注文の多い理髪店
ある日、Aさんは、1000円で切ってくれる理髪店に入った。
「全体的に短くして、後は適当にバランスよくお願いします」
いつものオーダーだった。
だが、その時、若い店員は目を見開いて硬直した。そして、怒りを含んだ声で言った。
「何言ってるんですか! そんな指示じゃ切れません! もっと詳しく言ってくださいよ! 長さは? トップは? サイドは? ミリ単位で指定しないと、どうなるか分かってるんですか!」
カリスマ美容師の店でもあるまいし、なぜこの男はここまでキレるのか。
Aさんはただ驚き、困惑した。
言われるがままに、
「ええと……トップは5センチくらい、サイドは耳にかからないように、もみあげはすっきり……」
と絞り出すのがやっとだった。
店員はなおも不満そうだったが、ハサミを動かし始めた。
仕上がりはいつもと変わらない、ごく平凡な髪型だった。
家に帰って妻にその話をすると、
「私も同じ系列店に行くけど、いつも『結べるくらいの長さで梳いてください』って言うだけやで? それで何も言われたことないで」
と首を傾げた。
「だよなあ……。やっぱりあれは変だったんだ」
――――
それから三か月後、Aさんは、またあの理髪店に入ってしまった。例の店員がいた。
Aさんはびくびくしながら椅子に座った。
「ええと……トップは5センチくらい、サイドは……」
「……」
店員は何も言わない。Aさんは鏡の中の店員を見上げた。一瞬、黒いガラス玉のような瞳と視線が合ったような気がした。
しかし、次の瞬間には、
「了解しました!」
と、笑顔で元気のよい返答があった。
「俺、三ヶ月くらい前にも来たんだけど……」
「そーすか! 毎度ありがとうごさいます!」
あの時のことを店員に聞こうと思ったが、はっきりさせないほうが良いような予感がして、何も言えなかった。
――――
その夜、Aさんは晩酌をしながら、テレビを見ていた。科学ドキュメンタリー番組だった。
画面に映し出されたのは、未来の量子コンピューター技術を研究する科学者だ。彼は、複数の世界線の情報を同時に処理するシステムについて解説していた。
『このシステムを安定させるには、極めて繊細な初期設定が必要となります。わずかなノイズや差異が、未来の計算を狂わせ、歴史の大きな分岐点となる可能性があるのです』
『私たちは解析を重ね、何者かが歴史に介入している可能性に行き着きました。歴史の守護者、私たちはその存在をそう呼んでいます』
『その修正には、一見無意味に見える日常の選択が使われることがあります。特に、一人の人間の持つアイデンティティの象徴たる髪型は、膨大な数の情報パターンを収束させるための重要なファクターと考えられます』
Aさんは、全身の血の気が引くのを感じた。
あの店員は、未来から来た歴史の守護者だったのではないか? そして、「適当に」という、自分の何気ない言葉が、未来の歴史を揺るがしかねない危険な指令だった。彼は歴史を守るため、あれほど激昂したのだ。
あの時、Aさんはいつもの髪型になった。
守護者は、正しく歴史を守ることができたのだろうか。
あの理髪店はただの理髪店ではなかったのだ。
過去と未来の結び目、そして、歴史の分岐点となった場所。
Aさんは、今日もこの世界に存在していることを感謝した。
Aさんは、彼をじっとみつめる妻の視線に気がついた。
違和感があるが、それが何だかわからない。Aさんは、お尻がむずむずするような、落ち着かない気持ちになった。
そして、恐る恐る言った。
「……髪型、変えた?」
妻はニヤリと笑った。
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