第一話
7年前、地球から差別が消えた。
7年前、地球から戦争が消えた。
7年前、地球から――――半分の人間が消えた。そして、自由な人間が九割九分消えた。
7年前、地球の上空に突如降り注いだ光を合図に、終わりが始まった。
来航する空を飛ぶ舟。そこから出てくるのは強力無慈悲な砲弾。そして、地球上のどの生物にも該当しない異形。蛸のような個体。蟲のような個体。人間のような個体。そのどれもが、人類が十万年もの年月積み上げてきた文明で作られた全ての武をまるで赤子の手をひねるかのように蹴散らし、目につく人間をありとあらゆる方法で殺し、あるいは捕虜にしていった。
一日で国が5つ滅び、三日で山が3つ地図から姿を消し、五日で海が4つ干上がり、一週間が経った頃には、もはや人間は絶滅危惧種になっていた。
その目的は、曰く、この星では人間だけが有す力、生命エネルギーの搾取。どうやらその生命エネルギーとやらはそれはもう莫大なエネルギーらしく、かなりの個人差はあるらしいが、人間一人の生命エネルギーで最低でも中規模の都市の一日の全エネルギーを賄えるほどらしい。
そして、そいつらがおよそ一週間ほどで地球の支配者に成り代わった最も大きい要因もその生命エネルギーである。侵略者たちは生命エネルギーを自身の強化や物質の顕現などの異能に返還させるという能力を個々に持っており、その莫大な力のもと人類たちを蹂躙した。
ならば、侵略者たちは自身らが生命エネルギーを有しているというのに何故、我々人間を家畜にしたのか。それは、生命エネルギーは原則としてその生物が完全にその生命を消失したときにのみ収集が可能となる。エネルギーを得るためだけに同族を殺すことはできない。なるほど確かに、奴らにとっては至極倫理的な理由である。人間からしたらたまったものではないが。
そうして、人々はそんな人智を超える侵略者どもを畏れて『深淵者』と呼んだ。
今や大陸に人間の居場所は存在せず、そこには『深淵者』が闊歩している。捕虜となった人間は『深淵者』達の作った施設に入れられ、エネルギーとして日々増やされては殺されている。
そして現在、辛くも生き残った人間たちの一部は日本は九州に逃れ、長崎、今で言う第1エリアから第5エリアを最後の砦にしている。何故、人々は九州ひいては長崎に逃げ込んだのか。その理由は、九州が海に囲まれた土地であり(『深淵者』の侵略の際、四国、そして本州の半分は地図から消えた)、さらに、長崎がリアス海岸で天然の要塞として機能していたためである。
しかし、人間の最大の武器である膨大な個体数は既に瓦解し、相手の戦闘力は未だ衰えないばかりか、豊富な生命エネルギーを喰らいさらに磨きがかかっている。
そんな、終わりに突き進むの人類に歯止めをかける者たちがいた。
「なあ、この世界で最も美しい人って誰か知ってるか?」
終末にふさわしくないどこまでも広がる蒼穹。暑くもなく寒くもない、ちょうどいい温度。時折吹く風が心地よい。まさしく絶好の昼寝日和、もしくはピクニック日和といったところだろう。
そんな中、俺も親友であるカイン――カイン・ブラウンと共にひんやりとした土に体を預け、他愛もない、誰にでも即答できるような簡単な質問を投げかけてみた。
ただ、二人とも昼寝やピクニック日和の格好とはあまりマッチしない俺は上半身裸でカインは白のタンクトップ、そして、両者下は深緑色のミリタリーパンツといった装いで、さらに二人ともまるで、先程まで激しい運動を行っていたかのように、玉のような汗を流していた。
「ふむ、世界で一番ってなるとかなり難しいが………」
いや、なんでだよ。これ以上に簡単な問題ないだろ。
「やはり、一番隊隊長のシャルロッテ・精華様なんじゃないか?」
「いや、全然違う」
少しの間考えたと思ったら、何を頓珍漢な答えを出しているのだこの親友は。
「え、そんな即答できるほど違うのか?………なら、5番隊隊長の櫻木花鈴さんか?……意外だな、お前が大和撫子タイプが好きだったのか?」
「何を言っているんだ、お前は?俺が、大和撫子好き?名誉棄損も甚だしいなこの野郎!?」
「いやお前、それは櫻木さんに失礼だろう………。となると、まさか、二番隊副隊長のアイリちゃんか!?お前、それはさすがに事案だぞ……」
いつまで経っても、答えを見つけ出せないカインに俺はフラストレーションを募らせた。もう限界だ。言ってやる。
「俺はロリコンじゃあねぇ!!至極単純だろう!この世で最も美しいのは!俺の妹の千勢に決まっているだろう!こんなこともわからねえのかウスバカゲロウ!!」
俺はカインのずっとぼけにたまらず起き上がり、手を戦慄かせながらカインが辿り着くことのなかった問いの答えを言い放つ。
「巽よ………ウスバカゲロウは昆虫の種類だ。決して、侮蔑の意味ではない。そして、その言葉の勘違いが起こらないように俺は先に言っておくぞ。…これは、お前に対する侮蔑の言葉だ。……この…シスコン野郎が……」
俺が起き上がったことにより見えたカインは、その整った鼻梁とほのかに色付く唇、海のように深くもあり鮮やかでもある不思議な青色の瞳、そして、少し長めのアッシュブランドの髪によって形作られた、中性的で、同性の俺が見ても美しいと思う顔立ちを精一杯歪めていた。
ああ、ちなみに巽ってのは俺の名前だ。神木巽、それが俺の名前である。
「シスコンで何が悪いっ!?こんな絶望の時代、家族愛がはち切れんばかりになるのは当たり前のことだろう!?それを気持ち悪がるとは!貴様非国民だな!?排除してやる!」
「はっ!もう俺ら人間に国なんてものはねぇよ!………って、あ、ちょ、待てっ!……いゃははははははは!…や、やめっ!やめろ、やめてください!……ちょ、お願いだから、くす、ぐるのを!やめてください!」
俺はカインに迫り、彼の腹、脇、背中、足を余すことなくくすぐり尽くす。彼はそのこそばゆさに地面をのたうち回り俺の手からどうにか逃れようとするが、そうは問屋が卸さない。俺は徹底的にこの不届き者を懲らしめるだけである。
そう、たとえ、暴れ回った拍子に彼のタンクトップが大きくはだけ、疲れたのか抵抗を若干緩めて今は頰を紅く上気させ、ピクッピクッと動くだけになり、さらに俺が覆い被さるような形で彼と対峙し、なんなら彼は途中から「うぅ」とか「やっ」とかやけにエロティックな声を上げるようになったとしてもである!
………いや、流石にこれは不味くない?なんか俺女の子を襲ってるみたいじゃない?え、おかしいよね?相手は7年来の男の親友だぜ?
ていうか、カインもカインで対抗しろよ!?俺が一方的に悪いみたいじゃん!?あーもーこの空気どうすればいいの?え、最後までイけばいいの?……って、俺は何を言ってるんだ!?俺は妹一筋なはずだろう?……ていうかそもそも同性愛者じゃねえし!?
「おい巽!カイン!貴様ら何を発情し合っているんだ!今は訓練の時間だぞ!そういうことをするのなら家かホテルでやれ!」
と、誠に喜ばしいことに(?)この隊の隊長であるマックスさんが最低なセクハラと共にこの変な空気を終わらせてくれた。
ああ、いつもはやかましいその声が今は天使の歌声に聞こえるよ。
「っ!う、うっせえわこのハゲ親父が!!別に発情なんてしてねえよ!」
カインが、量子コンピューターの計算とおそらく同じ速度で上に被さる俺を抜け、跳ね起き、先程の弱々しさからは全く想像もできないほどマックスさんを口汚く罵った。
いや、そんな元気があるなら最初から抜け出せよ……。
「おいこらカイン!それが上官に向けた言葉か!?少なくとも勤務時間中はその言葉遣いをやめろ!」
「ああ、やめるさ!やめてやるよ!そのセクハラ発言をやめたらこっちだって、隊長ご指示を、とか言ってやるよ!」
「なんだとこの野郎!?俺からセクハラをとったら何も残らんことを分かっての言葉か!」
「なんか残れよ!残ってくれよ!!」
マックスさんはその黒光りする頭に血管を浮き上がらせ拳を潰れんばかりに握り込み、カインはカインで指をポキポキと鳴らし、喧嘩前の準備運動を始めている。
こうなると、もう俺は完全に蚊帳の外。彼らの戦いをただ見守るしかない。さて、今日は何十分かかるだろうか。普段は他の隊員たちとカインが何分耐えれるかで賭けをするものなのだが、今日は周りに誰もいないときた。何をして時間を潰そう。
俺がそうこう考えている間に、どうやらお互い完全に温まったらしく、互いに向き合っていよいよファイティングポーズをとる。マックスさんは両腕を曲げ、顎から胸までの辺りまでもっていく典型的なものであったが、カインは、自身の心臓の位置に右手を添えるだけという少し風変わりなポーズをしていた。
「クソハゲ親父め……今日こそは絶対にそのふざけたセクハラ止めさせてやる!」
「はっ!アソコの毛も生えてないようなクソガキが随分とまあでかい口叩くようになったなぁ?お前など一瞬で剥いて泣いて謝らせてやる!」
「毛ぐらい生えとるわ!このセクハラ親父ぃ!!」
その激情の籠った言葉と共に、カインは自身の胸に添えていた右手で自身の心臓が眠っているであろうその場所を力の限り叩いた。
直後、カインの綺麗な青色であった瞳が血をぶちまけたかのような紅色に変わり、ただでさえ怒っていたその顔を、留まることのない憤怒に染め上げながら、マックスさんに向っていった。
そして、マックスさんも同様に一瞬全身を力ませると、黒曜石のような瞳が、それこそカインのような青色に変化し、その黒光りする丸太のような腕を赤熱化させる。
カインの生命発現『人類原初の殺人』。強力な力と、どこまでも湧き上がる殺害衝動を得ることのできる権能を持つ。対して、マックスさんの生命発現は『水を司る四大精霊』。自身の周囲、半径2メートルの液体を好きに操ることができる権能を持つ。
『深淵者』の一方的な蹂躙の中で、一部の人類は生命エネルギーの暴走により皮肉なことにも奴らと同じような異能を手に入れた。これを人類は生命発現と呼び、この力を行使することで今もまだ緩やかに続いている『深淵者』からの侵略から首の皮一枚つながっている。
あまりに、付け焼刃の能力のために生命発現の研究はほとんど進んでいないが、そんな中でも確定している数少ないことは、『深淵者』も含めて同じ能力はただ一つとしてないということや、能力を発現させる際瞳の色が変化すること、そして、その能力に個人の差はあれど、どれも破格の力を有すということだ。
曰く、無機物を好きに操ることができる。曰く、大岩すら木っ端微塵に砕く力を有すことができる。曰く、無からの物質の権限が可能になる。曰く、自然の摂理を破壊する力を手にする。曰く、曰く………。
そして、今でも能力を発現させるものは増え、その殆どがおよそ15歳くらいになると、『深淵者』から人類最後の砦を防衛する、人類最後の軍隊『ADA(深淵防衛軍)』に所属し、おおよそして二週間に一度ほど来る『深淵者』との闘いを繰り広げている。
そして、七つある大隊のうちの最後の大隊。最弱といわれ、もはや錆び切って大隊ではなく小隊と呼べる規模まで成り下がった七番隊に努めているのが俺やカイン、そして、七番隊隊長のマックス・ガルシアさんである。他にも何人かいるが、彼ら彼女は今日は非番だ。
ちなみに、カインが何故、隊長であるマックスさんにフランクに話している……否、罵詈雑言を浴びさせることができるかというと、それはカインがマックスさんの半養子であるからだ。『深淵者』の侵攻により、多くの人々が家族を失った。カインやマックスさん、俺もそのうちの一人だ。そして、そうやってできた心の傷を埋めるように、少なくない人たちが何の書類審査も許可もなしに偽物の家族を作り、きっと長くはないであろう余生を暮らしておりカインとマックスさんもそれである。……いや、まあ書類審査や許可はその当時行政が完全に死んでいるためやりたくてもできないのだが…。
とまあ、なぜか長い時間がたった気がするが、カインとマックスさんの戦いは一瞬で動いた。
『人類原初の殺人』を行使しているカインが、視認が困難なほどの速度でマックスさんに肉薄した刹那、血が滴り落ちらんばかりに強く握られた拳を、マックスさんの喉元に迫る。喉を潰して、悲鳴をあげさせないようにする。カインの生命発現の特徴、湧き出る殺人欲求が本能的な部分で働いた攻撃順序である。そしてそれは攻撃の一つ一つが直接的な死に繋がるこの戦場では全く以て無駄な攻撃であった。
「甘いわ!」
マックスさんはカインの手がすぐそこまで迫っていても動くことはなかった。
だが、カインの腕はマックスさんの喉を潰す寸手のところで停止した。カインが実質的な父への攻撃を躊躇った……というわけではなく、カインの拳がマックスさんの喉元にいきなり形成された水の盾に阻まれたからである。
そう、マックスさんの生命発現は水を操る力を持つ。まず、彼は自身の血液を操作し体内の温度を上げた。そして、体温が上がったことにより出てきた汗を喉元に集めて硬度を高め、即席で水の盾を作ったのだ。
「甘い、甘すぎるぞカイン!合コンで顔が人よりちょっと良いだけでお持ち帰りできると思っている男より甘いわぁ!!」
「なんだよ、その分かりにくい例えは!?ていうか、これ汗だろ!汚いから離せよ!」
そう叫ぶカインの右腕は、彼の一撃を防いだマックスさんの汗の盾が変形して彼の腕を包み込み、がっちりと固定された。カインはどうにかそれを振りほどこうと暴れるも、元盾は外れないばかりか、空中に浮いているにも関わらずそもそもマックスさんの首元から動こうとしない。
「おいおい、悲しいなぁ。昔はくっついて沢山汗をかくような行為をよくしたというのに!」
「言い方!!それ、親父が好きなサウナに無理矢理入れさせられただけだろ!いい加減にしろよセクハラハゲ!」
「だが、もう私も子離れしないといけない頃だな。わかった、俺を超えてどこまででも行け!」
「ぐえ」
カインが先程よりも強く右手を引っ張ったその瞬間、マックスさんが何かを悟ったように言い出し、汗での拘束を緩めた。そして、そのままひっくり返り背中をしたたかに打ち付けるカイン。……うん、痛そう。
というか、実際痛かったのだろう。カインはしばらく背中を手で押さえながら土の上を転げ回った。そして、ようやく痛みも引いてきた頃………。
「オマエ、コロス!!」
「ハハハハ!おいおい、もう里帰りか!カインはファザコンだなあ!」
生命発現とか無しに、本気の殺意で満たされたカインと、そんな彼を一方的に蹂躙するマックスさんとのいつものが始まったのであった。
――――――そして、完全に無いものと見なされている俺はというと、
「利口。うんちく話しているときのドヤっとした顔が可愛い。いよいよ成長するか怪しくなってきた細い体。……だ、だ……黙れこの変態お兄って言ったときの蔑むかのような視線……あ、『ん』って言っちゃった。……いや、まだだ、『ん』から始める千勢の好きなところなんてまだ20個はある……」
暇を持て余しすぎて妹の好きな所しりとり(1人)を行っていた。……いやまあ、暇じゃなくてもたまにやりはするのだが。
まぁ、これならカインが5時間くらい粘っていようが暇になることはないだろう。俺はど派手な親子喧嘩を横目に妹をただひたすらに褒めるのであった。
大量の風が少しの質量を持って俺の肌を撫でるように叩く。もう沈みかけで山の際を仄かに紫に染めている太陽と、灯り始めている星々、南の空に光る上限の月がおまけ程度に、そして、一定間隔に生える電灯が煌々と俺の走る道を照らしている。
現在、俺は『ADA』での形ばかりの勤務を終え、七番隊の基地のある第3エリア(7年前で言う佐世保)の軍基地部から、それはもう愛して止まない妹のいる第3エリア居住区へと帰宅するためにバイクを走らせていた。ちなみに、我らが七番隊の基地は、他の隊の基地と違い、太平洋戦争で使用されたとされる旧日本軍の基地を改造して使っている。
もともと、ちゃんとした七番隊の基地もあったらしいのだが、4年前の『深淵者』の大規模侵略によって倒壊してしまったらしい。そして今や、軍基地とは名ばかりの、ほぼマックスさんの自宅と化してしまっている。あの人はいついかなる時も一人以上は基地にいないといけないという『ADA』の規約を盾に、カインとあそこに住み込み、なぜか無駄に高いDIYスキルを使ってちょくちょく基地を私的空間に変えていっている。
そして、もとが旧日本軍の基地なだけあって建物内がめちゃくちゃ広く、隊長という高給の暴力で設備も完璧で、その上家賃もかからないという、好条件な物件情報は正直、未成年二人暮らしでちっこいアパートであくせくやってる俺からしたらもの凄くうらやましい。
いやまあ、狭い方が千勢とより近くにいれるからいいという感情もあるのだが………だが、マックスさん家(基地)の風呂、このご時世にバカでかいジャグジーだぞ。軍の訓練終わった後は必ず入るのだが、毎度毎度疲れが一瞬で抜けていくほどの極楽具合である。こちとら、非番の日はそれはもう狭いユニットバスだぞ。いや、それはそれで千勢の残り湯を堪能できたり、漏れそうという理由を盾に千勢の入浴中に強行突入をできる点では良いのだが………ふむ……。
ああ、風呂といえば、今日もマックスさんと共にジャグジーに入ってきたし、ジャグジー入るときは基本その日一緒に訓練していた男の仲間たちと入るのだが、どういう訳かカインだけは一緒に風呂にはいろうとすると絶対に断られるのだ。奴は、そんなに自分のぶら下げているものに自信がないのだろうか?いつかは絶対に拝んでやりたいものである。
とまあ、そんなマックスさん並みのことを考えていると我が家であるちっこい白塗りのアパートに到着した。俺は、慣れた手つき、否、足つきでバイクのギアをニュートラルに変え、今度こそ慣れた手つきでバイクのエンジンを切り、降車し、今度はまた足つきでサイドスタンドを地面につける。
そして、踊るような足取りで二階の角部屋まで向かう。
嗚呼、いよいよ、待ちに待ちに待ち望んだ我が愛しの妹に対面することができる。この事実だけで飯三杯は食えそうである。
俺は、すっころびそうなほどの前のめりでわが家へ向かい、扉を蹴破るように開ける。その際、ちょっとした抵抗感があったが気のせいだろう。
そして、眼前にはめくるめく桃源郷が……
「きゃああああああぁぁぁぁぁぁ!!え!お兄、なんで入ってきてるの!?私カギ閉めたよね!?」
なるほど、先程の抵抗感は鍵が掛かっていたからか。まあ、愛する妹に発揮されるお兄ちゃんパワーの前では特に意味を持たなかったようだが。
そして、その愛する妹はというと、現在淡い水色のブラジャーとショーツのみで身を包むという随分とまああられもない姿をしていた。その姿を隠すように丸まる千勢の足元に彼女の通う中学校のプリーツスカートが落ちているあたり学校から帰って着替えをしていたらしい。
着替えをするなら自分の部屋でやればいいのにと思うかもしれないが、我が家は八畳一間のため残念ながら個室など存在しない。そのため、彼女は俺が寝ている間や外出をしている間に着替えをしており、俺が外出しているときは入れないように念のため鍵を掛けているようなのだが、まあ、お兄ちゃんにかかればこんなものである。
「ねえ!ぼうっとしてないで早く出て行ってほしいんだけど!!?」
千勢が鈴を転がしたような声で、そう叫ぶ。色白の頬が今やいちごのように真っ赤に染まりきっているところを見ると、その心中はどうやら恥辱でいっぱいになっているらしい。
ふむ、それにしても可憐という言葉を体現したかのような女の子だ。
俺は、妹の叫びなど華麗に無視して彼女のことをじっくりねっとりと視姦する。基本的に千勢のお願いはそれがどんなに無理難題であろうと聞いてあげたいが、今回ばかりは男には例え何と言われようと譲れないものがあるというやつだ、仕方がない。
ありとあらゆる光を反射しキラキラと光る銀色のロングヘアーに、全てを飲み込むような綺麗なサファイア色に輝く二つの瞳は少しの涙を両端にため、そのしずくの反射すら常人を画すようだ。整った鼻梁に、普段は白い肌は現在の様に血の巡りで感情が読み取りやすく、そんな点も非常に可愛らしい。
そして、視線は下に移っていくのだが、凹凸がほんのわずかしかない彼女の体は非常に、その道を行く紳士淑女の好みに合致しているだろう。え、俺?俺は千勢の体がもちろん好きだが、それは俺がロリコンなのではなく、千勢が千勢だからだ。例え千勢がボンキュッボンのグラマラスな女性だったとしても喜んで受け入れよう。………しかし、本当に薄いな。さすがにもっと食べたほうがいいのではないだろうか?千勢は多感な時期のためたくさん食べることに抵抗があるのかもしれないが、お兄ちゃんは千勢がどんな体型でも大好きだぞ?
「いい加減出ていけ!この変態お兄!!」
「フゲスッ!」
と、俺が内心彼女のことを心配していたにも関わらず、千勢は近くにあった彼女の学生カバンを思いっきり俺に投げつけ、そのまま俺の顔面にクリーンヒットし、俺はカバンに視界を遮られたまま仰向けに倒れ伏す。
何か硬くて重いものが入っていたのか、強い衝撃の数瞬後に遠くなっていく意識の中で、
「あっ!お兄、ごめん!その中、辞書入ってるんだった!……お兄、お兄!」
微かにドタドタという音がこちらに向かってきているのが感じられ、それが聞こえなくなったと思うと今度は体を揺さぶられるような感覚が広がる。
どうやら、千勢が俺のことを心配しているようだ。ならば、ここで強がらなければお兄ちゃん失格である。俺は気合だけで迫りくる眠気に抗い、知覚を取り戻していく。聴覚が、触覚が、視覚が、そして嗅覚まで来たところで、俺は今現在千勢が常日頃から使用し、彼女の誰もを虜にするような清涼感のある魅惑のフレーヴァーが染み込んでいるカバンに顔を覆われていることに気が付いた。
そして、深呼吸。
「嗚呼、いい匂い」
「死ねっ!」
俺の腹をゆすっていた白魚のような肌の綺麗な腕が、一応軍人である俺の意識を一撃で持っていくほどの拳になって突き刺さったのはそのすぐ後であった。
「………なあ、千勢、千勢さんや」
「ふーん」
「千勢さん」
「ぷーん!」
自分で「ふーん」とか「ぷーん」とか言ってへそ曲げてんの可愛すぎだろ。
俺が目を覚ましてから現在まで、千勢は腕を組み、顔を俺から背け、さらに自分で効果音を出しながら、絶賛お怒りモードであった。
「いや、流石に今回は悪かったよ、ちょっとやりすぎた。謝るから許してくれ」
「…………反省は?」
「反省はしてない。今回の選択は俺にとって最良であったと思ってる。だから、俺はたとえ時間が戻ったとしても何度でも同じ道を行くだろう」
「バカお兄!本当に嫌いになるからね!?」
「本当に申し訳ございませんでしたもう二度としませんなのでどうかお兄ちゃんを嫌いにならないでください本当にお願いします」
俺は、それはもう綺麗な土下座を見せたとさ。
千勢に嫌われかけるという今世紀最大級のトラウマを植え付けられた俺は、現在非常に大人しく彼女と晩御飯を食べていた。普段であったら、どうにかして千勢にあーんさせたりしたりするものなのだが、今はさすがに控えている。
だが、目の前には晩御飯の野菜炒めのキャベツをもきゅもきゅと頬ばる千勢。出来ることなら、俺の手でその桜色の唇の奥底へと食べ物を運んでやりたい。そして、世の生物全てに見せつけてやるのだ。千勢の唇は俺のものだと。
「ねえ、お兄はなんでそんな変な顔をしてるの?」
「ああ、ちょっと愛が漏れ出てしまっただけだよ」
「?………まあ、それより、お兄、なんかあった?お兄はシスコンの変態さんだけど、いつもここまではひどくなかったでしょ?」
実の妹にシスコンの変態といわれるとはこれ如何に。まあ変態は置いといてシスコンは完全なる事実のため何の反論もできないのだが。
「ああ、ちょっとな。……最近『深淵者』の動きがあんまりないらしくて。4年前の侵攻はここまで来たらしいし、ちょっと不安になって」
そう、『深淵者』による4年前の大規模侵攻は、基本的な砦である第1エリア(五島)や第2エリア(平戸)を突破され第3エリアや第4エリア(長崎)まで敵の手が及び、『ADA』はもちろんのこと多くの民間人も命を落としたのだ。そして、それは『深淵者』の姿が少なくなり、いよいよ諦めたのかと安堵した束の間のことであった。
「……お兄、心配性すぎ。私はそんなやわじゃないって知ってるでしょ」
「いや、それでもだな。この世に絶対なんてないんだし、そもそも千勢にはひとかけらでも傷を付けてほしくないんだよ」
「だからシスコン………」
千勢が俺に呆れたようなジト目を向けてくる。
だが、そんな目をされても俺はこの俺を変える気は毛頭ない。なぜなら、家族を大切にすることが俺に残された使命であり、存在証明であり、ある種の呪いのようなものであるからだ。
そんな俺の意志を千勢が汲み取ったのか、ジト目を呆れ笑いに変え、
「はぁ、………じゃあ、私のことを頑張って守ってよね、お兄?」
そう言う千勢の眼には、まるで今日の昼間の暖かさのような俺への信頼と家族愛がありありと浮かんでいて、
「よし来た、じゃあ、まずは風呂で転んだりすると危ないから今日は一緒に入ろうか!」
俺のハートが天元突破してしまったのは言うまでもない。
「………か、ぞ、く?」
「ああ。家族だ。今日から君と私は家族だ」
見上げる俺の先には一人の男。白髪交じりの髪に、微笑むことでできた幾本かの皺。そして、そんな特徴とは裏腹に奇妙なほどにぴっしりと伸びた背筋。中世的な顔立ちに、全体的に細めの体躯。その割には大きくがっしりとした手。彼の発す声は威圧感のある重低音であったが、不思議とその声を聞くと今の今までどっかに行っていた心が急に引き戻されるかのような、自身の存在を示してくれるかのような安心感を得る。彼は年老いているのか、若々しいのか。はたまた、彼はそもそも男なのか、女のか。
多くの違和感を孕んだその容姿は、まるで彼という生物情報をフィルタリングのように包み隠し、明かさせようとしない。
しかし、そんな中でも唯一分かること。
それは、彼が、つい一週間前に最愛の両親を亡くして天涯孤独の身となった俺にただ一人手を差し伸べてくれる心優しい人間であること。
「かぞくってなに?」
そうだ、俺は家族がもうわからない。楽しいもの?否、両親は死んで俺を悲しませた。なら、悲しいもの?否、両親といるとき確かに自分は歓びを感じていた。ならば、ただ血がつながっただけの人?……もしそうなら、もう血は一滴も残っていない両親は俺の家族ではないのだろうか?
頭の中はぐちゃぐちゃで、心はひたすらにまっさらで、自分という存在がどんどん薄く細くなっていく感じ。辛いのか悲しいのか嬉しいのか楽しいのか、全部が当てはまっていて全部が違う。ああ、もう、わかんない。
「家族とは、か。………そうだな、私は、家族というのは守るものだと思うよ」
「守る、もの?」
男は、その大きな体躯を丸めて、首を傾げる俺と目線を合わせると、
「ああ、そうだ。血がつながっていようがいまいが、ただ、その人を全てを投げ打ってでも守りたいと思って、その人も自分のことを守りたいって思ってくれてるなら、もう、それは家族なんじゃないかな?………だから、私は君のことを何があっても守ると誓うよ。君も約束してくれるかな?」
大きな手を俺の前に差し出した。
この人と共になら、何でもできる気がする。そんな何処からともなく湧いてくる万能感。そして、俺はこれからその力の全てを家族に費やそう。
「うん、約束する。何があっても、家族を守る。………絶対に、傷つけさせない」
男は俺と握った方の手とは逆の手で全てを包み込むように俺の頭を撫でると、
「強い子だ」
嗚呼、それは全ての始まり。
俺の喜びの、俺の希望の、俺の存在の、俺の呪いの………。そして、これから、俺はこの人と共に家族として生きていく。そんな、ありふれてはいないにしても突出したストーリーには成り得ない、そんな日常の。
…………あれそういえば、この時彼は、どんな顔をしてたんだっけ?
「……ぅぁ?」
自身と世界が半ば同化してしまったかのような充足感が段々と引いていていき、代わりに体の中心から末端に意識が行き届き、いよいよ五感が冴え渡り、俺に音を、光を、温度を与えてくれる。
「おい貴様、訓練中に居眠りとはずいぶんとまあ偉くなったじゃあないか?そんなに俺に嬲られたかったのか、この欲しがりさんめ、ええ?」
そして、ようやく正常な判断ができるようになった脳内機能が、全力で危険と後悔を告げていた。
俺の目の前に映るのは、黒光りするスキンヘッドが特徴のガチムチのナイスガイ。つまりは、マックスさんが非常に良い笑顔で俺の前に立っていたのだ。
ああ、そうだ。俺は昨日、千勢への愛がオーバーフローした結果一日中イチャコラして(一方通行)、ほとんど寝ないまま、七番隊基地まで出勤してそこで基地内にあるジムで訓練をしていた。そして、その途中で居眠りをして現在に至る。
いや、今はそんなことよりもこの危機的状況から抜け出さなければ
「いや、ハハハ………今のは眠っていたんじゃなくて、瞑想していたんですよ。……ほら、よくあるでしょう?真の強さを手に入れるためには己の心に勝つことが大事だって」
「なるほど………だが、その理論には重大な欠点があるようだ。俺は自分の心に常に忠実に従っているが十分強いぞ…………てことで、瞑想なんて無駄なことはやめて俺を見習ってひたすら模擬戦をするんだ。ほら、かかってこい」
「いや、ま、まあ?何事にも例外はつきものですし………」
「ほら、いいから模擬戦をやるぞ。今日はほかの奴らは全員出張か非番だからな。たっぷり遊んでやる」
不敵な笑みを浮かべながら、指をポキポキと鳴らすマックスさん。対象に俺は、張り付いたように苦笑いを浮かべながら、全身をがくがくと震わせている。
「隊長、それは俗にいうパワハラというやつでは?」
「面白いことを言うなあ巽。パワハラなんて単語は7年前に消えて無くなった。ビバ過酷労働」
「ここに危険因子がいるぞ!!」
そこまで言い合ったところで、不意に、マックスさんが拳を振り上げ、俺の頭に寸分の違いもなく振り下ろす。『水を司る四大精霊』まで使用し、血液を操って無理やり速度を上げた拳。俺が咄嗟にに飛び退いたから良かったものの反応できなかったら今頃は確実に潰れたトマトだ。
「ちっ、外したか。……まあいい。俺が昨日夜なべして考えた技はまだ24個ある。何個かは当たるだろ」
「え、ちょ、え?これもうパワハラというか殺人では?……え、ほんとにやるの?え、ぎゃああああああ!!!」
その後俺はこってり搾り取られましたとさ。
「はあ……はあ、今日は、こんくらいに、しといて、やろう」
「ぜえ、ぜえ…………ぶっ倒れるまで、殴らないで……くださいよ……」
マックスさんの一方的な愛の鞭を避けて避けて避けまくった俺は、最終的にジムから屋外の森まで逃げのびた。そして、しぶとくもそこまで追ってきたマックスさんもようやく力尽きたようで二人で仲良く土の味を噛み締めていた。
肺がこれでもかというほどに空気を求めている。血が巡りに巡る。体は蒸気が上がるほど熱く、対比して土は面白いほどに冷たい。
よし、あと5分したら起き上がろう。そう思い、体の力を完全に抜き大地に体重を全て押し付けようとした、直後
―————————————ウウウウウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ―——————————————
けたたましい音のサイレンが二人の鼓膜を最大限震わせた。
「ちっ、このタイミングでかよ……」
マックスさんが忌々しげにそう呟く。体はもう起こされていて、息も落ち着いていた。
俺もすぐに起き上がり、サイレンに耳を傾ける。
―——『深淵者』襲来、『深淵者』襲来————
そう、これは『深淵者』たちの侵攻を知らせる放送である。軍基地などの『ADA』関連施設はもちろん、この九州内にこれでもかというほど屹立している。主に探知を得意とする大隊である3番隊が『深淵者』の襲来を一早く察知しこのサイレンを鳴らし、襲来場所から最も近い大隊と二番目に近い大隊もしくは中隊が応戦にあたるといったシステムで『ADA』は『深淵者』との戦闘行っている。
まあ、ほとんどの応戦場所が第1エリアや第2エリアのため、第3エリアにある七番隊のように内地寄りに基地のある大隊は基本、隊全体で応戦に向かうことがないため、他の隊に出張しそこで『深淵者』と戦うことがほとんどだ。
―——襲来場所は第3エリア、第3エリア。討伐隊は7番隊、1番隊第4中隊。避難区域は第2エリア、第3エリア、第4エリア。『深淵者』は子爵級と推定。速やかな避難と応戦を。繰り返します襲来場所は……――
え、今、なんて?
「SHIT!三番隊は何をしてやがる!?」
マックスさんが地に拳を突き立て悪態をつく。だが、それも仕方がない。ただでさえ稀な第3エリアへの侵攻。それも、第1エリアや第2エリアが突破されて第3エリアへの侵攻を許したのではなく、第3エリアに直接『深淵者』の侵入を許すなど今まで類を見ない例である。正直フェイクニュースを疑うレベルだ。
ドゴンッ
だが、現実はいつも非情なもので、先程のサイレンとは変わって僅かに鼓膜を揺らす破壊音が、今まで想定していた最悪を大きく上回るほどの現実を叩きつける。
まさか、もう町中まで来ている!!?
背筋が冷たくなり、変な汗が全毛穴から噴き出す。
「文句言ってても仕方がねえ!おい巽、今すぐ行くぞ!」
マックスさんもその結論に至ったのだろう。破壊音がした方へどんどん走り出している。俺も、彼に勝るとも劣らない速さで森の中を駆けていく。
一瞬とも永遠とも感じられるような時間が過ぎ去り、俺らは森の終わり、町の方がよく見える高台まで辿り着き、遠くに見える吹きあがる粉塵にいよいよ最悪の事実が脳髄に叩きつけられる。
「くそっ!もう被害が出てやがる……おい、巽!俺は先に言ってるからお前はバイクで追いかけてこい!あれは俺が良いって言うまで使うんじゃないぞ!」
マックスさんはそこまで言うと、ここまで走ったことと、この地獄みたいな光景により噴き出した大量の汗で鷹のような鳥を作り、その水の鳥の足に捕まると風のような速さで煙の上がっている方まで飛んで行った。
俺も今すぐ基地まで戻って、マックスさんを追いかけなければならないのだろう。しかし、俺の足は未だに動く気配がない。
あれ?俺は何か大切なものを忘れている気がする。否、俺は今、何かを理解するのを拒否している。それは、俺が細胞レベルで刻み込んでいて意識でもその事実に警鐘をけたたましく鳴らしていて、でも、心の部分でその情報に制限をかけているような感じ。
知覚がどんどん狭まり、もはや前後左右の認識すら不可能なほどの拒絶感。自分という存在がどこまでも遠くに行ったかのように体の制御が効かない。
再び巻き上がる粉塵。
マックスさんがたどり着くにはさすがに早すぎるため、そこに居るであろう『深淵者』がまた何かをしたのだろう。
その光景を見て、俺は、ようやく脳のフィルターが解除された。
―————————ああ、煙が上がってる建物は、千勢が通ってる学校だ。
それに気付いたのは、俺の黒かった瞳が黄金色に光った数瞬後であった。
「〈次元超越〉三次元」
俺は、その言葉だけを残して、その森から消失した。
(ねむい……)
古文のつまらない授業を話半分に聞きながら、千勢はそのサファイアのような蒼々とした瞳が格納されている瞼を二度ほどこする。
昨日は、兄のウザ絡みが夜中いっぱい続いたためろくに寝ていないのだ。どうせ今頃、私を睡魔に陥れた犯人の兄も居眠りをしているはずだ。ふむ、そう思うと一回殴りたくなってきた。………というか、いくら日本人の割合が若干多いとはいえ、グローバル化の進みすぎた今の時代に古文の授業をする意味はあるのだろうか?
そんなことを思う人が大半なのか、クラス内は若干浮ついた雰囲気にあった。
内職に精を出すもの、手紙を回すもの、机に突っ伏して寝るもの、本当に様々なことをしてこの時間を有意義に(?)過ごしているようだ。
ああ、寝てる人たち見てきたら、私ももっと眠くなってきた。
幸い、今日の日付からどんな計算をしても私の出席番号を導き出せないだろうし、先程当たった人の席と私の席とはかなり離れている。これなら寝てもばれることはないだろう。
そこまで考えて、私は段々と重くなってきている瞼をするすると閉じて………
「ねえ、あれ、なに?」
閉じてしまおうとした時だった。そんな声が聞こえたのは。
クラスメイトの一人が、窓の先に広がる蒼穹に指を差したのだ。当然、全員の視線はそちらに引かれ……そして、見た。
空に浮かぶ一体の人型の影を。
全員が、自分の見た光景に疑いを持ち、一度、目をこすってもう一度目をしかめて確認する。
そして、その一連の動作が終わる前に、校舎が倒壊した。
一瞬のうちに瓦礫で覆いつくされる視界。そして、千勢は反射的に頭を守るように手を頭の上に置き、数秒後に襲ってくるであろう衝撃に耐えるために、体を丸める。
途端、轟音。鼓膜を突き破らん限りの、破壊音が、誰かの怨嗟が、悲鳴が千勢の耳を襲う。続いて、体の芯を貫くような強い衝撃。下からはもちろんのこと、上も右も左も、ありとあらゆる場所で自身の細胞が悲鳴を上げるのがありありと分かる。要所要所が燃えるように熱いのは、恐らく皮膚が切り裂かれたり、骨にひびが入ったりしたからからだろう。
そうして、ようやく反射的に瞑ってしまっていた瞳を開けてみると、自分は今闇の中にいた。
自分を包み込んでいるのは瓦礫の山だと気付くのが遅れたのは、あまりにこの光景が非日常だったからだろうか。それとも、誰しもが抱えているであろう7年前のトラウマを想起させたくないからであろうか。
千勢は、暫くの間この議論について少し考えて現実逃避でもしたい気分であったが、そうは問屋が卸さず本能的にこの瓦礫の山を崩していく。
幸い、千勢が動かせないような大きな瓦礫もなく、生き埋めになるような不幸もなかったため彼女は数分の間で自分が閉じ込められていた瓦礫の中から脱出することができた。まあ、脱出できたからと言って更なる地獄が待っていただけであったが。
千勢の前方10メートルほど先に、それは立っていた。
先程それを見たときはただの人影程度にしか見えなかったが、こうして見てみるとそれがあまりに人と乖離した存在だと千勢は今頃になって気づかされる。
まず、人間というにはそれは大きすぎた。小柄な千勢の身長の三倍ほどある。しかし、体はきれい亜逆三角形に引き絞られていて、腹回りなど千勢よりも細いであろう。そして、手足が長く、手に至ってはその先に生えている50センチほどありそうな爪も合わせるとそれの体の三分の二ほどを占め、降ろしている左手は地面に着いてしまいそうなほどである。体は全て、人種なんかでは説明がつかないほどに漆黒で、丁度、夕方に映る自分の影を切り取りでもしたらこんな姿に見えるのではないだろうか。
そして、それの顔は怪鳥のような嘴を持つ逆三角形で、眼は一つしかない。
そんな絵に描いたような怪物が、恐らくはこの学校の生徒であろうもう死にかけの男子を右手で軽々と持ち上げ、その男子の頭を食いちぎっている光景が目の前に迫っていたのなら、きっと誰であろうととんでもない悪夢だと疑ったはずだ。
しかし、体中をじわじわと舐め回すように広がる鈍い痛みが、なにより、7年前に刻み付けられたその化け物と同じような姿をした『深淵者』の姿がこれは現実で、現在自分のすぐ近くに『深淵者』がいて、人間を殺し生命エネルギーを啜ってているのだと残念ながら真摯に訴えかけていた。
『不味いなあ、平和ボケしたガキどもめ』
その光景に圧倒され、金縛りのように動けない千勢の耳に、突然にそんな声が聞こえてきた。
男なのか女なのかもわからない、ノイズの混じる機械音のような不快な声。それは、声帯のない『深淵者』がテレパシーを発する時に聞こえる音声であった。
発声、ならぬ発テレパシーの主であるその『深淵者』は、その言葉と共に忌々し気に先ほど食いちぎった男子生徒の頭を吐き捨てる。肉片が飛び散り、千勢のすぐ足元まで血が舞った。
その凄惨のたる光景に、さらに千勢の足を固定され、どうしたって動く気配がない。それどころか、体の運動部分と神経部分の接続が切れてしまったかのように、呼吸が、脈動が、発汗の感覚が全くと言っていい程ない。
そして、人間よりもよっぽど知覚が鋭い『深淵者』に近くで棒立ちしている千勢が見つかるのにさして時間はかからなかった。
『お前は…………うまそうだな』
『深淵者』は千勢を値踏みするかのように睨め付けると、やがて口角を不気味なほどに上昇させ、千勢に一歩ずつ、一歩ずつ、まるで自分がこの空間で最強の生物であるといわんばかりに余裕をもってゆっくりと向かっていく。
ようやく、体中に意識が戻ったが、それは緊張の糸が切れたのではなく、いよいよけたたましく鳴っている生命のJアラートが限界を迎え、知覚がこれでもかというほど引き伸ばされているだけのものであった。
脳が凍ったように、何一つとして考えはまとまらなかったが、唯一つ、こいつから今すぐに逃げないといけないということだけは自明の理であった。千勢は、本能的な部分で『深淵者』に背を向け、未だ棒切れのようになってしまっている足をどうにか前に動かそうとする。
そして、ようやく一歩前に進んだところで、突如、千勢の視界の左側に亀裂が入り、大量の瓦礫が巻き上がる。さらに奥の方へ目をやると、視線の先に佇んでいたビルの左側が轟音を立てて崩れ去っており、その光景で、ようやく後ろの『深淵者』が千勢のすぐそばを斬ったことが分かった。
『逃げない方がいい。お前がしっかりと家畜としての役割を理解していれば、楽に死なせてやる』
『深淵者』が余裕たっぷりに放ったその言葉に、千勢の心は未だ覚えのない激情がマグマのように沸々と湧き上がるのを感じた。
自分たちを眼中にすら入れていない、明らかに舐め腐っている発言。きっとこいつらは今まで自分たちが殺した人間の顔など覚えていないだろう。
だが、それは当たり前のことだ。千勢だって今まで食べてきた動物の顔を覚えているかと聞かれたら、否と答えるしかない。
だから、これはあまりにも自分勝手で、理不尽な感情。でも、だからこそ止めようのない熱情。
それは、自分たちを殺すことを是とするこの世の不条理に対する反発心であり、人間が『深淵者』にとってはただの餌であることの劣情や屈辱であり、先程まで動けなかったどころか、背を向けて逃げようとした自分への羞恥心であり………。
とどのつまり、人間を舐めるなっていう怒りであった。
(私は今、怪我してる……。これを舐めればあいつと戦えるーーー!)
千勢は、彼女の胸を突き刺すような激情のままに、自身の血が滲む手を口に近づける。
自身の血を飲む。これが千勢に備え付けられた生命発現の発動条件であった。この行動により、千勢の力が解放され、最早敗北の二文字は彼女の辞書から存在を消す。
ーーーしかし、
(あれ、私、何か優先順位を間違えてない?)
大いなる力には大いなる災いが伴う。この力の解放にはそれこそ、千勢にとって一番大切なものである、兄との暮らしが困難になってしまうほどのリスクが付き纏う。
故に、千勢は逡巡してしまったのだ。この一時の感情に任されて、自分は兄との日々をどぶに捨てようとしているのではないだろうか、だが、この危機的状況を乗り切らない限り、兄との時間は永遠に訪れなくなるのではないか、と。
そして、刹那の時が勝敗を決するような『深淵者』との戦闘において、逡巡は熟考とさして変わりはなかった。
(あ、まずい、これ、死………)
千勢が気付いた時には頭上に迫っていた、無慈悲な死を突き付ける死神の鎌のような『深淵者』の長い爪が勢いのままに振り下ろされた。
「ふううぅぅぅぅ。………ギリギリセーフ」
俺は、宇宙誕生から例を見ない美しさを持つ我が妹の千勢に降ろされた不届き者の腕を千勢に届く寸前に受け止めた。いやあ、これマックスさんに鍛えられてなかったら受け止めきれなかったな。本当に効果あったんだな、マックスさん式訓練。
『お前、邪魔だぞ』
ほう、流石は『深淵者』、戦い慣れしてやがる。一切動揺することなく、すぐに俺に向かってその爪で切り裂こうとしてくる。俺も一軍人として、賞賛の一つも送ってやりたいものである。
まあ、俺は今すごく怒っているためこいつにくれてやるのは痛みと、苦しみと、死くらいであるが
「お前こそ、少し黙れ」
俺は、振り下ろされる『深淵者』の腕を、空間に発生させた歪でぐしゃぐしゃにして、もう一個発生させた歪で『深淵者』の体を五十メートルほど先まで吹っ飛ばす。俺の目は、獅子のように同行が細長くなり、金色に輝いていた。
「わりい、千勢。ちょっと遅かったよな。………ああ、ああ、こんなに怪我してしまって……おれは、本当にだめな兄ちゃんだな」
俺は、千勢についた無数の傷を見て、激しい自責の念に駆られる。
ああ、なんで俺は千勢がこんなに傷ついているときに、ただのうのうと過ごしていたんだ。これでは、俺の存在意義がないだろう。こんな、家族の一人も守れないような人間に、いったいどんな価値があるというのだ。
「………お兄は全然ダメダメじゃないよ。私はお兄が助けてくれたおかげで、大丈夫だから、安心して?」
本当に、俺の妹は優しい。誰がどう見たって大丈夫ではない体の損傷。出来ることなら、俺が彼女の痛みを全部肩代わりしてやりたい。でも、残念なことに俺の生命発現にそんなことは不可能だ。
だから、俺は自分の持ちうる全ての力を使って、彼女の苦しみを最初からなかったことにする。
俺は、もう一度傷だらけながらも変わらず綺麗な千勢の顔を見て、その土こけていながらももっちりとした頬をひと撫でして、
「お兄ちゃん、ちょっと行ってくるから」
その一言を聞いた、千勢は、ただでさえ色白の頬を真っ青にしながら
「だめ!お兄、それだけはダメッ!!」
なんか、千勢にそこまで言われたら行く気が失せてきた。
いや、でも、だめだ。俺は千勢には一欠けらも苦労をしてほしくない。
「〈次元超越〉四次元」
俺は、再び、存在を消失させた。
突然だが、俺の生命発現は『歪み』だ。字面の通りいろいろな場所に歪みを発生させることができる。
それこそ、空間にも、時間にも。
この『歪み』を極めに極めた結果辿り着いた絶技。それが〈次元超越〉、これも字面通り任意の次元に歪みを発生させ、その次元の壁を取っ払う技である。
俺が、基地の森から千勢の学校まで移動したのは三次元、要は世界の距離的な壁に歪みを生じさせて瞬間移動を可能にする技を使ったからで、さっき使ったのは、時間的な壁に歪みを生じさせて時間旅行を可能にする技である。
これだけを聞くと、とんでもなく万能な能力だと思うかもしれないが、実際のところいくつかの欠点はある。先ずは、〈次元超越〉は消費する生命エネルギーの量がとんでもないということ。そして、これは俺ができれば〈次元超越〉の四次元を使いたくなかった理由なのだが、どうやら、世界の絶対的な決まりのようなもので同じ人間は何があっても同じ時間に存在できないらしく、四次元を使って俺が過去に戻った場合、その時間軸での俺は死ぬ。そしたら、なんで現在俺は存在できてるのかということになるのだが、それは、俺が元の時間軸に意識を置いてきているからだ。どうやら、人間の心というのは脳の光の揺らぎによって形作られているらしい。そして、俺はその揺らぎを歪みにより人工的に創造することができる。つまり、タイムリープしてきた俺が、タイムリープした時間軸で全く新しい意識を錬成し、その時代での俺の存在を抹消し、その時間軸で俺ではない何かになって俺という存在に成り代わる。これが俺の使う四次元のメカニズムであるらしい。
ここまで長く語ったが、要は四次元を使った瞬間俺は死ぬわけだ。そして、俺の体に人工的に作られた俺の意識が宿る。そういうわけだ。流石に自分が死ぬと分かっている技をポンポンと使うような阿呆はいるまい。今回は、自身の死よりも優先することがあったため使ったまでに過ぎない。
さて、タイムリープしたとき特有の、頭痛のようなものも鳴りを潜めてきたためそろそろ行動に出るとしよう。
俺が降り立ったのはタイムリープから30分ほど前の千勢の学校だ。30分弱後にはボロボロになるのが信じられないほどにどっしりとしたつくりである。そりゃあ、まあ最前線で人が少ないとはいえ、第2エリアから第4エリアまでの中学生がまとめて通う学校ならばこれくらいでかくもなるか。
さて、これから俺が目指すのは誰一人死ぬことのないまま『深淵者』を討伐することだ。たとえ、知らない生徒だとしても死んだのなら、千勢は少なからず気にするであろう。それは、俺の魂に刻まれた目標である『千勢を傷つけない』に反する。
果たして俺にそれが可能だろうか?一瞬だけでも戦ってみてわかる。あの『深淵者』は恐らくかなり強い。サイレンでは子爵級と言っていたが、伯爵なのではないだろうか。あの一瞬の間では俺が『深淵者』をふっ飛ばして優勢のように見えたが、あのまま戦いを続けていたら恐らく俺は負けていただろう。
ちなみに、子爵級や伯爵というのは、『深淵者』の強さを表す指標で、あいつらは完全実力主義で、貴族性があるため、当然上の序列になればなるほど強くなる。そのため、ヨーロッパでいう爵位を『深淵者』の強さの指標としているのだ。
伯爵は子爵の一個上で、序列としてはまぁ上の方だ。普通なら、一個中隊と同等の戦力を誇る。
……どう考えても部の悪い勝負だ。だが、まぁ………
「お、おいでなすったか」
俺はお兄ちゃんだからな。
俺は、今一度、瞳を金色に爛々と輝かせながら、この中学校の鬼広い運動場に浮かぶ化け物に向かって飛んでいった。
さあ、これで確か7回目のタイムリープだ。
結局の所、俺はストレートで『深淵者』に勝つことはできなかった。そのため、俺は危なくなったらすぐに四次元を使用して、何度もやり直しをしている。どっちにしろ俺という人間は7回死んでいるのだが、完全な死と、体も意識もまあ無事っちゃあ無事な死なのなら俺は後者を選ぶ。
もう、ずいぶんと見慣れたグラウンドの上で、俺はゆっくりと伸びをした。
「………さて、そろそろ勝ちに行くか」
もうあの『深淵者』への情報も随分と集まってきた。鋭い爪による切り裂きの攻撃や、『深淵者』が好んで使う武術。それだけと思うかもしれないが、これがまあ洗練されていて、基礎戦闘力では逆立ちしても勝てないであろう。そして、最も厄介なのは恐らくあいつの異能である。腕や足を振るった時に任意で、ありとあらゆるものを切り裂く斬撃を飛ばす能力。これをあいつの武術に組み込んできたり込なかったりするため、内側に入りきれず仕留められない。
うん、なんか勝てる気がしないんだが……。
数十分前、俺があれに勝っているところはせいぜい、汎用性の高い生命発現と千勢への愛くらいだ。しかし、今は奴への情報がある。それは、戦いの場において極大のハンデであった。
「……そろそろだな」
俺は一度、体中の空気を吐き出すほどの大きな深呼吸を行い、全身の筋肉を弛緩させ、もうあと少しまで迫った大立ち回りに向けて、今度は逆に全身に力を込める。
3番隊の人間が『深淵者』の接近に気づかなかった理由。それは、単純明快で、おそらく『深淵者』たちがステルススーツもしくはワープ装置の開発に至ったからだろう。今まで6回あの『深淵者』の登場を見ることになるのだが、あいつはいつもいきなり虚空から現れるのだ。そりゃあ、いきなり影も形もないところから現れる敵などに対処できるはずがない。
だがそれも、現れる座標と時間を把握している俺からしたら、棒立ちと何ら変わらないのだが。
俺は、自身の筋肉構造に歪みを生じさせ、普通の人間が不可能なほど高く、具体的に言うと十数メートルほどの垂直飛びを行う。そして、高度が最高潮に達したところで、俺のちょうど2メートルほど真下に突如『深淵者』が現れ、俺は、そいつに向かって歪みにより最大限まで強化された身体能力のままにかかと落としを喰らわせる。
『深淵者』はグラウンドに突き刺さり、大量の土片と煙を巻き上げる。確実に人間ならば死に至る一撃。だが、それは人間の話。『深淵者』はこんなものは蚊に刺された程度の攻撃だろう。数秒後には、奴の鋭い爪が俺の喉元に襲い掛かるだろう。
だから、反撃の隙を与えない。
「三次元」
最早、刹那の時も惜しい。俺は『深淵者』が落ちた瞬間、三次元を使い、空中から『深淵者』の着弾点に瞬間移動をする。そして、土煙が上がり、普通の人間では死人が不可能な空間を、歪みの力で目に加工を施し『深淵者』の位置を確認、強化した拳で掌底を叩き込む。
再び、吹っ飛ぶ『深淵者』。そしてそれを、三次元を行使し追いかけ、再び掌底や蹴りを『深淵者』に突き刺す。その際、万が一でも学校の設備に当たって千勢及び他の生徒が巻き込まれないように、『深淵者』を吹っ飛ばしたあとぶつけるのはグラウンドの一部分の土を重力を歪めて、浮き上がらせたものにする。
そして、その一連の動作を続けて、およそ10回目の攻撃を行おうとした時、
「うおっ!……あぶねぇ………」
突如視界の8割を埋め尽くした黒い殺意に、俺はギリギリで飛び退き、その勢いのままさらに下がり、そいつと10メートルほどの距離を作る。
『深淵者』の爪による攻撃。クソッ、予想よりも早く反応してきやがった。
俺が避けたことで攻撃が止み、段々と地面に舞い落ちていく土煙の中から、黒曜石の色をした修羅が姿を現した。
『何故バレた………?…………まぁ良い。そこのお前、家畜の分際でこの極大な武力。賞賛に値する』
『深淵者』は俺にきっと思ってもいないような賛美を並べて、なんなら、どこで覚えてきたのかそれとも『深淵者』の文化として元からあるのか、その細く長い腕で拍手をしながらゆっくりとこちらに向かってくる。
そうして、そいつは5メートルと少し、剣道で言うところの九歩の間合いの位置で止まり、
『だが生憎、私は躾の成っていない犬は好かん』
その言葉と共に、たった一歩で5メートルもの距離を一瞬で詰め、俺を袈裟斬りにするべく、俺に左上から5本の爪が、まるで手甲鉤のように迫る。
ふむ、これは3回目のタイムリープで見たものだ。
「三次元」
俺は三次元を使用し、『深淵者』の背後に移動。そいつに、今度は歪みでドーピングした打撃ではなく、直接の空間の歪みを、そいつが長めの一歩の先で着地するであろう左足にぶつける。空間の歪みとは、空間をぐちゃぐちゃに混ぜ込んだもので、当然こんなもの体にぶつけられでもしたら、
グシャッ
身体が空間と共にグシャグシャにひしゃげる。そして、ひしゃげた足で『深淵者』の大きな体を支えられるはずもなく、そいつはひしゃげた足で着地をして、もんどりうって倒れ慣性の法則のままに1、2メートルほど地面を転がった。この長い戦いが始まって以来、『深淵者』に目に見えるダメージを与えられたことに俺の心臓は面白いほどに鳴り、歓喜のビートを刻んでいる。きっと脳内にも、これでもかというほど快楽物質が飛び回っているだろう。
しかし、相手の反応も素早かった。
『深淵者』はうつ伏せの体制から、跳ねるように体を回し仰向けになり、その回転した拍子に腕を振るい斬撃を俺に向かって飛ばす。そのでかい体で攻撃動作がほとんど見えない攻撃。これを初見で受けきれるものは一握りの生物しかいないだろう。
そう、初見ならだ。俺は、5回目のタイムリープでそいつが怪我を負っていない完全な状態でのその技を一度喰らいそうになった。あの時、咄嗟に四次元を使っていなかったら俺の人生は完全に途絶えていただろう。
まあ、つまりは一度見てしまったら対処は容易なのである。
俺は再び空間に歪みを発生させ、それを自分の眼前に薄く広げるかのようなイメージをしながら掲げる。刹那の後、『深淵者』が放った斬撃は俺の歪みにより進行方向を乱され、大空に打ち出されやがて霧散した。
現在、『深淵者』との距離は2メートルと少し。『深淵者』は片足を壊され、先程奥の手も破られた。
……今なら、いける。
俺は、長く続いたこの戦いに終止符を打つべく、三度発生させた歪みを手に一歩踏み出し………
「っ!ゴフッ!!?」
踏み出した途端、俺の口からはちょっと信じられないほどの鮮血が飛び出した。発生させた歪みは空気中に霧散する。
くそっ!生命エネルギーを使いすぎた!
俺は、歓喜のリズムから一変、鼓膜が破れそうなほど不快な音を響かせる心臓の痛みや、体中の血管が破裂したかのような苦しさとも辛さともどっちつかずな不快感などで朦朧となる意識の中、そんなことを思う。
生命エネルギーとは読んで字の如く、人間や『深淵者』の根幹に眠る、生命を維持するために必要なエネルギーのことだ。そのため、生命エネルギーが身体内に無いと我々は死ぬ。
しかし、生命エネルギーはそれこそ無から有を生み出せるほど出鱈目なエネルギーであるため、それが多少無くなっても時間が経てば元の量に戻るため、普通に生活していればそんなリスクに侵されることはないのだが、生命発現の過剰使用によって著しく生命エネルギーが放出された場合、俺らの体は危険を知らせるために現在の俺のように血反吐吐いたりと様々な警告を発する。
俺は、体中を赤熱化するほど熱された針で刺されているかのような痛みに耐えかねて、思わず膝をつく。そして、その動作は、形勢逆転を知らせるには十分すぎるものであった。
『これで、終いだ』
足を引きずりながら、俺のすぐ前まで来た『深淵者』が散々殴られた意趣返しなのか切り裂くのではなく、俺を校舎までふとっばすかほどの威力を秘めた拳を俺に向かって突き出したのは俺が膝をついたすぐ後であった。
なんで俺生きてんの?
俺は未だ朦朧とする意識の中で、そんなことをぼんやりと考えていた。体のありとあらゆる場所が弛緩し、そこからコントールが効かない。まるで自分という存在が誰かに乗っ取られたかのような感触。いや、まあ、体の乗っ取りは四次元を使った時点でやっているため今更その感触に何かを感慨が湧くかといわれたら何も湧かないのだが。
まだかろうじて機能を果たせている耳だけを頼りに俺の今の状況を探る。
「おい!この人まだ生きてるぞ!」「担架持ってこい!」「ねえ、あれ、こっち向かってきてない!?」「やばいよ!やばいって!」「こんな時って心臓マッサージするべきか!?」「お兄!?」「それより、ここから逃げようよ!」「逃げるったって、どこにだよ!?」「あいつのいないところ!」「無理だろ!それよか、この人を回復させた方がいい!おい、回復系の生命発現を持っている奴はいねえか!?」
いや、逃げろよ。避難警告はとっくにならされているはずだろう?
俺はどうやら教室に突っ込んだようで、俺の周りで足音がバタバタと騒がしく響いている。そして、どうやらこのクラスの人間は目と鼻の先に『深淵者』がいるというのに避難もせずに俺の戦いぶりを見ていたらしい。まったく、あいつを倒した暁にはこのクラスの人間を泣くまで説教してやろう。
…………ん、ていうか、そんな阿呆なことを考えるより大事な言葉が聞こえた気が。今、誰か俺のことを「お兄」って言わなかったか?俺に対しそんな呼び方をするのはこの世で一人しかいない。
「あっ、この人目を開けたぞ!」
俺は気合一つで、先程まで動かなかった目を開け、周囲の様子を見る。この状況をどうにか打破しようと頭を巡らす利口そうな子、クラスをどうにか一つにまとめようとする学級委員みたいな子、脅える子、自棄になってる子、そして……
「……ち……せ…………?」
綺麗な銀色の髪を翻して、顔に焦りと困惑を浮かべるこの世で最も可憐な少女が俺の方へ向かってきていた。
なるほど、俺は千勢のクラスに突っ込んだのか。うん、それがわかったらなんかちょっと空気がうまくなった気がする。
いやまあ、そんなことより………
「……千勢、逃げ……ろ」
俺は血の味が広がる喉をかすかに動かして、千勢にそう伝える。あと、数封もすればマックスさんが到着するだろう。そうすれば、あいつを屠ってくれるだろう。だから、あと数分間俺が時間を稼いで、千勢が逃げれば俺の勝ちなのだ。
「っ!?……なに言ってんの、バカお兄!そんなにボロボロになるまで戦って!どうせ、あれを使ったんでしょ!?……ちょっとは自分のこと大事にしてよ!」
おいおい、最期くらいお兄ちゃんの言うこと素直に聞いてくれよ………。これが反抗期ってやつか?
千勢は目尻に涙を浮かべながら、俺の言うことを全力で否定する。そして、何やら覚悟が決まったかのような鋭く揺らぎのない目をすると、
「お兄がそんなこと言うなら、私だってあれ使うから!」
「絶対にやめろ」
あんなに頑張らないと音が出なかった声帯から、スルスルとはっきりとした言葉が出てきて、どうしても動かなかった腕が、自分の血を飲もうと自身の口元に持っていこうとするスベスベとした手をやさしく包み込むように止める。
そんな芸当が可能になったのは、千勢が俺の心臓が止まるほどのことを言い出したからか、さっきの学級委員風の子が回復系の生命発現で俺を微々たる量だが治療してくれているからか。
「千勢、大丈夫だ。お兄ちゃんが全部やれるから」
「うそ。お兄はもう戦えない」
「………わかった。あと1分でケリつけるから、それができなかったら好きなように動け」
「…………わかった」
俺は、ものすごく嫌々だが、折衷案としてその提案を出す。千勢も嫌々だがそれを了承してくれた。………まあ、1分で片付けられたら千勢にかっこいいところも見せられるし最悪というわけではない。
何はともあれ時間がない。俺は治療をしてくれた委員長(仮)に短く礼を告げると、段々とこちらに向かってきていた『深淵者』の方へ教室(3階)から飛び出していく。マックスさんに日頃より鍛えられている俺にとっては階段三段跳びとさして変わらないほどの衝撃を足に感じながら
「さっさとケリつけんぞ、かりんとう!」
俺はかりんとう(黒くて細くて長いためそう命名)への叫びと共に歪みで筋肉にドーピング、すさまじい速さでかりんとうに向かっていく。
かりんとうが繰り出すもう何度も見た上からの爪振り下ろしの攻撃。俺はそれを必要最低限の動きのみで避け、さらに間合いへ侵入していく。
これは、あとで気付いたことなのだが、俺はこの時最高にハイになってたらしく物体の動きがえらく遅く見えていたのだ。やはり、千勢がいる空間の空気。これが全てを解決する。
そんなわけで、これまでのタイムリープでは入る余地のなかった、俺の攻撃が届くほど近くの間合いまで一瞬で辿り着くことができた。しかし、ここからがまた難儀なもので、これほどまでに近づくとよりかりんとうの攻撃が勢いを増し、正直避ける続けるのが普通に難しい。そして、時たま来る飛ぶ斬撃が千勢のほうまで行かないようにと歪みで防いでるとなるともう一杯一杯だ。
しょうがない、ここはちょっと危険でも攻め切るしかないな。
俺は残り少ない生命エネルギーを何とか切り詰め空間の歪みを顕現。かりんとうの右足に投げつける。攻撃に夢中になっていたかりんとうの右足は左足と同様にひしゃげ、今度はかりんとうが膝をつく。だが、俺も攻撃をしたことで一瞬生まれた隙を突かれ、右肩を斬られる。深紅の液体が流れ、ボロボロになったグラウンドを紅く染める。俺は、生命エネルギーの酷使とはまた違った痛みに歯を食い縛りながらも、いよいよ訪れるフィナーレのために歪みを顕現する。
「カヒュッ」
顕現させたはずだった。だが、今一度体がバラバラになったかのような激痛が俺を襲い、一瞬反応が遅れた。そして、その隙を手誰であるかりんとうが逃すはずもなく、かりんとうは俺の腹をその爪で深々と突き刺した。
「お兄いいいいいいいいぃぃぃぃぃぃ!」
大分遠くにいるはずなのによく響く千勢の声を聞いて、俺は絶命した。
『ククク、ハハハハハハ!遂に、遂にこの小僧を殺せたぞ!ハハハハハ!』
絶命した俺を見て、笑いに笑うかりんとうを背後で見ていた俺は、顕現させた空間の歪みでかりんとうの頭をぐちゃぐちゃにした。
『な、ん、で?』
ぐしゃぐしゃの頭のまま振り返ったかりんとうは俺の姿を見てそれだけを残すと、どしゃりと力なく崩れ落ちた。
確かに、俺は絶命した。だがそれは、かりんとうの一撃ではなく四次元をの行使が原因である。
つまり、俺はかりんとうの一撃をもらう直前に四次元を使用、0.1秒前の過去へ飛んだ。そして、そのせいでほんの少し過去の俺は絶命し、現在俺は厳密にいえば違うが何とか生き残り、かりんとうを殺した。
俺の勝ちである。
勝利の安堵で体中の力が抜け、溜め込んだ無茶苦茶が一気に解放され、疲労と眠気、そして痛みと苦しさが濁流のように脳内を駆け巡る。やはり、体が警告しているのにさらに生命発現を使ったのが悪かったのか俺は、その圧倒的な力の奔流に抗えずに再び膝をつき、何なら今回は倒れこみ意識を朦朧とさせる。ああ、やっと終わったんだ。
そんな、安心感と達成感のまま気持ちよく意識の糸を切ろうとしたところ、
『まだだまだだまだだまだだまだだまだだぁ!せめてぇせめてぇ、小僧だけでも、道ずれにぃ!!』
嘘だろ!?頭つぶしたんだぞ?なんで生きてやがる、Gかよ!
そんな、ことを思ってももう遅い。体も全く動かない。どうやら、本当にこのゴキブリ伯爵(改名)に道ずれにされるらしい。目が霞んで、いまいち見えないが多分ゴキブリ伯爵の爪はすぐそこまで迫ってきているだろう。
せめて、一思いにやってくれよ。考えるのも億劫な俺は、これから来る衝撃に耐えるために、ぎゅっと目を瞑る。
『ギッ!!?』
しかし、いつまで経っても衝撃が訪れることはない。何ならさっきゴキブリ伯爵の変な声がした。
俺は、ゆっくりと閉じていた目を開けると、幾本もの剣に串刺しにされたゴキブリ伯爵がそこにはいた。今度こそ確実に絶命しているようだ。
今、どんな状況だ!?俺は、新手の存在などがないか急いで周囲を確認する。
ああ、でも、だめだ。眠気が…………。
結局、俺の意識はそれがなされる前に途切れることとなった。