壱幕之一「神隠(かみかくし)」
「何してるの。早く次へ行くわよ」
私にそう云うと、菊姫は足早に駆けて往く。次で本日もう五軒目だ。私は菊姫と共に、神隠し事件の被害者家族に話を聞いて回っている。
だが、これまで特に収穫はなく、菊姫はかなりご機嫌斜めだ。後ろで纏めた長い髪が、全力で駆けている馬の尻尾の様に大きく揺れている。この揺れ具合で機嫌がわかる。大きく揺れる程、機嫌が悪いのだ。
菊姫――染井"弾正少弼"奈天様の一子。"菊"というのは幼名だ。貴族の女性は名を夫になる人にしか明かさない。
菊姫は護身用に太刀を遣う。なので太刀を佩く為に男装をしている。嫁入り前の十七歳の姫君が、男装して都中を走り回っている。その為、悉く見合いが破談になり、父である弾正少弼様は毎度頭を抱えている。
そして私はそんな弾正少弼様の家人、主な職務は菊姫の護衛。そして――
「次は旦那さんが居なくなったご家族ね。娘さんはまだ五歳――しかも、その娘さんが目の前でお父さんが消えたと証言している――」
大通りから外れた十字路で菊姫は止まると、被害者家族の情報が記帳された書を読み上げた。
しかし、一体どこでこのような情報を集めて来たのか。弾正少弼様からの命令で、私も含め、屋敷の者は一切、菊姫の情報取集には協力していない。
それにしても――人が消える――そんな事が本当に在るのだろうか? 菊姫を見ながらそんな事を考えていると、女性が声をかけてきた。
「"菊弾正"様! このようなところまで……有難う御座います」
草臥れた着物を纏っていても、どこか品のある女性の足元には、隠れながらも小さな女の子が顔を覗かせてこちらを見ている。恐らく、件の母娘だろう。
都の市井の人人は、菊姫を"菊弾正"と呼ぶ。一般的に貴族の子女は父親の職名で呼ばれる事が多い。弾正少弼様の娘であるので、"菊弾正"と呼ばれるのは普通の事だが、菊姫の場合はそれだけではない。
その凄まじい行動力で、あまり官人の目が届かない市井の厄介事に首を突っ込んでいくその姿が、まさに都の治安維持を職務とする弾正台の様だと、人人の間で噂となり、本人の活躍振りもあって、敬意を込めてそう呼ばれているのだ。
また、市井の者であっても、訪問する際には必ず事前に連絡をするなど、細やかな気遣いも忘れない。だから、市井の人人からの菊姫の人気はとても高い。
「主人が消えたのは都の外れです。家よりもここから向かった方が早いので、お迎えにあがりました」
女性は丁寧にそう云うと、深深と礼をした。小さな娘もおどおどしながらも母を真似て礼をする。菊姫は、先程までの不機嫌な気配を一瞬で掻き消して、笑顔で答える。
「わかったわ。有難う。じゃあ向かいましょうか――っとその前に」
そう云うと、菊姫はしゃがんで、小さな娘の前に顔を持っていき目を合わせると、笑顔で何か二言三言を囁いた。すると、最初は怯えたような表情をしていた娘が、忽ち笑顔になった。それを確認すると菊姫は立ち上がり、娘の手を取った。
「さあ、行きましょうか」
菊姫はそう告げたが、女性は慌てた様子で云う。
「"菊弾正"様、そのような事、お手が汚れます」
貴族の、しかも嫁入り前の娘が市井の者の手を握るなど、本来ならありえない。むしろ不敬にあたる。
「いいの。いいの。それよりほら、そっちの手が空いているわよ」
そう云いながら、菊姫は瞳で無言の圧力をかけて、娘のもう一方の手を繋ぐように女性に促した。畏まりながらも女性が娘の手を取ったのを確認すると、菊姫は満足そうに歩き出す。私はその後を何も云わずについて往く。
不思議な方だ。本当に。まるで、仲のいい姉妹の様に手を繋ぎながら、先程会ったばかりの娘と笑顔で話をしている。娘も嬉しそうに母親と菊姫に代わる代わる話しかけている。
するする、するすると、人の心に入って往くのだ。この方は。
今も娘から事件の情報を得るために――いや、それだけではない。きっと目の前で父親が消えた、娘の心の傷を癒したいと考えているのだ。優しすぎる、この方は。何故なら、この方も――
今まで何度もこのような場面を見てきた。その度に。私は六つも年下の姫君に、いつもある人の面影を重ねてしまう。遠い過去の日に失った、血の繋がらない姉の面影を。そんな事を考えながら、前を往く三人を眺めていた、その時――
「えっ!? はっ??なんで――」
私は間抜けな声を出した後、すぐさま腰に佩いた太刀に手をかけた。
消えたのだ。
目の前で。母娘と、そして、菊姫が――
何の前触れもなく。忽然と。正に文字通り――消えた。
何だ。何がどうなっているのだ。先程まで確かにそこに居た。それなのに――
いや、いや、落ち着け、落ち着け!
兎に角、目の前で護衛対象が攫われたのだ。ならばやる事はひとつだ。
目を閉じ気配を探る。人が消えるなどありえない。あるとすれば――
何もないはずの目の前の景色の中に、確かに気配を感じた。やはりそうか。
気配は四つ。二つの気配はとても小さい。きっと母娘のものだ。
そして感じ慣れた菊姫の気配。姫も無事だ。
そしてもうひとつ――何だ。これは――
一瞬。ほんの一瞬。その異様な気配に意識をを取られた隙に、四つの気配は目の前から消えた。いや、移動したのだ。もの凄い速さで。
我に返るとすぐに気配を辿って追いかける。だが――
全く追いつけない。まずい。まずい。このままでは――
そして、都の外れで完全に気配を辿れなくなった。この先は山だ。しかも既に陽が落ちかけている。これはかなりまずい。
夜になれば、山は奴らの――妖怪の世界だ。
どうする? これから屋敷に戻り人を集めて山狩りをするか? いや、それまで菊姫が無事だという保証はない。かと云って闇雲に探しても絶対に見つからない。どうすればいい。どうすれば――
「おや。このような場所で何をなさっているのですか」
不意に、背後から声がした。すぐに体を反転させると、太刀に手をかけて構えながら声の主を見据えた。
「ふむ。中中良い動きですね。君は確か"弾正少弼"殿の――」
「貴方は――これは失礼しました。"陰陽頭"様」
私はその場ですぐに跪き、頭をさげる。目の前に居たのは、滋岳"陰陽頭"川人様。陰陽寮の長官だ。私は菊姫が目の前で消えた事を話した。この方ならば、もしや――
「なるほど。そう云う事ですか。わかりました。ならば菊姫の居場所を占ってみましょう」
そう云って"陰陽頭"様は、四角い板を取り出すと、それに手を翳して何かを呟いた。すると、板が光りだした。
陰陽師――天文、暦、時刻などの学問を修め、貴族や帝に助言する。また、それだけではなく、呪術が使える。呪術を組み込んだ占いの的中率は凄まじいらしい。
呪術には占いだけではなく、妖怪の類と戦う事の出来るものもあるらしいが、それは極限られた優秀な陰陽師にしか使えないという事だった。
「出ました。目の前の山の中ほどに、樵達の作業小屋があるのですが、そこに居います。他にも二人。これは誰だかわかりませんが――」
「有難う御座います。十分です」
そう云って礼をして立ち上がった私に、"陰陽頭"様はさらに云う。
「もうじき陽が暮れます。急いだ方がいい。後、"弾正少弼"殿には私の方から人を出して伝えておきましょう」
「重ね重ね――有難う御座います」
云い終わると同時に、私は地面を強く蹴って全力で駆けだした。
********
「"菊弾正"様、これは一体……私達はどうなるのでしょうか」
娘を抱きしめながら、女性は私に問いかける。どうなるのか。正直、私にも全くわからない。そもそも何が起きたのか。
わかっているのは都の小路を歩いていたはずの私達が、気が付けばどこだかわからない山小屋で蹲っていたと云う事実だけ。目の前が急に揺れ、景色がくるくると回り始めて、漸く治まったと思ったらここに居たのだから。
「そうね。正直、私もほとんど状況を呑み込めていないわ。ただ、このままここにいる事は出来ないわね」
外で蠢く気配を感じながら、私は女性に答えた。小屋の窓から見える空は既に暗くなっている。まだ星は出ていないが、確実に夜は始まっている。
ここに居てはいけない。でも、すぐに小屋の外に母娘を出すわけにはいかない。外にはおそらくあれが居る。
「まずは私が外の様子を見てくるわ。だから彼方達は暫くこの小屋に隠れていて」
「ですが――この小屋で朝まで待てないのですか?いかに"菊弾正"様でも――」
「――朝までいるのは駄目よ。この小屋は魔除けをしていないわ。でも私は大丈夫よ。これがあるからね」
そう云って私は腰に佩いた太刀の柄をぽんぽんと叩いた。ああ。この女性はわかっている。今、何が外に居るのかを。
だからこそ私は、強い言葉で、優しい言葉で、この人を安心させる必要がある。守る必要がある。何故なら私は、"菊弾正"なのだから。
「任せておいて。彼方達は必ず私が守ってみせるわ。それにそのうち私の護衛が来るはず。それまでの辛抱よ」
そう云って私は小屋の外へ出た。やはり、居た。百足だ。ただし、その大きさが異常だ。体の半分しか持ち上げていないのに、私の背よりも倍ほどの高さの位置に顔がある。そう、これは妖怪だ。
知識は在った。でも遭遇したのは初めてだ。ああ、でも、初めて出会うのがよりにもよって虫の妖怪だとは。正直、恐怖よりも今は気持ち悪さの方が勝っている。
私は鞘から太刀を引き抜いて構える。私の剣術がどこまで通じるかはわからない。でも、今は戦うしかない。私は意を決すると、震える足に無理やり力を入れて地面を蹴った。
「はあああああああっ!!!!」
百足に真っすぐに突っ込むと、正面で飛び上がり、気持ち悪い顔面に全力で太刀を振り下ろした。でも――百足は顔をうまく下げて、固い頭の殻の部分で太刀を受けていた。まずい。と思った瞬間、百足は頭を後ろに沿った反動を利用して私を顎で打ち据える。何とか太刀を翳して受け止めたものの、衝撃は消せずに私は吹き飛んで、元居た小屋の前まで戻される。
「がはッ。くっ、うぅ……」
太刀で受けたはずなのに、体中に激痛が走る。何て威力なの。もう一度受ければ恐らく助からない。勝つには、次で決めなければならない。
でも――殻は駄目だ。あの硬さは私の力では斬り抜けない。ならば、殻と殻の間、繋ぎ目のような部分を狙うしかない。それでもまだ、普通の斬撃では力が足りないだろう。だから速さが必要だ。最も速い斬撃を、寸分の狂いもなく繋ぎ目に打ち込まなくてはならない。
「ふうぅ。まさか、あの人に感謝する日が来るなんてね」
呼吸を整えながら、私はこれから繰り出す業を教えてくれた人の顔を思い浮かべた。
そして太刀を鞘に戻すと、柄に手を添えて左足を後ろに下げ、顔を前に出し、頭を下げて前傾姿勢をとる。
「――無双流・閃ノ太刀」
私はこれから繰り出す業の名を小さく呟く。足に全神経を注いで集中する。力が足の指先の一本一本まで行き渡った事を感じた瞬間に、強く、強く、強く地面を蹴りだした。
目の前に居る敵に斬りかかる事以外の全ての無駄な動きを排除して、全速で渾身の一撃を叩き込む居合術。それが、無双流・閃ノ太刀。
私の全速で渾身の突撃に対して、百足は体を大きく起こして威嚇する――が、私の太刀の方が早く百足の体に届いた。
「うわぁあああああッ!!!!」
喉が裂ける程の掛け声と共に、殻と殻の繋ぎ目に太刀が入り、そのまま全身の力を込めて振り抜く。
断末魔の悲鳴と共に、百足の体は真っ二つになった。私はその場に座り込み、安心して漸く一息ついた。
「はぁ。やった……もう、体が全然動かない」
私のその言葉は、木木の間に生まれた闇に溶けていった――そして、それに反応するように闇が蠢いた。その闇から――
先程より大きな百足と、同じくらいの大きな蟷螂の妖怪が、ゆっくりと現れたのだ。それを見て私は、絶望を感じながらも思わず呟いていた。
「――ああ。もう。何なの。気持ち悪い。何で増えてんのよ。ほんと気持ち悪い」
"陰陽頭"に導かれ、菊姫の元へ急ぐ護衛の男。果たして彼は間に合うのか?
そして気持ち悪さが倍になり、窮地に陥った菊姫は助かるのか――
次回、壱幕之二「帰京(ききょう)」