第1章;再会の学院 1
夜のしじまが、イタリア中部、アペニン山脈の懐深くにあるグラン・サッソ国立研究所を包んでいた。
地上から1400メートル下、宇宙線や外部ノイズから遮断された地下実験施設。
人類の知的好奇心が、宇宙の根源と意識の深淵を探る場所。
常楽院雛子は、その一角にある自身の質素なオフィスで、最後の荷物を確認していた。
モニターの冷たい光が、彼女の端正な横顔を青白く照らし出している。
つい二時間ほど前、極東の島国にあるエリート養成校、福岡桜花学院の学院長と教師から緊急の通信を受けた。
SIDの不調、原因不明の心霊現象、そして一人の教師の失踪。
断片的な情報をつなぎ合わせ、雛子が所属するICA――インターワールド・コントロール・オーソリティのデータベースと照合した結果、事態は単なる技術トラブルや偶発的な事件ではない可能性が高いと判断された。
局長からの指示は迅速かつ簡潔だった。
「直ちに現地へ飛べ」。
スーツケースは小さい。
長期滞在になる可能性も考慮したが、必要なものはほとんど現地で調達できるし、そもそも身の回りの品に対する執着が、彼女にはあまりなかった。
着替え数着、最低限の洗面用具、そしてICAエージェントとしての特殊な装備がいくつか。
物理的な荷物はそれだけだ。
本当に重要なものは、すべて彼女の頭脳と、ネットワークの中にある。
「準備はできた?」
足元で声がした。
見ると、艶やかな黒毛の猫が、二本のふさふさした尾を揺らしながら彼女を見上げている。
ファミリアのジジだ。
彼は、雛子の思考やネットワーク上の情報を読み取り、必要なサポートを提供するAIアシスタントであり、同時に、この十数年、彼女にとって最も信頼できる相棒でもあった。
他のICAエージェントの多くが人間型や、あるいはもっと抽象的なアバターをファミリアに選ぶ中、雛子はこの猫の姿を好んでいた。
気まぐれで、多くを語らず、それでいて鋭い。
その存在が、時に張り詰めがちな彼女の心を和ませてくれることを知っていたからだ。
「ええ。
航空機の手配は?」
「済んでるよ。
ローマ・フィウミチーノ発、イスタンブール経由、東京・羽田行き。
最終目的地は福岡空港(FUK)だ。
最も早いルートを選んでおいた。
ここからフィウミチーノまでは自動運転のグラウンド・トランスポートで約二時間半」
ジジは、猫の姿でありながら、その声色は落ち着いた成人男性のものだった。
初期設定時の遊び心でそうなってしまったのだが、今ではすっかり馴染んでいた。
「福岡…」雛子は呟いた。
日本へ帰るのは、実に十年ぶりになる。
最後に日本の土を踏んだのは、彼と別れたあの時だ。
木暮雅人、グレッグ。
かつて愛し、そして深く傷つけ合った男。
彼は今、どうしているだろうか。
福岡に戻って探偵のような仕事をしている、という噂は風の便りに聞いていたが…。
まさか、今回の任務で再会することになるとは、思わない。
いや、考えるべきではない。
今は任務に集中しなければ。
「日本は久しぶりだね」ジジが、雛子の心の揺らぎを察したかのように言った。
「何か思うところでもあるのかい?」
「別に。
ただの任務よ」雛子は短く答えた。
彼女は自分の感情を表に出すことを好まない。
特に、過去の、それも個人的な感傷に浸るのは、プロフェッショナルとしてあるまじき行為だと考えていた。
「まあ、そう言うだろうと思ったけどね」ジジは肩をすくめるような仕草(もちろん猫なので肩はないのだが、彼のAIはそう感じさせる表現をする)をした。
「だけど、福岡桜花学院か。
奇妙な場所を選ぶもんだね、事件というのは」
「バンディズム。
血族主義。
時代錯誤な価値観にしがみつくエリートたちの牙城。
そこに最新のSID技術が導入され、歪な融合が起きている。
何が起きても不思議はないわ」
「歪な融合、か。
その歪みが、今回の事件の根源にあると?」
「可能性の一つよ。
SIDは意識を拡張するが、同時に、その個人の持つ偏見や固定観念を増幅させることもある。
古い価値観を持つ人間が、最新のテクノロジーを手にした時、何が起こるか…」
「人間の愚かさは、技術が進歩しても変わらない、ってことかい?」ジジの声には、いつもの軽口とは違う、微かな皮肉が混じっていた。
「変わらない部分も、変わる部分もある。
問題は、その変化がどちらの方向へ向かうかよ」
雛子はスーツケースの電子ロックを閉じた。
地下深くにある研究所から地上へと向かうエレベーターに乗り込む。
加速Gを感じながら、彼女は思考を巡らせた。
2058年の世界。
SIDは、もはや特別なものではなく、人々の生活に深く浸透している。
教育、医療、経済、エンターテイメント。
あらゆる領域が、SIDネットワークと結びつき、効率化され、最適化されている。
かつて街を彩っていた広告は消え、情報は個人のニーズに合わせてフィルタリングされ、直接脳に届けられる。
それは、一見すると理想的な社会のように思える。
無駄がなく、摩擦が少ない。
だが、その滑らかな表面の下で、何かが静かに蝕まれているような感覚。
パーソナライズされすぎた情報は、人々を自分だけの狭い世界、情報繭へと閉じ込めてしまうのではないか。
多様な価値観に触れる機会、予期せぬ偶然との出会い、非効率な回り道の中にこそあったはずの発見。
そういったものが、失われつつあるのではないか。
エレベーターが地上階に到着した。
外はまだ暗く、冷たい雨が降りしきっていた。
研究所の正面玄関には、既に一台の自動運転タクシーが待機していた。
滑らかな流線型のボディを持つ、最新式の電気自動車だ。
ドアが静かに開き、雛子はジジ(彼は物理的な存在ではないが、雛子の視界には常にそこにいるかのように映し出されている)と共に車内に乗り込んだ。
シートに身を預けると、柔らかな感触が身体を包み込む。
車内は静かで、雨音さえもほとんど聞こえない。
音声インターフェースが滑らかな合成音声で問いかける。
『行き先はローマ・フィウミチーノ国際空港でよろしいでしょうか、常楽院様』
「ええ」雛子が短く答えると、車は音もなく滑り出した。
グラン・サッソの山道を下り、やがて高速道路へと合流する。
窓の外を、夜のイタリアの風景が流れていく。
時折見える小さな町の灯り、オリーブ畑のシルエット、遠くで点滅する風力発電機の赤いランプ。
雨に濡れた道路を、他の自動運転車が規則正しく、しかし高速で行き交っている。
すべてが整然とし、管理され、最適化された世界。
だが、その完璧さの中に、どこか人間的な温もりが欠けているような、そんな寂寥感を雛子は覚えていた。
(グレッグは、どう思うかしら…この世界を)
不意に、彼の顔が脳裏をよぎった。
木暮雅人。
頑固で、不器用で、そして誰よりも人間らしい男。
彼は、このSIDが支配する世界を、きっと息苦しく感じているだろう。
彼は、テクノロジーが人間の思考や感情にまで踏み込むことを、きっと許さないだろう。
だからこそ、十年前に別れたのだ。
雛子が、彼に相談もなくSIDの施術を受けたことを、彼は「裏切り」だと感じた。
あの時、私は彼の気持ちを理解しようとしなかった。
SIDがもたらす新しい世界、新しい可能性に夢中だった。
彼が抱えるSIDへの根源的な不信感――彼の両親がSID関連の精神疾患(SRNS、SID関連神経過敏症候群と呼ばれていた)で相次いで自死したという過去のトラウマ――を、私は軽視していたのかもしれない。
彼にとっては、私がSIDを受け入れることは、彼の大切なものを踏みにじる行為に等しかったのだろう。
(私たちは、分かり合えなかった…)
それは、苦い記憶だ。
だが、後悔はしていない。
ICAのエージェントとして、SID技術の最前線に関わることは、彼女自身の選択だった。
そして、その選択が、彼女を「心霊ハッカー」と呼ばれる特殊な存在へと導いた。
SIDを通じて、他者の意識の深層にアクセスし、ネットワーク上の見えない異常を感知する能力。
それは、諸刃の剣でもあった。
「日本は変わっただろうか?」ジジが、不意に静寂を破った。
彼の声は、雛子の思考の流れを読んでのことだろう。
「どうかしら。
十年なんて、今の時代、あっという間よ。
でも、日本の変化は、他の国より緩やかかもしれないわね。
良くも悪くも」
「君にとっては、故郷、だろう?」
「…ええ。
まあね」
故郷。
その言葉の響きには、温かさと同時に、どこか距離感があった。
彼女にとって日本は、帰る場所というよりは、解決すべき問題を抱えた、多くの「現場」の一つに過ぎないのかもしれない。
車はローマ市内を迂回する環状高速道路、GRA(GRANDE RACCORDO ANULARE)に入っていた。
夜が深いためか、交通量は少ない。
遠くに、ライトアップされた古代ローマの遺跡らしきシルエットが見えた気がした。
(グレッグ…)
また彼のことを考えている自分に気づき、雛子は軽く頭を振った。
感傷に浸っている場合ではない。
これから向かうのは、単なるSIDの不調調査ではない。
何か、もっと大きな、そして危険な何かが、あの桜花学院で蠢いている。
ジェンキンス先生の失踪。
生徒たちの奇妙な変化。
そして、匿名メッセージが示唆した、広告経済の終焉の先にある、意識への介入。
「ジジ、桜花学院のセキュリティレベルと、学院長の山城という人物のプロファイルをもう一度」
「了解。
…セキュリティは見た目以上に強固だ。
物理的な防壁もさることながら、ネットワーク防御も軍事レベルに近い。
外部からの不正アクセスはほぼ不可能だろう。
学院長の山城は…元々は教育畑の人間ではないな。
経歴にはいくつか不明な点がある。
特に、ICA設立以前の国際暗黒物質応用科学研究所(IIASDM)との関わりが示唆されている。
表向きはバンディズムの教育者だが、裏の顔がある可能性が高い」
「IIASDM…」雛子の眉が微かに動いた。
ICAの前身の一つであり、霊子の存在を最初に理論化した組織。
そこに繋がる人物が、学院長。
やはり、今回の事件は根が深い。
「そして、失踪したジェンキンス先生」ジジは続けた。
「彼は徹底したアンプラグドだ。
SIDはおろか、ほとんどのデジタルデバイスの使用を避けていたらしい。
そんな彼が、なぜ、どのようにして姿を消したのか。
物理的な誘拐か、それとも…もっと別の、我々の知らない力が働いたのか…」
「霊子…」
「可能性は否定できない。
霊子技術は未だ理論段階とされているが、水面下で研究が進んでいることは公然の秘密だ。
もし、桜花学院がその実験場の一つだったとしたら…」
「実験…生徒たちを、使って?」
雛子の声に、怒りとも嫌悪ともつかない感情が滲んだ。
それは、彼女がICAのエージェントとして、決して許容できない一線だった。
車は、フィウミチーノ空港の国際線ターミナルへと続くランプを滑らかに下りていく。
巨大なハブ空港の、未来的ながらもどこか無機質な建造物が、雨の中に浮かび上がってきた。
「到着は明日の夜ね」
「ああ。
そして、明後日の朝には、福岡だ」
十年ぶりの日本。
そして、十年ぶりの、彼との再会があるかもしれない場所。
雛子は窓の外に広がる、雨に濡れた空港の灯りを見つめながら、静かに目を閉じた。