壱幕之三「修練(しゅうれん)」
「――こんな程度でもう音を上げるのですか。そんな事では一眼鬼から菊姫様をお守りする事など出来ませんよ!」
「ふぅ。まだまだッ――」
染井邸の敷地内にある修練場で、私は一葉殿と組手を行っている。
菊姫は染井邸に戻ってくると同時に、倒れこむように眠ってしまった。
極度の緊張感の中で妖怪と戦い、そして、無双流剣術を遣った反動が体に来ているのだろう。
無双流剣術は自身の身体能力を極限まで引き出す事で、単純な斬撃を一撃必殺の奥義に昇華させる。まだ十七歳の女性、しかも修行を始めたのは十四歳からで、それまでは普通の貴族のお姫様だった菊姫は、無双流剣術を遣うための体作りが出来ていない。その為、体が万全の状態で一日に二回まで、負傷している場合は使用を厳禁していた。のだが――
件の神隠し事件から既に二日経っているが、菊姫はまだ眠ったままだった。
今後はこのような事がないように。ちゃんと全てを護れるように。菊姫が目覚めるまでの間、私は自分の修行を行う事にしたのだ。
弾正少弼様が呼び寄せた"神宮"。彼らは圧倒的だった。妖怪も、鬼も、全く歯牙にもかけない。山小屋から都までの道中に居た複数の妖怪と鬼を、まるで早朝に庭の掃除でもするかのように、簡単に屠ってしまったのだ。
だから、私は彼らに頼んだのだ。自分を強くしてほしいと。僅かな時間でも、今より微かにでも強くなれるのなら――と。
そうして、まずはお互いの実力を確認する為にと始まったのがこの組手だ。だが、先程から私は一葉殿にずっと投げ飛ばされ続けている。最初などは投げ飛ばされた後に「弱すぎる!」と云われながら、何故か足で踏みつけにされてしまった。
一葉殿は、"神宮"では屈指の実力者という事だが、都に来た三人の中では一番弱いのだという。それでも、彼女は複数の鬼を、簡単に倒していた。
だが、先日の鬼、一眼鬼を、私は倒す事が出来なかった。
あの時、私は――
********
「うおおおぉぉぉぉぉぉぉッ!!!!!」
全身全霊で放った渾身の突きを、鬼は両腕を胸の前で交差して防いだ。皮膚が固い。刃が通らない。だが関係ない。このまま押し切って吹き飛ばしてやる!
鬼は私の勢いを止める事が出来ず、吹き飛んで往く。覆い繁る枝を飛ばし、葉を舞わせ、私と鬼は開けた場所に出た。そこには――
「姫様!! 」
私は叫ぶと鬼を飛び越えて、主の元へ駆け寄った。跪き「よくぞご無事で」と云った私に、菊姫の容赦のない言葉が飛んでくる。
「――全くもって、無事じゃないわよ。遅い。遅すぎるのよ。貴方、全然護衛できてないじゃない。清澄様達が居なければ、また、間に合わないところだっ――」
菊姫はそこまで云うと、はっとなって言葉を止めた。そして「少し言い過ぎたわ」と云って俯いた。
「いえ、事実ですから――兎に角、無事でよかった。それよりも――」
そう云って立ち上がり、私は清澄と呼ばれた黒装束の男の方を見た。礼を云おうとした私の動きを、黒装束の男は、振り返らずに手を翳して制した。
「――礼を云うにはまだ早いですよ。貴方が連れてきたあれをどうにかしなければ、ね」
黒装束の男は、先程まで私が戦っていた鬼を見据えて云った。そうだ。まだあれをどうにかしなければならない。
鬼は何故かこちらの様子を伺うようにじっとしている。さて、どうしたものかと考え始めた時、菊姫の背後にある小屋の入り口から女性の声がした。
「そんな、まさか――あなたッ!」
鬼に向かってそう叫び、駆け寄ろうとした女性を、菊姫が着物の裾を握って自分の方へ引き寄せて止めた。
「――どういう事なの? あの鬼が彼方のご主人? 何故わかるの? 」
「着物です。あの着物は私が繕ったものです。間違いありません! 」
菊姫は私を見た。私は首を横に振って答える。この状況を説明できる答えを私は持っていない。
すると、菊姫は黒装束の男の方を見た。彼は視線を鬼から外していないにも関わず、まるで菊姫と目が合ったかのように喋りだした。
「――鬼は、人から生まれます。どのように生まれるかはわかっていません。ですが、虫が、動物が、時を経た器物が、妖怪になるように。人が何かを超えると、鬼になるのです」
「元に戻す方法は? 」
「完全に元に戻す方法はありません」
すぐに問いかける菊姫に、黒装束の男は首を横に振りながら答えた。
だが、その答えには違和感がある。そして、私の気付かない違和感に、菊姫は即座に反応する。
「完全に――という事は、完全じゃなければ元の戻す方法はあるのね」
そういう事かと納得している私を置き去りにしながら、黒装束の男と菊姫のやり取りは続く。
「鬼は放っておけば必ず人里に被害が出ます。見逃す事は出来ない。今、ここでとれる方法は二つです。まずひとつは、ここで鬼のまま殺す事です。こちらの方が危険が少ないです。私なら造作もなく出来ます。私はこちらを推奨します」
「もうひとつは?」
「――私の術で一時的に人間に戻します。ただし、人間に戻れるのは極極、僅かな間だけです。その後、確実に消滅します。そういう術ですので。しかも、私が術を発動させるまで、誰かにあの鬼の動きを抑えていてもらう必要があります。もしも、鬼の動きを抑えられなければ――我我は全滅です」
菊姫は、抱えている女性に少しだけ視線を向けた後、迷いなく「人間に戻しましょう」と云った。
この状況で、なんて判断の早さなのか――しかし、消滅とは一体どういう事なのか――
「いいのですか? はっきり言いますが、このまま殺す方が、遥かに危険が少ないのですよ。それでも――」
「それでも戻しましょう。僅かでもいいから、この家族に、最後のお別れをして欲しいのよ――」
黒装束の男は頭を掻きながら『はぁ』と何とも言えない溜息を吐いた。だが、ちらりと覗いた口元が緩んでいた。笑っている――?
「では、私は術の準備に入ります。鬼は――貴方にお任せしてよいでしょうか」
私に向かってそう云うと、黒装束の男は目を閉じ、両方の掌の指を見た事のない形にして合わせた。そして、何かを呟き始めた。
それに呼応するかの様に、これまでじっとこちらの様子を伺っていた鬼が動き出す。私は鬼の前に出て太刀を構えた。
私の背後から菊姫の凛とした声が響く。
「六十数える間、その鬼を抑えてほしいそうよ。今度こそ、ちゃんと仕事をなさい!」
「承知ッ!!!」
私は返事をすると全力で鬼に向かって突進する。だが、鬼は私の相手をする気はないらしく、私の斬撃を躱すと小屋へと向かい始めた。
「お前の相手は私だッ!!」
そう云って私は先程鬼をここまで運んできたのと同じ突きを繰り出す。だが、鬼は今度は両腕で防ぐ事はせず、体を捻って半身になり、躱す。
そして突きを繰り出した直後の無防備な状態の私に蹴りを打ち込む。私は吹き飛ばされて地面を転がり、大きな木にぶつかり漸く止まった。
私を邪魔だと判断したのか、今度はすぐに私の方まで向かってきて、手を振り上げる。止めを刺すつもりだ。私は何とか受け身を取っていたものの、蹴りの衝撃が体を一時的に硬直させて動けず、対応が遅れてしまった。
駄目だ。このままでは――
「あなたッ!やめてぇぇぇッ!!!!!」
小屋の方から、女性の声が聞こえた。鬼は、ぴくり、とその声に反応して動きが鈍った。それは一瞬にも満たないものだったが、私が振り下ろされた鬼の手を、躱すのには十分な間だった。
鬼の手を躱しながら、私はどこかでこの鬼を殺さないようにと考えていた事に気付く。人間に戻すのだから、当たり前と云えば当たり前だ。だが、私と鬼の間に、そんな余裕を差し挟む実力差はない。
殺す気でやる。恐らく、それでちょうどいい。任された時間は、まだ半分ほど残っている。
太刀を握り直し、呼吸を整える。全力で行く。ただ、ただ、それだけだ!
「――無双流・千ノ太刀ッ!!!」
私は鬼に対して渾身の力で突進し、斬りかかる。鬼の皮膚は固く、斬り抜く事は出来ず、弾かれる。だが、それは想定内だ。弾かれた勢いを殺す事なく、体を回転させながら次の斬撃を繰り出す。弾かれれば、また、繰り出す。相手の姿勢を崩しながら、相手の力を利用して連続で斬撃を打ち込み続ける。それがこの業、無双流・千ノ太刀。
本来ならば、これは相手の武器を破壊する為の業だ。だが、鬼の皮膚はこれまで打ち合ったどの武器よりも固い。何度打ち込んでも、斬り抜ける事が出来そうな手応えはない。
だが、このまま連撃を続けて、時間を稼げば――
「準備が出来ました。離れてください!」
黒装束の男の澄んだ声が響く。私は斬撃が弾かれた勢いを利用して、鬼から離れた。
「――神園流時空術・残時環若」
その言葉を云い終わると同時に、鬼が淡く白い光に包まれた。不思議と――鬼は抵抗をしなかった。
光が強くなっていく。鬼の全身が光に埋め尽くされ、見えなくなった。どさり、と何かが倒れ込む音がして、光がゆっくりと消えていった。
消えた光の後に、男がひとり、倒れている。
「あなたッ!」「お父さんッ!!」
女性と小さな娘は、倒れている男に駆け寄った。今度は菊姫も止めなかった。
抱きかかえられた男は、何とか意識はあるようだ。女性も、娘も、泣きながら言葉をかけている。
私はその家族の最後の一時を、邪魔するような無粋な事はしたくなく、会話の内容が聞き取れない距離を保ちながら、小屋の前に居る菊姫の元に向かった。
「――かなり、危なかったわね」
本当に容赦のない言葉が飛んでくる。だが、事実その通りだった。あの女性の声がなければ、きっと――
「でも、まぁ。あの光景が見れたから、今回は良しとしてあげるわ」
そう云って菊姫も、目の前の家族の最後の別れの一時を見守っている。
黒装束の男が「そろそろです」と呟いた。そして――
妻と娘の腕の中で、男は塵となって消えてしまった。
********
「――あの方に、御挨拶しなくていいのですか? 佐久夜さん」
「清澄様――ええ。まだ――」
清澄様――佐久夜さんはそう云って、私の方に振り向いた。
ここは私達に与えられた、染井邸の離れ座敷。庭を挟んで修練場がすぐ隣にあり、窓越しに修練場の中を覗く事ができる。今、修練場では一葉さんとあの方が組手をしている。佐久夜さんはそれを呆と眺めていた。
「清澄様、残時環若を遣ったそうですね――」
「はい。でも、菊姫様には感謝しています。初めてでしたよ。時空術を遣って、こんなにも心が温かくなったのは――家族とは、いいものですね」
そう云った私に、佐久夜さんは「そうですね」と目を閉じて答えた。今、佐久夜さんの脳裏に浮かんでいるのは、きっと、ご両親の顔だろう――
「――このような時に何なのですが、婚姻の話、お返事を頂けませんか。一応、私は貴女の許婿ですが、早く正式に婚儀を行えと、何故か霞様から私がせっつかれるのです」
「――もう、お婆様ったら。そうですね。私も、覚悟を決めなければならないのですね。でも、お返事は、この事件が解決してからでもよいでしょうか」
佐久夜さんは少し微笑み、はにかみながら答えてくれる。
「もちろん、構いません。では、早く事件を解決しなければ。ところで――ひとつ確認したいのですが、婚姻の話、悩んでおられるのは、その、私が相手ではお嫌だとか――ではないですよね? 」
「それは――もちろん――」
「もちろん――?」
「もちろん――そんな事はないですよ。私が悩んでいるのは別の事です。安心しましたか?」
「はい。ではそろそろ、清澄様というのもやめて頂けませんか?」
「それは――幼い頃からそうお呼びしてきたので中中――そちらも、事件解決後でお願いします」
佐久夜さんは、悪戯を仕掛けた子供のように、決まりの悪そうな笑みを浮かべて、答えてくれる。
そんな彼女の笑顔を見ながら、私は思うのだ。絶対に彼女を、彼女の心を、護らなければと。
この事件には、確実に奴らが関わっている。そう、奴ら――
鬼眼五櫻。
妖怪の、鬼の、頂点に君臨する五体。そして、その中に――
靑眼聳孤。
恐らく、神隠し事件の実行犯であり――佐久夜の両親を殺した――仇が居る。
菊姫と佐久夜、護衛の男と清澄と一葉の二組に分かれて事件の調査を開始する。
だが、そんな一行を嘲笑うかのように、新たな神隠しが発生する。
現場を視た清澄は、事件の首謀者と思しき鬼眼五櫻の事を語りだす。
次回、壱幕之四「再度(ふたたび)」