壱幕之十「玄眼(げんがん)」
「何をしたのッ!」
気が付けば叫んでいた。私の問いに、玄眼角端は口元を嫌らしく歪ませるだけで答えない。
圧倒していたのよ、間違いなく。佐久夜の業は四神を一瞬で屠り、玄眼角端を追い詰めた――はずだった。
だけど今、ゆったりと佐久夜の傍を揺蕩っていた水の柱は消えて、本人の動きも止まってしまった。
私を包む光はまだ消えていないが、徐徐に弱くなっている。動くなら、今しかない。
玄眼角端は私を無視して佐久夜に近づく、止めを刺すつもりだろうがそうはさせない。
漸く出来た友人を護りたいのは、私も同じなのだから――
「――これは、想定外でしたな。思っていたより遥かに良い動きだ」
私は佐久夜を抱えて玄眼角端から大きく距離を取った。言葉とは裏腹に、どうにも褒められたような気がしない。
ああ、そんな事はどうでもいい。問題は佐久夜だ。私が抱えてもぴくりとも動かない。それどころか、瞬きひとつしないのだ。その瞳は開き切ったまま、それでいて何も見えてはいない。
焦点の合わない目は虚空を見つめ、体は固まり、ずっとずっと何かを呟いている。これではまるで――
「――本当に、一体何をしたの? 私の大切な友人に――お前は一体何をしたんだッ!!」
私は生まれて初めて、憎しみと怒りを同時に込めて、佐久夜をぎゅぅと抱きしめて、喉が潰れてもいいと思いながら叫んだ。
そんな私を見て、玄眼角端はやれやれと云わんばかりに溜息を吐くと、この世のものとは思えない、地を這うような低い声で云う。
「――なに、"力"では敵わないのでね。精神を壊す事にしただけだよ。ちょうど、私が主から頂いた力がそう云ったものだったのでね」
睨みつける私に意も介さず、玄眼角端は続ける。
「玄眼左・五塵声。聴覚を操れるがこれだけでは大した能力ではない。まあ、いろいろと工夫をしてね。発動までに時間はかかるが、特定の相手に幻聴を聞かせる事が出来るのだよ」
「幻聴?それだけで何でこんな風になるの」
「――ただの幻聴じゃないからね。自分にとって大切な人の中で、既に死んでいる人間――つまり、"最も大切な死者"が、延延と呪詛の言葉を自分に向かって吐き続ける。そんな幻聴だよ」
言葉にならなかった――こいつは何という事を考えるのか――
ならば今、彼女に囁きかけているのは、きっと靑眼聳孤に殺されたという両親だ。私は自分の顔を佐久夜の顔に近づけて、彼女の呟きを聞き取ろうとした。
「――い。――なさい。―めんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい――」
蚊の鳴くような声で、彼女は謝り続けている。只管に、只管に、只管に――
私の頬を、何か冷たいものが伝っていった。
思わず、私は佐久夜の方へ向き直ると、彼女の両耳を自分の両手で抑えていた。後ろから「無駄な事を」と云う声がした。黙っていろ。
ぐぃ、と佐久夜の顔を引き付けて、自分の顔の目の前まで持ってくる。
「――大丈夫。大丈夫よ。貴女は何も悪くない。もう謝る必要なんてないの」
勝手な事を云っている。私は彼女と両親との間に何があったのかはわからない。それはきっと、私にはどうしようもない事なのだろう。
でも、私は知っている。
"神宮"の仲間と楽しそうに過ごす笑顔を――
でも、私は知っている。
許婿に言い寄られてもどうするべきかわからない困り顔を――
でも、私は知っている。
"神宮"の当主としてどう在るべきか悩む真剣な表情を――
でも、私は知っている。
私の無茶な要望にも応えてくれた時のはにかんだ顔も――
そして、前を向いて進むと決めた、貴女の意思を――私は知っているの。
だから。だからッ――
「――さっさと還って来なさいッ!貴女は私の唯一の友人。そして、第八代神宮当主、"神宮佐久夜"なのでしょうッ!」
そう云いながら私は自分の頭を後ろへ大きく反らすと、その反動を利用して、思いっきり頭を振り落とした。私の額が佐久夜の額にぶつかると、ごんっ! という鈍い音が辺りに響く。痛い。
私の渾身の頭突きは、少しの静寂を生んだ。そして、二人の額が触れ合っている部分から、光が生ずる。淡く、綺麗な桜色――
意識がまるでその光に呑み込まれそうになった私は、額を付けた格好のまま、もう一度叫ぶ。
「――とっとと還って来なさいッ!佐久夜ッ!」
その叫びと同時に、私と佐久夜の体は、桜色の光に呑み込まれた。
********
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい――」
私はずっと謝っている。優しい母に。大好きな父に。
ずっと聞きたかった懐かしい二人の声は、ずっと私を攻め続ける。お前のせいだ。おまえのせいだ。オマエノセイダ――
心の底に沈めていたはずの想いが浮かび上がってくる。あの子のお陰で出来た決心が、覚悟が、簡単に揺らぐ。
ああ、私はこの程度なのだろうか。母も父も護れなかった。きっとこのままあの子も護れないのだろう。ごめんなさい。ごめんなさい――
(だ―い――ぶ―)
今、何か聞こえた? そもそも――あの子って誰だろう? 私は誰を護りたかったの? 私は何をしたかったの? そもそも――私は一体何者なの?
わからない。わからない。ごめんなさい。ごめんなさい――……? 何だろう。これは。何か温かいものが流れてくる――
ああ。あれは都に来る時にあの子を助けた時の――あの二人のやり取りが楽しくて思わず笑ってしまったんだ。
ああ。これは許婿について聞かれた時の――まだどうしてもそういう気持ちになれなくて、何と答えていいかわからなくて俯いてしまったんだっけ。
ああ。なんて曖昧な質問なのだろう。こんな事にもあの子は真剣に答えてくれたんだ。嬉しかったなぁ。
ふふ。あの子の楽しそうな顔を見ていると、いけない事をしている感覚がなくなってきて――そうよ。何をしているの。私は。護らなきゃ。
約束したでしょう。覚悟したでしょう。やりたい事をやりたいように望むんだって。
呪詛のような、子守歌のような、両親の声はまだ聴こえている。私の精神はまだ玄眼角端の術に囚われている。
それでも――少しだけ、私の意識が覚醒する。遠くであの子の――菊姫の声がする。
「――って来なさいッ!――は私――の友人。――神宮当主、――"佐久夜"なのでしょ――」
そう、そうよ。私は"佐久夜"、"神宮佐久夜"。今度ははっきりと、菊姫の声がして、私の世界に響き渡った。
「――とっとと還って来なさいッ!佐久夜ッ!」
その声と同時に、暖かな何か包まれて、私は目を開いた。いや、実際には閉じられていなかったから、そう云う感覚になっただけ。でも、そのおかげで、今何が目の前で起こっているのかが確認できた。
ゆっくりと、菊姫と私の方に玄眼角端が近づいてきている。菊姫はまだ気づいていない。
腕を動かそうとしたがぴくりともしない。これは――そうか。
私は玄眼角端の術から逃れるために、精神を肉体から切り離し、"櫻神気"で作った結界の中に閉じ込めたのか――先程の温かいものはこの結界か。確かに両親の声はもう聴こえない。だけど、かなりまずい――
全く動けない。声も出せない。見る事が出来るだけだ。こんな状態では、玄眼角端に簡単に殺されてしまう。
私の視界の中で、菊姫がふいに立ち上がった。近づいてくる玄眼角端に気付いたのか。
「――ふむ。先程の動きからして油断は出来んな。式神招来。貴人。 急急如律令――」
玄眼角端の前に、端正な顔立ちの剣士が顕れる。まずい。あれはかなり強い。菊姫も弱くはないがあれの相手は無理だ。
菊姫は太刀を抜いて構える。駄目よッ!立ち向かっては駄目。逃げてッ――いや、違う。違うッ!
私はこれまで菊姫の何を見てきたの。ここで逃げるような人じゃない。だからこそ、私はこの人の事を知りたいと思ったんじゃないか。
決めたでしょう。私は、覚悟したはずでしょう。今、私が成すべき事は何? もう、わかっているでしょうッ!
護るんだッ! 護るんだッ! 護るんだッ! 友人を。初めての友人を。大切な人を。何が何でも、私は護ると決めたんだッ!
私の想いに応えるように、菊姫の前に消えたはずの水刃がひとつだけ顕れる。先程のような威力はもうない。でも、やるしかない。
渾身の力を込めるように、私は水刃に想いを載せる。
【獲物はあれだ。お願い、護ってッ】水刃は淡く輝くと、これまでにない速度で放たれて、貴人を貫き、その後ろに居た玄眼角端をも貫いた。
「ごはぁッ!こ、これほどの事がまだ出来るとは――」
遠くから、私を呼ぶ男性の声が聞こえる。この声は――
「清澄様!」
菊姫が叫んだ。ああ。これでもう大丈夫――
「くッ。索冥め。足止めも出来んのか――だが、まあいい。"最低限"の目的は達成した。ここは退かせて貰おう」
そう云うと、玄眼角端は新たに式神を呼び出し、それに乗って逃げてゆく。
それを横目で見ながら、菊姫が私に駆け寄ってくる。
「――佐久夜ッ! 佐久夜ッ! 返事をして! 佐久夜ッ!」
必死に私に呼びかける菊姫。護れたんだ。私は、私の大切な人を――
ああ。でも、そんな顔をしないで。泣かないで――
未だに私の精神は肉体に戻っていない。だから、菊姫の呼びかけに答える事が出来ない――
私の精神は結界と共に、私の肉体と菊姫の上あたりにふよふよと浮いている。
(――困った。これ、どうやって肉体に戻ったらいいのか、全く見当がつかない。というよりもこれってもしかして、私、死んでる!?)
泣き崩れる菊姫を見ながら困っていると、清澄様が私達のところに駆け寄ってくる。そして、菊姫からこれまでの一部始終を聞いている。
――ん?でも、菊姫の話を聞きながら、ちらちらとこちらを見ている気がする。もしかして――
「――なるほど。状況はわかりました。やはり、恐ろしい相手でしたね。で、問題は――」
と云いながら、清澄様はしっかりと私の方をみた。あ! 目が合った! 今絶対に目が合った!
(――そこで何をしているのですか? 佐久夜さん)
清澄様の声が頭の中で響いた。本当に何でも出来る人だな。凄い。
私がそう考えていると、清澄様が私から視線を逸らして、照れくさそうに頭を掻いた。あれ? もしかして――
(ええっと――私もによくわからなくて。玄眼角端の術から逃れようとしたらこんな事に――)
試しに、頭の中で清澄様に話しかけてみると――
(――わかりました。それでは、まずは染井邸に戻りましょう。珀眼索冥と戦っている二人の事も気になります。ただ、恐らく佐久夜さんには"神宮"に戻ってもらう事になるでしょうから、そのつもりでいてください)
頭の中で私にそう語りかけると、清澄様は泣いている菊姫を宥めてから、私の肉体を抱きかかえて歩き出した。
どうしよう。ちょっと恥ずかしい――あ、しまった。
どうも私の思念は全部漏れてしまっているようで――菊姫の手前、我慢しているようですが、清澄様の口元が少し緩んでいるのが見えます。
(――変なところ触ったら、婚姻の話は白紙にしますからね)
私の思念を受け取った清澄様は、一瞬だけ体を強張らせた後、今まで見た事もないほど背筋を伸ばして、物凄く綺麗な姿勢で歩き始めた。
そしてそんな清澄様を、菊姫は不思議そうに眺めながら、後ろを付いて往く。
私は自分が護れたものを実感するように、その光景を眺めていた――
壱幕「偶然でも必然で在っても其処に在るのは出会ってしまったという事実」完