3. 本日より50番目の側室となりました
——帝国唯一の港、アヴァンジェル港に降り立ったのは、ちょうどお昼前だった。
生憎の曇り空で空気はどこか重く、陽射しもないけれど、それでも無事に長旅を終えられたことに、私は心からホッとした。
——ぐぅ~っと背伸びをして、大きく深呼吸。
旅用に仕立ててもらった楽な装いのまま、港の空気を胸いっぱいに吸い込む。
潮の匂いと、異国の香辛料のような刺激的な香りがほんのり混じって、あぁ……本当に『帝国』までやって来たんだなって実感が湧いた。
改めて辺りを見渡せば、港には大小さまざまな船がびっしりと並んでいて——。それぞれが鮮やかに彩られていた。
船というと、灰色か茶色の重たいイメージだったけれど、こんなにも色とりどりで表情豊かだったなんて。
その数だけ物語があるようで、まるで世界の入り口みたい。
港って、思ったよりずっと面白い場所だわ。
もしこれが普通の旅だったなら、屋台の串焼き肉にかぶりついたり、小物を売る行商人と話してみたり……そんなこともしてみたかったけれど。
今日ばかりは、そうも言っていられない。
船を降りた人や船を待つ人たちの列をかき分けて、楽しそうに走り回る子供たちを避けながら、約束の馬車へと急がねばならないから。
「アンネ、港から皇城までは、馬車で一時間ほどと聞いたわよね?」
「はい、到着は夕方近くになるかと……」
私たちは荷物を纏める従者を急かし、皇族専用の馬車寄せへと急いだ。
そこにはアンネが言うとおり侍従が控えていて。
柔らかな笑みを浮かべて深く一礼し、丁寧に名乗った。
「エルトネイル王国第一王女レーナマリア殿下にご挨拶申し上げます。後宮付きの侍従、アーネスト・ヘミングと申します」
穏やかで落ち着いた声——。
声からでも笑顔が伝わるような、そんな温かい声だ。
おかげさまで私の緊張も、少しばかり解けていくようだった。
アーネストとの挨拶を済ませるとすぐに、私たちは馬車に案内されて。
楽しげな雰囲気に後ろ髪を引かれながら、港を後にした。
◇
——馬車が揺れて、居眠りもままならない。
皇室が用意してくれた馬車でさえこれだけ揺れるのだから、道も悪いのだろう。
一昨日は土砂降りの雨だったらしい。
「お天気のせいで、街並みが少し暗く映りますわね」
ふと漏らした私の言葉に、アーネストは曇らせて。
そして「一番美しいアヴァンジェルをお見せしたかった」と、残念そうに呟いた。
——この人、この国を心から愛しているのね。
やがて彼は、後宮の生活についても丁寧に説明してくれた。
難しい話ばかりかと思っていたら、庭園や図書館といった施設のことも話してくれて。
中でも、図書館を利用できると聞いた時は、思わず小さく声をあげてしまった。
祖国では専用の図書室を作ってもらったほど、私は大の読書好き。
兄たちには「本の虫」とからかわれていたっけ。
パーティーに出席したくない理由のほとんどは——「本を読む時間が減るから」だったもの。
「王女としては……失格だったかしら?」
思い出し笑いをこぼすと、隣のアンネもつられて笑ってくれる。
あぁ、アンネが一緒に来てくれて本当に良かった。
一人だったら、さっきの話には……きっと耐えられなかった。
——『側室は既に49人いて、私が50番目』だという話。
しかも、その中で皇帝陛下に寵愛されているのは、わずか三人。
その他の側室は、顔を合わせることさえないという。
つまり残りの46人は、ただ後宮で『何となく』暮らしているだけ。
——不思議と、笑ってしまった。
「私は一番下の側室ってことよね?ご挨拶回りなんて、必要かしら?」
「いいえ、そのような必要はございません。後宮の生活は基本的に個別です。第一側室のカテリーナ様がお茶会を開かれる際のみ、ご出席のご判断をいただければ」
あぁ……聞かなくても分かるわ——。
『判断を委ねる』と言いつつ、『出席しろ』と言っている。
第一側室……つまり後宮の女王様かしら?
他の側室たちに目を光らせるために、呼びつけているのかもしれない。
「私の後にも、どなたか入って来られるの?」
「いえ、レーナマリア様が最後の側室様でございます。後宮の上限は、50名までと決まっておりますので」
——その瞬間、私はなぜか『ぎゅうぎゅう詰めのドールハウス』を思い浮かべてしまった。
小さな館にパンパンに詰め込まれた人形たち。
どうしてもそれが頭に浮かんで、思わず笑ってしまう。
アーネストには申し訳ないけれど、少しだけ肩の力が抜けた。
不安ばかりだった私の中にも、ちゃんと『余裕』が残っていたんだ——って。
◇
——ようやく後宮に到着して馬車から降りると、世話係の侍女長が出迎えてくれた。
黒く艶やかな髪と、金砂を思わせる温かな肌。
優美な立ち居振る舞いに、どこか東国の気配を感じさせる女性だった。
「レーナマリア様にご挨拶申し上げます。侍女長のリナリアと申します。ようこそ、アヴァンジェルへ。お疲れでしょう。お部屋はすでにご用意しております」
「エルトネイル王国から参りました、レーナマリア・ルディ・エルトネイルと申します。これから、どうぞよろしくお願いいたします」
微笑む彼女は、まるで聖母のようで——。
私の胸に広がっていた不安が、ほんの少し、溶けてゆくのを感じた。
案内された部屋は、私とアンネのコネクティングルーム。
部屋をつなぐ扉を挟んで、彼女の空間が隣にある。
「アンネ、だんだん楽しみになってきたわ!」
「私もです。姫様と近くにいられて、本当に幸せです」
日も暮れかけて、やれることはもう限られている。
今日は夕食とお風呂、あとはぐっすり眠るだけかしらね。
「アンネ、これからきっと、いろんなことで悩むと思うの。寂しかったり、恋しくなったり、腹の立つこともあるかもしれないけれど……全部、私に話して。何でも。私たち、助け合って暮らしましょうね」
「……はい。姫様と二人三脚で、支え合って生きていきます。これからも、どうぞよろしくお願いします」
私は笑ったけれど、本音を隠しきれずに続けた。
「……でも、申し訳なくなるのよ。私って『50番目の側室』じゃない?おそらく陛下も、会いになんて来ないでしょうし。アンネがわざわざ遠くまで付き添ってくれたのに、肝心の私は『後宮の一番下』……。そんな私に仕えるなんて……他の侍女に何か言われたり、見下されたりしないかしら、って」
アンネとは、小さな頃からずっと一緒だった。
元は伯爵家の令嬢、優雅な暮らしをしていたはずなのに、王命で私の侍女となり、今ではすっかり立派な『王女の右腕』だ。
私にとって、彼女は『家族』と同じ——『絆』と聞くと、真っ先に思い浮かべる存在の一人だ、彼女なのだ。
——明日は、アンネのために何かをしよう。
まずは、しっかり眠って英気を養わなきゃ。
「姫様、お支度が整いました」
短く絞られたその声に、私は気づいていた。
アンネが、泣いているってこと。
その気持ちがとても嬉しくて。
私も温かな気持ちに包まれながら、そっと彼女の肩を抱いた。