「1」
近くの道を馬車が駆けていったのであろう。茅葺屋根から砂埃が落ちてくる。クラールはそんな粗末な家に似つかわしくない絹の布を、妹のヒナの顔にかけなおしてやった。穏やかに眠る妹の頭をなでてクラールは立ち上がった。
「……仕事に……行くのかい……」
奥から母ジョーマのか細い声が聞こえてきた。ジョーマはここ一年ほど寝たきりになっている。ヒナを生んでほどなくして父が戦死し、女手一つで養ってきた。元々身体の強くない彼女が働き続けてきたのには、この国の身分制度に訳があった。
ヴィント皇国には「上中下底」と呼ばれる身分制度がある。主に上民は貴族や皇国の役人が、中民には商人や皇国の兵士が、下民には農民が、底民にはそれ以下の貧しい者たちが振り分けられていた。
皇国の税率は身分が高くなるほど低くなる。決まった税を納めれば身分は確約されるが、納められなければ身分を降格させられる。上民から降格することはめったにないが、中民以下は頻繁に変わっていく。特に底民に落ちる時は自らの土地や店を売り払うのが一般的なため、小作農として働くことになる。小作料だけで貯蓄を作るのは不可能といっていい。そのため、中民以下の国民は死に物狂いで働くのであった。
クラールたちは父が皇国軍の遊撃部隊長を務めていたため、中民階級に属していた。父が戦死して以降、ジョーマは精一杯働いたが、十分な稼ぎは得られず下民へ、やがて底民へと降格してしまった。現在はジョーマが酒屋で勤めていた時に知り合ったフォージャー家の小作農として働いている。
フォージャー家の主人ダンケは、皇国では珍しく身分で差別をしない人物だった。宝石商として成功を納め、地主としても広大な農地を所有しているため、中民の中でもかなり上の部類に在している。
「畑に行ってくるよ。もうすぐ稲刈りの時期だから」
ジョーマはか細く何かを呟いた気がしたが、クラールはそのまま外に出た。
夏は過ぎたと皇国の役人[天候士]が発表していたが、外に出ると焼けつくような暑さであった。底民の住居は湿地や河川のほとりにあるため、熱さを感じることはあまりない。
大通りを南に進む。農地は太陽の光を必要とするためどこも南側の日当たりの良いところに作られていた。大通りを抜けるとフォージャー家の受付小屋がある。クラールが受付をしていると、フォージャー家の長女ファナが顔を出してきた。
「あらクラール。今日も早いのね」
気さくに声をかけるファナにクラールは動揺した。農地に出てしまおうと軽い挨拶をして、そそくさとその場を立ち去ろうとすると、ファナに呼び止められてしまった。
「ちょっと!逃げるようにどこかに行くとするなんてひどくない?」
クラールは諦めて、少し離れたところへファナを促した。
ファナとクラールは幼なじみで同い年だ。母のジョーマがダンケと知り合ったのは中民の時だったため、ファナは今も幼なじみの一人として気さくに接してくれている。それはクラールも素直に嬉しかった。しかし、片や底民のクラールは身分上、気軽に接することはできなかった。
「ファナ。仲良くしてくれるのはすごく嬉しいけれど、俺は今、底民なんだ。そこをわきまえてくれないと困るよ」
それを聞いてファナは呆れた顔した。
「クラール。あんたねえ、私が身分とかいうつまらない理屈であんたを下にみて、差別なんかするわけないでしょ」
クラールは困った顔をした。
「いや、そういうことじゃなくて、周りの目を気にしてくれってことだよ。俺とお前が仲良くしてたら、周りの奴らが贔屓してると思うだろう」
「私たちにごちゃごちゃいうやつがいたらクビにしてやるから安心しなさい!」
「だから俺の居心地が……」
「おやおやファナ。クラールを困らせちゃだめだよ」
身なりが整った男が、優しそうな笑みを浮かべて近づいてきた。
「おはようございます。旦那様」
クラールは深くお辞儀をした。この男がフォージャー家の主人ダンケだった。
「おはようクラール。ファナが迷惑をかけたみたいだね」
「いえ、そんな」
首を振っているとファナが口を開いた。
「だってお父様。クラールが気安く話しかけるなっていうのよ」
クラールがまたもや首を振っていると、ダンケは困ったような笑みを浮かべた。
「もちろん、ジョーマは僕の大切な友人だし、その息子のクラールは僕の息子も同然さ。だけど、この国には悲しいことに身分の法律がある。ファナ、君のやさしさがクラールを苦しめることもあるんだ。二人の時はもちろん仲良くするべきだけど、このような場所では少し考えてあげないとね」
「……はい」
納得いかないといった顔で、ファナは頷いた。ダンケはクラールに向き直る。
「ジョーマの具合はどうだい?」
これにもクラールは首を振った。
ダンケもこれには渋い表情で頷いた。
「時間を取らせてしまったね。ファナ、行こう」
ファナは父の手を取り、クラールに手を振っていった。