繰り返しの手紙
秋の午後、陽光が窓から差し込むリビングで、僕は一通の手紙を手にしていた。
便箋に書かれた文字は震えていて、ところどころインクが滲んでいる。それでも、その筆跡を見れば誰が書いたものかすぐに分かった。祖母だ。
「拝啓 大輔へ」
手紙はそう始まっていた。
僕の名前は田中大輔。今年で二十八歳になる。都内の出版社で編集の仕事をしている。忙しい毎日の中で、故郷の祖母のことを考える時間は正直、少なくなって
いた。
手紙の内容は短かった。
「元気にしていますか。おばあちゃんは元気です。あなたが小さい頃、よく一緒に散歩した公園の桜が、今年もきれいに咲きました。また一緒に見られたらいい
ですね。いつでも待っています。あなたの成長を、おばあちゃんはずっと誇りに思っています。大好きです」
文章は祖母らしい優しさに満ちていた。でも、何か違和感があった。桜の季節は春だ。今は十月。半年以上もずれている。
その週末、僕は実家に帰ることにした。
実家は東京から新幹線で二時間ほどの地方都市にある。駅から車で十五分ほど走ると、見慣れた住宅街が広がる。
母が玄関先で待っていた。
「大輔、久しぶりね」
母の表情は笑っていたが、どこか疲れているように見えた。
「母さん、おばあちゃんは?」
「居間にいるわ。でも、その前に少し話があるの」
母は僕を二階の自分の部屋に連れて行った。
「おばあちゃんのこと、お父さんから聞いてる?」
「いや、何も」
母は小さく息をついた。
「お医者さんから、認知症だって診断されたの。三ヶ月前よ」
言葉が胸に刺さった。
「そんな...全然知らなかった」
「心配かけたくなかったのよ。でも、最近症状が進んできて。特に、短期記憶が...」
母は言葉を詰まらせた。
「今日が何日か分からなくなることもあるの。さっき食べたものも忘れちゃう。でもね、不思議なことに、昔のこと、特にあなたが小さかった頃のことはよく覚
えているの」
「手紙のこと、母さん知ってる?」
「ええ。おばあちゃん、毎日のように手紙を書いているのよ。全部あなた宛て。内容は...ほとんど同じなんだけど」
母はそう言って、引き出しから束になった手紙を取り出した。
少なくとも三十通はあった。すべて同じ便箋、同じインク。そして開いてみると、確かに内容もほぼ同じだった。
「毎日書いては、ポストに入れようとするの。でも、切手を貼るのを忘れちゃって。だから実際に郵送できたのは、あなたが受け取った一通だけ」
僕は黙って手紙の束を見つめた。
「どうして同じ内容を?」
「おばあちゃんは、書いたことを忘れちゃうの。でも、あなたに手紙を書かなきゃっていう思いだけは、毎日心に浮かんでくるみたい」
祖母は居間のソファに座って、窓の外を眺めていた。
「おばあちゃん」
僕が声をかけると、祖母はゆっくりと振り向いた。一瞬、誰だか分からないような表情を浮かべたが、すぐに顔がほころんだ。
「あら、大輔。来てくれたの」
「うん、手紙もらったから」
「手紙? あら、そうだったかしら」
祖母は首を傾げた。さっき書いた手紙のことも、もう覚えていないのだろう。
「大きくなったわね。もう中学生?」
僕は二十八歳だ。でも、祖母の目には、僕がまだ子供に見えているのかもしれない。
「おばあちゃん、元気だった?」
「ええ、元気よ。あなたは? 学校は楽しい?」
祖母は優しく微笑んだ。その笑顔は、僕が子供の頃から変わらない。温かくて、無条件に僕を受け入れてくれる笑顔だ。
母が茶を運んできた。
「お母さん、大輔が来てくれたわよ」
祖母は嬉しそうに母に言った。
「ええ、久しぶりにね」
三人でしばらく他愛もない話をした。祖母は時々、同じ話を繰り返した。父が今どこにいるのか、何度も尋ねた。父は仕事で出張中だと、母はそのたびに優しく
答えた。
一時間ほど経った頃、祖母が立ち上がった。
「あら、もうこんな時間。大輔に手紙を書かなきゃ」
「おばあちゃん、僕ここにいるよ」
「そうね、でも手紙も書かないと。元気にしているか、心配だから」
祖母は自分の部屋に向かった。
その夜、僕は実家に泊まることにした。
夕食の時、祖母は「初めまして」と僕に言った。三時間前に会ったことを、もう忘れていた。
でも、祖母は楽しそうに話した。僕が小さかった頃の話を。
「大輔はね、本当に優しい子だったのよ。三歳の時、私が転んだら、小さい手で一生懸命起こそうとしてくれて。『おばあちゃん、痛くない?』って、泣きそうな
顔で聞いてくれたの」
その話は、僕自身は覚えていなかった。でも、祖母の目は輝いていた。
「五歳の誕生日には、折り紙で鶴を折ってくれたわね。まだうまく折れなくて、ぐちゃぐちゃだったけど、『おばあちゃんが長生きできるように』って言って渡
してくれた。今でも大切に取ってあるのよ」
母が僕の手を握った。その手は震えていた。
夜、寝る前に、僕は祖母の部屋を訪ねた。ノックすると、「どうぞ」という声がした。
祖母は机に向かって、手紙を書いていた。
「おばあちゃん」
「あら」
祖母は振り向いたが、また誰だか分からないような表情になった。
「お孫さんの大輔ですか? 私も孫がいるんですよ。大輔って言うんです」
祖母は手紙を書きながら言った。
「どんな子なの?」
僕は聞いた。
「それはもう、可愛い子でね。小さい頃から本が好きで、いつも図書館に一緒に行ったものです。『おばあちゃん、この本読んで』って、次々に持ってきて」
祖母の顔は幸せそうだった。
「今は東京で働いているんですよ。忙しくて、なかなか会えないけど。でも、元気にしているかしら。心配で、毎日手紙を書くんです」
祖母は便箋に向き直った。
僕は祖母の後ろ姿を見つめた。少し小さくなった背中。白髪が増えた頭。それでも、手紙を書く手は真剣だった。
「おばあちゃん」
「はい?」
「その手紙、きっと届くよ」
祖母は振り向いて、不思議そうに僕を見た。
「そうだといいんですけどね。大輔に、おばあちゃんの気持ちが届けばいいんですけど」
その夜、僕は一睡もできなかった。
翌朝、母と二人でキッチンにいた時、母が言った。
「お医者さんにね、これからどんどん症状が進むって言われたの」
母の声は震えていた。
「最終的には、家族の顔も分からなくなるかもしれないって。でも、感情は残るんですって。誰かが優しくしてくれたら嬉しいし、寂しい時は寂しい。ただ、そ
れを言葉にできなくなっていくだけ」
母は涙をこらえていた。
「私ね、毎晩考えるの。お母さんの中で、どんどん記憶が消えていく。いつか、私のことも忘れちゃう。それって、お母さんにとって私が存在しなかったことに
なるのかなって」
「そんなことない」
僕は思わず言った。
「そんなことないよ。記憶がなくなっても、おばあちゃんの心の中に、母さんのことは残ってる。だって、おばあちゃんの優しさや愛情は、母さんから受け取ったものでしょ? それは消えないよ」
母は僕を見て、静かに泣いた。
その日の午後、僕は祖母と二人で散歩に出た。祖母が手紙に書いていた公園まで。
公園には、大きな桜の木があった。今は葉も落ちて、冬を迎える準備をしている。
「この桜、きれいでしょう?」
祖母が言った。
「春になると、見事に咲くのよ。大輔が小さい頃、よくここで花見をしたわ」
「覚えてるよ」
僕は答えた。
実際、僕もぼんやりと覚えていた。祖母が作ってくれた弁当を、桜の木の下で食べたこと。風が吹いて、花びらが舞い落ちてきたこと。
「あなた、泣いたのよね」
「え?」
「花びらが落ちてくるのを見て、『桜が死んじゃう』って泣いたの。それで私が言ったわ。『桜は死なないよ。また来年、もっときれいに咲くから』って」
僕は驚いた。そこまでは覚えていなかった。
「そしたら、あなた言ったの。『じゃあ、おばあちゃんも死なない?』って」
祖母は桜の木を見上げた。
「私ね、その時は『おばあちゃんも死なないよ』って答えようとしたの。でも、嘘はつけなくて。だから言ったわ。『おばあちゃんの体はいつか弱くなるけど、大輔の心の中で生き続けるよ』って」
風が吹いた。枯れ葉が舞い上がる。
「そしたら、あなた言ったの。『じゃあ僕、ずっとおばあちゃんのこと忘れない』って」
僕の目から、涙が溢れた。
「覚えてるよ、おばあちゃん。ずっと覚えてる」
祖母は優しく微笑んだ。
「ありがとう」
そして、こう付け加えた。
「ところで、あなたはどなた?」
東京に戻ってから、僕は毎週末、実家に帰るようになった。
祖母は会うたびに、僕が誰だか分からなくなっていた。でも、不思議なことに、僕に対する態度は変わらなかった。いつも優しく、いつも温かかった。
ある日、僕が訪ねると、祖母は必死で何かを探していた。
「どうしたの?」
「手紙が...手紙が見つからないの」
「何の手紙?」
「大輔に書いた手紙。送らなきゃいけないのに」
祖母は泣きそうになっていた。
「おばあちゃん、手紙ならここにあるよ」
僕は祖母の机を指差した。そこには、今朝書いたばかりの手紙があった。
「あら、本当だ。よかった」
祖母は安心した顔になった。
「大輔は元気にしているかしら。会いたいわ」
「僕が大輔だよ、おばあちゃん」
祖母は僕をじっと見た。
「あなたが? でも、大輔はまだ小さい子供よ」
「大きくなったんだよ」
「そう...大きくなったのね」
祖母はゆっくりと頷いた。でも、本当に理解しているのかは分からなかった。
その日、僕は祖母に提案した。
「おばあちゃん、一緒に手紙を書こう。大輔に」
「でも、あなたが大輔じゃないの?」
「そうだけど、一緒に書こう」
祖母は不思議そうな顔をしたが、頷いた。
二人で机に向かった。祖母が一文書くと、僕も一文書いた。
祖母:「大輔へ。元気にしていますか」
僕:「おばあちゃん、僕は元気です」
祖母:「おばあちゃんは、あなたのことをいつも思っています」
僕:「僕も、おばあちゃんのことをいつも思っています」
祖母:「早く会いたいです」
僕:「すぐに会いに行くよ」
そうやって、往復書簡のような手紙が出来上がった。
祖母は満足そうに手紙を眺めた。
「いい手紙になったわね」
「うん、いい手紙だ」
僕は答えた。
その夜、母がこっそり僕に言った。
「大輔、ありがとう。お母さん、今日久しぶりに笑顔を見せてくれた」
僕は母を抱きしめた。母も、辛いのだ。毎日、自分の母親が記憶を失っていくのを見ているのだから。
十一月に入ると、祖母の症状はさらに進んだ。
日によっては、一時間前のことも忘れてしまう。自分が手紙を書いたことも、僕が訪ねてきたことも。
でも、手紙を書くことだけは続けていた。
母によると、朝起きてから夜寝るまで、何度も何度も手紙を書くのだという。書いたことを忘れて、また書く。その繰り返し。
「これ」
母が僕に、一週間分の手紙を渡した。少なくとも五十通はあった。
内容はほとんど同じ。でも、よく見ると、少しずつ文章が短くなっていた。最初は十行以上あった手紙が、だんだん五行、三行と減っていく。
そして、最新の手紙はこうだった。
「大輔へ。元気? おばあちゃんより」
たった二行。でも、その二行に込められた思いの重さを、僕は感じた。
その週末、僕が訪ねると、祖母は寝込んでいた。
「風邪をひいちゃって」
母が説明した。
「お医者さんには来てもらったの。大丈夫だって。でも、体力が落ちてるから、しばらく安静にしてなきゃいけないって」
祖母の部屋に入ると、祖母は眠っていた。
その寝顔は、とても穏やかだった。
僕は椅子を引いて、祖母のベッドの横に座った。
祖母の手を取った。冷たく、骨ばった手。子供の頃、この手に何度も握られた。公園に行く時も、図書館に行く時も、病院に行く時も。
この手が、いつも僕を守ってくれた。
「おばあちゃん」
僕は静かに呼びかけた。
祖母の目がゆっくりと開いた。
「あら...」
祖母は僕を見た。誰だか分からないという表情。
「大輔だよ」
「大輔...」
祖母は弱々しく繰り返した。
「会いたかった...」
「僕も。ずっと会いたかった」
祖母の目から、涙がこぼれた。
「手紙...書かなきゃ...」
「もう書かなくていいよ。僕、ここにいるから」
「でも...」
「大丈夫。おばあちゃんの気持ち、ちゃんと届いてるから」
祖母は少し微笑んだ。
「そう...よかった...」
そして、また目を閉じた。
一週間後、回復した。
でも、以前よりもさらに記憶が曖昧になっていた。自分の名前を言えない日もあった。
それでも、手紙を書こうとする。
ある日、僕が見ていると、祖母は便箋を前に、じっと考え込んでいた。
ペンを持っているが、何も書けない。
「どうしたの?」
「あの...これ、何をするものだったかしら」
祖母はペンを見つめた。
「手紙を書くんだよ」
「手紙...そうだわ。でも、何を書けばいいの?」
祖母は困惑していた。
「おばあちゃんが書きたいことを書けばいいよ」
「書きたいこと...」
祖母は考え込んだ。長い沈黙。
「思い出せない...何を書きたかったのか...」
祖母の目に、涙が浮かんだ。
「大切な人がいるの。とても大切な。でも、名前が...顔も...」
僕は祖母の手を握った。
「大丈夫。その人は、おばあちゃんのことをちゃんと覚えてる。そして、おばあちゃんがその人を大切に思ってることも知ってる」
「本当?」
「本当だよ」
祖母は僕の手を握り返した。
「ありがとう...あなたは優しい人ね」
「おばあちゃんに教わったんだ」
その日から、僕は毎週末、祖母と一緒に手紙を書くようになった。
祖母が書けない部分を、僕が書いた。祖母が忘れてしまった言葉を、僕が補った。
そうやって作られた手紙を、僕は大切に保管した。
十二月に入った頃、医師から告げられた。
「そろそろ、施設への入所を考えた方がいいかもしれません」
母は泣いた。
「できれば、家で...」
「お気持ちは分かります。でも、奥さんお一人では、もう限界じゃないでしょうか」
確かに、母は疲れ切っていた。毎晩、祖母の世話をして、睡眠時間は数時間。仕事も休みがちになっていた。
「僕が手伝うよ」
僕は言った。
「会社に相談して、リモートワークにしてもらう。実家から通勤できるようにする」
「でも、大輔にはそんな負担をかけられない」
「負担じゃないよ。僕がしたいんだ」
実際、僕は既に上司に相談していた。幸い、理解のある上司で、週の半分はリモートでいいと言ってくれた。
「お母さんは僕の大切な家族だ。そして、おばあちゃんも。一緒にいたいんだ」
母は黙って頷いた。
こうして、僕は週の半分を実家で過ごすことになった。
祖母との日々が始まった。
朝、祖母が目を覚ますと、僕は挨拶した。
「おはよう、おばあちゃん」
「おはよう...えっと...」
「大輔だよ」
「大輔...」
祖母は考え込む。
「私の...」
「孫だよ」
「そう、孫。大切な、孫...」
言葉は出てこないが、感情は残っている。祖母の目は、いつも温かかった。
朝食の後、祖母は手紙を書こうとする。でも、もう文章は書けない。
それでも、便箋に向かって、ペンを動かそうとする。
僕は祖母の隣に座って、一緒にペンを持った。
「何を書きたい?」
「大切な人に...」
「どんなこと?」
「元気でいてほしいって...」
「じゃあ、それを書こう」
二人で一緒にペンを動かした。
「元気でいてください」
たった一行。でも、祖母は満足そうだった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
こんな日々が続いた。
クリスマスが近づいた頃、祖母は突然こう言った。
「雪...」
窓の外を見ると、雪が降り始めていた。
「きれい...」
祖母の目が輝いた。
「雪、好き?」
僕が聞くと、祖母は頷いた。
「昔...誰かと...雪を見た...」
「大輔と?」
「大輔...」
祖母は繰り返した。
「大輔は...私の...」
言葉が出てこない。でも、祖母は必死で思い出そうとしている。
「大切な...とても大切な...」
祖母の目から、涙が流れた。
「思い出せない...でも、とても大切なの...」
僕は祖母を抱きしめた。
「大丈夫。思い出せなくても、その気持ちは消えないから」
祖母は僕の胸で泣いた。
「ごめんなさい...ごめんなさい...」
「謝らなくていいよ。おばあちゃんは何も悪くない」
僕も泣いた。
その日の夜、母が言った。
「お医者さんがね、もしかしたら春まで持たないかもしれないって」
母の声は震えていた。
「心臓が弱ってきてるんですって。認知症の患者さんは、体の機能も落ちていくから」
「そんな...」
「でもね、大輔」
母は僕を見た。
「お母さん、今とても幸せそうなの。あなたが来てくれてから、表情が明るくなった。毎日、あなたが来るのを待ってるの」
「僕だって分かってないのに?」
「分からなくても、感じてるのよ。あなたの優しさを。あなたの愛情を」
僕は母の言葉に、ただ頷いた。
年が明けた。
祖母は、もうほとんど言葉を発しなくなっていた。
でも、手紙を書こうとする仕草は続けていた。
ある日、祖母が僕の手を取った。
そして、僕の手のひらに、指で何かを書き始めた。
最初は何を書いているのか分からなかった。でも、ゆっくりと繰り返される動きで、僕は理解した。
「あ」「り」「が」「と」「う」
祖母は、僕の手のひらに「ありがとう」と書いていた。
何度も、何度も。
僕は祖母の手を握りしめた。
「こちらこそ、ありがとう。おばあちゃん」
祖母は微笑んだ。
その微笑みは、言葉よりも雄弁だった。
二月のある日、僕は母から電話を受けた。
「大輔、すぐに来て。お母さんが...」
僕は仕事を放り出して、新幹線に飛び乗った。
実家に着くと、医師と看護師が祖母の部屋にいた。
「容態が急変しまして」
医師が説明した。
「意識はありますが、かなり弱っています」
祖母のベッドに近づくと、祖母は目を開けていた。
「おばあちゃん」
僕が呼びかけると、祖母は僕を見た。
そして、弱々しく微笑んだ。
その時、祖母の目が何かを訴えているように見えた。
僕は分かった。
「手紙、書きたい?」
祖母は小さく頷いた。
僕は便箋とペンを持ってきた。
「一緒に書こう」
祖母の手を取って、僕がペンを持たせた。
祖母の手は震えていた。でも、必死でペンを動かそうとしている。
僕は祖母の手を支えながら、一緒に書いた。
最初の文字は「だ」。
次は「い」。
「だい」
三文字目は「す」。
「だいす」
そして最後の文字。
「き」
「だいすき」
祖母は、最後の力を振り絞って、「大好き」と書いた。
その文字を見た瞬間、僕は涙が止まらなくなった。
「僕も大好きだよ、おばあちゃん。ずっとずっと大好きだよ」
祖母は満足そうに目を閉じた。
そして、そのまま静かに息を引き取った。
葬儀が終わった後、僕は祖母の部屋で、彼女が書いた手紙をすべて集めた。
数百通にも及ぶ手紙。
内容はほとんど同じ。でも、どの手紙にも、祖母の愛情が込められていた。
僕はそれらの手紙を、一冊のファイルにまとめた。
そして、表紙にこう書いた。
「おばあちゃんから大輔への手紙」
その日の夜、僕は自分の部屋で、そのファイルをゆっくりとめくった。
同じ文章が何度も繰り返される。
でも、読むたびに、新しい発見があった。
ある手紙では、「元気」という文字が大きく書かれていた。
ある手紙では、「大好き」という言葉に線が引かれていた。
ある手紙では、インクが滲んでいた。きっと、書きながら泣いていたのだろう。
祖母は、記憶を失っても、僕のことを想い続けていた。
名前を忘れても、顔を忘れても、僕への愛情だけは消えなかった。
そして、その愛情を伝えるために、毎日手紙を書き続けた。
僕は、ファイルを胸に抱いた。
「ありがとう、おばあちゃん。ちゃんと届いたよ。おばあちゃんの気持ち、全部」
エピローグ
それから一年が経った。
僕は今も、週末に実家に帰っている。
母は元気にしている。時々、寂しそうな顔をするが、以前よりも笑顔が増えた。
ある日、僕は母と二人で、あの公園に行った。
桜の季節だった。
満開の桜が、空を覆っていた。
「きれいね」
母が言った。
「うん」
風が吹いて、花びらが舞い落ちた。
「お母さん、よくこの桜を見ながら言ってたの」
母が話し始めた。
「桜は毎年咲くけど、同じ桜じゃないって。去年の桜と今年の桜は、違う花なんだって」
「そうなの?」
「でも、だからこそ美しいんだって。毎年、新しい命が生まれて、精一杯咲いて、散っていく。その繰り返しが、生きるということなんだって」
僕は桜を見上げた。
「人間も同じよね」
母が続けた。
「お母さんは記憶を失ったけど、でも毎日を精一杯生きた。そして、あなたへの愛情を、最後まで持ち続けた」
「うん」
「それは消えないわ。あなたの心の中で、ずっと生き続ける」
僕は頷いた。
その時、ポケットに何かが入っているのに気づいた。
取り出すと、それは一通の手紙だった。
祖母の手紙。最後に二人で書いた、あの手紙。
「だいすき」
その文字を見て、僕は微笑んだ。
そうだ、これは祖母からの最後の手紙じゃない。
最初の手紙なんだ。
祖母は今も、僕の心の中で手紙を書き続けている。
愛情という名前の手紙を。
それは決して消えることのない、永遠の手紙。
僕は手紙をそっと胸のポケットにしまった。
「ありがとう、おばあちゃん。これからも、ずっと一緒だよ」
桜の花びらが、また一枚、風に乗って舞い上がった。
それは、祖母からの返事のようだった。
−完−
この物語は、記憶と愛情の関係を描いたものです。
認知症によって記憶を失っても、人を想う心は残る。
それを、祖母の手紙という形で表現しました。
毎日同じ手紙を書き続ける祖母の姿は、一見すると悲しいものかもしれません。
でも、その繰り返しの中にこそ、揺るがない愛情がある。
そして、それを受け取る側も、最初は戸惑いながらも、やがてその深い意味に気づいていく。
人は記憶の積み重ねで生きていると思われがちです。
でも、本当に大切なのは、記憶ではなく、心に刻まれた感情なのかもしれません。
この物語を通じて、大切な人との時間を、改めて大事にしてもらえたらと思います。
暁の裏




