壱幕之二「帰京(ききょう)」
「ッたく! 一体何なんだ、こいつらはッ!!」
"陰陽頭"様の占いにあった作業小屋を目指し、真っすぐに進む私の目の前に。
わらわらと。
わらわらと。
ああ、もう、またしてもわらわらと。
虫の妖怪共が現れる。ほとんどが百足に蟷螂。いくつか見た事もない虫も混ざっていたが、見つけた瞬間に斬り捨てている為、どんな虫だったか覚えていない。
急いでいる私を、嘲笑うかのように往く手を遮ってくる。正直、予想していたよりも妖怪の数が多い。このままでは――間に合わないかもしれない。
目の前に居る蟷螂に、太刀を突き入れて絶命させる。漸く妖怪の群れが途切れた。引き抜いた太刀に付いた妖怪の血を払うために、大きく一振りした。
太刀から血は払われたが、鞘へ納める事はしない。それはこれまでの百足や蟷螂とは比較にならない、大きな気配が前方からするからだ。
私は深くゆっくりと息を吐いて呼吸を整えると、その気配の方へ走り出した。
早く。早く。一刻も早く。私は菊姫の元へ行かなければならない。今度はもう、今度こそはもう絶対に、間に合わなければならないのだ。
そんな事を考えていた私の前に、それは現れた。最初は人に見えた。だが、近づくにつれてそれが人ではない事がわかる。人ではありえない巨躯。大きく見開いた一つだけの眼。そして額から生えた角。間違いない。鬼だ。
これまで鬼に遭遇した事はない。だが、その強さは虫の妖怪の比ではないと聞く。一体何なのだ。こいつらは。私はただ、菊姫の元に行きたいだけだというのに。
その大きな気配に圧倒されながら、私は手にした太刀を改めて強く握ると、自らを鼓舞する為に叫んだ。
「うおぉぉぉぉぉぉッ!!! 邪魔だッ! どけぇぇぇぇぇぇッ!!!!!!」
********
漸く百足を一匹倒したというのに。全身に激痛が走り、もう指一本を動かす事も困難だというのに。
闇の中から、奴らは涼しい顔で――いえ、気持ち悪い顔で現れた。先程より大きな百足と、同じ大きさの蟷螂。
「"菊弾正"様!」
小屋の中で、様子を伺っていた女性が飛び出して来た。私の脇に手を入れて、引きずりながら小屋へ戻ろうとする。
ああ。駄目よ。そんな事をしている暇があったら逃げなさい。そう思いながらも、私は声が出ない。出せない。わかっているんだ。そう云ったとしても、きっとこの女性は逃げはしないのだと。もし、逃げたとしても、助かりはしないのだと。
そもそも――あの人が悪いのよ。私がこんなにも危険な目にあっているのに、未だに現れない。職務放棄も甚だしい。全く護衛を出来ていないじゃない。このままだと、また、間に合わないわよ――
そんな事を考えていたら、小屋の入り口まで着いていた。私は何とか立ち上がり、女性に礼を云う。
「有難う。もう大丈夫よ。彼方は小屋に戻って」
女性は何か云いたそうな顔をしたが、自分に云い聞かせるように首を振ってから一言「ご武運を」とだけ呟いて小屋の中に入っていった。
こうなったら私のすることはひとつだけ。少しでも永く。一瞬だけでもいいから永く。この母娘を守って死ぬ事だ。
目を閉じた。何故か、亡き母の顔が浮かんだ。ああ、そうか。きっとあの時の母も――こんな気持ちだったのかもしれない。
キシャァァァーーーと、これまで私が生きてきた中で最も不快な音がして、私は目を開いた。蟷螂がこちらへ大きな鎌を振り上げながら向かって来ている。
せめて道連れにしてやる。そう覚悟しながら太刀を構えた時、ふわり。と、真っ黒な何かが私の目の前に舞い降りた。その何かが静かに、澄んだ声で云う。
「良く頑張りましたね。後はお任せください」
それは人だった。真っ黒な装束に身を包み、ふわふわと揺れている。そして、右手を前に出して掌をこちらへ向かっていた蟷螂へ向けた。蟷螂はその大きな鎌で斬りかかったが、黒装束の男はゆったりと後方へ飛び、その斬撃を躱す。すると――何もしていないにもかかわらず、蟷螂が十字に斬り裂かれた。
「――神園流時空術・斬愚環撃」
黒装束の男はそう呟くと、くるりと体を反転させて私の方を見た。思ったよりも若い。年齢は私の少し上くらいだろうか。美しい顔に優しい笑みを湛えている。
目の前の光景に頭がついていかず、少しの間、呆けてしまった。でもすぐに思い出す。ああ。まだだ。もう一匹、百足が居る。私が黒装束の男にそれを伝えようとした時、百足の居るはずの方向から、女の声がした。
「う~ん。やっぱり何度も見ても、清澄様の業は狡いですね」
「いや、狡いって何ですか、一葉さん。ああっと、そこでそんなに大きく頷かないでください、佐久夜さん。哀しくなります」
私は声のする方を見た。白と紅の巫女の様な装束を着た、一葉と呼ばれた女性の足元に、あの百足が引っ繰り返って転がっている。しかも、右足でおもいっきり踏みつけている。同じ装束を着た佐久夜と呼ばれた女性は、二人を見ながら楽しそうに笑っている。
どうやらこの人達は味方のようだ。しかも強い。今度こそ本当に安心したのか、私は手にしていた太刀を落としてしまった。全員の視線が私に集中する。慌てて太刀を拾い鞘へ納めると、私は礼を云いながら名乗った。
「危ないところを有難う御座いました。私は染井"弾正少弼"奈天の一子。"菊"と申します。このお礼は後日必ず――」
そこまで云うと、清澄と呼ばれた黒装束の男がぽんっと手を叩き、楽し気に云う。
「ああ。やはり貴女が噂の菊姫様ですか。ちょうど良かった。私達は"弾正少弼"様の依頼を受けて、都に向かっていたのです」
「父上の依頼――ですか? 何も聞いていませんが――まあ、それよりも私の噂というのは?」
黒装束の男は、明らかに『しまった! 』という顔をして、助けを求めるように巫女装束の二人の女性を見るが、一人は百足を何度も踏みつけ直しながら「ご自身で何とかしてください」と突き放した。もう一人は手で口を覆いながら必死で笑いを堪えている。
黒装束の男は、女性二人からの援護を諦めて、慌てて話題を変えてきた。
「ま、まあそれはともかく、こちらも自己紹介をしなければ。私は清澄と申します。先程から百足をずっと足蹴にしているのが一葉さん。そして、あちらが――」
そう云って黒装束の男が手を向けると、その人は小さく頷き、口を開いた。
「私が第八代神宮当主"佐久夜"と申します」
********
「ひとつ。お聞きしても良いでしょうか、菊姫様」
「何でしょう。私に答えられる事であれば何なりと。佐久夜様」
「では――何故、あの母娘を助けようとしたのですか? 貴族の貴女と平民の母娘。命の重さが全く違うはずです」
まあ、当然の疑問かもしれない。市井の人人も、今、目の前に居るような、何か特別な立場の人達でさえ、きっと貴族とは、気分次第で下下の人間の首など、平気で、簡単に、飛ばしていると思っているのだろう。
ここで適当に誤魔化して答える事は簡単だ。これまでに同じ事を聞かれた時は、そうしてきた。興味本位で聞いているのがわかったからだ。でも、この人の、佐久夜様の眼差しは、深く、重く、真剣だった。ならば、こちらも真摯に答えなければならない。そんな気がした。
「――それは、私が貴族だからです。もう少し正確に云うならば、私は貴族だから、命を重さを決める権利を持っているからです」
「ならば貴女は、自分の命よりも、あの母娘の命の方が重い、と決めたのですか――何故――」
やはり、貴族は他人の命など、重く見ないと思っているのだろうか。佐久夜様は不思議そうな、それでいてどこか納得のいかない顔をしている。
「――それは、私が染井"弾正少弼"奈天の娘だからです。その誇りにかけて、私は市井の人人を守ると誓ったのです。そして、それこそが、私が貴族として生きる事の意味で在り、義務だと思っています」
そう答えながら、私は佐久夜様を注意深く観察した。その瞳は真っすぐに私を捉えれて離さない。だが、その表情は少し困惑気味だった。そして、深く考え込んでいる。恐らく、私の答えは彼女の予想と大きく違っていたのだろう。佐久夜様は何かを悩んでいる。そして、きっと私へのこの質問も、佐久夜様にとって必要なものだったに違いない。何となくだが、私には佐久夜様の悩みがわかる気がする。だが、今は――
「――佐久夜様、私は何年も悩み、迷い、間違い、失って、漸くこの答えに辿り着きました。それも、つい最近の事です。貴族ではない様ですが、佐久夜様も、何か特別なお立場にある方なのでしょう。何となくですが、お悩みである事はわかります。なので、真剣に答えました。でも、私の答えは曖昧でわかりにくいでしょう。ここでゆっくりとお話したいところですが――まずは山を下りませんか。続きはお屋敷でどうでしょう」
私がそう云うと、佐久夜様は『あっ』といった顔で慌てて「そうですね。失礼しました」と云った。そして、それを待っていたかの様に、清澄様が言葉を続けた。
「では、私と菊姫様はここで待っていますので、都までの道中の掃除をお願いできますか。佐久夜さん。一葉さん」
呼ばれた二人はお互いに目を合わせると頷いた。一葉様が「承知しました」と一言残してその場から消えた。気が付けば、既に物凄い速さで山を下り始めているのが、遠くに微かに見えた。
「それでは、皆様はゆっくり休んでから下りて来てくださいね。ああ、そうだ。最後のひとつは清澄様にお任せしますね」
「はい。任されました」
清澄様が笑顔で答えたのを確認してから、佐久夜様も山を下り始め、あっという間に見えなくなった。
しかし、最後のひとつとは何だろう――と思っていた時、その答えはすぐに目の前に現れた。
小屋の入り口から見て、正面にあたる木木が大きく揺れている。何か来る。先程の百足や蟷螂など比較ならない程、強大で、禍々しい何かが。
覆い繁る枝や葉を吹き飛ばし、それは、私達の前に――
********
「"菊弾正"様、本当に有難う御座いました。この御恩は、決して忘れません」
女性はそう云って、最初に会った時の様に、深深と私に向かって礼をする。そして、今度はしっかりとした足取りで、小さな娘も礼をした。
ここは都の外れ、私達が神隠しにあった場所だ。母娘は杖を持ち、小さな荷物を抱えている。都を出て、女性の故郷へ帰るのだそうだ。
「いいのよ。私はほとんど何もできていないわ。お礼なら清澄様と、一応、あの人にでも云いなさい」
そう云いながら、私は後ろに居る二人へ視線を送る。女性は二人の方へ向きなおし、娘と共にもう一度、深深と礼をした。
この母娘は居なくなったご主人と、父親と、再会を果たす事が出来た。だが、この家族が揃う事は、もう二度とない。
こちらを何度も振り返り、手を振る母娘が見えなくなるまで見送ってから、私は振り向いて、清澄様に深深と礼をした。先程の母娘の様に。
「清澄様。改めて、本当に危ないところを助けて頂き、有難う御座いました。それに、あの家族についても、私の我儘を聞いて頂いて――このお礼は、屋敷に戻った際に必ず――」
そう云った私に、清澄様は飄飄としながらも、両方の掌をこちらに向けて振りながら恥ずかしそうに云う。
「仕事ですから、お気になさらずに。それにお礼なら、佐久夜さんと一葉さんにもお願いします」
「そうですね。屋敷に戻ったら、すぐにでも。そういえば、佐久夜様とはお話の続きをしなければ」
そう云って私は、久しぶりに。本当に久しぶりに。心から安心して笑いながら、屋敷へと歩き出した。
無事に都に戻ってきた菊姫達――
しかし、残された菊姫と清澄の前に現れた禍々しい何かとは。
そして、再会出来たはずの母娘の元に何故、夫は、父は、還って来ないのか。
次回、壱幕之三「修練(しゅうれん)」