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山城の狂気に満ちた演説が、ついに終わった。
廃墟と化した礼拝堂の中には、彼の甲高い笑い声の残響だけが、まるで悪夢の余韻のように、不気味に漂っている。
彼の瞳は、未だ狂信的な光を宿し、私たちを見下ろしている。
その姿は、もはや教育者ではなく、自らを神だと信じ込んだ、危険な預言者のようだった。
息苦しいほどの沈黙が、空間を支配する。
グレッグの荒い息遣いだけが、やけに大きく聞こえた。
私は、心の奥底から湧き上がる嫌悪感と怒りを、氷のような冷静さの仮面の下に押し込めた。
感情に流されれば、彼の思う壺だ。
今は、彼の言葉の真意と、その計画の全貌を正確に見極めなければならない。
山城は、満足げに私たちを見回すと、ふと、その視線を虚空に向けた。
その瞳の奥で、何かが揺らめいたように見えた。
それは、過去の記憶の断片か、あるいは、彼自身が生み出した妄執の影か。
彼の唇が、微かに動く。
まるで、ここにいない誰かに語りかけるかのように。
数ヶ月前、まだジェンキンスがこの学院にいた頃。
放課後の学院長室。
夕暮れ前の、白っぽい光が満ちる部屋。
アポイントもなしに現れたジェンキンスの、鋭い眼光。
「学院長…この学院で、生徒たちのSIDに対して、何か特殊な『教育プログラム』が行われているのではありませんか?」
核心を突く言葉。だが、動揺は見せない。
「『特別教育プログラム』、ですか? ジェンキンス先生、それは一体、何のことですかな?」
「お言葉ですが、学院長。
私は、この学院が掲げるバンディズムというものが、単なる伝統墨守や、血統の誇示だけではないことを見抜いております。
それは、人間の精神、意識そのものに介入し、それを特定の方向に『進化』させようとする、ある種の選民思想に基づいた、危険な試みなのではないかと。
そして、そのために、生徒たちのSIDが利用されている…そうではありませんか?」
やはり、この老教師は侮れない。
だが、まだだ。まだ、全てを明かす時ではない。
「ジェンキンス先生、あなたの想像力は、少々豊かすぎるようですな。
我々は、ただ、生徒たちの持つ可能性を最大限に引き出すための、先進的な教育を実践しているに過ぎませんよ」
「そうでしょうか? 生徒たちの中には、SID装着後、精神的に不安定になったり、現実認識に異常をきたしたりする者も出ています。
それは、単なる『先進的な教育』の副作用として片付けられるものでしょうか?」
「それは、個々の生徒の適性や、精神的な素因の問題でしょう。
SIDという新しい技術に、全ての人間が等しく適応できるわけではない。
それは、仕方のないことです」
「そうじゃない!」彼の声が、初めて感情的に震えた。
「人間の価値は、技術への適応能力で決まるものではない! 生徒たちの精神を、まるで実験動物のように扱うなど、教育者として、いや、人間として、断じて許されることではない!」
純粋な理想主義。
眩しく、そして滑稽だ。
「君はどう思うかね、ジェンキンス先生。
今のこの社会を。
SIDが普及し、情報は民主化され、誰もが平等に知識を得られるようになったはずだ。
だが、現実はどうだ? 格差は依然として存在し、人々は孤独を深め、そして、多くは自ら考えることを放棄し、AIが提供する安易な快楽に溺れている。
これが、君の言う『人間の尊厳』に満ちた社会かね?」
彼の顔に浮かぶ、深い絶望の色。
そうだ、気づくがいい。
人間の限界に。
「…君にも、いずれ理解できる日が来るかもしれん。
我々が目指す、真の進化の意味を。
その時が来れば、君もまた、我々の側に立つことになるだろう」
「あなたの考えは、間違っている」絞り出すような声。
だが、もう力はない。
「私は、この学校の、あなたが隠している何かを、必ず…必ず、白日の下に晒してみせる」
それが、彼との最後の会話だった。
彼は、知りすぎたのだ…。
山城の表情が、ふっと現実に引き戻されたように、再び私たちに向けられた。
彼の瞳の奥の揺らめきは消え、そこには、先ほどまでの狂信的な光とは違う、もっと冷たく、計算高い光が宿っている。
彼は、ジェンキンスとの最後の会話を反芻し、そして、自らの計画の正当性を再確認したのかもしれない。
「…山城学院長」私の声は、自分でも驚くほど、冷たく、そして研ぎ澄まされた刃のように響いた。
「あなたの語る『理想』とやらは、聞き届けました。
ですが、それは、あまりにも独善的で、自己中心的で、そして何よりも…人間という存在に対する、絶望的なまでの無理解と侮蔑に満ちている」
グレッグが、わたしの隣で息を呑む気配がした。
彼の握りしめた拳は、怒りで骨が浮き出るほどに白くなっている。
「あなたは、SIDがもたらした格差を嘆き、人々がAIに依存し、思考停止に陥っていると断じる。
それは、ある側面では否定できない現実かもしれません。
ですが、それはSIDという技術そのものが持つ原罪なのでしょうか? それとも、その技術を、人間の弱さや欲望に巧みに付け入る形で利用し、社会を歪め、格差を助長し、そして今、子供たちの魂までも実験道具として弄ぼうとしている、あなたのような人間たちの責任なのでしょうか?」
私の言葉は、鋭い刃のように、山城の歪んだ自己正当化を切り裂いていく。
彼の表情が、初めて微かに歪んだように見えた。
「あなたは、選ばれた精神が、永遠に人類を導くべきだとおっしゃる。
素晴らしい理想ですこと。
ですが、その『選ばれた精神』とは、一体誰が、どのような傲慢な基準で選別するのですか? あなた自身ですか? それとも、あなたと同じ、歪んだ特権意識に凝り固まった、時代遅れのバンディズムの亡霊たちですか? それは、歴史が何度も、血と涙をもって証明してきた、独裁と圧政、そして衆愚への道そのものではありませんか? 人類は、そんな愚かで悲惨な過ちを、もう二度と繰り返してはならない。
そのために、私たちICAが存在するのです」
「そして、霊子。
その未知の、そしておそらくは制御不能な力が、本当にあなたの言うような、都合の良い『奇跡の道具』として、人間に服従すると、本気で信じているのですか? 私たちICAは、霊子の研究を進める中で、その力のあまりの巨大さと、予測不可能な危険性に、むしろ畏怖の念を禁じ得ません。
それは、人類が安易に手を触れてはならない、禁断の果実。
一度その味を知ってしまえば、この世界そのものを、取り返しのつかない破滅へと導きかねない、パンドラの箱なのです。
あなたが行っていることは、その箱を、自らの手でこじ開けようとしていることに他ならない!」
私は、一気にそこまで言い切ると、一度、荒い息をついた。
グレッグが、心配そうに私の肩に手を置こうとしたが、私はそれを制した。
まだだ。
まだ、彼に伝えなければならないことがある。
「…あなたは、数ヶ月前、ジェンキンス先生と、あなたの学院長室で対峙しましたね?」
私の言葉に、山城の眉が、ぴくりと痙攣した。
やはり、私の推測は当たっていたようだ。
「ジェンキンス先生は、あなたの狂気に満ちた計画に気づき、それを止めようとしていた。
だから、あなたは彼を…排除したのですか?」
グレッグが、抑えきれない怒りを込めて、山城に問い詰めた。
その声は、獣の咆哮のように、礼拝堂の冷たい石壁に反響した。
山城は、何も答えなかった。
ただ、その顔には、先ほどまでの狂信的な輝きとは違う、もっと暗く、冷たい影が差していた。
それは、後悔の色なのか、それとも、自らの罪を自覚した者の、底なしの絶望の色なのか。
私には、判断がつかなかった。
だが、一つだけ確かなことがある。
この男の狂気を、止めなければならない。
彼が解き放とうとしている災厄から、この学院の生徒たちを、そして、この世界を守り抜かなければならない。
「山城学院長」私は、静かに、しかし鋼のような意志を込めて言った。
「あなたの歪んだ理想郷の建設は、ここで終わりです。
私たちICAは、そして、この世界の良識ある全ての人々は、全力で、あなたを阻止します」
その言葉は、まるで最終決戦の始まりを告げる号砲のように、廃墟と化した礼拝堂の、砕け散ったステンドグラスの破片がきらめく空間に、重く、そして厳かに響き渡った。
山城の背後の闇が、さらに深く、濃くなったような気がした。