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あれから五時間が経過していた。

桜花学院の医務室を出て、私とグレッグ、そしてジジは、学院のネットワーク内に構築されたSIDMR(SIDミーティングルーム)と呼ばれる、セキュアな電脳仮想空間にダイブしていた。

物理的な身体の疲労は、まだ残っている。

だが、シャオ・ツーとエリカ・ロドリゲスが姿を消し、そして彼らの背後に潜む巨大な陰謀の気配を感じ取った今、休んでいる暇などなかった。


SIDMRは、ICAが開発した特殊な仮想会議システムだ。

参加者の思考をリアルタイムで共有し、膨大な情報を三次元的に可視化することで、複雑な問題の解析と意思決定を支援する。

壁も天井も床も、すべてが半透明の情報パネルで構成され、私たちの思考に応じて、様々なデータや映像が、まるで生きているかのように空間を飛び交っている。

現実の会議室よりも、よほど「会議をしている」という実感がある、と皮肉を言う者もいるくらいだ。


空間の中央には、岡崎先生の協力を得て入手した、桜花学院の内部データが、巨大な光の球体となって浮かんでいる。

生徒たちのSIDログ、学院の会計記録、教職員の人事ファイル、そして…極秘裏に行われていたとされる「特別教育プログラム」に関する、断片的な記録。

それらが、複雑な模様を描きながら、ゆっくりと回転していた。


『…やはり、ジェンキンス先生の失踪と、生徒たちのSID不調が顕著になった時期は、ほぼ完全に一致するな』グレッグが、光の球体の一部を指さしながら言った。

彼の思考が、音声と同時に私とジジの意識にも流れ込んでくる。

SIDMR空間では、言葉は補助的なコミュニケーション手段に過ぎない。


「ええ」私は頷いた。

「そして、その時期を境に、学院の会計記録にも、いくつかの不自然な金の流れが見られるわ。

特に、海外の、ペーパーカンパニーと思われる複数の口座への、高額な送金。

その中には、ディアムという情報屋が指摘していた、メキシコの麻薬カルテル「エル・シルクロ・デ・ケツァルコアトル」のフロント企業も含まれている」


『ガムの取引代金、か…』ジジが、私の隣で、黒猫のアバターの姿で浮遊しながら呟いた。

『だが、それだけでは説明がつかない。

学院が、なぜそこまで危険を冒して、違法な電子ドラッグの流通に関わる必要がある? 単なる金儲けのためとは考えにくい。

もっと大きな目的があるはずだ』


「特別教育プログラム…」グレッグが、別の情報クラスターに意識を集中させた。

そこには、数名の生徒の名前と、彼らのSIDログから抽出された、特異な脳波パターン、そして「適性」「同調率」「精神汚染レベル」といった、不穏な単語が並んでいた。


「これは、一体何なんだ? まるで、何かの人体実験の記録みてえじゃねえか」

その記録は、確かに断片的で、多くが暗号化されていた。

だが、ICAの最新解析ツールと、ジジの持つ膨大なデータベース、そして、私の「心霊ハッカー」としての直感を組み合わせることで、徐々にそのパズルのピースが組み合わさり始めていた。


ジェンキンス先生が失踪直前にアクセスしようとしていた、ICAの機密アーカイブ。

その中には、「プロジェクト・ジェネシス」に関する、極めて危険な情報が含まれていた。

人間の意識をデジタル化し、別の肉体に「転移」させるという、禁断の研究。

その研究には、霊子という未知の素粒子が、深く関わっているとされていた。


そして、桜花学院の「特別教育プログラム」。

それは、特定の遺伝的素因を持つ生徒を選び出し、彼らのSIDに特殊な調整を施し、霊子に対する感受性を高めるための、秘密裏の訓練だったのではないか。

違法電子ドラッグ「ガム」は、その訓練を加速させるための、あるいは、被験者の精神をコントロールするための「道具」として使われていたのかもしれない。


『…まさか』


私の指が、ホログラムキーボードの上で止まった。

隣で、グレッグも息を呑むのが分かった。

私たちの目の前に、おぞましい仮説が、その輪郭を現し始めていた。


バンディズム。

血族主義。

この学院が掲げる、古めかしい思想。

それは、単なる伝統墨守や、エリート意識の現れではなかった。

それは、もっと歪んだ、そして強大な欲望と結びついていたのだ。


「…彼らは、本気でやろうとしているのかもしれないわね」私は、震える声で言った。


「自分たちの血統…あるいは、自分たちの『意識』そのものを、若い、健康な肉体を持つ生徒たちに『転移』させ、永遠の生を手に入れようと…」


それは、20世紀に行われていたという、ロボトミー手術や、あるいはカルト教団による洗脳といった、過去の悪夢を彷彿とさせる、恐るべき計画だった。

SIDと霊子という最先端技術が、バンディズムという古い思想と結びついた時、それは、人間の尊厳を踏みにじる、醜悪な怪物へと変貌しうるのだ。


『だが、そんなことが、本当に可能なのか?』グレッグが、信じられないというように言った。

『人間の意識を、別の肉体に移し替えるなんて…SF映画じゃあるまいし』


「理論上は、不可能ではないわ」私は答えた。

「SIDは、脳の神経活動をデジタルデータとして読み取り、記録することができる。

そして、霊子は、そのデジタル化された意識を、別の脳に『書き込む』ための、媒介となるのかもしれない。

もちろん、そこには計り知れないリスクが伴う。

拒絶反応、精神の崩壊、そして…元の意識と、移植された意識の、どちらが『本物』なのかという、根源的な問い」


『だが、それでも、永遠の命を欲する人間は、いつの時代にもいるものさ』ジジが、冷ややかに言った。


『特に、富と権力を手に入れた人間にとっては、死こそが最大の恐怖であり、そして、乗り越えたい最後の壁なのだろう。

そのために、他者の命や尊厳を犠牲にすることも厭わない。

それが、人間の持つ、どうしようもないごうなのかもしれないな』

ジジの言葉が、重くSIDMR空間に響いた。


SIDネットワークが普及し、情報は民主化され、個人の能力は飛躍的に拡張されたはずだった。

だが、その結果として生まれたのは、新たな格差社会だった。

SIDを使いこなし、情報を支配する「プラグド・エリート」と、その恩恵から取り残された「アンプラグド」。

そして、その格差は、今や「生命」そのものにまで及ぼうとしている。

一部の特権階級が、他者の若い肉体を「器」として利用し、自らの寿命を永らえようとする。

それは、かつての封建社会や奴隷制度と、本質的に何が違うというのだろう。


(これが、接続された魂の、一つの結末だというの…?)


私は、言いようのない怒りと、そして深い絶望感に襲われた。

ICAのエージェントとして、私はSID社会の秩序と安全を守るために戦ってきたはずだ。

だが、その戦いは、もっと大きな、人間の根源的な欲望という怪物との戦いだったのかもしれない。


「…シャオ・ツーくんや、エリカ・ロドリゲスさん。彼らは、その計画の、重要な駒なのかもしれないわね」

私は、思考を整理するように言った。


「シャオ・ツーくんは、おそらく霊子能力者としての高い適性を見出され、何者かによって特殊なSID-OSを植え付けられた。

そして、エリカさんもまた、幼少期に非合法なSID施術を受け、二度目の施術によって、その特異な能力が覚醒しつつある…」


『そして、ジェンキンス先生は、その計画に気づき、それを阻止しようとして、消された…』グレッグが、苦々しげに続けた。


「ええ。おそらくは」


SIDMR空間に、重い沈黙が流れた。

私たちの目の前には、おぞましい陰謀の輪郭が、はっきりと浮かび上がっている。

だが、まだ、確たる証拠はない。

そして、敵の正体も、その具体的な計画の全貌も、依然として謎に包まれたままだ。


『…夜が明けるな』ジジが、不意に呟いた。


彼の言葉に促されるように、私はSIDMR空間から意識を引き上げ、現実世界へと戻った。

休憩室の窓の外は、いつの間にか白み始め、東の空が、ほんのりと紫色に染まっている。

時刻は、朝の五時を少し過ぎた頃だった。


「…行くわよ、グレッグ」私は、立ち上がりながら言った。


「どこへだ?」


「シャオ・ツーの記憶の中にあった、あの古い研究棟よ。そこに、何か手がかりがあるはず。

そして、もし可能なら…シャオ・ツーとエリカを、見つけ出す」


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