(4)
水の干上がってしまった川には、魚の死骸がミイラのように骨を浮かべ、銀の体は荒んで茶色っぽくなっていた。
この町に色は無い。
全てが荒み、同色と化している。
元々「闇」を属性とするナイトには、それが鮮明に感じられた。
「こら」
トンッと軽く背中を叩かれたので、一体何だと振り返ってみると、そこには霧衣の姿があった。
「私は命じたはずだぞ。お前はウォータを見ていろと」
「お前たちが来たから戻っただけだ。それまではちゃんと見ていた」
ナイトが無表情に言う。
まあ、命令無視をするとは思っていなかったが、霧衣はナイトの言葉に呆れたように肩を竦めた。
後ろにはウォータと、心配げにそれを見つめるココロの姿がある。
「戻ったのか」
ウォータに向かって訊ねるように呟いた。
彼の水色の瞳が、ギロリとナイトを捕らえる。
次いでウォータはナイトの横を通り過ぎて、川だったはずの穴に入った。
魚の死骸、割れた貝殻、もうこけが生えるほど湿気もないらしい。
こうしてこの村は、全てを無に還すのだろうか。
「魂神が、力を奪われていそうだな」
霧衣が言った。
万物を作り出している魂神にとって、動植物が死ぬのは何より力を失う事態だ。
「それを言ったら、天神様もでしょう」
雨が降らずに大地が枯れれば、天を支配する天神も力を失う。
そうして人間の心が荒めば、万物の心を作り出す心神が力を失い、季節が進まねば時神が。
四大神の力が弱まる分だけ、その全てを支配する総神の力が弱まってしまうのだ。
だからこそ、悪魂の存在は神を苦しめる。
そうだな、と霧衣が笑った。
ウォータの隣に立ち、干物になった魚を袖にすくう。
「埋めてやろうか」
「え」
聞き返したが、霧衣は答えずに土を掘り始めた。
「霧衣様、葬らざるとも、その魚の魂は既に魂神様の元に――」
「魂がなくとも、体はここにあるんだ」
ココロが諦めるよう促すが、霧衣は聞く耳をもたない。
「このまま放っておかれるのは、かわいそうだ」
――かわいそう。
人間外の動植物は、大抵純粋な生き物のため、死ねば魂神によって転生させてもらえる。それが何故、「かわいそう」なのだろう。
七つ神がつくられたのは五年前。精神はすでに大人でも、まだ総ての思いを鮮明に感じることができるわけではなかった。
ココロが妙な衝動に駆られていると、霧衣はちゃくちゃくと土を掘り進め、魚がすっぽり収まるほどの穴を作った。
そこに魚を寝かせ、優しくかぶせるように土をかけていく。砕けて砂のようになった土は骨の浮いた魚の体を滑って出張ったそこにたまっていった。
「ぼうっとするな。お前たちも埋めてやる」
「はっ?」
「あ、間違えた。『埋めてやれ』だ」
そう言うと、霧衣はニカリと笑った。
その間違いがわざとだということに、気付かないほど三人は鈍くない。
苦笑したり、肩を竦めたりしながら、霧衣の真似をして魚を埋めていった。
「動物はな、あ、植物もだが、埋めてやると土に還るんだ」
ぽつり、と霧衣が語り出す。
「私たち生き物は、もとは自然によって作り出されたものだから、いずれはそこに還る。人間も、犬も、猫も、花も。紙や筆だってだ」
「でも、霧衣様。命は魂神様が……」
「魂神が造れるのは命だ。肉体では無い。私たちの体は、神では作り出せないもっと不可思議なものなんだ」
この世界に生きるのもは、総てが精神と肉体と魂を持ち合わせている。
精神は心神、魂は魂神によって作り出されているが肉体だけは、神の力ではどうにも出来ない代物だった。
あえて言うなら天神が作り出したことになるのだろうか。天神によって守られていた自然から、いつしか人間を筆頭とする生物が生み出されていたのだ。
「じゃあ……この魚たちも」
「還るんだよ。土へ。そして大地を潤し、世界を美しくする手助けをしてくれる」
ウォータはまっすぐに今埋めた魚を見た。霧衣とココロの会話が耳に届き、急に魚達が恋しくなる。
ウォータは水だから、川や海、そこで泳ぐ魚達が大好きだ。だから今、ここでたくさんの死骸を目の当たりにするのは、正直辛い。だけど、それが自然の理で、彼らの体が、これから生まれる命を、さらにいいものに変えてくれるなら……。
世界に、これほど愛おしいものはいないだろう。
「ウォータ」
「はい」
「刹希が明後日に、雨乞いの生贄になるのは知っているな?」
「……はい」
「どうしたい?」
段々下がっていた顔を上げて霧衣を見る。
「どう……って」
「見殺しにするか?」
「っ、できません!」
今朝老婆に刹希が次の生贄である事を教えられ、ウォータはようやく気付く事ができたのだ。
少女が、総てを悟ったように笑った理由。
「死」を理解している人間は、その恐怖と神秘性に何かを悟るという。
後悔をしないよう、死を美化し、自分にとって都合のいいものに変える。
死が、後悔を生まない事はないのに。
「だったら、あの少女はお前に任せる」
霧衣が言った。
漆黒の瞳がまっすぐにこちらを見る。
任せる?
でも、だけど自分は刹希に――……。
「守れ。お前ならできる」
霧衣は一瞬たりとも目を逸らさない。
勝手で、我儘で、どうしようもない人だけど。自分を何の迷いもなく信じてくれるのは、きっとこの人だけだ。
ウォータは一度こっくり頷くと、一目散に駆けていった。
勢いをつけて踏みしめられた土は緩み、大地を舞う。高く、高く。
太陽がウォータを照らした。
暑い。肌が焼け、頭がくらくらする。
だけど走った。
守ってあげたい。だって、あのこは死ぬには早すぎる。まだ、十五歳なのに。
***
「霧衣、よかったのか」
「ん?」
くるりと後ろで魚を埋めていたナイトに振り返ると、彼が厳しくこちらを見ていた。
「ウォータがもし、自分の正体を告げてしまったら……」
「ルール違反だねえ」
霧衣はただ苦笑した。
駄目だ。全く危機感というものを感じていない。
「霧衣!」
訴えるように再び名を呼ぶ。
静かだが、確かに響く声で。
彼がこんな風に主を心配すると思っていなかったココロは魚を埋めていた手を止め、顔を上げた。
「ナイト」
「何だ」
「私たちがあいつを信じなくて、誰が信じる?」
それは……。とナイトの口が動いた気がした。
霧衣は逸らさずにナイトを見る。
あの――……、総てを見極める目で。
「お前の心配する気持ちも分かる。だがウォータなら大丈夫だ。見かけは子供だが、中身は随分しっかりしているさ」
「……分かった」
仕方ない、といいたげにナイトが頷いた。
まだわだかまりが残っているのだろう。
それでも、主が信じろと言うのなら……。
それは「絶対」だ。
***
直に日は落ちた。
刹希の生贄になる雨乞いまで、あと二日。
ウォータは昨夜刹希と出会った川原に来ていた。
彼女は、今日もきっと此処へ来る。
確信のもてる拠所のない自信だ。
かさっと音がした。
ウォータが振り返ると、そこには例の少女。
刹希だ。
「あっ、あの!」
勢いをつけて立ち上がると、刹希はこちらに背を向けた。
歩き去ってしまう。
「待って!」
思わず駆け寄り、その腕を取る。
刹希の肩がびくりと跳ね上がった。
「……冷たい」
「あ……」
パッと手を離すと拳に力を入れる。
自分達は生き物じゃないから、体温は持たない。それでも属性によっては温度の高いものもいるが、ウォータは「水」。温かさなど持たない。
「雨の降らない村だから……毎日暑いのに。変な人」
人、か……。
ウォータは垂らした頭を上げる事ができなかった。
もし自分が「人」だったら、刹希を、霧衣を傷つけないことができたのだろうか。
いや、そんなことは関係ない。
人とか、神とか、きっとそれに大差はない。
だってウォータは知っているのだ。
伝える言葉を。
「無神経な事言って……すみませんでした」
腰を曲げて頭を下げた。
刹希が深く息をつく。音がする。
「本当だよ。こっちは生贄ってこと知らないと思ってたから、あんたに話とかしたのに。同情なんて……ほしくないのに」
「違います!」
ウォータの頭が上がった。
刹希は目を見開いた。
思い切り……、軽蔑してやろうと思っていたのに。彼はこの期に及んでまだ言い訳する気か。
「同情なんて……、してないです。ぼくは今朝まで知らなかったんです。刹希さんが生贄の娘だなんて。だから、昨夜あなたの隣に座ったのは、誓って同情じゃない!」
なんてつまらない言葉だろう。
もっとマシな言い訳はなかったのか。
たとえそれが事実でも、真実を知られた今、彼に笑いかける事はできない。
「今は?」
「え」
「今は……どうして私に会いに来たの?」
同情? 罪悪感? 侮蔑?
胸のうちで、刹希は笑いが止まらなかった。
次はどんな言い訳を、きかせてくれるんだろう。
「……守りにきました」
は?
耳を疑った。守る?
同情の方が、まだ現実味がある。
「あなたを生贄にはさせません。二日後までに雨は必ず降ります」
「……根拠のないこと言わないで」
「必ず降ります」
「降るわけない! 今まで何度雨乞いしても、一度だって降らなかった!」
「降ります」
ずるい。その瞳はずるい。
ウォータの青い瞳が、刹希を捉えて離さなかった。
耐え切れなくなり、刹希の方から目をそらす。
自分よりも幼い、男の子なのに。
きっと、何も分かってないのに。
「私は……死ぬのよ?」
「あなたは死な――」
「死ぬの! その覚悟をしたの! もう、何も後悔は残さない、私は神の元へ行くんだ……って」
その目に光が灯った。月明かりに照らされて一筋。頬を伝う。
「だから、僅かな希望も持ちたくない。期待もしたくない……」
ウォータはまっすぐに刹希を見つめた。
内心、焦りが生まれる。
泣かせてしまった、やはり自分には、守ることは出来ないのだろうか。
「生きたいって、思わせないで……!」
違う。
彼女は、自分を信じようとしている。
心の奥底で、僅かな希望にかけたいと思っている。
「生きてください」
刹希の肩が重く揺れた。
喉が焼ける。息ができない。
苦しい。嫌だ。
刹希は首を左右に振った。
「生きたいと思わない人なんて、いないんです」
「でも……」
「信じてください。雨乞いなんて、間違った事が続いていいはずはないんです」
「私が生きたら……、私の前に生贄になった、女の子達はどうなるの?」
みんな、死んだのに。
私だけが生きていいの?
それって……不公平じゃない?
「あなたの中で生きます」
どくんっと胸が高鳴った。
それはきっと、都合のいい解釈だ。
みんなが、私の中で生きるなんて。
でも……。
それを許されるなら私は「生きたい」。
この世界で、この村で、明日を生きたい。
「私……明後日の朝一には、広場の高台へ連れて行かれるの。だから……、明日の夜までに雨が降らなきゃ……」
「絶対降ります。だから、酉の刻には、また此処で会いましょう」