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第2章 見えないノイズ 1

重厚なマホガニーの扉が、静かに閉められた。

学院長の山城は、「急な来客の予定が入った」とか何とか、見え透いた口実を残して部屋を出て行った。

おそらく、ICAの私が直接乗り込んできたことに対する動揺を隠し、状況を整理する時間が必要なのだろう。

あるいは、裏で誰かと連絡を取り、対応を協議するつもりなのかもしれない。

どちらにせよ、好都合だった。

彼のような老獪な人物がいない方が、現場の教師である岡崎先生から、より率直な話が聞ける可能性が高い。


私は、再びクープスソファに深く腰掛け、目の前に座る岡崎ゆかりという女性教師に視線を向けた。

年の頃は…40代半ばといったところだろうか。

少し疲れたような表情をしているが、その目には誠実さと、生徒を思う真摯さが窺える。

彼女もSIDを装着して十年以上経つという。

いわば、私と同じ「プラグド」世代。

だが、彼女が感じているであろうSID社会への違和感や戸惑いは、ICAという特殊な組織に身を置く私とは、また質が違うのかもしれない。


「岡崎先生、先ほどは学院長がおられましたので、少し話しにくいこともあったかと思います。

改めて、詳しく状況を伺えますでしょうか。

特に、生徒さんたちのSIDの不調について、最初に異変に気づかれたのはいつ頃で、どのような状況だったのか。

些細なことでも構いません」

私の声は、努めて穏やかに、しかしプロフェッショナルとしての距離感を保つように調整した。

相手に安心感を与えつつ、必要な情報を引き出す。

それが、私の仕事の基本だ。



常楽院さんの声は、先ほどよりも少し柔らかく感じられた。

けれど、その瞳の奥にある鋭い光は変わらない。

彼女は、私の心の奥まで見透かしているのではないか。

そんな錯覚に陥りそうになる。

ICAのエージェント。

彼女はいったい、どれほどの情報にアクセスできるのだろう。

私のSIDログも、既に解析済みなのかもしれない。

そう考えると、少しばかり居心地が悪かった。


「…はい。

最初に『おかしいな』と感じたのは、夏休みに入る少し前…7月の初め頃だったでしょうか」私は記憶を辿りながら話し始めた。

「最初は、本当に些細なことだったんです。

授業中に、特定の生徒の反応が鈍くなったり、逆に、妙に興奮して落ち着きがなくなったり。

ファミリアとの対話ログを見ても、時折、意味不明な応答や、ループするような会話が見られる程度で…」

当時は、思春期特有の不安定さか、あるいは新しい学習内容についていけないだけだろう、と軽く考えていた。

SIDの不調を疑うなんて、思いもしなかった。

SIDは、今や生活の一部であり、空気のような存在だ。

その信頼性は、絶対的なものだと信じていたから。


「それが、夏休みが明けて、9月に入ってから、急速に悪化したんです。

特に、ジェンキンス先生が担当されていたクラス…中等部二年生の数名に、顕著な症状が現れ始めました」

斎藤くんの幻覚、坂本くんの奇妙な言動、長岡さんの引きこもり、そしてシャオ・ツーの攻撃性…。

それらは、もはや個人の問題として片付けられるレベルを超えていた。

まるで、見えないノイズが、彼らの精神を蝕んでいるかのように。


「ジェンキンス先生の失踪と、生徒たちの不調。

やはり、何か関係があると?」常楽院さんが静かに尋ねる。


「断定はできません。

ですが…タイミングがあまりにも合いすぎています。

ジェンキンス先生は、生徒たちの変化に、誰よりも早く気づいて、何かを調べようとしていたのかもしれません。

彼はアンプラグドでしたが、生徒たちへの愛情は人一倍深い方でしたから…」

言いながら、私はジェンキンス先生の温厚な笑顔を思い出していた。

古い時代の人間だと自嘲しながらも、彼はいつも生徒たちの未来を真剣に考えていた。

SIDを使わない彼の授業は、非効率かもしれないが、人間的な温かみに満ちていた。

知識だけでなく、生きる上で大切な何かを、彼は伝えようとしていた気がする。

その彼が、なぜ…。



岡崎先生の話を聞きながら、私はICAのデータベースにアクセスし、関連情報を検索していた。

福岡桜花学院。

バンディズム。

ジェンキンス。

生徒たちのSID異常。

キーワードを組み合わせ、膨大な情報の中からパターンを抽出していく。

思考とほぼ同時に情報が展開されるSIDの能力は、こういう時にこそ真価を発揮する。


ジェンキンスに関する情報は少ない。

アンプラグドである彼のデジタルフットプリントは極めて限定的だ。

だが、いくつかの興味深い記録が見つかった。

彼が失踪する数日前、学院の外部ネットワークへのアクセスを試みた痕跡がある。

通常、彼が使うことのないルートからのアクセスだ。

そして、そのアクセス先は…ICAの管轄下にある、機密レベルの高い研究アーカイブの一つだった。

彼は何を探ろうとしていたのか?

生徒たちのSIDログ。

表層的なデータからは、確かにシステムエラーや過負荷の可能性も否定できない。

だが、深層ログを解析すると、奇妙なパターンが見えてくる。

特定の生徒たちの間で、非同期的ながらも、類似したノイズパターンが検出されているのだ。

それは、まるで外部から注入された悪意あるコード、あるいは…未知の信号に干渉されているかのような痕跡。


(これは…単なる故障じゃないわね)

私は確信を深めた。

この学院で起きていることは、もっと計画的で、悪質な何かだ。

そして、その鍵を握るのは、やはり生徒たち自身、あるいは彼らのSIDに接続された「何か」なのだろう。


私は岡崎先生に向き直った。

彼女の表情には、不安と疲労が色濃く浮かんでいる。

教師という仕事も、この時代では随分と様変わりした。

かつてのように、知識を伝え、生徒を導くというよりは、SIDという強力なツールを使いこなすための補助役、そして精神的なケアテイカーとしての役割が大きくなっている。

学習そのものは、AIと生徒自身の脳が、最適化されたプログラムに沿って進めていく。

教師は、そのプロセスが円滑に進むように見守り、逸脱がないかを確認する。

ある意味では、システム管理者であり、カウンセラーでもある。


私が学生だった頃とは、全く違う。

あの頃は、分厚い教科書と格闘し、先生の講義に耳を傾け、友人たちと議論を交わしながら、必死で知識を吸収しようとしていた。

非効率で、回り道も多かったけれど、そのプロセス自体に意味があったように思う。

苦労して得た知識は、単なる情報ではなく、血肉となっていた。

だが、今の生徒たちはどうだろう。

SIDを通じて、瞬時に膨大な知識にアクセスできる。

それは素晴らしいことだ。

だが、その知識は、彼らの「経験」と結びついているのだろうか。

彼らの「心」を豊かにしているのだろうか。


(学習の意味、勉強の意味…それすらも、変わりつつあるのかもしれないわね)

効率化と最適化が進んだ世界の片隅で、私たちは何か大切なものを置き去りにしてきてしまったのかもしれない。

その歪みが、今、この桜花学院という閉鎖的な空間で、奇妙な形で噴出しようとしているのではないか。


「岡崎先生」私は、思考を切り替えるように言った。

「生徒さんたちの状況、よく分かりました。

ありがとうございます。

やはり、彼ら一人ひとりと直接話をし、可能であれば、彼らの意識…SIDの深層ログにアクセスさせてもらう必要がありそうです」

「直接…ですか?」岡崎先生は、少し戸惑ったような表情を見せた。

「それは、生徒たちにとって、かなりの負担になるのでは…? それに、プライバシーの問題も…」

「承知しています。

もちろん、本人の同意を得た上で、細心の注意を払って行います。

ICAには、対象者の精神的負荷を最小限に抑えつつ、必要な情報にアクセスするためのプロトコルがあります。

私のファミリア、ジジもそのための専門的な訓練を受けています」

私は、足元で丸くなっていたジジに視線を送った。

彼は、まるで「任せておけ」とでも言うように、片目をウィンクしてみせた(ように見えた)。


「彼らの不調の原因を特定し、治療するためには、どうしても必要なプロセスです。

このまま放置すれば、さらに深刻な事態を招く可能性もあります。

ジェンキンス先生の失踪との関連も、明らかになるかもしれません」

私の言葉には、有無を言わせぬ響きがあっただろうか。

岡崎先生は、しばらく逡巡するような表情を見せたが、やがて、意を決したように頷いた。


「…わかりました。

常楽院さんの判断にお任せします。

生徒たちには、私から事情を説明し、協力を仰いでみましょう。

ただ…」彼女は少し言い淀んだ。

「個人的に、外部の調査員にも依頼している件ですが…」

「ええ、先ほど伺いました。

その方には、まだICAの介入は伝えない方が良いでしょう。

我々の動きが外部に漏れるのは得策ではありません。

何か掴んだ情報があれば、私に直接報告していただけますか?」

「はい、承知しました」

「ありがとうございます」私は立ち上がり、軽く会釈した。

「では、まず最初に、斎藤嘉樹くんをお願いできますか? 彼から話を聞いてみたい」

(岡崎ゆかり 視点)

常楽院さんの言葉には、逆らえない何かがあった。

ICAという組織の力なのか、それとも彼女自身が持つ、あの冷徹なまでの自信なのか。

私は、まるで操られるように頷いていた。

生徒たちの意識に直接アクセスする。

それは、教師として、一人の人間として、強い抵抗を感じる行為だ。

だが、彼女の言う通り、このまま放置しておくわけにはいかない。

生徒たちを守るためには、必要なことなのかもしれない。


(それにしても…)

私は、彼女の隣にいる黒猫のファミリアに、改めて目を向けた。

ジジ、と言ったか。

ただのAIアシスタントのはずなのに、妙な存在感がある。

まるで、生きているかのように、こちらの感情を読み取っているかのような…。

気のせいだろうか。

最近、自分のSIDも少しおかしいのかもしれない。


「それでは、すぐに斎藤くんを呼んできます。

ここで、お待ちいただけますか?」

私がそう言うと、常楽院さんは静かに頷いた。

彼女の大きな瞳が、私をじっと見つめている。

その視線から逃れるように、私は足早に学院長室を後にした。


廊下に出ると、先ほどまでの雨が嘘のように上がり、窓から差し込む西日が、床に長い影を落としていた。

だが、私の心の中の重苦しい雲は、まだ晴れそうになかった。

これから始まるであろう、生徒たちとの面談。

そして、その先に待ち受けるであろう、学院の深い闇。

私は、この見えないノイズの正体を、突き止めることができるのだろうか。

そして、その過程で、私自身もまた、変わってしまうのではないか。

そんな不安を抱えながら、私は中等部の教室棟へと向かった。


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