康熙帝・3
鄭成功という男がいる。
一度だけ、顔を合わせたことがある。怜悧な眼差しの、恐ろしく整った顔立ちの男だ。
だがこの男の本当に恐ろしいところは顔ではなく、その奥に潜む頭脳であった。
天才軍師と名高いこの男は、その当時世界でも屈指の国力を持っていたオランダの商人を駆逐し、台湾という土地を占領してしまった。そしてこの清を狙っていた。
そんな鄭成功に対して、康熙が取ったのは単純で、消極的とも言える策だった。
台湾の周りの国に脅しをかけ、台湾への物流を止める。
台湾は、けして豊かな国ではない。台湾だけで生活に必要な全てが手に入るわけではない。故に、物流を止めれば、いずれは自滅する。確かにその通りではあるが、弱腰のようにしか見えぬこの策に、高官達はここぞとばかりに文句を言い募った。が、それも、康熙のこの一言でぴたりと止んだ。
『ならばお前が、鄭成功を討つか?』
つまり、鄭成功とは、そこまでの男なのだった。
康熙の取った、通称海禁政策は実際、よくはまった。鄭成功も自分達の弱点は解っていただろうが、それでも策にかかったのは台湾を制圧したばかりで、清への対策を講じる時間が無かったから、ということもあるだろう。
結果として、康熙はまた、名声を高めた。
「養子を採ろうと思う」
「は?」
「余の後継ぎだ。古代大秦国のアレクサンダー大王然り、前漢の武帝然り。後継者を指名しなかったために起こった争いは数知れぬ。だが、余に皇后はおらぬ」
「作る気は無いのか?」
「無いな。何故なら余は、女が……」
そこで康熙は一旦言葉を切ると、数拍置いて叫んだ。
「女が大好きだからだっ!!!」
あまりにも欲望に満ち溢れた発言だった。
絶句する俺に構わず、康熙は唇をわななかせる。
「女が大好きだ」
「そんな慄然とした顔で……」
「しかし、余は皇帝、この広大な地を統べる王である」
「わかってるじゃねぇか」
「その責務を片時たりとも忘れたことなどない」
「だが、歴代の王には後宮に女を侍らせている御方も多いだろう。お前もそうすれば良い」
「駄目だ。そうすると多分余は、後宮から脱出することが出来ぬだろう」
「……脱出ときたか」
「この気持ちが解るか、炎武。余は本来ならこの国の女を誰でも手に入れられる身分でありながら、その身分が余に身勝手に振る舞うことを許さぬのよ。何という皮肉か……」
ふっ、と哀愁漂う微笑を浮かべる康熙。俺は何とも言えずただ頷いた。俺達の間の微妙な空気に気付いたのか気付いていないのか、康熙はこほんと咳ばらいすると言葉を続けた。
「目星ももう、つけてある」
「もうか? 誰だ」
「司馬家の雍正だ」
「雍正……待てよ、何処かで聞いたことがある」
うずうずと話したそうな康熙を手で制して、俺は黙考する。雍正。すぐに思い出せないということは、貴族社会における重要人物では無いということだが、嫌に聞き覚えのある名前だ。
そこで俺ははたと気付いて目を見開いた。
「いや、待てよ……そいつはまさか……“司馬家の放蕩息子”とやらかでは無いだろうな?」
「流石炎武。そう、そいつだ」
「お前、」
「まあ、待て。余の話を聞け」
なおも言いつのろうと俺に軽く微笑んで、康熙は言葉を続ける。
「確かに、雍正が“司馬家の放蕩息子”であることは否定せぬ。だがあいつの器量は正しく王であり、為政者であり、人の上に立つ者のそれだ。炎武。そなたも会えば解る。近いうちに会ってほしいとも思っている。そして、……一つ、頼みがある」
「?」
康熙は何故かそこで言い淀んだ。伺うように俺の顔を見つめる。俺は眉を上げた。
「どうした」
「ああ……」
「怒らせるようなことを言いたいのか?」
「……さて」
「とりあえず言ってみろ」
「……そうだな。単純なことだ。
そなたの剣を、雍正に捧げてほしい」