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桜花学院のゲストルームの窓は、夜の闇を四角く切り取っていた。
時刻は午後十時を回ったところ。
エリカ・ロドリゲスとの面談、そして彼女の意識へのダイブから、五時間が経過していた。
だというのに、私の脳裏には、あの幼い子供の影のような気配と、彼女の精神が発した苦悶の叫びが、未だ鮮明に残っている。
彼女とシャオ・ツーの接点はいまのところ見つからなかった。
シャワーを浴び、簡素な寝間着に着替えたものの、眠気は全く訪れない。
ベッドに腰掛け、膝の上で丸くなっているジジの、柔らかい毛並みを無意識に撫でながら、私は今日の出来事を反芻していた。
彼女のSIDの不調は、なにか他の原因、彼女の幼少期に起きたなにかによるものだ。
彼女はSIDの施術を複数回受けている。去年この学校で受けたのは何度目の施術だったのだろうか?
彼女はその危険性がわかっているのだろうか?
『…まだ、気にしているのかい? エリカのこと』
ジジが、私の思考を読み取ったかのように、静かに問いかけてきた。
彼の金の瞳が、薄暗い部屋の中で、ランプのように光っている。
「ええ…」私は短く応じた。
「あのダイブは、私の判断ミスだったのかもしれない。彼女の精神状態は、私が予想していた以上に不安定で、そして複雑すぎた。
もう少し慎重にアプローチすべきだったわ」
『結果論だよ、雛子。君のダイブが、彼女の深層に潜む「何か」を刺激したのは事実だろう。
だが、それがなければ、ボクたちはあの「八番目の影」の存在に気づくことさえできなかったかもしれない』
「八番目の影…」私は呟いた。
七人のセラフィムとは明らかに異なる、あの希薄で、しかし強烈な悲しみを湛えた気配。
あれは、エリカ自身の、抑圧された本当の自我なのだろうか。
『どちらにせよ、彼女のSIDは、極めて危険な状態にある。
彼女のSIDのログを精査してみた。
複数のOS、あるいは異なるバージョンのファミリアが、一つの脳内で混線し、干渉し合っているとしか考えられない。
いつ、完全な精神的破綻をきたしてもおかしくない。早急な対処が必要だ』
「分かっているわ。でも、どうやって? あの強固な精神防御壁を突破しなければ、根本的な治療は不可能よ。
そして、その壁の向こうには、あの『邪魔をするな』と警告してきた、謎の存在がいる…」
頭が痛い。
問題が複雑に絡み合いすぎている。
SIDCOMは、複数のSIDを同一の脳にインストールすることを禁忌としている。
過去に、非合法な実験でそれを試みたケースがいくつか報告されているが、その全てが、被験者の重篤な精神崩壊、あるいは死という最悪の結果に終わっている。
例えば、2030年代後半、SID技術の黎明期に起きた「SRNS集団発症事件」。
特定の遺伝的素因を持つ被験者たちが、初期型SIDの過剰な刺激によって、シナプス過敏症を劇症化させ、次々と命を落とした。
その中には、当時まだ十代だった、木暮雅人の両親も含まれていたはずだ。
彼らは優秀な科学者で、SIDの前身となるBMI技術の研究者だったという。
皮肉な話だ。
自らが開発に関わった技術によって、命を奪われるとは。
あの事件は、SID技術の未熟さと、人間の脳という未知の領域に踏み込むことの危険性を、世に知らしめた最初の大きな警告だった。
その後も、SIDの不適切な使用や、違法な改造による事故は後を絶たなかった。
2040年代初頭に問題となった「ゴースト・ハック事件」。
特定のSID-OSの脆弱性を突いたハッカー集団が、多数のユーザーの意識に侵入し、記憶を盗み見たり、偽の情報を植え付けたりした。
被害者の中には、精神的なショックから立ち直れず、廃人同様になった者も少なくない。
この事件をきっかけに、ICAの権限が大幅に強化され、SIDネットワーク全体の監視体制が厳しくなったはずだった。
そして、2040年代後半に多発した、電子ドラッグ「ガム」による中毒死や、精神汚染。
特に「ペインター」や「フォトショップ」といった、感情や認識を直接操作するタイプのドラッグは、使用者の人格そのものを変容させ、取り返しのつかない結果を招いた。
SIDCOMとICAは、これらの違法アプリの流通経路を徹底的に叩き、製造元である海外の犯罪組織にも圧力をかけた。
その結果、一時期は沈静化したかに見えた電子ドラッグの脅威が、今、この桜花学院という閉鎖的な空間で、再び頭をもたげようとしている。
彼女がこの学校でSIDの施術を受けたのは間違いだったのだ。
14歳になるまで法律的にSIDの施術を受けることができない日本ではありえない間違いなのだ。
『…雛子、過去の事例を振り返るのもいいが、今は目の前の問題に集中すべきだ』ジジが、私の思考の流れを遮るように言った。
『明日は、シャオ・ツーとの面談が控えている。彼こそが、この事件の鍵を握る最重要人物だ。
彼へのアプローチを誤れば、全てが水泡に帰す可能性もある』
「ええ、分かっているわ」私は、重い溜息をついた。
「シャオ・ツー…彼もまた、SIDの犠牲者なのかもしれない。
あの改造SID-OSを、彼が自ら望んで手に入れたとは思えない。
何者かが、彼にそれを提供し、そして、彼の特殊な才能を利用しようとしている…」
長岡静子の記憶の中で見た、シャオ・ツーの告白。
養父母への愛憎、そして殺害。
彼のファミリア、フロイドの異常な言動。
そして、彼が語った「霊子」という言葉。
すべてが、ICAの極秘ファイル「プロジェクト・ジェネシス」と繋がっているように思える。
(始まりの子供たち…胎児の段階でSIDを埋め込み、霊子との親和性を高めることで、人類の新たな進化を促そうとした、禁断の実験…)
もし、シャオ・ツーが、その「始まりの子供たち」の生き残り、あるいは、その技術を応用して生み出された、新しいタイプの「霊子能力者」だとしたら? そして、この桜花学院が、そのための実験場、あるいは育成施設なのだとしたら?
あまりにも突飛な仮説だ。
だが、それ以外の可能性では、この学院で起きている一連の不可解な出来事を、合理的に説明することができない。
「ジジ、シャオ・ツーのSID-OSの解析は、どこまで進んでる?」
『困難を極めている。彼のOSは、既存のどのタイプとも異なる、極めて高度なステルス機能と、自己進化型の防御アルゴリズムを備えているようだ。
まるで、それ自体が生命を持っているかのように、ボクたちの解析を巧みにかわし続けている。
だが、いくつかの断片的なコードからは、やはりロシア系のハッカーグループが開発した「スペクターマインド」の亜種である可能性が高いと推測される。
そして、そこに、未知の…おそらくは霊子技術に関連すると思われる、独自のプログラムが組み込まれている』
「スペクターマインド…他者の意識への干渉を容易にする、危険なOSね。それに、霊子プログラムが…」
私の頭の中で、バラバラだったパズルのピースが、少しずつ組み合わさっていくのを感じた。
だが、まだ、決定的なピースが足りない。
「明日、シャオ・ツーにダイブする。彼の意識の深層に、何が隠されているのか…それを、この目で見極める必要があるわ」
『危険だ、雛子。彼の精神は、エリカ・ロドリゲス以上に不安定で、そして強力な「何か」に守られている可能性がある。
もし、あの「邪魔をするな」という思念の主が、彼の意識の中に潜んでいるのだとしたら…』
「それでも、行くしかない」私の声には、迷いはなかった。
「ジェンキンス先生の行方も、生徒たちのSID不調の原因も、そして、この学院の本当の目的も、すべてはシャオ・ツーに繋がっている。
彼が、すべての始まりであり、そして、終わりの鍵を握っているはずよ」
SIDが人間の脳や精神に与える影響には、まだ多くの未知の部分が残されている。
それは、ICAのエージェントである私自身が、誰よりも痛感していることだ。
私たちは、パンドラの箱を開けてしまったのかもしれない。
だが、一度開けてしまった箱を、閉じることはできない。
私たちは、その中から飛び出してしまった希望と、そして災厄と、向き合っていくしかないのだ。
私は、窓の外の闇に目を向けた。空には、星一つ見えない。




