第十七話 湖水浴 3
「泳ぐのは良いけど、あまり遠くまで行かないのよ」
「はーいはーい」
母親の言葉を適当に聞き流しながらコテージを出る。もちろん、バスタオルをはおって。
「バスタオルの重石、持ってきた?」
修ちゃんが歩きながら聞いてくる。
「蚊取り線香だけじゃダメかな」
「念のために、そのへんにころがってる石を持っていくか」
修ちゃんは、コテージの玄関先にころがっていた大きめの石を二つほど拾い上げた。
「これと蚊取り線香の缶があれば、さすがに飛ばないだろ」
「今のところ、そんなに風も吹いてないしね」
水際の芝生まで来ると、そこにバスタオルをひろげ、蚊取り線香と石で重石をした。
「ねえ。こういう時ってボーダイ的には準備運動、するの?」
サンダルを脱ぎながら質問をする。
「小学校の時みたいなことはしないけど、体をほぐしてから泳いでいるかな。なんで?」
「え、なんとなく? こう、なんていうか、なんの前触れもなく、ジャガイモを鍋に放りこむみたいな感じで、ダーッて水の中に放りこまれるのかなって想像してたから」
私がそう言うと、修ちゃんはなんとも言えない顔をした。
「ジャガイモって。まこっちゃん、俺達をなんだと思ってるんだよ……」
「えーと、超体育会系男子の集団。泳ぎたくなくても、先生達に容赦なく水の中に放りこまれるジャガイモさん、かな?」
防衛大学で、どんな講義がされているのか詳しくは知らないけれど、とにかくどこの大学よりも、体育系なのは間違いないと思う。
「まあ、まったくの的外れってわけでもないけどさあ……」
「え、そうなの? どのへんが?」
なんの前触れもないところ? それともジャガイモみたいに放りこまれるところ? それともそれとも容赦なくなところ? 興味津々な私だったけれど、修ちゃんは複雑な顔つきで笑うだけで、その疑問には答えてくれなかった。そしてパーカーを脱ぐと、私の背中を押しながら水の中へと入っていく。
「はいはい、泳ぐ準備はできた? だったら行くよ。お肉とアイス分のカロリー、消費するんだろ?」
「カロリー消費にはどのぐらい泳いだら良いかな。目標は? どこまで泳ぐ?」
ここは琵琶湖。プールのように、端から端までを往復するというわけにはいかないのだ。
「あのブイが浮いているところと言いたいところだけど、あそこまで行ったら、まこっちゃん、完全に足がつかないよな。だから、その半分ぐらいで折り返しかな」
沖に見える旗のついたオレンジ色の浮き。そこから外は遊泳禁止だ。深さだけが理由ではなく、そこから外では水上オートバイが走りまわっているので、この遊泳区域から外には出られない。
「岸にそって泳げれば良いのにね」
だったら沖に向かっては泳がず、適度な深さなところで岸に沿って泳げば良いのでは?となりそうなところだけれど、それはちょっとばかり難しかった。
「ここが貸し切り状態ならそれも可能だけど、家族やグループがいるからね」
この場所にはいくつかの家族やグループがいて、今朝も私達と同じように、すでに何人かが水に入って泳いでいる。そこを横切っていくのは、さすがに気が引けた。
「折り返さなくても、あの距離だったら泳げると思うよ」
「それはプールの話だろ?」
「だってさあ、カロリーを消費するなら、ある程度の距離は泳がないと。昨日みたいにフワフワ浮くだけだったら、絶対に消費できないもん。修ちゃんは、私が太っちゃっても良いわけ?」
私の言葉に、修ちゃんは少しだけ難しい表情で、ブイと私を交互に見つめる。
「本当に大丈夫? あっちまで泳いだはいいけど、帰りに疲れて沈むとかなしだぞ?」
「遠泳の時はどうしてるんだっけ? 力尽きそうになったら、浮いて余力のある子に引っ張ってもらうんだっけ?」
「それじゃあカロリー消費、まったくゼロじゃないか」
あきれたような声をあげた。
「別に引っ張ってもらう気なんてないよ、今のは単に質問しただけ。ちゃんとあそこまで泳いで、こっちまで帰ってくるから心配しないで」
「本当かなあ……万が一のことがあったら、俺、おじさんとおばさんにめっちゃ叱られるんじゃ?」
「何キロも泳ぐわけじゃないから問題ないよ」
「……わかった。じゃあ、まずは一往復してみようか」
どうやら私の様子見をするつもりらしい。だけど修ちゃん、私だって泳ぐのは得意なんだからね? そんなわけで、私と修ちゃんはオレンジ色のブイを目指して泳ぎはじめた。
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「意外と遠かったー!」
オレンジの浮き輪につかまると、笑いながら修ちゃんの顔を見た。
「だから言ったじゃないか。やっぱり半分ぐらいの距離でちょうど良かったんだよ、まこっちゃんは」
「そんなことないですー、ちゃんと泳いだし、岸にだって自力で泳いで戻れるもん。もう一往復ぐらい余裕ですからー」
とは言ったものの、さすがにすぐ戻る気にはなれない。
「修ちゃん、私にあわせてゆっくり泳いだから物足りないんじゃない?」
「はーん、一休みしてるから往復してこいってことか」
「別にそんなこと言ってないけどー」
「なにをおっしゃいますやら」
お見通しだぞと笑っている修ちゃんに、鼻をつままれた。
「じゃあ、一往復してくるから、まこっちゃんはここで待ってて」
「りょうかーい」
敬礼をして修ちゃんを見送る。
しばらくして、エンジンの音が近づいてきて、水上バイクが近くで止まった。それにまたがっているお兄さんが、こっちを見てニコニコしながら近づいてくる。そのせいで水面がうねり、大きくブイが揺れた。
「もー……危ないなあ……」
お兄さんは、私が文句を言ったのには気づなかったようで、ニコニコしたまま、ブイに横づけして止まると声をかけてきた。
「女の子がこんなところまで泳いでくるなんて、すごいね。もしかして疲れて泳げなくなった? だったら乗せてあげるよ?」
「いえ、けっこうですー」
もしかして、これは世の言う「ナンパ」というやつだろうか。ナンパというものは街中でされるものだと思っていたけれど、こういう場所でもあるらしい。
「水上バイクで走るのも、けっこう楽しいよ。乗ってみない?」
「いえ、つれを待っているのでー」
「へえ。おつれさんも頑張って泳ぐ子なんだ。なかなか朝から元気だね。俺も友達と来てるから、おつれさんがもう一人いても、乗せてあげられるよ」
お兄さんの表情からして、私のもう一人のつれも女だと思っているようだ。その私の〝おつれさん〟は、ちょうど岸とブイの半分ぐらいまで、たどりついたところだった。
「あー、そういうのきっと興味ないと思いますー」
「えー、そうなの?」
「もっと大きなものに乗ることになってる人なのでー」
「?」
お兄さんが首をかしげている。泳いでいた修ちゃんは、こっちの現状がわかったみたいで、少しだけ泳ぐスビードをあげた。
「あ、来ました、私のつれ」
泳いでいる修ちゃんを指でさす。指の先に視線を向けたお兄さんが、なんだよーとつぶやいた。
「もー、人が悪いなあ、カレシと一緒だったらそう言ってくれなきゃー」
あははーとお兄さんが笑う。そうしているうちに修ちゃんが私の横にたどりついた。
「どうした? なにかあった?」
「ん? 水上バイク、乗らないかって」
「ふーん」
修ちゃんは、前に実家に帰ったらと私が言った時と同じような能面みたいな顔をする。
「人が泳いでるのに、近くまで寄ってくるなんて危ないですよ。前に接触事故もあったことだし、気をつけないと」
「あー、ごめんね。もしかしたら溺れそうなのかなって、心配になったものだから」
「それはどうもありがとうございます。この通り、彼女は溺れていないので。ご心配をおかけしました。以後は僕が面倒をみますので心配にはおよびません。どうぞ、引き続き水上バイクを楽しんでください」
こういうのを「慇懃無礼」って言うんだろうなと思いつつ、お兄さんに丁重にお引き取りねがっている修ちゃんの顔を見つめた。
「あー、そうだね、じゃあ、そっちも気をつけて。ここは遠浅で安心な遊泳地だけど、事故がないわけじゃないから」
「ありがとうございます」
お兄さんは、じゃあねと言いながら少し離れた場所まで移動すると、エンジン全開で遠ざかっていった。
「修ちゃん、めっちゃインギンブレーだったよ」
「あのぐらい言ってちょうどだろ。てか、まこっちゃん、ああいうのが来たら俺を呼べよ」
修ちゃんは、なぜか怒った顔をして私を軽くにらむ。
「呼ぶもなにも、修ちゃん、こっちに泳いできてるところだったじゃない」
「あれ、絶対にナンパだからな?」
「そうみたいだねえ。私、ああいうのって街中でしか現れないって思ってた。なんだかレアモンスターに出会った気分」
「まこっちゃーん……」
ヤレヤレと首を空を見あげた。
「それより修ちゃん、気がついた?」
「なにが?」
「今の人さ、すね毛すごかったんだよ。あと手の甲も! あれは産毛じゃなくて毛だった!」
「まったく、どこ見てるんだよ」
修ちゃんが信じられないという顔をして私を見る。
「毛むくじゃらのレアモンスター、たしかなにかのゲームにいたよね?」
「もー……心配した自分がバカみたい思えてきた……」
気が抜けたように笑いだした。
「さあ、岸に戻ろうか」
「まだ泳ぐからね! カロリー、ぜんぜん消費できてないんだから!」
「わかったわかった。だけどまずは一往復目の復路だろ?」
そんなわけで、私達は姉が呼びに来るまでひたすら泳ぎ続けたのだった。




