壱幕之四「再度(ふたたび)」
「――姫様、今何と仰りました?」
「彼方には、私の護衛を外れて貰うと云ったのよ」
菊姫が目覚めてから二日が経った今日、軽く汗を流したいと云われて、修練場にて剣の相手をしていた私は、不意にそう云われた。
確かに、先日の事件では菊姫を守り切れず、任された鬼の相手も十分には出来なかった。だが――
「――そんな顔しないで頂戴。外れて貰うのは一時的に、よ。彼方には他にやって貰いたい事があるの」
私の心の内が顔に出ていたのか。まだまだ、修練が足りないなと思いつつも、ほっと胸を撫でおろす私を見て、菊姫はあきれたと云わんばかりの視線をこちらに向けて、しっかりと釘を刺す。
「まぁ、目の前で護衛対象を攫われ、都でも有数の陰陽師に手助けして貰えるという、類稀な幸運に恵まれたのに救出には間に合わず、挙句の果てには、唯一の見せ場で助けるはずの母娘に逆に助けられる始末――本来なら、首が飛んでもおかしくないわよ。猛烈に反省なさい」
き、菊姫の言葉は本当に容赦がない。だが、それらは全て事実だ。主がこの方でなかったら、弾正少弼様でなかったら、今頃私はこの世に居ないかもしれない。
菊姫は他の家人には、このような事は全く云わない。むしろ、失敗した者を常に気遣い、優しく声をかける。だが、私には手厳しい。
私に対してだけ違う態度をとる事に対して、菊姫が私の事を異性として意識しているのでないかと、邪推する者が屋敷内では多くいる。だから剣を倣い、男装して都を走り回り、見合い話を破談にしているのだと。だがそれは全く的外れだと云っていい。これは仕方のない事なのだ。
なぜなら、菊姫は私を恨んでいたからだ。憎んでいたからだ。そうした暗い想いは、簡単に消えるものではない。そう、簡単に消えるものではないのだ――
「詳しい話をするから、場所を変えましょう」
菊姫はそう云うと、修練場を出て往く。私もそれに続いた。
修練場とは庭を挟んですぐ向かい側にある離れに入る。中には一葉殿と黒装束の男、清澄殿が居た。
神宮から来たのは三人だが、最後の一人である佐久夜殿に、私はまだ会った事がなかった。今日も居ないようだ――
二人の前に菊姫が座り、私もその後ろに座る。最初に口を開いたのは、清澄殿だった。
「申し訳ありません。佐久夜さんは、その、今日もちょっと――」
「構いませんよ。これからする話は、既に佐久夜様には伝えていますし、了承も得ています」
「――なるほど。では、お話というのは?」
「今後の事件の調査ですが、父上から条件付きですが、正式に許可を頂きました」
意外だった。あの弾正少弼様が、まさか菊姫の調査を容認するとは――
顎に手を当てて、清澄殿が「ふむ」と何やら思案顔で頷くと、静かに云った。
「その条件というのは、まぁ。我我と一緒に調査する事――あたりですかね」
「その通りです。ですが、全員で一緒に行動していては効率が悪いです。なので、二組に分かれて調査したいのです」
「なるほど。では、どう分けるのですか」
「はい。まずは私と佐久夜様で一組とします。私達は主に貴族を中心に情報収集をします。公にはなっていませんが、貴族の子女にも被害が出ているのです」
貴族にまで被害者が出ていた事は知らなかった。これは恐らく、弾正少弼様からの情報だろう。本当に菊姫に調査をさせるつもりなのか。
私は清澄殿と一葉殿を見た。二人は特に驚いたという事もなく、菊姫の話を聞いている。
「そして、清澄様と一葉様で、都で神隠しが発生した現場の調査をお願いしたいのです。案内役として、この人を付けます」
そう云って菊姫は私の方を見た。なるほど、やってほしい事とはこのことか。
「わかりました。確かに貴族への調査であれば、菊姫様が行う方がいいですし、現場の調査も、私の術がお役に立てるでしょう。ですが、護衛の方をこちらの案内役に頂いていいのですか」
「問題ありません。その為に、佐久夜様に同行して頂きます。聞けば三人の中で佐久夜様が一番強いとの事ですし。きっと、どこかの護衛とは違って、しっかり私を守ってくれると思っています」
いつもながら、手厳しい。ふと、清澄殿と目が合った。「大変ですね」と云わんばかりの何とも言えない表情でこちらを見ていた。
どうにもし難い空気になってしまった。それを察してか、一葉殿が軽く咳払いをしてから、早口に云った。
「――では、話はこれで終わりでしょうか」
「はい。では、それぞれ調査に向かいましょう。報告は、また夜にここで」
菊姫は「じゃあ、宜しくお願い。お二人の足を引っ張らないようにね」と、私を睨みながら云った。私は「承知しました」と軽く礼をして部屋を出た。
部屋から出てきた清澄殿は、先程と同じ何とも言えない表情で私を見ていた――正直なところ、その顔はやめてほしい。一葉殿は、今度は黙ったままだった。
いかんともし難い沈黙を保ったまま三人で、神隠し事件の現場に向かう為に染井邸を出た。
染井邸を出て暫くすると、目の前から男がひとり、物凄い形相で走ってくる。私を見つけると、真っすぐに向かってきた。何事だ?
男は私の目の前まで来ると、息も絶え絶えに云う。
「良かった。貴方は"菊弾正"様の――大変です。また、起きました!」
思い出した。この男は、以前に私が菊姫と一緒に情報収集の為に話を聞いた、被害者家族のひとりだ。
「か、神隠し、神隠しです。しかも、十人以上が同時に――」
********
「――清澄様、これは、まさか――」
一葉さんが、心配そうな声で云う。きっと彼女も気付いたのだろう。この独特の気配に。
私達が染井邸を出た後に、神隠し事件が起きた事を知らせに来た男性と会い、すぐに現場に向かった。事件発生からまだあまり時間が経っておらず、そこには犯人の残り香とも云える気配が漂っていた。
事件発生からこれほど早く現場に辿り着けたのは、これまでの菊姫様の地道な調査のお陰だろう。菊姫様が真剣に調べている事が、市井の人人に伝わっていて、新たな事件が起きた事を、こうしてすぐに伝えに来てくれたのだから。
これだけ濃い気配が残っていれば――
「一葉さん、環憶残視を遣うので、人払いをお願いします」
一葉さんは頷くと、案内役の男性と共に、手際良く現場から人を遠ざけてくれた。ここ数日、ずっと組手をしていたからか、二人はなかなか息が合っている。そういえば、彼の名前をまだ聞いていなかったな――
そんな事を考えていると、少し離れたところから「清澄様、終わりました」という一葉さんの声が聞こえてきた。
「有難う御座います。では、始めます」
私は両手で印を結ぶ。この手の結び方で、これから発動する術の方向性を決定する。今回は、左手を"環"、右手を"残"にして結んでいる。
――神園流時空術・環憶残視。その場に残された生物の残滓を拾い上げ、その場に居た生物の、少し前の行動をそのまま再現する事ができる術だ。
ただし、"神園"当主の直系の血を継ぐ者にしか扱う事の出来ない、"刻神気"と呼ばれる、特別な力で再現されるので、ほとんどの人間は、再生された内容を視る事は出来ない。この場ではもちろん、私にしか視えない。
"刻神気"は色がなく、水のようなものだ。それがゆっくりと、人の容姿を模っていく。今回は居なくなった人数が多い、明らかに不審な動きのない残滓は、邪魔になるので外していく。二つの影が残る。流石に細かい容姿まではわからないが、大まかな行動と、口元の動きがわかる。声は再現出来ないが、唇の動きがわかれば、何を喋っていたかもわかる――これは――
今回の事件発生は、他の二人に協力してもらって、菊姫様と佐久夜さんには、まだ伝えていない。私の予想が正しければ、今はまだ、佐久夜さんを現場には連れて来たくなかったからだ。そして、その判断は正しかったようだ。
********
「――菊姫様と佐久夜さんと別行動になって、ちょうど良かった。貴方に聞きたい事があるのですが、よろしいですか」
人払いの後、何かをしていた清澄殿が、私と一葉殿の元に戻ってくると、話しかけてきた。すぐに「もちろん。何でしょうか?」と問いかける。
「――質問をする前に、お願いがあります。これは一葉さんにもお願いします。これからする話を、菊姫様と佐久夜さんにはしないでください。いいですね」
私は一葉殿を見た。少し不安そうな顔をしているが、大きく頷いていた。私は一葉殿から清澄殿に視線を戻すと、無言のまま頷く。
「有難う御座います。まずは、菊姫様が神隠しにあった状況を、もう一度確認しますが、目の前から消えたが、気配はまだそこに在った――という事で間違いないですね?」
「ああ。間違いない。あれは、消えたのではなく、正しく云えば見えなくなっただけだ。姫様も母娘も、確かにそこに居た。そして――」
「それ以外にも居ましたね」
「その通りだ。だが、あれが何なのかいまだにわからない。妖怪でもない。鬼でもない。もちろん、人でもない。でも確かに何かが、そこに居た」
清澄殿は、私を真っすぐに見て、これまでにない厳しい表情で私に云った。
「はっきり云います。神隠し事件の実行犯は、"神宮"に深い因縁のある鬼眼五櫻。その中の一体、靑眼聳孤です」
「鬼眼五櫻―― 靑眼聳孤――」
清澄殿は目を閉じて、静かに語る。
「鬼眼五櫻とは、妖怪の、鬼の、頂点に立つ、五体の人を超えた何かです。それぞれが特殊な能力を宿した眼を持っています。左右の眼で能力が違うようですが――その中で、他人の視覚を操作する"五塵色"という能力を持っているのが、靑眼聳孤です」
「その能力を遣えば、他人の目に触れずに、特定の人物をまるで消えたかのように連れ去る事が出来るのか――」
「そうです。自分の姿を消し、連れ去る人物の姿も消せばいい。後は、慌てふためく周りの人間の横を、堂々と歩いていけばいい」
恐ろしい能力だ。それに鬼眼五櫻はまだ他に四体も居るのか――
私の考えを察したかのように、清澄殿の説明は続く。"神宮"でも鬼眼五櫻の事は、あまりわかっていないのだそうだ。なぜなら、出会った者はほぼ生きて帰れないからだという。はっきりとわかっているのは名前だけ。
靑眼聳孤。
赫眼炎駒。
珀眼索冥。
玄眼角端。
そして、鬼眼五櫻の長である――
鬼眼麒麟。
「靑眼聳孤の能力も、佐久夜さんの御両親が命懸けで残してくれた情報なのです――つまり、靑眼聳孤は、佐久夜さんにとって、御両親の仇になります」
沈痛な面持ちで、清澄殿は云う。佐久夜殿に伝えたくないのはそういう事だったのか――
「先程、この現場に残された気配の残滓を読み取って、確認しました。靑眼聳孤以外に、この事件を裏で操る首謀者が居ます。しかも人の中に――」
「人の中?それでは、都に居る人の中に、首謀者がいるのですか?」
「はい。正確には人の中に紛れ込んで生活をしている、玄眼角端です」
「なッ!?人の中に、鬼眼五櫻が――」
「ええ。しかも、それなりに官位は高い方と思われます。私の術を知っていたようで、宣戦布告をされましたよ」
清澄殿は、再び目を開くと、突き刺すような視線と、これまでに聞いた事のない、重量を感じる声で続けた。
「――神隠しはもうこれで終わり。こちらの準備は整った。私は玄眼角端。これから起こる事を止めたいのなら、私を見つけてみせろ」
鬼眼五櫻・玄眼角端からの宣戦布告。
清澄が語る"神宮"・"神園"・"神龍"と呼ばれる"神使三眷族"の因縁――
菊姫と佐久夜は、あの時の話の続きをしながらも、事件の調査を進めていく。
次回、壱幕之五「覚悟(かくご)」