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朝靄がまだ学院の森を淡く包み込んでいる、そんな時刻だった。
私とグレッグ、そして私のファミリアであるジジは、シャオ・ツーの記憶の中にあった古い研究棟を目指し、学院の北西に広がる森の奥深くへと足を踏み入れていた。
露に濡れた下草が、私たちの足元で微かな音を立てる。
鳥のさえずりもまだ聞こえない、静寂に満ちた森。
だが、その静寂は、どこか不気味な緊張感を孕んでいた。
研究棟は、思ったよりも簡単に見つかった。
蔦に覆われ、窓ガラスの多くが割れた、廃墟同然の建物。
だが、その周囲には、やはりシャオ・ツーの記憶通り、微弱ながらも特殊なエネルギーフィールドが展開されている気配があった。
おそらく、霊子に関連する何らかの実験が行われていた痕跡なのだろう。
「…気味が悪い場所だな」グレッグが、低い声で呟いた。
彼の顔には、アンプラグドである彼にも感じ取れる、この場所の異様な雰囲気に対する警戒心が浮かんでいる。
建物の中は、予想通り荒れ果てていた。
埃とカビの匂いが鼻をつく。
床には実験器具の残骸らしきものが散乱し、壁には意味不明な数式や図形が殴り書きされている。
だが、奇妙なことに、私たちが進む通路の先々で、まるで誰かが道案内でもしているかのように、古い照明が、チカ、チカ、と頼りなげに点滅を繰り返していた。
「…罠、かしら?」私が言うと、グレッグは肩をすくめた。
「かもしれねえな。だが、ここまで来ちまった以上、進むしかねえだろ」
『まあ、招いてくれてるみたいだしね。丁重にお邪魔させてもらおうじゃないか』ジジが、私の隣で軽口を叩く。
だが、彼の金の瞳は、油断なく周囲を警戒していた。
やがて、私たちは、建物の最奥部にある、広い空間へと辿り着いた。
そこは、かつて礼拝堂か何かとして使われていたのだろうか。
天井は高く、正面には大きなステンドグラスの嵌め殺しの窓があったが、そのほとんどは割れ落ち、外の薄暗い光が、床に散らばるガラスの破片を鈍く照らし出している。
そして、その空間の中央に、一人の男が静かに立っていた。
学院長、山城。
彼は、私たちの方へゆっくりと向き直ると、まるで旧知の友人を迎えるかのように、穏やかな笑みを浮かべた。
だが、その瞳の奥には、狂信的な、そしてどこか人間離れした光が宿っている。
「お待ちしておりましたよ、常楽院調査官。そして…木暮雅人君、でしたかな?」
彼の声は、静かだが、この広い空間の隅々にまで響き渡った。
「シャオ・ツーくんの記憶を辿って、ここまで来られるとは…さすがはICAのエージェント、そして、腕利きの探偵といったところですかな」
「山城学院長」私は、警戒を解かずに言った。
「単刀直入に伺います。
この学院で、一体何が行われているのですか? ジェンキンス先生の失踪、生徒たちのSIDの不調、そして…霊子。
すべて、あなたが関わっているのですね?」
彼は、私の問いには直接答えず、ゆっくりと両手を広げた。
まるで、これから壮大な演説でも始めるかのように。
「我々の目的は、真の『継承』だ」彼の声は、次第に熱を帯びていく。
「優れた血統、選び抜かれた精神、そして不滅の知識。
それらを、SIDと、そして君たちが『霊子』と呼ぶ未知の力を用いて、若く、健康な『器』へと転移させる。
それこそが、人類が老化と死の軛から逃れ、永遠の進化を遂げる唯一の道なのだよ」
その言葉は、あまりにも突拍子もなく、そして恐ろしい響きを持っていた。
グレッグが、隣で息を呑むのが分かった。
時は遡る。
2030年代後半。
まだSID技術が黎明期にあり、その可能性と危険性が、一部の先見的な科学者たちの間で激しく議論されていた時代。
山城は、若き日の野心に燃える研究者として、国際暗黒物質応用科学研究所(IIASDM)の一員だった。
彼の専門は、素粒子物理学と、人間の意識に関する情報理論。
当時、IIASDMは、グラン・サッソ国立研究所や、エンジェルシュタイン研究所、ベルカント実験基地といった、世界各地の先端研究機関と連携し、ある壮大なプロジェクトを極秘裏に進めていた。
「プロジェクト・ジェネシス」。
それは、人間の意識、記憶、感情、思考パターンといった、人格を構成する全ての要素をデジタルデータとして抽出し、保存し、そして再構成するという、前代未聞の試みだった。
その目的は、肉体という枷から精神を解放し、永遠の存在へと昇華させること。
あるいは、優れた個人の意識を、より優れた「器」へと移植することで、人類全体の進化を加速させること。
山城は、そのプロジェクトの中核メンバーの一人として、研究に没頭していた。
彼は、人間の脳を、高性能な、しかし寿命のあるハードウェアと捉え、そこに搭載されたソフトウェア(精神)こそが、人間の本質だと信じていた。
そして、そのソフトウェアを、より高性能で、より永続的なプラットフォームへと移行させることこそが、人類に残された唯一の進化の道だと確信していた。
だが、プロジェクトは困難を極めた。
SID技術は未熟で、意識のデジタル化は不完全であり、多くの被験者がSIPSS(SID誘発型精神音響症候群)や、その他の深刻な精神的障害を発症した。
倫理的な問題も山積し、プロジェクトは内外からの激しい批判に晒された。
そんな中、ある情報が、山城たち研究チームにもたらされた。
それは、IIASDMとは別のルートで、胎児の段階でSIDを埋め込み、霊子と呼ばれる未知のエネルギーとの親和性を高めることで、驚異的な精神能力を持つ個体を生み出そうとする、さらに過激な実験が行われているという情報だった。
「始まりの子供たち」。
その存在を知った時、山城は歓喜に打ち震えた。
これこそが、彼らの理想を実現するための、失われたピースだと。
霊子。
それこそが、意識と物質を繋ぎ、完全な人格転移を可能にする鍵なのだ、と。
山城の独白は、恍惚とした熱を帯び、もはや演説のようだった。
彼の瞳は、遠い理想郷を見つめるかのように、らんらんと輝いている。
「ガムは、そのための選別ツールだ」彼は、うっとりとした表情で続けた。
「あれによって、人格転移に適性のある、優秀な『器』を見つけ出すことができる。
霊子に対する感受性が高く、そして、我々の精神を受け入れるに足る、強靭な若き肉体。
それが、我々が求めるものだ」
「…ふざけるな!」
グレッグの、抑えきれない怒りの声が、礼拝堂の冷たい空気を震わせた。
彼の握りしめた拳が、小刻みに震えている。
「子供たちの精神を弄び、薬物で汚染し、そして、自分たちの欲望のために、その身体を乗っ取ろうというのか! それが、お前たちの言う『進化』なのか!?」
「進化には、常に犠牲が伴うものだよ、木暮君」山城は、グレッグの怒りを、まるで子供の癇癪でもあやすかのように、冷ややかに受け流した。
「君の両親もまた、SID技術の進化のための、尊い犠牲だった。
そうは思わないかね?」
その言葉は、グレッグの心の傷を、容赦なく抉った。
彼の顔が、怒りと悲しみで歪む。
「脳は、所詮ハードウェアに過ぎん」山城は、両手を広げ、芝居がかった仕草で言った。
「個体差があり、経年劣化もする。
ならば、より優れた、新しいハードウェアに、我々の精神を移し替え、永遠にアップデートし続けるべきではないかね? それこそが、最も合理的で、そして美しい解決策だとは、思わんかね?」
彼は、狂ったように笑い始めた。
その甲高い笑い声が、廃墟と化した礼拝堂に、不気味に響き渡る。
「かつて、SIDCOMの創業者の一人、マイケル・ウォンは語ったそうだ。
『SID技術は、情報格差をなくし、全ての人類を知識と繁栄へと導く光となるだろう』と。
美しい理想だ。
だが、現実はどうだね? SIDが普及して数十年。
貧富の差は、むしろ拡大した。
情報は民主化されたはずなのに、それを正しく理解し、活用できる人間と、そうでない人間の間には、埋めがたい知性の格差が生まれた。
アンプラグドの人間たちは、もはや社会のお荷物だ。
そして、プラグドの中にも、SIDの力を使いこなせず、ただ情報の奔流に溺れているだけの、哀れな魂のなんと多いことか!」
彼の声は、次第に大きくなり、叫びに近いものへと変わっていく。
「制度が悪いのではない! 人間が、そういうふうに出来ているのだ! 一部の優れた指導者と、その他大勢の、導かれるべき愚かな民。
それが、人類の、数万年にわたる変わらぬ姿ではないのかね!? SIDは、その構造を、より効率的に、より強固にするための、最高の道具なのだよ! 我々、選ばれた精神を持つ者が、若く、優れた肉体を得て、永遠に人類を導き続ける! それこそが、プロジェクト・ジェネシスの、真の目的なのだ!」
私は、彼の狂気に満ちた理想に、強い嫌悪感を覚えながらも、冷静に彼の言葉を分析しようと努めていた。
彼の主張は、確かに歪んでいる。
だが、その根底には、このSID社会が抱える、根深い問題点に対する、彼なりの絶望と、そして歪んだ形での「救済」への渇望があるのかもしれない。
SIDネットワークの普及は、確かに人類に多くの恩恵をもたらした。
だが、同時に、それは新たな社会格差を生み出し、人々の孤独感を深め、そして、人間の「価値」そのものを問い直す、困難な課題を私たちに突きつけている。
山城は、その課題に対する答えを、バンディズムという古い思想と、霊子という未知の力を組み合わせることで、見つけ出そうとしている。
それは、あまりにも危険で、そして独善的な答えだ。
グレッグは、もう何も言わなかった。
ただ、握りしめた拳を、さらに強く握りしめている。
その肩が、怒りと、そしておそらくは無力感で、微かに震えているのが分かった。
両親を奪ったSID技術が、今度は子供たちの魂までをも弄び、踏みにじろうとしている。
その理不尽な現実に、彼は耐えきれないほどの怒りを感じているのだろう。