幸福
ピンポーン。
チャイムが鳴る。思ったよりも早かった。
俺と同じでサボって帰ったみたいだな。
ドアを開けば、見慣れた顔がそこにある。
「こんちわ」
「こんにちは」
今までしたこともない昼の挨拶をして、瀬戸が家に入ってくる。
七瀬はいなかったので安心した。七瀬がいると、俺は正気を保てる自信がない。
あいつは、きっと俺に不都合なことを言ってくるから。
「桜井の部屋は?」
「ああ」
要求されるまま、自分の部屋に瀬戸を通す。
瀬戸は特に確認も取らないまま、ごく自然に俺のベッドの上に座り込んだ。
対する俺は、さすがに同じ場所に座るわけにもいかないので、勉強机の椅子を引き出して座り込む。
「意外と本あるんだね」
「そうか?」
「うん。図書館みたい」
あまりにもありきたりな表現に笑ってしまう。
狭い本棚が三つ四つあるぐらいで図書館なら、たぶん普通の図書館は図書国ぐらいになってる。
まあ、そんなことはどうでもいい。今するような話じゃない。
「それで、何しにきたんだ?」
「あ! あれって中学の制服?」
「…………そうだな」
早急に話を終わらせようとする俺の気持ちを知ってか知らずか、おそらくは知って、瀬戸は別の話を挿し込んでくる。
ちょうど押し入れの整理の過程で部屋の中にぶら下げてあった東原中学の制服に、瀬戸は目敏く気づいて話のネタにしたようだ。
まあ、同じ中学に通ってたんだから当然か。
ちなみに、その隣には七瀬に返し損ね、捨て損ねたカーディガンが吊るしてある。なんともまあ不吉な組み合わせだ。
「二番目のボタンがないね」
「…………」
「誰にあげたの?」
「…………七瀬」
「へー」
俺にはあんなものの価値はわからないが、七瀬が欲しがるのでくれてやった。
宝物にするとか言ってたけど、そのあと絶交したんだから今頃は捨ててると思う。
あるいは、みっともなく喧嘩した日に捨てているだろう。でなきゃおかしい。
「紗花が欲しいって言ったの?」
「そうだな」
「なんでだと思う?」
「さあ。やってみたかったんじゃないか」
別に友達同士でも遊びでやるらしいから、きっとそうなんだと思っている。
いや、正確には何で欲しがるのかもよく考えられずに、言われるがままに渡してしまった。
あの時期の俺は、母さんが家を出て行ってから難しいことを考えられなくなってしまっていたから。
「ふーん」
「…………」
「桜井ってさ。紗花のこと好きなの?」
「…………どういう意味で?」
「もちろん、恋愛的な意味で」
瀬戸の表現で、七瀬に言われた言葉が耳の奥で蘇りそうになる。
それを、咳払いの音で意識の中から吹き飛ばす。
「ないな」
「少しも?」
「ない」
「ふーん」
瀬戸が疑うような目をするので、目を逸らす。
今、目を合わせると、曖昧な感情で八つ当たりしてしまいそうだ。
「じゃあさ。私と付き合おうよ」
「…………は?」
「あ、冗談じゃないよ」
「…………わけがわからないな」
どうしてそんな話になるのかわからない。
よりにもよって今するような話じゃない。
まあ、いつされても答えは変わらないけど。
「誰とも付き合う気はない」
「いつその気になる?」
「永遠にないな」
「紗花となら、ある?」
「七瀬とも永遠にないよ」
「ふーん」
何が言いたいのかわからないし、こんな時間は無駄だ。
俺にかかった呪いを知らない瀬戸とこんな話をしたって、何の意味も見出せない。
「そんな話だけなら帰ってくれないか」
「桜井はさぁ」
「…………」
「幸せになりたくないの?」
「…………」
なりたいさ。なりたいよ。でも、なれないんだよ。
俺は幸せになれる人間じゃないんだよ。
別に不幸に酔ってるわけじゃない。ただ、あり得ないんだ。
俺の人生に幸せなんてあり得ない。
「……俺は、幸せになれる人間じゃない」
「私が聞いたのは“なりたいか”ってことなんだけど」
「…………」
せっかくぼかしたのに、よく気が付く奴だ。
本当に気が利かなくて、本当に気の置ける奴。
「……なりたいよ。そりゃあ、なりたいさ」
「じゃあさ、付き合おうよ。私でも、紗花でもいいからさ」
「は…………?」
恋愛すれば幸せになるって?
そんな単純なことでいいなら、この世界はもっと平和になってるんじゃないのか。
そんな単純なことで幸せになれるなら、どうして俺の両親はあんなことになったんだ。
「いいからいいから」
「よくねぇよ」
「何なら両方いっちゃう?」
「頭がおかしいんじゃないか……?」
七瀬に借りた恋愛小説にでも書いてあったのか?
冗談でもやめてくれ。そんなこと、想像するだけで気持ち悪くなってくる。
俺は父親みたいにはなりたくない。これでも頑張って人間をやってるつもりだ。
「んー、だめかぁ」
「…………」
「桜井ってほんと堅いよねぇ」
「…………」
そんな自分が特別お堅い考えをしているとは思っていない。
でも、自分が普通の人生を生きられてるとも思っていない。
堅いかもな。堅くて、何が悪いんだよ。柔らかすぎるよりはマシだろ。
「桜井、いま自分一人が消えればいいと思ってるでしょ」
「……そうだな」
それは、その通り。
俺が消えれば、俺と瀬戸の噂はなくなる。
俺が消えれば、村上の悪い噂はなくなる。
俺が消えれば、滝川は瀬戸に告白できる。
俺が消えれば、誰かが七瀬に告白できる。
あとは、前みたいに俺が七瀬を遠くから見守っていれば、全てが解決する。
全てが健全な形に戻る。俺が消えれば。
何もかも上手くいく。俺一人の努力で。
この世界の幸福の総和を考えるなら、それが合理的判断というもんだろ。
「いいじゃん。別に」
「は…………?」
「他の人が困ってもいいでしょ。自分が幸せなら」
「はあ…………?」
瀬戸が挑戦的な目でこちらを見ている。
なんだ? 我がままに強欲に、利己的に生きればいいって?
そんな利己性のせいで、俺はこんなことになってるんだよ。
父親も母親も利己的だから、こんなことになってんだって。
勝手に産んでおいて、俺の気持ちなんて考えてもくれないんだからな。
勘弁してくれ。そんな選択肢、絶対に選びたくない。
「幸せになりたいんでしょ?」
「…………」
「じゃあさ」
「――悪い、ちょっと外出てくるわ」
話はどこまでも平行線で、どこまでいっても俺たちの気持ちは並列できない。
瀬戸なら物を盗むこともないだろう。だから、この場からさっさと逃げたい。
「――待ってって!」
瀬戸の手が、俺の腕を掴んでいた。
初めて聞く瀬戸の大声に、思わず身体が止まってしまう。
「なんでそうやって自分を犠牲にするの?」
「……さあ」
「もっと自分を大切にしなよ!」
「無理だよ」
産みの親にも愛されてないモノを、どうやって大切にしろっていうんだよ。
俺の幸不幸なんて、お前は自分が幸せならどうでもいいんじゃないのか?
なにより、誰かが弾き出されなければいけないなら、それは恋も愛もわからないような俺であるべきだろ。
「いや、だからさ……私が言いたいのは」
「離せよ」
力づくで、振りほどく。瀬戸の表情が、傷つく。
同情してやりたいが、今だけはできそうにない。
「瀬戸だって俺に押し付けた方が都合いいだろ」
「……え?」
「俺との変な噂もなくなるし、自由な時間も増える」
「いや、そんなんじゃ……」
「ああ、恋愛すれば幸せになれるんだっけ? しやすくなるな。好きなだけすればいい」
わざと論理的に煽ったことで、瀬戸がわなわなと震えていた。
この分だと、一発か二発ぐらいは殴られるかもしれない。
まあ、それで済ませてくれるなら、それでいい。
「桜井。あんた最低」
「…………」
それも、その通り。俺は最低な奴だ。
だからもう放っておいてくれ。
「あーっ、もう馬鹿らしくなってきた」
瀬戸が、らしくなく両手で荒々しく頭を掻く。
手を十往復ぐらいさせたところで、ひとまず満足したのか、俺を睨みつける。
「別に殴らないよ」
「……そうか」
「殴ってなんかあげない」
どうやら瀬戸は、俺のことを少しはわかってくれていたらしい。
殴ってくれた方が、ずっと楽だったんだけどな。
身体的痛みは、精神的痛みよりも治りやすいから。
「はぁ。もうやってらんない。じゃあね、桜井」
「じゃあな」
瀬戸が、ズカズカと玄関に向かう。
結局のところ、今日のこの会話に意味は生まれなかったようだ。
これで借りを返せているのかは疑問だが、もう借りだの貸しだの言うことはきっと永遠にないと思う。
「桜井、あんたやっぱ変だよ」
「そうだな」
別に好きでこんなんになったわけじゃない。自分なりには、考えているつもりなんだよ。
ただ、自分が「変」と言われるような存在なんだろうなとは、よくわかってるつもりだ。
「あんたのそういうところ…………好きだけどさ。大嫌いだった」
「…………は?」
瀬戸は、その言葉の意味を教えてくれないまま、俺の家から出て行った。




