狂想のマル・ダムール
いつも、夢を見る。
理由ならば、他ならぬ私自身が知っている。覚えている。
その言葉を口にしたことを、悔やんでいるから。
だから、私は夢を見る。
決して、そのときの後悔を、忘れる事がないように。
***
目を開ける。心地好い微睡みから抜け出すのは億劫ではあったが、どうも、そう言っていられる状況ではないらしい。
安楽椅子に腰かけた状態のまま、膝に置いている開きかけの本を閉じて、窓の外を眺めてみる。窓の外は未だ夜の帳が落ちたまま。深夜、夜半、夜更け。そんな言葉が似合う時間帯だった。随分、無作法な事だな。なんて、ひとりごちる。
「入るといい、鍵はかかっていない」
扉の外にいる者に聞こえるように、努めて大きな声でそう促すと、控えめな音と共に、扉が開いた。足音は二つ。靴音からして男と女。さっき、確認した通り。
膝に置いたままの本を傍らに置いて、立ち上がる。訪問者を視界に入れて。
―――眩暈がした。
視界が闇に染まり、全ての音が自分から遠ざかる。ともすれば足の力すら抜けそうではあったが、そこは根性で抑え込んだ。
幸いにも、彼等には気付かれなかったらしい。早々に醜態を見せてしまったら事である。私のプライドにも関わる。
黙り込んでいた私に、若い……いや、まだ幼いといっても差し支えない年頃だろう少女が、しずしずと口を開く。
「……夜分遅くに訪れて、申し訳ありません」
「本当にね」
刺々しい声になってしまった自覚は、ある。少女は頭を下げたまま、体をびくりと震わせた。必要以上に怯えさせるつもりはなかったものの、緊張に支配されている彼女はそのまま停止してしまう。男の方は、フードを深く被ったまま、微動だにしない。居心地の悪い沈黙が広がり、私は溜め息を吐いた。
「まぁ、最終的に迎え入れたのは私だ。気にしなくていい」
寝起き故の不機嫌さ、そう判断してもらえればいい。実際、まだ眠り足りなかったのだ。眠気はあの瞬間に、すっかりと消し飛んでしまったが。
「……それで? こんな夜更けに供もつけず、王都の外に存在するこの森に、一体どのような目的で訪れたのですか、殿下」
少女が、息を呑む。驚いたのは此方も同じだ。深夜の無作法な訪問者が、よりにもよってこの国の王女様、などと。
彼女が慌てて顔を上げた拍子に、目深に被っていたフードが落ちてしまう。露になった彼女の姿は、それはもう可憐だった。噂に違わぬ美しさ、というのか。これなら、評判になるのも頷ける。
姫は青い瞳を揺らしながら、首を小さく横に振った。
「……今の私はこの国の姫ではありません。ですので、どうか畏まらず……ソレッラと、お呼びください」
「……では、ソレッラ姫と」
少女はほんの少しだけ不服そうに、それでも嬉しそうに微笑む。だが、隣に立つ男の姿を見ると、可憐な微笑みは消え失せた。真剣な表情で此方を見やり、口を開く。
「『万能の魔女』プリマヴェーラ様……貴女に、お願いがあるのです」
姫が隣の男の手に触れた。男の反応は、ない。
「フードを取ってください」
姫がそう言うと、彼は初めて動きを見せた。流れるような所作で、フードを後ろへと落とす。露になったのは、妹姫と同じ赤い髪に、青い瞳。その顔は、とても美しかった。
「お兄様……兄を、救っていただきたいのです」
妹姫の言葉に対しても、兄君は何も答えない。私は歩み寄り、その青年を見上げた。……たしか、妹姫とは一回り近く歳が離れているのだったか。この美貌では、女性は放っておきそうにないな。
長身のせいで見上げる形になった彼の瞳には、生気がない。それでも美しいせいで、精巧な人形と相対しているような気分になる。
目を細めれば、彼の異常はすぐに読み取れた。
「心を、奪われているね」
これは比喩でもなんでもない。実際に、彼の心は奪われている。
魔女の魔術は不可能を可能にする、なんて。言ったのはだれだったか。
無論、魔女にも限界はある。魔女は個々人によって扱える魔術の系統が異なるもので、全ての魔術を扱える魔女は限りなく無に等しい。どんなに有能な魔女であっても、必ず扱える魔術には限りがある。……と、脱線したな。
じっと私にしか見えない心を眺めて、溜め息を吐いた。
「しかし、随分とお粗末だな。お陰で、身体にも色々と異常を来しているようだ」
これを行ったのは十中八九、魔女だが、あまりにお粗末な結果である。心を奪うだけならばともかく、……いや、やめておこう。些か不謹慎な話ではある。
「わかるのですか……?」
「ああ、魔女だからね」
魔女。その言葉をさらりと口にできるのなんて、この国くらいだろう。
少なくとも、他では迫害されるものである魔女が大手を振って町を歩ける場所なんて、世界でもこの国だけの筈だ。
「ソレッラ姫、君はどうして私の元に? 王都には他の魔女もいる。態々外れの森に住む私の元を訪れる必要は、無いように思えるけれど」
「父から、貴女のお話を耳にしたことがあるのです。『万能の魔女』……彼女はどんな魔術も扱える、それでいて素晴らしい力を持っていて、何度となく、相談にのってもらっていると」
そこまで口にした彼女は、未だ兄君の検分を続ける私をまじまじと見つめる。ぽつりと、少女の唇から言葉が零れ落ちた。
「思ったよりもお若い方で、驚きました」
「……成程」
確かに、私は国王陛下と関わりがある。そして、ソレッラ姫がこの国の姫である以上、外の情報を得る機会はあまりないだろう。町に住む魔女を時間をかけて探すよりかは、場所がわかっている私の元を訪れる方が確実だ。
……つまりは、それだけ切羽詰まっているということでもある。
「彼は、どうしてこのような状態に? この国の同胞が、王族に手を出すとは到底思えないが」
「私にも……わかりません。兄は気付いた時にはこの状態で……。兄は……お兄様は、厳しいけれど、優しい方なんです。だから、どうしてこんな事になったかなんて、到底……」
知っている。
厳しいけれど公明正大、民のために率先して先陣を切る兄王子。
可憐で淑やかで心優しい、民のために慈善事業を積極的に行う妹姫。
町に出れば、大抵その噂で持ちきりだ。特に王子は、男性からは魔獣さえも討ち取るその武勇故に、女性は言うまでもなくその美貌故に、何を為すにも注目の的だったと思う。たしか、数日前にもどこぞの町を襲っていた魔獣を討伐したとか、そんな話で持ちきりだった。
「ソレッラ姫。兄君に関してだが」
「治せるのですかっ!?」
食い入るように此方を見つめるソレッラ姫に、私は首を横に振る。
「……彼の奪われた心が彼の内にない以上、どんな魔女でも兄君は救えない」
「そんな……!」
ソレッラ姫の青い瞳が絶望に沈んだ。その瞳にみるみる内に涙が溜まり、零れ落ちていく。慰め、というわけではないが、私は淡々と言葉を投げかける。
「そう、悲嘆に暮れるものではないよ。彼の心が見付からないなら、探せばいいだけの事」
今にも泣き崩れてしまいそうな、しかし王族の矜持か涙に暮れながら嗚咽も溢さず立ち尽くしているソレッラ姫にそう告げて、兄君の胸元に掌を置いた。生気がない青い瞳を見据えて、口を開く。
「教えて。君の心はどこにある?」
ソレッラ姫が戸惑ったように、私を見つめる。
返答などないと、わかっている。そもそもこれは、兄君に向けた言葉ではない。呼びかけるその言葉に、魔力を乗せる。……それだけの事だ。
魔女が魔術を使う方法は様々で、息をするように魔術を扱う者もいれば、集中力や想像力を必要とする者もいる。私の場合、殆どが後者であるというだけ。
目を閉じれば、一面の闇。深い海の底にいるようだ。
海の、底。浮かび上がる魚を想像する。
「これ、は……」
息を呑む、姫。魔力が泡のように周囲から沸き上がるのを感知した。集中を途切れさせないまま、想像を切り替える。魔力を自分の周囲から遠く、遠く、国中に広げていく事を、想像する。
世界は水面で、私は、波。波紋は広がり、世界を漂う心を探す。
「……」
ふ、と息を吐いた。目を開ければ、変わらず光のない瞳で此方を見下ろす、兄君と目が合う。ほんの少しだけ、微笑んだ。
「……あの、プリマヴェーラ様」
「兄君の心を見付けたよ」
恐る恐るといった様子で声をかけてきたソレッラ姫に、私は答えた。周囲に目を走らせれば、私を中心に青い光の波紋が広がっているのが見て取れる。成功だ。
「本当ですか!?」
「ああ。けれど、君は其処に連れていけない」
それは、俄に色めき立った少女に水を差す言葉だったのだろう。喜びから一転、落胆へと表情が移り変わる。気持ちは、わからないでもない。
「どうして……?」
「答えは単純。現在君の兄の心を持つ者が居る所は、非常に危険な場所だからだ。兄君の心を取り戻すという都合上、兄君は連れていく必要があるが……まぁ、一人程度なら守りきれる。だが、君を連れていくとなると、話は別だ」
現状自発的に動けない男を守りながら進む事が、出来ないわけではない。だが、加えて戦えない妹姫まで連れていく……となると、かなり無謀な挑戦になることは間違いない。
「兄君を守るためには、君を捨てる必要がある。君を守るためには、兄君を捨てる必要がある。……つまりは、そういうことだ」
「……私は、足手まといということですね」
「有り体に言うのであれば」
姫の瞳に、逡巡が宿る。自らの我儘と兄君の安否、その二つを秤にかける様が目に浮かぶ。やがて、秤が傾いたのだろう、ソレッラ姫は顔を上げた。
「……わかりました。けれど、一つだけ教えてください」
瞳に、迷いはない。
視線だけで促せば、少女は真摯な瞳で此方を見上げ、問いをひとつ投げ掛けた。
「貴女程の魔女でも、危険な場所と言い切るそこは……一体どこなのですか?」
聞かれるだろうと思っていた。だから、私は兄君から離れ、机の上に広げている地図へと歩み寄る。ソレッラ姫が私を追って隣に並んだ。
「『竜の住む山』と、呼ばれている場所だ。実際、竜が住む山だが、兄君の心を持っているのは、竜ではない。彼等と共に暮らす、同胞だ」
「竜の、魔女……」
ソレッラ姫の顔から血の気が引いている。戦いとは縁遠い身であるだろうし、無理もない。
私は地図から離れ、準備を始めるべく動き出した。
此処からだと、朝から馬車を乗り継いでも竜の住む山に着くには一昼夜かかるだろう。準備は早めに終わらせるに越したことはない。準備の手を止めないまま、ソレッラ姫に声をかけた。
「ソレッラ姫。貴女はもう王都に戻った方がいい」
「……私は、邪魔ですか?」
「いいや。ただ、君が兄を思って私の元に訪れたように、君を思って君を守る者もいる。気付かぬ間に主が消えていたら、彼等が可哀想だろう?」
姫が目を伏せて、悲しげに微笑んだ。
「プリマヴェーラ様は、お優しいのですね」
「……どうかな。本当に優しいのなら、君を連れていったと思うけど」
肩を竦める私に対し、ソレッラ姫はゆるりと首を横に振った。その仕草すら、溜め息が出るほど美しい。美しい姫は、私に向かって言うのである。
「いいえ、貴女はお優しい。貴女になら、兄を託せると……そう、思いました」
彼女は次いで、兄の元へと歩み寄る。躊躇うように彼の顔を窺っていた姫だったが、やがて壊れ物に触れるような危うげな手で、兄君を抱き締めた。
「……お兄様、どうかご無事で。お兄様の心が戻ることを、ソレッラは祈っております」
兄の無事を祈る妹の抱擁。何らおかしくはない光景だ。
ただ、彼にすがり付くその姿が、兄妹とは別のものに見えたのは、私の錯覚だろうか。
「……送りましょうか、姫」
「いいえ、大丈夫。森の入り口に馬車を待たせているから」
兄から離れたソレッラ姫は、ご丁寧にも私にもお辞儀をして、そのままこの館を辞していった。
それを入口で見送って、瞬きを一つ。
「……ん、ちゃんと馬車は待っているね」
瞳に映るのは、森の入口の景色である。馬車が一台、欠伸を溢す御者が一人、その傍らに立つ軽武装の男の姿が観えていた。
……流石に姫を一人帰すのは気が引けたが、御者以外にも護衛が一人いるようなので、魔物や盗賊に襲われてもある程度は迎撃できるだろう。……護衛を私の前に連れてこなかったのは、彼女なりの礼儀、だったのだろうか。
確認を終えて一度目を閉じて、振り返る。長年住み続けたこの古ぼけた館に似つかわしくない、華やかな男が佇んでいた。
「……どうにも奇妙な気分だな」
こんな日が来るとは、思ってもいなかった。
青年の傍へと歩み寄る。この国の王子様。魔女が暮らせるこの国を、いつか必ず、継がなければならない人。
苦い思いと共に、強い決意が浮かび上がる。守らなければ、と。
「館を出る前に、最低限の護身はしておくべきか」
館の周囲の森は私の領域ではあるが、森の外はそうではない。現状戦えない王子に、万が一の事があってはならない。……というよりも、救わなければならない人物に傷をつけてしまうのは、些か本末転倒だろう。
棚を漁り、目的の物を探し当てる。
銀の鎖にランタンの形のペンダントが揺れる首飾り。これは確か、王都に住む同胞に、薬草の融通をした際にもらった物だった。魔力を通しやすい銀と、ペンダントに埋め込んである宝珠が魔力を溜めるのに最適だという、割と高価な品物だった筈。
「……」
鎖を指先にひっかけて、ペンダントを垂らす。揺れる宝珠に意識を向けて魔力を注いでいけば、無色透明だった珠が赤色に満たされていくのが見えた。
宝珠が完全に赤く染まった所で、魔力を注ぐのをやめて、王子の元へと近付いていく。と、そこで気が付いた。
「……あー」
王子は割と長身な部類で、私が彼にこの首飾りを付けてあげるには、少々身長が足りなかった。台になりそうなものは近くになく、安楽椅子を台にするには不安がある。……仕方ない。検証もしたかったところだし、試してみよう。
「王子、すまないが屈んでくれないか」
王子の返答はない。だが、私の言葉に従うように、王子はゆっくりと膝を付いて屈んでくれた。ソレッラ姫の言葉以外にも従うらしい。これではやはり人形のようだなと、少しだけ悲しくなった。
「……私のような者が、君に指図などして申し訳ない」
彼の背後に回り、鎖を首にかける傍らに、そんな言葉を口にする。王子の返答はない。
わかっている。だから、これは自分に対する宣誓だ。
「君の心は、必ず取り戻す」
留め具を付けて、前へと回る。
「……うん、よく似合ってる」
むしろ、私より似合っているんじゃないだろうか。全体的に色素が薄い私より、宝珠と同色の髪を持つ彼の方が、よく似合っていると思う。
彼を促し立ち上がらせて、その手を取った。
「さぁ、行こうか」
旅が、始まる。
私の、最初で最後の旅が。
***
馬車に揺られる事、一昼夜。
想定通り、私達は竜の住む山のすぐ近くに辿り着いた。
強ばった体を伸ばしながら、空を見上げる。ちょうど、日が落ちたばかり、か。
「この時間に竜に挑むのは、流石にな」
そもそも、日が落ちようが日が昇ろうが強いのが竜である。そうなると、自分が如何に有利に戦えるかを考えた方がいい。初めて訪れた山の中、王子を連れて夜間に戦う事になる状況を思案すれば、答えは即座に導きだせる。
御者に金を支払いながら、私は問を口にした。
「この近辺に、町はあるかな」
「あー……、たしか、山の麓に竜を崇める人達が作ってる町はあった筈だけど。何、あんた達も竜見物に来たの?」
「……当たらずとも遠からず、というか」
……竜の仲間である魔女に会う以上、竜に会うのは確定的だからな。
御者は首を傾げたものの、それ以上何も問うことはなく、受け取った金を懐に仕舞う。
「今会えるかわからないと思うぜ。なんか竜が住んでる山に、変な骨の化け物が出たって話だからさ」
「……ふむ、骨の化け物か。町民達は襲われたのか?」
「いや、山に入ろうとすると邪魔してくるだけみたいで、直接的な被害は聞いてないな」
これは僥倖というべきだろう。限りなく敵に近い同胞の領域に踏み込むとなると、情報は一つでも多い方がいい。御者に礼を言うと、彼は私と私の背後に立つ彼に目をやって、問いかける。
「お宅等、夫婦?」
「……そう見えるだろうか?」
……年頃の、見目が似ていない男女が共に行動するとなると、それくらいしか浮かばないだろう。実際は、この国で最も高貴な王子と、森暮らしの古ぼけた魔女とかいう、多分普通の人には想像できない組み合わせなのだが。ソレッラ姫のように似ている部位があれば、兄妹と問われたかもしれないが、残念ながら彼と私は似ていない。
「折角の二人旅なら、もっと良いところがあると思うんだけどねぇ……まぁ、気を付けな」
呆れた声でそう言って、彼は馬に鞭を打って去っていった。
……別段、観光というわけではないんだが。
「しかし、骨の化け物か……」
確実に、あちらも此方の存在に気付いている。
その上で、山に骨の化け物を放つ、ということは。
「彼女、王子の心を返すつもりはないな」
溜め息を吐く。なるべくは平和的に解決したかったが、彼女がそういうつもりならば仕方がない。
私は王子の元に近寄って、その手を引いた。
「行こう。明日は早いぞ、速く宿を取って休まねば」
正直、町に行くのは好きではないのだが。なんせ、あそこは情報が多すぎる。幼い時分に町に赴いた頃、あまりの情報量に、頭が破裂してしまいそうになった。あれ以来、未だに町は苦手なのだ。
……とはいえ、我が儘を言ってもいられない。一度目を閉じて視点を切り替えると、御者の言っていた町を探す。
「……ああ、あった」
此処からそう離れていない場所に、小さいながらも町が存在していた。
夜だが灯りが多く、通りを歩く人々の数は多い。宿がないということもなさそうだ。
視点を元に戻して、歩き出す。王子も私のあとに続いて歩き始めた。
「しかし、予想以上に人が多い……」
お祭りとまでは言わないが、それでも大層な盛況具合だった。竜の住む山が観光地に適しているとは到底思えないが……、物見遊山という奴なのかもしれない。
手を引く青年をちらりと見上げ、呟く。
「外套だけで誤魔化すのも、難しいかな」
何度も言うが、彼は王子である。正体がばれればどうなるかなど、言わなくともわかることだ。
歩きながら指先に意識を集中させる。握ったままの彼の手に指を滑らせれば、指の軌道を追うように光の軌跡が現れて、消える。
「……これで、ある程度は誤魔化せればいいんだが」
幻惑の魔法で、王子の印象をある程度薄めたのだ。
彼の正体に周囲が感付かない限り、この魔法は解けることがない。
これである程度は安心だと思っていた。
……思っていた、のだが。
「……予想外、だな……」
周囲には人、人、人。
小さい町ながら人が多い、というのは先程確認した通り。だが、町に配られているチラシやら、家に掛かっている垂れ幕に書かれている名前や似顔絵は……どう見ても、私が手を引く青年と同じである。どうやらこの町には、相当腕のいい絵描きがいるらしい。
「……はあ。まさか、最近君が行ったという魔獣討伐は、この町の近辺だったのか」
目を閉じて、眉間を押さえる。目の奥がじんわりと熱を持っていた。このまま此所にいるのは、非常によろしくない。
私は王子の手を引いて、雑踏の中を歩き出した。
「……いやぁ、イデアーレ殿下とマリカ様、竜のお方のお陰で、この町もようやく安全になったなぁ……」
「……殿下は対応が早くていらっしゃる……」
「俺、あの方が戦う姿を見たんだが……剣捌きがそれはもう素晴らしかった……」
歩く人々の会話を耳に挟み、ほんの少しだけ笑みが零れる。
町には魔獣の爪痕が残っているものの、そこには既に復興に取りかかる兵士達の姿があった。人気者だな、王子。
だが、そんな華やかな声と対照的な、どこか暗い声も耳に届く。
「お山に骨の化け物が出たと聞くが、竜のお方とマリカ様はご無事でいらっしゃるかしら……」
「聖域の山に出たあの奇妙な怪物……突然現れたが」
「あの怪物についても、殿下は対応してくださるだろうか……」
……竜の魔女の名前は、マリカ。彼女とその竜は、どうも町の人々に慕われているようで、何度もその名前を聞いた。更に、宿屋を目指して進む最中に耳に届く話を聞いていると、竜の魔女と王子は面識があるらしい。
「お嬢さん、お嬢さん」
竜の魔女が王子の心を持っているのは、そういう事情もあるのだろうか。あるいは、王子の心が偶然此方に向かったのか……
「そこの君、かっこいいお兄さんと手を繋いでる可愛いお嬢さん!」
「……私か?」
「そうそう、君だよ」
お嬢さんは数いれど、男の人と手を繋ぐとなると、私くらいしかいないだろう。私が振り返ると、出店の青年がにこにこと人好きのする笑顔で、此方に手を振っていた。
「やぁ、こんばんは。見ない顔だけど、観光かな?」
「……まぁ、そうとも取れる」
「それなら旅の記念に是非、買っていかないかい?」
青年の前に広げられた品物を見下ろして、目を瞬く。
竜の姿が彫られた銀の装飾品だ。物珍しさに指輪を手にとって、気付く。王子に渡したあの首飾り、それと材質が同じ銀が使われているのだ。
「……この銀、あの山で採れるのか?」
「ああ、そうだよ。マリカ様に許可をもらっていてね、定期的に山に掘りに行くんだよ」
「だが、今は山に入れないのでは?」
「うん、実はそうなんだよ。山に入れなくて困るのもそうだけど、マリカ様と竜のお方の安否も気になるよね。けど、あの方はすごく強いし、実はそんなに心配してなかったりー……と、あはは、これはみんなには内緒にしてくれよ?」
照れたように笑う青年とこの状況に、微かな違和感が、胸の内に浮かぶ。……元々この国の人間でない私には、未だにこの状況は夢のように思えるのだ。
違和感を振り払うように首を振り、ほんの少しだけ笑んだ。
「この指輪、いただけるだろうか」
「ありがとう!」
金を手渡し、品物を受け取る。掌に、硬い感触が二つ。
首を傾げて、青年に問う。
「一つ多くないか? 私は、一つ分の料金しか支払っていない筈だが」
「ああ。それ、元々ペアリングなんだよ。お兄さんとお揃いで、ってことでどうかと思って」
「……では、ありがたく」
厚意を無下にするのも心苦しく、私は指輪をありがたく受け取ることにした。……正直、この装飾品は魔術の触媒としては最適なのである。
店主の青年と別れ、受け取った指輪を手の中で弄びながら歩き続けること数分。ようやく、宿屋に到着する事が出来た。
「つ、かれた……」
宿屋の一室に据えられた長椅子に寝転がり、掌で目を押さえる。だが、まだ休めない。長椅子から起き上がり、傍らに立つ青年と目が合う。
「王子、君は先に休んでくれ」
声をかけたものの、反応は帰ってこない。少し考え、言い直す。
「ベッドで体を横たえて、休みなさい」
動き出した王子の背を眺め、立ち上がる。万全の準備を整えなければ、ろくに休めないだろう。部屋の隅に屈み込み、指先に意識を集中させる。結界の陣を部屋の四隅に描き、続いて先程受け取った指輪に、魔力の宿った指先で文字を削っていった。
「……防護、警報、防音……、あとは迎撃。最低限、部屋に仕込むならこの程度。あとは、」
必要な準備を終えて、ベッドへと足を向ける。王子はベッドに体を横たえ、目を閉じていた。眠っているかはわからないが、休めと言った以上、多分休んではいると思う。二枚ある内の一枚の毛布を拝借し、もう一枚は彼の体にかけて、長椅子に再び寝転がって目を閉じた。
あとは、待つだけ。
***
夢を見る。
いつかの話。もう過ぎ去ってしまった、遠い、昔。
そう、昔の記憶なのだ。悔やんだ所で変えられない。
一目、視た。
定まっていた、悲しいほどに。
だからこそ、私は―――
夢を見る。
いつかの夢を。つまらない感傷を、夢見ている。
いずれ、終わってしまうから。
まだこの夢に、耽っていたい。
***
火花が散る。結界が問題なく作動したらしい。
最早条件反射的に叫ぶ。
「迎撃!」
四隅に仕込んでいた魔方陣から深紫色の茨が放たれ、襲撃者を拘束し締め上げた。布団を跳ね上げるようにして起き上がり、王子に向かって叫ぶ。
「王子、起きろ!」
私の声に応じて、王子が起き上がる。その最中、彼の背後で刃を振り上げる異形が、一つ。彼を殺すつもりか、あるいは、傷付けるつもりか、わからないけれど。頭に、血が上る。
「彼に触れるなよ、怪物風情が!」
瞬間、彼の胸元から魔力が迸り、炎となって異形に襲いかかった。炎に包まれる異形は、町で話を聞いた通り、骨の化け物としか表現できない怪物であった。獣のものだろう数百の白い骨で、獣とも、二足歩行の人形ともつかない異形の怪物を組み上げている。
「燃えていない……やはり、竜の骨か……!」
竜の住む山にある骨だ。竜が敵になる可能性は考えていたが、まさか触媒も竜のものとは。炎を足止め代わりに、襲撃者を確認する。骨の異形が二体。
幸いにも、それだけだ。
「それだけなら、まだやりようはある」
自らの身の内に宿る魔力を放出する。霧のように広がるそれらを、室内に充満させていく。同時にペンダントに残っている魔力を操り、彼の体に魔力を通していく。
想像する。彼の体に流れる血脈を通じて、自らの魔力を浸透させる。
想像する。浸透した魔力を通じて、彼の体を、動かすことを。
「王子、来るんだ!」
王子の体が驚くほど滑らかに動く。ベッドを飛び降り、此方に駆け寄ってくる。それを確認し、異形を留める炎を呼び戻した。
私の意図を汲み、形が無かった炎が赤い馬へと変貌する。
「乗って!」
端的な命令に従い、王子が燃える馬に飛び乗った。此方に駆け寄って来る馬の鬣を掴み、叫ぶ。
「外へ!」
緋色の馬が嘶きと共に、窓を勢いよく蹴破った。ぴりり、と腕やら足やらに痛みが走るが気に留める余裕はない。まだ、あの異形は仕留めきれていない。
だからこそ、懐から宝珠を一つ取り出した。遠ざかる部屋に向かって投げ込んだ。
音はない。ただ、部屋の一室が、驚くほど目映く輝いただけだ。ほんの少し、爆風が頬を叩く。充満させた魔力に、火を放つ魔術式を組んだ宝珠を投げ込んだのである。より分かりやすく説明するなら、小麦粉を充満させた部屋に火花を散らせたようなもの。
魔女であるならば、それが魔力による爆発だと気付いただろうが、夜遅くの騒動に、気付く者は誰もいない。
「……防護、もう少ししっかりやっておくべきだったなぁ」
馬の鬣を掴んだまま、自らの体を見下ろした。手足には窓硝子の破片で傷付けてしまったのか、多くの切り傷がついていた。が、この程度なら治療するほどでもないだろう。
安全な場所で一度止まり、王子の姿を確認する。荒っぽい脱出だったが、幸い彼には傷一つなかった。安堵しつつ、指先をペンダントに押し当てる。今の戦いで減った魔力を補充しなければ。目を閉じて、魔力を込める。
「……?」
魔力を注入し終え、宝珠の色を確認して顔を上げた。何故か、見られていると、思った。王子の顔を窺うものの、反応はない。
「気のせい、か?」
首を傾げながらも、改めて馬の背に乗り直す。炎で出来ているものの、乗る者には熱くもないし引火することもない。魔力で出来ている炎なので、ある程度は術者の意思で左右できるのだ。
空を見上げる。まだ夜は明けていない。……どうにも、最近の闖入者は夜更けに訪れるのが流行らしいな。
「まだ夜明け前……だが、仕方ない。突入しよう」
炎の馬が走り出す。蹄の音を響かせて街中を駆け抜けて、竜の住む山へと、向かっていく。流れるように変わっていく景色をぼんやりと眺めながら、傷の痛みに顔をしかめた。後で、止血程度はするべきだろうか。
町の門を通り過ぎる。段々と人の気配がなくなっていくと共に、山の麓が見えてきた。右手を馬の鬣に埋め、魔力を込める。
蠢く骨の異形が見えた。しかし、此方としても止まるつもりはない。
「行け!」
馬が嘶く。魔力で最大限に強化された炎の馬は、今や巨大な炎の砲弾にも等しい。骨の異形を難なく蹴散らして、竜の住む山へと侵入した。
このまま、中腹まで行けたなら。そんな甘い考えが浮かぶものの、物事はそう簡単に進んでくれはしないらしい。
突如、前方から魔弾が襲来する。
咄嗟に炎の馬の形を変えた。炎の壁に、魔弾が遮られる。
私は地面に転がるようにして着地し、王子の周囲に残る炎で彼の目前に防壁を築き上げた。
「あら、対応が速いこと。流石、『万能の魔女』というところかしら?」
人が到底進めないだろう獣道から、一人の女が姿を見せた。長い黒髪に赤い瞳の若い女。周囲に竜の姿はないが、彼女こそが『竜の魔女』であるのは疑いようの無いことだ。
「随分な歓迎だな。私は、君に敵意はないんだが」
「貴女にはなくても、私にはあるのよね」
その言葉通り、彼女の目には、隠しきれない敵意がある。
一方で、敵意とは違う視線が、私ではない者に向けられた。その瞳の熱さといったら。蕩けていると言っても過言ではない。そのくらい、熱の孕んだ視線だった。
「イデアーレ殿下を私に預けなさい。そうすれば、無傷で此処から帰してあげる」
「断る。君が王子の心と体を元に戻すなら従ったかもしれないが、王子を預けるには今の君は些か熱狂に過ぎる」
「……そうね、この状態はおかしいわ。私では出来ない分離された心を戻せるのは貴女で、その為に殿下のお体をお連れしている。誰がどう見ても、貴女が正しい」
言葉そのものはあまりに理性的だった。先程までの攻撃が、冗談かと思えるほどに。だが、私は腰を落とし、戦闘態勢を整える。
如何に言葉が理性的だろうとしても、状況を正しく認識できていたとしても。
「でもね、止められないの。心が抑えきれないの。ごめんなさいね」
それが、彼女が正気であるという示唆にはなりはしない―――!
放たれた魔弾の連打を魔力の霧で防ぎながら、彼女を視る。やはり、というべきか。マリカは、かなり攻撃に特化した魔女であることが窺い知れた。
器用貧乏とされる私には、相性が悪い。
「彼の心を見て、触れて。欲しくなってしまったの」
熱に狂いながら、彼女は笑う。その周囲で、清らかな光が踊り、そうして私に襲い掛かった。左へ跳び退る最中、王子の状況を確認する。防護は破られていない。
「一度出会った王子様、魔女にも誠実な、善い人だったわ。その心が、目の前に落ちてきて……返すつもり、だったのよ? でも、あまりの目映さに、憧れた」
威力の上がった魔弾を霧で防ぎ、マリカに向かって弾き返す。彼女の真横をすり抜けていった魔弾に頓着することなく、彼女は歌うように恋を告げ続けた。
「ねぇ、わかる? 私達にも心を砕いてくださる方の心、嘘偽りなく、私達を守ろうとしてくださる、その心があんなにも目映いとわかった時……欲しくなってしまったの。あの方の心、あの方の全てを。私のものに、したくなってしまったの。おかしいかしら?」
上空から数えるのもバカらしくなるほどの魔弾が、雨のように降り注ぐ。それを見つめながら、私はぽつりと呟いた。
「おかしくないよ。君の心は、間違ってはいない」
魔力の霧を視認して、瞬きを一つ。霧の形が変わる。薄墨めいた朧から、確固たる質量を持つ刃へと。降り注ぐ魔弾の全てを切り捨てた。
爆風の余波を受け流しながら、マリカを見据える。
「ただそれを、認めるわけにはいかないというだけ」
瞬きを一つ。刃の形が崩れ落ち、形が失せた魔力の霧がマリカの周囲を覆い尽くす。魔弾を当てても、霧であるから意味がない。魔力の霧を視認して、再びその形を変える。
針のように、棘のように。細く、長く、鋭い、無数の刃へと変じた霧が、魔女を貫いた。だめ押しに、魔力を爆散させる。轟音と爆発が、魔女を覆い尽くす。
血が飛び散って、赤く染まったマリカの体がふらりと揺れた。
「……く、ぐ、ぅ……っ」
だが、地を踏みしめて、彼女は踏みとどまった。
「ふ、ふふ……、あははっ! 楽しくなってきた!」
血に汚れ、尚笑う彼女の姿に過ちを悟る。加減しすぎた。
白く細長い枯れ枝のような棒が何本も、狂騒に駈られる彼女の周囲を旋回し、一つの形を組み上げる。円、だった。
円の中心で急速に魔力が収束し、間髪入れずに放たれた魔弾を見て、理解する。
「……避けきれない、か」
霧を呼び戻す。硬化しただけでは到底防げないだろうが、威力を僅かながら削る事は出来る筈だ。致命傷さえ負わなければ、まだ大丈夫。
魔弾が魔力の霧を突き破るのを確認し、痛みと衝撃に備えるべく目を閉じようとして。
炎が翻る。
「……え?」
炎の壁が、目前で燃え盛っていた。それでも、魔弾の勢いは衰えることなく壁を貫いてしまうが、私に当たる直前に強い力で背後から抱え上げられて、魔弾はただ地を穿つだけ。
「悪戯に刺激してどうする! 退くぞ!」
耳元で、聞き覚えのない声が私を叱咤する。止める暇も無かった。彼は私を抱え上げたまま、躊躇うことなく道なき道へと飛び込んで、駆け出していく。……いや、判断は正しい。私達が進んできた道には、障害物も何もない。あの魔弾を放たれた場合、直撃する事になる……いや、そういう事、ではなくて。
「あら、素早いわね」
炎が消えたらしく、マリカがそんなことを告げているのが聞こえた。
その様子を窺う限り、幸いにも彼の姿は見られていないらしい。多分、彼を見られていたら、彼女は半狂乱になって此方に飛び込んでくるだろうから。
「いいわ、頂上で待ってるから。そこでまた、殺し合いましょう?」
遠ざかる、魔女の声。道なき道を踏みしめて歩く、一人分の足音だけが、耳に残る。
静寂の中、ようやく混乱していた頭が落ち着いてきた。見上げれば、燃えるような赤い髪が目に映る。不機嫌そうな切れ長の青い目が、私を見下ろしていた。
……ああ、そうだ。そうだった。
「……そういえば、君、心を殆ど奪われてなかったね……」
どこか茫然としたままの私の言葉に、王子は鼻を鳴らしたのだった。
***
王子の心は奪われていた。それは、確か。
ただ、奪い方があまりにお粗末だったのである。
奪われた心は一部分のみ、どちらかと言えば体を操る主導権……とでもいうのだろうか。実を言うと、多く奪われていたのはそちらの方。
彼が殆ど心が存在するにも関わらず、人形のような状態になっていたのはそのせいだった。
心を奪うならまるごと心を奪うべき、体を奪うなら体を全て奪うべき。ようするに、件の魔女の魔術は中途半端過ぎるのだ。……と、流石に王子の前で言うには不謹慎なので、敢えて言わなかったのだが。
「……いや、心はあるだろうと思っていましたけど、まさか、私が貴方の体を操ったあの一度だけで、魔力の操作を理解するとは……」
「昔から物覚えがよくてな」
物覚えがいいだけで済んだら、魔女はいらない。
いや、しかし……驚いた。この人、本当に天才かもしれない。
私が彼の体に魔力を通し、操ったのは一度だけ。そのたった一度で、魔力を操作して自分の心を表に出すどころか、自分自身の体すら操ろうとは。
「それより、その……殿下? 下ろしていただけないでしょうか?」
「別に重くはないが」
「いえ、それはわかりますが。……歩けますし、お召し物が汚れます」
王子の眉間に皺が寄る。美人の真顔というのは妙な凄味があるもので、知らず私の口元がひきつった。歩みを止めないまま、王子は口を開く。
「まぁ、確かに歩けるんだろうが……理由にするには、弱いな」
「……?」
「服が汚れるも何も、もう大分汚れているだろう」
……それもそうか。
諦めて体の力を抜けば、王子は私の体を抱え直す。怪我の事を考えてくれているのか私の扱いは丁寧そのもので、ひどくむず痒い気分にさせた。
「……ああ、それと」
歩きながら、王子は口を開く。
「その殿下やら、王子やら、格式張った口調はやめてもらおうか。普通に話せ」
「……ですが、」
「一夜を共に過ごしている以上、礼儀など今更だ。それと、ソレッラの時のように、敬称もいらないからな」
「……君、結構我が強いな」
私の口から思わず、呆れた呟きが零れ落ちた。
聞こえていないのか、聞こえていて敢えて無視をしているのか、彼は「そうだ」と口にして、私を見下ろした。
「俺は、イデアーレという」
芝居がかった口調で、彼は問う。
「『万能の魔女』……貴殿の名を聞いても、構わないか」
「私の名は、プリマヴェーラ。……君、私の名前を知らなかったのか?」
ソレッラ姫が知っていたから、てっきり彼も知っているものかと思っていたが。イデアーレは首を横に振る。
「知っていたが、お前の口から聞きたかった。それだけだ」
「そう、か」
どこか奇妙な自己紹介のあと、彼はようやく足を止めた。
道なき道としか言いようがなかった獣道から抜け出して、時間の経過で劣化しているが舗装された道に足を踏み入れたようだ。
イデアーレが道の端へと歩を進め、腰を下ろした。私も下りようとしたのだが……拘束が緩む気配がなく、逃げられない。
「……あの、イデアーレ」
「プリマヴェーラ、治療道具は持っていたな」
「持っているが、君、怪我をしたのか」
慌てて懐から治療道具を取り出したところで、イデアーレが私の外套を取り払う。
「え、ちょ……っ!?」
「俺じゃない、お前の方だ」
私が手に持ったままの治療道具をひょいと取り上げて、イデアーレが中身を確認する。彼はそのまま適当な薬を取り出すと、有無を言わさず私の治療を始めてしまう。
「……手際がいいんだな」
「魔獣の討伐でよく怪我をしたからな。手当てをするのもされるのも慣れたものだ」
薬を塗られる度に、傷口が沁みて眉を寄せる。
「お前は、もう少し自重すべきだ」
「……というと?」
「命知らず……いや、自分の身を省みなさすぎる。傷を負っても今死ななければ構わない、と考えているようだ」
その言葉には、まさしく咎めが含まれていた。しかし、厳しい言葉と裏腹に、瞳は私を慮る色を帯びている。
「いいか、自分をもっと大事にしろ」
「……善処、しよう」
……正直に言えば、驚いた。
彼と私の関わりは、まだ浅い。出会ってまだ三日も経っていない、言葉をこれほどまで交わしたのもつい先程からだ。
なのに、私の考えていることを寸分違わず当てようとは。
「……やはり良い人だな、君は」
「いきなりどうした」
「いいや、なんでもないよ」
傷に薬を塗り終えて、彼は包帯を巻いていく。王子に手当てをされるという、なんともいえず奇妙な状況に笑ってしまいそうだ。
その様を見下ろしながら、私は彼に尋ねた。
「イデアーレ、君は心が奪われる前後の記憶を、どの程度把握している」
「どの程度……そうだな、マリカと共にこの近辺を荒らす魔獣を討伐し、城に帰って来るまでは、記憶がある」
つまり、記憶を奪った者の記憶はないということか。
推測だが、心を奪われる時に記憶も奪われたのだろう。私は頷きつつ、彼に次の問いをぶつけた。
「マリカか……彼女については、どう思う?」
「……こういうのも変な話だろうが、彼女は俺に興味など無い様子だったぞ。善い人だと言われはしたが、それだけだ。どちらかと言えば、相棒の竜、町の住民達に心を向けていた。今の彼女は別人にしか見えん」
手は淀みなく動きながらも、青い瞳は思案に耽っているのが見て取れる。やがて、包帯を巻く手が止まった。
「……狂わされて、いるようだ」
「鋭いな」
イデアーレの視線が、私を見据える。教えろと問う瞳に促されて、私は口を開いた。
「マリカは、正しく心を狂わされている。切欠は君の心であることは間違いないが、原因自体は別なのだろうと思っているよ」
「……先程からお前達の話を聞いていたが、俺には自分の心がそう良いものに思えないんだが」
怒っているのか照れているのか曖昧な表情で、イデアーレが呟いた。
「いや、君の心は紛れもなく、善い物だよ。私達魔女には些か眩しい程に。ただ……」
続きを口にしようとして、開きかけた唇を閉じる。
……ここで告げるのはやめておこう。彼にとっても、あまりいい話ではない。
「どうした?」
「……いや、まぁ……要するに、君の心は魅力的なんだ。それでいて魔女達を想ってくれている、となれば……マリカのように恋に酔うのも致し方無い、かな」
非常に微妙な表情を浮かべる彼に、曖昧な笑みを向ける。イデアーレは止めていた手を再び動かしながら、溜め息混じりに呟きを溢す。
「……穏便に解決、とはいかないか。出来るのなら、お前にも彼女にも傷付いて欲しくはないんだが」
「流石に難しいだろうな。……だが、なぜ?」
「マリカにせよ、プリマヴェーラ、お前にせよ。俺の国の民だからに決まっている。俺が守らねばならぬ民が、他ならぬ俺の心が欲しいからなどという理由で傷付くのは、我慢できん。それだけだ」
至極当然と言わんばかりに告げられた言葉に、息が詰まる。彼にとっては当然としか思えないその言葉が、私達にとってどれ程目映いものか、きっと彼にはわからないだろう。
……ああ、本当に。君は誠実な人だ。
「……プリマヴェーラ?」
「……そういえば、イデアーレ。君、武器は持っていないよな」
話を変える事にした。このままこの話を続けていたら、多分私はおかしな事を口走ってしまうから。
私の言葉にイデアーレは頷いた。王子だが、同時に戦士である彼だ。現在は武器を持っていないからか、些か心許ないのだろう、あからさまに変えた話題にイデアーレは乗ってきた。
「ああ、ソレッラが内密に連れ出したからな。ろくな武装もない」
答えた彼の目が、ほんの少し遠くを見る。もしかしたら、今の城の状況を思っているのかもしれない。ソレッラ姫の様子からして、王城で状況を正しく判断している者は少ないだろう。とはいえ、それに関して私が出来ることは、彼の心を一刻も早く取り戻す事くらいだ。
だから、私は懐から指輪を取り出して、イデアーレに差し出した。
「この指輪に、魔力を通せば形が変わる式を刻んであるんだ。君なら問題なく扱えるだろうから、渡しておく」
イデアーレは訝るような顔で、此方を見下ろしている。私は手を差し出したまま、小さく首を傾げた。
「どうしかしたのか?」
「……いいのか? 俺がこのまま表に出ていたら、確実に負担になると思うが」
「そこは問題ないよ。私は他の同胞よりも魔力の量が多いんだ。君一人くらいならなんとかなる」
もう一つの指輪を指につけながら、私は答えた。
……それに、魔力量で勝っていたとして、マリカに勝てるわけでもない。彼女は攻撃に特化している魔女であり、私では小細工抜きでは勝てないと断言できた。
それに、何より。
「意思があるのに自分の体を動かせず、他人にいいように操られるなんて、嫌だろう」
その言葉を聞いて、イデアーレが僅かに目を見開いた。
やがて彼は私の掌に置かれた指輪を受け取ると、それを強く握り締める。
「そうだな。あんなにも不愉快な経験は、後にも先にもないと思えた。……感謝する、プリマヴェーラ。ありがとう」
ひどく柔らかく笑うイデアーレに、胸の奥が痛んだ。その理由を、私はよくわかっている。
それでも、充分な報酬だった。この旅に出てよかったと、そう思える程度には。
***
夜明け前。
ようやくたどり着いた竜の住む山の頂上で、『竜の魔女』マリカは待っていた。首に下げた銀の鎖の先には、小さな小瓶がかかり、中には水晶のような破片が入っている。小さな欠片でありながら、その輝きはとても強く、放たれる光はあたたかい。太陽の欠片のようだと、思った。
白銀の竜に抱かれるようにして佇んでいた彼女は、熱に浮かされた瞳で微笑する。
「随分、早かったわね。てっきり逃げたのかと思ってたわ」
「たとえば、逃げたとして。君が見逃してくれるわけがないからね」
言葉を返して、目前の一人と一頭を窺う。マリカはともかく、彼女の友たる竜の方は正気を保っているようだった。瞳には理性的な光が宿り、私を見下ろす視線は何事かを訴えているように見える。頷いて見せれば、彼の瞳から微かな警戒が消えたのがわかった。
「ええ、そうね。貴女が殿下を連れて逃げたなら。多分、この子に頼んで燃やし尽くしてしまっていたわ」
その言葉は、事実だ。もしも、私がイデアーレを連れて逃げたなら、マリカは確実に私を竜の炎で燃やし尽くす。イデアーレ諸共に。
「さぁ、それじゃあ始めましょう―――」
「その前に、提案がある。殿下からの、強い希望だ」
「え……?」
今すぐにでも戦いを始めようとしていたマリカの動きが、殿下という言葉を聞いてぴたりと止まった。続けざまに、私は立てかける。
「殿下は、君が傷付くのを憂いておいでだ。だから、どちらかが死んで終わりではなく、明確な勝敗の条件を設定したい」
マリカの視線が困惑と歓喜に揺れている。
私の言葉が真実かどうか、見定めようとしているのがわかった。やがて、彼女は私を見据え、ゆっくりと首を縦に振る。
「……いいわ。その申し出を、受けましょう。勝敗の条件は、何かしら」
「君の首にかかっているその瓶を奪い取ったら、私の勝ち。私が瓶を奪う前に、君が私を気絶させたら君の勝ち。単純だろう?」
「……貴女からの申し出だもの、それで構わないわ。私には断る理由がない」
満面の笑みを浮かべて、彼女は言った。
「勝負は好きよ。自分が勝つ戦いであれば、もっと好き……! 楽しませてね、『万能の魔女』!」
「『竜の魔女』のご期待に添えるよう、努力はしよう」
答えて、前に進み出ようとして。
「プリマヴェーラ」
背後から名前を呼ばれて、立ち止まる。
私の後ろで佇んでいた彼は、マリカに聞こえないようにか殊更に低い声で私に告げた。
「前にも言ったが、お前も無茶はするな。いざとなったら、俺の心などどうでもいい。お前はお前を優先しろ」
「……前半はともかく、後半は聞き入れられないな」
「プリマヴェーラ!」
わかっている。この人は、私の身を案じてくれている。自らの心を、切り捨てようとしてくれている。
だからこそ、その言葉は受け入れられない。
取り戻すと決めた、必ず。
「心配いらない。私とて、何の勝算もなしに戦いに臨むわけではないさ」
そう言って振り返ると、イデアーレと目が合った。彼に向かって微笑んで、私は静かに彼に告げる。
「安心してくれ。必ず、勝つから」
「……っ」
青い瞳が僅かに揺れるのを見ながら、私はマリカの方へ向き直った。彼女は目を細めて、私を見つめている。
「……随分、仲が良いのね」
「彼は善い人だからね。君も知っての通り」
「そうね。でも、共にいる貴女には嫉妬するわ。……では、始めましょうか!」
マリカの言葉が終わるか終わらないかの所で、私は地面に片足を叩きつけた。刹那、私の周囲の地面が隆起し、槍の形を得てマリカに襲いかかる。
「あは!」
襲来する槍を、マリカは魔弾で迎撃した。砕け落ちる岩の槍。マリカが間髪入れず魔弾を数発放ってくる。横に跳んで回避すれば、追撃とばかりに巨大な魔弾が放たれる。魔力の霧で威力を殺すものの衝撃は殺しきれず、吹き飛ばされてしまう。加えて、更に光の尾を翻して、三発の魔弾が襲来した。
「っ……!」
霧を刃に変えて、魔弾を切り裂く。なんとか着地した所で、休む間も与えられずに魔弾が此方に向かってくるのが見えた。後ろへと飛び退りながら、霧を変質させる。
「ほらほら、まだあるわよ! 逃げなさいな、惑いなさいな!」
猫になぶられる鼠の気分だ。逃げども逃げどもきりがない。遮蔽物のない頂上では、逃げる以外の道がないのだ。魔弾から逃れつつ、私は最低限の霧を残し、残りを周囲に分散させる。
同時に、指を鳴らした。白い炎が魔弾を喰らい、更に巨大な炎の壁となってマリカを襲う。更に二度、指を鳴らす。
分散させていた魔力の霧をマリカの背後で収束させて、巨大な刃を造り上げた。
「あら、こわいこわい」
全く恐怖を感じていない素振りで、マリカが手を上げる。彼女の周囲で白い骨がくるくると踊り、かたかたと骨の塔を組み上げた。直後に炎が塔に襲いかかり、魔力の刃が白い塔に直撃する。だが、彼女の牙城は崩れない。
「お返しよ」
塔の一部分がスライドし、マリカの指先が露になる。その先端に魔力が収束されているのを見て、咄嗟に魔力の霧を目前に集中させた。刹那、先程以上の速さを伴った魔弾が私の霧に直撃し、その衝撃に吹き飛ばされてしまう。
「……やはり、強いな」
態勢を整えながら、マリカを窺う。彼女は楽しそうに笑いながら、此方の動きを観察していた。
「まさか、これで終わりではないわよね?」
「勿論。諦めるには、まだ速すぎる」
「うんうん、そう来なくちゃ。でないと、観戦する彼にとってもつまらない催しになってしまうもの。待たせている間は、少しでも楽しませてあげなくては」
楽しそうに、マリカは私の背後を見つめている。熱に蕩けた視線を見なくとも、そこにいるのが誰かなど、言わずともわかった。……イデアーレ、君は今どんな顔をしているのだろうか。
「……どうして、君はイデアーレに恋をしたんだ?」
ふと、問う。
特段意味の無い、思わず私の口から零れた問いだ。だから、答えなど返ってこないと思っていた。
「そうねぇ……どうして、かしら」
しかし予想外にも、マリカはその問に思考を巡らせ始めたのである。頬は紅潮し、瞳がきらきらと輝く様は、まさしく恋する乙女そのもので、なんとなしに眩しく思った。
「善い人だったわ。私達の事を考えてくださる、優しい方とも思った。でも、私……あの方が、私を庇ってくれた事が、私に怪我はないかと問いかけてくれた事が、私に怪我がなくて、真実安堵してくださった事が、きっと……あの方の事を知りたいと思った、最たる理由」
それは、狂乱に酔う彼女が口にするには、ひどく尊いものに思えた。恐らくは、恋に狂う前、彼女が本当に抱いた想いだったのだろう。
彼女は此方を見据える。恋に揺れてはいたけれど、強い視線だった。
「プリマヴェーラ、貴女は何故、殿下をお救いしようとするの」
「……ソレッラ姫に頼まれたからだが?」
「嘘。貴女の殿下に対する優先順位は高過ぎる。王族の依頼にせよ、何にせよ。彼の身を守るためだけに、魔力を半分も注ぎ込む、なんて……理由がなければ、出来ないでしょう」
……参った。思ったよりも、鋭い。
溜め息を吐く。彼女に思いの丈を吐き出させたのに、此方が何も答えないのは公平ではない、な。
「……確かに。君が考えている通り、私が彼を救おうとするのには、理由があるよ。君みたいな綺麗な想いではなく、ひどく独り善がりでつまらない、自己満足でしかない理由だが」
「随分と夢の無いことを言うのね」
「元々夢も希望もない女なんだ。すまないな」
そこまで言い捨てて、ほんの少しだけ私は笑う。
「それでも、私は彼を救うと決めた。だから、此処にいるんだ」
「……そう。それならやっぱり、貴女は私の敵ね。私は、彼がほしいもの」
会話は終わり、戦いが、始まる。
先程マリカに砕かれた岩の残骸を見据え、私は手を前に伸ばす。大小様々な岩の破片が浮き上がり、再度マリカに襲いかかった。
「また同じ事?」
彼女は先程と同じように魔弾を放ち、岩を砕く。しかし、彼女はすぐに差異に気付いたのか、俊敏に身を屈めた。その頭上を、先程砕かれた岩の破片が通り抜ける。
マリカが魔弾で砕けども砕けども、岩の欠片は襲いかかる。
「時間稼ぎの、つもり? 甘いわよ!」
マリカの足元から白い竜の骨が浮かび上がり、旋回した。くるくると回る骨がひとりでに組み上がり、白い壁を造り出す。壁が完成すると同時に、急速に充填が行われ、巨大な魔弾が放たれた。岩の破片を容易く飲み込み、巨大な魔弾が私を襲う。
「相も変わらず、威力も速射性も高いな」
地面を隆起させ、目前に巨大な壁を造り上げる。その間に魔力の霧を、マリカの周囲へと漂わせていく。
轟音と衝撃。土塊が勢いよく飛び散っていく中で、私の魔力を感知したらしいマリカが、骨の形を組み替える。半球体のような形をした、防護陣。
「ああ、たしかに……それでは私の霧は、突破できないな」
幾百の針でも、あの壁を貫けまい。硬質な刃でも、あの壁は切り裂けまい。竜の骨は、優れた武器にも防具にもなる。たかが十数年生きた私の拙い魔術では、突破出来ないのはわかりきっている。
「だが、いいのかな」
魔力の霧を壁の周囲に纏わせる。壁とはいえ骨を組み上げたもの。強固とはいえ僅かな隙間が存在した。其処から、魔力を充満させる。
「そこでは、君の逃げ場がないぞ」
懐から宝珠を取り出した。何かに当たれば火花を散らすだけの魔術式を刻んだ宝珠。周囲に魔力が多ければ多いほど、威力が上がるだけの珠。
「……!!」
マリカの表情が変わった。彼女が骨を組み替えるより速く、骨の壁に向かって宝珠を投げつけた。
かつん。思ったよりも軽い音が響いた、瞬間に。
白い壁を巻き込むようにして、宝珠が光と共に爆発した。
爆煙が白い壁を覆い、しかし強い風が吹き、黒々とした煙を空の彼方へ散らしていく。煙と爆風から逃れる為に屈んで、地面に両手をついた。
「これで終わってくれると助かったんだが」
呟いて、魔力の霧を呼び戻す。放たれた魔弾が、私の目前で弾けとんだ。心なしか威力が高いように見えるのは、錯覚ではないんだろうな。
「―――ええ、わかっていたけれど。貴女、容赦しないわね」
マリカが、呆れた声で言い放つ。
美しい髪や顔を煤にまみれさせて、それでも大した怪我を負っていない。
「当然だとも。自分より強い相手だ。容赦などしたら、それこそ失礼だろう」
そして、だからこそ。私は地面から手を引き抜いた。この黒く汚れた手を見て、マリカが目を見開いて飛び上がろうとする。
「勝つためならば、なんでもやるさ」
だが、彼女の足は動かない。
マリカの立つ堅い地面が、いつの間にか泥の沼へと変じていた。彼女の細い足はその中に引きずり込まれ、泥に埋もれていたのである。泥から脱しようと脚を動かす様が、此方からはよく見えた。
「貴女……っ! 最初からこれが目的だったわね……!!」
私は答えず、地面を蹴って走り出す。
泥から抜け出そうともがいていた彼女が、私を食い止めるべく魔弾を放つ。上空から襲来する光の球は、場違いな程に美しいと思った。私は目を見開いて、それをみる。
大丈夫、見えている。
今の私に出来るのは、ただ駆け抜けるだけのこと―――!
脚に力を込めて、跳ぶ。
背後で魔弾が着弾、爆発した。爆風を背に、私は更に駆け続ける。
「この……っ!!」
上空から降り注ぐ魔弾の他に、正面からも光が襲いかかった。だが、止まらない。魔力の霧を僅かに集め、魔弾の道筋を私から反らす。次いで、霧を刃に変えて魔弾を裂く。至近距離で光が散り、頬を焼いた。
「……は……っ!」
息を吸えば、焦げ臭い臭いが鼻につく。髪の毛が僅か、焼かれたらしい。
構うものか。距離にしてあと三十歩。そこまでいけば、決められるのだから……!
「そうね。あと少し、だったわ」
私を覆う檻のように、私を囲う鳥籠のように、光の球が並んでいた。前後左右上空に至るその全てに、光が鎮座している。いっそ、荘厳ともすらいえる光景だった。
「残念だけど、行き止まり。貴女の戦いは、ここで終わりよ」
進めば死ぬ、止まれど死ぬ。だから諦めろと、彼女は歌う。確かに、全方位囲まれたこの光の洪水の中を進むのは、不可能に思える。
「……いいや」
けれど、私は笑う。最後の力を振り絞るように、強く地面を踏み締めた。私の行動にマリカは目を剥いて、その瞳を敵意で満たして手を振り上げる。
「そう。ならば光に抱かれて消えなさい、プリマヴェーラ!」
光が踊るように動き、私との距離を縮めていく。
こんな時にも関わらず、いや、こんな時だからこそなのか、光の乱舞を綺麗だと思う。
脚を止めない。光へ向かって、走る、駆ける。迷いはない。
だって、もう―――視えているから。
踊るように、脚を差し出す。その間を、光の珠がすり抜けた。
毛先を焦がす、肌を焼く、私は走り続ける。七歩、八歩。それでも、光は当たらない。九歩、十歩。定められた場所を踏む。
光の数が減ると共に、マリカとの距離が更に詰まる。残り十歩。
光を、抜ける。
「―――」
マリカが愕然とした様子で、息を呑んだ。
切り傷だらけ、火傷だらけであろう私の体。きっと目も当てられないだろう。けれど、五体満足でそこにいる。
マリカの驚愕の表情が切り替わった。恋の色が消え失せて、涼やかでありながら、闘志の溢れる美しい表情に。
彼女は、全身全霊で脚を泥の沼から引きずり出して、地を蹴った。私へ向かって。
「まず……っ」
視えてはいるけど、私では体が追い付かない。咄嗟に歯を食い縛る。瞬間、鈍い衝撃が私の腹部を貫いた。
「あ、が……っ」
かひゅ、と肺から空気が押し出される。鳩尾に、マリカの細腕がめり込んでいた。重い、一撃だった。
膝をついて、顔を上げる。涙で揺れる視界の中、腕を振り上げて更に追撃を繰り出そうとするマリカと、目が合った。
この瞬間を、待っていた。
「あ……っ!?」
私が目を瞬いたと同時に、マリカが両目を押さえて体を揺らす。ふらふらと覚束無い足取りで私から離れようとしながら、彼女は低い声で呻いた。
「貴女、私に……何をしたの……っ!? どうして、私の前に、私がいるのっ!!」
私は答えず、腹部からの鈍痛に呻きながらも、手をマリカに向かって伸ばす。正確には、彼女の首にかかる小瓶へと。
「っ!」
その気配を察知したか、あるいはマリカに向かって伸ばされた手が見えたのか、マリカが俊敏に背後へ跳んだ。
「に、がす……か……!!」
痛みで散り散りになりかける意識をなんとか集め、魔力を集める。ある一点―――指に付けた銀の指輪へと。
どろりと指輪が形を崩し、別の形へと組み換わる。鞭のようにしなった銀の蛇が、マリカの首筋を掠めて鎖を裂いて、小瓶を食らうように奪い取った。
「……あ、」
マリカが小さく声を上げる。夢から覚めたような、そんな声で。
銀の蛇が形を崩す。鳩尾の痛みがあまりにもひどくて、私の集中が切れてしまったから。上空から落ちてくる、硝子の小瓶。諸々の衝撃に堪えきれなくなったのか、ついに小瓶が砕けて、中の心が落ちてきてしまう。
手を伸ばす、必死で。彼の心を落とすわけにはいかない。
「……っ」
落ちてきた心は欠けていたけれど、あまりにも綺麗で。少しだけ、心を奪われそうになる。空中をゆらゆら漂うように落ちてくるその欠片を、掌に―――
「―――触れては駄目!」
掌に収めたのと、マリカの心底焦ったような声が聞こえたのは同時だった。
***
どうして、ですか。
神様、嗚呼、神様。
あなたを恨みます。あなたを呪います。心から。
どうしてあの人を恋う気持ちを私に与えてしまったのでしょう。
どうしてあの人を想う資格を私に与えてくださらなかったのでしょう。
大好きです。優しいお方、お強いお方、私達を守ってくださるその後ろ姿に、憧れて。
ねえ、諦めようとしたのです。
清らかなお方、正しいお方。お美しいあの方の心に一片でも存在することができるのなら、それだけで幸せだったのに。
見て、しまったのです。聞いて、しまったのです。
優しい声で、柔らかな瞳で、私の知らないひとの事を話す、あの方のお姿を。
羨ましいと、思いました。妬ましいと、思いました。
だって、私ではどんなに思っても、どんなに望んでも、どんなに夢見ても手に入らないその心を、その方は得ることが出来るのですから。
羨ましくて妬ましくて憎らしくて許せなくて赦せなくて仕方がないのです。そう思ったら、止まらなくなりました。抑え込もうとしていたものが、全て、溢れ出してしまって。
こんなにもすきなのに好きなのに恋うているのに焦がれているのに憧れているのに想っているのに愛しているのに私では届かない私では触れられないあの方の心が体があの方の瞳が欲しいあの方の掌が欲しいあの方の声が欲しいあの方の想いが欲しいあの方の心が欲しいあの方の体が欲しいあの方の全てがほしいですほしいです欲しいですあのかたのすべてあのかたがほしくてほしくて欲しくて恋しているの想っているの心の底からだから欲しいの欲しいの全部すべてあますところなく欲しいほしい欲しいほしい好き好き大好きですだからほしいすべて欲しい全部ほしいあますところなく欲しいの愛しているからだから―――ぜんぶ、わたしのものに
「―――うるさい、黙れ」
……え?
「彼の全ては、彼のものだ。君のものなどではない、断じて」
***
ひどい気分である。
呪詛、妄執、怨嗟。そんな類の声に脳髄を揺さぶられたようなものだ。お陰様で腹部の痛みと合わせて最悪の状態である。
意識も僅か断絶していたようで、背中に触れる硬い地面の感覚が、私が倒れているのだと教えてくれた。頭と両掌には何やらほの温かい感覚。
……はて? 私の左手の内には彼の心があるが、それ以外の温もりは一体。
「……プリマヴェーラ、生きているな?」
「……なん、と、か」
目を開ける。目前にあるイデアーレの表情が、安堵に緩むのが見えた。彼の横には、私を気遣わしげに覗き込むマリカの姿もある。
「流石の君も、あの呪いは抵抗出来なかったんだな」
「私、本当に戦闘に特化してるから。触った瞬間に堕ちちゃったわよ」
それは、仕方ない。経験者で二人して頷き合う。あんなものを何の備えもなく受ければ、ああなるのも致し方ない。
「……プリマヴェーラ、マリカは……」
「ん。お察しの通り、正気に戻っているよ……っ!」
起き上がろうとして、腹部の鈍痛でイデアーレの膝の上に逆戻り。マリカが苦い顔で、私の体を支えてくれる。
「ごめんなさい。貴女が予想以上に強かったから、本気になってしまって……」
「いや、君に非はないよ。提案したのは私だから、君の攻撃は正当だ」
……とはいえ、痛いものは痛いのだが。
だがマリカの恐ろしい所は、鳩尾の攻撃があくまで私の動きを止める為だけのもので、もしあの時無防備だったならとどめの一撃が来たというところだろう。あの時腕を振り上げていたが、あれがどんな攻撃に続いたかなどと、想像するだに恐ろしい。マリカは次いで、イデアーレに頭を下げた。
「殿下、その……今回の件、本当に申し訳ありません」
「構わない。むしろ話を聞く限り、お前も被害を受けた側だろう」
マリカが困った顔をしている。彼女とイデアーレの手を借りてなんとか立ち上がったものの、これは、予想以上に鳩尾が痛い。歩くのはまだ無理そうだ。
……しかし、やるべき事をしなければ。
「イデアーレ、今から君の心から奪われた部分を、君に戻すよ」
「……随分と性急だな。俺は、お前がもう少し回復してからでも構わないが」
「どんな事が起こるかわからないからね、善は急げだ」
……そう、どんな事が起こるかわからないのだから。
「今、ドラコに頼んで薬を持ってきてもらっているの。殿下の心を戻したら、治療しましょう?」
私の言葉に訝るような表情を浮かべたものの、反論する言葉もなかったらしい。マリカの発言もあってか、視線で私を促した。
「イデアーレ、私の前に」
左手の内にある心の欠片を確認する。遠目に見ると水晶のようだと思ったが、間近で見るとオパールに近い。透明な石の合間に、虹色がきらきらと輝いている。
「……些か、奇妙な気分だな。自分の心を見るというのも」
私と同じように欠片を見下ろしていたらしい。イデアーレがぽつりとそんなことを呟いた。
「自分の心に欠落したと感じることもなかった。本当に、それは俺の心なのか」
「ああ。これが君の心だよ、イデアーレ。何を司る心なのかは、私にもわからないけれど」
欠落を感じなかったということは、未だ彼のなかで未発達な部分なのかもしれない。あるいは、彼の中でも無自覚なのか。
思考しつつ、首を横に振る。
「すまない。もう少し気の利いた言葉を口に出来ればよかったんだが」
「いや、いい。充分だ。……プリマヴェーラ、ありがとう」
目を閉じた彼の胸に、左手を押し当てた。
視界を、切り換える。歪にひび割れた彼の心が見えた。
左掌に魔力を通す。ひび割れた彼の心と、私が持つ彼の心の欠片を融かすように。二つに分かたれた心を溶かし、一つの心に戻していく。二つの結晶がとろりと溶けて、混ざりあって、固まって。気分だけなら、鉄を打つ職人だ。
「……よし」
掌で彼の心を撫ぜる。
僅かなひび割れもなく、歪みもなく、彼の心は一つに戻っていた。
「イデアーレ、目を開けて」
イデアーレの瞼が揺れて、青い瞳が露になる。しかし、それ以上反応がない。様子を窺っていたマリカが不安げに問いかけてくる。
「プリマヴェーラ、殿下は……」
「心は元に戻ったが、共に奪われていた体の主導権……とでもいうのか、それが体に馴染むのに時間がかかっているんだと思う」
だから、暫くすれば動けるようになる筈だ。そう、思っていたのだが。
イデアーレの手が伸びて、私の頬に触れる。輪郭に添うように頬を撫でるその掌はまだどこか冷たかったけど、瞳にはどこか奇妙な熱を帯びていて。
「……イデ、アーレ……?」
暫し、見つめ合う。掌に私の頬の熱が移っていくけれど、彼の瞳に魅せられたように動かなかった。動きたく、なかった。
しかし、その静寂を切り裂くように、鋭い声が響き渡った。
「動かないでください!」
マリカと二人、振り返る。
其処に居たのは、二人の兵士を引き連れた姫君の姿だった。
「……ソレッラ姫」
私の言葉に、マリカが戸惑ったように此方を見る。
「え、姫様……? でも、彼女……」
「プリマヴェーラ様、お兄様のお心を取り戻してくださったのですね……本当に、ありがとうございます」
ソレッラ姫が微笑んだ。その横で、兵士が剣を抜いて前へと進み出てくる。物々しい雰囲気に、目を細めた。
「『竜の魔女』マリカ。殿下を傷付けた罪で、捕らえさせてもらう。山の中腹には、部下達が控えている。逃亡も抵抗も無駄だ」
兵士が、ひどく高圧的で感情も伴わない声で告げる。
マリカは特段反抗しなかった。むしろ、目を伏せてその言葉に頷くと、ソレッラ姫と兵士の前に歩み寄ろうとする。
「……ええ、そうね。私が殿下のお心を返さなかったのは、事実ですもの」
一歩足を踏み出した彼女の腕を、私は掴んだ。驚いて此方を振り返るマリカを見ず、強く腕を引いて彼女を後ろに下がらせる。腹部の鈍痛を無視して、目を兵士の方に向ける。
「彼女はイデアーレ殿下の心を奪ってはいないよ。むしろ、マリカは被害者だ」
「貴様、何を言って……」
「悪いが、君達は邪魔だ」
言い捨てて、目を瞬いた。瞬間に、兵士の体が傾ぎ、盛大な鎧の音と共に地面に崩れ落ちる。もう一人の兵士も剣を抜く前に、目を合わせて昏倒させた。
「プリマヴェーラ様、何を……!?」
「―――茶番はもう構わないだろう、ソレッラ姫」
鎧の反響音が響く中、狼狽える姫君を見据えて、私は冷ややかな言葉を突きつける。
「君がイデアーレの心を奪った張本人なんだから」
兵士達は昏倒させた。中腹の兵士達が来るにも、まだ時間がかかるだろう。今、此処にいるのは、騒動の中心となった者達だけだ。
ソレッラ姫が青い瞳を揺らしながら、震える唇を開いた。
「なにを、仰っているのです」
「君は知らないだろうが、私達魔女は同胞の存在を見ただけで魔女と認識できる。だからこそ、はじめからわかっていた」
「プリマヴェーラ、様。……確かに、私は魔女です」
背後でイデアーレが息を呑む音が聞こえる。おそらく当人以外、知らなかったのだろう。
不安げに兄を見て、それから気丈な表情で此方を見上げてくる彼女は、本当に可憐だった。彼女を疑う者など、そうはいまい。
「けれど、私がお兄様の心を奪う理由など、どこにあるのですか。私がお兄様の心を奪ったのなら、どうして私は貴女の元を訪れたのですか。……私がお兄様の心を奪った犯人ならば、行動が矛盾しています」
「言った筈だ。はじめから、わかっていると」
淡々と言い捨てて、しかし、それでは何の説明になっていない事に気付き、私は姫を見据えて口を開く。
「君がイデアーレを連れて、二人だけで私の森にやって来た時点で、君が犯人だとわかっていたよ。王都の他の魔女が犯人ならば、君がイデアーレを連れていこうとしていた時に、妨害するか、助力を申し出ていた筈。そうすれば、君さえ始末してしまえば、イデアーレを誰の目にも触れられず、行方を悟られる事もないまま、自分のものに出来るのだから」
長々とした言葉を連ねても、ソレッラ姫は答えない。いつの間にか俯いて、長い髪が緞帳のように垂れ下がっているせいで、その表情は窺い知れない。
「それに今、君が魔女の性質を理解していなかった事で、彼の心を奪った術が何故あんなにもお粗末なのかわかったよ」
「…………」
「君は、まだ魔女として覚醒したばかりなんだな。魔術を発動したのも無意識下の内で、だから、君は心の戻し方がわからなかった……と、ああ。質問に答えていなかったか。君の行動の矛盾、その理由は単純だ」
怨嗟の声を聞いた。妄執の声を聞いた。
お陰で、答えはあっさりと導き出せた。
「彼の心と、体。完全な形で欲しかったんだろう?」
幼い少女の体が、初めて反応を示す。びくりと震える華奢な体を見下ろしていると、背後からマリカが問いかけてきた。
「プリマヴェーラ。……ソレッラ殿下は、イデアーレ殿下の妹君よね?」
「ああ」
「実の妹の、筈でしょう?」
「――妹が兄を愛して、いけない事がありますか」
答えたのは、私ではない。
静かな声だったのに叩き付けるような響きを伴って、その音は私達の鼓膜を響かせた。
敵意が滲む瞳を最早隠そうともせずに、ソレッラ姫は私達を睨み付けている。
「わかっています。この想いは間違いだと、何よりも私が、理解しています。この想いを告げたなら、きっとお兄様は私から離れていくという事も」
恋や背徳に惑う瞳が、寂しげに兄に向けられる。
背後にいる彼の反応は、私からは見えなかった。
「お兄様は、王子として誠実に生きようとしておりました。妹である私を、女として見てくださることなんて無いのだという事も、わかっていました。いっそ、色事に狂う方だったなら、ここまで悩むことはありませんでしたのに」
彼女はそんな、ありもしない願望を口にする。確かに、色事に狂う者だったなら、可憐な美貌の妹姫に手を出したかもしれない。だが、そんなだらしのない男に、ソレッラ姫が惹かれる筈がない。
彼女自身わかっているのだろう、自嘲気味に微笑んで言葉を続けた。
「だから、この想いを圧し殺して生きていこうと……お兄様の心に、妹としてでも存在しているだけで幸せだと、思い込もうとしたのです」
「だが、その蓋は、外れてしまった」
姫が小さな両手で顔を覆う。震える体は、歓喜か、悲哀か、あるいは怒りか。
「……魔獣討伐からお戻りになられた後の事です。二人で話を致しました。魔女の方と直接関わりになったのは二人目だと、仰って。他愛ないお話で、終わる筈だったのに。最初に関わった魔女の方が、自分の指針になったのだと、そんな言葉を聞いてしまったから」
指の隙間から見えた、ソレッラ姫の瞳は。
可憐な姫君とは縁遠い、深く暗い嫉妬の色に満ちていた。
「優しい声でその方の思い出を語っておりました。柔らかな瞳でその方の思い出を振り返っておりました。その声を向けられることが羨ましかった、その瞳を向けられることが妬ましかった。その方ならば簡単にお兄様の心を得られるのが、許せなかった。……私が、」
血を吐いている。そう錯覚してしまいそうな程、彼女は悲痛な叫び声を上げた。
可憐な、理想の姫君としての姿が剥がれ落ちて、剥き出しの彼女の心を私達に曝すように。
「欲しくて欲しくてたまらないものなのに!!!」
「……それは、些か早計というものではないのか?」
思わず、問う。
「思い出は、あくまで過去だろう。何故そんなにも固執する」
「……お兄様の顔を見れば、わかります。今は未だ思い出のひとでしょうけれど、もし、その方に出会ったのなら……お兄様はきっと、その方に恋をする。」
ソレッラ姫は、それに耐えられなかったのだ。
ある意味、可哀想だと思う。
「イデアーレの心を奪ったのは、その時だな。……だが、何故マリカを巻き込んだ」
「……気付いたら、兄の心はどこかへ消えていたのです。だから、巻き込んだのではなく、巻き込まれたという方が正しいです」
「違う、そこではない。何故、今マリカを巻き込んだのかと聞いているんだ」
きょとんと首を傾げたソレッラ姫の顔に、華やかな笑みが浮かんだ。
私の問いに面白そうに笑いながら、彼女は軽やかな声で答えを口にする。
「だって、この出来事には犯人が必要ではないですか。この出来事は内密に解決させないと、お兄様の心、元に戻さないと」
姫君は甘く蕩ける瞳で、陶酔した声で、歌う。
その姿に反するように、私の心は冷えていく。
「―――綺麗な心、奪えないではないですか」
「……え」
背後からマリカの声が響く。
「殿下の心を元に戻す為に、プリマヴェーラを頼ったのではないの?」
「そもそも前提からして違うんだよ、マリカ。彼女が私を頼ったのは、イデアーレの心を元に戻して、その上で彼の心を全て奪うためだ」
そう、前提からして違うのだ。
ソレッラ姫が私の元に訪れたのは、完全な形でイデアーレの心を奪う為に、イデアーレの心を元に戻したかったから。心を元に戻すというのは結果ではなく、彼女にとってはあくまでも前提なのである。
マリカが絶句した目前で、ソレッラ姫が微笑んだ。
「だって、欲しかったんですもの。お兄様の心と、体。……分けてしまえば、私一人だけのものになるでしょう?」
その論理は破綻している。その倫理は瓦解している。
ソレッラ姫はわかっていない。恋に堕ちている彼女は気付いていない。
私の背後にいる男が、どんな表情をしているのか。
「―――ソレッラ姫」
私は誰よりも速く、口を開いた。
ソレッラ姫の瞳が此方を見る。砂糖菓子のように甘い色を浮かべる瞳を撃ち抜くように、彼女にとって残酷な事実を口にする。
「君の恋は、実らない。その想いは、報われない」
「……え?」
姫君の瞳に、冷たい水が注ぎ込まれたようだった。甘く濁っていた陶酔から唐突に覚めたらしく、ひどく綺麗で透明な瞳でこちらを見やる。
「彼が兄だからではなく」
「……いや、やだ……やめて……!」
「彼の心を奪ったからでもなく」
「……貴女、貴女は……何を言おうとしているの……!? やめてっ!!」
努めて言葉は冷徹に。
それでいて確実に、彼女の逆鱗に触れるように。
「姫君が自らの欲望の為に、民を利用した。その浅慮故に、君の恋は彼に認められない」
「もう、黙ってええええっ!!!!」
絶叫したソレッラ姫から、黒い矢のような何かが放たれる。私との戦いでもあまり疲弊していないマリカですら、反応できない速さで。
……ああ、成程。それでこの結末か。
太股に一つ、腹部に一つ。黒い矢で、貫かれて。
どうにも腹部に厄が集まるなあなどと、激痛に霞み始めた意識の中で思う。
そして、黒い矢の最後の一つは、心臓を、
***
私はこの結末を識っていた。
正確にはソレッラ姫がイデアーレを伴って現れた、その時に。その上で、この結末を選んだのだ。
だから、後悔はしていない。
……ただ、ほんの少し、名残惜しさがあるだけだ。
***
豪奢な装飾が為された家具の類に、体が沈む程柔らかな寝台。羽のように軽い布団、と。私の収入では一生かかっても手に入りそうにない物の数々が置かれた部屋に。
「……一体どういう状況だ、これは……」
私は何故か、寝かされている。
身体中は包帯まみれ、傷はすごく痛いものの、それでも一応生きていた。
「貴女が倒れた後、すごかったのよ」
そう言ったのは、目覚めた時私の傍らにいたマリカの言である。此処が王城の一室で、あの日から三日過ぎているということも教えてくれたのは、彼女だ。
寝台の上で上体だけ起こして、彼女と会話する。
「あの時貴女の心臓に当たりかけた矢を、殿下が弾いたの。相変わらず、惚れ惚れしてしまう剣捌きだったわ」
「いや、待て。彼は武器を持っては……いたな、そういえば」
彼と話したその日、確か護身用として武器に変える指輪を一つ渡していた。使えるだろうと思って渡しはしたが、まさか本当に使えるとは。
暖かい日差しが窓から差し込んでいるのを眺めていると、マリカが緑色の液体を差し出してくる。高級品だろうティーカップに真緑の液体が入っているというのは、それだけでも冒涜的な光景である。というか……これを飲めと?
「でも、致命傷は防いだけど、お腹に当たった傷が予想以上に速く広がって……貴女、あの時保有してた魔力が半分も無かったから、ソレッラ殿下の魔術に抵抗出来なかったのね。ささ、ぐいっと飲んじゃいなさいな」
「……私、何故生きているんだ?」
聞けば聞くほど、私が生き残ったのが奇跡的な出来事のように思えてくる。いや、実際奇跡なのだが。
真緑の液体に口を付ける。……あ、これは一気に飲み干さないと駄目な奴だ。非常にまずい。
苦みとえぐみがひどいティーカップの中身を飲み干して、ナイトテーブルに置く。マリカに目を向けると、彼女は水差しと薬を持っていた。
「それは勿論、殿下が貴女に与えられていた魔力全部、貴女に返したからに決まっているじゃない」
「……相変わらず、天才的だなぁ。他人の魔力を、あんなにも容易く扱える人間などいないぞ」
「全くよね。ああ、でも流石に普通に返すのは無理だったから、緊急措置をとらせてもらったのだけれど」
事後承諾でごめんなさいね、とマリカは悪戯っぽく笑んだ。薬を飲んでいる間に、彼女の表情が切り替わっていた。ひどく真摯な表情で此方を見据える彼女に、私自身の背筋が伸びる。
「プリマヴェーラ、貴女はどこまでわかっていたの?」
言葉尻は疑問の形を呈していたけれど、彼女の瞳には確信が宿っていた。私は首を縦に振って、その問いに答えを返した。
「どこからかと問われれば、はじめからだ。ソレッラ姫が魔女であることも、彼女が今回の件の犯人であることも、私が死ぬことも、はじめからわかっていた」
「……戦っている時から思ってた。貴女の魔術は、眼を介した魔術に関しては、異様に速いって。それに、私が肉弾戦に切り替える直前の動き……」
……察しが速くて助かるな。
私は目を閉じる。閉じたままでも、マリカの表情を視ることが出来た。
「私は『みる』魔術に特化した魔女だ。遥か遠くの場所を見る、近くのものを拡大して見る、他人の状態を診る、普通では見えない物をみる。可能性を視る、過去を視る」
ここまで言えば、誰だって察しはつくだろう。
目を開ける。マリカはまっすぐに、此方を見据えていた。
「―――未来を、視る」
『万能』と謳われてはいるが、その実私は万能ではないのである。
ただ一点に特化した魔術を一つ保有するだけの、ただの魔女。
「……私の攻撃をかわしたのは、やはり未来視?」
「あれは、意識して自分が死ぬ未来を視続けて、自分の死なない場所を探り当てたという……単純な荒業だ。その後の魔術は、君の視界を私の視界に同調させた」
「……他の、魔術は」
「私自身の可能性を視て、人並み程度に使えるよう鍛えただけだよ。君との戦いで見せた魔術だって、十年かけてやっとあの程度だ。しかも、私はみる魔術以外は極められなくてね。『万能』というか、器用貧乏だ」
まぁ、そもそも。『万能の魔女』などという名前を広めたのは、国王陛下なのだが。そんなとりとめのない事を考える私と対照的に、マリカは悲痛な表情を浮かべていた。
「……いつから、発現したの?」
「十一年前だから……私が七つの時だな。ある人の、未来を視たよ」
「そう……」
彼女はそれ以上何も問わず。
ただ、私の肩を抱いて、助けてくれてありがとうと囁いたのだった。
***
「やあ、今回は息子と娘が迷惑をかけたね!」
非常に爽やかに、非常に明るく、その方は仰った。
時刻は真夜中。誰がどう考えても、就寝時間である。私とて寝起きだ。
「……供も連れずに何の御用ですか、陛下」
「相変わらず冷たいなぁプリマちゃんは! そういうところも可愛いと思うけどね!」
「奥方様に祟られますよ」
「うんうん、全然大丈夫だよ。もう呪われているからね!」
……あ、やっぱりそうなのか。
意識が少しだけはっきりする。陛下は私が眠る寝台に座り、私を見下ろしていた。上体を起こして、彼を見つめる。
「少しだけ納得致しました」
「うん?」
「ソレッラ殿下が魔女で、イデアーレ殿下が人間で、しかも男性であるにも関わらず、魔力をあんなにも容易く扱えた理由です。……奥方様は、魔女だったのですね」
人間の女性が魔女になるということは、実はあまり無い。
魔女の血を引いている者が魔女になる。母方の血筋が魔女でなくとも、父方の血筋が魔女であれば、生まれてくる娘は魔女になる可能性が高くなる。単純な話だ。
陛下は答えない。それこそが答えと告げているようなものだ。私は目を伏せて、次の問いを口にする。
「……ソレッラ殿下は、どうなりましたか」
「あの子は義姉の修道院に送ったよ。名目は療養。義姉さんに魔女としての教育や諸々を、しっかり教え込んでもらう予定だ」
陛下はそこで寝台から降りると、私の横に膝をつく。
「プリマヴェーラ、本当にすまなかった」
「……いいえ、そんな事。今まで陛下には充分良くして頂いております」
例えば、森に館を用意していただいた事。
例えば、私に『万能の魔女』という立場を与えてくれた事。
例えば、本来不敬にて断罪されるべきにあった私を、重用してくれた事。
今まで陛下にしていただいた事に比べれば、大した事ではないだろう。
私の答えに、陛下が苦笑を零す。
「プリマちゃんは本当、欲が薄いなぁ。この国の国王が頭を下げているんだ。もっと我儘言ってもいいのに」
……我儘、ねえ。
それならばと、私は口を開いた。
「この国は、何故魔女に寛容なのですか? 国外の状況は、貴方とて御存知の筈です」
「あ、君の我儘ってそういう方にいくんだ」
茶化すような言葉に、少しだけ眉を寄せる。此方はこれでも真剣なのだが。私の不服に気付いたか、陛下は再び寝台に座ると、静かな声で語り始めた。
「私から大体五代くらい前に遡るんだけどね、飢饉と疫病に見舞われたんだよ。でも、その国の中で一つだけ、飢饉と疫病の影響を受けていない村があった。山の中腹に存在した、小さな村だ。そこには、一人の魔女がいたんだよ」
「……魔女……」
「当時の国王は愚かにも兵を送り、その村から物資を略奪した。健康な家畜、病に強い穀物、薬……逆らう者は皆殺された。けど、流石に魔女も黙っていなくてね。山の入口に塔を建てた。国王は兵を送り込んだけど、返り討ちだよ」
「……でしょうね」
その魔女も殺すつもりで造り上げた塔だ。たかが人間が集った所で殺されるだけだろう。陛下は肩を竦めて続けた。
「薬も麦も家畜も貴族にしか配らない。しかもその魔女の一件で、国民は若い働き手を亡くしたわけだ。後はもう、わかるだろう?」
「革命ですか」
「そうそう。国王は断頭台送りだし、周囲の取り巻きも似たようなものだ。ひどかったらしいよ、その頃。国土も半分奪われたし……ああ、件の搭、隣国にまだ残ってるよ。『願いを叶える』って触れ込みで」
……話が脱線している。陛下もその事に気付いたか、さらりと話を戻していった。
「私の直系の先祖はね、危うく断頭台送りにされる所を一人の魔女に助けられたんだよ。お陰で断頭台送りから免れるだけでなく、疫病や飢饉の対応も請け負ってくれてね、国王の座にも就かせてもらった」
「それで、ですか?」
「国王一人の命ならともかく、この国の血脈を絶やさないでもらった大恩がある。この国での自由なんて、まだまだ足りないくらいだろう。君達には感謝しているんだ、本当に」
私の頭を軽く撫で、国王陛下は柔らかく微笑んだ。
……イデアーレやソレッラ姫と、あまり似ていないなと思う。彼等は母親似だったのだろう。
私の考えている事に気付いたのか、陛下は茶目っ気を宿した瞳で問いかける。
「そういえば、イデアーレと会ったろう? 久しぶりの再会はどうだった?」
「……誠実な方です、あの時と変わらず。善い王に、なるでしょうね」
答えは端的なものになってしまったけど、真実だ。
彼は変わらず、誠実な人だった。少しだけ、責任感が胸を刺す。
「……ん、んんー……そういうことを聞いているわけじゃないんだけどね」
「……? 個人として言わせてもらうなら、好きですが」
「へえ! ほんと!?」
……なんだろう、この食いつきのよさは。
陛下の言葉に、溜め息混じりに頷いた。
「ええ、まあ。二度も命を救っていただい事もそうですが、彼は私の事を終始慮ってくださいましたから。好意を抱くのには、充分では?」
「でも、そんなに関わる気が無いんだろう?」
「ええ、そのつもりです」
私は、彼と関わるべきではない。それは常々思っていた。
思っていた、のだが。
脳裏に過るあの時の彼の瞳と、私の頬を撫でる掌の感覚が、妙に忘れられなくて、困る。
「プリマちゃん、良いことを教えてあげよう」
「……はい?」
「イデアーレは確かに誠実だけど、その前に男という事を忘れてはいけないよ。君のそんな顔を見たら、あいつはどんな事をしてでも君の心を手に入れようとするだろうから、ね」
……はて、そんな顔?
私が内心で首を傾げたのと、部屋の扉が大きな音と共に開かれたのは同時だった。陛下と同時に顔をそちらに向ける。
イデアーレが非常に冷ややかな、しかし隠しきれない怒りの表情で陛下を睨み付けていた。
「……父上」
「おっと、邪魔者は退散だ。じゃ、プリマちゃん、せめて怪我が治るまでは此処にいてくれよ。話したい事もあるしねー」
現れたのが突然なら、帰っていくのも突然だった。
非常に楽しそうな声で私に別れを告げると、イデアーレの横を通り過ぎ、さっさと部屋から出ていってしまう。それを厳しい目で見送って、彼は此方に歩み寄ってきた。
「……夜分遅くにすまない。父上に妙な事はされていないな?」
「ああ、いや……大丈夫だよ」
妙な事、とは?
首を傾げる私に対し、「謀ったな」とイデアーレがやたらと低い声で呻く。しかし、すぐに父王の事は脇に置いておく事にしたらしく、私に向き直った。
「傷は、痛むか?」
首を横に振る。いや、本当は痛いんだが、マリカがくれた薬のお陰で傷はもう癒え始めているし、正直に言うと彼は責任を感じるだろうから。
イデアーレが溜め息と共に、私の二の腕に触れる。痛みに揺れた体を見て、二度目の溜め息を吐く。
「……嘘なら、もう少しマシな嘘をつくんだな」
「う」
言葉に詰まる私を見て、少しだけ彼が笑う。
だが、すぐにその笑みが消えて、真剣な表情が露になった。
「……今回の件、お前には迷惑をかけてしまったな。命まで危うくさせて……すまなかった」
「いや、構わないよ。視えていたから、私が死ぬこと自体は折り込み済みだったんだ」
むしろ、助けてくれた事に感謝したいと、言うつもりだったのだが。
予想外にも、イデアーレは目を細めたのである。あ、これは怒っているなと、理解した瞬間に肩を掴まれた。
低い声で、彼が囁く。
「……はじめから、死ぬつもりだったな」
どうやら今宵は満月らしく、窓の外は夜なのに明るかった。
お陰で彼の表情はよく見えた。真剣な表情で私を見つめている彼の瞳には怒りと、それとは別の感情が宿っている。私でここまで見えるのだ。私の表情も、彼からはよく見えた事だろう。
「死にたいわけでは、なかったけどね。視えた未来は三通り。私が死なない未来は一つもなかったんだ」
だから、選んだ。私以外の誰も死なない未来を、進めるように。
私の言葉を聞いて、イデアーレは寝台に座る。近くなった距離で、微かな声で呟く声を聞いた。
「馬鹿だな、お前は。ソレッラの依頼など請けず、逃げてしまえばよかったんだ」
「…………だって、そうしたら君を救えないじゃないか」
思わず言い返す。小さな声で言ったつもりだが、まあこれだけ近ければ聞こえるのも当然だった。
イデアーレは私を見て、問いを一つ投げ掛けた。
「プリマヴェーラ、お前が俺を救おうとした理由というのを、聞いても構わないか」
「……前にマリカに言った通り、ひどく独り善がりでつまらない、自己満足極まりない理由だよ?」
「構わん。そもそも、お前が自分の命を使ってまで俺を救おうとした事が許せんのだ。理由を聞くぐらい構わない筈だ」
そこまで言った彼は眦を吊り上げて、僅かに怒りの籠った声で私を叱りつけたのである。
「……というより、俺は自分を大事にしろと言って、お前はそれに頷いたのだから、もう少し生き残る努力をしろ」
そんな理由で怒ってくれていたのか、この人は。
……参ったな。これだと、話さないわけにはいかないじゃないか。
***
それは、もう十年は昔の話だ。
私は捨てられた子供だった。
魔女だから、というよりも。他人には見えないものが見えすぎる故に、誰の手にもつけられなかったから、捨てられた。
仕方ない事だと思う。なんせ、町に行けば発狂に等しい状態になる子供なんて、誰だって助けようとは思わない。
昔と今と、今と先とを行ったり来たり。
人がいる場所になんていられない。
だから、森の奥深くで、獣のように暮らしていた。
両目がいつも燃えるような熱を帯びていて、人の姿を視ることを恐れていた。怯えていたのだ。
そんな、ある日。
私は、ある人と出会った。
纏う服は高級品。多くの男達を引き連れて、冷めた目で森を歩いていた。
彼を一目見て、私は、二つの結末を視た。
―――ひどく冷めた表情で、魔女達を惨殺する暴虐な男としての結末と。
―――とても華やかな表情で、魔女達と笑う統治者としての結末を。
「あなたの、未来を視た」
思わず飛び出して、そんな言葉を告げた私に、兵士達は剣を向けた。当然である。薄汚れた服に体、野人めいた子供の戯言なんて、端から意味の無いものだ。けれど、彼は兵士達を止めると、私の目をしっかりと見つめて聞いたのである。
「未来をみたと、言ったな。お前は俺に、何を見た」
「あなたが良き王になる光景を。正しい道を、進み続ければ」
嘘ではない。私が視た未来の一つはまさにその道で、そして、彼には絶対にその道を進んでもらわなければならなかった。
彼は私に近付いて、自らが羽織っていた外套を私に被せながら、無感動に問いかける。
「その正しさというのは、誰にとっての正しさだ。世界か、国か。それとも、お前にとっての正しさか」
その、言葉で。その態度で。
私は、悟る。これまでろくに言葉を紡がなかった口からは、思ったよりもすらすらと言葉を紡ぐことができた。
「あなたは、あなたが思うよりもずっと誠実で、正しい人だ」
こんな私の、妄言めいた言葉を聞いてくれた。
薄汚れた私に、しっかりと目を向けて。
冷めた目の、君。でも、心の底にあるのは、冷たさとは対照的なものだ。
「だから、あなたにとっての正しさを、あなたの信じる道を、進めばいい」
そう告げる中で、私は、私の犯した過ちを視た。
彼の結末を二つ、視た。だが、会話する中で視えた光景は、笑う王様の姿だった。私が口出しするまでもなく、彼の未来は定まろうとしていたのだ。
そして、もう一つ。
私にはずっと、彼の姿が大きくて強い男の人に見えていた。
けれど、彼と話す内、今までずっと燃えるように熱かった目から、すぅっと熱が引いていったのである。
そうして見えた彼の、本当の姿は。私より少し年上だろう、少年だったのだ。
幼い子供。数多の可能性に満ちた希望の塊。
彼の周りでも、きらきらといくつもの可能性が輝いていたのに。
その煌めきが消えていく様を、私は直視することになった。
「ぁ―――」
その瞬間に、悟ったのである。
私が口を出したから、この人は、王様になる道しかなくなった。
私が、この人の可能性を潰してしまったのだと。
……だから、決めたのだ。
もしも、この人が自分ではどうにもならない危機に陥ったのなら、どんなことをしてでも助けようと。
こんな事、ただの自己満足だとわかっている。
それでも、この人に報いたかったのだ。
***
……ああ、全部話してしまった。
イデアーレは無言で此方を見つめている。その視線があまりにいたたまれなくて、両手で顔を覆い、イデアーレから顔を隠す。
話しながら思っていた。なんという、自己満足。なんという独り善がりな責任感。よりにもよって、十年間抱え続けた馬鹿げた決意を、彼自身に話してしまう羽目になるなんて。
「……プリマヴェーラ、此方を向け」
「……嫌だ、無理だ。いくら君でもそれは聞けない」
これは異常に羞恥心を煽る行為だと、理解した。
こんなに恥ずかしい事、もう二度とやるものか……!
「いい加減、此方を見ろと言っているっ!」
「あ、ちょ……っ!」
両手を掴まれ、顔から引き剥がされる。傷には当たらないよう掴んでくれたのは、彼なりの配慮だろう。その配慮よりも、今は私を放っておくという優しさの方がありがたい。
だが、思った以上に近い所にあるイデアーレの顔に、思わず息を呑んだ。
「……いいか、プリマヴェーラ。お前はそもそも勘違いをしている」
「かん、ちがい」
「お前は、お前が俺自身の可能性を定めたと言っているが、それはそもそも間違いだ」
……彼は、何を言って。
目を瞬いた私に青い瞳を真っ直ぐに向けて、イデアーレは口を開く。
「……馬鹿な子供の話をしよう。何でも出来る故に、物事に特別な価値を見出せなかった愚かな子供が、ある日、未来をみるという魔女に出会った」
「え……それ、は」
「その予言に特に感慨は抱かなかった。ただ、その後に告げられた言葉が、子供には衝撃的だった。初めて出会った魔女にそんな事を告げられた事もそうだが、断言したその言葉のあたたかさと、直後に悔やむような表情を浮かべたことが、ずっと記憶に残っていた」
先程私が話した昔話と重なるようで、どこか違う昔語りを終えて、彼は私の腕を離した。私は離された腕で顔を隠すわけでもなく、ただ茫然と彼の瞳を見つめている。イデアーレは先程と変わらず、私を見据えていた。
「お前の言葉があったから、俺は王になろうと決めた。お前の言葉は、指針だった」
彼の胸に揺れているのは、再会したその日に私が与えたペンダントだ。まさか、今も着けてくれているなんて、思わなかった。
「お前の言葉は、言うなればランタンだ。周囲を照らすだけで、それを持って進むのは俺自身」
私の告げた未来はあくまでも未来であり、その未来を進むことを決めるのはイデアーレ自身だと。
そんな事を、柔らかな声で、穏やかな瞳で、多分誰も見たことはないだろう表情で、彼は告げる。私の凝った責任感を、溶かすように。
「だから、プリマヴェーラ。お前が気に病む必要はなかったんだ」
……息を、吐いた。
言いたいことが色々あって、ありすぎて、まとまらないから。
「……ありがとう、イデアーレ」
ただ、微笑んで。彼に一番伝えたい言葉を口にする。
彼は僅かに目を見開いて、けれどすぐに笑い返してくれた。瞳には柔らかさと、どことなく奇妙な色が浮かんでいる。
「ああ、そうだ。プリマヴェーラ」
旅の間では聞いたことがない楽しそうな声で、イデアーレは私の名前を呼ぶ。
……何故だろう。非常に、嫌な予感がするぞ?
「怪我が治っても、暫くは此処に居てもらうぞ」
「……は?」
「ああ、それとも流石に長期間町にいるのは厳しいか?」
その言葉には、首を横に振る。確かに幼い時は町に入れなかったが、流石に今はある程度制御の方法を掴んでいる。
だから、まあ……問題自体はないんだが。
「いや、それは問題ないけど」
「ならば、決まりだな」
「強引だな、君! せめて理由を言ってくれないか!」
私が慌てて問いかける。このまま何も言わないでおくと、なし崩しに王城に滞在が決まってしまいそうだ。陛下は止めないだろうし。
私の言葉に対して、理由など決まっていると、そう言わんばかりの表情でイデアーレは微笑んだ。
「お前が俺に対する責任感で過ごした十年間、俺が何をしてきたのかを見て欲しい」
「……君が、何をしてきたのか」
「これでも努力はしてきたぞ? ……まぁ、失敗もそれなりにあったが」
彼が私の長い髪を一房掬い取る。
流れるような動作で毛先に口付けて、彼は悪戯っぽく笑うのだ。その姿は本当に、童話の王子様のようだった。
「あの言葉に恥じぬよう、精一杯やったつもりだ。全て見てもらうまで帰さんからな、プリマヴェーラ」
「……君は横暴だなぁ、イデアーレ」
冗談めかして私は呟いた。
断る理由、なんて。そんなもの、ある筈がなかった。
イデアーレに向き直る。彼の顔を真正面から見つめて、私は微笑んだ。
「見せて欲しい。あなたのいまを、私の目に」
***
いつかの、夢を見た。
かつて、出会った君と、再び出会う夢だった。