二
一はいつもの窓際の定位置で夕刊を広げた。
妻の晴子は台所で夕食の支度を始めていた。
「お父さん、お茶いりますか?」
晴子がエプロンで手を拭きながらゆっくりと顔を覗かせる。
「うん、頼む。」
一は優しく笑いかけ、老眼鏡をかけ直した。
晴子は一度頷くと、再び台所に戻っていった。
結婚してもう54年。
晴子も一もお互いを気遣い、あまり喧嘩をすることもなく過ごしてきた。
元は仕事人間で会社に通い続けた彼を支え、息子の隆春と上手くやれていたのも、全ては晴子のおかげだった。
料理は上手く気も利く、賢くかつかなりの美女。
性格は非常に穏やかで優しく、少し天然なところがある。
結婚当時、誰もが一を羨ましがった。
今でも何処の妻よりも晴子がいいと自信を持って言える、それほどに一は晴子を気に入っていた。
晴子もまた、一の仕事熱心な姿や誠実で優しいところに惹かれ、最高の旦那様だと思っている。
一は新聞を読みながら、必ず晴子の温かな緑茶を飲んだ。
晴子もそれを分かっていて、一が新聞を手にしているのを見ると必ず湯を沸かした。
晴子は湯呑みに緑茶を入れ、一の近くのテーブルに置いた。
庭の紅葉が綺麗だと思いながら、彼女は再び台所に立った。
新聞を読み終え、庭の紅葉を眺めていた時だった。
不意に電話が鳴りだした。
「私が出るよ。」
慌てて台所を出ようとした晴子に笑いかけ、一は玄関横の電話に向かった。
受話器を上げてゆっくりと、しかしはっきりとした口調で声をかけた。
「もしもし、高橋です。」
すると受話器の向こうから少女の激しく泣き出す声が聞こえてきた。
一は慌てた。
「ど、どうかしたのか?君何処の子だい?」
すると嗚咽しながら、少女はようやく言葉を発した。
「おじいちゃぁぁぁん!お父さんとお母さんが死んじゃったぁぁぁぁぁ!」
おじいちゃん。
そう呼ぶのは一人息子の隆春の娘、佳奈しかいなかった。
「佳奈ちゃんか?今何処にいるんだい?」
「丘の、おっきな木。」
晴子は一の慌てた声に台所から顔を覗かせた。
一は晴子を手招きした。
こういうことは自分よりも彼女のほうが上手い。
晴子は一の表情から何かあったことを察した。
一から受話器を受け取り、優しく声をかける。
「佳奈ちゃん、おばあちゃんよ。
大丈夫、すぐに行くからそのままちょっと待っててねぇ。
すぐかけ直すから一回切るけど、大丈夫かなぁ?」
ゆっくりと笑顔で佳奈をなだめる晴子を背に、一は寝室に向かった。
自分と晴子の上着を掴み、晴子がいつも持ち歩いている鞄を持って部屋を出た。
晴子は自分の携帯電話で話しながら一気に戸締まりをして回っている。
玄関に晴子の荷物を置き、庭から車を出して玄関先に止めた。
晴子が支度を済ませて車に飛び乗ると、一はすぐに発進させた。
晴子はどうやら佳奈を落ち着かせられたらしく、彼女の見た話を聞いているようだ。
一は隣町とこの町の境にある丘に向かった。
今日、息子家族はあそこでピクニックをすると言っていたからだ。
丘の大きな木とは、おそらく丘の頂上に立つ楠の大木のことだ。
あの木は一本だけ何故か林と離れて生えている。
晴子は携帯電話を切り、すぐに警察に電話を掛けた。
一は晴子の話に耳を傾け、事件の内容を知った。
そして、その異常性に愕然とした。