七
それから佳奈は、少林寺拳法も体調が悪いからと休みがちになり、部活の新体操もあまり熱心にやらなくなった。
クロは佳奈に何も言わず、短剣を持ってペンダントの中で眠りに着いた。
一ヶ月が過ぎ、梅雨の時期に入ってもまだなお、佳奈は日々を呆然と過ごしていた。
7月に入り、学校は夏休みの話で華やぐようになっていた。
友人二人と共に、佳奈も夏休みの計画を立て始めようとしていた。
色が薄く癖の強い髪を耳の下あたりで切り、パッツンに切ったはずの前髪を自由に放置しているのが胡桃麻子。
隣で呆れ顔をしている、艶のある黒髪を緩く三つ編みにし、前髪を右に流している物静かな彼女は音無静香だ。
今年は普通の夏休みを過ごせそうだ。
既に決まっている予定と言えば部活の夏合宿くらいのもので、配られ始めた宿題ももう始めているから夏休み前半には終わらすことが出来そうだ。
静香と麻子は茶道部で特に合宿などはなく、通常の部活動しかないために自由に過ごせそうな様子だった。
昼休みが終わりに近づき、佳奈たちはプールへと向かった。
夏休み前のテストは終わっているし、今日から少しゆったりと出来そうだ。
三人がそう話しながら向かっていると、途中で体育教師に出くわした。
「あ、皆に伝えといてくれる?
今日の体育は教室で保健の授業にするわ。」
慌てた様子の女教師に、静香が何事かと聞いた。
「実は今日の朝からちょっと奇妙なことが起こってね。」
女教師は周りに誰もいないことを確認し、三人を日陰まで連れていくと、ゆっくりと話し始めた。
事は今日の一限目に遡る。
三年生のクラスがプールの授業をしていたそうだ。
準備体操を終えてプールに入った瞬間、浅いほうにいた生徒たち数名が溺れかけた。
慌てた教師が彼女らを引きずりあげたが、プール自体には何の異常もなく、彼女たちが準備運動をサボったのだろうと、教師は特に気に留めなかったそうだ。
二限目と三限目にも似たようなことが起こり、また同じように対処した。
しかし四限目の時、また同じ現象が起こったのだが、この時溺れかけたのは水泳部部員で部内でも高い成績を残している生徒が2名含まれていた為、教師は昼休みに笑い話として職員室で口にしたそうだ。
ところが同じ現象が一限目からずっと発生していたことが発覚し、さすがにおかしいとプールの使用を一時中断することにした。
そこまで聞いて、佳奈はうっすらとだが魔物の気配を感じた。
しかし自分はもう血董は使わないつもりだし、また誰かがやってくれるだろうと思い、その嫌な考えを振り払った。
彼女たちに今の話を口止めすると、女教師は急ぎ足で職員室に戻っていった。
「変な話だよね。
なんかワクワクするよね。」
麻子が楽しげに言った。
麻子はこういうオカルトめいた現象には目がなく、心霊スポットやお化け屋敷が大好きだ。
また始まったと静香と佳奈が呆れる。
麻子は気にする風もなく、教室で他の生徒に知らせるとすぐさまプールに戻っていこうとしたのだ。
慌てて止める静香も引き連れ、不安で付いてきた佳奈と共に、三人はプールサイドに立った。
プールの周りは木々とブロック塀で覆われていて、他からは死角となっている。
おそらく授業が始まるまで、三人がこの場にいることに誰も気づかないだろう。
麻子は楽しそうに静香と共にプールの周りを歩き、異常がないかを確認していく。
佳奈は飛び込み台の上で二人を眺めていた。
血董を使っていないとはいえ、彼女も巫女であることに変わりはなく、魔族ならばきっと反応することだろう。
魔物が襲いかかってきたときのことを考え、佳奈は二人から離れるようにしていた。
血董を使わずとも、別の巫女が来るまでは足止めすることくらいは出来るだろう。
プールに沈められかけた場所は毎回違っており、おそらくプールの中を移動しているのだと思われる。
さっき麻子がそう佳奈たちに告げた考察に、彼女は同感していた。
麻子は一周見回ると、つまらなさそうにため息を吐いた。
「やっぱ中に入んないと出てきてくれないみたいだね。」
「麻子、もうあんまり時間もないし、教室に戻ろうよ。」
「ふふーん、さては静香、怖くて逃げたくて仕方ないのだな。
だがしかーし、この胡桃麻子、制服の下に水着を着ているから一人でも入って調査するのだ!」
今にも脱がんとする麻子を、佳奈は静香と二人で止めに入った。
万が一プールに魔物が潜んでいて、そこに無防備にも麻子が入れば喰われるのは必須。
それはあまりに危険すぎる行為だ。
静香は半泣き状態でひたすら、もう帰ろうよと叫び続けている。
麻子は二人が必死に止めるのも聞かず、制服を脱ぎ捨てた。
「怖いなら二人ともここで見てればいいじゃん。
なんならもう教室に帰ってくれてもいいよ。」
そう言うとプールに入ってしまった。
しかし何の現象も起きない。
麻子は不機嫌な顔になり、プールの中を歩きながら声を荒げた。
「ほらぁ、せっかく美少女が会いに来たってのに何もしないわけ?
それとも何?
貧乳は嫌いとか、目に見えないオバケのくせに好みがあるわけ?」
「ウルサイ小娘ダナ・・・。」
佳奈の耳にはっきりと声が聞こえた。
慌てて隣の静香に目を向けるが、未だ半泣きのまま麻子の挑発を止めようと叫んでいる。
麻子にも声は聞こえなかったようでまだ挑発を続けている。
佳奈は急いで麻子に声をかけた。
「麻子、もう止めよう。
ほら授業始まるまで時間ないし、ちょっと風冷たいからあったかくしないと風邪引くよ。」
佳奈の胸がざわざわと波を立てていく。
とても嫌な予感がするのだ。
「・・・ン?巫女カ?
巫女ガイルノカ・・・!」
「・・・え?」
麻子が小さく声をあげた。
と同時に徐々に彼女の後ろの水が盛り上がり、大きな口を開けて彼女を飲み込んだ。
透けた体の中で麻子は苦しみ、やがて静かに動かなくなった。
静香は驚きのあまり声が出ず、腰を抜かして震えている。
「コレハ巫女ジャナイナ・・・マァイイ。
オ前タチノドチラカガ巫女ナノダカラ、問題ナイ。」
気だるげなその声は、何度も聞いたあの魔物独特の声に似ている。
佳奈は静香の前に立ち塞がった。
「か、佳奈・・・?」
今にも泣きだしそうな静香に、大丈夫と笑顔を向け、佳奈は魔物に向き直った。
「私が巫女よ。さぁ来なさい。
私の友だちを泣かせた罪は重いわよ。」
魔物は楽しげに笑うと、佳奈に手を伸ばした。
佳奈はするりと交わしながら静かに叫んだ。
「早く逃げて!」
「で、でも、麻子が・・・!」
「大丈夫、私が助けるから!」
静香は震えながら何とか立ち上がり、ふらふらと走り出した。
佳奈はひたすら交わし続けた、魔物の振るった手から滴り落ちる水でプールサイドが濡れていく。
大丈夫、避け続ければ助けが来る。
佳奈はそう信じて避けていたのだが、魔物はとても短気だった。
「巫女、オ前ハ俺ト戦ウ気ガナイナ。
俺ニ驚カナイッテコトハ血董ヲ持ッテルッテコトダ。
ナノニ使ワナイ。
近クニ式神ノ気配モナイ。
俺ハ戦イタインダ。
オ前ニ戦ウ意思ガナイナラ、戦ワナキャイケナクシテヤル。」
そう言うと、魔物は天に向かって吠えた。
するとみるみるうちに体が白い幕で覆われ、麻子の姿を隠してしまった。
慌てる佳奈にニヤリと笑って見せると、魔物の胸元から虚ろな目をした麻子が胸まで体を出した。
「やだ・・・怖いよ・・・助けて、佳奈・・・。」
小さく呟く麻子の目から段々生気が失われていく。
思考も動きも止まった佳奈を、魔物は両手で掴んで顔の前で手に力を込めだした。
骨の軋む音が自分でも聞こえる。
佳奈にもう、選択肢の余地はなかった。
「クロォォォォォ!!!!!」
強く叫んだ声が響いて、やがて消えた。
魔物が大きく笑いだす。
「何ダ、ソノセンスノ欠片モナイ名前ハ!
腹ガ痛クテ死ニソウダ・・・!」
次の瞬間、佳奈を掴んでいた両腕が切断され、佳奈はプールに落下した。
水の中から顔を出した佳奈の顔の横に、あの見慣れた短剣のケースが揺れる。
顔を上げると、白狐に姿を変えたクロが短剣のベルトを咥え立っていた。
佳奈はプールサイドに這いあがり、制服を脱ぎ捨てた。
「ようやくやる気になったか。」
何処か嬉しそうなクロに目配せすると、佳奈は短剣で右足を切った。
短剣が血を吸って光り始める。
腕を切り落とされ、魔物は叫び声を上げていた。
「クロ、一気に行くよ。」
佳奈の掛け声と共に、彼女とクロは魔物に飛びかかった。
「こっちです!早く!」
静香が数名の教師を連れ、プールサイドに駆け込んできた。
しかし彼女の見た魔物の姿など何処にもない。
ただ辺り一面に出来た水たまりと、びしょ濡れの制服を着た佳奈が麻子を抱えて眠っていた。
あの事件以来、プールに魔物が姿を現すこともなくなり、生徒が溺れる現象も発生しなくなった。
麻子は例のごとく記憶が抜け落ちており、静香もあまりに恐ろしかった為に二度と事件のことを口にしなかった。
変わったことと言えば、麻子がもうミステリーなことに首を突っ込みたがらなくなったことくらいだ。
そして佳奈は、再びクロと行動を共にするようになった。
「もう血董は使わんのじゃなかったのか?」
からかうように見上げるクロに、佳奈は小さく笑う。
「私は大切な人を守りたい。
たしかに私が血董を受け継いだとき、あの洞窟に入らなければお父さんもお母さんも死なずに済んだかもしれないし、悠人さんが死ぬこともなかったのかもしれない。
でも、今私はクロと一緒にいられるのは、あのことがあったから。
悠人さんの分までしっかり働いて、お父さんたちに胸を張れるようになるわ。」
クロは何処か恥ずかしそうに、だが嬉しそうに笑った。
佳奈は守り神として強大な力を持っていたクロを、式神として扱うことが出来るだけの霊力を持ち合わせている。
ところが未だにその霊力は開花しているようではない。
今の状態は、あくまでごく一般の血董継承者と変わらない力でしかなく、その強い霊力は全くと言っていいほど使われていないのだ。
クロ自身、それが分かっていた。
だが眠る霊力の開花は誰かがさせるものではなく、本人自身がするしかないのだ。
その時がまだ来ていないのかもしれない。
けれど開花した時、きっと佳奈は誰もが恐れ敬うほどの力を手に入れる。
それにはまだ訓練が必要だと、クロは思った。
横でまだ幼さの残る笑顔を浮かべ、鼻歌を歌う彼女はまだほんの蕾でしかない。
彼女の花を見るのが楽しみだと、クロは微かに胸を躍らせた。