第三十六話 ある年のGW 9
「明日、帰りたくないなあ……」
修ちゃんのとなりで、モソモソしながらつぶやいた。
「だったら、帰るのやめる?」
「そんなことできないの、わかってるくせに」
笑いを含んだ口調ということは、私がブツブツと言っているのを面白がっているに違いない。ちょっとムカついたので、痛い思いをしてもらうことにした。
「いてて、なんてとこをかむんだよ、まこっちゃん」
その声を聞いて、少しだけムカつきがおさまった。あくまでも少しだけ。
「なんのことー?」
「まこっちゃん、俺、明日は仕事なんだぞ?」
「だからなんですかー?」
「今、かんだろ? 痕がついてたらどうするんだよ……って、こらこら、またそんなことして」
同じところをかむと、修ちゃんは私の頭を軽くたたきながら抗議した。
「良いじゃない痕がついたって。たまには修ちゃんも、みんなにからかわれて、恥ずかしい思いをすれば良いと思うよ」
「なんでだよ」
「私が寂しくなるのはムカつくから」
「とんでもない理論だな、それ」
あきれた口調でつぶやく。
「女の子に理論なんて関係ないの」
「三十路間近で女の子って、イテテテッ、わかったって、女性は永遠に女の子なんだな、ごめんごめん。だから、そこをつねるのはやめてください、お願いします」
「反省してますか?」
「反省してます!」
とりあえず謝ったから許してあげよう。
「でも真面目な話、新婚でもないのにこんな痕をつけられたら俺、なんて言い訳すれば良いんだよ」
「そのまま言えば良いじゃん。嫁を怒らせて、かまれましたって。引っぱたかれたとか、引っかかれたよりは、マシだと思うけど?」
「俺の嫁は猛獣かって話になりそうだ」
「ワガママなエロエロ魔人には、ちょうど良い嫁だと思うけどな」
「なるほどね。じゃあ猛獣な奥さん、どうせなら、ちょっと猛獣っぽくエッチでもしてみようか?」
「え?」
あっという間にうつ伏せにされると、腰を持ち上げられた。
「二回もかまれたんだから、それなりに報復しないとねえ」
「ちょっと修ちゃん? それって自衛官らしからぬ言葉では?」
「ほら、世間は倍返しってヤツもあるみたいだし?」
「それ、絶対におかしいから!」
もう、本当に自衛官て無駄に体力がありすぎる。殿堂入りじゃないのにこんな状態なんて、他の奥さんたちは、一体どうやって対処しているんだろう。やっぱり筋トレまったなし?
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「こんだけ会えないのを我慢しているんだからさ、せめて、総監ぐらいまでにはなってもらわないと」
わがままなエロ魔人さんが、やっと満足してくれた後に、そんな言葉が飛び出した。これは会えなせいで大暴走する、誰かさんの相手をすることも含めてだ。その点を、修ちゃんがわかっているかどうかは謎だけど。
「また無茶ぶりしてきたな、まこっちゃん」
「三十年後には総監夫人とか幕僚長夫人って呼ばれたいです」
「無茶言うな。そこまでいこうと思ったら大変だぞ? 個人的な能力や才能でならある程度のところまではいけるけど、それ以上となると、プラスアルファの政治力も必要なんだから」
出世に政治力が必要なんて初耳だ。
「政治力……」
「艦長のお兄さん、いま、海幕にいるんだけど、そりゃもう大変らしい。あそこの海軍一族ですらそうなんだ。俺なんて、とてもとても。そのあたりの話、くわしく聞きたい?」
「……聞きたくないです」
私は慌てて首を横にふった。
「とにかく、どこまで偉くなれるかはわからないけど、努力はするよ。そのために、まこっちゃんにも寂しい思いをさせてるんだから」
「できることなら総監様に……」
「まだ言うか、しかも様づけとか。時代劇のお代官様じゃないんだから」
幹部自衛官の宿命とはいえ、陸上勤務と艦艇勤務を繰り返しながら数年ごとに異動して、全国津々浦々な生活を続けるのは大変だと思う。その苦労が将来、それなりにむくわれると良いのだけれど。
「修ちゃんが、ずっと護衛艦にたずさわっていたいと思ってるのは知ってるから、そっちは無理にとは言わないけど。だったらそうだなあ、せめて一国一城の主にはなってほしいかな」
「つまりは艦長?」
「うん、艦長さん。あ、だけどトイレでアメリカさんと殴り合いするのはダメだからね」
私の言葉に、修ちゃんがおかしそうに笑った。
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「あっ!!」
「どうした?」
次の日の昼すぎ、車に乗ってから大事なことを思い出した。
「大変! ヤナギ達のおみやげ、買ってない! おいしいカマボコか煮干しでも買ってくるって約束したのに、すっかり忘れてた!」
道の駅に立ち寄った時、散々、カマボコや煮干しを見ていたのに、まったく猫達のことを思い出さなかった。なんたる不覚。一番大事なおみやげを忘れるなんて。
「駅の売店に、こっちの名産が少しだけ売られているけど、猫達が食べられるようなものは、なかったような気がするな……」
「裏のショッピングモールまで、ひとっ走り行ってくる」
「一階の食品売り場の横に、おみやげコーナーがあったな、たしか。ペット用があるかどうかはわからないけど」
そんなわけで、駅の近所にあるショッピングモールで、おみやげをいくつか買うことになってしまった。そこに行ったおかげで、ペット用のカマボコも見つけられたんだから、不幸中の幸いというやつだ。
「修ちゃん、電車が来るまで一緒に待ってなくても良いよ。私、もうホームに上がるし」
修ちゃんは、駅近くの駐車場に車を止めて、わざわざ駅舎まで一緒に来てくれた。だけど、そろそろ仕事に行く準備をしなければいけないのでは?と心配になってくる。
「うん。乗るところまで見てないと不安だけど、見届けるのは、切符を買うところまでにしておくよ」
「大丈夫だよ、どうせここは始発なんだし」
いくら私でも、これだけ小さな駅なら乗る電車を間違えようがない。だけど修ちゃんの考えは違うらしい。
「今度は乗りすごすのが心配だな。また爆睡して一駅前で起きるってパターンだったら、下手すれば終点まで行っちゃうわけだし」
「さすがに今日は大丈夫だよ。それに終点まで行ったとしても、同じ市内で京都駅だから、乗り越し料金を払うぐらいだし」
それに、今朝はゆっくり寝かせてもらえたから大丈夫、なはず。
「次に会えるのはお盆休みだな」
「そうだね。私のお盆休みはいつも通りだけど、有給は残してあるから。修ちゃんのお休みがいつになるかわかったら、また知らせてね」
「わかってる。まこっちゃんも体には気をつけるんだぞ? 具合が悪くなったら、我慢しないですぐに病院に行くこと。OK?」
「わかってるー。修ちゃんが帰ってくる時には、元気いっぱいでヒノキ達とお出迎えしてあげるからね」
グズグズしていると本当に帰りたくなくなると言ったら、修ちゃんは笑って、じゃあ次に会うのを楽しみにしてると言い残して帰っていった。
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「ヒノキ~、ヤナギ~、ただいま~~」
家に戻ると、玄関で不機嫌そうな顔をした、ヒノキとヤナギがお出迎えをしてくれた。靴を脱いで家にあがると、まずはそのへんで粗相をしてないかチェックをする。
「運動会はしなかったみたいだね、かんしんかんしん」
もしかしたら母親が片づけてくれたのかもしれないけれど、見た感じ、どこにも猫達の狼藉の痕跡はなかった。
「ヒノキ、ヤナギ、おみやげにカマボコを買ってきたんだけど、ちょっとだけ食べる?」
私の問い掛けに二匹が声をそろえてニャオと鳴いた。その凶悪な目つきは、もったいぶってないでさっさと食わせろと、言いたいらしい。台所にいくと、細かくほぐされたカマボコをお皿に入れて、二匹の前に置く。
「早く食べちゃわないと、マツ達に見つかるからね」
そう言いながら、猫砂のチェックをする。
―― 今年は久しぶりに充実した、ゴールデンウィークだったなあ…… ――
お盆休みは修ちゃんがこっちに帰ってくる。さらにその先には、秋のゴールデンウィークなるものがひかえていた。
―― また予定があうようなら、修ちゃんちに押しかけようかな…… ――
そんなことを考えながら、猫砂の掃除を始めた。
そして次の日、当直明けの修ちゃんからメールが入っていた。
『手をつないでいたのを目撃されたらしく、散々からかわれた』
かんだ痕のことばかりを心配していたのに、他の人から指摘されたのは、天橋立で手をつないで歩いていたことだったなんて。世の中、なかなか思うようにはいかないものだよね……などと思ってしまった。
■ちょっとだけ猫視点■
まこっちゃんが帰ってきた。まこっちゃんが留守の間は、ママのところでまったりと留守番をしていたけれど、今日からはまた、まこっちゃんのお世話をしなくてはならない。人間は、僕達がなにもせずに、毎日を毛づくろいと昼寝をしてすごしていると思っているけど、実はそんなことはない。僕達は僕達でとても忙しいのだ。
「ヒノキ、猫用のカマボコってそんなにおいしい?」
おみやげのカマボコに夢中になっているヒノキをながめていたまこっちゃんが、お皿に入っているカマボコに手をのばす。
『あ、僕のだからダメ! とらないで!』
ヒノキがまこっちゃんの手をパンチした。
「わ、そこまでするってことは、本当においしいんだ。でもこれ、たまのおやつだからね? 毎日あるとは思わないでよ?」
『わかってるよ。なあ、ヤナギ』
『うん、わかってる。次にこれが出るのは、修ちゃんが戻ってきた時だよね、きっと』
『買ってくるの、忘れないと良いけどね』
『だよねー』
僕達を放置して遊びにいくのはけしからんことだけど、こうやっておみやげを買ってきたから、じゅうたんとソファをバリバリするのは、やめておいてあげようと思う。




