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シャワーを浴びて少しは気分が落ち着いたものの、眠気は全く訪れない。

明日は、いよいよシャオ・ツーとの面談、そして彼へのインベイシブ・ダイブが控えている。

彼こそが、この学院で起きている一連の事件の核心にいる。

それは、ほぼ間違いない。

だが、彼の精神は、エリカ以上に複雑で、そして危険な「何か」に守られている可能性が高い。


『…雛子、少しは休んだ方がいい。明日は長丁場になるぞ』

膝の上で丸くなっていたジジが、私の思考を読み取って、心配そうに声をかけてきた。

彼の金の瞳が、部屋の薄明かりの中で、鋭く光っている。


「ええ、分かっているわ。でも…」

私が何かを言いかけた、その時だった。


コン、コン、コン。


控えめだが、確かなノックの音が、部屋の静寂を破った。

こんな時間に誰? 岡崎先生だろうか? いや、彼女なら、もっと遠慮がちに、そしておそらくはSIDを通じて事前に連絡を入れてくるはずだ。


警戒しながらドアに近づき、セキュリティモニターを起動する。

そこに映し出された訪問者の姿に、私は息を呑んだ。

嘘でしょう…?

ドアの向こうに立っていたのは、木暮雅人だった。


十年ぶり。

最後に会ったのは、私たちがまだ若く、そして愚かだった、あの訣別の夜。

SIDを巡る価値観の違い。

それが、私たちの間に、修復不可能な亀裂を生んだ。

彼が、こんな場所に、なぜ?

混乱する頭を必死で抑えながら、私はドアを開けた。

そこに立っていたのは、紛れもなく、私が知るグレッグだった。

年の頃はもう六十に近いだろうか。

記憶の中よりも、少し皺が増え、髪には白いものが混じっている。

だが、その皮肉っぽい口元と、瞳の奥に宿る、どこか少年のような、不器用な優しさ。

それは、少しも変わっていなかった。


「…グレッグ?」私の声は、自分でも驚くほど、微かに震えていた。

「どうして、あなたがここに…?」

彼は、一瞬、私を見て目を見開いたが、すぐにいつもの、人を食ったような表情に戻った。

「よう、雛子。奇遇だな。お前こそ、こんなお歴々の集まるお屋敷で、一体何をしてるんだ? まさか、バンディズムに目覚めたとか言うんじゃないだろうな?」

相変わらずの軽口。

けれど、その声には、十年という歳月の重みが、確かに刻まれている。


「仕事よ」私は、努めて平静を装って答えた。

「あなたも、仕事で?」

「ああ。岡崎先生…君も会ったらしいな。

彼女から、この学院で起きている奇妙な事件の調査を依頼されてね。

ジェンキンスという教師の失踪と、生徒たちのSIDの不調。

君も、それを追って?」

「ICAのエージェントとして、ね」私は短く答えた。

彼には、隠しても無駄だろう。

彼は、俺の情報網を嘗めるなよ、とでも言いたげな顔をしている。


「ICA、か…」グレッグは、面白くなさそうに鼻を鳴らした。

「相変わらず、胡散臭い組織と繋がってるんだな、お前は」

「あなたこそ、裏社会の情報屋と手を組んで、こんな閉鎖的な場所に首を突っ込んでいるようだけど? 何か、よほど『おいしい』情報でも掴んだのかしら?」

売り言葉に買い言葉。

十年経っても、私たちの会話は、どうやらあまり進歩していないらしい。

だが、今は感傷に浸っている場合ではない。

彼が、なぜここにいるのか。

そして、何をどこまで知っているのか。


「…中に入って話しましょうか」私が言うと、彼は黙って頷き、部屋に入ってきた。

そして、私の向かいの椅子に、どさりと腰を下ろした。

ジジが、彼の足元で、警戒するように低い唸り声を上げている。


「単刀直入に聞くわ、グレッグ。

あなたは何を掴んでいるの? この学院の事件について。

そして、あなたの依頼主は、何をどこまで知っているの?」

私の問いに、彼はしばらく黙っていた。

部屋の窓を叩く雨音だけが、妙に大きく響く。

やがて、彼は重い口を開いた。


「…君が思っている以上に、根は深いかもしれんぞ、この事件は」

そして彼は、ディアムから得た情報――学院内で噂される違法電子ドラッグ「ガム」、特に「ペインター」や「フォトショップ」と呼ばれるものの危険性、その背後にいる可能性のあるメキシコの麻薬カルテル「エル・シルクロ・デ・ケツァルコアトル」、そして、ジェンキンス先生が何らかの形でその情報に近づき、消された可能性――について、淡々と語り始めた。


「…つまり、あなたは、この学院で起きている一連の事件の背後に、大規模な電子ドラッグの密売組織が関与していると?」


「ああ。そして、その入手経路だが…俺は、学院内部に協力者がいると睨んでいる。

生徒か、あるいは教師か。そいつが、外部からガムを運び込み、生徒たちに売り捌いているんじゃないか、と」


「経路の予想は?」


「いくつかある。アンダーウェブを通じたP2P。フィジカル・ドロップ。そして、一番厄介なのが…ファミリアを介した、データの直接転送だ」

彼の言葉に、私は頷いた。


「もし、改造されたSID-OSや、特殊なファミリアアプリを使えば、ガムのプログラムデータそのものを、SIDネットワークを通じて直接脳に送り込むことも可能になる。

完全に追跡不可能な、究極の密売ルートね」


「そうだ。そして、その改造OSやアプリの出所だが…ロシア系のハッカーグループが開発した『スペクターマインド』の亜種だという噂がある。

そいつらが、ケツァルコアトルと手を組んでいる可能性も…」

スペクターマインド。

その名前に、私は聞き覚えがあった。

ICAのデータベースにも、その危険性については詳細なファイルが存在する。

他者の意識への干渉を容易にし、SIDの倫理フィルターを無効化する、極めて悪質なOS。

シャオ・ツーのSID-OSも、おそらくこれの系統だろう。


「…スペクターマインドについては、私も情報を得ているわ」私は言った。


「この学院の生徒たちのSIDにも、その影響が見られる。そして、その中心にいるのは、シャオ・ツーという少年。

彼が、何らかの形で、その改造OSを手に入れた可能性が高い」


「シャオ・ツー…」グレッグの目が、鋭く光った。

「あいつか。確かに、妙な雰囲気のあるガキだった。ディアムも、彼のことを調べていた。何か、特別な才能がある、とか何とか…」


「明日、私は、彼と面談し、彼の意識にダイブする予定よ」


「ダイブだと? 正気か、雛子」グレッグの声が、荒くなった。

「相手は子供だぞ。それに、そいつのSIDが、それほど危険なものなら…」


「分かっているわ。だが、それ以外に方法がない。彼は、この事件の鍵を握っている。そして、時間も限られているのよ」


「…それでも、無茶だ」彼は、苦々しげに言った。


「お前は、昔からそうだ。一度決めたら、周りの意見も聞かずに突っ走る」


その言葉に、私の胸の奥が、ちくりと痛んだ。

十年前の、あの日の記憶。

彼が私にぶつけた、怒りと絶望の言葉。


だが、今は感傷に浸っている場合ではない。


「あなたに、協力をお願いしたいの、グレッグ」私は、意を決して言った。

「あなたが持つ、アンプラグドとしての調査能力、そして、裏社会の情報網。

それが、この事件を解決するために必要かもしれない。

そして、私も、ICAのエージェントとして、あなたに提供できる情報があるはずよ」

彼は、意外そうな顔で私を見た。

そして、しばらく何かを考えるように黙り込んだ後、ふっと息を吐いた。


「…いいだろう。情報交換だ。ただし、俺は俺のやり方で動く。ICAのやり方に、指図されるつもりはない」


「それで結構よ」


「それから、もう一つ」彼は、真剣な目で私を見つめた。


「お前が追っているものが、単なる電子ドラッグや、SIDの不具合だけではないとしたら? もっと大きな、例えば…『プロジェクト・ジェネシス』のような、途方もない陰謀が、この学院の背後に隠されているとしたら?」

プロジェクト・ジェネシス。

その言葉を、彼が口にするとは思わなかった。

ディアムという情報屋は、一体どこまで知っているというのか。

そして、グレッグ自身も。


私は、動揺を悟られないように、平静を装って答えた。

「プロジェクト・ジェネシス…それは、公式には凍結された、過去の遺物のはずよ」


「本当にそうかな?」彼は、探るような目で私を見た。


「俺の両親が巻き込まれた、あのSRNSの悲劇。あれも、ジェネシスの初期実験の犠牲者だったという説がある。

SIDCOMと、そしてお前たちのICAは、その真実を隠蔽してきたんじゃないのか?」

彼の言葉は、鋭く私の胸を抉った。

隠蔽。

それは、ICAがこれまで、幾度となく行ってきたことだ。

SIDネットワークの安定と、社会秩序の維持という大義名分のもとに。


だが、私は、彼に全てを話すわけにはいかない。

プロジェクト・ジェネシスの深淵は、あまりにも暗く、そして危険すぎる。

彼を、これ以上巻き込むわけには…


「…私たちICAの目的は、SID社会の安全と秩序を守ること。

それ以上でも、それ以下でもないわ」私は、きっぱりと言った。


「あなたが何を疑っているのかは知らないけれど、憶測で語るのはやめてちょうだい」


彼は、私の言葉を黙って聞いていた。

そして、諦めたように肩をすくめた。


「分かったよ。詮索はしない。だがな、雛子。

もし、お前が何か、俺に隠していることがあるのなら…そして、それがお前自身を危険に晒すようなことなら…その時は、俺は黙って見てるわけにはいかないぜ」

そう言うと、彼は立ち上がり、ドアへと向かった。


「明日のシャオ・ツーとやらの面談、首尾よくいくといいな。何か分かったら、連絡する」


彼が部屋を出て行った後、私は一人、閉じられた扉をぼんやりと見つめていた。

十年という歳月。

それは、私たちを隔てるには十分すぎる時間だったはずだ。

なのに、彼の言葉、彼の眼差し、そして彼が纏う、あの不器用な優しさ。

そのどれもが、私の心の奥底に、まだ消えずに残っている。


(プロジェクト・ジェネシス…あなたも、それを追っているというの…?)


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