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重く、鉛のようになった瞼を、意志の力でこじ開ける。
最初に網膜に映ったのは、見慣れない白い天井。
消毒液の微かな匂いが鼻をつき、硬質なシーツの感触が背中に伝わってくる。
頭の芯が、まだ割れるように痛む。
(私は…どうなったの…?)
途切れ途切れの意識の中で、最後の記憶を手繰り寄せようとする。
シャオ・ツーへのインベイシブ・ダイブ。
彼の精神の深淵、アビスで遭遇した、あの冷たく、絶対的な拒絶の意志。
そして、ファミリアであるフロイドの、禍々しい怪物への変貌…。
あの激しい戦闘の衝撃波、砕け散る窓ガラス、壁の崩れる轟音…。
『――雛子、意識が戻ったか?』
ジジの声だ。
私の思考に直接響いてくる。
彼の声はいつも通り冷静だが、その奥に微かな安堵の響きが感じられた。
「ジジ…ここは…?」私の声は、自分でも驚くほど掠れて、弱々しかった。
『桜花学院の医務室だ。
ダイブ中に強制離脱プロトコルが作動し、君は意識を失った。
その後、木暮雅人が君をここまで運んでくれた』
木暮雅人…グレッグ。
そうだ、彼が、あの時、部屋に飛び込んできて…。
『私が記録していた、君が意識を失っていた間の外部状況及びバイタルデータを、今から君のSIDに同期・ダウンロードする。
多少の負荷がかかるが、現状把握のためには必要だ』
ジジの言葉と共に、膨大な情報が一瞬にして私の脳に流れ込んできた。
視覚、聴覚、触覚…ジジが記録していた、あの休憩室での出来事の全て。
獣人と化したフロイドの暴虐。
黒麒麟へと姿を変え、私を守ろうと奮戦するジジ。
そして、必死の形相で私の名を叫び続けるグレッグ…。
まるで、自分が体験したことのない悪夢を、早送りで見せられているかのようだ。
面談室は…もはや部屋の体を成していなかった。
壁は崩れ落ち、家具は砕け散り、まるで爆撃でも受けたかのような惨状だ。
「…どのくらい、眠っていたの…?」全ての情報のダウンロードが完了したのを確認し、私は尋ねた。
『丸二日だ。まったく、肝を冷やしたよ。
普通の人間なら、とっくに精神崩壊していてもおかしくない状況だった』ジジは、いつもの軽口を叩きながらも、その声には隠せない疲労の色が滲んでいた。
ゆっくりと身体を起こすと、すぐそばに、心配そうに私を覗き込むグレッグの顔があった。
彼の眉間には深い皺が刻まれ、その瞳には、ここ数日、まともに眠れていないのであろう、隈が浮かんでいる。
「おい、雛子! 大丈夫か!? 一体、何があったんだ!?」
彼の大きな手が、私の肩にそっと触れる。
その手の温もりに、私は少しだけ安堵感を覚えた。
「…グレッグ…」私は、まだ少しぼんやりとする頭で、状況を整理しようと努めた。
「シャオ・ツーは…? それから、あの怪物みたいなフロイドは…?」
グレッグは、苦々しげに顔を歪めた。
「あのガキも、奴のファミリアも、影も形もない。
君が気を失った直後、忽然と消えちまった。
嵐が過ぎ去った、ってのはまさにこのことだが…部屋は、まあ、あの通りメチャクチャだ。
学院側は、ガス爆発か何かで誤魔化すつもりらしいがな」
ガス爆発。
そんなありきたりな嘘で、あの惨状を説明できるとでも思っているのだろうか。
だが、学院側が事態を隠蔽しようとしているのは明らかだ。
「それだけじゃねえ」グレッグは続けた。
「エリカ・ロドリゲス…君が次に面談するはずだった生徒だ。
あの子も、同じタイミングで行方不明になったらしい。
学院内は、一応、騒ぎになってはいるが…妙に静かだ。
警察が来て大騒ぎになるかと思えば、そうでもない。
まるで、何か大きな力が働いて、事態を隠蔽しようとしてるみてえだ。
お前たちのICAか、それともSIDCOMか。
どちらにしても、食えねえ連中だよ、まったく」
彼の言葉には、いつもの皮肉に加えて、深い不信感が滲んでいた。
ICA。
SIDCOM。
確かに、彼らがこの事態を穏便に処理しようとしても不思議ではない。
特に、「霊子」や「プロジェクト・ジェネシス」といった、公にできない機密情報が絡んでいるとしたら。
「…まあ、雛子。君が無事だっただけでも、儲けものじゃないか」
ベッドの足元で、いつの間にか実体化していたジジが、まるで何もなかったかのように、呑気な声で言った。
彼の姿は、もうあの黒麒麟のような異形ではなく、いつもの二本尾の黒猫に戻っている。
だが、その毛並みは心なしか艶を失い、金の瞳にも疲労の色が濃く浮かんでいた。
彼もまた、あの戦いで相当の霊子エネルギーを消耗したのだろう。
「ジジ…あなた…?」
私が何かを言いかける前に、グレッグが目を丸くしてジジを見つめた。
「おい、雛子…こいつは、何なんだ? ファミリア、だよな? なんで、俺にも見える? いや、見えるだけじゃねえ。
触れるじゃねえか。
それに、あの化け物みてえなフロイドとかいう奴も…あれは、ロボットか何かか? いや、ロボットにしちゃあ、あまりにも生々しすぎたが…」彼の声は、混乱と興奮で上擦っている。
彼の動揺は当然だろう。
アンプラグドである彼が、SIDグラスもSIMも装着せずにファミリアを認識し、あまつさえそれが物理的な実体を持って目の前で戦闘を繰り広げたのだから。
彼の常識は、根底から覆されたはずだ。
私は、重たい頭を抱えながら、どこから説明すべきか、言葉を探した。
もう、彼に隠し通せる段階ではない。
彼には、真実の一部――あるいは、私が現時点で把握している「仮説」と言うべきか――を話す必要がある。
「…グレッグ、落ち着いて聞いてほしい」私は、ゆっくりと話し始めた。
「あれは、夢じゃない。
そして、ジジも、あのフロイドも、確かに実体化していた。
今のジジも
それは、おそらく…『霊子』と呼ばれる、未知のエネルギーによるものだと、考えられてる」
「霊子…?」彼は、怪訝そうに眉をひそめた。
「なんだ、そりゃ。新しい宗教でも始めたのか、お前は? それとも、電子ドラッグのやりすぎで、頭がおかしくなったか?」
「信じられないのも無理はないわ。
私自身、まだ半信半疑なのだから」私は、息をついた。
「クアノン、あるいはゴーストンとも呼ばれるそれは、2038年にIIASDMの研究チームによって、その存在が理論的に予測された、新しい素粒子、あるいはエネルギー形態とされているわ。
公式には、まだ発見も実証もされていない、仮説上の存在ということになってる」
私は、彼に、霊子に関するICAの極秘情報――もちろん、開示できる範囲で、だが――を、できるだけ分かりやすく説明し始めた。
「現在の物理学では、宇宙に存在する基本的な力は四つとされているわね。
重力、電磁気力、そして原子核を結びつける強い力と弱い力。
それらは、それぞれを媒介する素粒子によって伝えられると考えられている。
でも、まだ解明されていない謎も多い。
特に、重力と、他の三つの力との統一理論は、未だ完成していない」
「それが、霊子と何の関係があるんだ?」
「霊子は、そのミッシングリンクを埋める可能性を秘めている、と言われているの。
仮説によれば、霊子は、物質とエネルギーだけでなく、情報や、あるいは…人間の意識そのものとも、深く相互作用する性質を持つらしい。
そして、特定の条件下では、霊子のエネルギーを制御することで、思考や情報を物理的な現象として『物質化』させたり、逆に、物質を情報へと変換したりすることも可能になる、と…」
「…つまり、あのファミリアの実体化は、その霊子とやらが原因だと?」グレッグの声には、まだ強い懐疑の色が浮かんでいる。
「あくまで、推測よ。
でも、それ以外に、あの現象を説明できる理論がない。
そして、シャオ・ツー…彼と、彼のファミリアであるフロイドは、何らかの形で、その霊子の力を手に入れ、そして暴走させた。
おそらく、彼のSID-OSに組み込まれていた、非合法な改造プログラムによってね。
そして、ジジもまた、私との長年の同調と、ICAの特殊な技術によって、限定的ながら霊子を操作する能力を獲得していた。
だから、あの時、フロイドの攻撃から私たちを守るために、彼も実体化できたのよ」
彼は、黙って私の顔を見つめている。
その瞳の奥で、様々な感情が激しく交錯しているのが見て取れた。
「…雛子」やがて、彼が低い声で言った。
「お前は、その霊子とやらを、自分の意志で操れるのか? あの黒麒麟のような姿に、自由になれるというのか?」
その問いは、核心を突いていた。
私は、一瞬、言葉に詰まった。
ICAのエージェントとして、その能力は最高機密事項だ。
だが、もう、彼に隠し立てしても意味がないのかもしれない。
そして、何よりも、彼の両親の死に関わる、あの忌まわしいSRNSの記憶が、彼の心に重くのしかかっているであろうことを、私は痛いほど理解していたから。
「…完全には、ね」私は、正直に答えた。
「でも、他の人間よりは、霊子に対する親和性が高いことは確かよ。
だから、ジジも、限定的ながら実体化することができる。
あの時、あなたと私を、フロイドの攻撃から守るために。
私の能力は、まだ不安定で、制御も完全じゃない。
でも…」
私は、言葉を続ける。
「でも、もし、この霊子の力が、本当に意識と物質を繋ぐ鍵なのだとしたら…そして、シャオ・ツーが、その力を悪用しようとしているのだとしたら…私は、それを止めなければならない。
ICAのエージェントとして、そして…」
そして、何なのか。
私は、その先の言葉を飲み込んだ。
彼への、未だ消えない想いを、口にすることはできなかった。
グレッグは、大きく息を吐き出した。
そして、何かを決意したかのように、顔を上げた。
「…分かった。
詳しい話は、後でゆっくり聞かせてもらう。
だが、今は、一つだけ確認させてくれ。
シャオ・ツーと、エリカ・ロドリゲス。
あいつらは、どこへ消えたんだ? そして、これから、どうするつもりだ? 君一人で、また無茶をするつもりじゃないだろうな?」
彼の声には、もう迷いはなかった。
探偵としての、鋭い眼光が戻っている。
そして、その奥に、かつて私たちが共有していた、何か温かいものが、微かに揺らめいているような気がした。
私は、彼の目を見つめ返した。
「それが、今のところ、全く分からないのよ」




