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櫻、そのすべて  作者: 涼楓堂
序幕
1/11

序幕(プロローグ)

 貞観16年(西暦874年)の秋も深まった頃――


 平安京より少し離れた山中に、晴嵐堂という名の小さな本堂のみの寺がある。

 40年ほど前までこの寺は有名な怪談の舞台だった。夜な夜な人魂が飛び、陽気な男の笑い声がするという。無住の寺にもかかわらず当時は掃除が行き届いており、綺麗な本堂がむしろ不気味さに拍車をかけていた。

 だが今はもう人人ひとびとから忘れられ、朽ち果てた本堂の中を、小さな提灯の火が照らしている。埃だらけになっている本尊の仏像の前に立っている男が、提灯の火に息を吹きかけて消した。その途端、堂内を闇が埋め尽くす。

 暗闇の中で男は仏像に近づくと、台座を左右から両手で掴み、右に3回、左に2回、ゆっくりと回転させる。すると、最後の一周を終えて仏像が正面を向いたと同時に、台座からがたがたと音が鳴った。

 男はそれを確認すると台座から離れて、仏像に向かって右足は正坐状態にし左足を立てる――建膝たてひざの状態で着坐ちゃくざする。これは自分より官位の高い人物から受命する際の姿勢である。

 男が着坐するのを待っていたかの様に、仏像が仄かに青く光りだし――そして、声が響いた。それはどっしりとした落ち着きがありながらも、とても澄んだ女の声だった。


「泣く涙――雨と降らなむ渡り川――」


 男は仏像に向かって頭を下げたまま、静かに答えた。


「水まさりなば――帰りくるがに」


 本当に帰って来てくれたならどんなにいいだろう――男は心の中で呟いていた。『泣いて出てくる涙が、雨になって降ってほしい。三途の川の水を増して、川を渡れなくてあの人が帰ってくるように』そんな想いが込められた歌だ。男の脳裏に妻の顔が浮かんだ――しかし、まるで仏像が問いかけたかの様に、今度はしわがれて年老いた女の声が響いて、妻の笑顔は掻き消えた。


「誰だ。お主は」


 男はやはり姿勢を崩さずに答える。


小野おのの"参議左大弁さんぎさだいべん"たかむら様より調()()()を引き継ぎました染井そめい"弾正少弼だんじょうのしょうすけ"奈天なでんと申します」


 男――奈天はそう云うと顔をあげた。目の前には儚く揺らめきながら光る仏像があるだけだ。


「ふむ。確かに信あるものに引き継いだ事は聞いておる――が、野宰相やさいしょうと呼ばれた()()()が亡くなってもうずいぶんとつ。これまで引き継ぎの挨拶一つ寄こさなかった奴が、今更に何用じゃ?」

「はい。参議さんぎ様より、既に調()()()の仕事は残っておらず、ある条件を満たす場合以外は、挨拶も含めて一切の接触は不要ときつく云い渡されておりまして――」

「ほう。まあ、確かに()()()らしいかの。して、その条件とは?」


 最後の方で女の声色こわいろが少し変わった。それは昔を懐かしみながら、楽しな、それでいて少し寂しそうな、そんな声だった。

 奈天は建膝たてひざの姿勢を崩さず、仏像に向かって答え続ける。


ひとつ、私の家族に危険が及ぶ事柄である。ひとつ、都の治安に関わる事柄である。ひとつ()()が関わる事柄である。これら全てを満たす場合に()()()()()()()()()()()()――と」


 奈天が云い終わっても、仏像は仄かに光るだけだった。暫く、沈黙が晴嵐堂を支配した。深く溜息をついて沈黙から支配権を取り返した後、女の声が気だるげに問いかけた。


「なるほど。()()か――それで今、都では一体何が起きておるのじゃ」


 ほっと胸を撫でおろしながら奈天は「実は――」と事の詳細を語った。

 奈天はたかむらより聞いていたのだ。()()()は話を聞けば絶対にじっとはしていられない、そういう人なのだと。ここまでくれば、奈天の目的はほぼ達成出来たと云ってもいい。


「なるほどの。わかった。そなたの願いを聞き入れよう。しかし、()()()()()()は何とも不思議よの。お主の家族に危険が及ぶ時のみ我らとの接触を赦すとは――ん?そういえば先程の詳細の中にその部分の話が無かったな」


 奈天は一瞬だけびくりと体を強張らせ「非常に申し上げにくいのですが、私には娘がおりまして――」と、恐る恐るといったていで話し始める。それは先程までの慇懃な引き締まった声ではなく、子煩悩な父親の声だった。


「これがまた手の付けられないお転婆で――今回の事件を自分が解決するのだと都中を走り回っておりまして。犯人からも狙われる可能性があるので辞めさせたいのですが全く云う事を聞かず――」


 時折、深い溜息をつきながら語る奈天の声を遮って、女は楽しに十分に笑いを含みながら云った。


「わかった。わかった。お主、どのような手段を使ってもこの事件をさっさと解決したいのじゃな。娘に何かある前に。全く、これでもかつて神使かみのつかいとも呼ばれた我らに接触する理由が、娘が心配だからじゃとは――」

「いえ、都の、特に市井の者の危機で在る事には変わりなく――」

「よい。よい。怒っているのではない。これもまた、()()()の計らいなのかもしれぬ。第六代神宮(かみのみや)当主"かすみ"の名において、数日中に人をそちらに送ろう」


 慇懃な言葉使いに戻り、奈天は礼を云う。


「有難う御座います――私には、もう娘しか残っておらぬのです」

「――安心せい。とびきりの精鋭を送ってやる」


 奈天は立ち上がり、深深ふかぶかと礼をした。話はこれで終わりだ。そのままの姿勢で仏像の光が消えるのを待っていたが、いつまでたっても光が消える様子がない。ゆっくりと顔をあげるとそれを待っていたかのように霞の声がした。


弾正少弼だんじょうのしょうすけ殿。こちらからも一つ願いがあるじゃが聞いてもらえぬか」

「何なりと」


 奈天は即答する。霞はこれまでになく優しい声で自らの願いを云う。


「お主の知る()()()の話をしてくれないだろうか。どんな事でもよいのだ。どんな事でも――」


 奈天は小さくふぅと息を吐くと「喜んで」と答えた。その顔には優しい笑みが浮かんでいる。そして「足を崩して坐する事をお許し願えますか」と問うた。ゆっくりと時間をかけて話をしたかったからだ。霞は「うむ」とだけ答えたが、その声はまるで年端もかぬ少女のように弾んだ声だった。

 そして奈天は語り始める。大恩人であり稀代の政治家であり文人でもあった、小野おのの"参議左大弁さんぎさだいべん"たかむらの事を――


 数日後、晴嵐堂に人魂が飛び、男の楽しな声がしたと云う怪談話が、再び都に広がっていた――

大勢の人間が消えた――

"菊弾正"と呼ばれる娘が護衛の男を振り回しながら平安京を奔走する。


次回、壱幕之一「神隠(かみかくし)」

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