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翌朝、桜花学院の空は、まるで嵐の前の静けさを体現するかのように、不気味なほど晴れ渡っていた。

昨夜のグレッグとの予期せぬ再会と、彼が口にした「プロジェクト・ジェネシス」という言葉の重みが、私の胸に鉛のようにのしかかっている。

彼もまた、この学院の闇に足を踏み入れたというのか。

私たちの道が再び交差するとは、皮肉な巡り合わせだ。


岡崎先生に案内されたのは、昨日と同じ、無機質な休憩室。

そこに、シャオ・ツーは既に待っていた。

彼の隣には、あの不気味なファミリア、フロイドが、いつものように人を食ったような態度で立っている。

十四歳の少年が纏うにはあまりにも濃すぎる影と、その瞳の奥に宿る、底知れない冷たさ。

彼は、間違いなくこの事件の核心にいる。


「シャオ・ツーくん、おはようございます」私は、努めて平静を装い、挨拶の言葉を口にした。

「今日は、あなたのSIDの調子について、もう少し詳しくお話を伺いたいのです」

「…別に、話すことなんて何もありませんよ」彼の返事は、昨日よりもさらに硬く、拒絶の色を隠そうともしない。


その時、私の視界の隅で、ジジの黒猫のアバターが微かに動いた。


『雛子、彼の左のこめかみ…!』


思考で送られてきたジジの警告。

私も、今、はっきりと認識した。

シャオ・ツーの髪の生え際、そこに、SIDの侵襲施術痕とは明らかに異なる、小さな、しかし不自然な傷跡。

あれは…SIMカードのスロットを埋め込んだ痕? いや、それにしては形状が奇妙だ。


「シャオ・ツーくん、失礼ですが、そのこめかみの傷は、いつ、どのようにして?」私は、単刀直入に核心を突いた。


彼の肩が、ほんのわずかに強張ったのが分かった。

「…ああ、これですか。小さい頃に、ちょっとした事故で…。もう、ほとんど覚えていませんよ」

嘘だ。

その目は、明らかに動揺している。

彼は何かを隠している。

そして、その隠し事は、この事件の根幹に関わる、重大な秘密である可能性が高い。


「そうですか」私は、追及を一旦保留した。

今は、彼との間に最低限の信頼関係――あるいは、彼が私を油断させるための偽りのそれだとしても――を築く必要がある。


「シャオ・ツーくん、あなたのSIDは、非常に特殊で、そして不安定な状態にあるようです。

原因を特定し、あなた自身と、そして他の生徒たちを守るためには、あなたの意識の、もっと深い部分にアクセスする必要があります。

インベイシブ・ダイブという手法です」


私は、昨日と同じように、ダイブの概要とリスクについて説明した。

彼が、それをどこまで理解しているかは分からない。

だが、彼の表情は、昨日よりもさらに硬化している。


「…僕の頭の中を、好き勝手に弄くり回す、ということですか?」彼の声には、敵意が滲んでいた。


「あなたの許可なしに、あなたの精神を操作するようなことはしません。目的は、あくまで原因の究明と、治療です」

「治療、ね…」フロイドが、横から嘲るように言った。


『まるで、俺たちが病気みたいじゃねえか。俺たちは、進化してるんだぜ、お嬢ちゃん。

あんたたち旧世代の人間には、理解できねえだろうけどな!』


「フロイド、黙っていろ!」シャオ・ツーが、鋭く彼を睨みつけた。

その瞬間、フロイドのARアバターが、ほんの一瞬、ノイズを発して揺らいだように見えた。

この主従関係もまた、歪んでいる。


私は、ジジに合図を送った。


『ダイブプロトコル、レベル5、スタンバイ。

対象、シャオ・ツー。

SID-OS、タイプ・スペクター改。

精神防御壁、極めて強固かつ不定形。

霊子パターンの混入を確認。

最大限の警戒レベルで侵入シークエンスを開始する。

雛子、今回は何が起きてもおかしくないぞ。

覚悟はいいな?』

「ええ」私は、心の中で応じた。


シャオ・ツーは、しばらくの間、私とフロイドを交互に見つめていた。

その瞳の中で、激しい葛藤が渦巻いている。

やがて、彼はふっと息を吐き、まるで何かの糸が切れたかのように、諦めたような、あるいは、全てを委ねるような表情で、小さく頷いた。


「…いいでしょう。ただし、フロイドとの接続は、絶対に切らないでください。

彼がいないと、僕は…」

その言葉の続きは、虚空に消えた。

彼にとって、フロイドは、もはやファミリアという存在を超え、自己同一性そのものになっているのかもしれない。

危険な兆候だ。


「分かりました。フロイドとの接続は、限定的に維持します。

ただし…」私は、言葉を続けた。

「彼がダイブを妨害するような行動をとった場合は、即座に遮断します」

フロイドが、ニヤリと笑ったように見えた。

それは、挑戦的な、あるいは、何かを予期しているかのような笑みだった。


私は、ゆっくりと目を閉じた。

意識が、急速にシャオ・ツーの精神の奔流へと引き込まれていく。

昨日までのダイブとは比較にならないほどの、激しい抵抗と、混沌とした情報の渦。

彼の精神世界は、まさに戦場だった。

怒り、悲しみ、憎しみ、そして、その奥底に潜む、純粋なまでの破壊衝動。


ジジのナビゲーションだけを頼りに、私はその嵐の中心へと、必死で意識の舵を切る。

彼の記憶の断片が、洪水のように流れ込んでくる。

養父母への歪んだ愛憎。

ファミリア、フロイドとの出会い。

そして、彼が「霊子」の力に初めて触れた瞬間の、戦慄と歓喜。


(…やはり、彼が全ての中心だったのね…この学院の、忌まわしいインシデントの…!)


だが、その背後には、さらに巨大な、冷徹な意志の存在を感じる。

彼自身もまた、何者かの壮大な「プロジェクト」のための、使い捨ての駒に過ぎないのかもしれない。

そして、そのプロジェクトの名は、私の脳裏に、嫌でも鮮明に浮かび上がってくる。


(…ジェネシス…「始まりの子どもたち」…!)


「プロジェクト・ジェネシス」。

それは、2030年代から40年代にかけて、IIASDMやエンジェルシュタイン研究所、ベルカント実験基地といった、複数の先端研究機関が極秘裏に推進していた、人類進化計画。

SID技術の黎明期、その副作用であるSIPSS(SID誘発型精神音響症候群)や、その他の精神的障害が多発する中で、一部の科学者たちは、人間の意識そのものをデジタル空間へ転写し、肉体の制約から解放された「新しい人類」を創造しようとした。

その過程で、多くの非人道的な実験が行われ、「始まりの子どもたち」と呼ばれる、特殊なSID能力を持つ実験体が秘密裏に生み出されたという。


公式には、プロジェクト・ジェネシスは、その危険性と倫理的問題から、2040年代後半に凍結されたとされている。

しかし、水面下では、その研究が継続され、一部の技術が流出し、悪用されているのではないかという疑惑は、ICA内部でも絶えなかった。


まさか、この桜花学院が、その現代における実験場だというのか? シャオ・ツーは、その「始まりの子どもたち」の生き残り、あるいは、その技術を応用して生み出された、新しいタイプの「霊子能力者」…?

私は、シャオ・ツーの意識の最深部、彼自身も気づいていないであろう、アビスの領域へと、さらに深く、強く、意識を集中させた。

そこに、すべての答えがあるはずだ。


その瞬間、私の精神を、昨日とは比較にならないほどの、強烈な衝撃が襲った。


『――邪魔をするな、と言ったはずだ』


あの声。

冷たく、平坦で、しかし絶対的な拒絶の意志。

それが、今度はシャオ・ツーの精神の、さらに奥深く、まるで核のような場所から、直接私の存在を否定するかのように、語りかけてきた。


同時に、休憩室の現実空間で、フロイドのARアバターが、まるで実体を持ったかのように、大きく歪み、その姿を醜悪な怪物へと変貌させた。

鋭い爪が、牙が、私に向かって伸びてくる。

『残念だったな、ICAのお嬢ちゃん! ここから先は、地獄への一方通行だぜ!』




ジジの悲鳴に近い警告が、私の意識に響く。

『雛子、罠だ! 強制離脱する! 間に合え――!』

だが、もう遅い。

私の意識は、急速に、暗く、冷たい、底なしの深淵へと、引きずり込まれていく。

シャオ・ツーの、そして、あの謎の「声」の、歪んだ精神の迷宮の中へと…。


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