第1章 再会の学院 2
着陸態勢に入ったのだろう、旅客機の高度が徐々に下がっていくのが分かった。
シートベルト着用を促すサインが、ぽん、と軽い音を立てて点灯する。
俺は、背もたれに預けていた身体を起こし、小さな楕円形の窓に額を押し付けた。
眼下に広がるのは、福岡の夜景だ。
西暦2058年9月12日。
故郷の土を踏むのは、実に十年ぶりになる。
あの忌まわしい関東地獄地震で東京が海の底に沈み、日本の重心がこの九州の街に移ってから、もう二十年以上が経つ。
長いような、短いような。
アメリカでの暮らしに疲れて、半ば逃げるようにこの街に戻ってきて、探偵まがいの仕事を始めてからも、もう十年が過ぎた。
窓の外の光景は、十年前と比べて、さらに輝きを増しているように見えた。
特に、街の南東部、SEFUK(南東福岡)と呼ばれるエリアの光は尋常ではない。
高層ビル群が放つレーザーのような光線、夜空を彩る巨大なホログラム広告(今となっては珍しいが、富裕層向けのエリアではまだ健在らしい)、そして、一つ一つの窓から漏れる生活の灯り。
それらが渾然一体となって、まるで宝石箱をひっくり返したような、あるいは、天の川が地上に降りてきたかのような、圧倒的な光の奔流を作り出している。
一方で、俺がこれから向かう北西福岡、NWFUKの灯りは対照的に控えめだ。
古い住宅街や工場地帯が広がるこのエリアは、SEFUKの華やかさとは無縁の、落ち着いた、悪く言えば停滞した空気を漂わせている。
光の量の違いが、そのまま経済的な格差を表しているようで、少しばかり胸が痛んだ。
SIDが普及し、情報格差がそのまま経済格差に直結するようになったこの世界で、光の届かない場所は、確実に存在しているのだ。
「お客様、まもなく着陸いたします。
電子機器の電源をお切りになるか、フライトモードに設定してください」
キャビンアテンダントの、抑揚のないアナウンスが流れる。
俺はポケットから旧式のスマートフォンを取り出し、機内モードに切り替えた。
周りの乗客たちに目を向ける。
彼らのほとんどは、おそらくSIDを通じて直接情報を得ているのだろう、窓の外の景色に見入るでもなく、目を閉じていたり、あるいは虚空を見つめるような表情をしていたりする。
最新型のSIDは、もはや外部デバイスを必要としない。
ナノマシンが脳内に直接定着し、思考だけでネットワークと接続する。
彼らの意識は今、この窮屈な機内ではなく、広大なインターワールドのどこかを漂っているのかもしれない。
俺のようなアンプラグドは、この旅客機の中にも、おそらく数えるほどしかいないだろう。
俺は、いまだに脳に機械を埋め込むことに、生理的な抵抗を感じている。
あの忌まわしい記憶――SIDの初期の副作用で両親が立て続けに命を落とした――が、トラウマとして深く刻み込まれているせいもある。
だが、それだけではない。
思考や感情までもがネットワークに接続され、共有される。
そんな世界が、本当に人間にとって幸せなのだろうか。
俺にはどうしても、そうは思えなかった。
便利さや効率性と引き換えに、失われているものがあるのではないか。
孤独を感じる権利、間違う自由、そして、自分だけの内面世界を持つという、人間としての尊厳。
そんな、時代遅れと言われるかもしれない感傷が、俺をアンプラグドの側に留まらせている。
それは、この社会では少数派の生き方だ。
情報の奔流から取り残され、経済的にも不利な立場に置かれることが多い。
まるで、わざわざ効率の悪い道を選んで歩いているようなものだ。
だが、それでも俺はこの生き方を選んだ。
ネットワークの光が届かない場所にこそ、見過ごされがちな真実が隠されていると信じているからだ。
機体が、がくん、と一度大きく揺れ、滑走路に着地した衝撃が伝わってくる。
逆噴射の轟音。
窓の外を、空港の誘導灯が高速で流れていく。
福岡空港、通称FUK。
奇妙な名前だが、今や日本の、いやアジアの空の玄関口として、巨大なハブ空港へと変貌を遂げていた。
飛行機が完全に停止し、シートベルト着用サインが消えると、乗客たちは一斉に立ち上がり、手荷物を降ろし始めた。
彼らの動きは滑らかで、無駄がない。
おそらくSIDを通じて、降機の手順や到着ゲートの情報などをリアルタイムで受け取っているのだろう。
俺のように、案内表示を探してきょろきょろする必要はないのだ。
(やれやれ、また置いてけぼりか)
自嘲気味に呟きながら、俺はゆっくりと席を立った。
預け荷物はない。
十年ぶりに帰ってきたというのに、持ち物は小さなボストンバッグ一つだけだ。
身軽なのはいいが、少しばかり寂しい気もする。
今回の帰郷は、感傷に浸るためではない。
仕事だ。
それも、少々厄介な臭いのする仕事。
数日前、古い知人――と言っても、ネット上の付き合いがほとんどで、本名も素性もよく知らない相手だが――ディアムと名乗る情報屋から、奇妙な依頼が舞い込んできたのだ。
『福岡桜花学院で起きている、不可解な出来事を調べてほしい』
それが依頼内容だった。
桜花学院。
NWFUKの山手に広大な敷地を持つ、全寮制のエリート男子校。
血族主義を掲げる、時代錯誤な金持ちたちのための閉鎖的な学び舎。
そこで、一体何が起きているというのか。
ディアムが送ってきた断片的な情報によれば、最近、学院内でポルターガイストのような現象が頻発しているらしい。
物が勝手に動く、誰もいないはずの場所から声が聞こえる、奇妙な人影が目撃される。
生徒たちの間では、幽霊の仕業だとか、呪いだとか、そんな噂がまことしやかに囁かれているという。
さらに、一部の生徒たちの間で、SIDの不調が相次いでいるらしい。
幻覚を見る、思考渦(THOUGHT VORTEX)に陥る、ファミリアが異常な動作をする。
中には、精神的に不安定になり、自殺未遂を起こした生徒もいるとか。
そして、極めつけは、担当教師の一人が二週間前から行方不明になっていること。
エドワード・マイケル・ジェンキンス。
アメリカ出身の老教師で、アンプラグド。
彼もまた、俺と同じ側の人間だったということか。
ポルターガイスト、SIDの不調、教師の失踪。
これらが単なる偶然とは、到底思えなかった。
ディアムもそう考えたのだろう。
彼は、学院の内部に何か秘密が隠されているのではないかと疑っていた。
特に、学院内で密かに流通していると噂される、違法な電子ドラッグ「ガム」との関連を。
ガム。
チューインガムのような形状をした、ナノマシンを含む記憶デバイス、あるいは精神作用プログラム。
口に含み、噛むことで、粘膜を通じてSIDに直接作用する。
公式には存在しないはずの、アンダーグラウンドな代物だ。
その効果は様々で、一時的な能力向上をもたらすものから、強烈な快楽や幻覚を引き起こす、まさしく「ドラッグ」そのものまであるという。
もちろん、取引は非合法で、アンダーウェブか、あるいは現金による直接取引でしか手に入らない。
ディアムは、桜花学院で起きている一連の奇妙な出来事の背後に、このガムの存在があるのではないかと睨んでいた。
もしかしたら、学院自体が、何らかの形でガムの製造や流通に関与している可能性すらある、と。
そして、ジェンキンス先生の失踪も、彼が何かを探り当ててしまったからではないか、と。
(まったく、胡散臭い話だ)
俺は、人波に押されるようにタラップを降りながら、ため息をついた。
エリート養成校の闇。
違法ドラッグ。
失踪した教師。
まるで三流のサイバーパンク小説のような筋書きだ。
だが、ディアムの情報は、これまで外れたことがない。
彼の嗅覚は、ネットワークの深淵に潜む悪意を嗅ぎつけることに長けている。
報酬は破格だった。
前金として、既に俺の秘匿口座にかなりの額が振り込まれている。
ディアムがそれだけの価値があると判断した案件なのだ。
断る理由はなかったし、正直に言えば、少しばかり好奇心も刺激されていた。
SIDが支配するこの滑らかな世界の、見えない亀裂。
そこに蠢く、人間の欲望や悪意。
アンプラグドの俺だからこそ、見えるものがあるのかもしれない。
SIDに接続された彼らには捉えられない、生身の、アナログな現実の断片。
到着ロビーの喧騒の中へ足を踏み入れる。
様々な言語が飛び交い、最新のファッションに身を包んだ人々が行き交う。
彼らの多くは、視線を宙に漂わせ、俺には見えない情報を追っている。
俺だけが、この物理的な空間の重みと、湿った空気の匂いを、ありのままに感じている。
取り残されている、という感覚は、もう慣れっこだ。
むしろ、この感覚こそが、俺を探偵稼業に向かわせているのかもしれない。
スマートフォンを取り出し、ディアムから指定された連絡先に、到着を知らせる短いメッセージを送る。
すぐに既読のマークがついたが、返信はない。
彼はいつもそうだ。
必要な情報だけを投げ渡し、あとは沈黙を守る。
俺はタクシー乗り場へと向かった。
自動運転のポッド型タクシーが、静かに列を作っている。
これも十年でずいぶん変わった風景だ。
かつては人間が運転する旧式のタクシーも走っていたが、今ではほとんど見かけない。
行き先を告げる。
桜花学院ではなく、まずはNWFUKの安宿だ。
本格的な調査は明日から始める。
今夜は長旅の疲れを癒し、頭の中を整理する必要があった。
ポッドが滑り出す。
窓の外を、未来都市の夜景が再び流れ始めた。
華やかな光と、その下に広がる影。