一
秋のよく晴れた日のこと。
丘の上に一つの家族がいた。
大きな木の下にビニールシートを広げ、小さな少女と若い夫婦が楽しげに笑っている。
少女が父親とボールで遊んでいるのを、母親は優しいまなざしで眺めていた。
不意に少し強い風が吹いて、少女はボールを取り逃した。
ボールは丘を下って転がっていく。
少女はその後を追って、林の中に駆けていった。
慌てた父親と母親は共に林の中に入った。
少女はようやくボールを捕まえ、ふと顔を上げた。
目の前にあったのは大きな洞窟だった。
少女の後を追って、両親もまた洞窟に辿り着いた。
そこには少女の姿はなく、彼女のボールが転がっているだけ。
二人はお互いに顔を見合わせ、そして目の前に口を開けている洞窟を睨んだ。
「・・・入ろう。由利子は俺の後をついてこい。」
由利子にボールを持たせ、隆春は先に足を踏み入れた。
そこまでも続く暗い洞窟を二人は進んでいく。
ときどき頭上から水滴が落ちてきて、二人の髪を濡らした。
二人は壁をつたい、時々佳奈の名前を呼びながら奥へ奥へと入っていった。
どれほど歩いたろうか。
ほのかな明かりが奥に見えた。
二人は不思議に思い、明かりに近づいていった。
陰に隠れ、光の中を覗く。
そこは小さなドームのようになっており、壁につけられたたき火台に火が灯されていた。
そして。
「佳奈・・・!」
部屋の真ん中に佳奈が立っていた。
部屋の一番奥にある、祭壇のようなものを見つめている。
誰もいないことを確認し、二人は部屋に入った。
「佳奈、ほら帰るぞ。」
そう声をかけながら隆春は佳奈の腕をそっと掴んだ。
途端、激しい電流のようなものが空間を走り始め、隆春の体がバラバラとブロックのように崩れ始めたのだ。
床には魔法陣が浮かび上がり、隆春の床に落ちた体は砂のようになって消えていく。
悲鳴をあげている隆春に駆け寄ろうと由利子が踏み出した。
ところが魔法陣に入った瞬間、彼女の体もまた崩れ始めた。
悲鳴をあげる二人を前に、佳奈は泣き叫んだ。
「やめて!
お父さんとお母さんを助けて!」
『邪魔をするな。』
どこからともなく響いた声に、佳奈は怯えた。
『彼らは死にはしない、我が体の一部となるのだ。
少女よ、お前の血を私に飲ませてくれ。
そうすればお前は永遠にそやつらと共にいさせてやろう。』
佳奈は震えたまま動けなかった。
溢れ出す涙で、もう両親の顔すら見えない。
佳奈はただただ震え、泣き続けるしかなかった。
―――――ジャキンッ―――――
不意に鈍い金属音と共に、黒いマントの男が飛び込んできた。
男は佳奈を抱き上げ、素早い動きで魔法陣の外へと駆けだした。
佳奈は男を見上げた。
フードで口元しか見えないが、彼は唇を強く噛んでいた。
男は佳奈を降ろすと、すぐにまた魔法陣の中に飛び込み叫んだ。
「魔物よ、彼らを解放したまえ!」
すると気味の悪い笑い声が響き渡り、下に溜まった両親だった砂が人の形を作り出した。
「我が魔法陣により作られた結界を普通の人間が破れるわけがない。
お前のその剣・・・話に聞いたことがある、我らを葬るために作られた血染めの魔剣“血董”と見た。」
人の形をした砂の中に、真っ赤な目が浮かび上がった。
「我を葬れるものなら斬るが良い。」
男は剣を構え直し、人型の砂に向かっていった。
佳奈は恐怖で回らなくなった頭を左右に激しく振った。
両親を助けなければいけない。
佳奈の心がそう叫び、それと同時に自らの危険を告げる警鐘のように鼓動の音が鼓膜を震わせる。
佳奈は震える足で立ち上がり、魔法陣のほうに向き直った。
魔法陣の中は白い煙のような壁に阻まれ、殆ど何も見えない。
煙の中には先程の青白い電流が激しく走り続けている。
聞こえるのは鈍い金属音と、男の足音のみ。
佳奈は目を閉じて一度大きく深呼吸した。
ゆっくりと目を開き、佳奈は一歩踏み出した。
もう震えは止まっている。
佳奈は煙にゆっくりと手を伸ばした。
電流は彼女の手に当たると砕け散る。
行ける。
佳奈はそう思った。
そして煙の中に足を踏み入れた。
煙の壁は薄く、一歩踏み込むと魔法陣の中にいた。
電流が空間を眩しいほどに走り、目を開けているのがやっとだ。
激しい金属音が一度した後、佳奈の目の前に男が倒れこんだ。
人型の砂が彼に歩み寄り、祭壇にあった錆びた剣を男の足に突き刺す。
魔物と呼ばれたそれは、不気味な声で笑いながら何度も何度も男の体を無茶苦茶に刺し続ける。
男にはもう叫び声をあげる力もない。
佳奈のピンク色のワンピースに彼の血が染み込んでいく。
男の血が、佳奈の顔や腕にも飛び散る。
佳奈はただ茫然と立ち尽くした。
恐怖で声も出せず、動くことも出来ない。
男は刺され続けながら、佳奈を外に押し出そうと足を押していた。
けれどその力のない手は、やがてぐったりと落ち動かなくなった。
男の無残な姿を見、魔物はげらげらと笑い声をあげている。
佳奈の瞳がゆっくりと魔物を見上げた。
薄黒い体に真っ赤な目が爛々と輝いている。
佳奈は絶望した。
逃げる力もなく、恐怖で体も動かない。
両親ももうこの状態では助けられないだろう。
諦めて崩れ落ちた佳奈の元に、一羽の蝶がひらひらと近づいてきた。
真っ白で姿の透けた蝶は、上を向いて笑っている魔物に静かに近づいていく。
すると魔物の体の中に、きらりと輝くものが見えた。
佳奈ははっとした。
それは母、由利子の大切にしていたペンダントだった。
隆春が彼女に初めてプレゼントしたもので、由利子はずっと大切に身につけていた。
うっすらと光を放つそれは、まるで佳奈を勇気づけているように見えた。
佳奈はもう一度魔物を見上げた。
魔物はまだ佳奈の存在に気づいていない。
佳奈はゆっくりと、地面に突き刺さっている男の剣に近づいた。
剣の柄を掴み、引き抜こうと力を込める。
が、まったく抜ける様子がない。
佳奈は一度大きく深呼吸をして、もう一度ありったけの力で引っ張った。
やはり抜けない。
それでも佳奈は剣を離さず、また力を込めた。
小さな呻き声が口の端から漏れ出す。
その声に、今まで笑っていた魔物が振り返った。
佳奈の姿を目にすると、真っ赤な目を細めて静かに近づく。
そして、大きな手で剣を掴み、砕いてしまった。
目の前で飛び散る破片に電流の光が反射する。
その一つが佳奈の頬を掠め、傷口から血が流れだした。
魔物はまた笑いだした。
「血だ・・・血だ・・・血を飲めば体を、肉を食えば不死の力を手に入れられる・・・巫女であるお前を・・・よこせ・・・!!!」
ゆっくりと近づいてくる魔物に合わせ、佳奈は後ずさりした。
すると先程の蝶がまた、佳奈に近づいた。
魔物が鬱陶しそうに払おうとした手をひらりと交わし、佳奈の頬にとまり血を吸い始めた。
蝶の体がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
すっかり吸い尽してしまうと、蝶は彼女の頬を離れ、宙で強く光り輝いた。
魔物は眩しそうに手で目を覆う。
佳奈にはしっかりと見えていた。
蝶の姿が一本の剣に姿を変え、佳奈の手に降りてきたのだ。
サイズは佳奈の持ちやすい小さなもので、何も乗っていないかのように軽い。
佳奈は剣の柄をしっかりと握り、魔物めがけて突っ込んだ。
彼女の剣が魔物を貫くと、魔物は叫び声をあげながら姿を消した。
その場に残ったのは由利子のペンダントと、崩れ落ちた祭壇だけだった。
丘の上に残された両親のカバンを探り、佳奈は携帯電話を探し出した。
由利子や隆春にいつも言われていた。
「何かあったときは、この番号に電話するのよ。」
そう言って渡されていた紙を、自分のポシェットに付けられた迷子札から出した。
書かれている電話番号に電話を掛ける。
少しコール音が続いた後、ガチャリと受話器を取る音がした。
「もしもし、高橋です。」
ゆっくりとした口調の老人が出た。
佳奈はその声を聴いて、安心したのか涙が溢れて止まらなくなった。
慌てる老人に、嗚咽しながら彼女は話しかけた。
「おじいちゃぁぁぁん!お父さんとお母さんが死んじゃったぁぁぁぁぁ!」