07-07
甘い囁き。優しく諭すように紡がれた言葉。
全く揺らがないわけではない。
夢見ないわけではなかった。
電脳空間に行けたら、こちらよりはマシなのかもと思うことがなかったとは言えない。
ろくな飯にもありつけず、物資にも恵まれず、ジャンク品と言えば幾分か聞こえの良いゴミを漁って日々をつなぐ生活。
仕事の手伝いは嫌いでもなかったけれど――――。
なによりも、ヒカリとともに暮らしたかった。
こんなにも近くて遠い。
二度と手の触れられぬ大事な人。
会いに行くことも叶わない。
もどかしさに、やるせなさに、幾度胸を焦がしたか――。
それを、その夢を叶えてくれると、目の前の仇は言うのだ。
10年、夢見た妄想を叶えてくれると言うのだ。
揺らがずにいられるものか。
……だけど、自問する。
それに靡いてしまって良いのかと。
自分さえ良ければそれで良いのか?
泡沫の夢でしかないかもしれないのに。
10年前のあの日、ヒカリに向けた誓いの言葉を思い出す。
――そうだ。俺は誓ったんだ。
ヒカリを守るために、「ボックス」ごと、つまり、あちらの世界――電脳空間ごと守ると。
ミレイの言う提案を飲むことは、電脳空間を守ることになるか?
――違う。それは自分たちだけ夢に酔いしれ、他の人々が犠牲になるのを見て見ぬふりをしているだけだ。
そんなものは間違っている。
自分達だけが逃げるわけには行かない。
人類がこれまで紡いできた歴史を、ここで潰して良いわけが無い。
先人たちだって歯を食いしばって苦しさを乗り越えてきたんだ。未来の子孫のために、気力を振り絞ってきたはずなんだ。だから俺達が今ここにいられるんだ。
その思いを、捨ててはならない。
紡いでいかなければならない。
全く合理的ではないかもしれない。
感情論でしかないかもしれない。
けれど、だからなんだと言うのだ。
人を動かすのはいつだって感情だ。
それを無くして、果たしてそれは人だと言えるのか。
俺は……そうは思わない。
端末の画面上――左端の幼馴染の顔を見る。
こちらの視線に気付いたのか、顔を上げて――ニコリと微笑んだ。
そうだよな。お前もそう思うよな。
――迷いは、ない。
「……ミレイ、お前は間違っている」
「……なんですって?」
「お前の言うことはたしかに最も合理的かもしれない。……けれど、それは間違っている。合理性は全てじゃない」
「合理性は物事を適切に検討し、議論し、判断するのに不可欠なものだが、それだけで人は進めない」
「……行き過ぎた感情があることで悲しい過ちが起きてしまうのも確かだ。けれど、だからといって感情を排除するのが正しいとは思わない」
「現生人類が登場してから数十万年、その長い歴史の中で人は脳を磨き上げ、自らの文明を進化させてきた」
「その長い精錬化の歴史の中でさえ、感情は淘汰されなかったじゃないか。お前の言うように人の感情が進化に邪魔なノイズでしかないのなら、真っ先に淘汰されて然るべきだ。だがそうはならなかった」
「それこそが人の答えだ。人の進化の選択だ。感情があるからこそ、楽しみ、喜び、悲しみ、そして時には怒りがあるからこそ、人は自らを奮い立たせて前に進むことができたんだ」
「個を保ったままだと頭打ち? 馬鹿を言うな。個という違いがあるからこそ、個の考えをぶつけ、対話し、練り上げ、磨いて革新が起きてきたんじゃないか。それこそが知の進化じゃないのか」
「お前の言う『人類の進化』は進化なんかじゃない。人類の歴史に対する冒涜だ。……俺は、賛同できない」
ヒカリの妙に誇らしげな顔が見えた。
お前が言ったわけではないのになぜお前がしたり顔なんだと少し笑ってしまったが、お陰で力が抜けた。
もう後戻りはできない。
やるしかない。
「…………そう。残念ね」
小さく呟く氷の女王は、微かに笑っていた。




