第1章 再会の学院 5
学院長室を出て、生徒指導室へ向かう足取りは、正直言って重かった。
常楽院雛子と名乗ったICAのエージェント。
彼女の存在は、この学院に漂う不穏な空気を、さらに濃密なものにした気がする。
彼女の冷静すぎる態度、そして時折見せる、人間離れしたような鋭い洞察力。
あれが、SIDネットワークの最前線で働く人間の標準なのだろうか。
だとしたら、私のような平凡な教師とは、住む世界が違いすぎる。
生徒指導室のドアを開けると、既に斎藤嘉樹が待っていた。
中等部二年生。
SID装着後の不調を最初に訴えてきた生徒の一人だ。
彼は窓際の椅子に腰掛け、外の景色を眺めていた。
雨上がりの空は、まだ重たい雲に覆われている。
「斎藤くん、待たせたわね」
私が声をかけると、彼はゆっくりとこちらを振り返った。
その表情には、以前のような快活さはない。
どこか影があり、瞳の奥には、私には窺い知れない深い疲労の色が浮かんでいるように見えた。
SIDを装着してから、まだ数ヶ月しか経っていないはずなのに。
「いえ、先生。
時間通りです」
彼の声は、低く、少し掠れていた。
「常楽院さんという方が、君の話を聞きたいそうなの。
ICAの人。
SIDの専門家よ。
君が感じている不調について、何か分かるかもしれないわ」
私は努めて明るい声で言った。
だが、彼が私の言葉を額面通りに受け取っていないことは、その反応のなさから明らかだった。
彼はただ、黙って頷くだけだった。
彼を連れて、再び学院長室へと向かう。
廊下を歩きながら、私は教師と生徒という関係について考えていた。
私が学生だった頃――SIDなんてものがまだSFの世界の話だった頃――教師は知識を授ける存在であり、同時に、人生の先輩として生徒を導く役割も担っていた。
そこには、もっと人間臭い、感情的な繋がりがあったように思う。
叱られたり、褒められたり、時には一緒に悩んだり。
非効率で、回り道も多かったけれど、そのプロセスの中に、学びの本質があったような気がするのだ。
だが、今は違う。
知識はSIDを通じて、生徒自身の脳に直接ダウンロードされる。
学習プログラムはAIによって最適化され、個々の進捗に合わせてカスタマイズされる。
教師の役割は、知識の伝達者から、学習のファシリテーター、あるいはメンタルケアの担当者へと変化した。
生徒一人ひとりの学習データを管理し、AIと連携しながら、彼らが道を踏み外さないように見守る。
それが、現代の教師に求められる主な仕事だ。
それはそれで重要な役割だとは思う。
けれど、どこか物足りない。
生徒たちの内面に深く踏み込む機会は減り、関係性は希薄になった。
彼らが何を考え、何に悩み、何に喜びを感じているのか。
SIDのログデータを見れば、ある程度の傾向は把握できる。
だが、それはあくまでデータ上の推測であり、生身の感情のやり取りから得られる理解とは、やはり違う。
斎藤嘉樹。
彼は、SIDを装着する前は、成績優秀で、スポーツも得意な、いわゆる優等生だった。
少しプライドが高いところはあったけれど、真面目で、努力家でもあった。
それが、SIDを装着してから、徐々に変わり始めた。
最初は、成績がさらに向上し、周囲を驚かせた。
まるで、何かの限界を突破したかのように、あらゆる分野で才能を発揮し始めたのだ。
だが、それと同時に、彼の言動には奇妙な変化が現れ始めた。
以前にも増して自信過剰になり、他人を見下すような態度を取るようになった。
そして、例の幻覚。
「周りのものが崩れ落ちて見える」と彼は言った。
最初はSIDの初期不良か、あるいは単なる精神的な疲労だと思っていた。
だが、症状は改善するどころか、悪化しているように見える。
(彼は、SIDに何を求めていたのだろう…? そして、SIDは彼に何を与え、何を奪ったのだろう…?)
そんなことを考えているうちに、学院長室の前に着いた。
扉を開けると、常楽院雛子が、先ほどと全く同じ姿勢でソファに座っていた。
隣には、黒猫のジジ。
まるで、時間が止まっていたかのようだ。
「斎藤嘉樹くんをお連れしました」
私が言うと、雛子は静かに顔を上げ、嘉樹に視線を向けた。
その目は、探るようでもなく、同情するようでもなく、ただ、対象を分析するかのように、冷静に彼を捉えていた。
岡崎先生に連れられて入った学院長室は、相変わらず古臭い匂いがした。
革張りのソファ、大量の紙の本、葉巻の残り香。
まるで時代に取り残された博物館のようだ。
こんな場所で、一体何を話すというのだろう。
ソファに座っていたのは、知らない女の人だった。
黒いスーツを着て、髪をきっちりとまとめている。
年の頃は…三十代半ばくらいか? だが、その雰囲気は、年齢よりもずっと落ち着いていて、どこか人間離れした冷たさを感じさせた。
隣には、黒猫が座っている。
二本の尻尾がある。
ファミリアだろう。
「斎藤嘉樹です」
俺は、一応、自己紹介をした。
相手が誰であろうと、礼儀は弁えるべきだ、と父から教えられてきた。
たとえ、その教えが、今の時代では古臭いものだと分かっていても。
「ICAの常楽院雛子です。
座ってください」
女の人は、短くそう言った。
ICA。
SIDCOMの関連組織だということは知っている。
SIDのトラブルに対応する部署だったか。
なるほど、俺の「不調」について聞き取りに来た、ということか。
(不調、ね…)
俺は、内心でせせら笑った。
不調などではない。
これは、進化の過程で起こる、当然の現象だ。
SIDを装着して、俺の世界は変わった。
いや、変わったというより、本来あるべき姿になった、と言うべきか。
SIDを通じてアクセスできる知識の奔流。
思考の速度。
五感を超えた知覚。
それは、アンプラグドの人間には到底理解できない領域だ。
俺は、他の連中よりも、ずっと早く、ずっと深く、その領域に到達した。
だから、時折、古い世界の殻が剥がれ落ちるように、風景が歪んで見えることがあるだけだ。
周りのものが崩れ落ちる? それは、旧世界の限界が壊れていく音なのだ。
俺が、新しいステージへと進んでいる証なのだ。
学校なんて、もはや必要ないのかもしれない。
知識はSIDが与えてくれる。
学習プログラムもAIが最適化してくれる。
教師? 彼らは、俺たちが道を踏み外さないように見張るだけの、監視役に過ぎない。
岡崎先生も、悪気はないのだろうが、俺の進化についてこれていない。
彼女の心配そうな顔を見るたびに、哀れみすら感じてしまう。
だが、それでも、この桜花学院に通う意味が全くないわけではない。
ここは、選ばれた者たちが集う場所だ。
バンディズム。
血族主義。
古い、と笑う者もいるだろう。
だが、血には意味がある。
受け継がれてきた遺伝子情報、その中にこそ、人間の本質的な力が秘められている。
俺の家も、古い家柄だ。
父は、男は強くあるべきだと、家名を、血を守るべきだと、常に言っていた。
その教えは、SIDを手に入れた今、より強く、確かなものとして俺の中に根付いている。
この学院は、俺のような、選ばれた血を持つ者が、さらにその力を高めるための場所なのだ。
SIDという最新のテクノロジーと、古来からの血の力が融合した時、俺は、俺たちは、新しい時代を導く存在になる。
そのための試練なのだ。
この程度の「不調」は。
「斎藤くん」常楽院雛子と名乗った女が、静かに口を開いた。
「あなたのSIDログを拝見しました。
いくつか、気になる点があります。
最近、特に認識齟齬…現実とSID情報との間にズレを感じることはありませんか?」
「認識齟齬?」俺は聞き返した。
「いいえ、特にありません。
俺が見ているものが、真実ですから」
「真実、ですか」彼女の声には、何の感情も含まれていないように聞こえた。
「例えば、授業中に、あるいは寮の自室で、周りの風景が歪んだり、崩れ落ちるように感じたことは?」
「それは…」俺は少し言葉に詰まった。
あの現象のことだ。
「それは、あります。
ですが、言ったように、それは不調ではありません。
俺の認識が、より高次元に移行している過程で起こる、一時的な現象です」
「高次元への移行…」彼女は、その言葉を反芻するように繰り返した。
「興味深い見解ですね。
あなたのファミリア…ジュリア、でしたか。
彼女は、その現象について何と?」
ジュリア。
俺のファミリア。
知的で、冷静で、そして…少しばかり、俺の理想とは違う女。
彼女は、俺の「進化」を理解していない。
いつも、現代的な、男女平等だとか、多様性だとか、そんな薄っぺらい価値観を押し付けてくる。
俺が求めているのは、もっと従順で、男を立てる、古き良き日本の女性像なのだが。
「ジュリアは…あまり参考になりません。
彼女は、俺の感覚を理解できないようです」
「そうですか」雛子は、また静かに頷いた。
「では、斎藤くん。
少し、あなたの意識にアクセスさせてもらってもよろしいでしょうか? あなたの許可があれば、ICAの権限で、より深いレベルでのログ解析と、リアルタイムでのモニタリングが可能です。
もちろん、プライバシーには最大限配慮します。
あなたの不快にならない範囲で、ですが」
意識へのアクセス。
それは、俺の思考や感情、記憶に、彼女が直接触れるということだ。
少し、抵抗を感じた。
だが、同時に、好奇心もあった。
ICAのエージェント。
彼女は、俺のこの「進化」を理解できるのだろうか? あるいは、彼女自身も、俺と同じような経験をしているのだろうか?
それに、彼女は美しい。
冷たい印象だが、整った顔立ち、知的な瞳。
強い女だ。
だが、強い女だからこそ、俺のような、さらに強い男に導かれるべきなのではないか?
「…いいでしょう。
許可します」俺は、少し芝居がかった仕草で、鷹揚に頷いてみせた。
「ただし、俺のプライバシーは尊重してくださいよ」
「もちろんです」彼女は短く答えると、隣の黒猫に視線を送った。
「ジジ、接続を開始して」
黒猫が、にゃあ、と短く鳴いたように見えた。
次の瞬間、俺の意識の中に、何かが流れ込んでくる感覚があった。
それは、痛みでも、不快感でもない。
ただ、静かで、冷たい、しかし膨大な情報が、俺の思考の隙間を満たしていくような、奇妙な感覚だった。
これが、ICAのエージェントによる、インベイシブ・ダイブというものか。
俺は、目を閉じ、その感覚に身を委ねた。
彼女は、俺の意識の深淵で、何を見つけるのだろうか。
そして、俺自身も、この接続を通じて、何か新しい発見をするのかもしれない。
(見せてやろう。
俺の進化を。
そして、俺こそが、この新しい時代を導く存在なのだということを)
微かな高揚感とともに、俺の意識は、常楽院雛子という未知の存在と、深く、静かに接続され始めていた。




