異世界でスローライフを望んだら、なぜかチート扱いされました
朝露が消える前に畑へ出る。
土は黙っているけれど、指を差し入れれば機嫌がわかる。乾きすぎた日は布団をはいだみたいにざらつき、肥料を入れすぎた日は不機嫌な猫みたいに重たく沈む。
「今日もよろしく」
鍬の刃が浅く入る。山影から陽がのぼる。ここは辺境の開拓村――ノラ。
社畜だった俺、海斗は、目が覚めたらこの世界の川べりに倒れていて、神様もチュートリアルもなかった。代わりに手のひらの奥に、ひとつだけ確かな感覚が入ってきた。【野菜づくり】という生活スキル。その名に派手さはないけれど、土に触れるたび、音のない指示が伝わってくる。いま耕せ。ここは休め。根の呼吸を邪魔するな。そういう、静かな合図だ。
家一軒分ほどの畑に、俺は四つの畝を立てた。
一列目は眠り人参――刻んでスープにすると、夜に頭の中で暴れる針金がほどける。
二列目は癒し葱――白い芯を湯気で吸えば、風邪の入口で鼻水が引き返す。
三列目は心音トマト――緊張で早鐘になる鼓動を、ゆっくりと仕事のできる拍に戻す。
四列目は硬化大根――皮を漬けにすると表皮が数時間、刃を弾く。
どれも、俺が“普通に”育てただけだ。陰を重ねる前に雑草を抜き、朝だけ水をやって、根の上に空気を残す。教科書どおりの手順を、教科書のない世界で続けた。するとある朝、畝の端に立てた小枝が風で鳴り、野菜たちはそれぞれ違う方向へ“効きすぎた”。
村長のオルドが駆けてくる。「海斗! 昨夜、お前の人参を食った兵士らが、今朝ひとりも寝不足じゃなかった! 隊長が礼を言いたいと――」
「おはようございます。量は限られてます。収穫は週に一度。取引は村の合議で」
「助かる! ……それと、厄介なことがもう一つ。王都の学術院から使者が。『種と手法の提出』だとよ」
提出――便利にされがちな言葉だ。
俺は鍬を置き、畝を見回した。土の機嫌はよい。ならば、人の機嫌をどうするかを考える番だった。
◇
昼前、村の広場に王国騎士団の青いマントが翻った。隊長の名はセラ・アルディ。目に風が通るような人だ。
「昨夜、あなたの人参で兵が眠れた。礼を言う。――同時に要請も。供給契約を結び、畑の護衛を付けたい」
「護衛?」
「畝の端に知らぬ足跡。隣国の間者か、学術院の強硬派か――どちらでも厄介だ」
俺は空を見上げた。雲は風の道筋どおりに移動する。
「なら、畑の方でも対策を。囲いは生け垣に換えます。棘の多いベリーを混ぜて、触れば痕が残る。畝の端には輪作札。触ると泥が青く染まる粉を塗って。夜は糸で吊った鳴き瓶を張る」
セラ隊長は目を細めた。「戦わないのに、強いな」
「畑は、戦わずに勝つところですから」
村長、騎士団、そして俺で簡単な書面を交わした。売値、収穫日、護衛の交替表――全部黒板に書く。誰でも見られる場所に、誰でも読める字で。透明は風通しを呼ぶ。社畜時代に覚えた小技が、こんなところで効くとは思わなかった。
その日の夕方、学術院の使者が来た。灰色の外套に銀の留め具。鼻にかかる声で言う。
「王国のため、栽培法を提出なさい。知は共有されるべきで、個人に独占は許されない」
「同意します。ただし手順がありますよね。共有は奪取とは違う。学術院が求めるのは“提出”であって、管理はそちらが持つと?」
使者はわずかに笑った。「秩序のためです」
「秩序は結果。根本は信頼ですよ。――学術院の研究者がうちで一緒に畝を立てるなら、全部教えます。ただし共同記録に残す。名も成果も、ここに来た者全員のものとして」
使者の眉間に皺が寄り、唇が細くなる。
「後日、正式に応答します」
去り際に外套の裾がひるがえり、畑の生け垣の棘が微かに血を吸った。泥に青い染みが落ちる。輪作札に塗った染料が仕事をしたのだ。
俺は染みの色を目で追い、心の中に小さな印を付けた。学術院の誰かが、夜にまた来る。
◇
夜。
月が薄く、鳴き瓶が風に触れて低い音を鳴らす。俺は畝の端の切り株に座って、温い麦茶を飲んだ。見張りを買って出たのは俺のわがままだ。騎士団は周囲を巡回し、村人は早く寝ている。畑は俺の仕事場で、俺がいちばん守り方を知っている。
「――静かですね」
声がして、肩が跳ねた。振り向くと、村の薬舗の娘、リオナが立っていた。柔らかい前髪が額に落ち、手には木箱。
「夜目のいい子用の茶です。眠りすぎないやつ」
「ああ、助かる」
「それと、お願いが。明日の午前に、心音トマトを三つだけ分けてください。薬舗に、明日の朝、遠出の診療があるから」
「三つで足りる?」
「足りない。でも、足りるように分ける。畑と同じ」
俺は笑い、うなずいた。
リオナは畝を見つめ、「この土、いい匂い」と言った。
「薬草の畝は、人を信じたときほど香りが立つの。……あ、これは薬舗の言い伝えで、根拠は曖昧。でもそう感じる」
「感じるものは、案外正しいですよ」
鳴き瓶が、もう一度低く鳴った。影が柵を越えようとして、棘に手を入れた。青い泥が飛ぶ。
「来た」
俺は立ち上がり、硬化大根の漬け汁を薄く塗った革手袋をはめる。刃を弾く皮膚の硬化効果は、手袋越しでも少し移る。正面から捕えるつもりはない。相手は人だ。俺は畑の主であって、番犬じゃない。
「畝に入るなら、靴を脱いで」
暗がりに向かって、普通の声で言った。
影が止まり、ためらい、次の瞬間走った。
生け垣の棘が裂け、鳴き瓶が悲鳴を上げ、青い泥が点々と道を作る。騎士団の笛が鳴り、セラ隊長の「囲め!」という声が夜の田に跳ねた。
捕まったのは、予想どおり灰色の外套――学術院の若い研究生だった。まだ少年の顔で、手は薬液の匂いがした。
「君は、命じられて来たのか。自分の意思か」
震える唇が動き、「種と土を……」とだけ言った。
セラ隊長が睨む。「王国法では、夜間の侵入は――」
「セラさん」俺は制した。「畑のルールでは、初犯は『鍬を十往復』です」
「鍬?」
「生け垣の欠けたところ。自分で壊したら、自分で直す。青い泥は自分で洗う。動機は明日、昼に聞く。夜は判断を誤る」
少年の目に、はじめて涙が溜まった。リオナがそっとハンカチを差し出し、彼は首を振って、泥の手で目をこすった。青が頬に伸びた。
「……ごめんなさい」
「謝るのは明るいところで。暗闇の『ごめん』は、土にも届かない」
◇
翌日、広場に黒板を立てた。
見出しは「学術院からの訪問について」。左に事実、右に対応。誰でも読めるよう簡単な字で。
少年――名前はイーサといった――は震える手で自分のしでかしたことを書き、俺は横で字の形を整えた。
「君の指は薬瓶を扱う指だ。乱暴な字は似合わない」
村人たちはざわめき、セラ隊長は腕を組んで見ていた。
やがて、学術院の本隊が来た。銀の留め具の上等さが一段上がっている。先頭の女は涼しい顔で名乗った。
「私は学術院第三席、メレディ。昨夜の無礼は謝罪します。――しかし、王国の健康に関わる知見を個人が抱え込むのは危険。栽培法は提出されるべきです」
俺はうなずいた。「提出はします。共同で。方法はこうです」
黒板の下に新しい紙を貼る。
『畑見習い契約案』
――学術院から見習いを派遣。畑で一緒に作業・記録。
――作業記録は二通作成し、村と学術院で保管。
――種の扱いは相互承認。勝手な持ち出しは禁止。
――知見の発表は連名。村の名、学術院の名、双方併記。
――この場で公開講習を開催。村人にも開かれていること。
メレディの目が細くなる。「交渉上手ね。――しかし、あなたのスキルは個人に宿る。土ではなく、あなたに。そう判断する意見もある」
「それで構いません」
俺は畝へ歩き、膝をついた。
「人参、お前が覚えた眠りの道は、俺の指を経由してるかもしれない。けどな、俺以外の指でも歩けるはずだ」
土に触れ、指先で呼吸した。
「畑は人を選ばない。人が畑を選ぶんです」
その時、村の外から笛。騎士団の合図が、短く鋭く走った。
セラ隊長が即座に動く。「北の斜面。……火?」
黒い煙が上がった。狼煙だ。隣国との境で見張りが使う合図。
「間者だ。村の騒ぎに乗じて」
彼女は的確に部下へ指示を飛ばし、俺へ向き直る。「海斗、畑を閉じろ。人を避難させ――」
「待って。火を近づけさせない」
俺は硬化大根の樽へ走り、漬け汁を布に含ませる。これで木柵に塗膜を作れば、火の回りが遅くなる。
リオナが飛んできて叫ぶ。「癒し葱を蒸して! 煙に混ぜれば咳き込ませられる!」
「それ、吸ったら風邪が引っ込むやつだぞ」
「吸い過ぎれば逆に鼻腔が痛む。煙幕には丁度いい」
畑の中央に大鍋を据え、葱を刻んで湯気を上げる。風向きを読み、鍋の向きを変え、扇で扇ぐ。
青い鼻にしみる煙が北へ伸び、黒い影がむせた。
セラ隊長が叫ぶ。「今だ、押し返せ!」
騎士たちが楯を組み、村人が桶を回し、俺は柵に漬け汁を塗り続ける。
メレディが、驚いた顔でこっちを見ていた。外套を捲り、器用に長い髪を布でまとめると、言った。
「学術院は観察しかできないと思った? 違う。記録の現場は、いつだって足りない手で回るのよ」
彼女は躊躇なく鍋を持ち、最適な高さで湯気を流し始めた。イーサ――昨夜の少年も、真っ青な顔で桶を運ぶ。
土が、村が、みんなで動く音を立てた。
火は近づかず、影は撤いた。
遠くで笛が三回鳴った。事態収束の合図だ。
◇
夕刻。
広場の黒板の前に、セラ隊長とメレディ、村長、そして俺。
「本件――間者は追い払った。怪我人少数、火災なし。……海斗、助かった」
「畑が助けただけです」
メレディが腕を組む。「あなたの手が畑を助けた。認める。――学術院は『見習い契約』を受ける。ただし条件をひとつ。あなたの畝を王都にも再現させてほしい。あなたが季節ごとに指導し、土の配合と水の手順を共有する」
正直、胸に滓が残る。畑は俺の“日常”だ。仕事場を増やすのは、面倒くさい。
けれど、リオナが横で小さく笑った。「畑は広がっても、日常は狭められないよ。決めるのは、いつも自分」
俺は頷いた。「条件を二つ追加。ひとつ、王都の畑も黒板を置く。出納・収穫・失敗も全部公開。もうひとつ、講習は村にも王都にも誰でも参加可。農夫でも兵士でも学者でも」
メレディは少し黙り、笑った。「交渉相手として、好きよ。学術院第三席、メレディ・スローン。連名で論を出しましょう」
イーサが挙手して言う。「ぼ、僕も……見習いに」
「君はもう見習いだ。鍬を十往復したからな」
セラ隊長は王国式の敬礼をして、「この村の畑は王国の保護対象に指定する。だが軍が畑に踏み込む権限は持たない。――守るのは周囲の道までだ。いいな?」
「充分です」
リオナが俺の袖を引く。「海斗さん、今日の夕方、子どもが二人、『心音トマト』で助かったの。ありがとう」
「畑に礼を言ってくれ。俺はただ、手伝っただけ」
夕陽が土を撫でる。畝の影は長く、手のひらは泥で、胸の奥がやけに静かだ。戦わずに勝つのは、戦う準備を手放さないことでもある。畑は、今日も負けなかった。
◇
それからの数週間は、片づけと記録の連続だった。
黒板は一枚増え、広場の屋根の下に「共同記録所」ができた。
学術院の見習い二名が滞在し、リオナは薬舗から薬草のレシピを持ち寄り、セラ隊長は警備の交替表を改良し、村長は出納の数字に最初の小さな花丸を付けた。「赤字が減った」と。
王都にも畑ができた。薄い土から始まり、失敗の報告が先に届く。そのたび俺は返事を書く。肥が多い。水を我慢しろ。畝を風に向けろ。根の上に空気。
やがて、王都でも眠り人参が採れ、癒し葱の湯気が城の医務室に立ち込めたという手紙が来た。「夜勤の兵が笑った」と。
人が笑うと、土の匂いが甘くなる――それはこの世界で覚えた、俺の迷信だ。
でも、迷信が畝を守る日もある。そう信じていいくらいには、今日の夕暮れはきれいだ。
◇
ある日の午後、王都から一通の“正式文書”が来た。
『栽培法提出命令の撤回、および共同記録制度の承認』
署名は王国宰相。傍らに小さく、学術院第三席メレディの署名。
村長は文字をなぞってから、涙を指で払って笑った。「字を読めるように生まれてよかった」
真っ先に黒板へ貼り、子どもたちにも読ませる。
「むずかしい言葉は飛ばしていい。ただ、『一緒にやる』って書いてあるのは、覚えろ」
夕方、リオナが薬舗の小瓶を持って来た。
「これは?」
「心音トマトと俺の畝の土の抽出液。緊張した兵でも飲めるように薄くしてある。……試作品だけど」
彼女は照れて笑い、「名前、付けて」と言った。
「名前?」
「薬には名前がいるから。効能だけじゃなく、暮らしに馴染む音がいい」
俺は考え、言った。「しずく」
「短い」
「短いほうが、呼びやすい」
リオナは瓶を胸に抱き、「じゃあ、しずくで」と繰り返した。嬉しそうで、俺まで嬉しくなった。
◇
その夜、静かな雨が来た。
屋根を打つ音を聞きながら畑を見に出ると、セラ隊長が柵のところで空を仰いでいた。鎧は脱いで、旅装の姿だ。
「雨の日の見回りは?」
「わたしの趣味だ。雨音がうるさくて、考え事ができる」
「考え事?」
「ああ。……王都にも畑ができた。兵士たちの夜は少し静かだ。けれど、戦がなくなるわけじゃない。わたしの剣は、きっとまだ人を傷つける。――それでも、眠れる夜が増えるなら、剣の重さは少し軽くなる」
彼女はそう言って、雨を見た。
「海斗。お前は、ここに居続けるのか?」
「居続けたい。静かに暮らしたい。でも――たぶん、これからも王都や隣国から、色んな“足音”が来る」
「そのたび、立つのか」
「立つ。畑のそばで」
セラ隊長は笑い、掌を差し出した。騎士の手は固く、でも温度があった。
「なら、わたしは道のそばで立つ。道は戦わず、通すためにある」
◇
雨が止んだ翌朝。
土はしっとり、畝は落ち着いている。
俺はいつも通り、眠り人参を引く。葉の付け根を指で挟み、少しだけ揺すってから引く。するり、と抜ける。土の匂いが立ち、甘い。
「海斗さん!」
リオナが息せき切って来て、手紙を突き出した。王都からの早馬便だ。
封を切ると、あの見慣れた整った字――メレディ――でこうあった。
『王都の畑に“夜這い”があった。だが、鳴き瓶と青泥が役に立った。見習いのイーサが鍬を十往復し、彼の字は君が言ったとおり整っていた。記録を同封する。共有を』
同封の紙に、畝の配置図、失敗の線、成功の点、そして端に小さくこうあった。
『畑は、勝つ』
俺は笑って、黒板に新しい紙を貼った。
「王都からの共有だ」
子どもが集まる。村長が目を細める。セラ隊長が頷く。リオナが横で肩を寄せる。
俺は一度だけ空を仰いだ。
静かに暮らしたい。
その望みはわがままかもしれない。けれど、わがままを守る方法はある。
耕すこと。整えること。待つこと。分けること。交わすこと。記すこと。
派手な魔法はなくても、暮らしは世界を支える。小さな畝の勝利は、地図に載らないけれど、誰かの夜を救う。
鍬を入れる。
土が、機嫌のいい音で、寝返りを打った。
(了)