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「それが、今のところ、全く分からないのよ」
私の言葉に、グレッグは心底呆れた、というような表情を浮かべた。
無理もない。
ICAのエージェントが、丸二日も意識を失い、挙げ句の果てに「何も分からない」では、探偵稼業の彼からすれば、仕事をしていないのと同じだろう。
医務室の簡素なベッドの上で、私はまだ少し重たい身体をゆっくりと起こした。
窓の外は、もう夕暮れが近いのか、空が茜色に染まり始めている。
「分からない、じゃ済まされねえだろう、雛子」グレッグの声には、苛立ちと、それから私への気遣いが奇妙に混じり合っていた。
「あの化け物騒ぎは何だったんだ? シャオ・ツーとかいうガキと、エリカ・ロドリゲスとかいう娘は、どこへ消えた? そして、お前は一体、何に巻き込まれて、こんな目に遭ってるんだ?」
矢継ぎ早の質問。
彼の言う通りだ。
私には説明する義務がある。
彼もまた、この事件の当事者の一人なのだから。
「…順を追って話すわ」私は、一度深呼吸をして、記憶を整理しながら話し始めた。
「まず、シャオ・ツーくん。
彼へのインベイシブ・ダイブは、途中で強制的に中断された。
彼の精神の最深部、アビスと呼ばれる領域に到達しようとした瞬間、強烈な拒絶の意志に阻まれたの。
あれは、シャオ・ツー自身の意識ではない。
もっと別の、冷徹で、強力な何かの意思だった」
「何かの意思…? ファミリアのフロイドか?」
「それだけではないと思う。
フロイドも、確かに異常だった。
ダイブと同時に、あの獣人のような姿へと変貌し、ジジと戦闘状態に入った。
けれど、私があの時感じた拒絶の意志は、フロイドとはまた質の違う、もっと根源的で、得体の知れないものだったわ。
まるで、彼の精神そのものが、何者かに乗っ取られているかのような…」
私は、ダイブ中に垣間見た、シャオ・ツーの歪んだ精神世界について語った。
養父母への愛憎、SIDによって増幅された力への陶酔と恐怖、そして「自分たちは選ばれた存在で、古い人間を置き換えるべきだ」という、危険な選民思想。
「彼の精神は、まるで嵐のようだった。
様々な感情が渦巻き、矛盾した思考がせめぎ合っている。
そして、その中心には、深い孤独と、世界に対する絶望のようなものがあった。
彼は、何かに怯え、何かに苦しんでいる。
けれど、それを誰にも理解されず、自分自身でも整理できずにいる…そんな印象を受けたわ」
グレッグは、黙って私の話を聞いていた。
彼の表情は険しい。
「エリカ・ロドリゲスについても、同様よ」私は続けた。
「彼女へのダイブも、途中で中断せざるを得なかった。
彼女の精神は、シャオ・ツーとはまた違う意味で、複雑で、そして脆い。
七体のセラフィムと呼ばれるファミリアたち。
彼らは、彼女の精神を守るための壁であると同時に、彼女自身を閉じ込める檻にもなっているように感じた。
そして、彼女の意識の奥底にも、何か…幼い子供の影のような、悲しげな気配があった。
あれが、彼女の本当の姿なのかもしれない」
「…つまり、二人とも、何者かに精神を操作されている、ということか?」グレッグが、低い声で言った。
「断定はできない。
でも、その可能性は極めて高い。
そして、その鍵を握るのが、おそらく『霊子』よ」
「またそれか」グレッグは、うんざりしたように言った。
「その霊子ってのは、一体何なんだ? 超能力か何かか?」
「超能力、というよりは…まだ科学的に解明されていない、新しい物理法則、とでも言うべきかしら」私は、ICAの機密情報に触れない範囲で、慎重に言葉を選んだ。
「霊子物理学という、まだ仮説段階の理論があるの。
それによれば、霊子は、人間の意識や情報と、物質世界とを媒介する、特殊な素粒子、あるいはエネルギー形態だとされているわ。
そして、特定の条件下では、霊子のエネルギーを制御することで、思考や情報を物理的な現象として『物質化』させたり、逆に、物質を情報へと変換したりすることも可能になる、と」
「…意識を、物質化?」グレッグの目が、信じられないものを見るように、私に向けられた。
「じゃあ、あのファミリアたちの実体化は…」
『その通りだ、木暮雅人』ベッドの足元で、いつの間にか再び実体化していたジジが、グレッグの言葉を引き継いだ。
『我々ファミリアは、本来、SIDネットワーク上に存在する、情報プログラムに過ぎない。
だが、霊子のエネルギーを介することで、この三次元空間に、一時的に物理的な身体を構成することが可能になる。
もっとも、それは術者の能力と、霊子エネルギーの密度に大きく左右されるがな』
ジジは、まるで大学教授が講義でもするように、淡々と説明している。
だが、その内容は、グレッグにとっては、SF映画以上の荒唐無稽な話に聞こえるだろう。
グレッグは、呆然とジジを見つめている。
「いや、猫じゃねえ。
あれは…麒麟、だったか? なんだかよく分からねえが、とにかく、とんでもねえバケモノだったぞ。
お前のファミリアも、あのフロイドとかいう奴も」
『ふん、あの程度の変身でバケモノ扱いとは、心外だな。
あれは、私の戦闘形態の一つに過ぎんよ。
フロイドの方は、かなり無茶な霊子変換をしていたようだがな。
おそらく、シャオ・ツーのSID-OSに組み込まれた、違法な改造プログラムの暴走だろう。
あれだけの霊子エネルギーを無理やり物質化すれば、精神への反動も大きいはずだ』
「つまり、シャオ・ツーは、その改造プログラムとやらで、霊子を操る力を手に入れた、と? それで、他の生徒たちのSIDにも干渉し、精神を不安定にさせている、というわけか?」グレッグは、ようやく状況を飲み込めてきたのか、鋭い口調で問い返してきた。
「おそらくは、ね」私は頷いた。
「彼の目的は、まだ分からない。
でも、彼が「仲間集め」と称して、斎藤くんや坂本くん、そして長岡さんに接触し、彼らの意識に何らかの「種」を植え付けようとしていたことは確かよ。
そして、その背後には、もっと大きな組織、あるいは個人の意志が働いている可能性が高い」
「黒幕、か…」グレッグは、苦々しげに呟いた。
「プロジェクト・ジェネシス。
お前が前に言っていた、あのICAの極秘ファイルか? あれが、この学院と関係しているとでも言うのか?」
「断定はできないわ。
でも、シャオ・ツーの意識の奥底で感じた、あの冷たい拒絶の意志。
あれは、人間の感情を超えた、何か巨大で、そして冷酷な知性の片鱗だった。
そして、エリカ・ロドリゲスの深層意識に潜んでいた、あの幼い子供の影。
あれもまた、ジェネシスの被験者たち…『始まりの子供たち』の、悲しい残響なのかもしれない」
「始まりの子供たち…?」グレッグの顔に、困惑の色が浮かんだ。
「なんだそりゃ? ジェネシスってのは、確か、人間の意識をデジタル化する、とかいう、昔のヤバい研究だったはずだろ? 子供が、何の関係があるんだ?」
彼の反応は当然だ。
「始まりの子供たち」に関する情報は、ICA内部でも最高レベルの機密扱いで、彼が知るはずもない。
「…ごめんなさい、少し言葉が過ぎたわ」私は、話を逸らすように言った。
「とにかく、プロジェクト・ジェネシスは、人類の意識をデジタル化し、新たな社会秩序を創造しようとした、壮大すぎる計画だった。
その過程で、多くの非人道的な実験が行われ、そして多くの犠牲者が出た。
その全てが、白日の下に晒されているわけではない。
闇に葬られた真実が、今、この場所で、再び動き出そうとしているのかもしれない」
私は、窓の外に広がる、夕焼けに染まった空を見つめた。
美しい光景のはずなのに、その赤色は、まるでこれから起こるであろう、血生臭い出来事を予感させるかのように、不吉に輝いていた。
「…シャオ・ツーとエリカは、どこへ消えたと思う?」グレッグが、静かに尋ねた。
「分からない。
でも、彼らは、おそらく自らの意志で姿を消したのではないでしょう。
あの「声」の主、あるいは、その背後にいる何者かが、彼らを連れ去ったのかもしれない。
私たちの調査を妨害し、そして、彼らの持つ力を、さらに利用するために」
「じゃあ、どうするんだ? 手がかりは、何もないのか?」
「いいえ」私は首を振った。
「手がかりは、ある。
シャオ・ツーの意識にダイブした時、彼の記憶の中に、奇妙な場所のイメージが混じっていたの。
それは、この学院の敷地内にある、古い、使われていない施設…もしかしたら、そこに何か秘密が隠されているのかもしれない」
そして、もう一つ。
エリカ・ロドリゲスの、あの七体のセラフィム。
彼らは、彼女の精神を守るための存在であると同時に、彼女を外部の世界から隔離するための、監視者でもあるのかもしれない。
彼らの正体と目的を探ることが、エリカ自身の謎を解く鍵になるはずだ。
「…グレッグ」私は、彼に向き直った。
「今回の事件は、ICAの管轄を超えるかもしれない。
そして、私一人では、手に負えないかもしれない。
それでも、私は行かなければならない。
真実を突き止めるために。
そして、これ以上、犠牲者を増やさないために」
彼は、黙って私の目を見つめ返していた。
その瞳の奥に、強い決意の色が浮かんでいるのを、私は見逃さなかった。




