エピローグ
あれから、どれくらいの時間がたったのだろうか。
意識が戻った時、俺は桜花学院の、どこかの小高い丘の上に立っていた。
目の前には、信じられない光景が広がっている。
つい数時間前まで、重厚な石造りの威容を誇っていたはずの校舎が、まるで巨大な何かに蹂躙されたかのように、無残な瓦礫の山と化していたのだ。
所々で黒煙が上がり、焦げ臭い匂いが鼻をつく。
これが、あの雛子と、そしてシャオ・ツーとかいうガキが放った、霊子エネルギーの衝突の結果だというのか。
人間の意識が、これほどの物理的な破壊をもたらすとは…。
隣には、雛子が静かに立っていた。
彼女の身体を包んでいた、あの七色のオーラはもう消えている。
だが、その佇まいは、以前よりもどこか力強く、そして、不思議なほどの静けさと優しさに満ちているように見えた。
彼女の足元では、ファミリアのジジが、黒猫の姿に戻り、何事もなかったかのように、丁寧に自分のからだを舐めている。
「…ICAへの報告は、済ませたのか?」俺は、掠れた声で尋ねた。
「ええ」彼女は、瓦礫の山から視線を外さずに答えた。
「ついさっき、セキュア回線で。状況の概略と、関係者の保護要請を。
シャオ・ツーくんは、意識不明のまま、ICAの医療施設へ移送されたわ。
厳重な監視下…いえ、保護下に置かれることになるでしょう。
彼の精神状態が安定するまでは、外部との接触は一切禁止されるはずよ」
「保護、ね…」俺は、皮肉っぽく呟いた。
「あのガキも、結局は山城の駒だったってことか。哀れなもんだな」
「ええ…」彼女の声には、深い哀しみが滲んでいた。
「彼もまた、被害者よ。
歪んだ理想と、制御不能な力に翻弄された、哀れな子供たち。
私たちは、彼を救わなければならない。
そして、二度とこのような悲劇を繰り返さないために、真実を明らかにしなければ。
…ただ、エリカ・ロドリゲスさん。
彼女は、まだ行方が分からないままなの。
学院のどこにも、彼女の痕跡は見つからなかった」
エリカ・ロドリゲス。
あのミステリアスな少女もまた、この混乱の中で姿を消したというのか。
彼女も、シャオ・ツーと同じように、何者かに連れ去られたのだろうか。
しばらくの間、俺たちはただ黙って、破壊された学院の姿を見つめていた。
朝日が、瓦礫の隙間から差し込み、長い影を落としている。
鳥のさえずりが、どこからか聞こえてくる。
まるで、この惨状が嘘であるかのように、世界はいつもと変わらない朝を迎えようとしていた。
今回の事件は、これで一応の収束を見た、ということになるのだろうか。
山城は消滅し、彼の狂気的な計画は阻止された。
シャオ・ツーはICAの保護下に。
だが、これで終わったわけではない。
ジェンキンスは、依然として行方不明のまま。
彼が、この事件の真相を知る、鍵を握っているのかもしれない。
そして、プロジェクト・ジェネシス。
その全貌は、未だ深い謎に包まれたままだ。
ジジが、大きな欠伸を一つして、猫特有の、しなやかな動きで背伸びをした。
そして、まるで「退屈だ」とでも言いたげに、俺の足にスリスリと身体を擦り付けてきた。
「…なあ、雛子」俺は、不意に、ずっと心の奥底で燻っていた疑問を口にした。
「お前、恋人とか…いるのか?」
唐突な質問だった。
自分でも、なぜそんなことを聞いたのか、よく分からない。
ただ、あの七色の光に包まれた彼女の姿が、あまりにも神々しく、そして同時に、どこか遠い存在のように感じられて、確かめずにはいられなかったのかもしれない。
雛子は、一瞬、虚を突かれたように俺の顔を見たが、すぐに悪戯っぽい、昔と少しも変わらない笑みを浮かべた。
「いないわよ。結婚もしてないし」
その答えに、俺の胸の奥で、何かが、ほんの少しだけ軽くなったような気がした。
馬鹿な。
今更、何を期待しているというのだ。
俺たちは、もう十年も前に終わった関係だ。
それに、彼女はICAのエージェントで、俺は場末の探偵。
住む世界が違いすぎる。
俺が、何か別の言葉を探して口ごもっていると、彼女は、さらに言葉を続けた。
「けど…赤ちゃんがいるけどね」
「……は?」
俺の思考が、完全に停止した。
赤ちゃん? 誰の? いつの間に?
彼女は、悪戯が成功した子供のように、くすくすと笑いながら、優しく自分のお腹を撫でた。
その表情は、これまでに見たどんな彼女よりも、穏やかで、そして慈愛に満ちていた。
「あ、あか…!? い、いつの間に…いや、誰の子だ!? っていうか、お前、そんな身体で、あんな無茶な戦いを…!?」
俺は、しどろもどろになりながら、言葉にならない言葉を叫んでいた。
驚きと、混乱と、そして、ほんの少しの…嫉妬? いや、それはないか。
雛子は、俺の狼狽ぶりを見て、声を上げて笑った。
こんな風に、彼女が心から笑うのを見たのは、本当に久しぶりだった。
十年という歳月が、まるで一瞬にして消え去ったかのような、そんな錯覚さえ覚えた。
「今、妊娠五ヶ月。父親は…まあ、そのうち、ね」
彼女は、そう言って、再び自分のお腹に視線を落とした。
その横顔は、聖母のように美しく、そして、どこか儚げだった。
(五ヶ月…)
だとしたら、父親は…。
いや、考えるのはよそう。
それは、俺が踏み込むべき領域ではない。
『やれやれ、人間のオスというのは、どうしてこうも鈍感なのかねぇ』
ジジが、呆れたような声で、俺の思考に直接ツッコミを入れてきた。
その金の瞳が、意味ありげに俺と雛子を交互に見ている。
こいつ、何か知っているのか?
だが、そんな俺の疑問をよそに、雛子は、朝日が昇り始めた東の空を見つめていた。
第一部 「ノイズ・イン・ザ・クラスルーム」 完




