第1章 再会の学院 4
あの奇妙なオンライン面談から、二日が過ぎていた。
明後日にはこちらへ着く、と彼女――ICAの常楽院雛子と名乗った女性は言っていた。
イタリアから? 一体どんな手段を使えば、そんな短時間で地球の裏側まで移動できるというのか。
専用の超音速機か何かかしら。
ICAという組織については、名前くらいしか知らない。
SIDCOMの関連機関で、SIDネットワークの安全管理やトラブルシューティングを行う部署、くらいの認識だ。
国際的な権限を持つ、エリート集団だという噂も聞いたことがあるけれど、詳しいことは何も知らなかった。
教師の私が知る必要もないことだ、と思っていた。
今までは。
今日の午後、彼女が学院に到着するという連絡が、学院長の山城先生から入った。
まずは学院長と、そして私とで面談をしたい、とのことだった。
正直、億劫だった。
ジェンキンス先生の失踪も、生徒たちのSIDの不調も、もちろん心配だし、解決しなければならない問題だとは思っている。
けれど、ICAなんていう、なんだか得体の知れない組織のエージェントと直接会って、丁々発止やり合わなければならないのかと思うと、気が重かった。
どうしてSID通信じゃダメなのかしら。
思考を飛ばせば一瞬で終わる話を、わざわざ顔を突き合わせて行う意味が、この2058年にどれだけあるというのだろう。
それでも、指定された時間に学院長室へ向かう。
これが仕事というものだ。
桜花学院の長い廊下は、相変わらず静まり返っていた。
掃除が行き届き、塵一つない。
けれど、どこか人の気配が希薄で、博物館の中を歩いているような気分になる。
これも、SIDが普及した影響なのかもしれない。
人々は物理的な空間よりも、情報が飛び交うネットワーク空間で過ごす時間の方が長くなっている。
顔を合わせて言葉を交わす機会は、昔に比べてずっと減った。
それは、教師と生徒の間でも同じだ。
授業連絡も、質疑応答も、進路相談さえも、多くはSIDを通じて行われる。
効率的ではあるけれど、味気ない、と感じるのは、私が古い世代の人間だからだろうか。
学院長室の重厚な扉をノックする。
中から「入りたまえ」という、山城先生の落ち着いた声がした。
「失礼します」
部屋に入ると、既に彼女はそこにいた。
ソファに深く腰掛け、背筋を伸ばしている。
オンライン面談で見たホログラム映像と同じ、シャープな黒いスーツ姿。
だが、生身の人間が放つ存在感は、やはり映像とは全く違っていた。
冷たい、という第一印象は変わらない。
けれど、その冷たさの奥に、揺るぎない意志の強さと、怜悧な知性が感じられる。
そして、その隣には、あの二本の尾を持つ黒猫――ファミリアのジジが、行儀よく座っている。
これもホログラムではなく、物理的な質量を持っているかのように、リアルな存在感を放っていた。
いや、まさか。
ファミリアが実体を持つなど、ありえないはずだ。
私のSIDに異常が起きているのか? それとも…。
「お待ちしておりました、常楽院調査官」山城先生が立ち上がり、慇懃に挨拶した。
「遠路はるばる、ご足労いただき感謝いたします」
「ICAの常楽院です。
こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます、山城学院長、岡崎先生」
彼女は立ち上がり、軽く会釈した。
その動作は洗練されていて、無駄がない。
声も、オンラインで聞いた時と同じ、涼やかで落ち着いた響き。
だが、やはり生の声には、ホログラムでは伝わらない微妙なニュアンスが含まれている。
(やっぱり、直接会うって、違うものなのね…)
私は、そう感じずにはいられなかった。
SIDを通じたコミュニケーションは、情報を正確に、効率的に伝えることには長けている。
だが、言葉にならない雰囲気、視線の交わし方、間の取り方、そういった非言語的な情報が、ごっそりと抜け落ちてしまう。
それが、人間同士の理解にとって、どれほど重要な要素だったのか。
私たちは、便利さと引き換えに、何か大切な感覚を鈍らせてしまったのかもしれない。
簡単な挨拶が終わり、彼女が再びソファに腰掛けようとした、その時だった。
彼女は、ふと動きを止め、少し芝居がかったような仕草で私たちを見回すと、居住まいを正した。
そして、予想もしなかった言葉を発したのだ。
「さて、こういう場では、まず仁義を切る、というのが日本の古式ゆかしい作法だと、ファミリアのジジが申しておりましたが…」
私と山城先生は、一瞬、顔を見合わせた。
仁義? ヤクザ映画か何かと勘違いしているのだろうか。
それとも、これは何かのジョーク? だが、彼女の表情は真剣そのものだ。
隣の黒猫が、したり顔で頷いているように見えるのは、気のせいだろうか。
そして彼女は、よどみなく、あの奇妙な口上を始めたのだ。
「わたくし、生まれは石川加賀、育ちは新東京文京区白山です。
山代温泉で産湯を使い、姓は常楽院、名は雛子、人呼んで『菊理媛命の雛』と発します。
不思議な縁持ちまして、たったひとりの弟のために粉骨砕身、売に励もうと思っております。
西に行きましても東に行きましても、とかく土地のおアニィさんにごやっかいかけがちな若僧でございます。
以後、見苦しき面体、お見知りおかれまして恐縮万端引き立てて、よろしく、お願い申し上げます」
言い終えると、彼女は深々と頭を下げた。
しん、と静まり返る学院長室。
私と山城先生は、開いた口が塞がらない、という表現がぴったりの状態で固まっていた。
昭和どころか、江戸時代の侠客でもあるまいし。
一体、彼女のファミリアは、どこの時代の、どんなデータベースを参照したというのだろう。
「……ええと、常楽院…さん」山城先生が、やや引きつった笑顔で口を開いた。
「その…大変丁寧なご挨拶、痛み入ります。
ですが、現代の日本では、そのような挨拶をすることは、まず…ございませんな」
「あら、そうなのですか?」彼女は、少し意外そうな顔をして首を傾げた。
「ジジに日本のビジネスプロトコルを調べさせたのですが…どうやら参照した資料が古すぎたか、あるいは偏っていたのかもしれませんね。
失礼いたしました」
あっけらかんと言ってのける彼女に、私はもう、呆れるしかなかった。
ICAのエリートというのは、皆こうなのだろうか。
それとも、彼女が特別なのか。
「まあ、形式はともかく」彼女は気を取り直したように言った。
「本題に入らせていただきます。
岡崎先生から伺った生徒たちのSIDの不調、そしてジェンキンス先生の失踪。
この二つの事象に関連性はあるのか、それともないのか。
まずは、そこから明らかにしていきたいと思います」
その言葉には、先ほどの奇妙な挨拶とは打って変わって、プロフェッショナルとしての厳しさが宿っていた。
彼女は、ICAがこの事態を極めて深刻に捉えていることを、改めて示唆しているようだった。
「生徒たちのSIDログについては、既にそちらへ転送済みのはずですが」私が言うと、彼女は頷いた。
「ええ、拝見しました。
表層的なログデータだけでは、断定的なことは言えません。
システムエラーの可能性も、外部からの干渉の可能性も、そして…使用者自身の精神状態に起因する不具合の可能性も、現時点では否定できません」
「外部からの干渉…ハッキング、ということですか?」山城先生が問い返す。
「あるいは、もっと未知の…例えば、未認可のアプリケーションや、違法な電子ドラッグの影響も考えられます。
岡崎先生、そのあたりについて、何か心当たりは?」
雛子の鋭い視線が、私に向けられる。
「いえ、直接的な証拠は何も…ただ、最近、生徒たちの間で『ガム』と呼ばれるものが流行っているという噂は耳にしました。
それが電子ドラッグの一種だという話も…」
「ガム…」雛子は短く繰り返した。
その瞳の奥で、高速で情報が処理されているのが分かる気がした。
「それについて、もう少し詳しく教えていただけますか?」
私は、自分が聞き知っている限りの情報を話した。
出所不明の違法アプリ、種類によって様々な精神作用をもたらすこと、アンダーグラウンドで取引されていること。
ただし、学院内で具体的に誰が、どのように関わっているのかまでは、掴めていなかった。
「なるほど…」雛子は静かに頷いた。
「岡崎先生、ジェンキンス先生の失踪に関してですが、ICAの調査とは別に、何か個人的に動かれていたりはしませんか? 例えば、外部の調査機関に依頼するとか」
その質問は、不意打ちだった。
まさか、そこまで見抜かれているとは。
私は一瞬、言葉に詰まったが、すぐに平静を装って答えた。
「…ええ、実は。
ジェンキンス先生とは長年親しくさせていただいておりましたので、個人的にも心配で…。
警察の捜査とは別に、念のため、民間の調査員の方にも、情報収集をお願いしています。
多角的な視点があった方が良いかと思いまして」
もちろん、調査員の名前や、ICAが接触してきたことは伏せた。
どこまで話すべきか、まだ判断がつかない。
「そうですか」雛子の表情は変わらなかった。
「その調査員の方には、ICAが介入していることは?」
「いえ、まだ伝えておりません」
「結構です。
当面はそのままで。
ただし、何か進展があれば、必ず私に報告してください。
情報共有は迅速にお願いします」
彼女の口調は、有無を言わせぬ響きを持っていた。
ICAという組織の力を背景にしているだけでなく、彼女自身が持つ揺るぎない自信のようなものが感じられる。
面倒な相手だ、というのが私の正直な感想だったが、同時に、この人なら、この複雑怪奇な事件を解決してくれるかもしれない、という微かな期待も抱いていた。
「承知いたしました」私は頷いた。
「では、岡崎先生。
これから、問題の生徒さんたちと、直接面談させていただきたいと思います。
まずは、斎藤嘉樹くんからお願いできますか?」
「はい、すぐに手配します」
私は立ち上がり、学院長に一礼して部屋を出た。
扉を閉める間際、ソファに座る雛子と、その足元で欠伸をする黒猫の姿が視界の端に映った。
(これから、一体どうなるのかしら…)
廊下を歩きながら、私は再び重いため息をついた。
面倒だ。
本当に面倒だ。
だが、もう後戻りはできない。
この学院の深い影に、足を踏み入れてしまったのだから。
雨は、いつの間にか上がっていた。
雲の切れ間から差し込む西日が、濡れた中庭の木々を、まるでSIDのAR表示のように、不確かな光で照らし出していた。