5
「…条件、ですか?」
私の問いかけに、サクラ・エリカ・ロドリゲス・有栖川と名乗る少女は、その大きな黒い瞳を微動だにさせず、静かに頷いた。
彼女の周りには、やはりあの、現実感を希薄にさせる不思議な霧のようなものが漂っている。
それは、彼女のSIDが生み出す特殊なARフィールドなのか、それとも、もっと別の、未知の現象なのか。
「はい」
彼女の声は、年の割には落ち着いていて、どこか感情の起伏を感じさせない。
「ダイブの間、私のセラフィムたち…私のファミリアのことですが、彼らとの接続を、完全に遮断しないでください。彼らは、いつも私のそばにいて、私を守ってくれる存在ですから」
七体のファミリア。
それが、彼女が「セラフィム」と呼ぶ存在の正体。
通常のSIDユーザーが持つファミリアは一体だ。
複数のファミリアを同時に使役するなど、理論上は可能だが、脳への負荷が大きすぎ、実用的ではないとされている。
ましてや七体。
彼女のSIDは、やはり尋常ではない。
「…分かりました」
私は頷いた。
「あなたのセラフィムたちとの接続は維持したまま、ダイブを行います。
ただし、彼らが私の調査を妨害するような行動をとった場合は、やむを得ず接続を制限することもあるかもしれません。その点は、ご了承ください」
「構いません」彼女は、あっさりと答えた。
「彼らは、私の意志に反することはしませんから」
その言葉には、セラフィムたちへの絶対的な信頼が込められているように聞こえた。
だが、本当にそうだろうか。
長岡静子の記憶の中で見た、あのシャオ・ツーのファミリア、フロイドのように、ユーザーの意志を超えて暴走する可能性も、ゼロではないはずだ。
私は、隣に座るジジに視線を送った。
黒猫のファミリアは、私の意図を正確に読み取り、小さく頷く。
『ダイブプロトコル、レベル4。対象、サクラ・エリカ・ロドリゲス・有栖川。特殊条件として、対象の既存ファミリア群との限定的接続を維持。
同期深度は初期20パーセントから開始。対象の精神抵抗値、極めて高い。
バイタルサイン、及びファミリア群の活動パターンを最優先で監視。
異常発生時は、即時離脱プロトコルを発動』
ジジの声が、私の意識の中に直接響き渡る。
彼の冷静なナビゲーションは、これから始まる危険なダイブへの、唯一の命綱だ。
「エリカさん、準備はよろしいですか?」
私が最終確認をすると、彼女は再び、静かに頷いた。
その瞳の奥に、ほんの一瞬、強い決意の色が浮かんだように見えた。
私は目を閉じ、意識を集中させる。
私の精神が、ゆっくりと、しかし確実に、彼女の意識の海へと潜り込んでいく。
斎藤嘉樹の荒々しい奔流とも、坂本直行の鏡のような静謐さとも違う、もっと複雑で、多層的で、そしてどこか不安定な流れ。
それが、エリカ・ロドリゲスの精神世界の第一印象だった。
彼女のSIDログは、事前にICAのデータベースで徹底的に解析していた。
だが、実際に彼女の意識に触れてみると、データだけでは決して知り得なかった、生々しい情報が洪水のように流れ込んでくる。
幼少期の記憶。
メキシコの埃っぽい街並み。
麻薬組織「エル・シルクロ・デ・ケツァルコアトル」での生活。
ドン・ソンブラと呼ばれる謎の男。
そして、常に彼女のそばにいた、七人のセラフィムたち。
ミゲル、ソフィア、エミリオ、アントニオ、ジュリア、ルイーザ、パブロ。
彼らの声、彼らの性格、彼らがエリカに与えてきた影響。
それらが、まるで万華鏡のように、私の意識の中で明滅を繰り返す。
高慢、嫉妬、怠惰、憤怒、貪欲、暴食、色欲…。
まるで、七つの大罪をそれぞれ体現するかのような、強烈な個性を持ったファミリアたち。
『…これは、驚いたな』ジジの声が、私の思考に割り込んできた。
『彼女のファミリア群は、単なるAIアシスタントの集合体ではない。
それぞれが、確立された自我と、強い目的意識を持っているように感じられる。まるで、彼女の精神の中に巣食う、独立した人格のようだ』
「ええ…」
私も同感だった。
私は、さらに深く、彼女の意識の奥底へと潜っていく。
七人のセラフィムたちの声が、少しずつ遠のいていく。
彼らの影響力が及ばない、彼女自身の「聖域」のような場所があるはずだ。
そこに、彼女の本当の姿、そして、この事件の真相に繋がる何かが隠されているに違いない。
だが、その領域に近づこうとすると、強い抵抗を感じる。
それは、坂本直行の時に感じた、あの冷たい拒絶の意志とは違う。
もっと混沌とした、複数の感情が渦巻くような、不安定な抵抗だ。
恐怖、怒り、悲しみ、そして、ほんのわずかな…希望のようなもの。
『雛子、彼女の精神防御壁だ。かなり強力で、そして複雑だ。
無理に突破しようとすれば、彼女の精神を傷つけることになるかもしれない』
ジジが警告する。
「分かっているわ。でも、この壁の向こうに、何かがある。それを確かめなければ…」
私は、慎重に、しかし確実に、その精神の壁に意識の触手を伸ばした。
壁の表面は、まるで万華鏡の破片のように、無数の感情や記憶の断片がきらめいている。
その一つ一つに触れるたびに、エリカ・ロドリゲスの過酷な人生の一場面が、鮮烈なイメージとなって私の脳裏に流れ込んでくる。
初めて人を殺めた時の、指先の冷たさ。
大地震の後の、瓦礫の街の絶望感。
ビエントスとの逃避行、そして、彼を見捨てた時の、胸を抉るような罪悪感。
養父母の家での、息苦しいほどの優等生としての仮面。
そして、桜花学院での、孤独と、周囲への不信感。
それらの感情の奔流に飲み込まれそうになりながらも、私は必死で意識を保ち、壁の隙間を探った。
そして、ほんの一瞬、その壁の向こう側に、何かが見えたような気がした。
それは、七人のセラフィムたちとは違う、もう一つの「誰か」の気配。
(まさか…八体目のファミリア…?)
いや、違う。
あれは、ファミリアではない?もっと希薄で、もっと純粋で、そして、どこか悲しげな存在。
まるで、霧の中に佇む、幼い子供の影のような…。
その気配に触れようとした瞬間、エリカ・ロドリゲスの精神が、激しく抵抗を始めた。
警報音が、私の頭の中で鳴り響く。
『雛子! 対象のバイタルサイン、急激に悪化! 精神汚染レベル、危険域に到達! 即時離脱を!』
ジジの切羽詰まった声。
私は、舌打ちをしながら、緊急離脱プロトコルを起動させた。
意識が、急速に現実へと引き戻される。
最後に見たのは、エリカ・ロドリゲスの苦悶に歪んだ顔と、そして、彼女の瞳の奥で、救いを求めるように揺らめいた、あの幼い子供の影だった。




