様と呼ばれていた。高官なら丁寧な言葉を身共に使う必要はない」

「あ、うん。高官っていっても運が良かっただけなんだ。僕としては、平で共同部屋の方が楽しそうだな…って思ってたんだけど…ね」

運悪く(運良く)神官の登用試験で高得点を出しすぎただけなのだとハルは苦笑した。物覚えが得意なのだとハルは続ける。

結果2人部屋を与えられたのだが、その点数まで出せる者が誰も出てこず、個室状態だとハルは部屋の中をぐるりと見回す。


「なるほど、ならば身共は運が良かったというわけだ」

ミコトが言えば、ハルはくにゃっと顔を緩めた。


(運が良かったって言ってくれるのー!僕と同じ部屋で…嬉しいって…いってくれてるんだ…あー、もうサラリと刺さることをいってくれるんだから、もう。なんだろう…誰にも懐かない猫が振り向いてくれているような…)


「わからないよ?もし僕に衆道の趣味があって、今でも君を寝台に押し付けるかもしれないよ?」


大人っぽい色っぽい顔をハルが作ろうとしている事がおかしすぎたのか、僅かにミコトの口角が上がる。

それを見たハルは、ポカンとした後、顔が真っ赤になった。

(はじめて、笑っ…た)

笑うと、さらに魅力的になる。衆道の趣味などこれっぽっちもないハルでさえ、クラっとしてしまう。


それ以上に何故か、庇護欲の方が上回っているので、そういった感情は生まれないものの、ミコトには不思議な魅力があった。

「ダメダメ。ミコトは笑ったらダメだからね!特にさっきのカイレンとかの前でなんて絶ーっ対ダメ。下半身が服着て歩いてるような男だから」

「記憶しておこう」

すぐ忘れてしまう記憶だが…とミコトが呟く。

「ミコトって面白いね。」

「そうか?…はじめて言われた」

ミコトは至って真面目な顔で答える。

「まあ、そうだよね?」

記憶喪失なのだから、はじめて、というのはあたりまえの話だとハルが声を上げて笑う。

「…なるほど」

ミコトは一本取られたとばかりに頷いた。



「…ミコトはさ、明日の精鋭部隊選抜試験…受けるつもりなの?」

隣の寝台に腰掛けながらハルが尋ねる。

「その精鋭部隊は姫探しのために結成されるものなのだろう?」

ここにいる武官たちではダメなのかとミコトが問うた。

「ここの神殿は、防護結界が張られている上に、色々なリキを持っている神官もいるから、呪いのような悪いものに脅かされることもなく穏やかに過ごしていられる。でも、神殿の外に出れば、単なる野盗や山賊、詐欺師みたいな悪者だけでなくで…悪魔みたいな人ではないものとも対峙しなくてはならなくなる…命の保証がないんだよ」

「…なるほど」

ハルの必死さに、ミコトは小さく頷いた。

「だから、ミコトには試験、受けて欲しくなくて…まだ記憶も戻ってないし…全快しているわけでもないから」

ハルの目が雄弁に参加して欲しくないと訴えている。

「…」

「…だから、その」

ハルがもじもじと言い籠る。神官としてではなく、一ひとりの人間として、試験を受けて欲しくないのだ。

食堂で、ガラスのコップを受け止めた身のこなしからいって、ミコトが武術に長けてそうな事がハルにも分かった。記憶がない状態で、無意識に体が動いたという事だ。

ミコトが武官に意識を向けていた事にも気付いていた。

もしかしたら記憶を失う前は、何かの武道家だったのかもしれない。

きっとミコトは明日の試験を受ける気なのだろう。ハルはミコトを止める権利などない。


(でも、やだやだやだ。だいたいミコトの綺麗な顔に傷でもついたら…。無理ぃ〜。…っていうか、そもそもダメだろう。この顔で戦場のような物騒な場所に行ったら、猛り狂った男どもの激情の捌け口にぃ〜。ダメだダメだ。不埒な妄想などミコトに失礼極まりないっ!!…でも、たださ。ミコトが危ない目に遭うのは絶対やなんだっ。僕が開いた扉のせいで、ミコトか倒れた時には心臓がヒヤリとしたというのに)



「善処しよう」

ハルの心配の声が心からも実際の声としても、表情からも訴えかけられていて、その暖かさにミコトは目をそっと伏せた。

布団に入ったミコトは、心配されるというのはいいものだな…と思いながら瞼を閉じる。

深く息を吐き出せば眠気は自然と訪れ、懐かしい気持ちになりながら瞼を閉じた。



ミコトの意識が深く深く沈んでいく。



これは、夢…だろうか。

漠然と、ミコトは雲を手に掴むような、おぼろげな感覚に意識が包まれる。客観的に大道芸などを見せられている観客の立場のようだ。


子供の頃であろうミコトがボロボロになった服のまま、川辺に座り膝を抱えていた。

虐められたのか、何か乱暴されそうになったのかは観ている立場のミコトの判断出来なかったが、ただ何かごとがあったことだけは見てとれた。

子供の表情が沈んでいる。

そこに、1人の双剣を背中に背負った明朗快活そうや少年が、幼い頃のミコトらしい子供に駆け寄った。


「大丈夫か?全くひでぇ先生もいたもんだ。くそ胸糞悪い腹立つ。あのヤロー(先生)だいたい胡散臭いと思ったんだ。お前見る目がいやらしくて。注意してて良かった。でも…なんであんな事に…」

膝に手をつき、男の子が幼いミコトの顔を覗き込んだ。

「…試験に必要な武器を…先生のいう事を聞けばくれると言ったのだ…」

「あのヤロー。逆恨みもほどほどしい。授業の打ち合いで、あの野郎お前に打ち負かされたからって、お前の武器叩き折るなんて」

少年は、地団駄を踏んで怒り狂った。

どうやら、幼い頃のミコトの友達かなにかといった感じだ。

「…てっきり、授業の手伝いでもするのかと思った…」

「…ありえない。あの野郎本気でぶっ潰してやる」


男の子と幼いミコト話のだいたいを聞いてみるとあらかたの事情がミコトにも理解できた。

学舎で剣技の試験が近いというのに、幼いミコトにだけ、剣技の教師が武器を渡さなかったらしい。それに困った幼いミコトが先生の毒牙にかかろうというところを、男の子が助けたようだ。


「1ヶ月後の試験…出られそうにない。すまない。対決を楽しみにしていてくれたというのに」

「…馬鹿いうなよ。校長にかけあえば」

「…恥だ。武を学ぶ者が…」

幼いミコトは試験を受ける事を諦めようとしていた。

「嫌だ、お前出ないと、全然敵いないじゃん?俺、無敵なんだからさ。なんなら、実践で先生すら叩き潰せてきたくらいだし?」

今みたいに、とニカっと自信満々の笑みを見せる。

「…暴君か」

「どうせなら、優等生のお前倒して一番になりたいじゃん」

隣に座った男の子が空を見上げて、双剣の片方を幼いミコトに渡した。

「…な!!!?」

「俺くらいになると、双剣もいらねぇのよ。片方の剣だけで充分だし?やるよ」

幼い頃のミコトが男の子から渡された剣は、飾りも凝っていてとても豪華なものだった。今もミコトが肌身離さず持っている剣だった。





精鋭部隊選抜試験。

神官や武官以外でも参加できる試験なので、試験会場は一般の者が参拝できる側の広場で開催することになった。

参加資格は腕に覚えのある者というだけで、特に決まりはない。

受付で名前を言い番号札を貰って参加するといった簡単なものだ。

得意の武器がある者はそれの使用が認められている。

神殿内なので、死亡させる致命傷を与えてはならないといった簡単なものだ。

精鋭部隊に入るには、ここに集まった者の中で、黒、白色の2班に分けられ、それぞれの班の中で、一番強い者だけが選ばれる。


募集人数2人という狭き門だ。

選ばれれば、報酬が大きく、通常の武官の10倍の給金が約束されていた。

少数精鋭の特別部隊の指揮官の男が皆の前に立って挨拶している。

ミコトは、それを神殿に登る階段に座り、見学者然として腰掛けていた。


前日、ハルに泣きつかれなければ、広場の方で名乗りを上げていただろう。

皆の前に出た指揮官は、背が高く隙のなさそうな雰囲気をかもしだしていた。内面に厳しいものを持っていそうな二十歳そこそこの男だった。

金色の髪をスッキリ耳元で切り揃えてある。

表情はあまり動く方ではないらしく、キリっとした姿勢で一礼した後、挨拶を始めた。


「指揮官のスピネルだ。ここに集まった者は皆猛者ばかりだと思っている。気を抜けば怪我をするので、今一層気を引き締めて挑むように。隊長のエニシが審判にあたる。以降の進行はエニシに一任する。以上」

紹介されたエニシが、一礼する。

エニシと呼ばれた男は、昨日皆に稽古をつけていた師範だった。

真ん中で分けられた黒髪をハーフアップのように結い上げている男だ。結い切れなかった後れ毛が顔にかかっている。長いとも短いともいえないざっくばらんな髪は本人を表しているようだ。

人好きする態度で、挨拶される武漢達に冗談を交えながら笑顔で返している。

だが、腹の底を見せない表面上の態度である事は、昨日の稽古を見ていれば一目瞭然だ。


「えっと、武官の奴らは知ってると思うけど、隊長のエニシだ。多分、次の日動けないやつが続出するだろうけど、ま…実際任務がはじまったら、もっとヤバいことになると思うから、予行演習だと思って頑張ってな。あ、武官(弟子)だからって贔屓はしないから…」

部下たちをぐるりと指差して、ニカっとイタズラっぽく笑う。

その場に張っていた緊張した空気が一気に和んだ。

隊長のエニシという男。

指揮官のスピネルのピシっとした態度とは裏腹にずいぶん緩い。力の抜けた姿勢で、ゆったり後ろでに手を組み、片側に重心を乗せている。

武官の最上位にいる人間にはとても思えないほど、軽いノリだ。まるで妓楼の呼び込みの下男のような口のうまさがある。

目の奥の鋭さすら、ニコリと細めた表情で、上手く隠し込んでいた。


広場に集まっているエントリーしている者達に目を向ければ、ほとんどが野盗崩れか、兵隊くずれのような者、脛に傷持つ身といった者ばかりだ。

この者達が勝ち残ったとして、まともに姫探しなのが出来るのだろうか。

明らかに拐かす側の者が多い気がすると、ミコトは内心でため息をつく。

白の鉢巻を渡された方に、昨日の食堂でカイレンと揉めた大男がいた。斬馬刀を普通の刀の如く持っている。

黒の鉢巻を片手に持っているのは、カイレンだ。何故コチラ側(試験を受ける側)にいない、とばかりにミコトを睨んでいる。

ミコトにしてみれば、興味はあれど、剣術や武術の経験の有無さえ覚えてはいないのだ。

荷物置き場に刀が置いてある事と、今朝方見た夢を合わせれば、おおよそ武道ができぬわけではないとは推察できる。

武官達の鍛錬を無意識に見ていたし、今も観にきてしまった。

かと言ってはカイレンの挑発に易々と乗るわけにはいかぬのだ。

視線を逸らす事なく、ミコトは意思のある眼差しをカイレンに向けた。

ミコトの意思は崩れない。

カイレンは舌打ちをすると、己の武器であろう鉄扇を握りしめた。


「予選は…んー。白と黒に分かれて1組ずつ組んで勝ち上がっていったのを…って、指揮官からは言われてたんだけど、面倒くさいから白は白、黒は黒に分かれて全員で戦っちゃって?それぞれ残ったやつが勝ちって事で!…で良いっすかぁ指揮官様?」

隊長のエニシという男は、よほどの大物なのか、単なる馬鹿なのか。

おちょくるような軽い口調で、指揮官のスピネルを煽るようにお伺いを立てた。

スピネルは眉を一瞬ピクリとさせる。

「ったく勝手な…お前に任せるといったので好きにするが良い」

不機嫌そうな顔はしていても、エニシという男と旧知の仲なのか、指揮官のスピネルは本気で怒ってはいないらしい。


「じゃ遠慮なく」

エニシが挑戦者たちを誘導しにかかる。

心の声を覗いてみようとしても、二人とも隙がないらしくモヤがかかったようになっていて、心の声が響いてこなかった。

その時点で、どれだけ軽口を叩いていても、エニシもスピネルも相当な使い手であると分かる。


エニシの掛け声は的確で、無駄がない。白と黒に用意された陣に、参加者が移動していく。


食堂で揉めていた大男は黒に振り分けられたようだ。カイレンが白に分けられたのだと分かり、すれ違いざまに大きく舌打ちをした。

「命拾いしたなぁ。黒にいたなら速攻でお前を殺しに行ったんだが」

「あぁ?そのままその言葉お前に返してやる」

大男の暴言に苛立ちながら、カイレンはフンと鼻を鳴らした。



「そろそろ始めよっか」

隊長のエニシの緩い号令で、白、黒の陣地それぞれの空気が一瞬で変わった。


「1番隊の組長なら、余裕ですよね」

「まあな、組きっての強者だからな」

隣で見学を決め込んだ非番の武官達がことの成り行きを見守っている。


ミコトは、隣の武官2人を尻目にそう簡単に勝たせては貰えないだろうことを予想していた。

明らかに体の大きい者が狙われやすくなるのは自明の利。

しかも1番隊の組長は、大きく目立つ武器である斬馬刀を持ち込んだ。

武器を買えなかった者たちに配布される武器といえば、使い古した刀の刃先を丸めた代物である。

当然、体の小さな者達で少し頭のキレる者がいれば、結託して明らかに強そうなものから屠っていこうとするだろう。

力だけでは勝ち上がれない。

弱い者は頭を使って姑息に攻める事が容易に想像がつく。

黒の陣の中で、圧倒的な強さを空気から纏っている組長が狙われない筈はない。

腕力や剣術だけでなく、より実践的な駆け引きまでテストに入れているわけだ。

しかも一対一で総当たりすることを思えば、時間短縮も兼ねている。

試験の内容を決めた、隊長で指南役のエニシという男。緩く軽い態度や見た目とは裏腹にできる男だということだ。

ミコトはジっとエニシの開始の号令を見守った。



「はじめ」


エニシの掛け声と共に、一瞬で空気が変わる。

殺気が会場内に漲って、隣の武官たちは固唾を飲んだ。


ミコトは黒い陣地と白い陣地の闘い方を、同時に見守りながら、チラチラと視線を往復させる。

黒い陣地の戦況に先に動きがあった。

案の定、大男の組長が真っ先に標的にされている。

小さい者はその利点を狙い、他者に斬馬刀が振り下ろされた瞬間、素早い動きをする者が間合に入り、脛に一発入れた。

普通の者なら弱点を打たれれば、跪きそのまま一網打尽にするのだが、さすがは組長といったところか。

微動だにせず、1人1人打ち倒していく。1人倒すごとに尻、腰、脇など打ち込まれているが、鍛錬の賜物か姿勢を崩す事はない。

組長の強さは、剣技ではなく。

むしろ筋肉で覆われた体からくる防御力の高さか。

こういう強さもあるのだなとミコトは内心で頷いた。


背筋を伸ばし、力むことなく状況を観ているミコトに見学している武官たちが気付く。

(やたら美しい顔だな)

(新しく入った神官かな。恐ろしく整った顔をしている。武術観戦など似合わなさそうなのに)

不躾な視線と心の声に気付かない体で、ミコトは試合に集中する。


「意外だな…ここまで、打ち込まれる組長見たことないよな」

「大丈夫かな」

「エニシ様以外に膝をつかされた事ないって言ってたけど」

「あと、5人か…」


この武官たちは、本当に稽古をしているのだろうか。

ミコトは内心でため息をついた。

黒の陣地に残っている5人には、既に戦う気力はない。

ガタイは良いものばかりが残ってはいて、一見良い勝負をしそうな雰囲気はあるものの、士気が下がっている。

間合いの取り方が、大男の気合に推されてジリジリと後退しているのが見て取れた。

試合開始は50人ほどいた猛者たちが、着実に消えていき、何度打ち込んでも微動だにしない組長に恐怖すら覚えていそうだ。

結果は見ずとも分かりきった事。

ミコトは小さく息を吐き、黒の陣の勝者を確信し、視線を白の陣に移動させた。

白の陣は、結託して誰かを倒すという方向ではなく、目先の強そうな者同士が対峙する正攻法をとっている。


血気盛んなカイレンのこと。

売られた喧嘩だけでなく、喧嘩の押し売りをしそうな性分なのだろうと思っていたミコトの予想を大きく裏切っていた。


カイレンという男。

好戦的に挑みかかっていくかと思っていたのだが、意外にも陣の端で、壁の花を決め込んでいる。


鉄扇で自らを扇ぎ、皆の勝負がつくのを楽しんでいるらしい。

殺気を全く出していないため、同じ受験者だと気付かない者が多いらしく、カイレンに勝負を挑む者自体が少なかった。

時折、血迷って挑みかかってくるものは、ゆるりと躱して陣の線ギリギリで体制を崩したところをカイレンは狙い、尻を軽く叩いて押し出している。


あからさまな武器を持っていないことも手伝って、圧倒的に標的にされる事がない。

受験者のくせに神官の服装をしている事も功を奏している。

ワザとやっているのだとしたら、カイレンという男。

ただの直情的、感情的な男ではないらしい。

案外脳筋ではないのかとミコトが視線をカイレンに定める。

気を抜いている時は心の声が聞こえたというのに、今は全く隙を見せないのか読めない。


昨日の腕相撲で机を壊すほどの男だ。膨大に体力を蓄えている事は容易に想像できる。

闘争心を出さず、様子見に徹している事で、白の陣地の副審判か何かだと勘違いしているようだ。

皆が倒し合いをし、息遣いが荒くなっている中、1人涼しい顔をしている。

陣内の人数が片手を割った瞬間、喧騒の方に走り出した。

その速さは目にも止まらぬといった表現が相応しいだろう。

混戦に1人が増えたことに気付いていない。

そして、流れるように無駄のない動きで、あっという間に鉄扇一つで片付けていった。

1人残った時は汗一つかいていない。

エニシが白の陣の勝者の勝ち名乗りをあげる。


「君…カイレン君だっけ。強いね」

エニシが軽い口調とは裏腹に鋭い目をカイレンに向けた。

「カイレンで大丈夫です」

「よろしくな。長い付き合いになりそうだ」

ニヤっとエニシが人の悪い顔で笑う。


その様子を見ていた黒の陣の組長も勝ち名乗りをあげた。

「ヒヤヒヤしたよ。お前が残ってくれなきゃ教えてた俺(師匠)の面子丸潰れだったじゃん」

厳しめの目を一瞬した後、エニシはケラケラと笑い始めた。


「じゃ、この2人で決定って事で…」

「ちょっと待った」

カイレンが、エニシの言葉を遮るように割って入る。


「エニシ様。実はこの大男と昨日食堂で揉めまして」

慇懃無礼なほどの下手さでカイレンが申し出る。この男、敬語など話せぬと思っていたが、流暢に話す事も可能らしい。

ミコトは意外な一面だと感心する。

「ああ、部下から聞いてる。机壊したんだって?」

「未熟者でお恥ずかしながら、力加減をミスりまして」

カイレンが不敵に笑う。

「で?どうしたい?」

楽しい事は大好きだとばかりにエニシの瞳が輝いている。

指揮官のスピネルはソレを見て、額を抑えた。

どうもエニシという隊長(武官達の師匠)はイタズラ好きらしい。


「この大男と決着をつけたいと思いまして」

「なるほど…カイレンはこう言ってるけどどうする?」

組長にエニシが聞けば、組長は望むところだと気色ばった。

「ただし。やるからには負けた方は失格になるからそのつもりで。自分の強さも判断つかねぇような…負けるようなやつなんていらねぇから」

凄んで見せた時の一瞬含んだ怒気の強さに、すでに敗退した周囲の者含めミコトを除く全員が息を呑んだ。


カイレンが、黒い陣に移動してエニシに合図を促す。

「あ、いいよ。いつでも」

ヒラヒラと手を振って成り行きを見守る。


「てめぇ…今日こそはぶっ殺す」

大男の言葉に、エニシからの注意が飛ぶ。

「本当に殺したら、お前も殺すからなぁ」

殺さずが試験のルールだからと念を押すエニシが放った殺気に黒の大男は怯んだ。

「はいっ」

エニシの言葉に背筋を伸ばして一礼する組長にカイレンが吹き出す。

「ざまぁない」

「うるせぇ。お前がこなきゃコチラからいくぞ」

斬馬刀をぐるぐると回す。

一撃でも喰らったら、打ち所が悪ければ本当に死ぬであろう。

鉄扇をパタリと閉じて、カイレンが眼を光らせる。

その瞬間、一瞬だけ大男の奥にいるミコトと目があった気がした。

ニヤりと悪そうな顔で笑ったカイレンは、走り込みながら流れるように斬馬刀の一撃を躱す。

そのまま急所に回転することで威力を増した蹴りを入れ、一発で組長は地面に崩れ落ちた。


ただ、勢いで手が滑った体で、ミコト目掛けてカイレンはわざと鉄扇を投げ付けていたのだ。



エニシが観客席を見て青褪める。

一般人や神官の格好をした者を巻き込む訳にはいかない。

慌てて向かうも、エニシとは反対側に座るミコトの所に間に合う筈もなかった。

「そこの2人なんとかしろ」

エニシが足を止め叫ぶ。

命令されたミコトの隣に座っている2人は身動きも出来ず、迫り来る鉄扇の行方を見守ることしかできなかった。


ただでさえ机を大破させるほどの怪力を持ったカイレンが投げた鉄扇だ。

ついている速度もそうだが、鉄扇など真正面から受けたら無事ではいられない。

何か軌道をそらすようなものを…とオロオロするも、2人の部下は何もできなかった。


皆が、その先に想像される悲惨な光景に眼を瞑った。

目撃していたのは、投げたカイレンと、ことの成り行きを見守るエニシとスピネルくらいのものだ。


ミコトは仕方がないとばかりに、襲いくる鉄扇をパシっと受け止めた。



いとも簡単に。



「ちっ」

カイレンが舌打ちをする。

階段を降りて、ミコトがカイレンに鉄扇を戻しにきた。



「え、なになに、どゆこと?なんで取れんの?こんなに綺麗な美人さんが…」

驚いたエニシが場にそぐわない軽薄な事をいう。

外見についてあれこれ言われる事に少々辟易してきていたミコトは、ムっとした顔でエニシを一瞥すると押し付けるようにカイレンに鉄扇を手渡した。


「身共だから良かったものの。…外れたらどうする気だったのだ」

諌めるような声音でカイレンを諭す。

「俺が手を滑らすわけないだろ?」

カイレンがワザとだと言わんばかりにニヤリと笑った。


その傍で様子を伺っていたエニシが目をまん丸にする。


「身共…ぶは」

堅苦しい一人称に、エニシが思わず吹き出す。


ミコトは一瞬で眉間に皺を寄せた。外見を揶揄うだけでなく、話し方にまでケチをつけてくるか。

どこまでも癪に触る。明らかに舐め腐っているのが分かる上に、エニシという男はそれを隠そうともしていなかった。

顔には全くだしてはいないが、ミコトの苛立ちがみるみる高まっていく。


「…ワザとならなお悪い。いい迷惑だ」

「まあ俺が鉄扇を外したとしても周りにはエニシ様の部下しかいなかっただろうが。ま、万が一にも外さねーけど」

カイレンの開き直った台詞にエニシが割って入る。

「何々知り合いなの?君名前は?」

「…ミコト」

言いたくなさそうな顔を崩さない。

この軽薄な男、無性に殴ってやりたい。

カイレンも挑発的で乱暴な男ではあるが、ここまでミコトの神経を逆撫でるような物言いはしない。

幼児を相手にするかのようなエニシの舐めた言い方がどうにも気に入らなかった。

ミコトは無表情で拳を握りしめた。


「ところでさ、ウチの部下落ちてて、1人枠が空いてるわけよ。カイレン?どうしてくれんの?」

エニシが昏倒している組長に視線を向けカイレンに話をふれば、カイレンはミコトを指差した。

「この者はどうかと」

「何を言っている」

ミコトがカイレンの言葉に被せるように物申す。


「こいつ以外の適任はいないと思うぜ…あ、いや思います」

カイレンという男。一応最低限の礼儀は知っているらしい。


「身共は、この試合に申し込みはしていない。それに武器も持参はしていない」

だから戦う気はないのだとエニシに伝える。


「でもさ、カイレンはミコトと戦いたいかもしれないけど、どちらか負けたら欠員出ちゃうんだよね」

「ならば、エニシ様が直に戦って、腕のほどを見られてみては?」

カイレンが今まで、高みの見物をしていたエニシを挑発する。


「その前に、なんならカイレン、お前と俺が戦ってみて、実力テストをしてみても良いよ?」

エニシは剣を片手にしつつ不敵に笑った。

「いえいえ、エニシ様が相手だと分かっていたら、この武器では相手になりませんから…ご辞退申し上げる」

カイレンは当然というように辞退の意を告げる。


「ちぇ…挑発に乗ってくれるかと思ったのに…ま、お前がそれだけ強いって事は分かった。で…ミコト。君は俺とヤってみるかい?」


「…だから、そもそも参加の意思はないと…」

ミコトがこれ以上いうことはないとばかりにくるりと踵を返せば、後ろからエニシの優しげな声がした。何故こいつのセリフはいちいち卑猥さを含んでいるのだろう。

外見差別も甚だしい。


「怖い?やなら勿論やらなくて良いよ。君の顔を傷つけるのも忍びない。好みなんだ。君が女性なら試合でなく結婚を申し込んでるかも」

わかりやすい挑発に言葉も出ない。

カイレンの敵意剥き出しの挑発的な態度も腹立たしいがいっそさっぱりしてるとも言えるが、エニシの労わるような、圧倒的な強者感に反発心がうまれてくる。


「…」


頭にハルのやめてくれという声が響く。


「腕試ししてみない?勝ち負けじゃなく技量だけ見せてくれれば良いから」

明らかに馬鹿にされているとわかる台詞だ。

ミコトはいい加減我慢の限界だった。

カイレンにはお前というのにミコトにはキミという言葉を使ってきた。無意識の事だろうから、エニシもタチが悪い。


理性ではもう1人のミコトがやめておけというのに、ミコトはわかりやすい挑発だと分かっていても乗らずにはいられなかった。


すっと、武器を所望する手を差し出す。

すると、エニシは差し出した手をギュっと握ってきたのだ。


「武器だ。武器…武器をよこせといっている」

「あ、乗り気になってくれた?大丈夫優しくスルから」

どこまでも卑猥な雰囲気を醸し出す。

下品な男だ。

エニシに対する印象は昨日とは180度変わっている。


昨日の稽古を見ていた時は、凄く強い武人だと尊敬すらしていたのに。

ミコトは、渡された剣を持つと、エニシも同じ剣に持ち替えた。

そういうところも一々ミコトの癪に触る。

エニシの腰に差している愛刀があるのだから、そのまま使えば良いものを、明らかに子供を相手にしているような態度だ。


だが。

エニシの正面に立ってみてわかる。


隙がない。


周囲360度、どこからどの速度で攻めても、打ち替えられる姿が浮かぶ。


集中が頂点に達したのか、切ってあった周囲の心の声が響いてくる。


ほとんどが、ミコトに対する同情の声だ。

参加する意思もないのに引き摺り出され、一番強いと噂される人物と対峙させられている。

そんな声が入ってきた。

どうせならと、エニシの心の中を覗き込むように耳を傾ける。


あきらかに油断しているのか、はたまたミコトの集中力が研ぎ澄まされて、エニシの集中を上回ったからか、先ほどまで全く聞こえなかったエニシの心の声が聞こえてきた。



(この待ち方…構え方……隙がない)

エニシの心の声はミコトを分析している。スカした顔を崩さない割に、心の中は酷く鋭く冷静だ。


(…ミコトは…間違いなく…強い…このままやめるか?)

エニシの心が揺れ始めている。


ならばとミコトは踏み込む準備をする為に剣を構え直した。左手の小指が無意識に少し浮く。

(え?…な、まさか…そんな…)


明らかにエニシが狼狽するのが分かった。

仕掛けるならば今しかない。


周囲360度は、動揺していてもエニシの実力であれば反応するだろう。


ならば。


エニシの動揺が解けぬその隙に、ミコトはかいひゅっと風のように宙を舞いくるりと舞い降り、エニシの肩に剣の乗せた。


エニシはきょとんと眼を見開いている。

(…思わず、見惚れた。…俺が、負ける…だと?馬鹿な)


数秒の後、我に帰ったエニシがミコトを凝視した。


試合に負け、不合格した者やミコトのような観客達がその試合の結末に溜息をつく。

静寂ののち、打ち合わせることもなく終わったからだ。


「ミコト、君。本当に強いね。負けたのなんて久しぶりだ」

あっけらかんとした、サバサバした物言いだが、エニシの心の中が掻き乱れているのが伝わってくる。


「…いえ」

自然に入ってきた不可抗力とはいえ、心を読むなどという狡い手を使ってしまったのだ。

エニシに勝って当然だと、ミコトは恥入る気持ちでいっぱいだった。

これを勝ったとしてはいけない。

そうミコト自身戒める。


記憶がないせいか、心が乱されることはほとんどない。ましてムキになることなどないというのに、エニシの挑発に簡単に乗りムキになってしまったのだ。


まだまだ修行が足りないな…と思い始める。


待て、とミコトは自問自答する。そもそもミコトに少し前の記憶など持ち合わせてはいない筈だ。


性格すら把握できていなかった。

だが、今剣を打ち合った事で、少しだけ以前の性格を思い出すことができた気がする。


「…身共が勝ったとは思っておりませんので。今回のは手合わせということで頼みたい」

「気ぃ使ってくれてありがとな。ミコト、本当に強くてびっくりした。舐めてかかった罰だわ」

エニシが今度は悪意なくニパっと太陽のように笑った。

挑発をしたのはエニシだというのに、ミコトの方が悪い気がしてきてしまう。

エニシという男、苦手だとミコトは心に留めた。



「やべぇ、本当に強かったんだな。良かった喧嘩売らなくて」

カイレンが無邪気に肩に巻きついてくる。どうやら、カイレンとしては出来る事を隠している(ように見えた)ミコトを舞台に登らせたかっただけで他意はなかったらしい。


「…喧嘩は充分売っていたぞ?」

買わなかっただけで。

内心でそう思いながら、ミコトは溜め息をついた。


「じゃあ、2人の合格者はミコトとカイレンって事で届け出しておくからな」

さっぱりした顔でエニシが2人に声をかけて去ろうとする。


「…ハルが…」

なんと言うだろう。先か思いやられる。嘆く姿が簡単にミコトにも想像できて、ミコトは天を仰いだ。




「ミコトぉぉぉ」

(あれほど言ったのに〜)


その日の夜。


案の定、ハルの機嫌は大荒れだった。

ハルの個室の床に正座し、ミコトは静かに頭を下げた。約束を違えてしまったのだ。

全面的にミコトが謝るべきであろう。


「すまない」

膝に手を置いて頭を下げるだけでは足りなかっただろうか。

深々と床に手をついて土下座の姿勢でミコトはお詫びしようとする。

あわてて、ハルはそれを止めた。


「や、スピネルから大体の報告は受けてるから事情はわかってる。ミコトが被害者なのも知ってる。問題はあのカイレンだ」

(ミコトに鉄扇投げたなんて許せないっ!!カイレンの苦手な事務作業、ここにいる間は全部回してやるんだから)


「…だからといって、挑発に易々と乗った身共も悪いのだ」

反省の意を口にすれば、ハルは唇を尖らせた。


「確かに、強すぎるミコトも悪い」

(最強と言われるエニシにも勝ったというんだもん。相当だよ。っていうか見たかった。絶対かっこよかったもん。報告でしか聞けなかったなんて…なんでこんな日に仕事が入ってるのか納得いかなさすぎる)

ハルはジタジタと地団駄を踏んだ。



「…ハル、本当にすまない。ここにいる間は、手伝いでも何でも言いつけてくれ」

あまり表情には出ていないがミコトが明らかにシュンとしているのを見てハルの方が申し訳なくなってくる。

そもそも、ミコトを縛る力などハルにはないというのに、願いを聞き届けてくれようとしていただけでも、ハルとしては感動ものなのだ。


「じゃあ、今晩は僕の手料理食べてよ。残したら許さないから」

「それは身共への罰にはならぬと思うのだが…」

「じゃあ、今日はミコトが勝ったお祝いってことで良いじゃない」

(やっぱ、ミコト…いい子すぎる。仏頂面で表情には出てないけど、素直で可愛いっ)


そして、申し訳なく思ったミコトが手伝いと称して運んでいた皿を割り、飲み物をこぼした時点で、ハルからの寝台への待機命令が出たのは言うまでもない。






「…それにしても。まさか、お前が負けるとは思わなかった」

スピネルが与えられた個室に戻るや否や、今でも信じられないといった表情で、エニシに伝える。

指揮官(上司)であるスピネルの顔に泥を塗るような結果になってしまった事を責めるかとおもえば、そうではなく。

隊長(部下)であり、皆の師でもあるエニシが余興とはいえ、一本取られたと言う事実にスピネルは心底驚いていた。


「や、負けたわ」

エニシは頭をガシガシ掻きながら、シニカルな笑みを浮かべている。

上司のスピネルに負けた事を詫びるわけでもなく、エニシは悪びれもせずに言い放つ。

結構あっけらかんとした物言いだ。


「その割にショックじゃなさそうに見えるが」

「まあ…ね。新鮮でさ」

エニシはニコニコ笑顔で、いっそ機嫌が良さそうでもある。


「負けるのが?お前…負けず嫌いじゃなかったか?」

意外そうにスピネルが、指揮官候な堅苦しい上着を脱ぎ、壁にかけながら振り向いた。

「負けた事なんかほとんどなかったからなぁ…まあ、よそごと考えた隙をつかれたのは事実だし…」

エニシは、苦笑いを浮かべる。

「おエニシに限って、相手と対峙してる時に、よそごと…だと?」

「珍しいっしょ。反省は部屋に帰ってじっくりするさ。旅支度もしなきゃならないし」

ヒラヒラと手を振ってエニシはスピネルの部屋を後にする。


生意気な部下を嗜めるでもなく、スピネルは大きくため息をついた。

スピネルの仕事も膨大で、書類がたくさん机に置かれている。

指揮官であるスピネルは、行方不明の姫にまつわる情報や、それに絡んでいるかもしれない事件や噂などの情報を一枚一枚吟味し、どこに行くかまでを決定せねばならないのだ。

姫が見つかるのも見つからないのも、指揮官であるスピネルの采配にかかっているといっても過言ではない。

無表情で何を考えているかわからない、狂ったような強さのミコトと、あきらかに問題児候なカイレンと、隊長でもあるのに自由奔放なエニシの3人を纏めながら任務が遂行できるか、スピネルには自信が全くなかった。

気苦労ばかりになりそうな予感しかしなくて、スピネルは書類を片手に持ちながら頭を抱え込んだ。



一方、エニシはといえば。

スピネルの部屋を出た途端。


笑顔だった表情が、一瞬にして苦いものになる。

勝負中によそごとなど考えたことは今まで一度もない。


ミコトとの対戦は一瞬の油断が招いた敗北だった。

ミコトの構えた時の小指を曲げる癖がエニシを迷わせたのだ。


自室に戻るや否や、上着も着たまま行儀悪くゴロリと寝台に寝そべった。

負けた理由など、心の弱さからきていると、エニシにもいたいほどわかっている。


エニシには、どうしても忘れられない親友であり、片思いの相手がいた。

その子の剣を持つ時の癖に、ミコトの構えが酷似していたのだ。

エニシを唯一負かした事のある、その子とは、その試合後はそれぞれの事情で離れ離れになり、交流がなくなってしまった。


エニシは寝台から身を起こすと、荷物の中から、どこに行くにも持ち歩いている、大切な剣を取り出した。双剣の片割れであるその剣はとても造りが凝っていて、装飾の施された剣の持ち手には宝石が飾られている。


エニシは大切そうにそれを優しく撫でた。

初めてエニシを敗北させた、その子が目の前の刀の片割れを持っている。

双剣だった片方をその子にあげたからだ。

その子にとって不要なものなら、もう捨てて新しいものに変えてしまっているかもしれない。


だが、もしまだ持っていてくれたらその子を探す手掛かりにもなる。

そう思うと手放すことができず、ずっと持ち歩いてしまっていた。

エニシは我ながら女々しいと自嘲する。

男であるミコトの構えが似ていたからと動揺して敗北してしまうとは、いよいよ拗らせていて末期だ。


過去は過去だ。

どれだけ囚われているのだと、エニシは己を戒めた。

今は、姫探しが最優先事項だと、エニシは自分自身に言い聞かせるように、そっとその刀を、封印するかのように剣を荷物の中に仕舞い込んだ。





「ゔゔゔ。ミコトぉ」


姫様捜索隊(選抜精鋭部隊)が結成され、神殿を出て、特別任務である姫の捜索に入る事が決定して、数日。

ハルは、ミコトを見るたびに出発の日を指折り数えては、涙目になっている。

仕事の時間になれば、ハルもあきらめて、後ろ髪を引かれながら、部屋まで迎えに来た部下に引きずられながら泣く泣く出勤していっているものの、暇を見つけては、中庭で鍛錬しているミコトの元へかけよっては、部下に引きずられていく、という行動を繰り返していた。

2日もすれば、ハルのミコト贔屓は神殿内の誰もが知ることになる。

とはいえ、ハルとて神官の上官で仕事は多く、日々忙殺されているのだ。

普段の事務的な作業の統括者でもあるので、上がってきた書類には目を通さなければならない。

その仕事に加え、天界から言い渡された姫捜索のために特別編成された部隊に纏わる、色々な手続きのためにハルは奔走していた。

隣国への通行手形の発行などの手続き、為替の手配など。それぞれを担っている各執務室に右往左往していた。

それでもハルは鍛錬に時間を費やす事に決めたミコトを見つけては、駆け寄り、旅立つ日にちを指折り数えては目を潤ませている。

「ミコトぉ、神殿の外に一歩出たら危険がいーっぱいなんだよ」

「ああ」

刃先を丸めた試験時に使っていた剣を鞘におさめて、ミコトはハルを促しながら日陰に移動した。


中庭で、同じように鍛錬している武官達が残念なものを見るような目で、見ていたからだ。

「悪い人や騙して売り飛ばそうとする人や、イカサマで身ぐるみ剥がれたりする人がたくさんいるんだからね」


ハルの言葉に、ミコトはフムと顎に手を当てる。

騙して売り飛ばそうとする人も騙して身ぐるみ剥ぐ人も全て悪い人の中に入るのではないだろうか。

そのような事を言おうものなら、ハルがいじけてしまう事は傍目にも明らかなので、ミコトはあえて突っ込む事はしない。


何より、最後の騙されて身ぐるみを剥がされるというものは、既に経験済みなのだ。


そんな事を教えようものならば、ハルの権限で、部隊から外されてしまいそうだ。

何もせず鍛錬だけしている日々より、何かの役に立っている方が良いと考えるミコトにしてみれば、藪を突いて蛇が出るような真似は回避すべき事だった。


「ミコト聞いてる?ただでさえ隣の街では、美女がさらわれてる事件が勃発しているんだから、気をつけるんだよ?!」

「…あまり身共に関係がある案件だとは思わぬが、ハルが心配してくれていることは重々承知した」



「なあ、知ってるか?癒される存在であった温厚なハル様がミコトにへばりついて離れない残念なやつになってしまったって神官達から嘆かれてるぜ?」

鍛錬が終わったカイレンが、剣を携えて、二人の元を通りかかり、面白い事になっていやがるとばかりに足をとめた。

「カイレン。君一言も二言も多いよ。だって、誰かに騙されたり、××なことされたりしないかって、ミコトが心配なんだ」

「愛娘のオヤジか何かか」

末期だなとばかりにカイレンが眉間に皺を寄せる。

ミコトがいくら美しくとも、か弱い女ではないのだ。


「だーって、こんなに綺麗でかっこよくて…性格が可愛くて、誰もが放っておく筈がないじゃないか」

あんなことされたら、こんなことになったらと、結構アウトなラインのことまで言い始めるハルの様子に、カイレンが両手をあげて降参する。


「なぁ、なんかお前、忘れてねぇーか?コイツ(ミコト)は虫も殺さないような涼しげな風体に見えて鬼神の如き、オカシな強さだぜ?」

「…む、涼しげな…って、カイレン自体がもう危険人物じゃないか」

ピクピクと耳を引き攣らせ、ハルはカイレンを睨みつけた。


「きな臭い噂ばかりが入ってくるんだ。カイレン、旅に出たら死んでもミコトを守るんだよ」

「…だからコイツは守られるようなタマではねぇって」

ハルの過保護さに軽い眩暈を覚えながらカイレンは剣を脇に差したのち、頭の上で腕を組んだ。


「だって、さっきミコトにも言ったけど、隣の街では美人が連れ去られる事件が勃発してるんだってば」

「へぇ、美人がねぇ」

(攫われたとこに行けば、美女がいっぱいってことか)

カイレンが悪い事を考えている顔をしている。

蚊帳の外で二人のやりとりを見ていたミコトが口を初めて開いた。


「…カイレン。不埒な事を考えるのではないぞ?お前、今その娘達を横から掻っ攫えばなどと思ってはいないだろうな?」


「や…そ、そ、そ、そんなわけねーだろうが。ただ助けてやらないとな…って思っただけだ。そこに探している姫様がいないとも限らないしな」

苦し紛れに口走った言い訳に、ハルが神妙な顔をする。

「確かに、天界から賜った任務だ。姫が美人である可能性は高いかもしれない。指揮官と打ち合わせしてくるよ」

そう言ってハルがミコトとカイレンの元から去っていった。


「なぁ、ミコト。ハルはお前をなんだと思ってるんだ?宝物か何かか?全く過保護すぎるだろ」

カイレンの言葉に、ミコトは小さくため息をついた。

「身共が頼りない事が問題なのであろう。昨夜も皿を3枚割ったところだ」

不遜な顔をしたミコトが思った以上にポンコツかもしれないと思い始めたカイレンがいたことはいうまでもない。




任務に向け、出発の当日。

ハルは重く腫れた目と酷いクマを作りながら、ミコトをはじめ、指揮官のスピネル、隊長のエニシ、カイレンの4人を見送りに出た。


一番しっかりしていそうな指揮官のスピネルに、先立つもので困ったら、文を寄越すように、両替屋に為替を届けるからと伝達する。

「えー、なんで俺らには言わねーんだよ」

カイレンが真っ先に食いついた。

「君はいかにも、イケナイ事に注ぎ込みそうじゃないか。どれだけ金があっても足りたもんじゃない。ミコトは世間知らずで騙されそうだし。エニシ(隊長)は得体の知らないものを買ってきそうだ」


何故か今から出発するというのに、エニシは野宿でもするのかという大荷物を背負っている。背負った荷物から、骨董品のような凝った細工の円形の銀細工がぶら下がっていた。

身動きする度、金属がカチャカチャと音を立てているのだ。


「…得体の知れないものってwwコレは方位磁針だし…色々いるっしょ?で、これは文を届けるための筆、でコレはランプで、これは毒が見分けられるように銀の器と箸で」

用意周到といえば、褒め言葉になるかもしれない紙一重のところだが、エニシから見せられるソレらは、どれも細工が凝っている。

彫金師の腕の凄さがわかる細かい模様が施されたソレらは古い西の国のものであろう所謂骨董品的な無駄に豪華なものたちが、そこにいる皆の前に晒される。

見せられるそれらだけでもエニシの袋の中身が容易に想像できて、ハルは腰に手をあてため息をついた。流石に剣の名手ということだけあって、大荷物をものともしていないのが流石という他にはない。

袋を手に持たせて貰ったら、ハルはそのまま地面に手を挟む事になった。


「身共が騙されそうだとか解せぬ」

不服といった表情のミコトに、ハルはまあまあと誤魔化し笑いをする。

だって、そうだろう。

凛としていて、剣も強く完璧そうだというのに、記憶喪失なせいか、どこかヌケている気がして目が離せない。


ハルは、飼育小屋で大切に育てている、天界から賜った愛鳥を皆に渡した。

調教されていて手紙を神殿に届ける早飛脚代わりになるというのだ。

丸くてフクフクした鳥(?)を託す。鳥(?)は、トコトコトコトコ地面を歩き、ミコトの足元に行くと両手を広げた。


「この者の名前はなんだ?」

ミコトが疑いもなく、その子を抱き上げる。

「アンチュルピーっていうんだ」

「アンチュルで良いか?」

ミコトが真顔で鳥(?)のような何かに尋ねる。

アンチュルピー(鳥?)は嬉しそうにワンと鳴いて抱きついた。


パンダの背中に羽根を生えさせたような鳥(?)は、ハルが城の飼育室で育てた鳥だとの事で、異様に早く飛べるらしい。


「や、ミコト。そこ止まらないか?普通」

破天荒に見えて常識は持ち合わせているカイレンがちょっと待てと止める。


「その子、飛べるわけ?歩いてたけどww」

笑いのツボに入ったのか、エニシが腹を抱えて笑う。

その度にカラカラ金属がぶつかる音がした。


アンチュルピーは四つ脚歩行ではなく後ろ足二つで歩いていた。1尺(約30cm)ほどの大きさで、前の手が羽根なのではなく、前の手もあれば羽もあるといった風体だ。

「お前、飛べるの?本当に…この小さな羽根で??」

頭を撫でながら、ニカっとエニシが顔を近付けて笑えば、アンチュルピーの短い足がエニシの額に命中した。

どうやら感情も知能もあるようだ。


「その点は大丈夫。きっとみんなもアンチュルピーが飛ぶとこ見たらビックリするから。言葉は話せないけど、肯定の時はワンって鳴いて、否定の時はメェと鳴くんだよ」

ハルの説明に、ミコトは頷いた。

そして視線をアンチュルピーに向け語りかける。

「かしこいのだな。アンチュルは」

ミコトが背中を片方の手で撫でれば、ワンと機嫌良く答えた。



個性が強そうな3人の部下たちを見守っていたスピネルが、苦労しそうだと眉間に皺を寄せて首を振った。






「気をつけるんだよ。周りは危険ばかりだから」

ハルがジィっとカイレンとエニシの顔を見比べた。


「んで、そこで俺の顔見んだよ」

カイレンがフテ腐り、エニシはニヤっと口角を上げる。


「ハル様、口悪すぎっ俺、危険物wwだって…ブハっ」

笑い上戸なのか笑うと止まらないエニシがスピネルの顔を伺う。


「確かに、おエニシ…危険かも…お前ら見ろ、ミコトが蛆虫でも見るような目で見てるぞ」

「…見てはおらん。これは地顔だ」

ミコトがムと口を継ぐんだ後、アンチュルピーに顔を埋めた。


(何今の…神様からのご褒美がなんかかな。可愛いの×2の破壊力がヤバいんだけどー)

ハルがアンチュルピーとミコトのアンバランスない光景に目をキラキラさせる。あまり見ないタイプの鳥(?)であるアンチュルピーが周囲から疑われないよう、普段から衣を着せてあるだけに、ぬいぐるみを抱く美青年にしか見えないのだ。


その破壊力はハルにだけ及ぼしたものではなく、エニシやカイレンも同様だった。

スピネルでさえ、ポカンと口を開いている。


(こいつ、最強かもしれない)

そこにいる全員が同時に同じ事を心の中で呟いた。

皆の心の声が同時にミコトの中に入ってくるも、剣のことか?…程度に片付けてしまう。


ミコトの荷物は少なく小さな袋を持っているだけだ。

袋の中身はといえば、記憶がある頃のミコトがきっと大切にしていたであろうと思われる小型の剣と着替え程度だった。



「僕だけ一緒に行けないなんて」

ハルが後ろ髪を引かれたように駄々をこねる。


「高官であるハル様には仕事があるだろう」

スピネルが仕方ないだろうと慰めの言葉を発した。

「や、お前来たら、自分で自分の身を守れないだろーがよ。物見遊山じゃねーの!仕事だ。仕事」

カイレンが上司であるハルの頭をくしゃくしゃにする。

「まぁ、俺くらいになれば、ハル様の1人や2人守りながら戦えるけどな」

エニシがカイレンを煽るようにチラリと覗き込んだ。

「様付けはいいよ。僕を守る手間を取らせるくらいならミコトを守ってあげて」

(ミコトは記憶喪失で。守ってあげなきゃいけないんだから)

ハルはウルウルした目で、スピネル、カイレン、エニシの腕をとり、一人一人ブンブンと振り回しながら頼み歩いた。


(や、むしろ守られそうなんだけど)

とスピネルもエニシもカイレンも内心で苦笑した。

ミコトは、無言でハルを眺める。


「身共は大丈夫だ。安心しろ。ハルには感謝している」

ミコトが口を開けば、ハルはアンチュルピーを抱きしめているミコトに抱きついた。



まず手始めに4人が向かう場所は、隣り町である。

美しい女性が今年に入って、既に三人の行方がしれなくなっているらしい。

道行く人々にその事を尋ねてみる。

人攫いだという者もいれば、神隠しだという者もいた。

もしかしたら、その中に探している姫がいるかもしれない。

だとしたら急がなくてはならないのだ。

天界と連絡が取れる場所(聖域)に立ち入り天界と通信できる者は高位の神官のみに限られている。

神殿の中でそれが出来るのは数人しかいない。霊位が高くなければ聖域に足を踏み入れても、天界と繋がる事はできない。


実は意外な事なのだが、ハルもそれができる高位神官の中の1人だ。

世の中は、神界、天界、魔界、人間界(俗界)に分かれていると神殿では教えられている。


ハルが天界の天使から聞き得た話だと、その姫は更に高貴な神界に登られた姫だという。


大変美しい方だと聞き及んでいる。

目印はといえば、輝石を携えているとの事だ。


「情報がこれだけで、どう探せっていうんだよ。全く」

前を歩くカイレンが愚痴る。

「情報がないからこそ、それを手に入れるために我々が選ばれたということだ。愚痴を言うな言うな」

スピネルが先を急かすように手でカイレンを促した。


街に続く道は長く、木々の合間を歩みながら、4人は歩き続けている。

「スピネル、籠を頼も…ツラ」

エニシが弱音を吐いた。


「節約節約。そもそも、そんな大荷物で来るからだ」

スピネルが軽くエニシの弱音を払い除ける。


「街に夜になっても到着しなかった時、お前ら俺に土下座することになんだかんな」

エニシがスピネルに言い返した。

先ほどから、応答のないミコトの存在に気づいて、皆が互いの顔を見合わせる。

もしかして、件の事件に巻き込まれ攫われたのかと、皆の脳裏を掠めるが、そのようなタマではないだろうとすぐに打ち消した。

キョロキョロ全員で周囲を見渡せば、少し後ろで、旅の無事を祀る小さな祠に手を合わせているミコトがいた。

頭にアンチュルピーを乗せて拝む様に少し癒される。

「…ミコト、置いてくぞ」

「あ」

問題児ばかりの引率に、スピネルは肩を落とした。

街まであと数里といったところか。

陽はまだ、中天を少し移動したばかりだろうから、間に合いはするだろう。

地図と太陽を眺めて、スピネルは皆を促した。

陽が沈むまでに、街に入り宿屋を探さなくては野宿になってしまうだろう。


夜には魔の力、妖の力が強くなる負(魔界)の領域に入る。

少なくとも、この世に生を受けた人々は恐れ、夜は出歩かないように勤めているのだ。

まあ、実際は花街と言われ妓楼などが立ち並ぶ夜の街で、飲む打つ買うで身を滅ぼす人間が多いことから、夜を恐れているのかもしれないが…とスピネルは、幾度めかになるため息をついた。

街に入り立ての宿場には花街があるからだ。


「宿についてもハメは外すなよ。カイレン」

「なんで、俺だけ名指しなんだよ」

フテ腐るカイレンにエニシが火に油を注いだ。

「や、身から出た錆っしょ。俺の耳にまで届いてたぜ?非番には夜な夜な花街に出陣する不良神官がいるって」


「だーくそ。武官が揃いも揃って。なぁミコトもなんとか言ってやってくれよ」

カイレンが肩を組みに手を伸ばすと、ミコトの頭の上に乗っているアンチュルピーが蹴りを入れた。


神官の下に武官があるという立場から行くと、高位神官のハル=ハルの客人扱いのミコト→高位武官のスピネル→指揮官のエニシ=平神官のカイレンという序列なだが、今回の部隊編成だと指揮官のスピネル→隊長のエニシ→ミコト=カイレンという形になる。


敬語で話すべきか否か迷う状況なのだが、元々エニシがスピネルに対してフランクな事と、上下関係を無視した破天荒なカイレンの存在により、グダグダなまるで古くからの友人の旅行のようになってしまっていた。


「だぁ、この熊猫もどきが、焼き鳥にすんぞっ」

ビクっとして、アンチュルピーがミコトの後ろに隠れる。

「ふむ。花街とはそれほど楽しいところなのか…」

ミコトに真っ直ぐな目で覗かれ、カイレンはアワアワと目を泳がせた。


「ミコトは花街に興味あんの?」

エニシが話に割って入る。

「…見た事がないのだ。カイレンが休みのたびに通うような場所とは、一体どのような場所なのかと考えただけだ。エニシも行くのか?」

「んー。場合による感じ?酒の席とか?…あ、でも飲む打つまではしても買うはしてないし?」

「買う?」

素朴なミコトの疑問に、エニシはどう答えようかと逡巡する。

清廉が服を着たようなミコトの禁欲的な風貌もあいまって、女郎を買って一発致すなどという物言いはできない。

かといって、このまま街に辿り着けば、ミコトを閨に引き入れようとする女郎に袖を持たれることが容易に想像できた。


「…惚れた腫れたなしの一夜の閨の友」

なるべく障りのないようにエニシが伝える。


「…そうか。エニシが買わぬというのは正直、意外だ」

「それは俺が軽薄で、遊び人のように見えるって事か〜!!」

「すまない」

エニシの心外だと言わんばかりの声に、スピネルが声を上げて笑った。


「エニシ、日頃の行いが出たな」

「ヒドっ。こう見えても一途な方だからw」

必死に弁解しているエニシがおかしすぎて、スピネルは吹き出すまいと肩を震わせている。

「…意外だ」

ポツリとミコトが呟けば、エニシは唇を尖らせた。






明かりで照らされた宿場町は夜になっても明るく不夜城のようだ。

ミコトは、あちこち妓楼の格子の奥で佇む娼婦達から妖艶に手を振られている。

そのたびに、くれぐれも守ってくれと言い渡されたエニシやカイレンが火の粉を払って通り過ぎた。

「ごめんなぁ!お姉さん方…こいつ役に立たない(不能)だから」

ヒラヒラとミコトに不名誉な汚名を着せつつ厄落としをしていくエニシをミコトが後ろから殴りつける。


「あとで代わりに俺が可愛がりにいってやるぜ?」

カイレンが艶やかに笑って、いやらしい手の動きをしてみせれば、遊女たちから悲鳴が上がった。

不良神官のカイレンにしてみれば、女の扱いは、海千山千で手慣れたものである。


小麦色をした野生的なかっこよさのあるカイレン。

大人びた雰囲気を醸し出しているスピネル。

愛想と口の良さで惑わされがちだが、地味に整った顔をしているエニシ。

極め付けは、容姿のことを触れられると不機嫌になるが、遊女たちが嫉妬するほどに化粧なしでも妓楼の女達が霞んでしまうほどの容姿を持ったミコト。


いい男ばかりの客が通り抜けていくところを、女たちはため息をつきながら眺めている。

目立ちすぎてしまう事を懸念したスピネルは、エニシとカイレンに口を開くなと命令し、引き込みの女郎や飯盛り女の誘いを、聖職者の印を見せる事で淘汰し、一行が宿についたのは、陽が沈んでからであった。



アンチュルピーが、宿屋の名前を書いた書状を服のポケットに忍ばせ、飛び立って行く。

本当に飛ぶのは早いのだなと、感心しながらミコトはアンチュルピーを見送った。

そのまま、ミコトは旅籠前の道に目を落とした。

半身が乗り出せる高さの窓辺に腰掛けたミコトは、窓の桟に肘をかけ夜の街の賑やかさに目を奪われている。

少なくとも記憶がなくなってから、初めて目にする光景だ。

提灯が一定の距離に照らされ、道沿いには紙をくり抜いて作った筒の内側に蝋燭が入れてあるのか、夜でも昼のような明るさだった。

神殿の清楚感とは対極にある感じだ。

遊女が行き交う男達にしなだれかかり、部屋に誘う。

女衒のような、ニヤついた半分眼鏡の男と話しているのは、カイレンのようだった。

声をかけようかと思ったが、行動に出るよりも先に、カイレンがその男と連れ立って筋を曲がりついていく。


夕餉の時間というのに、集団行動のできないやつだ。

呆れながらも、ぼんやり外を眺め続ける。

先ほど誘いの女達を袖にしたスピネルの話では、誘蛾灯に寄る虫になってはいけないとの事だ。

花街にいる綺麗に着飾った女達は、年季があけるまでは外の世界に出ることも許されないのだ。野に咲く花のように根を生やし、誰かに手折られ摘まれていかなければ自由にもなれない。


大切に育てた美しい花(花魁)であるならば、綺麗に飾って触れられる事なく愛でられようが。

そうでない野に咲く花達は、気まぐれに手折られ踏みつけられ、捨てられる。


閉ざされた世界だ。

美しく見える景色と、美しさの裏に潜む現実の差の激しさに、儚さを感じ得ない。

このようなところに、神官の姫がいそうには思えないが。


コレは旅にかこつけた、カイレンやエニシたちに公に与えられた休日という事だろうか。


コレからの旅に備えるに至って英気を養うためのハルからのご褒美なのか、いや、そんな事はあるまい。

ハルはこういった場所を忌み嫌っていた。

下手をしたらスピネルにこういった場所を利用しないようにくらいはいっていそうだ。

ボンヤリ考える。柔らかそうな女子の膝に抱かれて眠れば、確かに疲れも取れるかもしれない。

取り止めのない事がミコトの脳裏に次々と浮かんでは消えて行く。



「絵になるなぁ」

エニシが大量の荷解きを終え、ミコトの方を見てしみじみ言った。

「お前は行かぬのか?」

チラリと外に目をやれば、エニシは肩を竦める。

「や、俺はいっかなぁ。目の前に太夫顔負けの美人がいるし(男だけど)」

「カイレンに負けず劣らず、軽薄を絵に描いたような風体だったので、遊んでいるのかと思った」

あけすけないミコトの言葉にブハっと声をあげてエニシは笑う。

「ま、…俺は初恋拗らせてるし?…フラれるまでは、まだ綺麗な身でいよっかな。ってな」

目の前の美人を見ながら月見酒で充分だとエニシが続けた。

こういう所が軟派見えるのだとミコトが肩を竦める。


「…だが、好いた者の為に操だてとは…少し見直した」

考えなしに、欲望に任せて花を手折るような男だと思っていた。

そうミコトが言いかけた瞬間、エニシが真顔になる。

「マジで、嬉しい事言ってくれんじゃん」

ミコトの横に腰掛け、エニシは首筋近くに顔を寄せた。


「前言撤回…だな。この破廉恥男が」

エニシの頭を持って、身を躱せば、そのままミコトの膝の上に頭を乗せる形になる。

「いって」

「自業自得だ」

チラリとエニシの荷物の方に目をやれば、道中のどこで買っていたのか、酒瓶が転がっている。

「なぁミコト、聞いてくれよー」

酒に酔っているのか、エニシの顔が少し赤い。

「なんだ」

「俺、今までほとんど負けた事なくて…唯一負かされたのが初恋の相手でさ…今回、お前に負けちゃって、2回目なんだ」

「…ふむ」

「ミコトはさ、剣構える時、小指曲げる癖あんじゃん?」

言われて、ミコトは自分の指に目をやる。自覚がなかった事を指摘されたからだ。

「初めて知った」

「ソレ見たら、思い出しちゃって、どうも…さ」

そういって、冗談めかしていうエニシの顔は、いつものソレとは違って、泣き笑いのような顔になっている。

よほど想っているのだろう事は、そういうことに(というか色々)疎いミコトでも容易で想像ができた。


それと同時に合点がいく。圧倒的な技量があったはずのエニシになぜ隙が生まれたか。

何故ミコトが簡単に勝つことができたかを。

何か言葉をかけてやろうにも、何を伝えれば良いのか分からず、ミコトは開きかけた口を噤んだ。

疲れたのか、膝の上で睡魔に負け寝落ちしてしまったエニシの頭をそっと撫でた。




「あれ?カイレンの姿が見えないがどこ行った?」

湯殿で汗を流してきたスピネルがカイレンの不在に気付いて問いかけた。

片付け能力がない者ばかりなのか、部屋が既に散らかっている。

スピネルは、エニシの荷物を片付けていく。

ぐるりと部屋を見渡してもカイレンがいつのまにかいなくなっている事に気付いたのだ。

スピネルが湯殿に行き席を外した時に抜け出したのだろう。

カイレンの荷物は部屋の端に置きっぱなしになっていた。


ミコトはエニシの頭の上に置いていた手を離して、外を指差した。

「先ほど、女衒のような半分眼鏡モノクルの男と談笑しながら脇の道に消えていったのがカイレン(ヤツ)かと思われる」




「あー、良い男だ」

半分眼鏡の無精髭の男ロジウムは、御簾の向こうにいる女から金を受け取った。

「悪いな兄ちゃん、じゃあなアッシはここまでで、お暇するぜ?」

ヒラヒラと手を振って、駆けていく。

先ほどまでのしおらしさはどこへやら、まんまとロジウムに嵌められたというわけだ。

「騙したな…てめぇ」

地を這うような声でカイレンは唸り声を上げた。



数刻前の事。

ロジウムという半分眼鏡の男にカイレンは声をかけられた。

「ちょいとそこ行く兄さん。楽しんでいかねぇのかい?」

ロジウムが壺振り(賭け事)の真似をしてみせる。

「嫌いじゃねーが」

「じゃあこっちかぇ?」

小指を立ててロジウムがニヤニヤ笑う。

「この街はロクな女はいねぇーんだろ?ザラっと見て歩いても、美人てお世辞にも言える奴はいなかったじゃねーか。化粧で誤魔化しててもなぁ」

カイレンがカマをかける。

美人が神隠しにあっている街だというのならば、色街で直接当たってみるのが手っ取り早いと思ったのだ。


「手厳しいね。お兄さん、遊び慣れていなさる」

「ちっ、美人がいねぇんなら、仕方ねぇー宿に戻るわ」

踵を返そうとするカイレンをロジウムが呼び止める。

「ま、ま、ま、旅は道連れっていうじゃないか。ここで会ったも何かの縁、まずは一杯飲まないか?遠慮はいらない。あっしが驕るから」

人懐っこい、笑みを浮かべ。ロジウムが小料理屋に連れて行き、カイレンに酒を飲ませる。


「兄さん、それにしても良い体してるねぇ。相当鍛えてなさるだろ。体格といい立派で用心棒として雇いたがる店も多そうだ」

「フン」

褒められてまんざらでもないカイレンは、勧められるがまま酒を煽った。

「あ、でもダメか。女郎たちが客を放って兄さんに色目を使ってしまうから商売あがったりだ」

博打場に連れて行くでもなく、女郎に引き渡すでもなく、ただ酒を勧めてくるロジウムに違和感を覚える。

「ところでお前、俺に何故声をかけた。他にも声をかけられそうなカモなんていくらでも居ただろ」

「や、別に…。強そうなお人だなと思って」

太鼓持ち候のヘラヘラした顔でロジウムが笑う。

目を合わせようとしないところを見ると、何か訳ありなのか。

「この街は、ボニー一族が仕切っていてね。美人はそこに集められているからさ…」

ロジウムが初めて視線をカイレンと合わせる。

先ほどまでの女衒の顔を消し、懇願するような瞳の色をしていた。

何かわけがありそうだと、カイレンは気付かないふりをして、話を続けることにする。

「へぇ、そこに美人がいるのか。そりゃあ拝みたいもんだな」

「そこに、目元に小さなホクロのある美人がいる」

ロジウムの語尾が震えた。

「お前のコレ?」

「…」

小さく頷いた。

「連れ戻して欲しいっていうのか?」

「か、金ならいくらでも払う…だから」

ロジウムの必死な声に、ただ事ではない雰囲気を察知する。

スピネル達に報告してから出直せば良いのだが、ロジウムがカイレンの袖を握りしめていて、そうはさせない。仕方なくカイレンは宿屋に戻る事を諦めた。


ロジウムの腕を放させ、カイレンは厠に行くからと席を立つ。

店の者と二、三こと言葉を交わし、厠に向かった。

厠の壁の上にある小窓に、矢立から取り出し文をしたため、結びつける。

もし、宿に戻れない状態になった時に、ことの次第を知らせる為だ。


「にいさん、ありがとな」

厠から戻ってきたカイレンにロジウムが頭を下げる。

そして、花街の裏道から脇道づたいに歩き、大きな屋敷の前にたどり着いた。

「ここに、いるのか?」

カイレンの言葉に、頭を振るだけで答え、裏口から泥棒のように、主屋に入り込んだ。

ロジウムの歩みは、間取りを知っている者特有の的確さで進んでいく。

もとは、ここの雇われ人だったのだろうかと呑気に思ってしまったのがカイレンの迂闊な所だった。


結果、冒頭のような状態に陥ってしまったわけだ。

武器は宿においてきてしまったし、多少安直だったかもしれないとカイレンが後悔したところで、もう遅かった。



御簾から、女が一人出てくる。

それに伴い、部屋の真ん中にいるカイレンを囲うように、左右に男衆がズラリと土下座の体勢で女主人を迎え入れた。

御簾から出てきたのは小太りで40絡みの女だった。

歳に似合わない、華美な格好をしている。

肉付きがいいせいか、シワはないから年齢より若くは見えるようだ。


「この世で一番美しいのは誰かしら?」

長い髪を掻き上げながら、顎をツンと突き出して従者達に問う。

まるで最上級の花魁のような振る舞いにカイレンは吹き出しそうになる。

まるで、喜劇か何かを見せられているのかと錯覚しそうなほどだ。


「ボニー様でございます」

「ボニー様こそが美の化身であります」

従者達の賛辞の言葉に、カイレンは耳を疑う。


「そう、ありがと」

美しい事が当たり前で言われて当然といったようにボニーはそっけなく答えた。

この街では美しいの基準が違うのだろうか。

青白く痩けて精気を失った男達の目は焦点が合っていない。本音なのか建前なのかわからない、ボンヤリとして夢心地のようだ。

ボニーと呼ばれた女主人は、声高らかと笑い声をあげた。

こちらに向かって歩いてきたのを見計らってカイレンが恐る恐るボニーの顔を仰ぎ見、顔を引き攣らせた。

丸みを帯びたデカい顔に短い首、何より鼻が異様に丸くデカい。

目は大きくみえるよう、化粧で描かれている。冷たそうに見える薄く媚びたような唇は自信に溢れている。


集められている美人は、皆こういったもの達ばかりなのだろうか。

この場所から、目の前のボニーや従者達を腕力でねじ伏せ、出て行く事は可能だが、様子を見るべきだろうとカイレンは判断した。



「そなた、男らしいの。背が高く焼けた肌が艶やかだ」

誘っているような視線と言葉に、ゾワゾワと背中に何かが走り抜けて行くような心地を感じ、カイレンは顔を引き攣らせた。


カイレンは女好き(下手したら綺麗なら男でさえいける口)ではあっても悪食ではない。

流石に、こういった勘違いした御仁を相手にする事は遠慮申し上げたい。


「俺では不釣り合いだと思うぜ」

カイレンが言えば、ボニーはクスクス笑った。

「まぁ、私に似合わないなどと嬉しい事を言ってくれる。私程の美女の誘いにすら乗らぬソナタの貞操は信用ができるな」

何故そこまで自分を高く思えるのかと、呆れ返ってしまう。

逆だ逆だ。

ボニーのような自惚の強い年増の醜女じゃその気にならないと言っているのに、何故カイレンの貞操が硬いことになるのかとツッコミを入れたい。


「他の男達(従者達)は駄目だった。私の誘いを恐れ多いと断る忠臣は多々いたが、雌豚達には発情しおった」

「雌豚?」

「お前も試してやろう」

カイレンは屋敷の地下にある牢のような部屋に案内した。

中には妖しげな香が焚かれている。

催淫効果のある禍々しい香だ。

カイレンに、この手の薬は効かない。


だが、普通の者ならばひとたまりもないだろう。

そこに入れられたかつて美女と言われたであろう女達に群がる男達の乱交は目に耐えぬものだった。

「この香の効果は絶大だ。見苦しいものだろう?男の精を浴びたら浴びた分だけ女は枯れていく。精を放った男達も同様だ」

餓鬼達が絡み合っているようなひどく醜い姿だった。

その部屋の更に奥には、1人の男が両手を縛られ自由を奪われている。

蒼白なその男は、もうやめてくれと、うわごとのように呟いていた。

「あの奥にいる男は誰だ」

「私の夫だ」

憎々しげにボニーは爪を噛んだ。


「妓楼に通い詰めたバツだ。美しい女の戯言にほいほいついていく。浮気するような夫など必要ない」

あの男の見ている前で、遊び相手を次々と呼び寄せては目の前で、他の男とまぐわり、干からびていく様をみせているのだと、ボニーは笑う。


「ならば何故、他の美女たちもここに入れられてるんだ?」

カイレンが聞けば、ボニーは狂気じみた笑い声をあげた。

「美女だと言われる女ほど誘惑し、自分の美しさの優位性を示すかのように簡単に肌を許し、男を狂わせる」

この女は、夫の裏切りに心を壊してしまったのだろう。


ここに立ち籠る香は、人間界に存在しているものではなさそうだ。この特殊部隊に属した時点で、神界、天界、魔界といった人間以外の存在を明かされ、学ばさせられた。

ボニーをたぶらかした黒幕の存在がカイレンの脳裏をチラつく。


「で、ここにいて、身綺麗さを保っている美人はどうなる?やはり枯れ木のように醜い姿にするのか?」

「いーや、色目を男に使わない良い子たちには、ご褒美をあげているわ」

チラリとボニーの指差している先を見れば、1人だけ干からびていない娘がいた。

その娘は、別の部屋に移動させられているようで丸々と太っている。

ようは食べさせて美しさを損なわせているようだ。

元は美しかったであろう顔つきをしている。


「裏切らない良い子にはご褒美をあげなくちゃ」

当然と言わんばかりに、濁ったボニーの瞳が細められた。



「で。俺に何をさせるつもりだ?」

目の前の心まで歪みきった女を殴り倒してしまいたい欲求を必死でカイレンは抑えている。ボニーに香を与えた者を探るまでは、暴力で片付けるわけにはいかなかった。

「美女狩の餌にでもなってもらおうかしら、明後日美人を競う宴を開くの…」

うっとりしたような口調でボニーは嗤った。






宿屋にいたスピネルは、カイレンの帰りが遅いと苛々していた。

エニシは酒を飲んで、ミコトの膝の上で寝こけている。

他人のいる前では決して眠る事ができないから先が思いやられると旅に行く前、エニシは溢していたが。


スピネルは不思議なものを見るような目でスヤスヤ眠っているエニシを見た。

実際、エニシとは長い付き合いなのでで、眠りが浅いことはスピネルも重々承知している。

本当に、珍しいこともあるものだ。

熟睡というものに縁がなかったエニシが。

エニシに脚を枕代わりにされてミコトは動けずにいる。

いなくなったカイレンを探す事が出来るのはスピネルだけだろう。


「ちょっとカイレンを探しに出てくるわ」

スピネルがミコトに小声で伝える。

「身共も探そうか?」

「イヤ、いいわ。コイツ(カイレン)が眠っているのを起こすのはしのびない」

スピネルは、エニシの頭に手を伸ばして膝から外そうとしているミコトを静止した。

それに、ミコトが探索に出れば、遊女達が放ってはおかないだろう。

危険に晒すなと城を出る時、何度もハルに釘をさされている。


「身共が最後に見たのは、あの路地を曲がって、半分眼鏡の男と小料理屋に入ってくるところだ」

「わかった、行ってくるわ…お前も膝枕で痺れたら、適当に外していいから。戻らないようなら、先に寝ていろ」

スピネルはそう言い残して、部屋を後にした。




向かった先の店に行き、それらしい男が来ていないかをスピネルが尋ねれば、店のものたちは、今はいないと首を振った。

1人の店員が厠に行った後、店を出ていかれたと思い出したようにスピネルに告げる。

スピネルは、そのまま厠に行ってみる事にした。

厠の窓には案の定、書状のようなものが残されている。

《美人失踪の謎を追うためボニー一族の本丸に行く》

そうしたためられていた。

さて、どうしたものかと。

後を追いかけるが吉か。

様子を伺いながら、ボニー一族についての情報を集めるか。

スピネルは、店員に情報提供のお礼にと袖の下を握らせ店を出た。

単独行動を取ったものが、ハルのように武芸を嗜んでいない者ならば即座に応援に向かわなくてはならないだろうが、単独行動をしているのはカイレンだ。

1人でもよほど大丈夫であろう。

一旦、宿に戻ってエニシが目を覚まし次第、作戦を練る事にする。



宿屋に戻ると、旅人と宿主が押し問答になっていた。

「申し訳ありません。明日の美女比べを控えているので、どの部屋もいっぱいで」

「そこをなんとか、布団部屋でも構わない」

男の願いを無理だといって宿主は断る。すごすごと出て行く男を同部屋にして受け入れてやる事も出来たのだが、今回の旅は勝手が違う。

作戦などを練らなくてはならない。

役に立てず申し訳ないと心の中で詫びてスピネルは履き物を脱ぐ。

「おかえりなさいませ」

「明日、美女比べがあるとは本当か?」

「はい、ボニー様主催の宴で、とても盛り上がりますよ」

宿主から開催される場所を聞き出し、スピネルは部屋に戻る為の階段を登り始めた。

また、ここでもボニーという名が出てきたところを見ると、今回の美女失踪事件に何か関わっているに違いないだろう。

部屋に戻ってみれば、スピネルが扉を開けた音でエニシは目を覚ました。


「え、あ、俺寝てた?」

「ああ、ぐっすりと身共のここで」

「…うげ、悪い悪い」

慌ててエニシが飛び起きる。

我慢強いのか、ミコトは微動だにせず、外が暗くなって行くのを見ていたようだ。

「先程、カイレンと一緒だった男が一人で戻ってきて、道を横切り消えていった」

「デカした。ミコトはその男の顔を覚えているという事だな?」

スピネルが戻るな否や、ミコトのそばに詰め寄った。

「ああ」

「ならば、作戦は決まったな」

スピネルが明日の美女祭りの件と、ボニー一族が絡んでいそうだという旨を2人に告げた。




「ええええーまさかの俺?」

美女祭りに参加しろというスピネルの無茶振りに、エニシが悲鳴をあげる。

ゴツいことないですか?身長もわりかしありますし?もっと適役がいるのではと、チラリとミコトを仰ぎ見た。

ミコトならば、確実に優勝間違いなしだ。身長はエニシたちよりも1寸は低くゴツくもない。

首も長く小作りの顔に、大きな目、長いまつ毛、整った鼻筋、色艶のいい唇がついている。

黒髪の質も申し分ない。

胸に詰め物をすれば、化粧なしでも優勝してしまいそうだとエニシは思う。

剣はエニシよりも強いのだ。身を守れる上に勝ち残れる可能性が圧倒的に高い。

明らかに配役が違うだろうとエニシはスピネルに訴える。

が、スピネルは緩々と首を横に振るばかりだ。

懇願の眼差しをミコトに向ける。


「残念ながら、身共は別の役目がある。半分眼鏡の男を祭り中に探さなくてはならないからな」

ミコトの正当的な意見にエニシはぐうの音も出ない。

カイレンと一緒にいた男の顔を知っているのは、ミコトだけなのだ。

「えぇ、ならスピネルがやれば良いじゃん?俺よりは適任じゃね?身長だって俺と同じくらいなわけだし、俺が女装出来るなら、お前もやりゃあ良いって話じゃん?」

「俺は、ボニー一族について聞き回らなくてはならない。ここの街を取り仕切る名主のようだが」

スピネルがエニシから目を逸らした。

「や、調べるより動いた方が早いだろう。虎穴に入るならさ、より多い人数の方がいいっしょ」

エニシは、死なばもろともと言わんばかりにスピネルをも巻き込んだ。




結局カイレンが宿屋に帰ってこないまま一晩がたった。

「ミコト、お前妙に楽しそうじゃないか」

異国の服に身なりを変えたエニシを見て、無表情なミコトの口角が僅かに上がっているのをエニシは見逃さなかった。

「いや、意外にサマになっていると思うが」

黒髪に合わせ、エニシには東方の国の着物が着せられている。宿屋の若い女中に着付けが出来るものがいて、全てを頼む事にした。

美女比べに出るという旨を伝えたら、そこは若い娘だけあってノリに乗ったようだ。

男の体型を隠せるように、何枚も絹を重ね合わせ、派手な帯を巻く。

巻きつけられる帯の窮屈さにエニシから悲鳴があがりそうだ。

髪を結い上げられ、飾りをつけられる。

女というものは、これほど難儀なものなのかと、内心で女でなくて良かったと胸を撫で下ろした。

2つ並んだ鏡の前に大の男が二人雁首揃えて何をやっているのかと自嘲する。

横にチラリとエニシが視線をやれば、スピネルも同様に施されていた。

不機嫌さがモロに出ている顔だ。

眉間に皺を寄せるなと女中に言われている。

髪色が明るいのを利用して、スピネルには西の国の洋服が用意されたようだ。

腹回りにコルセットという腹を締め細くする器具をつけられたスピネルが、カエルのへしゃげたような声をあげている。

2人の着替えが終わった時点で、化粧品を女中達が持ち出してきた。

女中達はウキウキと、化粧品を並べ始める。

化粧も念入りだ。産毛すら残さぬように、手入れされる。

脛の毛を剃る剃らないで、言い合うサマに、ミコトは思わず愛好を崩した。


脛の毛を剃られたら、男としての矜持を捨て去るような気がしてならないのだと、エニシは言い張る。

そもそも着物をはだける事などないのだから、ドレスのスピネルはともかく、裾が隠れているエニシには必要がないだろうとエニシは主張した。

スピネルとしても、脛を剃られるのは拒否したいらしく、スカートの長いものにしろだなんだと文句を言っている。


2人のその姿があまりに必死すぎて、ミコトが初めて声を立てて笑った。




「え」

エニシは聞いたことのない笑い声に、閉じていた目を見開いた。

「は?」

スピネルも以下同文である。

2人の驚いたような視線を受け、ミコトが咳払いをした。

無意識に笑ってしまっていたのだ。

「邪魔をしてすまない。続けてくれ」

2人から距離を取って、ミコトは部屋の端に座り直した。




「あ、り、え、な、い。ありえないだろ!普通に。…何がどうしてこうなった」

エニシは、ミコトが半分眼鏡の男を探しに宿を出ていったのを見計らって、低く唸り声をあげた。

黒髪の異国の貴人姿のエニシがジロリとスピネルを睨みつける。

切れ長の眼差しが艶やかで、迫力は刀を持っている時の半分以下だ。

エニシのシャープな雰囲気を異国の着物が増幅させている。


「さぁ、俺に言われても…」

とぼけてみせるスピネルは西の国の貴婦人といったところか。

レース仕立ての手袋をつけた両手が空を仰ぎ肩をすくめた。


「お前、本当(真の世界で)は俺の部下だろ。そこは主君を庇って人柱になるべきだろう」

エニシは、荷物の中から、天秤を取り出した。

「エニシ…もとい、クロノス様よ。ここ(俗界)で天秤を取り出すのは如何なもんかと思うけどな…」

スピネルと俗界で名乗っている腹心であるルミナスが、苦言を呈する。

「見ろスピネル(ルミナス)、明らかに悪に傾いてるだろうが、なんでこんな格好までしなくてはならないわけ?面倒臭っ」

ミスラを探すというのなら手っ取り早く、冥神の力を使えばそれで完了するだほう。


一瞬で人間を眠らせ、起きている人間以外の者を一人一人訪ね(尋問し)て歩けば済むことだ。

クロノスの姿であるならば、エニシに不可能の文字はない。

こんな女装して潜入を試みるというまどろっこしい真似などしなくても済む。

事件を解決するにしても、怪しい者から天秤にかけ、悪に傾いている犯人に自白させれば良い事なのだ。

ただ、エニシ(クロノス)の力を出そうものなら、俗界のバランスが崩れ、下手をしたら世界を壊しかねないのだ。


人間のふりをして、婚約者を探すことは決して楽ではない。

何故、急に姿を消してしまったのか。

エニシはその理由が知りたかった。

実らなかった初恋が拗れて、再び目にしたミスラに挨拶することもなく、婚約を申し出てしまったのは、イタシカタナイ事だと思う。

ミスラに贈った、婚約指輪は突き返された訳ではない。

それなのに、何故ミスラは神界から姿を消したのだとエニシは遠い目をした。


「まあ、お前の言うとおり、俗界が面倒くさいっていうのは、同感だ。苦しくて仕方ない」

ヒラヒラとドレスの裾をさせながら、スピネルは胡座をかいた。

「コレさぁ、助けに行った先で、ミスラが見つかれば良いケド、外してみろ女装のし損な事ないか?」

「見つかれば良い?…この格好でミスラ様とご対面する気か」

スピネル(ルミナス)が意地悪く笑った。

「や、それもダメじゃん?もし魔界の奴らが一枚かんでたら、最悪極まりなくないか?」

アンデシン(魔界の王)の嘲笑う顔がエニシ(クロノス)の脳裏をよぎる。

いつも、送られてくる刺客を無表情で瞬殺し、悪を断罪する冷徹な冥界神として畏れられているというのに。



人の姿でいなくてはならないというそれだけで、ここまで不自由になるのかと、エニシ(クロノス)は舌打ちをする。

「ミスラ様が何故姿を消されたのか、わからない今、人間として事件に当たるべきなんじゃないのか?」

冷静なスピネル(ルミナス)の言葉に、エニシ(クロノス)は大きく息を吐いた。



ミコトは、1人宿屋を出ると、片眼鏡(半分眼鏡)の男が、消えた方角に歩を進めた。

昼の宿場町は、夜とは違う顔をしている。

一歩入った路地の奥にあるお寺の境内では、宴の準備がされているらしく、屋台などが出ていて賑やかそうだ。

花街に近い宿や近辺は、夜遅くまでやっている店が多いせいか、静まり返っている。

路地で、紙細工の造花を売っている少女を見つけ、ミコトは歩みを止めた。

人の通りが多い寺の方で売った方が効率が良いだろうに、人もまばらな路地で売っている事に違和感を覚えたのだ。


「そこの白い花をくれないか?」

「はい、どうぞ」

少女はにこやかに笑って、白い花を手渡してくれる。薔薇の花と思われる造花は、子供が作ったにしては、とてもよく出来ていた。

ミコトは釣りはいはないからと、少女が提示した額よりも多めに払った。

「ありがとう。気を遣ってくれて。お兄さん優しいね」

満面の笑みで少女は笑う。

中々鋭く聡い少女だ。

12か13歳位の身空で物売りをしているのだ。

粗末ないで立ちで、造花を売っている。

苦労していることが明らかで、少し前まで路銀に困っていたミコトとしては見過ごすことができなかった。

なんとかしてやれればと反射的に取ったミコトの意図に気付いている。

「人が良すぎるよーお兄さんは。もし私が同情を引こうとしてやってたら、カモられてるよ?」

イタズラっぽく少女は笑った。

「覚えておこう」

裏表がない娘なのか、心の声は聞こえてはこない。


「じゃあ、騙されそうなお兄さんにお守りあげる。これはね、特別なお花なんだ。お祓いしてもらった紙で作った特別なお守りなの」

少女は、販売用ではない赤い薔薇の造花の栞をミコトに手渡した。

赤い薔薇は立体的ではなく、平らに折られたもので、財布の中に忍ばせて置ける大きさだ。

「感謝する。…少し尋ねたいのだが、今日お寺では何かあるのか?」

ミコトは財布の中にその造花を丁寧にしまいながら尋ねる。

「うん。美人比べがあるの」

少女の顔が少し暗いものへと変わった。大人達はは、今年はどんな美人が出てくるかとしゃいでいるが、この花売りの子供にしてみたらそうではないらしい。

「美人比べで選ばれるとどうなるのだ?」

「ボニー様のところに召し抱えになって、そのお家や奉公先のお店には沢山の褒賞が支払われるの」

確かカイレンが行き先に書いた屋敷だ。スピネルが深夜偵察にいき、警備が厳重で迂闊には入れそうにないと戻ってきた。

「皆が眼福を求めて浮かれている中、何故、そなたは浮かない顔をしているのだ」

ミコトが聞けば、花売りの少女はキュと唇を噛み締めた。

「…近所のよく遊んでてくれた姐さまが去年選ばれたのだけど、それから帰ってこないから」

「暇を貰えない働き場所など、確かに碌なものではなさそうだ。それはさぞ心配だろう」

ミコトは元気づけるように少女の頭を撫でた。


「…ボニー様のお屋敷付近の川で、よく水死体が上がるの。干からびたような体が水でふやけて、誰かもわからない。良くない噂ばかりが入ってくる。姐さまだったらどうしよう」

少女が目を潤ませた。

「身共で力になれると良いのだが」

「サーシャ姐さまを助けてくれるの?」

「身共に出来ることはしよう。それに伴い、一つ聞いても良いか?その知り合いの女性を探す手掛かりかもしれないのだ」

「どんどん聞いて、知ってることなら何でも言うから」

「ここをよく通る片眼鏡(半分眼鏡)の若い男を知らないか?」

ミコトの言葉に少女は一点を見つめ、ポンと両手を叩いた。

「それは多分ロジウムのことね。知ってる。姐さまのところによく来ていた人だもの」

どんな仕事をしているかまではわからないが住んでいる所ならわかると少女は言う。

「仕事中申し訳ないのだが、案内をお願いしても良いだろうか」

少女の日当分にあたるであろう金子をミコトが渡そうとすれば、少女はそれはいらないと受け取らなかった。

「お兄さん人助けしようとしているもの。貰ったらバチが当たる」

「では、少しここで待っていてくれないか?この花を今日の美人比べに出る者に渡してやりたいのだ」

「いいよ。今日はずっとここで売ってるから」

少女はミコトの袖を握って、ありがとうと続けた。



「スピネルはいないのか?」

状況報告の為、宿屋に戻ったミコトは、部屋の中には女装姿のエニシしかいない。どこにいったのだとエニシに回答を促した。

「美女比べの申し込みに行ってる」

ミコトがくるかもしれないからとエニシが残っているのだと続ける。

「あの格好で?」

「ああ、半ギレで出て行った」

ゲラゲラ笑いながらエニシが言う。

「普通は部下であるエニシが行くべきではないのか」

「やぁ、俺だと間違えそうなんだと」

「信用の問題か…」

なるほどと、ミコトが締め括る。

「ヒドっ、俺に対する当たりが厳しくないか?」

エニシが訴えかける目を向けた。

座っているせいで上目がちになるエニシを見て、ミコトがフッと口を緩める。

「その格好、似合っているではないか。異国の姫のようだ」

いささか大きいがと思いつつ、ミコトは一歩一歩エニシに近づいていく。



エニシはミコトから目が離せなかった。

白い造花を持つ姿が、様になっている。

美形とは、罪なものだとつくづく思う。

エニシには想い人がいるというのに、相手が男だと分かっていてもドギマギしてしまう。


正直、人間の体というものはこれほど理性に脆弱なのかと喝を入れたくなる。

神であるクロノス自身が人間の体に変身しているだけだというのに、動悸が止まらない。

女装させられているせいか、心まで乙女にでもなったかのようだ。


「ミ…ミコト?」

「そうだコレをやろう」

フワリとミコトが妖艶な笑みを浮かべる。

白の造花を片手に持ったミコトはエニシの顔に手をかけた。

「っっ!!」

ミコトの顔が近づいてくる。

無駄に長い睫毛やきめの細かな肌からエニシは目が離せない。

突き飛ばそうと思えばできる事なのに、身動きが取れなかった。

口付けでもされるのではないかという距離までミコトの顔が近づいて、いたたまれずにエニシがギュッと瞳を閉じた。


「似合うぞ?」

結われたエニシの髪に白い清楚な花が咲く。

イタズラが成功したのが嬉しいらしく、ミコトが口角をあげて綺麗に笑った。

弄ばれたのだとわかっても、エニシは怒る気にもなれないのが不思議で仕方がない。冥神界にいる時クロノスの姿で踊り子に何度か誘惑された事はあったが、動揺は愚か、食指すら動かなかったのだ。

だというのに、なんだこの体たらくは、とエニシは脆弱な精神に喝を入れる。


剣でも敵わなかった上に、こちらでも完敗だ。

エニシは降参だというように両手を上げた。


「本題に入る。今から、身共は片眼鏡の男の家に行き、状況を探ってくる。町娘の話だと、美人比べで選ばれました者は、ボニー家に雇われるとの事だ。選ばれれば潜入は容易い」

だから、美人比べに勝ってくれとミコトが告げる。

「で、ミコトはその半分眼鏡の男を見つけてどうすんの?」

「その片眼鏡の男に事情を聞き、美人比べをしている隙にボニー家に潜り込む。外に案内役の少女が待たせてあるので失礼する」

「無茶はするなよ」

エニシの言葉を聞き終わるよりも前にミコトは階段を降りて行った。


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