3
翌朝、桜花学院の空は、まるで嵐の前の静けさを体現するかのように、不気味なほど晴れ渡っていた。
昨夜のグレッグとの予期せぬ再会と、彼が口にした「プロジェクト・ジェネシス」という言葉の重みが、私の胸に鉛のようにのしかかっている。
彼もまた、この学院の闇に足を踏み入れたというのか。
私たちの道が再び交差するとは、皮肉な巡り合わせだ。
岡崎先生に案内されたのは、昨日と同じ、無機質な休憩室。
そこに、シャオ・ツーは既に待っていた。
彼の隣には、あの不気味なファミリア、フロイドが、いつものように人を食ったような態度で立っている。
十四歳の少年が纏うにはあまりにも濃すぎる影と、その瞳の奥に宿る、底知れない冷たさ。
彼は、間違いなくこの事件の核心にいる。
「シャオ・ツーくん、おはようございます」私は、努めて平静を装い、挨拶の言葉を口にした。
「今日は、あなたのSIDの調子について、もう少し詳しくお話を伺いたいのです」
「…別に、話すことなんて何もありませんよ」彼の返事は、昨日よりもさらに硬く、拒絶の色を隠そうともしない。
その時、私の視界の隅で、ジジの黒猫のアバターが微かに動いた。
『雛子、彼の左のこめかみ…!』
思考で送られてきたジジの警告。
私も、今、はっきりと認識した。
シャオ・ツーの髪の生え際、そこに、SIDの侵襲施術痕とは明らかに異なる、小さな、しかし不自然な傷跡。
あれは…SIMカードのスロットを埋め込んだ痕? いや、それにしては形状が奇妙だ。
「シャオ・ツーくん、失礼ですが、そのこめかみの傷は、いつ、どのようにして?」私は、単刀直入に核心を突いた。
彼の肩が、ほんのわずかに強張ったのが分かった。
「…ああ、これですか。小さい頃に、ちょっとした事故で…。もう、ほとんど覚えていませんよ」
嘘だ。
その目は、明らかに動揺している。
彼は何かを隠している。
そして、その隠し事は、この事件の根幹に関わる、重大な秘密である可能性が高い。
「そうですか」私は、追及を一旦保留した。
今は、彼との間に最低限の信頼関係――あるいは、彼が私を油断させるための偽りのそれだとしても――を築く必要がある。
「シャオ・ツーくん、あなたのSIDは、非常に特殊で、そして不安定な状態にあるようです。
原因を特定し、あなた自身と、そして他の生徒たちを守るためには、あなたの意識の、もっと深い部分にアクセスする必要があります。
インベイシブ・ダイブという手法です」
私は、昨日と同じように、ダイブの概要とリスクについて説明した。
彼が、それをどこまで理解しているかは分からない。
だが、彼の表情は、昨日よりもさらに硬化している。
「…僕の頭の中を、好き勝手に弄くり回す、ということですか?」彼の声には、敵意が滲んでいた。
「あなたの許可なしに、あなたの精神を操作するようなことはしません。目的は、あくまで原因の究明と、治療です」
「治療、ね…」フロイドが、横から嘲るように言った。
『まるで、俺たちが病気みたいじゃねえか。俺たちは、進化してるんだぜ、お嬢ちゃん。
あんたたち旧世代の人間には、理解できねえだろうけどな!』
「フロイド、黙っていろ!」シャオ・ツーが、鋭く彼を睨みつけた。
その瞬間、フロイドのARアバターが、ほんの一瞬、ノイズを発して揺らいだように見えた。
この主従関係もまた、歪んでいる。
私は、ジジに合図を送った。
『ダイブプロトコル、レベル5、スタンバイ。
対象、シャオ・ツー。
SID-OS、タイプ・スペクター改。
精神防御壁、極めて強固かつ不定形。
霊子パターンの混入を確認。
最大限の警戒レベルで侵入シークエンスを開始する。
雛子、今回は何が起きてもおかしくないぞ。
覚悟はいいな?』
「ええ」私は、心の中で応じた。
シャオ・ツーは、しばらくの間、私とフロイドを交互に見つめていた。
その瞳の中で、激しい葛藤が渦巻いている。
やがて、彼はふっと息を吐き、まるで何かの糸が切れたかのように、諦めたような、あるいは、全てを委ねるような表情で、小さく頷いた。
「…いいでしょう。ただし、フロイドとの接続は、絶対に切らないでください。
彼がいないと、僕は…」
その言葉の続きは、虚空に消えた。
彼にとって、フロイドは、もはやファミリアという存在を超え、自己同一性そのものになっているのかもしれない。
危険な兆候だ。
「分かりました。フロイドとの接続は、限定的に維持します。
ただし…」私は、言葉を続けた。
「彼がダイブを妨害するような行動をとった場合は、即座に遮断します」
フロイドが、ニヤリと笑ったように見えた。
それは、挑戦的な、あるいは、何かを予期しているかのような笑みだった。
私は、ゆっくりと目を閉じた。
意識が、急速にシャオ・ツーの精神の奔流へと引き込まれていく。
昨日までのダイブとは比較にならないほどの、激しい抵抗と、混沌とした情報の渦。
彼の精神世界は、まさに戦場だった。
怒り、悲しみ、憎しみ、そして、その奥底に潜む、純粋なまでの破壊衝動。
ジジのナビゲーションだけを頼りに、私はその嵐の中心へと、必死で意識の舵を切る。
彼の記憶の断片が、洪水のように流れ込んでくる。
養父母への歪んだ愛憎。
ファミリア、フロイドとの出会い。
そして、彼が「霊子」の力に初めて触れた瞬間の、戦慄と歓喜。
(…やはり、彼が全ての中心だったのね…この学院の、忌まわしいインシデントの…!)
だが、その背後には、さらに巨大な、冷徹な意志の存在を感じる。
彼自身もまた、何者かの壮大な「プロジェクト」のための、使い捨ての駒に過ぎないのかもしれない。
そして、そのプロジェクトの名は、私の脳裏に、嫌でも鮮明に浮かび上がってくる。
(…ジェネシス…「始まりの子どもたち」…!)
「プロジェクト・ジェネシス」。
それは、2030年代から40年代にかけて、IIASDMやエンジェルシュタイン研究所、ベルカント実験基地といった、複数の先端研究機関が極秘裏に推進していた、人類進化計画。
SID技術の黎明期、その副作用であるSIPSS(SID誘発型精神音響症候群)や、その他の精神的障害が多発する中で、一部の科学者たちは、人間の意識そのものをデジタル空間へ転写し、肉体の制約から解放された「新しい人類」を創造しようとした。
その過程で、多くの非人道的な実験が行われ、「始まりの子どもたち」と呼ばれる、特殊なSID能力を持つ実験体が秘密裏に生み出されたという。
公式には、プロジェクト・ジェネシスは、その危険性と倫理的問題から、2040年代後半に凍結されたとされている。
しかし、水面下では、その研究が継続され、一部の技術が流出し、悪用されているのではないかという疑惑は、ICA内部でも絶えなかった。
まさか、この桜花学院が、その現代における実験場だというのか? シャオ・ツーは、その「始まりの子どもたち」の生き残り、あるいは、その技術を応用して生み出された、新しいタイプの「霊子能力者」…?
私は、シャオ・ツーの意識の最深部、彼自身も気づいていないであろう、アビスの領域へと、さらに深く、強く、意識を集中させた。
そこに、すべての答えがあるはずだ。
その瞬間、私の精神を、昨日とは比較にならないほどの、強烈な衝撃が襲った。
『――邪魔をするな、と言ったはずだ』
あの声。
冷たく、平坦で、しかし絶対的な拒絶の意志。
それが、今度はシャオ・ツーの精神の、さらに奥深く、まるで核のような場所から、直接私の存在を否定するかのように、語りかけてきた。
同時に、休憩室の現実空間で、フロイドのARアバターが、まるで実体を持ったかのように、大きく歪み、その姿を醜悪な怪物へと変貌させた。
鋭い爪が、牙が、私に向かって伸びてくる。
『残念だったな、ICAのお嬢ちゃん! ここから先は、地獄への一方通行だぜ!』
ジジの悲鳴に近い警告が、私の意識に響く。
『雛子、罠だ! 強制離脱する! 間に合え――!』
だが、もう遅い。
私の意識は、急速に、暗く、冷たい、底なしの深淵へと、引きずり込まれていく。
シャオ・ツーの、そして、あの謎の「声」の、歪んだ精神の迷宮の中へと…。




