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モデラー探偵 巴照盛太郎

第2話 砂の中の結婚指輪

作者: ドワガミ

モデラー探偵 巴照盛太郎の第2編目の短編です。

「この中に指輪を隠せるものかしら…。」


後ろでそんなつぶやき声が聞こえ、江油模型店の店先のバス通りからショーケースを眺めていた神谷珠莉かみや しゅりは思わず振り向いた。


「あ。ごめんなさい」


そこに立っていたのはスモークグレーのハンドバッグを持ち、タイトスカートのビジネススーツに身を包んだ30代と思しい美女だった。


肩までの黒髪、控えめだがしっかり整えられたメイク、光沢のある白いシャツが濃いベージュのジャケットから覗く盛り上がった胸元。

バストから視線を下ろしていくとギュと音が聞こえそうなくびれたウエスト。

ジャケットとセットのタイトスカートは張り出したヒップをぴったりとラッピングしている。

すらりと伸びた足の先は薄いピンクのパンプスで上品にまとめられていてコーディネイトもスタイルにも隙がなく、珠莉からは、わあぁー、という心の声しか出てこない。


珠莉の体型も顔だちも、平均的な同年代の女の子から比べれば頭ひとつ抜きんでてはいるが、感受性が高くて人見知りで内向的な性格が彼女を19歳にしてはやや幼く見せている。

自分でもそれを自覚しているので、こんな大人の女性を見ると自分と比べて引け目を感じてしまう。


「珍しいわよね。このお店にこんな可愛いプラモデルが飾られてるのなんて」


その美女が珠莉に微笑む。

彼女もショーケースを見ていたらしい。


可愛いプラモデル、とはショーケースの中に置かれた紫でキャンディ塗装されたベアッガイだ。

隣には珠莉の父、神谷三郎のドムが同じく紫のキャンディ塗装で並んでいる。


「あ、ありがとうございます。これ、私が作ったんです」


美女の褒められたからか微笑まれたためか、自分でもよくわからないどきどきで珠莉はもじもじしてしまう。


「え?!そうなの?・・・・神谷…珠莉さんっていうのね。あなた」


美女はベアッガイの足元に置かれた作成者のネームプレートを覗き込んだ。先日、店主の江油が置いてくれたものだ。


「すごく綺麗にできてるのね。。。ねぇ、珠莉さん、あなた、プラモデルに詳しいなら相談に乗って欲しいのだけれど」





話を聞くため、とりあえず美女を江油模型店に招き入れたところ、店主の江油がレジ台から転げ落ちる勢いで奥にすっ飛んで行き、この店で一番綺麗なボロのスツールと、アイスコーヒーの入ったグラスを持って戻ってきた。


どうせ客はいない平日の午後なのでどうぞ遠慮なく、とにやけた江油がわざとらしくスツール座面をはたいて座るように勧めた。


「ん?俺の顔に何かついてるか?」


丁寧な挨拶の後にその美女が 張泉糸子はりせん いとこと名乗るのをにへらーっとした締まりのない顔で眺めている江油は、とても残念なものを見る珠莉の目線に気づいてにやにや顔で聞く。


「いえ、いいです。別に。。。で、張泉さん、相談ってなんです?実は私はプラモデルにそれほど詳しいってわけじゃないんですけど…」


模型作りが好きな父親がプラモデルを作るのはよく見ていたし、今、ショーケースに置かれているベアッガイも、とある事情から父が作っていたのを真似て作ったものではあるが、珠莉自身がプラモデルを趣味としているわけではなかった。


そもそも「モビルスーツ」を「ロボット」と呼ぶ珠莉だ。ガンプラにも詳しいとは言い難い。


それでも模型店主の江油に乗れる相談なら、と店内に通したのだ。



「そうなの?その、、、わたし、別れた彼に隠されてしまった結婚指輪を見つけられなくて困ってるの」


張泉は左手の甲を前に向けて見せた。

薬指の根元あたりにうっすらと白く指輪の跡がある。


「はぁ、ご結婚されてるんですね。そりゃそうですよね…。」


50代残念店主の声にいくらかの気落ちが混じる。


「ひどい!結婚指輪を盗るなんて、なんでそんな事!」


江油のトーンが落ちたのとは逆に、珠莉の憤慨した声が店内に響いた。


「いえ、私が結婚しているのを隠して二股掛けていたんです。。。それがその元彼にバレちゃって…。」


到底、自分に理があるとは言えない事情に恥じ入る張泉の声が尻すぼみに小さくなる。


「あ。あぁ…」


珠莉の気勢も削がれて憤慨の行き場を失った。

江油だけが、かけられてみてぇなぁ、二股。などと思ってそうな顔をしている。


「そ、それとプラモデルとどういう関係が?」


黙ってしまった張泉を、珠莉がなんとか取り繕って話しを促す。


「ええ、その元彼というのはプラモデルが好きで、自宅もプラモデルやプラモデルを作る道具類でいっぱいなの」


さもありなん。

父親がいた頃、父が使っていた部屋の様子が珠莉の頭に浮かぶ。


「彼、この先のマンションに1人で住んでたんだけど、私と別れることになって引っ越したの。その時、いらない家具とプラモデルとその道具を置いていって、この部屋の中の物に指輪を隠したって。今月末には部屋の契約が切れて、部屋の中のものは全部が処分されることになってるのよ」


吐ききったように肩を落とした張泉が、うつむいて言葉を区切る。


「月末ってあと3日じゃないですか!」


レジ台の奥に貼ってある月めくりのカレンダーを見て珠莉が声を上げた。

今日を入れても4日の猶予しかないことになる。


「ええ、先週から毎日部屋に行って探してるんだけど見つからなくて。それで何しろ部屋の半分はプラモデル関連のものだから…」


連日の捜索で疲れ果ててるのだろう。

上手なメイクで隠されているが、よく見れば目の下のクマがうっすらとわかる。


「あ!それでショーケースのプラモデルを見て、プラモデルの中に指輪を隠せるのかな、って言ってたんですね!」


先ほど店先でのつぶやき声はそれだったのだ。


「プラモデルの知識はあんまり関係ない気がしますが、人手があったほうが良いかもですね。もし良かったら手伝いましょうか?」


張泉が顔を上げる。驚いたようなホッとしたような表情で珠莉を見た。


「いいの?こんなこと、主人はもちろん誰にも言えなくて1人で探してたの」


それはそうだろう。不倫相手に結婚指輪を盗られました、というのは家族や友人に気軽に相談できる内容ではない。


張泉は、都内での仕事を終えたあと、帰り道のこの駅で下車し、毎日、不倫相手がいなくなった部屋でひとり、指輪を探していたのだ。


「彼のマンションはこのすぐ先よ。これから一緒に来てもらっても平気?」


張泉はアイスコーヒーのグラスを一気にあおるとバッグを引き寄せてスツールから立ち上がった。


「いいですよ。今日はもう授業もないし。って江油さんはお店があるでしょう?!」


そそくさと前掛けを外している店主に珠莉の制止が入った。


「いや!でも!男手はあったほうがっ!」


口を尖らせて抗議する江油だが、そこに入口の引き戸が開いて丸顔の男がひょろひょろと入ってきた。


「あ!ちょうど良かった!盛太郎もりたろうさん!ちょっと来てください!男手が必要かもしれませんからっ!」


突然の出来事に面食らっている盛太郎を、珠莉は有無を言わさず労働力として徴収する。


「いや、今日は頼んでおいたエッチングパーツが届いたって聞いたから取りに…あ、え、江油氏!また後で寄りますっ!!」


遠ざかる声を、前掛けを外しかけた江油が呆然と見送った。


===================


張泉の元彼のマンションは、駅から伸びるバス通りがぶつかる幹線道路を越えてすぐのところにあった。


珠莉は、キャンディ塗装のベアッガイを手掛かりに、疎遠になっていた珠莉と父をめぐり合わせた巴照盛太郎ぱて もりたろうの探偵物語の顛末を張泉に語ったあと、今度は盛太郎のために張泉の結婚指輪が隠されてしまった経緯を説明し、張泉がそれを補足した。


元彼の名前は 野橋のはし 嵐太らんた

以前、張泉と付き合っていたが10年前に一度別れ、張泉は4年前に別の男性と結婚した。


その後連絡を取り合うこともなかったが、1年前にこの近くを仕事で訪れた張泉は野橋と偶然再会し、そこから焼け木杭に火がついたという次第だ。


「10年以上前、私と付き合うきっかけがプラモデルだったのよ」

前を見て歩きながら張泉が話す。


「彼、その頃はこの駅の反対側にあったおもちゃ屋さんの店員だったんだけど、まだ小さかった甥っ子を連れて行ったときに、その甥っ子がお店のショーケースに飾ってあった完成品のオートバイのプラモデルが欲しいってきかなくなってね」


最初は売り物ではないし小さい子供さんのおもちゃではないと断っていたのだが、絶対壊さない。おもちゃにしないで勉強机に飾るだけだから、って頑張るのでとうとう根負けした野橋が店長に掛け合ってくれたのだった。


そのオートバイのプラモデルを作ったのが野橋だったので、野橋が個人的に彼女の甥御さんにプレゼントしたということで納めた。


「でも結局触っちゃったり落としちゃったりして壊すのよ。甥っ子はまだ小学低学年だったから。で、その度にわたしが彼のお店にオートバイのプラモデルを持って行って直してもらうの」


懐かしそうに幸せそうに彼女が笑う。

何度も壊れたプラモデルを持ってくるのを嫌な顔ひとつせず直してくれる野橋のところに通ううちに2人は惹かれあい、付き合うようになった。


「それから2年くらい付き合ったかな。10年前に別れた時は大げんかだったけど、原因はどうでもいいちょっとしたことだった気がする。覚えてないわ。

で、1年前にわたしが仕事で来たここの駅前でバッタリ会って、どう?まだプラモデルは作ってる?って聞いたら、彼、作ってるよ。見にくる?って」


この町に住み続けていた野橋だが、住まいは10年前に居たアパートを引き払い、駅により近い部屋を借りていたという。

話していた張泉が3人で歩く先の建物を見上げた。

3階建てのその青い建物が野橋の部屋があるマンションだった。


この1年間、毎週のように通った彼の部屋があるマンション。

張泉はふぅっと息を吐き、行きましょう、とエントランスのアーチをくぐった。



「おじゃましまーす」


二階の角部屋のドアを張泉がバッグから出した合鍵で開けて二人を招き入れる。

物はそれなりに多いがきちんと整理されている。

玄関からの短い廊下が二つの部屋とキッチンとユニットバスにつながっている独身者向けのコンパクトな間取りだ。


冷蔵庫やタンスなどが見当たらないのは引っ越しで持って行ったからだろう。

食器棚と中の食器の半分ほど、ベッド、ラグなどは使われたままの様子で残っている。


「このラグはわたしが買ったの。あの人、冬でも裸足で歩く癖に夜は足が冷たい寒いっていうんだもの」


張泉と盛太郎はバッグと通勤カバンを玄関入ってすぐの廊下に置いた。

珠莉は学校から一度帰宅して出てきたのでスマートフォンと財布をパーカーのポケットに突っ込んだだけの手ぶらで来ている。


「ベッドもお布団も置いて行ったんですね。なんでだろ?」


ベッドと小さなテーブルが置かれた部屋の窓側がやけに寂しいのは、そこにあったテレビか何かを持って行ったからだろう。


「そりゃ、彼女のことを思い出すようなものは置いて行ったんでしょう。ベッドなんかその筆頭でしょうからね。」


盛太郎は玄関で靴を脱ぐとひょろひょろと奥に入っていく。


「え?だってお布団なんて引っ越した初日から必要なのにないとたいへん…あ。」


張泉は気まずそうに顔をそらし、珠莉は気づいて赤くなり、盛太郎だけは涼しい顔で淡々と部屋の中を見て回っている。


「で、引っ越しの際にこの部屋のどこかにあなたの結婚指輪が隠されてしまったと。来月になればこの部屋のものは業者に処分されてしまうので指輪は月末までに発見できなければ2度と戻らないということですね」


盛太郎は空っぽになった本棚などを見て回る。

小物類は処分したか持って行ったか、あまりこまごまとしたものは残っていない。


「指輪が隠せそうな家具の裏やくぼみなんかは一通り調べたわ。テーブルもひっくり返して見たし、ユニットバスの排水溝なんかもさらってみたけど指輪はなかった。小さなものだからいくらでも隠せるでしょうけど」


家探ししたという割には片付いているので、動かした家具類は張泉が律儀に戻したのだろう。


「こっちの奥がプラモデルの工作部屋?」


言いながら盛太郎は部屋を区切る引き戸を開けた。

片隅にはプラモデルの箱が積み上げられており、作業台とベランダの窓側に塗装ブースの乗った台が置かれている。

ベランダと反対側の壁にはアクリルの戸のついた陳列棚が置かれ、完成品のプラモデルが並べられていた。

ほとんど空になった本棚や箪笥のようなものが置かれたあともあるので工作部屋だけに使われていたわけではないようだが一目でわかるモデラーの部屋だ。


溶剤を取り分ける容器とエアブラシ、塗装ブースの乗った台は観音開きの棚になっており、開くと模型雑誌のバックナンバーと、組み立て説明書が整理して収納されていた。


「へー、説明書をこういう風にしてとってあるのか」


プラモデルの説明書はただの組み立て手順書、と見る人も居るかもしれないが、盛太郎は説明書の「資料」を読むのが好きだ。プラモデルの説明書にはその模型の実機の設定や解説が掲載されているものが多い。中にはほんとうに組み立て手順だけが記載されたものもあるが、たとえば戦車や戦闘機ならいついつ開発されどこどこの戦線で活躍した、ガンプラならアニメの登場シーンや劇中に語られなかった開発の経緯の設定、といったちょっとした資料になっているのだ。

ここを読むのと読まないのとでは、仕上がりへのイメージの固まり方が違ってくる、とさえ盛太郎は考えている。


野橋は几帳面な性格らしく、制作したプラモデルの説明書をきちんとまとめて取っておいたようだ。

さらに説明書を開くと、使用したと思しき塗料のカラー名もきっちりと書き込まれてあった。


作業台の脇には組み立てて使う配送用の荷箱のようなプラスチックのケースがいくつか積まれている。


プラスチックケースを覗くと、中には組み立て中らしいプラモデルがパッケージの箱と説明書つきで収められている。箱の中にはまだ部品が付いたままのランナーが入れられてあった。

どうやら作業中のプラモデルを一時的に保管しておく箱らしい。このようにして置くので、あとで続きを作るときにわかるように塗料のカラー名を説明書に書き込んでおいたのだろう。


作業台には食卓で埃除けに使う小さい折り畳みの蚊帳「キッチンパラソル」が広げられ、その中にも作りかけのプラモデルが見えた。キッチンパラソルの脇に裏返しに重ねられたプラモデルの箱をトレイ代わりにして使いかけらしい紙やすりや塗料瓶などが置かれているところを見るとまだ仕上がっていないもののようだ。



「あ、ほこり除けですか。頭良いですね!」



プラモデルに詳しくなとはいえ、珠莉はキャンディ塗装でベアッガイを作ったことはある。

父も塗装面へのほこりには苦慮していたので珠莉もほこりには気を遣ったものだ。


「タミヤの1/48 タイガーⅠ極初期型か。ジャーマングレーからの立ち上げでサンディイエローを吹いたところで止まってますね」


キッチンパラソルを少し持ち上げて盛太郎が中を覗き見る。

「タミヤ 1/48 タイガーI 極初期生産型」は2006年にタミヤから発売された有名なドイツの重戦車だ。


タミヤ模型が販売しているミニチュアミリタリーシリーズのラインナップのひとつで、2004年に同じタイガー戦車の初期生産型という製品も出ている。


初期生産型と極初期生産型の形状の違いは後部排気管の防塵カバーやヘッドランプの位置などで盛太郎はその違いを見て区別したのだろう。


「ジャーマングレーからの立ち上げ?」


盛太郎の後ろから作業台を覗いた珠莉が聞いた。


「下地に黒やグレーといった濃い色を吹き付けて、その上に本来の車体や機体の色を重ね塗る手法だよ。陰になる部分なんかを暗く、光があたる凸部分などを明るくグラデーションで見せる塗装方法だ。ほら、こういった込み入った部分は暗く、広い面は明るく見えるでしょ?」


盛太郎が砲塔の車体との接続部分や車体の上面、車体の後部の排気カバーのあたりなどを指さす。

広い面や出っ張って光が当たる部分は本体色を濃く塗り、影になる部分にかけて本体色を薄く吹き付けることで同じ色でも明暗が付きより立体的に見せることができる。また、下地が暗くなることで重量感も演出できる塗装方法だ。


「なるほど。キャンディ塗装とはまた違う重ね塗りの方法ですね」


珠莉がベアッガイで使ったキャンデイ塗装と同じく、この塗装方法もエアブラシが使われている。

そのエアブラシのハンドピースとエアコンプレッサーの一式はきちんと手入れされて作業台に置かれてあった。


「タイヤのベルトみたいのは付いてないんですか?この戦車?」


珠莉がタイヤのベルト、と言ったのは無限軌道、いわゆるキャタピラなども呼ばれる「戦車の足」で、戦車関連の用語では履帯と呼ばれる。

組み立て途中のタイガーIにはこの履帯がつけられていない。

本体塗装の後に取り付けるつもりなのだろう。戦車塗装では履帯を後で取り付ける人も多い。特にこのタイガーIは履帯が組み立てにくいキットなので塗装が済むまで後回しにしたのかもしれない、と盛太郎が説明しようとしたとき、すっかり手が止まってしまっていた2人の後ろから張泉がおずおずと声をかけた。


「あの、、、そろそろ探しましょうか?遅くなってしまうので・・・」


いつの間にか薄暗くなってきている窓の外に気付き珠莉は慌てて張泉に向き直った。


「あ、すみませんっ!? じゃあどこを探しましょうか?手分けして探した方がいいかもしれませんね」


盛太郎もやや気まずそうにキッチンパラソルを戻して部屋の中を見回す。


「そうですね・・・。盛太郎さんは完成品の棚を見てもらえませんか。わたしは壊してしまいそうであまりしっかり探せてないんです」


「こう言ってはなんだけど、壊してしまってもどうせ処分されてしまうものでは?」


盛太郎は首を傾けて張泉の表情をのぞき込んだ。


「う・・そうなんですけどね。やっぱり忍びなくて。この棚にあるプラモデルのほとんどはわたしも作っているところを見てきてて。。。」


張泉が辛そうに言う。これは彼女にとっても思い出の品なのだろう。


「じゃあ、わたしは作りかけのこの箱の中を探してみますね。ところで、完成品はともかく、道具類をかなり残していっているようですけど、引っ越し先でプラモデル、作れるんですかね?」


道具類の棚とケースを調べていた張泉の手がとまる。


「作れないだろうな。。。。もうプラモデルを作らないのだろう」


盛太郎が陳列棚の戸を上から順に慎重に開けながらこともなげに言った。


彼女を思い出すものは置いていく。10数年前に彼女に出会ったきっかけがプラモデルなら、プラモデルを作ること自体もこの部屋に置いていくということだ。


しばらく黙っておこう。珠莉はちらりと張泉を横目で見て下唇を噛んだ。

なんだか今日はとちってばかりだ。余計なことはもう言わないっ。


野橋が作るプラモデルは戦闘機と戦車が多いようだった。ここにはオートバイのプラモデルは一台もない。

積みプラモの中には自動車やガンプラも見られるが、戦車や自走砲、戦闘機、爆撃機などが多かった。


盛太郎は完成品をひとつひとつ丁寧に取り出し、戦車の砲塔を外したり、戦闘機のコクピットをのぞき込んで指輪を探す。分解できるところは分解し、傾け、ひっくり返して調べたがそれらしきものが見つからないまま時間が過ぎていった。


3人が時折声をかけあいながら捜索を続けて一時間あまり、すっかり手元が暗くなり張泉が部屋の灯りを点けた時、作りかけのプラモデルの箱を探し終えた珠莉が道具類の棚を調べる張泉を手伝おうと塗料瓶の収納棚のトレイを引き出したときにあっと声を上げた。


「見つけたかも!」


珠莉はトレイの一番手前の塗料瓶をつまみあげて強めに振ってみせた。

瓶の中で金属片のような固いものがガラスにぶつかる音がした。


「塗料の中に?!」


張泉が驚いた声を上げる。

盛太郎は道具類の箱からピンセットを見つけると珠莉の手から塗料瓶を受け取った。


塗料瓶はクレオス 水性ホビーカラーのレッドだ。


作業台に一度ピンセットを置き、両手で瓶を掴んで蓋を回して開ける。


微かな溶剤のにおいがしてまだたっぷりと入った真っ赤な塗料の液面が見えた。


盛太郎は蓋の開いた瓶を慎重に作業台に置き、左手で瓶を固定、右手でピンセットを取り上げてゆっくりと塗料の中にピンセットを挿し入れた。


瓶の底をピンセットが探り、やがて何かを掴んで引き上げられる。


「・・・たま、ですか?」


直径5ミリ程度の丸い玉がピンセットに摘まれて真っ赤に濡れていた。


「撹拌ボールですね。塗料の分離した成分を瓶を振ってかき混ぜられるように入れておく器具です。最近は専用のステンレスのボールが販売されているので、おそらくそれでしょう。たぶんここにあるほとんどに入ってるんじゃないかな?」


この赤の塗料瓶にもいくつかの撹拌ボールが入っているようで、盛太郎がピンセットでかき回すとコツコツといくつものボールに当たるのが見て取れた。


模型等で使う塗料は溶剤と顔料などの混合物だが、瓶などの容器を長時間おいておくと塗料の成分で比重の重い顔料などは下に沈み、溶剤などは上に浮いて分離してしまう。


したがって、塗装時はランナーの切れ端や筆でかき混ぜたり瓶を振って中身をシェイクしてから使うのだが、粘度の高い塗料は多少瓶を振ったくらいでは混ざってくれないことが多い。そこで、この撹拌ボールを入れておけば瓶を振るだけでしっかりとかき混ぜることができるうえ、筆やランナーに余分な塗料を着けて塗料を無駄にすることもない。


「これ。。。。塗料、100本か200本ありますよね?」


珠莉が何段にもなった塗料棚のトレイを指さした。


「水性ホビーカラー、アクリジョンが多いみたいだなぁ。タミヤカラー、エナメルカラーと、シタデルカラーもいくらか揃ってるね。プラモデルで使うものを買い足していった感じですね」


塗料のトレイをいくつか引き出して盛太郎は中を確かめる。

水性ホビーカラー、アクリジョン、タミヤカラーは水性の塗料で、一般に「アクリル塗料」「水性アクリル塗料」などと呼ばれる。乾燥する前なら筆などは水洗いで塗料を落とせるため手入れがしやすい。また、においも比較的少なく、においが気になったり家族などに配慮して水性塗料を選ぶモデラーも多い。


野橋はあまり使わなかったようだが、「Mr.カラー」に代表される「ラッカー塗料」というのもある。

乾燥が早く、一般に、水性カラーに比べてムラになりにくいとされるが、いわゆるシンナー臭が強く換気にも注意が必要だ。


エナメルカラーは乾燥が遅く、樹脂への浸食が強いため気を付けないとパーツを破損させたり、エアブラシで吹き付けて綺麗に仕上げるにはひと手間かけるなどアクリル塗料やラッカー塗料にくらべて扱いづらいイメージがあるが、金属光沢などの発色の良さなどから好んで使うユーザーは居て、そうでなくても部分的な塗装やスミ入れと言われる塗装方法などに広く使われている。


各社のそれぞれの塗料のシリーズは数十色から数百色程度の色のバリエーションがラインナップされているが、野橋は制作するプラモデル毎に使う塗料を買い足して揃えていったようで、それぞれラインナップの全色が揃っているわけではなかったが、それでもさすがに100本からの塗料瓶が棚のトレイに収まっている。


「きっと塗料瓶の中にあると思います。ここは探さなかったし、なんとなく、あの人ならここに隠しそうな気がするもの」


張泉はふっと息をついて前に出た。


「でも、今日はもう遅いからお二人はいいわ。あとは私がやるから。ありがとうね。珠莉ちゃん、巴照さん」


スーツのジャケットを脱いでシャツの袖を腕まくりすると、塗料棚の前にどっかと腰を下ろした。

盛太郎がピンセットをティッシュで拭いて塗料棚の前に置き、どこからか水の入った容器を持ってきてピンセットをそこで濯げるようセットした。


「指輪のサイズからしてこのタミヤのエナメル塗料の瓶には入らないから除外できると思いますよ」


「そうね。ありがとう」


張泉は盛太郎の説明を聞く。盛太郎は塗料や道具の扱い方などを簡単に張泉に指示し、換気のためにベランダの窓を開けに行った。


「いいんですか?これも手分けしたほうが早く終わるけど・・・」


珠莉が遠慮がちに聞く。乗りかかった船だし指輪が気にもなるが、他人の部屋にいつまでも居すわるのも気は引ける。合鍵のことは野橋も承知のこととは言え、家主が居ないのだからなおさらだ。


「いいのよ。隠し場所のアタリがついただけでも助かったし。お礼は後日。あのプラモデル屋さんにうかがうわね。」


張泉はさっそく塗料瓶をひとつ手にとって振って中に入っている金属片の音を確かめる。

珠莉が盛太郎を見ると、盛太郎は黙ってうなずいた。彼女の好きにさせよう、ということらしい。


張泉は、玄関まで送らなくてごめんなさいといいつつ、塗料棚の前から振り向いて、出ていく二人を見送ってくれた。

外はもうとっぷりと暮れて夜が訪れていた。珠莉はどこか後ろ髪をひかれる思いで野橋のマンションを後にしたのだった。


=====================


「珠莉ちゃん、、、、指輪、なかったわ」


翌日、江油模型店を訪れた張泉が珠莉と盛太郎の姿を見るなりどっと疲れた表情でがっくりとうなだれた姿を見せた。

昨日とは違う薄いブルーのスーツを着ている張泉だが、彼女の気分を反映してかやけに沈んだ青にも見える。


なんとなく気になった珠莉は、あのあと盛太郎に月末まで早めに江油模型店に来ておいてもらえないかと頼み込んだのだ。

盛太郎も指輪の行方は気になっていたのか、少し考えるそぶりを見せてから「いいよ」と答え、翌日の今日もいつもより早い時間に江油のところを訪れて昨日の野橋での部屋のことを詳細に江油に語っていたところだったのだ。


「やっぱり塗料瓶の中に隠したんじゃなかったんじゃないですか?」


いそいそとスツールを持ってきた江油の手からスツールをひったくると珠莉は張泉に腰かけるように勧めたが、張泉は首を横に振って立ったままそれを断った。


「このままもう一度探しに行ってくるから。。。。気になってるかと思って一応報告まで。。ね」


塗料瓶の中に指輪を隠した、というのは張泉の確信だったようだが、その確信は見事に裏切られてしまった。振り出しに戻った気分でパットの入っているはずのスーツの肩がすとんと落ちてしまって見える。


「お邪魔じゃなかったら、僕ももう一度ご一緒させてくれませんか?」


盛太郎がひょろひょろと立ち上がる。


「え、ええ、かまいませんけど、昨日もあれだけ探してもらって出てこなかったのだから・・・」


遠慮する張泉を遮って珠莉も立ち上がった。


「もう一度探しましょう!」


今日も江油はやはり店に残った。



「全部さがしました。。。」


塗料瓶を探して片づける気力も時間もさすがになかったのだろう。塗料瓶が床にずらりと並べられている。

水を入れた容器は何色もの塗料がとけて灰色になっており、ピンセットを拭いただろう様々な色がついたティッシュが一か所に集められて山になっていた。


「こっちの作業台のも?」


キッチンパラソルのダイガーⅠの脇にはパッケージの箱に入れられた塗料瓶が何本か入っていた。


「ええ、出しっぱなしになってたものだから真っ先に疑って調べたけれどなかったわ」


盛太郎がキッチンパラソルを持ち上げて中のタイガーⅠを見る。またプラモ談義が始まるのではないかと張泉はちらりと珠莉を見るが、珠莉は黙って小首をかしげて見せた。


「ここにあった塗料瓶はこれだけですか?」


盛太郎がタイガーⅠに使ったとおぼしき作業台の上の塗料瓶を1つ1つ確かめながら張泉に確認した。


「ええ?それで全部ですが?」


パッケージの箱の中には下敷きにするようにしてしまわれてあった組み立て説明書を開き、盛太郎はその中にも目を通す。


「サンディイエローがないです」


盛太郎がぽつりと言った。


「本体色のこの茶色っぽい黄色です。ほら、説明書にも書き込んである」


たたまれていた説明書を広げ、色指定の箇所に印字された指定のカラー名の横に書き込まれた几帳面な文字を指差す。


「この色では?ほら、説明書にも ダークイエロー って書いてる」


張泉は、盛太郎が箱の中からつまみ上げて手にしている塗料瓶を指差した。

これらの塗料は容器や容器の蓋が塗料の色をしている。盛太郎が持っている瓶の蓋は、作りかけのタイガーIに塗られている茶色っぽい黄色だった。


「いえ、それがこれはアクリジョンのダークイエローなんです。。。」


「?」

「?」


顎の先に指を当てて何かをつかんだらしい盛太郎を、2人の女性が目をパチパチさせながら見つめた。


「そこに出ている塗料瓶の中に水性ホビーカラーのサンディイエローはありませんか?多分ないと思いますが」


盛太郎が床に並べられた塗料瓶の側にしゃがみ、いくつかを手にとってラベルを確認する。


張泉と珠莉もあわててそれを手伝った。

手分けしてラベルを確認するだけならそれほど時間はかからない。

結局、水性ホビーカラーのサンディイエローは見つからなかった。


「で、なんなんです?このあくりじょん?のダークイエローじゃダメなんですか?説明書にもダークイエローって書いてますよ?」


珠莉が最後のひと瓶のラベルを見て床に置く。


タイガーIの説明書の色指定はタミヤカラーの色の番号とカラー名が書かれてあり、本体色は「ダークイエロー」となっている。


野橋はその横にボールペンで「サンディイエロー(ダークイエロー)」と記入してあった。


「野橋さんはこのタイガーIの塗装には主に水性ホビーカラーを使っていたようです」


ひとつの瓶を取り上げる。

ラベルは水性ホビーカラーのジャーマングレーとなっていた。


「でも他の塗料もありますよね?」


水性ホビーカラーの短い筒状の瓶と分けられて細い角瓶や小さい樹脂製の容器もいくつかあった。


「汚れやキズの描き込みや運転手の顔なんかを塗るのに別の塗料を使ってたみたいですけど、そのアクリジョン、もそういう用途では?」


張泉も盛太郎に疑問をぶつける。

野橋がプラモデルを作るときに何種類かの塗料や溶剤を使っていたのを見ていたので種類やメーカーの異なる塗料が置かれているのは不思議でもなんでもなかったのだ。


「いえ、、そうですね。見せた方が早い」


盛太郎は水性ホビーカラーのジャーマングレーとうすめ液を手元に置き、エアブラシをセットしてハンドピースのカップを開いた。


「確かに、下に塗った塗料の上に他の種類の塗料を重ねたり、描き込んだりすることはあります」


慣れた手つきでカップに塗料を注ぎ、うすめ液を足して塗料の粘度を調節していく。


「別の種類の塗料を混ぜて調色とかしなければいいんでしょ?あたしは美術部だったからそれくらいはわかるけど」


珠莉は盛太郎の手元と顔を交互に見ながら口を挟んだ。


盛太郎はさっと部屋を見渡し、プラ材とプラ板が入った棚に目を留めると、棚から使いかけらしいプラ板の端切れを取り出した。


「ええ、でも重ね塗りでもできないものもあるんです。まず、説明書の書き込みですが、『サンディイエロー(ダークイエロー)』となってます。この表記は水性ホビーカラーの表記なんです」


むむっ、と珠莉は作業台にあったアクリジョンのダークイエローを見る。確かにこの瓶のラベルには「サンディイエロー」という文字はない。


盛太郎はクリップ付きの柄でプラ板に持ち手を付け、塗装ブースの換気扇のスイッチをオンにした。ファンの回る音が低く響き始める。


「でも同じような色じゃないですか。水性ホビーカラーのサンディイエローを使うつもりで説明書に書き込んだけど、塗料が少なかったか変質して使えなかったから急遽そのアクリジョンのダークイエローを使ったとか」


盛太郎はプラ板にエアブラシを軽く吹き付けて様子を見、裏返して丹念に吹き付け始めた。

真っ白なプラ板がみるみるうちにジャーマングレーに染まる。

持ち手のクリップのごくわずかな部分を除いて暗い灰色の板が出来上がった。


「それがそうはならないんです。このタイガーIのサンディイエローは、水性ホビーカラーでなければならないんです」


盛太郎はプラ板の持ち手を、ダンボールを重ねた猫の爪とぎ機のような部品立てに挿した。こうしておけば塗装面を何処にも触らずに塗装した部品を乾かしておける。

盛太郎はスマホを取り出すと電話をかけた。


「あ、江油氏?すみませんがエアブラシを貸してください。あとアクリジョンのダークイエローをエアブラシ用に希釈しておいてもらえますか?」


さらに電話口で江油にいくつかお願い事をして電話を切り、ハンドピースの洗浄と片付けを手早く行うと部品立てのまだ乾いていないプラ板を取った。


「さあ、行きましょう。これから、なぜ水性ホビーカラーのサンディイエローでなければならないか実証します。その前に、このタイガーをもう一度よく見ておいてください」


他の完成品と比べるとつるっとしていてオモチャっぽいが、明暗のある基本色がより立体感を醸し出しているのがわかる。


だか、その本体色が水性ホビーカラーのものなのかアクリジョンのものなのかは珠莉にも張泉にも見分けがつくとは思えなかった。


「さて、ここから水性ホビーカラーのサンディイエローがなくなっているとすれば、指輪は十中八九、持ち去られた瓶の中にあるはずです。作業台の上にわざわざ使っていないアクリジョンのダークイエローが置かれていたことからも明確な意思を持って持ち去られたことはまず間違い無いでしょうね」


盛太郎は手に持ったプラ板を壁や自分の体にぶつけないよう注意しながら靴を履いて部屋の外に出た。


それに続きながら珠莉は聞く。


「でもでも、野橋さんはこの部屋の何処かに隠した、って言ったんでしょ?持ち出すなんてずるいじゃないですか!それじゃあまるで嫌がらせ…あ」


珠莉が振り向くと、後ろを歩いていた張泉が下唇を噛んで目線を落としていた。


あの日、出会った日、まだプラモデルを作ってるの?と10年ぶりに彼に笑いかけた日、彼と話しながらとっさに隠した左手からこっそりと指輪を抜き、そっとハンドバッグに滑り込ませたあの時から、私は彼を騙していた。


それからあの駅に降りるたびに指輪はハンドバッグにしまわれてきた。あの日、彼の部屋でバッグの中身をぶちまけてしまうまでは。


全部拾ったつもりがよりによって指輪だけ部屋の隅に落としてきたらしい。

指輪がないことに気づいたのは、自宅の玄関前だった。


何処か帰宅途中で落としたのであれば、という張泉糸子の願いは虚しく、数日後、野橋に会った時、野橋は糸子の左手をとり、薬指の指輪の跡を確認すると静かに「そうだったんだね」とだけ言ったのだった。


いっそ怒鳴りつけてくれれば良かったのに、野橋は伏せ目がちに悲しげな顔を見せるばかりで一言も糸子を責めることはなかった。


電話で指輪をこの部屋の中の物の中に隠した、と淡々と告げた時もそれが罰だとも復讐だとも言わなかった。


だが、野橋はやはり私を許せなかったのだ。怒りをぶつけてくれれば良いいのに、と思っていたがそうなってみると、やはり平然とは受け止められなかった。


3人は江油模型店までの道をただ黙々と歩いた。

珠莉も盛太郎も一言も喋らなかった。


「準備はできてるぞ?」


江油模型店に戻った3人を、道中の会話を知らない店主が出迎える。


盛太郎は野橋の部屋とタイガーIについて江油に簡単に説明した。

江油は説明を聞きながらレジ台の横に荷箱とダンボールで急ごしらえの作業台をおいて、換気のために裏口と店の入り口を開ける。


「ほんとうはもっと排気に注意するべきですが、ほんのひと吹きだけなので」


と、盛太郎は2人に断りを入れて、江油の用意した アクリジョンのダークイエロー の塗料瓶を見せた。


「これが野橋さんの部屋にあったものと同じアクリジョンのダークイエローです」


確かに。先ほど部屋で見たものと同じラベルに2人は頷く。


「そしてこちらは先ほど 水性ホビーカラーのジャーマングレー を塗装したプラ板です。もう重ね塗りできるくらいには乾いてきてるかな」


移動や説明の間に、プラ板の塗装面の濡れた感じはなくなっている。


「タイガーIはこのジャーマングレーを下地に塗った上にサンディイエローを吹いていました。それはお二人もご覧になった通りです。

下地に水性ホビーカラーのジャーマングレーが使われていたのは、作業台の"使用中"の塗料にあったことからもまず間違いないでしょう」


盛太郎はエアコンプレッサーのスイッチを入れ、ハンドピースのカップに、江油がうすめ液で希釈しておいたアクリジョンのダークイエローを注いだ。

ハンドピースを持ち直した盛太郎は、簡易ブースの囲いにしているダンボールの端で試し吹きしてからジャーマングレーのプラ板に吹き付けた。


「確かに作業台にはアクリジョンのダークイエローが置かれており、説明書の色指定もダークイエロー、一見するとタイガーIの本体色もダークイエローでしたが、あれはアクリジョンのダークイエローではダメなんです。それはあり得ないんです。」


盛太郎はハンドピースを置いてプラ板を2人と江油の前に塗装面が見えるように差し出した。


「あ!ダークイエローがヒビ割れてる!」


まだ吹き付けられたダークイエローが乾かない端から塗装面が細かくヒビ割れて下地のジャーマングレーが覗いていた。

そして、みるみるうちに、まるで黒いイナズマが砂の上に広がるようにプラ板一面にグレーのヒビが描かれていく。


「水性ホビーカラーもアクリジョンも同じクレオスの製品ですが、これをエアブラシで重ね吹きするとこのようなヒビ割れが発生することがわかっています。この情報はクレオスのサイトでも公開されています」


珠莉も張泉もまさかの結果に目を丸くするばかりだ。


「お二人がご覧になったように、あのタイガーにはこんなヒビ割れは生じていません。あれには、説明書の書き込みにあった通り水性ホビーカラーのサンディイエローが使われたんですよ」


盛太郎は売り物の塗料棚から水性ホビーカラーのサンディイエローの瓶を取り出して張泉に渡した。

はたして、ラベルの表記は盛太郎の言った通り、そして野橋が説明書に書き込んでいた通り「サンディイエロー(ダークイエロー)」となっていた。


「そう・・・じゃあやっぱり指輪は彼が持ち去ってしまったのね。。。わたしは指輪なんかどこにもない部屋を必死になって探し回ってたってわけか。。。。」


付き合わせてしまってごめんなさいね。と張泉は付け加えて深々と頭を下げた。

黒髪が垂れ下がって張泉の顔を隠すのを、珠莉はだまって見ていた。


張泉は帰っていった。

指輪はもうあきらめるのだと言う。


「野橋の復讐だったんでしょうか?」


張泉を見送って、つまらなさそうな顔をしている店主をわき目に珠莉が盛太郎に問う。


「さあね。まぁ、部屋の中にあるように思わせておいて、実は部屋にはなかった、というのは意地が悪い気はするけど。状況から何が起きたかはわかっても、どうしてそうしたかの真意はわからないね」


盛太郎は素っ気なく答えた。それが不満だったのか、珠莉はむきになって言う。


「納得いきません!野橋からなんとか指輪を取り戻せませんか?」


「やめといた方がいいと思うよ?他人の色恋、しかも不倫なんて首を突っ込んでもいいことはないよ」


珍しく真面目な顔をして珠莉に向き直る。


「そもそも結婚指輪をなくすというのは、本人たちにとっては一大事ではあるけれど、ものの調べによれば3人に1人あるいは5人に1人が経験するともいわれるありふれた事故だそうだ。

彼女だって、台所で洗い物をしていたら指から抜けて流してしまった、とでも言えば、その時は怒られるかもしれないが、旦那さんもそれ以上は追及しないだろう。

それを、あんなに必死になって探したのは、結婚していたことを黙って付き合っていた野橋さんへの負い目からじゃないかな。その彼女がもう指輪をあきらめた。というのであれば、これ以上、他人の僕らが踏み込むことではないよ」


それでも珠莉を説得できない。


「だったらなおのことじゃないですか!張泉さんがあんなに必死になって、探さなくてもいい指輪を探してたのに、それをほくそ笑んで見るようなことをそのままにしておくなんてできません!それに、そんな陰険な人なら指輪をネタにして脅迫、なんてこともやりかねませんよ!」


江油はこそこそとエアブラシと簡易塗装ブースを片付けて奥に引っ込んでしまった。

盛太郎はそれを横目でうらめしそうに見送る。


「盛太郎さん!野橋から指輪を取り戻す方法はないんですか?」


珠莉が盛太郎にぐいっと迫る。荒くなった鼻息が盛太郎の顔にかかりそうだ。


「指輪で脅迫するような人ならなおさら関わり合わない方がいいと思うよ」


のけぞるようにして盛太郎が珠莉を諭す。


「それなら盛太郎さんがついてきてくださいよ!」



==============


「野橋がかならず来るとは限らないからね?」


月末に野橋のマンションにやってきた珠莉と盛太郎は、マンションの入り口近くで野橋が来るのを待っていた。

なんのことはない、月末の契約切れの日に部屋を出る際の確認に野橋が立ち会うかもしれないので、そこで野橋を捉まえるというだけの話しだ。

ただ、退去の際の部屋の状態の確認は、管理会社が代行したり委任することもあるので野橋が必ず来るとは言えない。

そこは何度も珠莉に念を押した盛太郎だが、珠莉はそれでもかまわないと言い張ったのだ。


盛太郎は午前中で仕事を切り上げ、朝からマンションを見張っている珠莉と合流した。

午前中も盛太郎のスマホには珠莉からのまだかまだかの確認メールとSNSの着信でいっぱいになっている。


盛太郎が来る前に、業者が入って部屋の家具などは全部持っていってしまった。プラモデルや食器は箱に入れられ、何箱ものダンボールが部屋から運び出されるのを珠莉は眺めていた。

管理人だか不動産屋さんだかの男性が途中で現れ、業者と話をして作業を見ていたが、しばらくして立ち去り、やがて業者も最後のダンボールをトラックに積んで走り去ってしまった。


盛太郎が来たときにはマンションの前はひっそりとしており、珠莉が少し離れた路地の角から不機嫌そうに盛太郎に向かって手招きしていた。


「おそいですよ!野橋が来たらどうするんですか!あたしひとりに指輪を取り戻させるんですか?!」


なんとか珠莉をなだめて路地に身を隠し、盛太郎が「野橋が来るかどうかはわからない」と念を押したのだ。


そこに不動産屋の名前が入った軽自動車がやってきた。


「あ、さっき来た不動産屋さんだ」


珠莉が不動産屋の顔を覚えていて業者と話していた男だと盛太郎に告げる。

軽自動車はマンションの前に止まると、中から不動産屋の男性と、もう一人の男が降りてきた。


背は高いがぽっちゃっとした体型、色白で柔和そうな肉付きのよい面長な顔には黒々とした眉毛が特徴的だ。

手足が大きく、どことなく遊園地の着ぐるみを思わせる。

ゆったりとしたジーンズを履き、スウェットに半袖のシャツを羽織っており、いまひとつぱっとしない、というのが珠莉の受けた印象だった。

不動産屋が声をかけると何か応えたようだがよく聞き取れない。


野橋らしき男は不動産屋が電話するのを待ちながらきょろきょろとあたりを見回している。


「あれが・・・・野橋ですかね?」


いささか拍子抜けしたように珠莉が盛太郎に耳打ちする。


「そうなんでしょうね」


やがて不動産屋が電話を終えると、野橋と思われる男に声をかけ、二人はマンションに入っていった。


「出てきたところを捉まえましょう!」


珠莉はぐっと両手を胸の前で握りしめる。


しばらくして二人がマンションから出てくる。不動産屋はにこやかに話しかけているので、特に問題はなかったようだ。野橋の表情はやや硬いがしきりに相槌をうつような仕草で応えている。


軽自動車に向かう二人に珠莉が歩き出したので盛太郎もそれに続いた。


「野橋・・・・さん!」


珠莉が声を掛けると野橋が振り向いた。不動産屋も笑顔のままこちらを向く。


「あの、、、の、野橋さんにうかががががいたいことが」


珠莉がダメになった。もとより人見知りなのだ。勢いでここまで来たが、知らない人の視線が突き刺さったとたんに身体が人見知りを思い出してしまった。


「僕になにか?」


お知合いですか?と不動産屋が野橋にたずね、まぁ、というようなあいまいな返事をして野橋は珠莉に二三歩ほど近づいた。

珠莉が思わず盛太郎の後ろに隠れる。


盛太郎はややあきれ顔で後ろの珠莉を見るが、珠莉は目をそらして首をすくめた。


しかたない。と、盛太郎はポケットに手を入れて中身をつまんで取り出した。


それは、水性ホビーカラーのサンディイエロー(ダークイエロー)の塗料瓶だった。


野橋の目が見開かれ、何かを言いかけて口が開く。

が、気を取り直したかのように不動産屋に振り向いて、僕はここでよいです。と声を掛けた。

不動産屋の笑顔が怪訝そうに曇るが、ご近所の知り合いが引っ越し前にあいさつにきた、とでも思ったのだろう、それでは、と野橋と盛太郎たちに会釈をして車に乗り込んだ。


「糸子さんのお知合いですか?」


軽自動車が走り出すのを待って野橋が聞いた。


「そんなところです。これ、張泉さんからです。撹拌ボールも入れておきました。そちらにあるサンディイエローと交換で」


野橋の頬が紅潮する。怒りではなく恥ずかしさで。


「そうですか。わかりました」


野橋もまたポケットから塗料瓶を出した。

クレオス水性ホビーカラーのサンディイエロー(ダークイエロー)だ。


盛太郎は黙ってそれを受け取り、そして野橋に持ってきた塗料瓶を渡した。


「どうしてですか?」


不意に盛太郎の後ろから声がする。


「へ、部屋の中にあるって言ったのに」


野橋が盛太郎の胸のあたりをじっと見る。その後ろがちょうど珠莉の顔があるところだ。


「も、もう許してあげたら、ど、どうですか!」


盛太郎の胸に珠莉の声が響き、くぐもった叱責が野橋の耳を打った。


「許すもなにも。怒ってなんかいません。糸子さんのこと。忘れられないだけです」


野橋が力なく微笑んだ。

伏せ目がちに、ただ悲しそうな顔で。



盛太郎と珠莉はまた黙って歩いていた。

野橋もそれ以上はしゃべらず、少しの間三人はだまってマンションの前に立ち尽くしていたが、やがて野橋が「ありがとうございました」とだけ言い残して立ち去った。


盛太郎と珠莉はさらにしばらく黙って立っていた。盛太郎の手には塗料瓶が1本ある。

振ってみたらコトコトと金属のような固いものが瓶のガラスに当たる音がした。


江油模型店にはいつも通り客はおらず、商店街を照らしている夕日がショーケースから少し入ってきて、店内の一角を赤く染めていた。


盛太郎は江油に今回の一件を通して話して聞かせた。

江油がときどき相槌をうったり質問をしたりするのを聞きながら珠莉は張泉のことを思い出していた。

どうやって指輪を返そうかとも。


「結局、何がしたかったんですか。野橋・・・さんは」


盛太郎が指輪を取り返したところまで話し終わったあと、珠莉は誰に言うともなく言った。


「喧嘩別れしたが未練のあった女と10年ぶりに再会、よりを戻せたと思ったら女は人妻だった。

彼女の結婚指輪を手に入れてしまい、少し困らせてやろうと思ったが部屋を出る際にふと出来心で持ち出してしまう。。。理由はわからんが、未練ってのは、、、女を忘れられない、ってのはそういうことなんじゃないかな」


なんとなく節をつけたように江油が話す。

あの指輪は、よりを戻した二人を引き裂いた想い出の品でもあるが、プラモも彼女との家具や食器も捨ててしまう野橋に残された彼女との最後の想い出の品でもあるのだ。取り上げたい、隠したい、なくしてしまいたいと思う一方で、すべての想い出を手放したくないと部屋を出る最後に思ってしまったんじゃないだろうか、と。


珠莉は思い当たる。


「張泉さんにはうしろめたさがある、って盛太郎さんは言ったけど、それって、指輪を取り上げられることで罰されたい。見つけられないことで、野橋さんが悪いんじゃなく、指輪を見つけられない自分が悪かったと自分を責めたいってことだったんじゃないですか?」


江油もその珠莉の考えになるほどと頷く。


「あのまま、あたしが手伝うって言わなければ、張泉さんはあの部屋にあった指輪を見つけられなかったと思ったままだったし、野橋さんは彼女の最後に残った思い出を持って行けた。。。。あたし、やっぱり余計なことしかしなかったのかも・・・・」


盛太郎はプラモデルにまつわる謎を解いて珠莉と父を引き合わせてくれた。

でも、今回、盛太郎の謎解きは、二人の男女の傷を広げることになってしまったのではないか。そして、それは自分が引き金を引いた結果なんじゃないか。


「じゃあ、その指輪は返さないで処分しちゃう?」


江油が指輪が入っているだろう塗料瓶を指さす。


「それは・・・というか、どうやって返そう。考えてみれば、あたし張泉さんの連絡先しらない・・・・」


それでよく指輪を取り返そうなどと思ったものだ。

江油があきれて言った。


「ああ、僕が彼女の名刺を持っていますよ」


盛太郎がスマホの入っているジャケットの胸ポケットを軽くたたく。


「はぁ?いつの間に名刺もらったの?なんでぇ?」


江油が素っ頓狂な声を上げた。

名刺交換は社会人のマナーですよ、と盛太郎は答える。


「でもまぁ少なくとも過去に区切りをつけるきっかけはできたんじゃないんですかね」


盛太郎は胸ポケットを江油から守りつつ珠莉に言った。


「そう考えた方がいいな。指輪は戻る。女との想い出はすべて手放す。これで区切りだよ」


江油も珠莉ににやっと笑いかける。


「そうですね・・・すっきりはしないけど。そう思うことにします。野橋さんも早く立ち直って次にいけるといいですね」


珠莉は無理に笑顔を作った。


「そうだな。次の・・・」


「恋に!」

「プラモデルに!」














ネタやトリックを思いついたら続きがある、かもしれません。

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