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雛子は、全てを語り終えると、まるで糸が切れた人形のように、再びベッドの枕に深く頭を沈めた。
その顔色は依然として蒼白く、閉じられた瞼は微かに震えている。
無理もない。
丸二日間意識を失い、目覚めた直後に、あんな途方もない話をさせられたのだ。
精神的な消耗は計り知れないだろう。
やがて、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
今は、ただ静かに休ませてやるしかない。
俺は、医務室の簡素なパイプ椅子に腰を下ろし、眠る彼女の横顔を黙って見つめていた。
十年前と変わらない、意志の強さを感じさせる、通った鼻筋。
少しだけ薄くなった唇。
だが、その寝顔は、ICAのエージェントという肩書きとは裏腹に、どこか幼く、そして痛々しいほどに無防備に見えた。
(霊子…平行世界…心霊ハッカー…、はじまりの子どもたち、)
彼女が語ったことは、にわかには信じがたい、荒唐無稽な話ばかりだ。
だが、あの怪物化したフロイドと黒麒麟ジジの、現実離れした戦闘を目の当たりにした後では、もはや何を否定できるというのか。
俺が知る世界の常識は、あの部屋での数分間で、木っ端微塵に砕け散ってしまったのだ。
ファミリアが実体化する。
意識が物質に干渉する。
そんな馬鹿げたことが、本当に可能なのか? だが、もし、雛子の言う「霊子」というものが、本当に存在するのだとしたら…。
そして、その力を制御することで、人間は新たな能力を獲得できるのだとしたら…。
ふと、ディアムから聞いた、違法電子ドラッグ「ガム」の噂が頭をよぎった。
特に、最近出回っているという新型「ペインター」。
感情そのものを塗り替えるという、恐ろしい代物。
あれもまた、霊子の力と何か関係があるのではないか? 例えば、ガムを使用することで、一時的に霊子に対する感受性を高め、SIDの能力を飛躍的に増大させる。
あるいは、ファミリアを実体化させたり、他者の意識に干渉したりするような、禁断の力を手に入れることができるとしたら…。
そうだ、それなら辻褄が合う。
桜花学院で起きている一連の奇妙な出来事。
生徒たちのSIDの不調、幻覚、攻撃性の増大。
あれらは、ガムによる精神汚染の症状なのではないか? そして、ジェンキンス先生は、その事実に気づき、あるいは、ガムの流通ルートを探ろうとして、何者かに消された…。
(だが、誰が、何のために…?)
学院の教師か、それとも外部の組織か。
ディアムは、メキシコの麻薬カルテル「エル・シルクロ・デ・ケツァルコアトル」の名前を挙げていた。
連中が、この桜花学院を拠点にして、新型ガムの実験、あるいは販売を行っている? そして、その背後には、雛子が口にした「プロジェクト・ジェネシス」の影が…?
頭が混乱する。
だが、引き返すわけにはいかなかった。
雛子を、そして、この学院の生徒たちを、見えない脅威から守らなければ。
それは、探偵としての義務感というよりは、もっと個人的な、償いにも似た感情だったのかもしれない。
SRNSで両親を失った俺は、SIDという技術の持つ闇を、誰よりも知っているつもりだった。
だが、それは、氷山の一角に過ぎなかったのかもしれない。
俺は、SIMカードを取り出し、首筋のソケットに挿入した。
旧式のグラス型デバイスを装着し、ディアムのセキュアチャンネルに接続する。
『よう、グレッグ。お姫様は、まだおねんねかい?』
ディアムのアバターが、いつものように軽薄な笑みを浮かべて現れた。
だが、その瞳の奥には、鋭い光が宿っている。
奴は、俺が何かを掴んだことを、既に察しているのかもしれない。
「ああ、まだだ。だが、いくつか分かったことがある」俺は、雛子から聞いた話――霊子、ファミリアの実体化、そしてプロジェクト・ジェネシスの可能性――を、慎重に言葉を選びながら、ディアムに伝えた。
もちろん、雛子の名前や、彼女がICAのエージェントであることは伏せて。
ディアムは、黙って俺の話を聞いていた。
その表情は、アバターの仮面の下で、刻一刻と変化しているように見えた。
驚き、困惑、そして…強烈な好奇心。
『…霊子、ねぇ。そいつは、とんでもねえ話になってきたな、グレッグ』やがて、彼が低い声で言った。
『まさか、あの古い都市伝説が、本当に実在したとはな。いや、実在するとすれば、それはもはや伝説じゃねえ。
現実の脅威だ』
「お前も、何か知っているのか? 霊子について」
『噂程度だがな。アンダーウェブの深層じゃ、時々、その手の情報が取引されてる。
意識を拡張し、現実を書き換える、究極の力、とか何とか。だが、俺も半信半疑だった。
SIDCOMやICAが、躍起になって情報を隠蔽してるって話もあったが…』
「プロジェクト・ジェネシス。それも、聞いたことがあるか?」
『ああ、もちろんだ。人類進化計画、だろ? SID技術の黎明期に、IIASDMみてえな胡散臭い研究機関が、国家予算を湯水のように使って進めていたっていう、キナ臭いプロジェクトだ。
公式には、失敗して凍結されたことになってるが…』
「ディアム、お前に頼みたいことがある」俺は、本題に入った。
「桜花学院の周辺で出回っているという、新型ガム『ペインター』。
そいつのサンプルを手に入れてほしい。
それから、製造元である可能性が高い、エル・シルクロ・デ・ケツァルコアトル。
連中が、この学院とどう繋がっているのか、金の流れを徹底的に洗ってくれ」
『…おいおい、グレッグ。そいつは、ちと高くつくぜ? ケツァルコアトルに喧嘩を売るってのは、虎の尾を踏むようなもんだ』
「報酬は弾む。前金で支払った分と、同額を、事が済んだら上乗せする。それでどうだ?」
ディアムのアバターが、ニヤリと笑った。
『話が早えじゃねえか。だが、一つ条件がある。お前が掴んだ情報は、全て俺に流せ。特に、その『霊子』とやらに関する情報はな。
そいつは、金になる臭いがプンプンするぜ』
「…分かった。ただし、俺の依頼が先だ」
『了解だ。それから、例のブツ…エリック・マルティネス・サントス。あいつについて、面白い情報が入ったぜ』
「エリック? 何か分かったのか?」
『ああ。あいつは、どうやら、ただの実験体じゃなかったらしい。
ケツァルコアトルのドン・ソンブラが、特別に目をかけていた、秘蔵っ子だったようだ。
そして、あいつのSIDには、とんでもない『おまけ』が仕込まれているらしい』
「おまけ…?」
『詳細はまだ不明だ。だが、そいつが、今回の桜花学院の事件と、深く関わっている可能性が高い。
エリック・マルティネス・サントス。
そいつが、全ての鍵を握っているかもしれねえな…』
ディアムの言葉は、不吉な予感を俺の胸に刻みつけた。
エリカ・ロドリゲス。
行方不明になった、あのミステリアスな少女。
彼女が、エリック・マルティネス・サントス本人だというのか? そして、彼女のSIDに仕込まれた「おまけ」とは、一体…?
俺は、眠る雛子の顔に、再び視線を落とした。
彼女もまた、この巨大な陰謀の渦に、深く巻き込まれている。
そして、俺も。
(…やるしかねえか)
俺は、重い息を吐き出し、SIMカードの接続を切った。
窓の外は、もう完全に夜の闇に包まれている。




