康熙帝・1
明の武将、呉三桂率いる軍が、とうとう清軍に降伏したらしい。
あの忠義者と名高い呉三桂が降伏するとは、李自成などというぽっと出の輩に明を滅ぼされたのが余程堪えたのであろうか。それとも、忠義者とは只の噂で、本当は利のみを求むる男であるのか。
私見だが、後者の可能性が強いと思われる。本当の忠義者であれば、明が李自成によって滅ぼされたそのときに命を捨てていたはずだからだ。
どちらにせよ、武に秀でた呉三桂が手に入ることは、あいつーーー康熙にとって、喜ばしいことであろう。
乳兄弟であればこそ、俺も嬉しい。
家臣には飄々とした姿を見せるあいつだが、本当は神経質で常時胃痛に悩まされているような奴だ。
やっと呉三桂が降伏したことで、しばらくの間ぐっすり眠れることだろう。
そこまで書き終え筆を置くと、俺は一息ついて背もたれに体重を預けた。
生来が筆不精である俺にとって、毎日日記をつけるとは中々疲れる作業だが、この国の王がそうせよというのだから従う他ない。
真夜中である。月もとうに頭上を通り抜けた。この府庫には仮眠室も用意されてある。何より疲れた。だが俺は眠らなかった。
あいつが来ると、何となく思ったからだ。
程なくして、府庫の分厚い扉が軋みながら開く。俺はひょっこりと顔を出したそいつを見て、思わず笑ってしまった。
「よお、康熙」
この国の王。まだ治世半ばであるが、名君と名高いその男は、俺を見て少しだけ眉を下げた。
「……いてほしいとは思ったが、本当にいるとは思わなかった。お前は余の心が読めるのか? 炎武」
「残念ながら。ただの勘だ」
「すごいな、お前……」
康熙は俺の隣に、行儀悪く片膝を立てて座る。そんなことを注意する人間も、ここにはいないが。
「呉三桂が、とうとう落ちた」
康熙が、片頬を緩めて笑った。
「ああ」
「やっとだ。これで今までちょこまかとうっとおしかった明が片付いた。次は、台湾だ」
「鄭成功、だったか」
「その通り。余はこの中国をあまねく制圧するつもりだった。ここまで来た。台湾で最後だ」
機嫌よく笑う康熙に、俺はこっそりと酒と椀を取り出す。康熙の顔がぱあっと輝いた。
「祝い酒だ」
「気が利くな! 流石は我が乳兄弟だ」
二人、月灯りだけに照らされて酒を飲む。そんな風にしてその夜は更けた。